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次に何を書くかについて

――天田城介の本・2――
医療と社会ブックガイド・60)

立岩 真也 2006/05/25 『看護教育』47-05(2006-05):
http://www.igaku-shoin.co.jp
http://www.igaku-shoin.co.jp/mag/kyouiku/


※この文章の全文(にいくらか捕捉を加えたもの)は以下の本に収録されました。
◆立岩 真也 201510 『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』,青土社 ISBN-10: 4791768884 ISBN-13: 978-4791768882 [amazon][kinokuniya] ※ m.


 前々回の続きで「天田城介の本・2」なので、写真は2冊ある単著の2冊目の表紙。ただ、以下、本の中味からは少し離れたことを書く。何を書くかについて。何を書いたら書いたことになるのか。
 そんなことを考えていると、先に進めないから、これは時には考えない方がよい問いだ。しかしやはり大切な問いでもあって、天田の書いたものを読んで、そのことを考える。そしてこれは『認知症と診断されたあなたへ』を紹介した前回の続きでもある。認知症と診断された人に何を書いたら、何か書いたことになるのか。
 天田本人には書くことがいくらでもあるから、そして実際書いているから、本人は困ってはいない。そして私自身も何を書いたらよいのか困るといったことはあまりない。書くべきこと考えるべきことがありすぎるぐらいだ。ただ、私の場合は、楽に考えられる方から考えているだけということでもある。病いのこと、天田が主題にしている老いや「認知症」については、私には見当がつかない。
 基本的に、老いること、衰えていることに対するこの社会の扱い方が気にいらない、別のことを言いたいという気持ちはある。しかしそれをどう言ったらよいのかということである。それらが否定的に捉えられているとして、しかし、逆にそれはよいものだと言うのも違うだろうと思う。ではなんと言うか。病気のことにしても同じだ。
 気にくわない。しかしそれをどう言うか。難しく思える。繰り返してしまい、そして外しているように思える。医療やその周囲についてまた「ケア」に関する研究に、そう蓄積があるわけでもないくせに、書かれたものを読んで、その多くにかなりの既視感があってしまっているという不思議なことになっている。どうしようか。
◇◇◇
 ただここでは、それ以前の、もっと初歩的なところから考えてみよう。この世のことについて何をどのように書いたらよいのだろう。
 どういうわけだか研究などしたいという人がいて、どうしようかということになる。おおまかにはやりたいことはあるようだが、あまり具体的ではない。私は大学院で働いているから、そんな人たちにも何かを話さねばならない。
 人間や社会を対象にして何かを書くことの難しさがある。一つに、「学問」において既にそこそこのことが調べられていたり考えられていたりしている。一つに、とくに学問というのでなくても、私たちは既に人であって、社会に住んでいて、人や社会のことを知っている。それに加えて何か言うことがあるのかということになる。
 一つめの方はどんな学問についても言えることだ。すべてにオリジナリティなどあったりしたらかえって世の中複雑になって面倒だと思う。だがそれでも、まったく同じことを繰り返し言うのはたしかに無駄ではある。過去の研究がしかじかの道筋を辿りここら辺で行き止りになっているということもある。なんだか難しそうなことを言っているようだが、煎じつめると当たり前でしょ、ということでしか言っていないことなどしばしばである。同じ道を行って、同じところで止まってしまっても困る。教員をしている私は、自分の守備範囲は限られているにしても、どんな話が既にあって、どんなことが調べられているかは、ある程度わかる。特定の主題の細かな研究の状況は各々が調べればよいが、もうすこし全般的なところで、研究の蓄積の有無や、流行り廃りや、その行く末がわかっている、ような気がしている。もちろん、当方の見立てがまるで外れている可能性もある。だが、それは仕方ない。ともかくそれを伝える。
 そして以上と完全に連続的なのだが、二つ目。とくに学問というのでなくても、私たちは既に人であり社会に住んでいて、人や社会のことを知っている。その知っていることに加えて、何か言うことがあるのかである。あまりないような気がしてしまう。
 その「もうわかっている感じ」からどうやって逃れるか。というか「わかってないもの」がどこかにあるから何か言おうというのだろうが、どのように何を言うか。
 幾つかあるが、一つ簡単な道がある。私は、私自身は理屈がある程度すきだけれども、理屈(理論)はいいから、とにかく調べてきたらよいのです、といったことを時に言う。その時には心からそう思っている。理屈っぽいことが書けなければ論文にならないというのは思いこみだ。理論をやってますと言う人に自分で何をやっているのかわかっていない人はかなりいる。そして各人には各人の頭のくせのようなものがある。不得手なことをわざわざやる必要はない。
 そして単純・素朴に調べることができる部分、知られていない部分がじつはかなりある。過去にあったことの多くが忘れられ、あるいは隠されたままになっている。同じことは、現在の現実についてもやはりいえる。
 たんに忘れている場合もあるが、知らないでよいとか、知らない方がよいとされていることもある。それらのすべてを知る必要もない。しかし、知られていない理由も含め、知られてよいことも多々ある。研究会で「即席的研究製造方法即解」という題で話したことがあって、そのときの記録にいくらか加えたものをHPに掲載している。そこに「障害」関係でいくつかおもしろいと思う主題を列挙してある。もちろん、私はおもしろいと思うことをおもしろいと思わない人も、常にいくらもいるわけだが、それは仕方がない。
 素材がよいとたいした調理をしなくてもおいしい。調べる相手がおもしろいと、自分の方ではたいしたことをしなくても、書いたものがおもしろい。さきに、既に人々は生きていて、ものを考え知っているから、新たに加えるのがやっかいだと述べた。しかしこれは強みでもある。つまり、その人たちが、既にあれこれ考えてくれているということである。それが知られてよいほど知られていなければ知らせる意味がある。そして、考えることは、その人たちにとってはとてもさし迫ったことで、まじめに考えなければならず、駆け出しの研究者が考えるより、さらに駆け出しでない研究者が考えるよりも、まともなことが考えられていることもある。まずはそれをきちんと知ること、記録すること。こういう仕事がある。
 論文には論点がいると言われる。それも相手側にあってくれることがある。「なおすことについて」(野口裕二・大村英昭編『臨床社会学の実践』、有斐閣、2002)という文章で、「波風の立ったところ」「尖ったところ」を見るとよいと記した。もちろん、なにごとも起こっていないようなところを取り上げて、「実は…」と言えたら、それはそれで格好がよい。しかし、そちらはなかなかの技を要する。それより相手方に起こっている争いを記す方が容易であり、そして、争いがおもしろい争いならばだが、読んでおもしろい。
 そんなことを、まずは、おおいにやったらよいと私は思う。なぜこんなにすかすかに空いていて、だから競合相手を気にする必要がなく、楽で、おもしろくて、そのわりにみのりの多いことをやらないのだろうと思う。なんだか相手がこわもとで恐そう、とか理由はいくつかあるのだが、ただたんに知られるべきことがあることを知らないということもある。
◇◇◇
 繰り返すけれど、相手にもたれかかって、安易に始めて、安易に続けて、それでもおもしろければ、それでまったくかまわない。ただ、いつも、またいつまでも、その調子でやっていけるとは限らない。
 「老い」や「認知症」についてはどうだろう。[…]
 […]


[表紙を掲載した本]
天田 城介 20040330 『老い衰えゆく自己の/と自由――高齢者ケアの社会学的実践論・当事者論』,ハーベスト社,394p. ISBN:4-938551-68-3 3800 [amazon][kinokuniya] ※ **

UP:20060322 REV:0330(誤字訂正)
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