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『患者追放――行き場を失う老人たち』

向井 承子 筑摩書房,250p. ISBN:4-480-86349-4 1500


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向井 承子 20030825 『患者追放――行き場を失う老人たち』,筑摩書房,250p. ISBN:4-480-86349-4 1500 [amazon][kinokuniya][bk1] ※, b d01

■内容説明[bk1]
 「えっ、こんな重症者がどうして在宅なの? 病院に入院を拒まれたり、治療を拒否される老人が急増している。老人や重症患者をとりまく環境はなぜ激変したのか。「健康でないかぎり淘汰されるいのち」の時代のはじまりなのか。」

■引用

 「やがて、過剰医療ということばが生まれる。患者がまるで検査やクスリを消費するだけの存在、病院を支える道具のように扱われることになる。
 それは患者が選んだことではなく、医療関係者たちが患者を医療経営のコマとして扱う羽目に自ら負い込まれる、いわば自縄自縛の落し穴にはまってしまった結果なのだが、そのころから今度は、家族もかかわりようのない高度医療の場で死んでいく人たちのことが問題視されるようになった。患者の治療にも、まして孝不孝にもかかわりなしに湯水のように患者にお金がかけられるようになり、スパゲッティ症候群ということばが生まれてきた。そして、当然のように病院で医療に頼って生き続けるおとしよりの存在が財政面から問題視されることとなって、いまでは、医療が必要な人もそうでない人も一気呵成に医療から追放されようとしている。」(向井[2003:8])

 「最近(1997年末)、財団法人「長寿社会開発センター」というところから出た「福祉のターミナルケア」についての報告書を読んだ。ターミナル・ケアとは直訳すれば「終末期のケア」ということになるのであろうか。末期医療と訳されることもあり、使うものの意図を反映しやすいことばだと以前から思っていたのだが、この報告書でもやはりターミナル・ケアが実に戦略的に位置づけられているように感じた。まず、冒頭部の論文が「死は医療のものか?」との見出しで始まる。そして、これまでの「メディカル・タームで語られるターミナルケア」から「ノン・メディカルな、つまり医学的な介入の必要性の薄い……長期ケアないし『生活モデル』の延長線上にあるような、いわば『福祉のターミナルケア』が非常に大きな位置を占める」と問題提起をしてから、「『政策としてのターミナルケア』の課題」の検討に入っていく。/たった、数行の引用だが、医療や福祉関連の論文は難解で片仮名ことばの援用が多いものなのである。メディカルタームとか、ノン・メディカルとか、ターミナル・ケアなどと言われると学問的 <067< な感じだけれども、要はどこでどう老い、病み、死んだらいいのか、という話であり、これまで死が医療用語だけで語られてきたとの指摘はもっともである。産むのも死ぬのも病院まかせの現代人は、自分で生死の演出などとうの昔に投げ捨てているから、老人病院の悲惨な現実は聞き飽きるほど知っているのに、ではどうしたらいいのかわからないので困っているのである。せいぜい、「ぼっくりと死にたいねえ」と井戸端会議で言い合う程度では解決の糸口にならない。一般市民はそのレベルで、でも以前よりは少しぶつぶつ不安を口にし、悲鳴をあげながらどうしたら政策参加できるか悩み始めたところなのだが、報告書の方は一気に「ターミナルケアの経済評価」へと飛んでき、どうしたら終末医療にかけるお金を減らせるかという方向づけを試みる。
  ガン末期の父親に退院を勧めるために使われたことばがふとよみがえった。
  「お父さんはそろそろ畳の上の大往生の時期ですよ。幸せに逝かせてあげて下さい」
  真に受けて退院させたとたん、大往生直前の憔悴し切った人はよみがえって歩きだしてしまったのは余談だが、死をどこでどう迎えるのか、自分や家族の意思を保障するにはどうしたらいいのか。そちらは手つかずのまま、人のいい現場の職員をコマンドに仕立てあげながら進行させていく「政治的事態」はしっかり見据える必要があるだろう。」(向井2003:67-68)

 「やがて、過剰医療ということばが生まれる。患者がまるで検査やクスリを消費するだけの存在、病院を支える道具のように扱われることになる。
 それは患者が選んだことではなく、医療関係者たちが患者を医療経営のコマとして扱う羽目に自ら負い込まれる、いわば自縄自縛の落し穴にはまってしまった結果なのだが、そのころから今度は、家族もかかわりようのない高度医療の場で死んでいく人たちのことが問題視されるようになった。患者の治療にも、まして孝不孝にもかかわりなしに湯水のように患者にお金がかけられるようになり、スパゲッティ症候群ということばが生まれてきた。そして、当然のように病院で医療に頼って生き続けるおとしよりの存在が財政面から問題視されることとなって、いまでは、医療が必要な人もそうでない人も一気呵成に医療から追放されようとしている。」(p.8)

高齢者の終末期と「医学論争」([向井 2003:174]の冒頭部分からの引用)
 「二〇〇一年一〇月、第一三回日本生命倫理学会年次大会が名古屋で開かれた。学問には無縁の私だが、演題にいくつか気になることがあって傍聴を申し込んだ。
 まずは当日のランチョンセミナーで、日本老年医学会が六月に発表した「高齢者の終末期医療に関する立場表明」を説明するというのに関心があった。また、演題のいくつかに、「死の義務」、「トリアージ」など、数年前から気になっていたキーワードが散在しているのにも興味があった。「高齢者の終末期医療に関する立場表明」自体は、「高齢であることや自立能力が低下しているなどの理由などにより、適切な医療およびケアが受けられない差別に反対する」(立場1)など一三項目の宣言文からできていて、高齢者が医療を受ける権利が薄められる一方の時代に、医師の側から社会的責任の一環として問題提起を試みたという前向きの印象を受けるものだった。(中略)<174<
 だが、その「立場表明」はどうも「議論は錯綜して明確な結論を得られない」まま発表したものらしかった。というのも、日本老年医学会自らが生命倫理学会の予稿集にその旨を記していたからである。
 議論が錯綜した最大の理由は、肝心の「高齢者の終末期」の定義、いったいどういう状態ならば「終末期」といえるのか、ということだったらしい。(中略)<175<
 ところが、最終報告でさらに不思議な一文が加えられた。高齢者の場合、終末期の定義ははっきりしない、しかも余命の予測もできない。ではなぜ、「近い将来死が不可避」と言い切れるのだろう。さらに、最終報告には、「将来の検討課題」として、「痴呆疾患の終末期」、「悪性腫瘍の終末期」、「脳卒中の終末期」、「呼吸不全の終末期」など、「個別疾患ごとの検討が必要」という文章も加えられた。つまりは、高齢者の終末期は病気によっても違うし、一概には論じられない、医学的にはまだ定義することができない、それは「今後の課題」ということなのだろうか。(中略)<176<
 しかし、不思議だったのは、「日本老年医学会では高齢者の終末期医療に対する学会としての立場を表明することを迫られており……」と予稿集が説明しているところだった。いったいなぜ、老年医学会はまだ「曖昧」でよくわならないらしい「高齢者の終末期」のことで、なんらかの立場表明を「迫られ」なければならなかったのだろう。
 「将来の検討課題」というなら、「適切な医療およびケアは侵すことのできない基本的人権。重度痴呆患者など判断力が低下している患者にあっても保障されるべきものである」(立場1)とまず第一に掲げた「医療を受ける基本的人権」が侵されていないかどうかを、臨床現場をあげて実情を調査する、そのイニシアティブをとることの方が、まずは求められる。それが科学者の社会的責任というものなのだと私には思われた。
 「見解」批判の先鋒となり、高齢者の終末期論争に火をつけた形の同学会評議員の医師、横内正利氏はつぎのように記していた。
 「たとえばアルツハイマー病の場合、どのような状態になったら終末期と診断されるのだろうか。あるいは老衰の場合はどうだろうか。案では、恣意的な差別を引き起こす可能性があるため、具体的な規定は設けなかったとしているが、定義をあいまいにしたまま議論を進めることこそ、かえって重大な差別を招くことになりかねない……過小医療に警告を発するという学会の意図とは逆に、高齢者の医療打ち切りに悪用される危険は大きく、そのことに対する配慮が足りない。もし本当に過小医療に反対するというのならば、『安易に終末期と判断してはならない』と警告す<177<るべきであろう」(11)
 横内氏は同時に、二〇〇一年の秋からほぼ平行して学会が取り組んでいた「高齢者終末期医療における輸液治療のガイドライン」作成作業との関連をも案じていた。口から食事や水分がとれなくなった患者に静脈を通じて水や電解質を補給する方法である。ここでも「終末期」とは「見解」と同じく、「近い将来の死が不可避となった末期の状態」とされていた。ガイドラインは、老いて病が重くなり、弱りきったおとしよりを「終末期」と診断した場合、水分や栄養の補給をどうするのか、続けるのか打ち切るのかを判断する手順を示すためのものだが、「事実上、『高齢者の終末期では輸液や人工栄養を行なってはいけない』という精神が貫かれている」(12)と横内氏は指摘していた。こちらも「議論錯綜」のためか、ガイドライン作成作業は二〇〇三年春の段階では頓挫したままのようである。」(向井 2003:174-178)

※上記で引用されている文献(以下は向井[2003;219]の表記のとおりに記す)
(11)横内正利 「日本老年医学会『立場表明』は時期尚早」(『Medical Tribune』メディカル・トリビューン社、二〇〇一年二月一五日)
(12)横内正利 「再論・日本老年医学会『立場表明』――高齢者医療打ち切りになる恐れあり」(『Medical Tribune』メディカル・トリビューン社、二〇〇一年一〇月四日)

 「話は数年前にさかのぼる。1997年11月。東京の永田町で「フォーラム・末期医療を考える――老人に生きる権利はないのか」と名付けたシンポジウムが開かれた。老年医学者の横内正利氏、社会保障の専門家で有料老人ホームの経営者である滝上宗次郎氏、医師で病院経営者、医療政策の専門家である石井暎禧氏らが呼びかけ人だが、かねがねこのことが気になっていた私も患者・家族の立場ということでそのひとりに加えていただいていた。/シンポジウムは、メディアに大きくとり上げられることこそなかったが、その後、専門誌(『社会保険旬報』)での長い論争(石井暎禧氏、横内正利氏と広井良典氏による)のきっかけとなり、いまふり返っても、制度の枠組みが大きく転換していく過程で、医療と福祉の最前線の政策思想と技術倫理と現場の実情が真剣勝負でぶつかりあうきっかけになったと思う。/ことの発端は一冊の報告書だった。『「福祉のターミナルケア」に関する調査研究報告書』と題され、厚生労働省の外郭団体である長寿社会開発センターが1996年度の調査研究事業報告書 <179< として世に出したものだった。/(中略)/だが、報告書の筆者が「ターミナルケアが『医療』の問題として論じられるかぎり……どうしても技術論に傾いてしまう。……(これからのターミナルケアでは)医学的介入の必要性の薄 <0180<い『死』のあり方が確実に増え、言い換えれば、長期ケアないし『生活モデル』の延長線上にあるような、いわば『福祉のターミナルケア』が非常に大きな位置を占めるようになるんではないか」と言い切るのには違和感を覚えた。それは生と死の文化が政策的な意図をもった文脈、いわば「政策論」にとりこまれているような違和感だった。/(中略)/「生活モデルを」との主張への違和感は、その現状の分析が伝わってこないためだった。死の場面で「技術論」を否定するのならば、その前に、おとしよりたちをあえて死なせたり悪化させたりしないように、死を追い込まないためにも、「医療の質」の技術評価をこそしてほしかった。」(向井 2003:179-181)

 「『福祉のターミナルケア』論は、母のケースを思い起こすとさらに理不尽だった。母だけではな <0182<い。必要な医療も受けられず、医療不在の場で病状を悪化させられ、寝たきりに追い込まれ、病状や障害が重くなるにつれ医療から排除されていった人びとの姿が心に焼きついて離れないままだった。「そろそろ畳の上の大往生を」……。死に時をまるで政策にとって都合のよい鋳型にはめこむような、このてのキーワードを何度、聞かされたことだろう」(向井 2003:182-183)

■書評・紹介

◆立岩 真也 2003/10/25「向井承子の本」(医療と社会ブックガイド・31)
 『看護教育』44-(医学書院)
◆立岩 真也 2003/12/19 「二〇〇三年の収穫」
 『週刊読書人』2517

■言及

◆立岩 真也 2008/03/25 「『現代思想』特集:医療崩壊」(医療と社会ブックガイド・80),『看護教育』48-3(2008-3):-(医学書院)
◆立岩 真也 2008 『…』,筑摩書房 文献表


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