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老い・2000〜2006

老い

last update: 20101119

■2000

◆西村 周三 20000220 『保険と年金の経済学』,名古屋大学出版会,236p. ASIN: 4815803722 3360 [amazon] ※

 「日本において介護の重要性の認識が生まれたのは1980年代の中頃からである。それまで日本においては、1970年代はじめに実現した老人医療費の無料化以降[…]二つの問題を引き起こした。まず第一に、その後の経済成長の低下、高齢者数の伸び、医療技術の進歩などにより、老人医療費の財政負担が深刻化した。しかし問題はそれだけにとどまらなかった。第二に、急速な高齢者医療需要の増大が、その質の低下という現象を同時にもたらしたのである。すなわち、長期入院の増大が、かえって寝たきり老人を増加させることになった。
 […]<0204<[…]日本では、福祉サービスの提供が医療に比べてきわめて少なかったため、寝たきり者の増加を防げなかったと考えることもできる。[…]世界的に見て、高齢者とくに後期高齢者(75歳以上を指す)の増大にともなって、医療から介護へのサービスのシフトが要請されてきたのである。
 […]高齢者のQOLを高めるという視点から、主として北欧諸国で打ち出されてきた政策は、「寝たきり」をなくすために高齢者の自立を支援するような介護のあり方を模索するという方向で<0204<あった。そして日本でも、このような方向を強く打ち出すべきことが、94年に厚生省に設けられた私的諮問組織「高齢者介護・自立支援システム研究会」によって報告されたのである。このころの厚生省の政策の理念は、すでに1990年のゴールドプランとして具体化されていたが、さらに「21世紀福祉ビジョン」が示され、今後の施策の重点を医療から介護に移すことがうたわれた。」(pp.204-205)

 「現実には、いわゆる家族による虐待だけでなく、一見したところの家族介護の「優しさ」に隠れて高齢者の自立を妨げるような介護もある。そもそも家族介護の質の評価は、社会的介護の評価に比べてより困難が伴うから、単純な家族介護擁護論は、将来に向けて禍根を残す可能性もあるのであ<0215<る。家族介護に給付を行うことを決めたとたんに、それまで私的なことにとどまっていたものが、社会的なものとなる。私的な問題にとどまる限りは、高齢者個々の生き方にまで社会が干渉すべきではないであろうが、社会的なことからになれば、たとえば「可能な限り自立を求める」といった方向性を決めることも重要となる。」(pp.215-216)

◆200202? 石川憲彦「できないままの自分」,『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』2000冬→石川[2005:135-138]*
*石川 憲彦 20050520 『こども、こころ学――寄添う人になれるはず』,ジャパンマシニスト社,198p. ISBN-10: 4880491756 ISBN-13: 978-4880491752 1575 [amazon] ※ b m d07d

 「春以来寝たきりだった義父が、一〇月に他界しました。義父の看病を通じて、老化と障害について再び考えはじめていた矢先、金井康治さん、熊谷あいさんと相次ぐ突然の悲報がまいこみました。金井さんは二〇年前から、熊谷さんは現在、障害児が普通学級で学ぶ道を、きりひらき、共生への歩みを求めつづけてきた障害児者でした。
 そして、義父の葬儀に追われてほんの数日留守にした間に、追いうちをかけるように母が入院。あれよあれよというまもなく、寝たきりになってしまいました。<0135<
 一〇年前、父が九〇歳で死んでから、母は希死願望をもつようになりました。「何もできなくなった。生きていてもしかたない」というのです。とりわけ身体の衰えが目立ちはじめた八〇代後半からは、私の顔を見ると「なんか、医者やろ、楽に死ねる方法、教えて」と訴え、ついには「殺して」があいさつになります。
 職業柄「死にたい」と訴える人とのおつきあいは少なくありません。しかし、親子となると、つい口論になります。
 […]「自分より弱い人のことを、自分以上に大切にしなさい」が口ぐせで、私は小さい頃から毎日念仏のように聞かされて育ちました。私が医者になったのはこの口ぐせの影響が大です。
 その母から、「殺して」と頼まれると、むなしくて、つい本気で怒り<0136<をぶつけてしまいます。[…]
 「気持ちがわからないのではありません。その生いたちから気位だけで人生を支えてきた母のこと。人にしてあげることは大好きでも、されることにはがまんできない。それが、自分がどんどん無力になって、一方的にされる立場になっていく。金井さんをはじめ、障害者とのつきあいがなかったら、きっと私も、母の気持ちに深く同調し、尊厳死を願っていたことでしょう。
 「できなくなったら終わり」「人のお世話になりたくない」。この潔癖すぎる個人主義は、人間と人間の本来の関係を否定します。できないままの自分を素直に生き、おたがいに迷惑をかけあうところから、初めて本当の人間関係が始まる。障害者の主張を、そんなふうに聞けるようになり、すべてを一人で背負いこむ自己完結型の自立を幻想であると理解できるまでには、ずいぶん時間がかかりました。」(石川[2005:136-137])

◆新潟日報社 編 20000321 『豊かな年輪――高齢・少子の時代を生きる』,新潟日報事業所,328p. ISBN-10: 4888627991 ISBN-13: 978-4888627993 1680 [amazon][boople] ※ b p02

第2部 介護 行く道けわしく
 寝たきり防止――欠かせぬ家族の協力 pp.91-94
 「中魚沼郡川西町「寝たきり防止」を目的に九八年九月から十二月まで水中運動教室を開催、予想を上回る百人が参加した。その後も「治療した足のリハビリをしたい」「足腰を鍛え直したい」といった強い要望が寄せられたため、現在も週一回、約一時間のペースで教室は継続されている。
 この教室への参加を希望する”待機者”は約百人。町が九九年五月から週三回に回数を増やすほどの人気の背景には、中高年層の「寝たきりにはなりたくない」との切実な思いがある。」(新潟日報社編[2000:91])
 「現在、新潟県の高齢化率(全人口に占める六十五歳以上の割合)は二〇%を超え、「全国をかなり上回る勢いで進行している」(県福祉保健課)。新潟県内の寝たきり老人の数は、全六十五歳以上人口の四・六%に当たる約二万三千人(九八年四月現在)。前年に比べ二千四百人増えている。
 寝たきりや痴ほうを防ぐには、運動や栄養管理など本人の自助努力がまず必要だ。が、自治体による健康づくりの取り組みや家族の高齢者に対する理解、協力も欠かせない。今後の高齢社会では、これら三者が一体となって初めて、健康で快適な老後が実現できる。」((新潟日報社編[2000:94])

◆2000401〜介護保険法施行 平成9年法律第123号
 http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H09/H09HO123.html

石井 暎禧横内 正利滝上 宗次郎 20000405 『『課題と視点』をどう読むか――正しい高齢者医療改革に向けて』(鼎談),非売品
 http://www.sekishinkai.org/ishii/3mantalk_01.html

出口 泰靖 20000530 「「呆けゆく」人のかたわら(床)に臨む――「痴呆性老人」ケアのフィールドワーク」,好井・桜井編[2000:194-211]*
*好井 裕明・桜井 厚 編 20000530 『フィールドワークの経験』,せりか書房,248p. 2400

武藤 香織・小倉 康嗣 200006 「現代日本人のぼけ観に関する調査研究」,『CLINICIAN』47(491):73-75

◆社会保障構造の在り方について考える有識者会議 20000620 「社会保障構造の在り方について考える有識者会議(第6回)議事録」(平成12年6月20日(火)17:00〜19:00 )
 http://www.kantei.go.jp/jp/syakaihosyou/dai6/6gijiroku.html
「【堀田委員】私がいただきましたテーマは、活力ある高齢社会にしていくための方策等々であります。同じ意味ではありますけれども、私のレジュメで「高齢者のいきがいと安心を確保するための方策」ということでまとめてみました。アカデミックなものじゃなくて主観的なものですので、その点は御了承いただきたいと思います。
[略]
 それから、尊厳死も実は尊厳ある生き方の裏返しでありまして、今のように植物状態で判断力等が回復する見込みがないのに何か月、何年も植物状態で置いておいて、だれも人工呼吸器を外さないというような状態は異常でありまして、尊厳を害すると思います。それにかかる費用も大変なものであろうと思います。もっと尊厳死ということが自分の意志でできるように、これは尊厳死協会というのもありまして今9万人入っております。資料に付けておりますけれども、そういった運動がしっかり広がり、お医者さん方も認識されるようにしていくことが必要であろう。
 レットミーディサイド運動も、カナダで始まった運動でありますけれども、日本で少しずつ広がってきつつあります。これは、終末期の治療方法について、判断力がしっかりしているときに自分で選択して、こういう治療法はしてほしい、これはしてほしくないということを決めるという運動でありまして、何名かのお医者さん方が展開しておられますが、もっともっと広がってほしいと思っております。これは資料に簡単な説明を付けております。
 それから自然治癒力の重視ということ、それから心の働きの重視ということで、なるべく在宅医療を進めてほしいといったようなこと。いろいろ医療面でも身体的自立を支える仕組みにしてほしいと思います。 」

春日 キスヨ 200007 『介護にんげん模様――少子高齢社会の「家族」を生きる』,朝日新聞社,213p. ISBN: 4022575301 1365 [amazon][boople]  a06

春日 キスヨ 200007 『家族の条件――豊かさのなかの孤独』,岩波書店,岩波現代文庫,230p. ISBN: 4006030185 945 [amazon][boople] a06

◆2000秋 日本老年医学会アンケート

「平成12年秋に行なわれたアンケート調査では全評議員617名に発送され268の回答総数であった。ほとんどの評議員が「立場表明」の必要性を認めた(95.5%)。反対意見はわずかであったが傾聴に値するものであった。要約すると以下の2点からなるものであった。
@高齢者の終末期にはいまだ明確な基準がなく時期尚早である。このような時期に学会としての立場を表明すると医療費抑制のよりどころとして行政に利用されかねない。
A高齢者の終末期は老年医学会だけが責任を負うものではない。この国すべての学会、あるいは医師会などが責任を負うべきである。」(植村 2003:224)

→日本老年医学会 編 20031220  『老年医療の歩みと展望――養生訓から現代医療の最先端まで』 ,日本老年医学会,発売:メジカルビュー社,329p.ISBN-10: 4758302677 ISBN-13:978-4758302678 8400 [amazon] ※

◆生井 久実子 20001005 『介護の現場で何が起きているのか』,朝日新聞社,328p. ISBN-10: 4022574720 ISBN-13: 978-4022574725 1470 [amazon][kinokuniya] ※ b a02 a06
【内容(「BOOK」データベースより)】
この本は、付き添い廃止をきっかけに、介護の現場の取材を始めた著者が、朝日新聞に連載した記事をもとに、大幅に加筆・再構成してまとめた。第一章「チューブはやめて」、第二章「『縛らない介護』をめざして」、第三章「付き添いは消えたか」では、人間らしい介護を求めて続く、現場の人々の努力や挑戦、お年寄りや家族のようすを紹介した。第四章「新しい風」では、介護を支える家族や人々の変化を追った。第五章「介護保険がやってくる」では、介護保険の運営を担うことになった市町村の衝撃や、スタート前夜からの取り組みをまとめた。第六章「介護保険がやってきた」では、期待と不安のなかで、実際に介護保険制度が始まった現場のようすの一端を報告した。また、高齢先輩国デンマークがとりくむヘルパーの教育の充実や在宅での看取り支援制度、介護保険先輩国ドイツで、法医学者が遺体を調査して介護の質の惨状を明らかにした「バンブルク・スキャンダル」など、両国から学ぶべき点を、付章として紹介した。

◆横内 正利 20001202 「日本型高齢者医療・福祉への道」『週刊東洋経済』第5667号 108〜111頁

[論点]日本型高齢者医療・福祉への道−−北欧の高齢者医療はなぜ伝えられないか
2000.12.02 週刊東洋経済 第5667号 108〜111頁 4頁 写図表有 (全6,939字)

[論点]日本型高齢者医療・福祉への道
北欧の高齢者医療はなぜ伝えられないか
 いずみクリニック院長 横内正利

要点
1 11月25日号本欄の論文「デンマークの高齢者介護」は、見聞録に終始していて、高齢者医療の実態が伝わってこない。
2 デンマークでは、日本ほど高齢者医療を積極的にせず、その分福祉を充実させることができていると考えられる。
3 日本国民は、医療を減らして介護を増やすことに同意しないだろう。北欧とは違う、日本型の高齢者福祉・医療を模索すべきだ。

いずみクリニック院長
横内正利 よこうちまさとし
1946年東京生まれ。72年東京大学医学部卒業。東京大学付属病院第3内科入局。東京都老人総合研究所、国立循環器病センター、浴風会病院を経て、99年5月から現職。専門は循環器内科、老年医学。著書:『老年者心電図の読み方と実例』(医薬ジャーナル社)、『高齢者高血圧の病態と治療』(診断と治療社、共著)、『医療と介護保険の境界』(雲母書房、共著)など。

 本誌9月2日号で滝上宗次郎氏は「介護保険はなぜ失敗したか」という論文で、迷走を続けている介護保険について本質的な問題を、医療と介護の双方を視野に入れて鋭く指摘した。しかし、デンマークの医療についてのコメントに対して、諏訪中央病院内科医長である吉澤徹氏および同看護婦・助産婦吉澤薫氏から、滝上氏は事実誤認だとする批判文が本誌11月25日号に掲載された。
 吉澤氏のコメントのほうがかえって日本国民に誤解を与えるのではないかという危惧とともに、両氏の見解の相違こそ、現在の日本の高齢者医療が国民に正しく理解されていない何よりのケーススタディーであると考え、高齢者医療の現場に働く医師の立場で論説することにしたい。

 「弱い」高齢者への医療
 まず滝上氏と吉澤氏の対立がどこにあるかを整理しておく。介護保険の対象となるような生活に何らかの援助を必要とする高齢者(「弱い」高齢者と呼ぶ)は、多くの慢性疾患を抱えると同時に、種々の急性疾患にもかかりやすくなるため、医療ニーズが高くなるのが普通である。中でも、急性疾患に対する医療が重要であり、極論すればその有無が両氏の争点である。
 「弱い」高齢者の場合、摂食困難をはじめ、肺炎、尿路感染、消化管出血など各種の急性疾患に陥ることが日常茶飯事である。急性気管支炎だけでも咳・痰が激しければ重大な呼吸不全を起こすことが少なくない。「弱い」高齢者の急性疾患の特徴は、「治療すれば比較的容易に治癒するが、適切な治療がなければ死んでしまう」ということである(表1)。特に、補液(点滴)や抗生剤の注射は高齢者の急性期医療では必須の治療法である。
 急性疾患のうち最も注意を要するのが摂食困難である。高齢者に摂食困難が見られると老衰(表2の老化の末期)と見なされがちであるが、多くは可逆的であり治療によって比較的容易に改善しうる。
 そして、重要なことは、急性疾患に対して積極的な治療が施されなければ、それだけ早期に死亡する人の数が増えるということだ。人間は一度しか死なない。したがって、死んでしまえば、「弱い」高齢者への医療・福祉上の問題はすべて消滅する。すなわち、急性疾患の治療に熱心な所は重度の要介護高齢者を多く抱えることになる一方、急性疾患の治療に積極的でないところほど、重介護の高齢者が減少し、軽度ないし中等度の要介護者の割合が増加するはずである。
 その結果、「弱い」高齢者に対する医療に積極的な国とそうでない国では、医療費や在宅介護などの高齢者対策にも大きな違いが生じることになる。

 高齢者医療の情報不足
 「弱い」高齢者の生活と生命を守るためには、福祉だけでなく、医療特に急性期医療が不可欠である。デンマークにも、重度の摂食困難や肺炎や呼吸不全など、日本では入院しなければ助からないような急性疾患が多く発生しているはずである。そうした疾患に対する医療はデンマークではどこでどのように行われているのかが疑問である。
 私は、デンマークをはじめ北欧には一度も行ったことがないので、北欧の事情に詳しい人たちからの情報から判断するほかない。
 しかし、北欧の医療については医師からも多くの報告があるが、私のこの疑問に対して明確な回答になりうるものはほとんど見当たらない。
 医師以外の人たちから断片的に伝えられる北欧の医療については、「福祉にゆだねた高齢者は医療と縁が切れる」、「点滴や人工栄養をあまり見かけない」、「政府がキャンペーンを行い、高齢者が医療よりも介護(福祉)を好むように政策誘導してきた」など、日本よりも医療に対する姿勢が明らかに積極的でないことを示唆する情報が多い。中でも、春山満氏が『介護保険・何がどう変わるか』(講談社、1999年)という著書の中で紹介しているデンマークのプライエム(日本の特別養護老人ホームに近い)の話はショッキングである。「(プライエムでは)、風邪薬や頭痛薬の類を除いてほとんど治療らしき治療も行いません。その結果、だいたい半年から一年でお年寄りたちはすっと亡くなっていくそうです」というのである。
 最近の朝日新聞(2000年9月15日社説)は、「デンマークでは在宅やケア付き住宅が整備されたために、(プライエムをはじめとする)施設は不要になった」と報じている。しかし、春山氏の指摘した実態が、施設廃止後どのように姿を変えていったのかについては、全く触れられていない。高齢者の生活にとって医療と介護(福祉)は車の両輪であるのに、福祉の変化だけが紹介され、医療に対する考え方や医療の実態の変化の有無についてはほとんどコメントされていない。
 デンマークに限らず、さらに北欧に限らず、これまでに紹介されたヨーロッパの高齢者医療の姿を、私が日本で経験している高齢者医療の実情と照合してみると、かなり医療に対する価値観や死生観が異なると考えざるをえない。例えば、「(在宅で生活している高齢者について)最後の最後、水が飲めなくなったら、経管栄養も点滴もやらない、病院に運ばない(デンマーク)」(大熊一夫『あなたの老後の運命は』ぶどう社、96年、五六〜五七ページ)、「養護老人ホームの入所者のほとんどがそのホームで老衰で死ぬ(ドイツ)」(坂井洲二『ドイツ人の老後』法政大学出版局、91年、九二〜九三ページ)、「(痴呆の高齢者について)食事を口元まで持っていって食べる気がなければ、死にたいという意思表示である(オランダ)」(毎日新聞大阪97年8月29日朝刊)など、日本人から見ると人命尊重の原則に反するような実態が紹介されている。
 治療してみなければ終末期かどうか分からないはずなのに、どうして点滴もせずに「最後の最後」と即断して治療を放棄してしまうのか。養護老人ホーム(表3のステージ3)の入所者がいきなり老衰で死ぬことがどうしてあるのだろうか。本人に食べる気がないからといってどうして直ちに「死にたいという意思表示」と考えてしまうのか……。日本人には到底理解できない。
 このようなヨーロッパの対応は、日本の医師から見れば、「本当は末期ではないが、末期とみなして治療しない」とする「みなし末期」(横内正利「高齢者の入院医療のあり方」『社会保険旬報』93年8月1日号、一七〜二一ページ)による看取り(表2)としか考えられない。「弱い」高齢者に対して十分な急性期医療が提供されずに、早い段階で「死」を看取ることについて、ヨーロッパでは社会的合意が成立しているのであろう。
 しかし、この「みなし末期」による看取りは、日本では容認されていない。高齢者医療の現場で筆者が受ける印象は、「治る見込みがなければ治療しなくてもよいが、治る見込みがあるのであれば治療すべき」というものだ。これが現在の日本の社会的合意であろう。

 医療の核心を外した批判
 さて、「介護保険はなぜ失敗したか」という滝上論文では、このようなデンマークの医療事情に触れ、「デンマークをはじめとする北欧では、虚弱や要介護レベルの人たちに対する医療、主として急性期医療があまり積極的でないため、日本よりも重介護者の生存が困難となり、そのため、結果として重介護の高齢者が少なくなっているのではないか。そして、そうであるとすれば、現状のままデンマークの姿を日本の介護保険のシステムの中に取り入れようとすることには無理があるのではないか。やはり、日本独自の解決策を考えるべきではないか」という趣旨の警告と問題提起をしている。
 それに対して、医師である吉澤氏から、「デンマークの医療について私たちが見聞した事実とは明らかに異なる点」がある、とのクレームがついたのである。しかし、吉澤氏は、滝上氏の訴える論旨を無視し、論文の一部を断片的に取り上げて非難している。以下、同じく医師である立場から、吉澤氏の「批判」に対してコメントしてみたい。

 〔1〕滝上論文の「読者がデンマークに行けば、食事の介助が必要な高齢者がほとんど生存していないという事実に驚くであろう。ホームヘルパーには食事の介助という業務はまずない」という記述に対して、吉澤氏は、食事介助にはセッティングやカッティングも含まれるとし、「食事介助を受けている高齢者は大勢『生存』しておられました」と反論している。
 しかし、前後関係から滝上氏は、「食事介助」を第三者が食べ物を口に運んであげることを指している。日本人が普通に食事介助といえば、そのように思うのは自然であろう。事実、介護保険においてさえも、かかりつけ医の意見書が求められるが、食事介助の必要性を記入する欄がある。そこには、「自立あるいは何とか自分で食べられる」と「全面介助」の二つしかない。セッティングやカッティングは前者に含まれているのである。それほどに、日本では全介助かどうかが問題なのだ。
 吉澤氏のコメントには食事に大変時間のかかる特定の高齢者の存在が紹介されているが、吉澤氏が紹介した数字を見ても、滝上氏の指摘するような全介助は自宅暮らしで二名、ケア付き住宅では一三名と少ない。
 なお、吉澤論文では、食事介助を問題にしながら、不可逆的な摂食困難のため人工栄養を受けている高齢者(表3のステージ6)がどれだけいるのかという点については、全く触れられていない。

 〔2〕「北欧では介護が必要になった高齢者には医療をあまり施さず、その結果、重度の要介護者の生存が困難である。(中略)一方、日本では医療サービスが比較的整備されているから、重度の要介護者が多く……」という部分に対して、吉澤氏は、要介護の高齢者が多くの病気を抱えていることは日本もデンマークも同じとしている。
 しかし、吉澤氏は、慢性期医療については、降圧薬・抗血小板薬・インスリンなど、具体的な薬剤を挙げてその存在を強調している一方で、最も重要な急性期医療については、「患者やヘルパーから要請があれば家庭医は速やかに患者宅を訪問し問題解決に尽くし、必要があれば県立総合病院へ紹介します」と極めて具体性に欠ける表現にとどまっている。

 北欧と日本の医療
 滝上氏の問題にしている医療とは何か。それは、高血圧や糖尿病の治療とか傷の手当てのようなものではなく、「弱い」高齢者においては、適切な治療がなければ直ちに命にかかわりかねないような疾患や病態に対する医療のことである。例えば、吉澤論文では、一口ごとにむせてしまうパーキンソン病の女性に根気よく介助しているという事例が紹介されているが、我々が知りたいのは、根気よく食事介助をしても水分や栄養が不足してしまうような場合、デンマークではどんな対応をしているかである。このケースでは年齢が明記されていないが、このようにギリギリの食事介助を続けている高齢者では風邪などわずかなストレスによっても嚥下障害が容易に悪化する。このような急性疾患に対する対応法についてもっと具体的な説明がなければ滝上論文に対する批判とはなりえない。すでに述べたように、北欧を紹介した人たちの話を総合すれば、自然に滝上氏のいうような結論になるのではないか。

 〔3〕「その結果、重度の要介護者の生存が困難である。このため、軽度の介護者を対象にして在宅での生活支援が可能なのである」という滝上氏のコメントに対して、「重度の要介護の方でも大勢が家で暮らしていました」というような「見聞録」では反論にならない。滝上氏は、「デンマークでは重度の要介護者が少ない分、予算を軽度の要介護者に回している」と言っているのである。

 〔4〕「よく、北欧諸国には寝たきりがいない、といわれるが、寝たきりになる前にすでに死亡していることが主因である」と滝上氏は記述したが、これは、「医療的対応が日本ほどきめ細かくないために、重度の要介護者が生存しにくい」ということだ。また、滝上氏が、「寝たきり」という言葉を用いているのは、明らかに「重度の要介護状態」という意味で使用しているのであり、物理的な「寝たきり」を指しているのではない。

 〔5〕「現に、老人ホームでの生活期間を比べれば、北欧は一年余りにすぎず日本の数分の一である」という滝上論文に対して、吉澤氏は、数字を挙げず反論している。これでは印象を語っているにすぎない。かつて存在したプライエムでの生活期間が短かったことを春山氏が明瞭に指摘していることはすでに述べた。

 〔6〕「家族が同居せず介護しないのは北欧だけだ」という滝上論文に対して、吉澤氏は、「配偶者が世話をしているケースは多い」と言っている。だが、滝上氏がここで「家族」と言っているのは、明らかに配偶者以外の家族のことを指している。配偶者との同居の有無を問題にするはずがないではないか。

 総じて、滝上論文に対する吉澤氏の反論は、本格的な批判になっていない。滝上氏は、「北欧と日本の医療に対する考え方の違いをきちんと評価しておかないと高齢者対策を誤りますよ」と言っているのである。それに対して、吉澤論文は、見聞録に終始し、デンマークの高齢者医療に対する考え方が伝わってこない。
 「デンマークの高齢者医療は、日本ほど積極的ではないのではないか」という一般的な見方が正しくないというのであれば、その論拠を述べ、両国民の価値観・死生観にまで踏み込み、その上で滝上氏を批判するのでなければ、医師の立場での批判とはいえない。

 無責任な医師たち
 さて、日本の医師が、北欧の優れた福祉を日本に紹介しようとするなら、医療に対する北欧の事情や、さらには背景にある考え方も正しく伝えなければならない。「福祉はどこまでも手厚い」と詳細に描写していながら、「医療もそこそこやっている」では答えにならないし、医師としての役割を投げ出しているとしか考えられない。医療は介護と並んで高齢者の生活に不可欠のものであるからだ。高齢者の生活にとって介護(福祉)と医療は車の両輪である。医療についての理念、考え方といったものが福祉先進国に存在しないはずがない。それは、日本とは異なった考え方かも知れないが、それもきちんと伝えなければならない。
 ところが、「北欧の優れた福祉を日本に伝えて、介護保険制度をスタートさせるためには、戦略として、医療にはあまり積極的でないことは内緒にしておくほうがよい」と発言する医師さえいると聞く。さらにまた、同調するジャーナリストも少なくない。これは、日本の国民を愚弄しているだけでなく、日本を間違った方向に導きかねない。滝上氏はそのことを最も危惧しているのではないか。滝上氏によってなされた今回のような警告と問題提起は、本来、北欧の高齢者事情に詳しい医師によって、とうの昔になされていなければならなかったことだ。医療の専門家である医師が医療のことを正しく伝えなかったら、日本国民が正しい選択ができるはずがない。
 高齢者医療の現場で痛感することは、「弱い」高齢者も若年層と同様に、医療に対する期待はますます大きくなっていることだ。にもかかわらず、高齢者だけには医療を積極的には与えないという差別が許されるのであろうか。北欧のように国民の目を医療から福祉に向けることが果たしてできるのであろうか。日本人の選択は「医療も福祉も」なのではないか。介護保険をはじめとする日本の高齢者対策は、そのことを前提に考え直さなければなるまい。

 医師の倫理とは何か
 また、我々日本の医師は、欧米を手本にして医療を行っているわけではないことを明言しておきたい。日本国民のコンセンサスに基づいて医療を実践しているのだ。技術的には、欧米に学ぶべきことがまだまだ多いが、それは国民の人生観や価値観まで欧米風に入れ替えることではない。
 介護保険を推進してきた有識者の「家族介護を優先して介護保険を利用しないのは、日本国民の意識が遅れているためだ」というような発言をよく耳にするが、「せっかくよい制度を作ったのに、国民の意識が低いためにうまくいかない」と国民に責任を転嫁している姿は滑稽でさえある。福祉先進国に学ぶべきは結果でなくプロセスである。日本は、日本にふさわしい独自の高齢者福祉・高齢者医療を目指すべきだ。

東洋経済新報社

■2001

横内 正利 20010215 「日本老年医学会『立場表明』は時期尚早」,『Medical Tribune』(メディカル・トリビューン社)

◆滝上 宗次郎 20010210 「(続)介護保険はなぜ失敗したか――21世紀の社会保障制度とは」,『週刊東洋経済』5677:78-81

[論点]21世紀の社会保障制度とは−−(続)介護保険はなぜ失敗したか
2001.02.10 週刊東洋経済 第5677号 78〜81頁 4頁 写図表有 (全6,853字) 

[論点]21世紀の社会保障制度とは
(続)介護保険はなぜ失敗したか
 有料老人ホーム グリーン東京 社長 滝上宗次郎

要点
1 デンマークでは、日本と比べて要介護者が早死にするし、死生観も違う。それを考慮せずに日本がまねするのは無理がある。
2 90年代の介護保険運動は、保険は権利だ、家で死ねる、嫁の解放など幻想のヒューマニズムに彩られ、忘れられた10年だった。
3 今年は高齢者医療が焦点になる。介護保険のように意図的な情報操作を行い、厚生労働省に都合がいい形で改正してはならない。

たきうえそうじろう
1952年、東京都生まれ。77年一橋大学経済学部卒業、三菱銀行調査部を経て、87
年から現職。一橋大学経済学部・東京女子医科大学非常勤講師。
著書
『厚生行政の経済学』(勁草書房)、『終のすみかは有料老人ホーム』(講談社)など。

 在宅介護は、当初予測した市場規模を三倍以上も上回る巨額なものとなる。その財源は保険方式では到底賄えるものではない。
 低所得の高齢者にとって月に一五〇〇円の介護保険料は重く、全国各地で滞納者が多い。半額免除の措置が外れて三〇〇〇円となる今年10月からはいったいどうなるのか。確かに、高齢者は平均値で見れば他の世代に比べて資産がある。だが世代内部では貧富の差が大きく、二極化している。となれば、保険料を数倍に引き上げて財源を数倍にする方法は、貧しい層の存在によって絶対に採れるはずがない。
 筆者は本誌昨年9月2日号論点「介護保険はなぜ失敗したか」(以後、前作という)で、保険方式にしたことで、制度の運営が困難になったと述べた。今回は、財源面でも保険方式は決定的に間違っていたことを検証したい。

 市場規模の予測をミス税法式への移行は不可避
 なぜ厚生労働省は、市場規模の予測を極端に低く見積もるという過ちを犯したのか。それは、二つのアプローチの方法がともに間違っていたことと、二つの計算結果が偶然にも一致したからでもあろう。
 一つは、現状の家族介護にどれほどの費用が投じられているのか、というアプローチであった。アンペイドワークである家族介護を、給料をもらうホームヘルパーが行ったとして換算した。1993年の値で、約二兆円であるという。介護保険法創設の中核を担った旧厚生官僚らは共通してこう述べている(『社会保険旬報』96年2月11日号)。
−−介護保険とは、家族が私的に負担していた介護費用を社会全体で負担しようとするものであるといえる。したがって、介護保険が導入され、そのための費用負担が生じても、家族の負担が減って、社会全体としても負担はさして変わらない。
 要するに、家族の介護は大ざっぱに見て平均が、一回三〇分の家事や介護を一日六回して合計三時間、それに時給一〇〇〇円を掛けて三〇〇〇円。ついては在宅の介護費用は国全体で年間約二兆円になる、といった計算であろう。
 これはおかしい。というのも、ホームヘルパーが町に点在する家々を回るとなると、往復のロスタイムなど労働の経済性は失われてしまう。合計で三時間の介護を一日に六回に分けて訪問すれば、その費用は三〇〇〇円の三倍以上かかる。したがって、要介護者が今より少なかった93年の時点でも、在宅ケアだけで六兆円を超える財源が必要だ。
 二つめのアプローチは、人口五〇〇万のデンマークでの総介護費用をそのまま一億二〇〇〇万の日本に置き換えるというものである。高根の花に見える北欧の福祉を日本でも実現できると説き明かし、デンマーク神話の端緒を開いた『デンマークに学ぶ豊かな老後』(岡本祐三著、90年、朝日新聞社)はこう語る。
−−訪問看護婦、ホームヘルパー、補助器具支給などの各種社会資源について、その項目だけみて、日本で「デンマークなみ」の老人ケアを実現しようとしたら、いわば「最低限度」の必要分として、「四兆円強かかるだろう」という結果になった。
 すなわち、四兆円強から施設介護の費用を除くと、在宅ケアは同じく年間約二兆円となる。そして「わずかな金額ではありませんか」と付け加えた。理想の福祉国がわずかな金額で維持できるはずはない、という矛盾にはまったく気づかなかったようである。筆者が前作で指摘したように、実際はデンマークのヘルパーは家事援助が主体であり、医療は不完全であるために高齢者が要介護である期間が相当に短いから、「わずかな金額」ですむのである。

 デンマークの福祉は自分の力で生きること
 デンマークの福祉の基本は、help to self‐helpという言葉で言い表される。その理念は極めて高いが日本とは別物である。自分の力で生きなさい(self‐help)、そのための援助を社会は惜しまない(help to)ということである。日本の地域医療を代表する諏訪中央病院の内科医長である吉澤徹氏と看護婦の吉澤薫氏が、昨年11月25日号の本誌に次のように書いたが、まさしくそのとおりなのである。
−−デンマークでは、ヘルパーは「フォークを握って」「ソフトドリンクを一口どうぞ」と誘導し、時に一口大に切り分けてお年寄りが食べるのをじっと見守ります。
 デンマークの補助器具はself‐helpを援助するために開発されたといっても過言ではない。握力が衰えても利用できるようなフォークやコップなどが数多くある。
 筆者は90年にデンマークを訪問し、圧倒された。当時の日本に見当たらなかった指先だけで操作できる高額な電動の車いすを多くの高齢者が利用していたからである。しかも、市町村は無料で高齢者に貸していた。これが世界一の福祉か、百聞は一見にしかずだと驚嘆した。しばらくして、高齢者は自力で移動するように社会から求められていることを知った。寮母が車いすを押す日本とはまったく違う世界があった。
 自力で食べられなくなれば、助けてくれる子供は同居していないから、独居の高齢者にとり悲惨な結末はすぐにやってくる。それに対して、日本で介護といえば新聞に載る写真も、テレビの映像も、口に食事を運んであげることである。
 こうした彼我の違いのほかに、筆者はデンマークから多くのことを学んだ。介護を受ける高齢者がヘルパーに要望や苦情を堂々と言っていたが、それは当時の日本では考えられなかった。痴ほうの高齢者については、古くなってセピア色になった家族の写真が施設の個室の壁に多数飾られていた。若いときの記憶はしっかりしているからである。数々の現場ノウハウが筆者のホームの運営に取り入れられた。しかし、見学する日本人の側に盤石の視点がないと、基本思想が異なるためにデンマークをまねすることは取り返しのつかない失敗となる。
 ナーシングホームを見学したときに、筆者は質問した。「元気な痴ほうの高齢者しかいらっしゃいませんが、身体的に要介護となった方はどうしていますか」と。他の施設に移すという返事に対して、筆者は「そこもぜひとも勉強したい」と何度もお願いした。しかし「お見せすることはできません」と断られた。ホームの職員はどのような気持ちで、自分たちがお世話してきた高齢者をその施設に送るのだろうか。他国の人に見せられない施設では何が起こっているのだろうか。日本人である筆者には、越えることのできない文化や宗教や死生観の違いを感ぜざるをえなかった。
 他国のまねがどんなに危険か。たとえば今の日本では、痴ほうの高齢者対策の切り札として、スウェーデンで開発されたグループホーム(一〇人未満の元気な痴ほうの集合住宅)が話題になっている。しかし、体力を失えば退去せざるをえないが、受け皿は考えられていない。
 約八割が病院で死亡する日本にあって、諏訪中央病院は在宅死の比率が極めて高い。その傾向に長野県もあり、県全体で三割を超えて全国一だ。在宅死は、同居する家族の手厚い介護のお陰である。
 東京の下町である足立区千住は今でも多くの親子がともに暮らしている。そこに地域に根づいた柳原病院があり、訪問看護の一大拠点を形成している。その実践と理論のリーダーである宮崎(大沼)和加子看護婦が書いた『家で死ぬ』(同僚の佐藤陽子氏と共著、89年、勁草書房)は、介護に携わる者にとって得がたい教材である。一九人の高齢者が在宅死に至るまでの、数カ月から数年間の並大抵ではない関係者の努力が丹念に描写されている。
 一九の事例の一つ一つがいずれも独居ではない。住み込みの家政婦を雇う資力があれば別だが、家族の多大なる介護なくして家で死ぬことはできない。たとえ、看護婦やホームヘルパーが一日に何度と訪問しても独居の在宅死はまず不可能である。筆者は、有料老人ホームで一五年働いてきた経験からもそう思う。

 独居の高齢者はいかに死を迎えるのか
 そこで疑問が出てくる。病院死がほとんどなく、施設もやめてしまって皆が在宅介護となったというデンマークでは、どうやって在宅死が可能であるのか。
 突然くる脳卒中や心臓発作によって即死となる場合を除いて、いったい、デンマークのように独居の高齢者の在宅死はありえるのかを、諏訪中央病院はその日々の業務から熟知しているはずである。それを公表する社会的責務があろう。
 諏訪中央病院の前院長である参議院議員の今井澄氏(民主党の影の厚生労働大臣)は、昨年11月の参議院国民福祉委員会でこう述べている。
−−長野県は医療費が(全国で)一番低いから、じゃ医者にかかれなくて不幸な目に遭っているのか。そんなことはないですよね。平均寿命は全国一と言ってもいいです。……長野県並みの医療費にすることができるんですよ、同じ日本人だったら。(議事録による。カッコ内は筆者)。
 熱烈に介護保険を推進してきた今井氏が、津島雄二大臣(当時)を相手にしたこの発言はいただけない。介護保険の理念とは家族介護を否定しているからだ。したがって、長野県は入院という高額な医療手段を使わずに往診によって在宅死を推進して医療費を抑えているものの、全国一ともいえる嫁の介護がなくなれば長野県の老人医療費は一気に膨張するだろう。今井氏が主張する政策はどうしても今夏の参議院選挙目当てに見えてしまう。確かに長野県の平均寿命はトップレベルにあるが、それは県民の約三%にすぎない要介護者によって左右されてはいない。高齢者が七〇歳や八〇歳を超えても農業などの自営業に従事して体を動かし、長寿のためであろう。
 朝日新聞の社説は、長年にわたり歯の浮くようなデンマーク神話を増幅させながら、介護保険推進の世論をリードしてきた。訪問介護の混乱が誰の目にも見えてきた昨年9月15日の敬老の日には、デンマークでは施設をなくしてしまい、多数が在宅でケアスタッフによって「食事の介助」を受けている。国際的には、デンマークのような方向が当たり前、と訪問介護を一段と強調した。
 これでは、誰もがデンマークでは手厚い医療と介護があるために家族が同居していなくても家で死ねる、と思い込むのも無理はない。しかし、事実はそうではない。医師であり宮古市長でもある夫とハメル市を数日訪れた熊坂伸子氏は、自らのホームページでこう語っている。
−−デンマークでは、老人が死を迎える場所は介護センターやケアハウスなどの施設が圧倒的に多い。自宅での死というのは若い人の病気や事故がほとんどである。
 すなわち、大量の人員を必要とする在宅死を選ばずに、これまでは常に職員のいる施設に移されて死んでいたということだ。昨年、三カ月もの間、「高齢者の福祉と医療を勉強するために」同じハメル市に滞在し、「現場をつぶさに体験しました」と本誌に書いた諏訪中央病院の吉澤氏は、施設は今はなくなったと主張するものの、死に場所についてはその実態を詳細に知っているはずである。それを隠して、見聞録的な言い回しを用いてデンマークには日本並みの老人医療や食事の介助があると全体像を曲げて主張した。ゆがんで伝えられたデンマーク神話をなおも必死に維持しようとする試みは、日本の21世紀の社会保障制度改革を混乱させるだけだろう。

 医学の進歩にもかかわらず長くならない平均余命
 国連の人口統計を見てみよう(八一ページ図)。日進月歩の医学の発展にもかかわらず、デンマークは男女ともに82年以降は七五歳時点の平均余命が横ばいに推移している。一方、日本は一貫して伸びている。
 春山満氏は『介護保険・何がどう変わるか』(99年、講談社)で、日本の特別養護老人ホームでの入所期間が五〜一〇年であることを前提にして、強い疑念からデンマークのホーム長に質問する。
−−「そうすると、自分がここへ来ると半年から一年で死ぬということをわかって来るん
ですか?」
 「たいへん答えづらい質問ですが、そのとおりです」
 そして、「私が見落としてきた点、それはまさに福祉先進国デンマークの手厚い福祉政策の一方にある厳しい死の選択です」と感慨を述べるのである。
 本誌12月2日号に「北欧の高齢者医療はなぜ伝えられないか」という副題で、横内正利医師は北欧の優れた一面だけを日本に紹介してきた医師やジャーナリストに対して、日本国民を愚弄していると批判し、「日本は、日本にふさわしい独自の高齢者福祉・高齢者医療を目指すべきだ」と結語した。

 市野川容孝東大助教授は、福祉国家は優生学と親和性があると述べている(立岩真也著『弱くある自由へ』2000年、青土社)。誰が「生きるに値する」のかという選別の問題が、「すべての者に」という理念とは矛盾する形で出てきてしまう。つまり、福祉の理念は天井知らずだが、財源は有限だからというのである。優生思想は人間に序列をつけて間引きする。劣生を排除するための不妊手術を認めた優生保護法はナチス的であるとして96年廃止されて、日本の医療には今のところ優生思想はない。
 だが、人間に序列をつける考え方が、高齢化に伴って頭をもたげてきたことを筆者は深く憂慮する。すなわち、終末期医療費が極めて高額で無駄な医療であるかのような事実無根の情報を流して、「延命医療は疑問」「健康寿命が大切」といった宣伝活動が出てきたことである。
 前者は、延命医療という言葉を救命医療に置き換えれば打ち消すことができる。国民、さらにはマスコミまでもが高齢者における延命医療と救命医療の違いを理解できないでいる、という死角を突いた絶妙な死のスローガンである。後者は、体力の衰えた高齢者の人命の貴さを卑しめている。これらのプロパガンダを行う厚生労働省や経済学者は、自分たちは憲法二五条の生存権を認めていない、ということを国民の前に明らかにしてほしい。
 昨秋、御用機関である医療経済研究機構は、「終末期におけるケアに係わる制度および政策に関する研究」という報告書を世に出した。「死亡直前の医療費抑制が医療費全体に与えるインパクトはさほど大きくないと考えられる」と正確な記述もあるものの、一〇〇ページを超えるこの報告書は、全体が高齢者の生存権を否定する思想で満ちている。その表題にあるように「政策に関する研究」だからであろう。
 昨年の老年医学会学術集会の会長を務めた佐々木英忠東北大学教授は94年にある調査を行った。人口一・五万人の宮城県のある町では、死亡直前一・五カ月間の医療費は八四歳前では約七〇万円であるのに対して、八五歳以上は二〇万円、九五歳以上は一〇万円と極端に少ない。
 ではなぜ高齢者医療が無意味であるという一部の世論があるのか。それはがんの末期に焦点を絞ってマスコミが繰り返し報道するからだろう。苦痛を和らげる以外の延命治療はせずにホスピスに移ったり、住み慣れた自宅に戻って最期を充実して過ごすがん患者は少なくない。しかし、治る見込みがなく、苦痛があり、余命があと少し、だと予測できる病気はほかにどれほどあるのか。さらに高齢者のがんならば、多くは苦痛もなく進行が極めて遅い。余命は判断できずとても長いのである。
 経済学者は、非高齢者のがん患者への延命医療を例に挙げて、まったく根拠もなく要介護の高齢者の救命医療までも否定するが、人命無視もはなはだしい。厚生労働省は、弱者の人権無視に転化しやすい「健康日本21」運動を即刻やめるべきだ。早朝に庭師が盛りを過ぎた花を刈り取るバラ園はいつ見ても美しい。だが、日本社会はバラ園ではない。
 厚生労働省は、介護保険で財政的に大きな失敗をした。それを取り返そうとして高齢者を狙い撃ちにし始めたとすれば、薬害エイズ事件の反省は早くも官僚の脳裏から消え去ったと言わざるをえない。
 21世紀にふさわしい社会保障制度の改革とは、国民へ真実の情報を提供することが第一である。医療は、社会的入院や薬剤費をまず是正すべきだ。老人医療費の伸びを抑えようと、病院死を減らし在宅死の比率を引き上げたいと愚考するならば、介護保険は、家族介護への現金給付を実施すべきだ。それでも高齢化によって社会保障費は増える。その財源は欠点を改良した消費税である。

東洋経済新報社

◆朝日新聞社 20010225 「高齢者医療の実態直視を 医療保険制度改革の論議盛んだが…」 東京朝刊 15頁

高齢者医療の実態直視を 医療保険制度改革の論議盛んだが…
2001.02.25 東京朝刊 15頁 オピニオン1 写図有 (全3,362字)

 医療保険制度が行き詰まり、改革論議が盛んだ。最大の焦点は、お年寄りの医療費を「だれが、どれだけ負担するか」にある。年間約三十兆円の医療費のうち七十歳以上の老人医療費は四割近くを占める。厚生労働省は二〇〇二年度に新しい高齢者医療制度をつくる予定で、関係団体も改革案を公表している。しかし、負担の仕組みをめぐる議論ばかりが先行しがちだ。望ましい制度を作るために、まず心身が弱ったお年寄りの医療の特性や課題を国民に示すべきではないか。
 (くらし編集部・出河雅彦)

 東京都昭島市の特別養護老人ホーム「愛全園」(定員百十人)は入所者の八割が痴ほうで、七割が飲食物をうまくのみ込めず介助を受けている。
 介護職員は毎日全員の飲食物の摂取量を記録する。食事の分も含め一日の水分摂取量がおおむね千CCを切ったら点滴で水分補給する。食欲がなく、「死にたい」と言っていた人が一本の点滴で元気を取り戻す。
 常勤医の蓮村幸兌(さちえ)さんは「病弱なお年寄りはいつ体調が急変してもおかしくない。一番怖いのは脱水。腎機能の悪化は命取りになる」と話す。蓮村さんは常勤医や夜勤看護婦の必要性を訴えてきたが、確保している施設は少ない。
 介護保険で特養のお年寄りは医療を受けにくくなった。入院中も三カ月まで施設に運営費が支払われる従来の制度がなくなったからだ。空床による収入減を恐れ、入院を避けようとする経営者もいるという。
 一方、病気の症状が不安定な「急性期」の治療を担う医療機関にとって、お年寄りの入院増は悩ましい。
 お年寄りの場合、介護が不要な人でも手術などで一時的に心身機能が著しく低下する。要介護の人はなおさらだ。痴ほうに似た症状が出ることも珍しくない。
 ところが、診療報酬では最高でも入院患者二人当たり一人の看護・介護職員の配置でしか評価されない。
 東京都練馬区の練馬総合病院は入院患者の三二%が六十五歳以上だ。看護・介護態勢は最も手厚い水準にあるが、それでも夜勤帯は四十人の病棟に二−三人の看護婦しか配置できない。点滴など命にかかわる管を抜こうとする患者を三人がかりで抑えることもあり、スタッフの負担は大きい。
 飯田修平院長は「国民の医療への要求水準が上がり、『事故を起こすな』『(腕などを縛る)抑制はするな』と言われる。医療と介護の両方が必要な高齢者が増えているのだから、いまの職員配置基準で安全と人権の両方を求められても困惑する」と話す。
   ◇
 厚生労働省の高齢者医療制度等改革推進本部は昨年末、制度改革の「課題と視点」案を公表した。その中には終末期医療も含まれている。終末期の「無駄な医療費」を減らしたいという声は財界人や医療経済学者のほか、日本医師会の幹部からも上がっている。だが、実際にはお年寄りの終末期医療を抑えても医療費の削減効果は期待できないという研究がいくつかある。
 一方、国民の間には延命医療への拒否感が根強い。厚生省(当時)が一九九八年に行った意識調査では「痛みを伴い、治る見込みがなく死期が迫っていると告げられた場合、単なる延命だけのための医療をどう考えるか」という設問に、約七割の人が中止したほうがいいと答えた。
 しかし、高齢者医療の専門家は設問が想定する状態はお年寄りにはあてはまらない場合が多いと言う。
 肺炎などの急性疾患が不治かどうか、死期が迫っているかどうかの判断は難しい。若年者と違ってがんも進行が遅く、苦痛も比較的少ないことが多い。
 名古屋大大学院で老年医学を専攻する益田雄一郎医師らは九七年、日本尊厳死協会(会員約九万人)に登録する患者や家族から「不治で死期が迫っていると診断された場合には延命措置は断る」などと書かれた「尊厳死の宣言書」を提示された医師の対応を調べた。患者は七十歳代が中心だった。約二百人の医師のうち六九%が「治療に影響を受けなかった」と回答した。益田さんは「患者の病態はさまざまで『治らないという判断が難しい』という回答者が多かった」と話す。
 米国では法律で、終末期の医療について事前に文書で指示できるようになっているが、日本では事前の指示についての議論もまだほとんど行われていない。
 昨年できた成年後見制度でも、後見人に医療行為の同意や決定権限は認められていない。痴ほうなどの終末期医療をきちんと議論しようとすれば、第三者による同意のあり方まで検討することが必要になる。

●介護家族のSOS聞いて 地域医療で知られる諏訪中央病院(長野)・鎌田實院長
−−高齢者への医療でどんな配慮をしていますか。
 「患者さんが自分の生き方にあったサービスを選べるよう、介護も含めて多様なメニューをそろえ、在宅を望む人は往診、訪問看護で支え、家にいられない人には施設を提供する。患者さんの選択を尊重しながら、無駄な入院や投薬、注射を減らし、医療費の高騰も防いできた」
−−定額化で高齢者の医療費を抑えようという声が一部にあります。
 「年齢で線引きし、医療内容を一色にしてしまうことには反対だ。定額制は医療の質を落とせば落とすほど病院の経営がよくなる。志の低い医療機関を受診した人は標準的な医療を受けられなくなる恐れがある」
−−高齢者医療にはどんな難しさがありますか。
 「何年も寝たきりに近い生活をしている患者さんに何か症状が出た時、例えば血便が出たからといって、すべて腸にカメラを入れて検査すべきだろうか。地域で高齢者と向かい合っていると、『無理なことはしないでほしい』という声も聞く。徹底的に治療さえすればよいとは思えない。意思疎通できない患者さんの場合は本人の気持ちをくみながら家族と話し合うが、どこまで医療をするか、一例一例が悩みの連続だ」
−−長野県の老人医療費は全国最低。家で亡くなる人の比率が高いことが要因の一つとされますが、なぜそれが可能なのですか。
 「いつでも医者や看護婦が駆けつけ、介護する家族がSOSを発したら病院などの施設で受け入れる態勢があるからです」
−−核家族化などで家族の介護力は低下しています。長野県は低医療費のモデルであり続けられますか。
 「わからない。在宅介護を重視したはずの介護保険には利用限度額があり、いまの水準では家族介護を前提にしない限り重度の高齢者は家にいられない。介護保険の限界がはっきり見えてきて、施設志向が高まっていることが心配だ」

●末期の病態の情報開示を 高齢者医療が専門、浴風会病院(東京)・横内正利<元診療部長>
−−高齢者医療の特徴は。
 「比較的若く元気な高齢者は若い人と差はないが、要介護状態で体力が落ちた『弱い高齢者』は病態や薬への反応が違う。高齢者は慢性疾患が中心と思われているが、実は肺炎などの急性疾患に頻繁にかかる。弱い高齢者は医療の手が加わらないと死に至る。介護保険などの制度改革では急性期医療が重視されず、中小病院や診療所のベッドが介護用に転換したりして、治療の受け皿が減っている」
−−病気が進行すれば治療も難しくなるのでは。
 「急性疾患は多くの場合治療すれば治る。しかし、やがて治療しても食事がとれなくなる。死期が迫っているわけではないので厳密には終末期とは言えない。高齢者に特徴的な摂食困難への対応をどうしたらいいか考える必要がある」
−−具体的には。
 「日本では人工栄養を施すのが一般的だ。欧州の一部の国は介護態勢は手厚いものの、自分で食べられなくなった人に経管栄養まではしないようだ。栄養を止めれば死ぬので、その後は医療費も介護費もかからないが、『生命をどう考えるか』という重いテーマなので日本人の価値観に基づいて決めるべきだ」
−−どんな手順を踏むことが必要ですか。
 「厚生省の意識調査は極端な事例を想定している。いわゆる植物状態やがんの末期に加え、『不治で死期が近いが、苦痛はない』とか『不治だが、死期は迫っていない』というような状態への対応も尋ねるべきだ。高齢者の終末期像に関する情報を正確に開示しないと国民は判断できない」
−−高齢者の医療費の抑制は可能ですか。
 「節約は大事だが、問題解決にはならない。高齢者が増えているのだから費用の増加は不可避だ。日本人は医療、介護双方の充実を望んでいる。厚生行政の枠内での解決は無理だ。橋を造る代わりに特養ホームを整備するなど、国全体として取り組む必要がある」

 【写真説明】
日本尊厳死協会の「尊厳死の宣言書」の一部

朝日新聞社

新村 拓 20010425 『在宅死の歴史――近代日本のターミナルケア』,法政大学出版局,228+5p. 2600 ※ a06 t02

◆2001年6月13日 「高齢者の終末期の医療およびケア」に関する日本老年医学会の「立場表明」
 http://www.jpn-geriat-soc.or.jp/tachiba/index.html

◆読売新聞社 20010619 東京朝刊 13頁

[論陣・論客]医療制度「抜本改革」の道 川渕孝一氏VS横内正利氏=見開き
2001.06.19 東京朝刊 13頁 写有 (全3,096字) 

 政府が来年度に予定している医療制度の抜本改革を巡って、議論が盛んになっている。高騰する国民医療費、とりわけ高齢化に伴ってふくらむ高齢者の医療費をどうするか。増加する負担を国民がどう公平に担うのか。医療提供のあり方をどうするのか。明確なビジョンが求められる。(聞き手・解説部 南砂)
              ◇
◇かわぶち・こういち 東京医科歯科大大学院教授。専門は医療経済学。日医総研研究員、経済産業研究所ファカルティフェロー兼務。41歳。
               ◇
◆たばこ増税で意識改革
−−医療改革案は出揃(そろ)ったか。
 川渕 高齢者医療制度の根本的見直しが急務、として医師会や経済団体、連合、健保連、国保連などがそれぞれ改革案を出している。
 しかしどの案を採択しても国民の負担は増える。突き詰めれば各案の違いはその負担増を賄うのが公費か保険料か自己負担かという違いだけで、負担の押しつけ合いになっている印象はぬぐえない。ポイントは、二十一世紀の日本の社会保障をどう描くか、である。
−−負担の議論が深刻になった背景は?
 川渕 一九八三年にできた老人保健制度は、いわば儒教精神で高齢者の医療費を若年者が賄うというもの。ある意味では素晴らしい制度だが、当時は今日のようなすさまじい少子高齢化も、続く十年の経済不況も予想外だった。
 厚労省の推計によると、医療費が現状のまま推移すれば二〇二五年に八十一兆円となるが、保険料等の公的負担を現状維持にすれば四十二兆円になるという。このギャップを自己負担で埋めるのか、医療の中身を減らすのか国民の選択が求められる。
−−結果的に高齢者から医療が奪われる危惧(きぐ)も指摘されている。
 川渕 少子高齢化が進んで二〇二八年に七十五歳以上の人口がピークになる。加齢に伴って病気になりやすい「弱いお年寄り」が、ここまで増え続けるわけだが、経済学者からすると「弱い」とは何かが問題だ。高齢者は必ずしも経済的弱者ではないという意見もある。一方、高齢者にふさわしい医療とは何かという問題もある。必要な医療が奪われることはだれも望まないが、どこまでを公的保険で保障するかは、経済的見地のみならず医学的見地からも十分に検討しなければならないだろう。
−−医療制度で学ぶべき国は?
 川渕 完ぺきな医療制度はないが、これからの日本を考えるとシンガポールが参考になる。八四年に導入したメディセーブ口座制度は注目すべきものだ。医療費を個人の口座に強制貯蓄させるもので、積み立て時、使用時、相続時に非課税になっている。国民が、国や保険会社に頼らず自分で医療費を支払うという意識を持ち、これが医療費の適正化につながっている。国民医療費は対GDP3・1%という低さで、乳児死亡率などの健康指標も日本並みだ。
 小国にして競争力のあるシンガポールのいい所は、勤勉で忍耐強い国民性に注目して自助努力を求め、成功している点だ。しかも急速に増えつつある高齢社会を先取りしている。長く続いた国民皆保険制で日本人は医療のコスト感覚を失い、健康への自己責任の意識も薄い。抜本改革というのなら、国民の意識の変革も不可欠だ。
−−抜本改革は予定通り行うべきか?
 川渕 議論は尽きないが、時間の猶予はない。できることから始めるべきだ。直ちにすべきこととして、健康への明確な危険因子に対する課税、つまりたばこ税の増税を挙げたい。一本一円で二千六百億円の税収増が見込まれる。日本の喫煙率は先進国の中で極端に高い。度を過ぎれば本人にも周囲にも健康被害があると認められ、「健康日本21」でも半減を目指しているが、むなしい現状にある。むしろ経済的手段で意識改革を迫る方がいい。これもシンガポールが参考になる。
                  ◇

 ◇よこうち・まさとし いずみクリニック院長。内科医。東京都老人総合研究所を経て、国立循環器病センター内科医長、浴風会病院診療部長を歴任。55歳。
                  ◇
◆高齢者医療まず見極め
−−医療改革案をどうみるか?
 横内 厚生労働省は年々増加する国民医療費の約三分の一を占める高齢者医療費の削減が急務であるとしている。政府・与党の社会保障改革大綱も、高齢者医療費の抑制をうたっている。しかし高齢者の絶対数が増える上に、高齢になると一人で複数の疾患を併せ持つ傾向が強いので、医療費が大きく膨らむのは避けられない。高齢者全体の医療費抑制は結果的に一人あたりの医療費を大きく削減することになり、必要な医療が受けられなくなる危険がある。
−−今の議論では抜本改革はできないと?
 横内 将来人口の推移、高齢者に必要な医療とは何か、将来の高齢者の生活がどうなるのかなどを見極めた上で、国の経済財政状況全体の中で社会保障のありかたを位置付ける作業が不可欠だ。抜本改革というなら、省庁の枠組みを超え、広い視野に立って、経済学的検討をすることが必要だ。
 また医師の使命は、高齢者に必要な医療とは何かをしっかり考え結果を国民にきちんと提示することだ。それをせず、財源論に加担すべきではなく、国民の医療を引き受ける立場を貫くべきである。全部を俎上(そじょう)に載せて十分検討した後、医療や医療費をどうすべきかまとめるのは政治の役割であり、それを選挙で問うべきなのだ。
−−高齢者医療について、一致した医学的見解はあるのか。
 横内 高齢者医療について系統だったノウハウは蓄積されていないと言っても過言ではない。多くの医科大学には老人科が設置されており、また四十年の歴史を持つ日本老年医学会という医師の団体もあるが、いずれも高齢者にふさわしい医療のありかたを研究しているとは言い難い。むしろ地域医療に取り組む医師たちの方が高齢者医療に詳しいのではないか。
−−高齢者医療ではQOL(生活の質)が重要というが。
 横内 高齢者医療に限らずQOLの維持・向上は医療の重要な使命である。ただ、高齢者、中でも要介護、要支援の「弱い高齢者」に対しては、急性疾患、慢性疾患、終末期にわたって特別なアプローチが必要ということだ。その方法が確立していない。このような高齢者の生活や生命を守るためにどんな医療が必要かを考えなければならないのに、「QOLの低い状態で生きていても仕方がない」という考え方が広まりつつあり、QOLという言葉が、高齢者切り捨てに悪用されようとしている。
−−医療保険財政の悪化は深刻で、対応策が急務というが。
 横内 医療保険制度の維持は不可欠で、当面の延命策は必要だろう。だが今は、最小限の短期的対応にとどめるべきだ。その上で、社会保障制度の抜本改革のための準備を急がなければならない。
 二〇二五年度の医療費を予測した厚労省は、同じ時期の高齢者の生活がどんなものになるのか見通しを示すべきだ。平均的な高齢者の生活や医療が成り立っていくのだろうか。将来的な青写真の提示もないまま、「医療保険が破たんしてもよいのか」と国民を脅すだけでは、長期的な社会保障制度の実現は難しい。「こうすれば高齢社会を乗り切れる」というシナリオが提示されなければ、国民の不安は募るばかりだ。「魔女狩り」のような「高齢者医療費」バッシングを続けても問題は解決しない。

 〈寸言〉
 横内さんは地域医療の現場から高齢者医療費削減は、幅広い視野で高齢者医療のありかたを検討した上ですべきで、まず財源論ありきの改革は、弱い高齢者から必要な医療を奪いかねないと批判した。
 川渕さんは、医療経済学の立場で、高齢者医療費の削減は必至だが、改革案はどれも負担増になり、その出所が税か保険か自己負担かの差だけだと説き、抜本改革には国民の意識改革こそ必要、と強調した。
 立場の差が主張に明確に出たが、結局は国民が、医療も含めて二十一世紀の日本にどんな社会を望むのかにかかっている。医療という健康に直結した問題だけに、意識改革と議論の継続が不可欠だろう。

 写真=川渕孝一氏、横内正利氏

読売新聞社

春日 キスヨ 20010622 『介護問題の社会学』,岩波書店 2400 ※ a06

横内 正利 20010720 『「顧客」としての高齢者ケア』,日本放送出版協会,197p. ASIN:4140019204 914 [amazon][boople] ※.

出口 泰靖 20010730 「「呆けゆく」体験の臨床社会学」,野口・大村編[2001:141-170]*
*野口 裕二・大村 英昭 編 20010730 『臨床社会学の実践』,有斐閣選書1646,318+ivp. 2000 ※

横内 正利 20011004 「再論・日本老年医学会『立場表明』――高齢者医療打ち切りになる恐れあり」,『Medical Tribune』(メディカル・トリビューン社)

◆200110 第13回日本生命学会年次大会

 「高齢者の終末期と「医学論争」
 「二〇〇一年一〇月、第一三回日本生命倫理学会年次大会が名古屋で開かれた。学問には無縁の私だが、演題にいくつか気になることがあって傍聴を申し込んだ。
 まずは当日のランチョンセミナーで、日本老年医学会が六月に発表した「高齢者の終末期医療に関する立場表明」を説明するというのに関心があった。また、演題のいくつかに、「死の義務」、「トリアージ」など、数年前から気になっていたキーワードが散在しているのにも興味があった。「高齢者の終末期医療に関する立場表明」自体は、「高齢であることや自立能力が低下しているなどの理由などにより、適切な医療およびケアが受けられない差別に反対する」(立場1)など一三項目の宣言文からできていて、高齢者が医療を受ける権利が薄められる一方の時代に、医師の側から社会的責任の一環として問題提起を試みたという前向きの印象を受けるものだった。(中略)<174<
 だが、その「立場表明」はどうも「議論は錯綜して明確な結論を得られない」まま発表したものらしかった。というのも、日本老年医学会自らが生命倫理学会の予稿集にその旨を記していたからである。
 議論が錯綜した最大の理由は、肝心の「高齢者の終末期」の定義、いったいどういう状態ならば「終末期」といえるのか、ということだったらしい。(中略)<175<
 ところが、最終報告でさらに不思議な一文が加えられた。高齢者の場合、終末期の定義ははっきりしない、しかも余命の予測もできない。ではなぜ、「近い将来死が不可避」と言い切れるのだろう。さらに、最終報告には、「将来の検討課題」として、「痴呆疾患の終末期」、「悪性腫瘍の終末期」、「脳卒中の終末期」、「呼吸不全の終末期」など、「個別疾患ごとの検討が必要」という文章も加えられた。つまりは、高齢者の終末期は病気によっても違うし、一概には論じられない、医学的にはまだ定義することができない、それは「今後の課題」ということなのだろうか。(中略)<176<
 しかし、不思議だったのは、「日本老年医学会では高齢者の終末期医療に対する学会としての立場を表明することを迫られており……」と予稿集が説明しているところだった。いったいなぜ、老年医学会はまだ「曖昧」でよくわならないらしい「高齢者の終末期」のことで、なんらかの立場表明を「迫られ」なければならなかったのだろう。
 「将来の検討課題」というなら、「適切な医療およびケアは侵すことのできない基本的人権。重度痴呆患者など判断力が低下している患者にあっても保障されるべきものである」(立場1)とまず第一に掲げた「医療を受ける基本的人権」が侵されていないかどうかを、臨床現場をあげて実情を調査する、そのイニシアティブをとることの方が、まずは求められる。それが科学者の社会的責任というものなのだと私には思われた。
 「見解」批判の先鋒となり、高齢者の終末期論争に火をつけた形の同学会評議員の医師、横内正利氏はつぎのように記していた。
 「たとえばアルツハイマー病の場合、どのような状態になったら終末期と診断されるのだろうか。あるいは老衰の場合はどうだろうか。案では、恣意的な差別を引き起こす可能性があるため、具体的な規定は設けなかったとしているが、定義をあいまいにしたまま議論を進めることこそ、かえって重大な差別を招くことになりかねない……過小医療に警告を発するという学会の意図とは逆に、高齢者の医療打ち切りに悪用される危険は大きく、そのことに対する配慮が足りない。もし本当に過小医療に反対するというのならば、『安易に終末期と判断してはならない』と警告す<177<るべきであろう」(11)
 横内氏は同時に、二〇〇一年の秋からほぼ平行して学会が取り組んでいた「高齢者終末期医療における輸液治療のガイドライン」作成作業との関連をも案じていた。口から食事や水分がとれなくなった患者に静脈を通じて水や電解質を補給する方法である。ここでも「終末期」とは「見解」と同じく、「近い将来の死が不可避となった末期の状態」とされていた。ガイドラインは、老いて病が重くなり、弱りきったおとしよりを「終末期」と診断した場合、水分や栄養の補給をどうするのか、続けるのか打ち切るのかを判断する手順を示すためのものだが、「事実上、『高齢者の終末期では輸液や人工栄養を行なってはいけない』という精神が貫かれている」(12)と横内氏は指摘していた。こちらも「議論錯綜」のためか、ガイドライン作成作業は二〇〇三年春の段階では頓挫したままのようである。」(向井 2003:174-178)*
※上記で引用されている文献(以下は向井[2003;219]の表記のとおりに記す)
(11)横内正利 「日本老年医学会『立場表明』は時期尚早」(『Medical Tribune』メディカル・トリビューン社、二〇〇一年二月一五日)
(12)横内正利 「再論・日本老年医学会『立場表明』――高齢者医療打ち切りになる恐れあり」(『Medical Tribune』メディカル・トリビューン社、二〇〇一年一〇月四日)
*向井 承子 20030825 『患者追放――行き場を失う老人たち』,筑摩書房,250p. ISBN:4-480-86349-4 1500 [amazon][boople][bk1] ※, b d01

■2002

◆小川直.20020205.「本の紹介/村井淳志監訳『重度痴呆性老人のケア――終末期をどう支えるか』」,『京都保険医新聞』第2259号.3面.
※以下の京都府保険医協会のホームページより全文引用.
 http://www.healthnet.jp/syuchou/pages/2001/02/k01020503.html
 本の紹介/村井淳志監訳『重度痴呆性老人のケア−終末期をどう支えるか』2000年4月発行/医学書院、3,000円(外税) [amazon]
 「終末医療が抱える現状を問い直し、医療の一方的な働きかけに提言
 「父から医院を継承して5年、循環器内科を専門としてきた私にとって「痴呆」という疾患はあまりなじみのないものでした。地区医師会の理事として地域医療、在宅事業に関わりを持ち始めた頃、在宅介護支援センターの職員から「先生の近くのAさん宅に至急来てください」と連絡がありました。早速走って行くとAさんが裸で、水の入っていないお風呂の中でじっとしておられました。入浴後出てこられなくなり、困ったご家族が「水を抜いたら出てくるのではないか」「水をかけたらどうか?」「お湯をかけたらどうか?」等々苦労のあげく在宅介護支援センターに助けてほしいと連絡があったというのがその顛末でした。その後も5名のアルツハイマーと思われる痴呆患者さんと巡り会い、2名を在宅で看取らせて頂きました。
 本書にも書かれていますが、末期の痴呆患者さんは無動、寝たきり、嚥下障害、反復感染という経過をとるのが通常と言われています。私のつたない臨床経験における常識では嚥下ができなくなれば胃管、胃ろうやIVHによる栄養補給を行う、感染が起これば感染に対する治療を当然行うものだと疑いもしませんでした。
 重度痴呆に緩和ケアの手法が取り入れられ、また「感染症に対してさえも重症の痴呆患者さんは緩和ケアのみと積極的治療とでその生存曲線に変化がない」「不治の病で死に行く患者は飲食物を拒むのはふつうであることを知るべきである」という本書の記載は私にとっては驚きでした。
 本書を読ませていただき、私の今までやってきたことは、人を人として尊厳をもって接するのではなく、むしろ医療従事者側のエゴで医療を一方的に医療側の価値観で押し売りをしてきたのではないかと思わざるを得ませんでした。  末期
 癌に対してすら、ホスピスケアが十分浸透していない我が国において、痴呆に対してのホスピスケアをいきなり受け入れる土壌は、まだ十分整備されていないのではないかと考えます。しかし、医療従事者である我々から意識改革をはかり、目を開かねばならない、在宅医療の現場で接する我々から意識を変えなければならないと痛感しました。そのために本書は非常に役立つものであると思います。
 本書は「京都老人のターミナルケア研究会」の10周年記念として村井淳志先生と会員の先生方によって翻訳、発行されたと聞いておりますが、付け加えたいのは訳者の先生方が書かれているコラムのすばらしさです。各先生方が本書の内容にしばられず、ご自分の視点でご自分の言葉でお書きになっておられます。短いコラムの中に先生方のご経験のエッセンスが凝縮されている気がします。
 私のような臨床経験の浅い若輩者のみでなく、豊富な臨床経験をお持ちの先生方にとっても役に立つ一冊ではないでしょうか。
 (伏見・小川 直)」
 【京都保険医新聞_第2259号_2001年2月5日_3面】」

◆大河内 宏二 20020215 『家族のように暮らしたい――奇縁でつながるケアハウスの軌跡』,大田出版,351p.ISBN:4-87233-646-1 1900 [amazon] ※

◆今井 澄 20020405 『理想の医療を語れますか――患者のための制度改革を』,東洋経済新報社,275p. ISBN-10: 4492700811 ISBN-13: 978-4492700815 [amazon] ※ b a06
「老人医療費無料化は、一九六一年一二月、岩手県の沢内村で始められました。その様子は、岩波新書『自分たちで生命を守った村』に書いてありますので、ぜひお読みください。
 その後、東北地方を中心に全国に広がった無料化は、一九六九年に東京都が、七〇歳以上の老齢福祉年金受給者の自己負担を無料化したことをきっかけに、国の制度となりました。
 老人医療費無料化前の一九七〇年と、無料化後の一九七五年の、年齢別の受療率は、(以下略)
 しかし、先に述べたようにいろいろな問題が生じ、その後遺症で今苦しむことになりました。いわゆる「モラルハザード」、つまり、倫理的に危険な落とし穴ができてしまったのです。医師側にも、患者側にも、負担を考えない無責任な無駄遣いが起こってしまいました。」(今井 2002:114)

 「こうなってしまった原因の一つは、負担できる人と負担できない人の区別をせずに、七〇歳とか六五歳とか、一律の年齢で区切ってしまったことにあります。(中略)
 無料化をきっかけとしておかしくなった原因の二番目は、沢内村の本を読んでもらえばわかりますが、老人医療の無料化にあわせて、住民参加の健康づくり運動を一緒にやらなかったことです。(中略)<115<
 第三の原因は、二番目の原因と関連しますが、お金だけに注目していた政治の貧困さです。(中略)
 第四の原因は、医療保険制度のなかで無料化を考えるのではなく、老人福祉法のなかで無料化したことです。(中略)<116<
 第五の原因をあげれば、専門家である医療関係者が、老人医療のあるべきやり方について真剣に取り組まなかったことです。」(今井 2002:115-117)

 「欧米はどちらかといえば「クール」
 ヨーロッパでは年齢で区切る特別の制度がないにもかかわらず、老人が医療を受けにくい状況が出てきています。イギリスでは六〇歳を超えると、腎不全になっても国民医療サービス(NHS)では新規の透析を受けられないのが実態です。北欧でも介護サービスは十分に受けられますが、医療からは遠ざけられているようです。そのことに対して、ヨーロッパでは見直すべきだという意見も出されているようです。
 二〇〇〇年五月、パリに行ってOECDの医療担当者と話したときも、同年末にストックホルムで医療担当者と話したときも、そういう印象を受けました。
 実は、「寝たきり老人」がなぜ日本に多いのかという議論が二〇年余り前から行われてきましたが、その際に、「日本は、老人に対しても徹底的に医療を行うので、重症のまま生き延びる患者が多いからだ」という意見があります。私は、それは完全に間違っていると思います。日本では、本人も「寝たきり」を好み、病院や家族も「寝かせきり」にしているのが、根本的な原因だと思います。現に、多くの病院が寝たきり老人や、褥瘡をつくってきました。また、リハビリをして歩けるようにして退院させても、家に帰ると寝たきりになる老人も多いのです。病院やケア施設や地域でのリハビリヘの<132<取り組みについて、日本は欧米にはるかに及びません。
 しかし、重症の、いわゆる「植物状態」の患者もあまり欧米では見かけません。欧米では、老人医療やターミナルケアについては、どちらかといえばクールであるように思います。

終末期医療を考える難しさ
 最近は、医療費の無駄の話題になると、すぐにターミナルケアの問題が出てきます。どうせ死ぬことがわかっているのだから、お金のかかる治療をする必要はないという意見があります。
 厚生労働省が二〇〇一年三月に出した『医療制度改革の課題と視点』では、「終末期医療」、「死亡場所の変化と延命治療に対する考え方」、「終末期における医療費」、「終末期医療の考え方」の四項目をあげ、三ページわたって高齢者の終末期医療について書いてあります。
 死に場所が病院に偏ってきていることについては、社会的入院の節でも書きましたが、本人にとっても好ましいものではありません。在宅医療や在宅介護の体制を強化したり、住宅政策を充実させながら、本人の希望添うかたちで、在宅で看取れるように進めることが必要です。
 しかし、高齢者医療の専門化である横内正利医師が、インタビュー(二〇〇一年二月二五目「朝日新聞」、同年六月一九日「読売新聞」)に答えているように、いくつかの問題があります。
 まず、厚生労働省力パンフレットでは、「単なる延命治療を望まない人も約七割」と書いてありますが、これは正しい表現ではないことです。質問の内容は「痛みを伴い、治る見込みがないだけでな<133<く、死期が追っていると告げられた場合、単なる延命だけのための治療をどう考えますか」というものです。高齢者の場合、痛みが伴わない末期も少なくありませんし、慢性の病気の場合、死期が追っているかどうかの判断も難しいのです。どこからを末期というのかということも問題ですが、はなはだしい研究では、死亡一年前からを末期とみなすようなひどいものもありました。
 また高齢者の場合、慢性疾患でだんだんに弱っていくことが多いのですが、肺炎などの急性期疾患にもかかりやすくなります。そのときに適切な治療をすれば回復しますが、放っておけば確実に死期を早めます。二〇〇一年秋の臨時国会で、高齢者にインフルエンザの予防接種をする法案が成立しました。数年前にインフルエンザが大流行したときに、かなりの数の老人が肺炎を併発して死亡しましたが、そういったことを防ぐことも、この法律改正の目的としてあげられました。予防接種も意味がありますが、そのときの集団死亡例をみると、ある特定の施設に偏っていたことがはっきりしています。つまり、ある特定の施設では、入所者への医療サービスが十分ではなかったのです。おそらくこういった施設では、日常のケアも、入所者の立場に立った温かいものではなかったのではないかと推測できます。
 医療費については、厚生労働省のパンフレットにも書いてあるように、死亡した月の医療費が高いという研究もあれば、医療費全休に占める終末期医療費の割合は少ないので、医療費を削減する効果は少ないという研究もあります。費用面から終末期医療を取り上げるにはデータ不足なのです。
 日本人一人当たりの生涯医療費は平約二三〇〇万円かかり、七〇歳を過ぎてからその半分以上を使<134<っているという計算がありますが、これは終末期医療費ではありませんし、老人医療のおり方の問題に関係することです。

QOLが悪用される危険性
 また、最近では「QOL(生活の質)」が重視されていますが、横内氏は、「高齢者医療に限らずQOLの維持・向上は医療の重要な使命である。『QOLの低い状態で生きていても仕方がない』という考え方が広まりつつあり、QOLという言葉が高齢者切り捨てに悪用されようとしている」と警告を発しています。
 患者や家族の求めることと関係なく、「一分一秒でも命を長引かせたい」とがむしゃらにがんばり、いわゆる「スバゲッッティー症候群」をつくりだし、家族の手も握れず、最後の話もできないままに死にしていくよう々医療行為は問題ですが、だんだん死期が近づいてくる患者が人間としての尊厳を保ち続けられるように、ときどきに起こる肺炎などの急性疾患をきちんと治しながらQOLの低下を防いでいくのが、立派な高齢者医療というものではないでしょうか。
 そして何よりも、横内氏が指摘するように、「高齢者医療について系統だったノウハウは蓄積されていないといっても過言ではない。多くの医科大学に老人科が設置されており、また四〇年の歴史をもつ日本老年医学会という医師の団体もあるが、いずれも高齢者にふさわしい医療のあり方を研究しているとはいいにくい,むしろ地域医療に取り組む医師たちのほうが高齢者医療に詳しいのではない<135<か」というのが実情です。
 医療と介護、さらには健康づくりと連携、そして慢性疾患、急性疾患、終末期の相同的で系統的なプログラムを急いでつくることが先決だと思います。」(今井 2002:136)

 「まず、出来高払いが今どのように医療を歪めてしまっているか、という点から話をはじめます。
 出来高払いの欠点の第一は、診療が過剰になりやすいことです。(中略)<156<
 出来高払いの欠点の二つ目は、過剰診療とはいえないまでも、同じ種類の診療行為であればより点数の高いものを選びがちになるということです。(中略)
 出来高払いの三番目の欠点は、「点数表にあるものはやるが、ないものはやらない」という傾向になることです。」(今井 2002:156-157)

◆額田 勲 20020509 『いのち織りなす家族:がん死と高齢死の現場から』 岩波書店,212p. ISBN-10:4000221191 ISBN-13:978-4000221191 [amazon][kinokuniya] ※ a06 c09 d01 t02

◆武田 純郎・森 秀樹・伊坂 青司 編 20020520 『生と死の現在――家庭・学校・地域のなかのデス・エデュケーション』,ナカニシヤ出版,288p. 2600+税 ISBN-10: 4888486905 ISBN-13: 978-4888486903 [amazon][kinokuniya] ※ d01

◆白木 克典・荒岡 茂・石井 暎禧 20020601 「死亡高齢者の医療費は本当に高いのか――入院医療費の年齢階層分析・1〜2」
 『病院』61-6別冊(2002.6.1), 61-7別冊(2002.7.1)
 http://www.sekishinkai.org/ishii/hp617-1.htm
 http://www.sekishinkai.org/ishii/hp617-2.htm
 『病院』61-7:http://www.igaku-shoin.co.jp/prd/00118/0011849.html

◇立岩 真也 2002/07/25 「出口泰靖・野口裕二」(医療と社会ブックガイド・18),『看護教育』2002-07(医学書院)

◆池上 直己・Campbell, John C. 著/高木 安雄 監修・訳 20020720 『高齢者ケアをどうするか――先進国の悩みと日本の選択』,中央法規出版,256p. ASIN: 4805820489 3150 [amazon][boople]  ※, b a06

新村 拓 20020725 『痴呆老人の歴史――揺れる老いのかたち』,法政大学出版局,202p. 2200 ※ * b a06

◆黒川 由紀子 編 20020820 『老人病院――青梅慶友病院のこころとからだのトータルケア』,昭和堂,243p. ASIN: 4812202256 1575 [amazon][boople] ※ b a06 ts2008a

◆Palamore,Erdman Ballagh 1999 Ageism : Negative And Positive, 2nd Edition, Spring Publishing Company=20020930 鈴木 研一 訳,『エイジズム――高齢者差別の実相と克服の展望』,明石書店,明石ライブラリー43 422p.ISBN:4-7503-1627-X 5000 [amazon] ※ ** b a06

斎藤 義彦 20021225 『死は誰のものか――高齢者の安楽死とターミナルケア』,ミネルヴァ書房,240p. ISBN:4-623-03658-8 2000 ※ [amazon][boople][bk1] ※ b d01 et t02
◇立岩 真也 2003/08/25 「その後の本たち・1」(医療と社会ブックガイド・30),『看護教育』44-08(2003-08):(医学書院)

■2003

◆日本経済新聞社 20030123 『医療再生』
第6章 変わる力学 PP.158-
4 負担限界の老人医療費
 東京都内の医療機器レンタル会社。健康保険組合(約1400人加入)の理事長でもある社長は最近70歳以上の親を扶養している管理職を社長室に呼んで医療費節減に協力を求めている。健保組合の財政立て直しのため、2002年4月には大なたも振るった。月収の8.8%としていた保険料率を法定上限の9.5%まで引き上げ。医療費の自己負担分の一部を払い戻す制度も健保組合の負担が減るように基準額を大幅に上げた。財政悪化の最大の原因は、「老人保健制度」に基づく拠出金負担だ。同制度は全国の高齢者(70歳以上)が使った医療費を健保組合や国民健康保険、政府管掌保険、公務員らの共済組合など全国に約5200ある公的医療保険が均等に負担する。2001年度に全国の高齢者が使った約11兆円の医療費のうち、税や自己負担分を除いた7兆円を拠出金で賄った。<0158<この健保組合の場合、加入している高齢者が実際に使った医療費は約2600万円だったが、保険料収入の3分の1にあたる約8300万円を老人保健制度に拠出した(同年度)。各保険制度が均等に負担する仕組みであるため、高齢者が少ない保険ほど実際に使った医療費より多くの拠出金を払うことになる。高齢者の加入率が平均2.7%と低い健保組合は、同26.2%の国保に比べ“不利”になるのは明らかだ。<0159<

 …老人保健制度がつくられた背景には、高度成長期の老人医療費無料化政策がある。1969年、東京都と秋田県が高齢者の医療費を事実上無料家すると、瞬く間に全国の自治体に広がり、73年、国も無料化に踏み切った。これをきっかけに受診が増えて高齢者医療費が猛烈に膨らむ。74年度は前年比55.1%増、75年度は30.3%増。このままでは高齢者が多く加入している国保財政が破綻するとの危機感が強まり、新たな負担ルールとして83年に導入されたのが老人保健制度だ。<0159<

 「拠出金の法的根拠があいまいだ。研究の結果次第では訴訟も辞さない」全国約1700の健保組合をまとめる健康保険組合連合会が2002年9月5日に開いた常任理事会で、下村健副会長は老人保健制度に基づく拠出金の法的性格を研究するワーキングチームをつくることを訴え、認められた。増え続ける高齢者の医療費を賄う救出金負担などで、約8割の健保組合は赤字状態。制度に対する不満は爆発寸前だ。このため厚生労働省では老人保健制度に代わる新たな制度の検討を進めている。浮上しているのは加入者の年齢が若くて所得も多い医療保険制度が、年齢が高くて所得も少ない医療保険制度を財政支援する仕組み。だが、この形に変えても、余裕のある健保組合などが苦しい国保を支援する図式は変わらない。自民党などには医療費を賄う財源として消費税などの税を多く投入すべきだとの意見もある。こ<0160<の場合、健保組合の負担は抑えられるが、国民の反発は避けられない。医療費の財源は税と保険料、自己負担の3つしかない。西村周三・京大教授は「年金も含めて保険料と税を一体で議論しなければ関係者間の公正な負担のあり方は見えてこない」と指摘する。医療費の負担ルールを改革するには、保険料は厚生労働省、税は財務省という縦割り行政も崩す必要がありそうだ。<0161<

 「中医協に看護職代表を参加させてください」。日本看護協会の陳情に、厚生労働省幹部は事務的に応える。「まあ、検討しておきますよ」。ここ二十年間何度も繰り返された光景だ。<0162<…「中医協の医療側委員は8人中5人が日本医師会推薦で、病院より開業医の利益を優先しがちだ」と同協会の岡谷恵子専務理事は指摘する。病院団体同士の対立が病院の発言力を弱めてきた側面はある。公立病院も加盟する日本病院協会(日病)と、民間病院だけで構成する全日本病院協会(全日病)は、いったん決めた合併を路線対立から白紙に戻したが、診療報酬引下げなど経営環境が厳しさを増す中で、再び接近している。<0163<

天田 城介 20030228 『<老い衰えゆくこと>の社会学』,多賀出版,595p. ISBN:4-8115-6361-1 8500 [amazon][bk1] ※ b **
◇立岩 真也 2004/02/01 「二〇〇三年読書アンケート」,『みすず』46-1(2004-1・2)
◇立岩 真也 2006/03/25 「天田城介の本・1」(医療と社会ブックガイド・58),『看護教育』47-03(2006-03):-(医学書院)
◇立岩 真也 2006/05/25 「次に何を書くかについて――天田城介の本・2」(医療と社会ブックガイド・60),『看護教育』47-05(2006-05):-(医学書院)

山口 昇 200303 「寝たきりゼロを目指す医療」
公立みつぎ総合病院、御調町保健医療福祉管理者 山口 昇先生
インタビュアー ニッポン放送アナウンサー 那須恵理子
http://kk.kyodo.co.jp/kenko/thema/20030317.htm
http://kk.kyodo.co.jp/kenko/thema/20030318.htm
http://kk.kyodo.co.jp/kenko/thema/20030319.htm
http://kk.kyodo.co.jp/kenko/thema/20030320.htm
http://kk.kyodo.co.jp/kenko/thema/20030321.htm
4日目『理想の死はピンピンコロリ』
http://kk.kyodo.co.jp/kenko/thema/20030320.htm
――今日は「理想の死はピンピンコロリ」というお話なんですけれども、たしかに健康に暮らしていて寝たきりにならないで、コロッというのが一番いいと思うんですが、なかなか難しい。
山口  おっしゃるとおりでしょうね。だから、いくら平均寿命が世界一になって延びても、寝たきりで長生きというのはあまり感心しませんよね。だから、やっぱり病気にならないようにしよう、これが一番だと思います。それが国の「健康日本21」、こういう一次予防という、せめていわゆる生活習慣病をなくそうと。
――でも、やっぱり年を取ればあちこち具合の悪いところが出てきますし、けがもしますし。
山口  おっしゃるとおり。一次予防だけではやっぱり不十分。いったん病気をしたときに、それが寝たきりにならないようにすること、これが2番目に大事になるわけですね。
――寝たきりになったりとか、介護のお世話になったりというのは、周りも大変ですけれども、本人もつらいですよね。
山口  とにかく病気にならないようにすること、しかし、なっても寝たきりにつながらないようにすること、この2つが大事なんじゃないでしょうか。
――そのためにはどうしたらいいか。
山口  そういうことで国は「健康日本21」を作りましたけれども、御調町では国の「健康日本21」に「介護予防」というのをプラスして、「健康御調21」というのを作っています。それから、一次予防プラス介護予防ですね。この2つで、できるだけ寝たきりの期間を縮めていくというのが、健康寿命を延ばすということにつながっていくんだろうと思いますね。そういう意味では寝たきりを防止して、そして一次予防を徹底させながら寝たきりにならないようにして、そしてピンピンコロリと、このような発想が必要になるんじゃないでしょうか。
――病気にならずに、なってもリハビリをすることで寝たきりにならないようにして。
山口  おっしゃるとおりで、私は「長命」、単なる長生きと「長寿」は少し違うと思っているんです。
――長い命と長い寿という長寿ですね。
山口  昔から、還暦、「古来まれなり」古希の70歳に始まりましたね。そして77歳の喜寿、88歳の米寿、卒寿、と「寿」がみんな付いていますよね。この寿というのは単なる長命じゃないと思うんですね。やっぱり人間としてまともに、自分の一生を終えて良かったなと思えるような、そういうふうなのがやはりピンピンコロリにつながる発想なんじゃないかなと思います。
――先生、今日の「健康ワンポイント」お願いします。
山口  「寝たきり防止で天寿をまっとう」。

◆田尾 雅夫・西村 周三・ 藤田 綾子 編 20030410  『超高齢社会と向き合う』 ,名古屋大学出版会,236p. ASIN: 4815804621 2940 [amazon][boople] ※, b a06

 保険・年金・医療・介護制度 西村 周三 168-188
 「「どちらかと言えば」どちらを望むのかの意向を、必ずしも本人から聞き出しにくいという事情がある。なぜなら、家族に対する遠慮や配慮によって、本音が語られにくいからである。極端に言えば、日本人にとっては、老人の身体や心が、本人だけのものではなく、家族のものではないかとはさえ思わざるを得ない状況がある。そういった思いやりの精神は、確かに日本のよく伝統ではあるが、同時に問題の解決を難しくしている。
 一例をあげれば、一定の介護を要する期間を終え、いよいよ終末に近い状態を迎えたとき、いわゆる「死に場所」としてどこを選ぶか、という問題である。どちらかと言うと、本人は、自宅でのあまり過度な医療行為が行われ<0187<ない状況を選びがちであるが、家族の方は、少しでも長い延命を願って、病院への入院を望むことが多い。もちろん、この背後には、純粋な延命の期待と家族での介護の負担の忌避とが相混ざっている。しかもこの際、本人も、家族への思いやりから、本音を語ることをしない。結果的には、より医療機器などが整備した(ママ)施設が選ばれることになるのである。
 厄介なのは、国民の中に、医師が「終末の時期」をある程度的確に予測できるという期待と誤解がある点が、より問題を複雑にする。その結果、医療費も介護費用も、やや過大と思われる程度にまで費消されることが多いのである。」(西村[2003:187-188])

 変化に対する適応力 西村 周三 223-231
 「北欧が、かつて超高齢社会を迎えるに際して経験した次のような例が参考になる。いわゆる後期高齢者を大量に抱えることを最初に経験したのは北欧諸国であるが、この時期に、北欧は、いわゆる「寝たきり老人」を最小限にすることに成功した。それは医学の発展の成果を受け入れることで成功したのではなく、それまで医学分野ではいわばマイナーな技術であった「リハビリテーション」に政策の力点をおくことで成功した。80年代頃から、スウェーデンは、後期高齢者を大規模病院に「収容」することで、社会保障を充実することから、在宅ケアを重視し、生活の場でのリハビリに力点をおくことで、意外にも寝たきりの高齢者を減少させることに成功したのである。
 このような試みは、いまでは世界の主要先進諸国では当たり前のことになっているが、政策が打ち出された当初は、多くの偏見と不満があったことが想像できる。いまでは、多くの研究者は、この変化を「健康変換(health transition)と呼び、高く評価しているが、この転換は、研究室や病院での<0230<医学の技術進歩から生まれたのではなく、まさに「変化に対する、社会制度の柔軟な適応力」から生まれたと言ってよい。」(西村[2003:230-231]

◆水野 肇 20030520 『老いかた上手――PPKの大往生をめざして』,主婦の友社,191p. ISBN-10: 4072372390 ISBN-13: 978-4072372395 1365 [amazon][kinokuniya] ※ b a06

 「人間じたばたしても死ぬ時は死ぬ。最期まで自分のことは自分でできて苦しまずに死を迎えたい。本書では、これをPPKと言っています。PPKとは、「ピンピンコロリ」の略で、ピンピン元気に生きて、最期はコロリと大往生することです。それには、どのように老いを過ごせばいいのかについて述べています。」

小沢 勲 20030718 『痴呆を生きるということ』,岩波新書新赤0847,223p. ISBN:4-00-430847-X 777 [amazon][boople] ※ b

向井 承子 20030825 『患者追放――行き場を失う老人たち』,筑摩書房,250p. ISBN:4-480-86349-4 1500 [amazon][boople][bk1] ※ b
◇立岩 真也 2003/10/25 「向井承子の本」(医療と社会ブックガイド・31),『看護教育』44-9(2003-10):784-785(医学書院)

◆日本老年医学会 編 20031220 『老年医療の歩みと展望――養生訓から現代医療の最先端まで』,日本老年医学会,発売:メジカルビュー社,329p. ISBN-10: 4758302677 ISBN-13:978-4758302678 8400 [amazon] ※

■2004

大岡 頼光 20040225 『なぜ老人を介護するのか――スウェーデンと日本の家の死生観』,勁草書房,253p.ISBN:4-326-65290-X 2800 [amazon] ※ **

天田 城介 20040330 『老い衰えゆく自己の/と自由――高齢者ケアの社会学的実践論・当事者論』,ハーベスト社,394p. ISBN:4-938551-68-3 3800 [amazon][boople][bk1] ※ b **
◇立岩 真也 2006/03/25 「天田城介の本・1」(医療と社会ブックガイド・58),『看護教育』47-03(2006-03):-(医学書院)
◇立岩 真也 2006/05/25 「次に何を書くかについて――天田城介の本・2」(医療と社会ブックガイド・60),『看護教育』47-05(2006-05):-(医学書院)

斎藤 義彦 20040630 『アメリカおきざりにされる高齢者福祉――貧困・虐待・安楽死』,ミネルヴァ書房,MINERVA福祉ライブラリー66,249p. ISBN:4-623-03996-X 2625 [amazon][bk1] ※

◆終末期医療に関する調査等検討会.200407.『終末期医療に関する調査等検討会報告書――今後の終末期医療の在り方について』(平成16年7月).
 http://www.mhlw.go.jp/shingi/2004/07/s0723-8.html

◆小澤 勲・土本 亜理子 200409 『物語としての痴呆ケア』,三輪書店,309p. ISBN: 4895902153 [amazon]

◆山田 富秋 編 20040930 『老いと障害の質的社会学――フィールドワークから』,世界思想社,273p. ISBN:4-7907-1082-3 1890 [amazon][bk1] ※

■2005

◆小澤 勲 20050318 『認知症とは何か』,岩波新書・新赤版942,208p. ISBN4-00-430942-5 C0247 735(700+) [boople][amazon] ※

◆大久保 一郎・武藤 正樹・菅原 民枝・和田 努 20050723 『これからの高齢者医療――団塊の世代が老いるとき』,同友館,184p. ISBN-10: 4496039923 ISBN-13: 978-4496039928 2100 [amazon] ※ b a06

◇武藤 正樹 20050723 「少子高齢化と「ぴんぴんころり」(PPK) 」,大久保・武藤・菅原・和田[2005:77-109]
 「高齢者の医療は今、最大のピンチを迎えている。
 このため、今、全国の目が長野県に集まっている。理由は、長野県は男性の平均寿命は日本一、女性も第3位と長寿健康県で、しかも老人医療費が全国で一番少ないからである。次に全国の自治体が注目する長野の秘密をみていこう。」(武藤[2005:97])
 (1) 長野県の秘密・その1――よく働き学ぶ県民性
 (2) 長野県の秘密・その2――保健予防活動がさかん
 (3) 長野県の秘密・その3――保健医療を率いるリーダーの存在
 (4) 長野県の秘密・その4――病院や医師が少ない
 (5) 長野県の秘密・その5――在宅死亡割合が高い

和田 努 20050723 「高齢者医療を考える」,大久保・武藤・菅原・和田[2005:129-141]
 1健康転換からみた高齢者医療
 長谷川敏彦「日本の健康転換のこれからの展望」
 「ここで肝心なことは、老人の遅発退行性病変は、治癒することはなく、不可逆的に退行していく「障害」と捉えていることである。つまり「治療」(Cure)の対象ではなく「癒し」(Care)の対象であることを確認していることである。延命至上主義(Vitalism)を否定している。」(和田[2005:131])
 2終末の儀式
 終末の儀式:イリッチ『脱病院化社会』
 「キャラハンの三原則は、おおむね私は賛成である。[…]しかし、私は「自然な寿命を全うした年齢」を正確な暦年齢をきめる<0133<ことには賛成できない。
 「自然な寿命を全うした」という判断基準は、画一的であってはならない。その判断は個々の患者に対して、そのつど慎重に判断すべきである。」(和田[2005:133-134])
 「人工透析をある年齢で打ち切るという意見もある。例えば、80歳で打ち切るとする。現に透析を続けていることでQOL(生命・生活の質)をよい状態で維持している人に、80歳になったからという理由で、透析を打ち切ることは許されることではない。しかし、ターミナル期にある腎不全の高齢の患者に透析をすれば、わずかに延命ができるという理由で透析をするのは、私は反対である。これは”終末の儀式”だからだ。このような延命至上主義は、捨てるべきである。」(和田[2005:135])
 3 痴呆をどう考えるか
 「私は、十数年前、86歳で逝った父のことがよみがえる。ターミナル期の短い期間入院させた。余命いくばくもない父に、若い主治医は人工透析を勧めた。勧めたというよりは強制したと言ったほうがいい。私は断固断った。主治医は「あんたは息子として、父親が早く死ぬのを望んでいるのか」と言った。頑なに断った。しかし、父の口元には人口呼吸器が取り付けられた。父はもう意識はないのに、苦しそうに喘いだ。いまだにその苦しそうな喘ぎが耳元から離れない。
 いまも「終末の儀式」は多くの病院で繰り返されているはずだ。医療経済から言っても、旧弊な「延命至上主義」から抜け出ることが必要だ。」(和田[2005:135])

◆20051001 介護保険法の一部改定
 http://www.mhlw.go.jp/topics/kaigo/hoken/seido.html

■2006

◆小澤 勲・黒川 由紀子 20060120 『認知症と診断されたあなたへ』,医学書院,136p. ISBN: 4-260-00220-1 1600 [boople][amazon] ※,
◇立岩 真也 2006/04/25 「『認知症と診断されたあなたへ』」(医療と社会ブックガイド・59),『看護教育』47-04(2006-04):-(医学書院)[了:20060227]

◆井戸 美枝 20060201 『図解 医療保険の改正早わかりガイド』,日本実業出版社,168p. ISBN-10: 4534040342 ISBN-13: 978-4534040343 1470 [amazon][kinokuniya] ※ a06.,

◆厚生労働省.200603「介護保険制度改革の概要〜介護保険法改正と介護報酬改定〜」(平成18年3月発行)
 http://www.mhlw.go.jp/topics/kaigo/hoken/seido.html
 http://www.mhlw.go.jp/topics/kaigo/topics/0603/dl/data.pdf

◆厚生労働省研究費補助金長寿科学総合研究事業「高齢者の終末期ケアと医療と福祉の分担と連携に関する研究」.200603.平成17年度総括・分担研究報告書及び平成16年度,17年度総合研究報告書.(勝又義直)2006.3. -- 27p ; 30cm JP: 21014090
 http://www.ndl.go.jp/jp/publication/jnbwl/jnb_b200619m.html

◆厚生労働省研究費補助金長寿科学総合研究事業(国際共同研究事業)「高齢者の終末期ケアと医療と福祉の分担と連携に関する国際共同(国際比較)研究」.200603.平成17年度総括・分担研究報告書及び平成16年度,17年度総合研究報告書(勝又義直)2006.3. --72p; 30cm JP:21014094
 http://www.ndl.go.jp/jp/publication/jnbwl/jnb_b200619m.html

小澤 勲 20060501 『ケアってなんだろう』,医学書院,300p ISBN:4-260-00266-X 2000 [boople][amazon] ※,
◇立岩 真也 2006/06/25 「『ケアってなんだろう』」(医療と社会ブックガイド・61),『看護教育』47-06(2006-06):-(医学書院)
◇立岩 真也 2006/07/25 「『ケアってなんだろう』・2」(医療と社会ブックガイド・62),『看護教育』47-07(2006-07):-(医学書院)

◆滝上 宗次郎 20060608 『やっぱり「終のすみか」は有料老人ホーム』,講談社,253p. ISBN-10: 4062824043 ISBN-13: 978-4062824040 1680 [amazon] ※ b a06 ts2008a

◆学術の動向 200606 『学術の動向』(特集 終末期医療――医療・倫理・法の現段階)2006年06月号
 http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/2006-06.html
◆町野 朔 200606 「終末期医療――医療・倫理・法の現段階」(特集 終末期医療――医療・倫理・法の現段階)『学術の動向』2006年06月号 
 http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/pdf/200606/0606_0809.pdf
◆垣添 忠生 200606 「終末期医療の医療的側面」(特集 終末期医療――医療・倫理・法の現段階)『学術の動向』2006年06月号 
 http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/pdf/200606/0606_1015.pdf
◆金澤 一郎 200606 「アルツハイマー病とALSの終末期医療」(特集 終末期医療――医療・倫理・法の現段階)『学術の動向』2006年06月号 
 http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/pdf/200606/0606_1619.pdf
◆水田 代 200606 「小児医療におけるターミナルケアー」(特集 終末期医療――医療・倫理・法の現段階)『学術の動向』2006年06月号
 http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/pdf/200606/0606_2026.pdf
◆植村 和正 200606 「高齢者の終末期医療」(特集 終末期医療――医療・倫理・法の現段階)『学術の動向』2006年06月号 
 http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/pdf/200606/0606_2733.pdf
 「「立場表明」作成の過程で、倫理委員会案に対する日本老年医学会学術評議員全員へのアンケート調査が行われた。「立場表明」を出すことを含めて倫理委員会案に対してほとんどの評議員から賛同が得られたが、反対意見もあった。それを要約すると以下の二点である。「高齢者の終末期には未だ明確な基準がない。時期尚早である。このような時期に学会としての立場を表明すると医療費抑制のよりどころとして行政に利用されかねない」、「高齢者の終末期は老年医学会だけが責任を負うものではない。この国のすべての学会あるいは医師会などが責任を負うものである」(植村2006:)
 「上述した高齢者特有の事情により、終末期の医療およびケアにおいていくつかの問題が生じることになる。老衰等の死に向かう過程で生じる「摂食不能」がその一つである。摂食不能を放置したいわゆる老衰死の場合、それは脱水死であり通常苦しみは少なく死亡までの期間も短く治療による苦痛もない。ヨーロッパ諸国ではこのような場合に人工栄養を施さないで安らかに「死なす」ことが社会的合意として定着しているようである 2)。しかしながら、日本ではこのような場合に補液などの医療処置を行わない例はきわめて少ない」(植村 2003:28)
※上記2)の参照文献は以下。
2)横内正利 1998 「高齢者の終末期とその周辺――みなし末期は国民に受け入れられるか」『社会保険旬報』1976 13-19
◆川村 佐和子 200606 「ALS患者の在宅医療をめぐる諸問題」(特集 終末期医療――医療・倫理・法の現段階)『学術の動向』2006年06月号 
 http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/pdf/200606/0606_3438.pdf
◆井田 良 200606 「日本の安楽死裁判」(特集 終末期医療――医療・倫理・法の現段階)『学術の動向』2006年06月号 
 http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/pdf/200606/0606_3944.pdf
◆矢島 基美 200606 「終末期医療と憲法」(特集 終末期医療――医療・倫理・法の現段階)『学術の動向』2006年06月号
 http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/pdf/200606/0606_4549.pdf

◆宮武 剛 20060710 『介護保険の再出発――医療を変える・福祉も変わる』,保健同人社,239p. SBN-10: 483270317X ISBN-13: 978-4832703179 2000 [amazon] ※ b a06

◆厚生労働省保険局 20060922 「後期高齢者医療の在り方に関する特別部会の設置について」
 http://www.mhlw.go.jp/shingi/2006/09/s0922-4.htm
後期高齢者医療の在り方に関する特別部会 委員
遠藤 久夫 学習院大学経済学部教授
鴨下 重彦 国立国際医療センター名誉総長
川越 厚  ホームケアクリニック川越院長
高久 史麿 自治医科大学学長
辻本 好子 NPO法人ささえあい医療人権センターCOML理事長
糠谷 真平 独立行政法人国民生活センター理事長
野中 博  医療法人社団博腎会野中医院院長
堀田 力  弁護士・さわやか福祉財団理事長
村松 静子 在宅看護研究センター代表
(50音順、敬称略)
◇後期高齢者医療の在り方に関する特別部会資料
 http://www.mhlw.go.jp/shingi/2006/09/s0922-4.htm
 http://www.wam.go.jp/wamappl/bb11GS20.nsf/aCategoryList?OpenAgent&CT=10&MT=010&ST=170
→◆200710 社会保障審議会後期高齢者医療の在り方に関する特別部会「後期高齢者医療の診療報酬体系の骨子」の公表について http://www.wam.go.jp/wamappl/bb11GS20.nsf/vAdmPBigcategory10/F0A0397154A377F44925737D000BE35D?OpenDocument
 http://www.mhlw.go.jp/shingi/2007/10/s1010-7.html

老人の専門医療を考える会 2006/09 「高齢者の終末期ケアのあり方について――老人の専門医療を考える会の見解」
 http://ro-sen.jp/tokai/terminalcare.html
 「…(略)…したがって、管の挿入や人工呼吸器の装着については、開始するかどうかにすべてが掛かっていると言っても過言ではなく、この時点での患者・家族およびスタッフとの合意が、すべてである。少なくとも医師一人の判断で、生命維持に直結する処置の中止は厳禁であると心得るべきである。…(略)…」(老人の専門医療を考える会 20061116)
 「…(略)…現在の慢性期医療費抑制策は、二木立氏が指摘するように「日本療養病床協会が介護力強化病院の時代から営々と築いてきた高齢者への『良質な慢性期医療』の提供が根底から崩され、30年前の『悪徳老人病院』が復活する可能性」の危機に瀕している。今回の提言が「高齢者の尊厳ある死」の実践に役立てば幸甚である」(老人の専門医療を考える会[200609])

◆高齢者医療制度研究会 20061210 『新たな高齢者医療制度――高齢者の医療の確保に関する法律(概説と新旧対照表)』,中央法規出版,243p,ISBN-10: 4805847042 ISBN-13: 978-4805847046 2310 [amazon][kinokuniya] ※ a06.

◆日野 秀逸・寺尾 正之・国民医療研究所 20061225 『「医療改革法」でどうなる、どうする』,新日本出版社,173p. ISBN-10: 4406033351 ISBN-13: 978-4406033350 1470 [amazon][kinokuniya] ※ a06.,

◆小倉 康嗣 20061225 『高齢化社会と日本人の生き方――岐路に立つ現代中年のライフストーリー』,慶應義塾大学出版会.601p. ISBN-10: 4766413202 ISBN-13:978-4766413205 5880 [amazon] b a01
天田 城介 20070701 「老い・3」(世界の感受の只中で・03),『看護学雑誌』71-07(2007-07).**-**.医学書院.
 http://www.josukeamada.com/bk/bs07-3.htm

■ 2007

■ 2008

■ 2009
 



◆第1回社会保障審議会後期高齢者医療の在り方に関する特別部会資料(平成18年10月5日) http://www.wam.go.jp/wamappl/bb11GS20.nsf/vAdmPBigcategory10/9D17DF2F2F39C32A49257203001651DC?OpenDocument
◆第2回社会保障審議会後期高齢者医療の在り方に関する特別部会資料(平成18年10月25日開催) http://www.wam.go.jp/wamappl/bb11GS20.nsf/vAdmPBigcategory10/B5AA02D99204F26B492572140006A4E2?OpenDocument
◆第3回社会保障審議会後期高齢者医療の在り方に関する特別部会資料(平成18年11月6日開催) http://www.wam.go.jp/wamappl/bb11GS20.nsf/vAdmPBigcategory10/696B815286F0EA584925722000061055?OpenDocument
◆第4回社会保障審議会後期高齢者医療の在り方に関する特別部会資料(平成18年11月20日開催) http://www.wam.go.jp/wamappl/bb11GS20.nsf/vAdmPBigcategory10/4CF3CFC1122C33354925722D0026DFD6?OpenDocument
◆第5回社会保障審議会後期高齢者医療の在り方に関する特別部会資料(平成18年12月12日開催) http://www.wam.go.jp/wamappl/bb11GS20.nsf/vAdmPBigcategory10/23CE16303DBC18BB4925724300097C6B?OpenDocument
◆第6回社会保障審議会後期高齢者医療の在り方に関する特別部会資料(平成19年2月5日開催) http://www.wam.go.jp/wamappl/bb11GS20.nsf/vAdmPBigcategory10/D198A1185C72410F4925727B000434B6?OpenDocument
◆第7回社会保障審議会後期高齢者医療の在り方に関する特別部会資料(平成19年3月29日開催) http://www.wam.go.jp/wamappl/bb11GS20.nsf/vAdmPBigcategory10/EE9BF9B445894EAF492572B2000557EF?OpenDocument
◆第8回社会保障審議会後期高齢者医療の在り方に関する特別部会資料(平成19年6月18日開催) http://www.wam.go.jp/wamappl/bb11GS20.nsf/vAdmPBigcategory10/1020E30DDD00473449257300001E60AB?OpenDocument
◆第9回社会保障審議会後期高齢者医療の在り方に関する特別部会資料(平成19年7月6日開催) http://www.wam.go.jp/wamappl/bb11GS20.nsf/vAdmPBigcategory10/585E814525748F6549257313002CAC5A?OpenDocument
◆第10回社会保障審議会後期高齢者医療の在り方に関する特別部会資料(平成19年7月30日開催) http://www.wam.go.jp/wamappl/bb11GS20.nsf/vAdmPBigcategory10/11FB8202CB81E0884925732A000BE535?OpenDocument
◆第11回社会保障審議会後期高齢者医療の在り方に関する特別部会資料(平成19年9月4日開催) http://www.wam.go.jp/wamappl/bb11GS20.nsf/vAdmPBigcategory10/634E8961B6C858FB4925734D002C5785?OpenDocument
◆第12回社会保障審議会後期高齢者医療の在り方に関する特別部会資料(平成19年10月4日開催) http://www.wam.go.jp/wamappl/bb11GS20.nsf/vAdmPBigcategory10/E6A694FA4F15ECBF4925736F002655D2?OpenDocument


*作成:-2007:天田城介立岩真也 2008-:老い研究会
UP:20040828 REV:2021, 20060428, 1213, 20070319, 24,1220(ファイル分離), 21, 24, 25, 30, 31, 20080105, 07, 0213, 0329, 0425, 20090224, 20101119
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