>HOME >WHO
横内 正利
よこうち・まさとし

last update: 20130928


このHP経由で購入すると寄付されます

□昭和21年生まれ。東京大学卒業後,東京都老人総合研究所研究員,国立循環器病センター内科医長などを経て,昭和61年,浴風会病院検査科医長に。平成元年から現職。専門領域は循環器(高血圧),老年医学。(横内[1997]より)→いずみクリニック
・いずみクリニックのHP
 http://www.newton-doctor.com/doctor/tokyo39/izumi/s01/
 cf.有料老人ホーム・グリーン東京の医療体制(cf.滝上宗次郎
 http://www.green-tokyo.com/medical/medical.html

http://www.sekishinkai.org/ishii/3mantalk_01.htmlより
1946年、東京都生まれ。
1972年、東京大学医学部卒業。東京大学付属病院第3内科へ入局。
東京都老人総合研究所、国立循環器病センター内科医長、浴風会病院診療部長を経て、99年から現職。
専門は、循環器内科、老年医学。
著書は、『老年者心電図の読み方と実例』(医薬ジャーナル社)、『高齢者高血圧の病態と治療』(診断と治療社、共著)、『医療と介護保険の境界』(雲母書房、共著)など。

◆2009/03/29 発言
 安楽死・尊厳死法制化を阻止する会3.29シンポジウム

◆横内 正利 20010720 『「顧客」としての高齢者ケア』,日本放送出版協会,197p. ASIN: 4140019204 914 [amazon][kinokuniya][kinokuniya] ※ a06.

◆須貝佑一*1, 横内正利*2 1995 「高齢者にみられる悪性症候群」,『老年精神医学雑誌』6(2) : 203-209
 *1浴風会病院精神科, *2浴風会病院内科  http://www1.meteo-intergate.com/journal/jsearch.php?jo=aj2rsizd&ye=1995&vo=6&nu=2
◆横内 正利 199609 「高齢者の終末期医療とは何か」
 『imago』1996-9 特集:ターミナルケア
◆横内 正利 1998 「高齢者の終末期とその周辺――みなし末期は国民に受け入れられるか」,『社会保険旬報』1976:13-19
◆横内 正利(浴風会病院診療部長) 19970417- 「高齢者医療への提言」
 第1回「内科の延長でよいか、老人科的対応が必要か」
 『Medical Tribune』30-16:27
 http://www.medical-tribune.co.jp/mtbackno/3016/16hp/M3016271.htm
 19970515 第2回「高齢者の末期とは何か」,『Medical Tribune』30-20:47
 『Medical Tribune』30-20:47
 http://www.medical-tribune.co.jp/mtbackno/3020/20hp/M3020471.htm [リンク切れ]
 第3回「治水こそ高齢者医療の要」
 http://www.medical-tribune.co.jp/mtbackno/3025/25hp/M3025471.htm
 Date: Mon, 11 Aug 1997 15:10:01
 第4回「高齢者医療に革命をもたらすパルスオキシメータ」
 http://www.medical-tribune.co.jp/mtbackno/3029/29hp/M3029471.htm
 Date: Thu, 28 Aug 1997 16:20:45
 第5回「高齢者の薬物療法の基本」
 http://www.medical-tribune.co.jp/mtbackno/3034/34hp/M3034391.htm
 Date: Mon, 22 Sep 1997 13:44:32
 第6回「偽薬の効用」
 http://www.medical-tribune.co.jp/mtbackno/3038/38hp/M3038271.htm
 Date: Wed, 22 Oct 1997 10:49:33
 第7回「高齢者に正常値は必要か」
 http://www.medical-tribune.co.jp/mtbackno/3042/42hp/M3042271.htm
 Date: Tue, 25 Nov 1997 16:16:57
 第8回「高齢者の急性期医療におけるせん妄への対応」
 http://www.medical-tribune.co.jp/mtbackno/3047/47hp/M3047471.htm
 Date: Thu, 18 Dec 1997 15:59:25
 第9回「高齢者の高血圧管理」
 http://www.medical-tribune.co.jp/mtbackno/3051/51hp/M3051431.htm
 Date: Tue, 20 Jan 1998 13:55:01
 第10回「高齢者の負荷心電図はどうあるべきか」
 http://www.medical-tribune.co.jp/mtbackno/3103/03hp/M3103231.htm
 Date: Mon, 23 Feb 1998 12:00:04
 第11回「高齢者看護の基本」
 http://www.medical-tribune.co.jp/mtbackno/3108/08hp/M3108311.htm
 Date: Tue, 24 Mar 1998 10:21:47
 最終回「高齢者への対応の基本」
 http://www.medical-tribune.co.jp/mtbackno/3112/12hp/M3112231.htm
◆横内 正利 19980301 「高齢者の終末期とその周辺」,『社会保険旬報』1976
◆横内 正利 19980721 「高齢者の自己決定権とみなし末期――自己決定権の落とし穴」,『社会保険旬報』1991(1998-7-21):12-16,1992(1998-8-1):30-34
 cf.日本尊厳死協会と「痴呆」
 この論文への言及
◇植村 和正 200606 「高齢者の終末期医療」,『学術の動向』2006年06月号(日本学術会議、特集 終末期医療――医療・倫理・法の現段階)
 http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/pdf/200606/0606_2733.pdf
 「「立場表明」作成の過程で、倫理委員会案に対する日本老年医学会学術評議員全員へのアンケート調査が行われた。「立場表明」を出すことを含めて倫理委員会案に対してほとんどの評議員から賛同が得られたが、反対意見もあった。それを要約すると以下の二点である。「高齢者の終末期には未だ明確な基準がない。時期尚早である。このような時期に学会としての立場を表明すると医療費抑制のよりどころとして行政に利用されかねない」、「高齢者の終末期は老年医学会だけが責任を負うものではない。この国のすべての学会あるいは医師会などが責任を負うものである」(植村2006:)
 「上述した高齢者特有の事情により、終末期の医療およびケアにおいていくつかの問題が生じることになる。老衰等の死に向かう過程で生じる「摂食不能」がその一つである。摂食不能を放置したいわゆる老衰死の場合、それは脱水死であり通常苦しみは少なく死亡までの期間も短く治療による苦痛もない。ヨーロッパ諸国ではこのような場合に人工栄養を施さないで安らかに「死なす」ことが社会的合意として定着しているようである 2)。しかしながら、日本ではこのような場合に補液などの医療処置を行わない例はきわめて少ない」(植村[2003:28])
2)横内 正利 1998 「高齢者の終末期とその周辺――みなし末期は国民に受け入れられるか」『社会保険旬報』1976 13-19
◆横内 正利 19981201 「高齢者の自己決定権とみなし末期〈続報〉」,『社会保険旬報』2004(1998-12-1):12-16
◆横内 正利(浴風会病院内科) 1998 「自立生活の限界とケア施設のあり方」
 『総合臨牀』47-1:18-22
 http://www.meteo-intergate.com/journal/jsearch.php?jo=af2sgrsa&ye=1998&vo=47&nu=1
◆横内 正利(いずみクリニック院長) 20001202 「北欧の高齢者医療はなぜ日本に正しく伝えられないか」,『週刊東洋経済』2000-12-2 http://www.toyokeizai.co.jp/mag/toyo/mokuji/w20001202.html
◆横内 正利 20010215 「日本老年医学会『立場表明』は時期尚早」,『Medical Tribune』(メディカル・トリビューン社)
◆横内 正利 20011004 「再論・日本老年医学会『立場表明』――高齢者医療打ち切りになる恐れあり」,『Medical Tribune』(メディカル・トリビューン社)
 cf.日本老年医学会 20010613 「「高齢者の終末期の医療およびケア」に関する日本老年医学会の「立場表明」」
  http://www.jpn-geriat-soc.or.jp/tachiba/index.html

◆1998/06/06 シンポジウム「高齢者の終末期医療−尊厳死を考える」
 老人の専門医療を考える会(会長=青梅慶友病院長 大塚宣夫氏)主催
 『週刊医学界新聞』2299(1998-07-27)
 http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n1998dir/n2299dir/n2299_08.htm
 「高齢者終末期医療への視点――老人の専門医療を考える会シンポジウムより
 さる6月6日,東京の銀座ガスホールにおいて,老人の専門医療を考える会(会長=青梅慶友病院長 大塚宣夫氏)主催によるシンポジウム「高齢者の終末期医療−尊厳死を考える」が開催され,高齢者医療に取り組む第一線の演者らが話題を提供した。

死は医療のものか
 「これからのターミナルケアに求められる視点」を口演した広井良典氏(千葉大助教授)は,「超高齢時代においては後期高齢者の死亡が急増し,長期の介護の延長線上にあるようなターミナルケアが増加すると見込まれる。より,ソーシャルサービスや『生活モデル』的視点の重要性が高まる」との見解を示した。
 その上で,戦後日本においては「疾病構造の変化,医療技術の高度化,病院化の進展の中で,急速な死の医療化(medicalization)が起こり,病院での死が急増した(日本人の病院での死亡率は,1965年には死亡者全体の29%だったが1995年には74%に拡大)」と指摘。「日本における死に場所としての病院への集中と,ターミナルへの今日の人々の意識は,高度経済成長期を中心とするこの30年の時代環境と,制度・政策のあり方によって大きく規定されたものである」との考えを示した。
 さらに広井氏は,「死は医療のものか」と問い,「死は医療サービスにより一義的に決められるものではない。個人の判断による死のあり方の『選択』の幅を拡大すること。それを可能とするような政策的支援が重要である」と強調した。
 具体的には,在宅・福祉施設でのターミナルケア,施設や居宅に孤立しないような通所型サービスへの支援などをあげるとともに,「死生観そのものを含めて,ターミナルケアというものを,より広い視点から捉え直す作業がいま何より求められているのではないか」と問題を提起をした。

 「みなし末期」は許されるか
 一方,「終末期医療の検証を」を口演した横内正利氏(浴風会病院診療部長)は,「高齢者の末期については多くの誤解と混乱がある。末期とは考えられない状態までも末期とみなされて議論されている」と危惧を表明。「虚弱・要介護のレベルにある高齢者は,急性疾患などによって容易に摂食困難に陥るが,多くは治療によって疾患が軽快すれば,経口摂取が再び可能となる。しかし,もし治療しなければ死に至ることも少なくない。このような高齢者の摂食困難に対して,それを不可逆的なものとみなして医療を実施しないとすれば,それは『延命』治療の放棄ではなく,治癒の可能性をも放棄することだ」と述べ,治癒の可能性があるにもかかわらず,末期とみなすこと(「みなし末期」)を「国民的合意なしには許されるものではない」と主張した。
 また,高齢者医療における治療法や治療の場の選択については,「一定のレベルを超えた治療は望まない,ある限られた範囲内の治療で治癒を試みてほしいという『限定医療』を望む場合が一般的である」と述べ,「この場合,『みなし末期』との決定的な違いは治癒する可能性が十分残されていることであり,医療者が『自然な看取り』を心がけるのは危険である」と警鐘を鳴らした。」(記事全文引用)

■引用

◆19970515 「高齢者の末期とは何か――高齢者医療への提言・2」,『Medical Tribune』30-20:47
 http://www.medical-tribune.co.jp/mtbackno/3020/20hp/M3020471.htm [リンク切れ]
 *以下全文
 末期医療と言うと、高齢者の場合も癌の末期を想定して語られることが多い。しかし、虚弱・要介護の段階にある高齢者、すなわち前回説明したような“老人科的対応”を必要とする高齢者の場合は、癌の末期とは異なる末期像を呈することが多い。
 私は高齢者には“生命の末期”“老化の末期”“みなし末期”という3つの末期が存在すると考えている(表)。まず、生命の末期=「疾患が治癒しないで、死期が近い状態」について考えてみよう。
 生命の末期に対する対応は基本的に非高齢者の場合と同じで、安楽死と延命に大別できる。
 安楽死はさらに積極的安楽死と消極的安楽死=尊厳死に分けられる。これらは、現在のわが国では社会的合意が得られる状況にないが、尊厳死については今後条件が整えば容認される可能性もあるだろう。
 一方、延命についても2通りの考え方がある。少しでも生命がながらえるよう、できる限りの治療を行うのが積極的延命。尊厳死のように継続中の医療までは放棄しないが、新たな医療は追加しないのが消極的延命である。後者の場合は蘇生術も行わない。
 意外に思われるかもしれないが、高齢者医療の現場では消極的延命が選択されることのほうが多い。私が勤務する浴風会病院でも、積極的延命を希望する家族は少なく、多くの場合、家族の意志に沿って消極的延命を行っている。
 ただし、これには重大な問題が2つある。1つは診断上の問題で、高齢者の場合、癌のように段階的に病態が悪化するのではなく、急性疾患に対する治療が奏功せず、比較的急激に末期に陥ることが多い。このため、死の間際でなければ、確信を持って末期と宣告できる医師は少ないだろう。
 もう1つは、高齢者では多くの場合、本人の意志確認が不可能だという問題である。現状ではリビングウイルのような形で、元気なうちに意志表示している高齢者はほとんどいない。
 そうなると、家族が代弁するしかないが、家族の希望だけで、積極的延命を行わなくてよいという司法的判断は確立されていない。今後の法整備が待たれるところである。
 以上述べた生命の末期以外に、高齢者には非高齢者では見られない老化の末期=「急性疾患などの特定の要因がないのに、不可逆的に経口摂取不能に陥った状態」が存在する。
 この状態では、生存のためには補液や人工栄養が不可欠で、それが施されなければ老衰死=脱水死を迎えることになる。脱水死は苦痛が少なく、体の醜い変化も伴わず、ある意味で理想的な死に方である。大多数の日本人は自分自身に人工栄養などの延命治療が施されることを望んでいない、とする調査もある。
 しかし、現状では老化の末期に人工栄養を行わなくてよいという社会的合意は得られていない。また、この段階では、多くの場合、人間的交流は保たれている。そのため、わが国では老化の末期に人工栄養を回避することは難しい。
 また、生命の末期においては人工栄養は行なわず通常の補液だけ行うという処置も選択されるが、老化の末期でこの方法を選択するのはやはり問題である。
 高齢者に特徴的なものとして、もう1つ、みなし末期というものが存在する。
 先に不可逆的に経口摂取不能の状態は老化の末期だと述べたが、実際には可逆的か不可逆的かの鑑別は難しく、治療してみなければなかなか分からない。しかも、可逆的なことのほうがはるかに多い。
 ところが、北欧などでは、経口摂取不能に陥った高齢者に対し、可逆的か不可逆的かの吟味をしないまま、人工栄養も補液も行わないのが普通だという。つまり、不可逆的とみなして、治癒する可能性を放棄しているのである。言い換えると、本当の老化の末期だけでなく、脱水などの急性疾患によって食事が取れなくなった場合でも、医療を施さないということだ。
 このようなみなし末期が容認される背景には、「自ら食べようとしない者に補液などを行うのは非人間的な行為だ」という独特の価値観があると思われるが、現在のわが国では到底容認されるものではない。
 そして、見逃してならないのは、みなし末期を容認するか否かが、高齢者の介護や福祉の問題に大きく影響しているという事実だ。
 みなし末期が容認されれば、その時点でその高齢者の介護問題は解消されるが、容認されない場合は、徐々にADLレベルを低下させながらも長期間生存することになる。つまり、わが国では1人の高齢者に要する介護期間や労力が北欧に比べ、圧倒的に大きいのである。
 しばしば、寝たきり老人が少ないという事実だけを捉えて北欧を賛美する論調があるが、その背後にある問題を十分に認識する必要がある。
 また、最近「延命治療は無意味」とか、「管でつながれた末期には尊厳がない」などと決めつける人たちが医者のなかにも少なくない。しかし、どんな姿であっても、少しでも生きたい、生きていてほしいと願う高齢者や家族がいることを忘れてはならない。医師はあくまで中立でなければならない。不用意な発言は厳に慎むべきだ。
 高齢者の末期医療はこのような末期の多様性を踏まえてこそ、正しく理解できると言えよう。」

■言及

◆向井 承子 20030825 『患者追放――行き場を失う老人たち』
 筑摩書房,250p. ISBN:4-480-86349-4 1500 [amazon][kinokuniya][bk1] ※, b d01

 「話は数年前にさかのぼる。1997年11月。東京の永田町で「フォーラム・末期医療を考える――老人に生きる権利はないのか」と名付けたシンポジウムが開かれた。老年医学者の横内正利氏、社会保障の専門家で有料老人ホームの経営者である滝上宗次郎氏、医師で病院経営者、医療政策の専門家である石井暎禧氏らが呼びかけ人だが、かねがねこのことが気になっていた私も患者・家族の立場ということでそのひとりに加えていただいていた。/シンポジウムは、メディアに大きくとり上げられることこそなかったが、その後、専門誌(『社会保険旬報』)での長い論争(石井暎禧氏、横内正利氏と広井良典氏による)のきっかけとなり、いまふり返っても、制度の枠組みが大きく転換していく過程で、医療と福祉の最前線の政策思想と技術倫理と現場の実情が真剣勝負でぶつかりあうきっかけになったと思う。/ことの発端は一冊の報告書だった。『「福祉のターミナルケア」に関する調査研究報告書』と題され、厚生労働省の外郭団体である長寿社会開発センターが1996年度の調査研究事業報告書 <179< として世に出したものだった。/(中略)/だが、報告書の筆者が「ターミナルケアが『医療』の問題として論じられるかぎり……どうしても技術論に傾いてしまう。……(これからのターミナルケアでは)医学的介入の必要性の薄 <0180<い『死』のあり方が確実に増え、言い換えれば、長期ケアないし『生活モデル』の延長線上にあるような、いわば『福祉のターミナルケア』が非常に大きな位置を占めるようになるんではないか」と言い切るのには違和感を覚えた。それは生と死の文化が政策的な意図をもった文脈、いわば「政策論」にとりこまれているような違和感だった。/(中略)/「生活モデルを」との主張への違和感は、その現状の分析が伝わってこないためだった。死の場面で「技術論」を否定するのならば、その前に、おとしよりたちをあえて死なせたり悪化させたりしないように、死を追い込まないためにも、「医療の質」の技術評価をこそしてほしかった。」(向井[2003:179-181])

◆立岩真也 2009/03 『唯の生』,筑摩書房

第3章 有限でもあるから控えることについて――その時代に起こったこと
 第4節「福祉のターミナルケア」
  1「福祉のターミナルケア」

 まず、批判する側に立ったのは、医師の石井暎禧――第2節4(◆頁)で石井[2008]の一部を引用した――、医師の横内正利、有料老人ホーム経営者の滝上宗次郎★23他だった。
 まず一つ、『社会保険旬報』紙上でなされた応酬があった(石井の文章はHPで読める)。まず石井が、同誌一九七三号(二月一日)に「老人への医療は無意味か――痴呆老人の生存権を否定する「竹中・広井報告書」」(石井[1998a])を発表。報告書の(ごく短い文章だが)第一章として置かれている竹中文良「「福祉のターミナルケア」の課題と展望」([1997c])を批判し、超高齢者・痴呆老人が、病気になった場合、「医療をひかえ自然の成り行きに任せる」ことが「福祉のターミナルケア」のあり方として提案されているではないか。竹中論文の結論をみる限り、「日本にもナチスはいるんですね」とのコピーに付された友人のコメントを肯定せざるを得ない」(石井[1998a:6])と、批判された側もそう平静ではいられない言葉を連ねる。
 それに対して、広井が自らの主張の趣旨を述べ(この部分は後述する八八年一月のフォーラムで広井が配布した文書と基本的に同一)石井の批判に反論したのが一九七五号(二月二一日)掲載の「ターミナルケア議論における視点」(広井[1998a])。石井が後にまた引用する部分だけ引用すると、「私たちの主張をあまりに誤解、場合によっては曲解するものであり、多くの論点がすれ違いのままに終わっていると思われる」(広井[1998a:13])、「私たちは、終末期における医療が、「少なければよい」などと言っているのではないし、ましてや医療を否定ないし排除しようとしているのでもない。」(広井[1998a:14])
 そして次の一九七六号(三月一日)には横内の「高齢者の終末期とその周辺」(横内[1998a])が掲載される。さらに、一九八三〜五号(五月一日・一一日・二一日)と三回にわたり、石井が広井[1998a]を批判する「みなし末期という現実――広井氏への回答」(石井[1998b])が続く。「死は医療のものか」という章を含む広井『ケアを問いなおす』(広井[1997])等にも言及しつつ、再度、やはりかなり厳しく、批判する。そして一九九一〜二号(七月二一日・八月一日)に横内「高齢者の自己決定権とみなし末期――自己決定権の落とし穴」(横内[1998b])が発表される。
 次に、広井は、石井[1998b]の批判を受けるかたちで――横内[1998b]は広井の原稿提出後に掲載された――一九九四号(八月二一日)に「これからのターミナルケアに求められる視点」(広井[1998b])を発表する。そしてその四カ月後、二〇〇四号(十二月一日)に、広井[1998b]に対する反論として横内「高齢者の自己決定権とみなし末期〈続報〉」(横内[1998c])が掲載される。
 これだけでは何ごともわからないのだが、既に幾度か現われた「みなし末期」という語についての横内の説明だけ引用しておく★24。

 「高齢者に特徴的なものとして、もう一つ、みなし末期というものが存在する。
 先に不可逆的に経口摂取不能の状態は老化の末期だと述べたが、実際には可逆的か不可逆的かの鑑別は難しく、治療してみなければなかなか分からない。しかも、可逆的なことのほうがはるかに多い。
 ところが、北欧などでは、経口摂取不能に陥った高齢者に対し、可逆的か不可逆的かの吟味をしないまま、人工栄養も補液も行わないのが普通だという。つまり、不可逆的とみなして、治癒する可能性を放棄しているのである。言い換えると、本当の老化の末期だけでなく、脱水などの急性疾患によって食事が取れなくなった場合でも、医療を施さないということだ。
 このようなみなし末期が容認される背景には、「自ら食べようとしない者に補液などを行うのは非人間的な行為だ」という独特の価値観があると思われるが、現在のわが国では到底容認されるものではない。
 そして、見逃してならないのは、みなし末期を容認するか否かが、高齢者の介護や福祉の問題に大きく影響しているという事実だ。
 みなし末期が容認されれば、その時点でその高齢者の介護問題は解消されるが、容認されない場合は、徐々にADLレベルを低下させながらも長期間生存することになる。つまり、わが国では一人の高齢者に要する介護期間や労力が北欧に比べ、圧倒的に大きいのである。
 しばしば、寝たきり老人が少ないという事実だけを捉えて北欧を賛美する論調があるが、その背後にある問題を十分に認識する必要がある。
 また、最近「延命治療は無意味」とか、「管でつながれた末期には尊厳がない」などと決めつける人たちが医者のなかにも少なくない。しかし、どんな姿であっても、少しでも生きたい、生きていてほしいと願う高齢者や家族がいることを忘れてはならない。医師はあくまで中立でなければならない。不用意な発言は厳に慎むべきだ。」(横内[1997])

 2 集会/番組/国会

 この雑誌上のやりとりと並行して、二つの集会があり、テレビ番組があり、国会での質疑があった。
 一九九八年一月二四日、「フォーラム・末期医療を考える――老人に生きる権利はないのか」が開催される。この報告書に批判的な人たちの集まりだった。この集まりを呼びかけた一人である向井承子★25は、九七年十二月二九日の『毎日新聞』の「オピニオンワイド」に告知の文章を寄せている。

 「高齢者の医療に詳しい医師たちが「終末期ではないものまで終末期とみなして医療を打ち切る暴挙」と憤るのは当然だろう。だがなぜ、こうも過激な医療打ち切りが提起されたのか。
 報告書は「終末医療費の縮小」のための試算結果を提示。終末医療の是非が医療費削減を目的とした攻策的な文脈で公然と語られる時代が来たのだろう。」

 横内が基調報告――横内[1998a]とほぼ同じ内容のものだったという(石井[1998b])――を行なった後、向井承子が司会となり、石井、澤田愛子――澤田[1996]等の著書がある――、滝上、光石忠敬をシンポジストとするシンポジウムがあった。そしてここに広井は出席し発言もし、広井[1998a]の一部となった文書も配布している。そして、そこで紹介し、見てもらいたいと述べたのが、次の番組だった。
 翌々日、一月二六日、NHK列島福祉レポート「老人ホームでみとりたい」で北海道の「とよころ荘」がとりあげられる。すると、石井らはその施設でのケアが優れていることを評価しつつも、そこで行なわれたこととその取り上げ方を批判する(横内がNHK札幌放送局に出した八月一日付の公開質問状が横内[1997b]に、NHKからの八月二五日付の回答が横内[1998c]に掲載されている)。何が問題になったか。
 三月十一日、第一四二回国会衆議院厚生委員会で、民主党国会議員の山本孝史★26が関連する質問をし、厚生大臣(小泉純一郎)が答弁を行なっている。

 そして六月六日には、大塚宣夫が会長を務める「老人の専門医療を考える会」――この会と大塚については既に幾度か言及した――が主催してシンポジウム「高齢者の終末期医療――尊厳死を考える」が開催された。一月の集会が基本的に報告書に批判的な人たちの集まりであったのに対して、この集まりでは、広井と横内が互いの主張を述べ、聴衆はそれを聞いて考えるというものだった。他のパネリストは堤晴彦(埼玉医科大学救急救命センター教授)、松川フレディ(湘南長寿園病院院長)、中川翼(定山渓病院院長)。

 「これからのターミナルケアに求められる視点」を口演した広井良典氏(千葉大助教授)[…]は、「死は医療のものか」と問い、「死は医療サービスにより一義的に決められるものではない。個人の判断による死のあり方の『選択』の幅を拡大すること。それを可能とするような政策的支援が重要である」と強調した。
 具体的には、在宅・福祉施設でのターミナルケア、施設や居宅に孤立しないような通所型サービスへの支援などをあげるとともに、「死生観そのものを含めて、ターミナルケアというものを、より広い視点から捉え直す作業がいま何より求められているのではないか」と問題を提起をした。
 […]一方、「終末期医療の検証を」を口演した横内正利氏(浴風会病院診療部長)は、「高齢者の末期については多くの誤解と混乱がある。末期とは考えられない状態までも末期とみなされて議論されている」と危惧を表明。「虚弱・要介護のレベルにある高齢者は、急性疾患などによって容易に摂食困難に陥るが、多くは治療によって疾患が軽快すれば、経口摂取が再び可能となる。しかし、もし治療しなければ死に至ることも少なくない。このような高齢者の摂食困難に対して、それを不可逆的なものとみなして医療を実施しないとすれば、それは『延命』治療の放棄ではなく、治癒の可能性をも放棄することだ」と述べ、治癒の可能性があるにもかかわらず、末期とみなすこと(「みなし末期」)を「国民的合意なしには許されるものではない」と主張した。」(『週刊医学界新聞』[1998])

 3 批判した人たち

 […]
 ここに起こった対立は、政府・対・反政府というほど単純なものではない。また、医療と福祉の間の綱の引き合いとだけ捉えれられるものでもない★28。文章による批判は、まず『社会保障旬報』誌に掲載された石井暎禧と横内正利の文章によってなされたのだが、この二人は医師である。ただ、この二人とともに批判を展開した人には有料老人ホームの経営者であった滝上宗次郎もいる(二〇〇七年に死去)。そして、すくなくとも石井や横光は、医療の撤退を危惧しながらも、自らの業界をただ防衛しようという方向の主張をしているのではない。そして、石井は医療法人の理事長であり、中央社会保険医療協議会委員を務めるなど、医療政策にも関与してきた人である。滝上も、経済審議会「医療・福祉ワーキンググループ」の座長、政府の行政改革委員会の参与(厚生省担当)などを歴任している★29。ここには「行政改革」を巡って、自らを守ろうとする官庁と、その抵抗を経験しそれを批判する立場という構図もある。自らの裁量の範囲を維持したい官庁と、それと同様の別の利害をもつ官庁との関係もある。このことは、後にすこし触れるが、介護保険の創設・推進に対する態度にも関わることになるかもしれない★30。こうして、事態は既にいささか複雑であるとも言える。しかし、批判そのものははっきりしたものである。そしてその人たちは、以前から、しばしばいっしょに、同じ主張をしてきた。
 まず高齢者を相手にする臨床の医師としての横内が、実際に即した指摘・批判を行なってきた。とくに高齢者となれば、急激に進行するがんのような状態の変容はそう多いわけではない。なすべき処置を施せばもちなおすことはよくある。しかし処置を行なわなければそのまま死を迎えることになる。であるのに、その状態を「末期」と「みなす」こと、そして処置を行なわないことが、ヨーロッパの国々では行なわれてしまっている。そのことを認めるべきでない。それは、医療費・社会保障費の削減を目指す行ないであるとともに、末期とされる状態にある人たちの価値を否定し存在を否定するものである。そして前者については費用を過大に見積もり、危機が誇大に言われている。そしてその前に、後者が認められるべきでない。おおむねこれらのことを主張する。以前から、幾度も述べており、「福祉のターミナルケア」に対する批判も、この一貫した認識、立場からなされている。
 そして、その後も自らの位置を変えていない。石井は、一九九九年の『「終末期におけるケアに係わる制度及び政策に関する研究」報告書』(医療経済研究機構[1999])を批判し、その中で九七年の報告を再度批判し、経済学者の西川周三の見解にも言及し批判する(石井[2001a])。この報告書に対しては滝上[2001]にも批判的言及がある。また二〇〇〇年三月に発表された、「医療費の伸びが経済の動向とバランスのとれたものとなる」ことを求める『医療制度改革の課題と視点』(厚生労働省高齢者医療制度等改革推進本部[2000]、解説を含め厚生労働省高齢者医療制度等改革推進本部事務局[2001]同事務局編[2003])が、三人の鼎談において批判される(石井・横内 ・滝上[2000])。
 さらに石井は、自らが常務理事を務める社団法人日本病院会の医療経済税制委員会の報告書『制度と政策の変革を目指して』(日本病院会医療経済税制委員会[2001])に関わって、石井[2001b]を書く。その構成は、なぜ終末期医療が問題となるのか/国家と「死の政策」/「終末期医療費」は高額ではなく、「後期高齢者医療」も無駄ではない/「老人終末期医療」という言葉の怪しさ――脳死から安楽死へ、「死」の拡大政策/老人終末期問題とは、老人医療費問題である/「自立・自己責任」の変質/医療と介護の混同/根拠に基づいた改革を。
 そして横内は、日本老年医学会の「「高齢者の終末期の医療およびケア」に関する日本老年医学会の「立場表明」」(日本老年医学会[2001])に対しても、高齢者医療打ち切りになる恐れがあり時期尚早として批判する(横内[2001a][2001c])。そしてまた石井らは、医療・病院の経済・経営の実際を調査によって示す(白木他[2002])。

 3 予め限られている福祉への移行
 […]
 しかし、「自立」がかなわなくなったならば、どうなるのか。どうするのか。このことに注意を喚起した人もいたのだった。手本とされる北欧の国々では、なされるべき――とその人たちが考える――ことが行なわれていない。そのことが「込み」になって仕組みができている。このことを隠すべきでないし、そのことを抜きにして礼賛すべきでない。そのことを隠したまま、彼の地を模倣した制度を追求すればよいというものではない。そのことを主張する。さきに紹介した報告書発表の前からその指摘は幾度もなされるが、介護保険の開始の前後に出された文章としては、「北欧の高齢者医療はなぜ日本に正しく伝えられないか」(横内[2000])、「(続)介護保険はなぜ失敗したか――二一世紀の社会保障制度とは」(滝上[2001])などがある★36。

 第6節 大勢の形成

 2 「たんなる延命」
 […]
 けれども、薬剤を使った鎮痛を行なったり、手で触れたり言葉をかけたり、死後の生の可能性について語ったりする以外に、その人の状態を維持したり、急性の症状を軽減したり、悪化の速度を遅くすることができることはある。これまで幾度かとりあげた横内正利はそのことを言っている。とくに高齢者であれば、ガンが急速に進行して治療することはできず、あとは別のことを行なうしかないという、絵に描いたような経過を辿ることは多くない。ガンの進行なども含め、ゆっくりと衰弱していく中で、幾度か身体の何箇所かに不具合が起こる。全体の進行を止めることはできないとしても、その不具合に対処することは多くの場合にできる。なのに、「末期」とみなし、対応をせず、結果亡くなってしまうことがある、それはよくない。横内は幾度もそのことを述べてきたのだ。

 3 苦痛
 […]
 さらに、いま引用した「定着しているようである」の後には註があって、そこで引かれている文献は、これまで幾度か紹介してきた横内正利の文章(横内[1998a])である。横内はヨーロッパ諸国の動向を批判してきた人だ。ここに引かれている文章も同様の趣旨のものであり、そしてその横内はこの学会の「立場表明」を批判しているのでもある(横内[2001a][2001b])。そのことは知っているに違いないのだが、その趣旨は伝わっているのだろうかと心配にもなる。むしろんそれはただの心配であって、かの地ではしかじかであるという事実が横内の文章に書かれているから、そのことを示す限りにおいてその文献に言及したのだとは言えるだろう。ただそうではあっても、その「事実」について二つの評価がある時に、一つの側だけが言われそして読まれるとなると、それも心配になる。

第3章・注
★23 著書(滝上[1995])に横内との対談が収録されている。
 「五年前にデンマークに行ったときに、私は大変なカルチャー・ショックを受けました。「延命治療は国民のコンセンサスの中にない」という説明を受けたことです。では仮に延命治療を願い出た患者や家族に対しては医療の反応は如何かという私の質問に対して、「延命治療はしない方向で話し合う」という返事がかえってきたことです。/その代わりに、福祉は手厚い。」(滝上の発言、横内・滝上[1995:249])
 「デンマークでは、医師の方から積極的に延命治療をしない方向で話し合うようですが、延命治療をしないことに国民的合意が成立しているのであれば、それでよいでしょう。ただ、現在の日本でそれと同じことをするとすれば、かなり問題です。延命治療をしないことが、必ずしも国民のコンセンサスが得られているとは考えにくいし、日本人の倫理観では、延命治療を希望する患者は家族に、それを思いとどまらせるように説得することが許される、とは思えません。」(滝上の発言、横内・滝上[1995:250])
 「ヨーロッパ諸国では高齢化に伴う医療費の高騰から、医療サービスの制限を強化していますが、とりわけ末期に顕著です。ヨーロッパのある国の医師から、ヒトが末期にあるか否かは判別できるし、末期ならば治療は控えると聞いたことがあります。私は、治療して治らなかったばあいに、すなわちヒトの死の後でしか、末期であったのか否かは判別できないと思うのですが。」(滝上の発言、横内・滝上[1995:254])
 「北欧諸国の痴呆の高齢者のためのグループホームはよく情報が入りますが、そこで住めなくなった高齢者はどこに行くのかは知らされていない。また、グループホームでの医療がどうなっているかも日本に情報が入りませんね。痴呆の高齢者は急性疾患にかからない、ということはありませんからね。
 北欧の福祉を日本に紹介してくる人々の中には、意図的な情報操作があるのではないでしょうか。」(滝上の発言、横内・滝上[1995:260-261])

★24 一月のフォーラムでも「横内氏の「みなし末期」批判を基調講演(横内[1998a]と同趣旨)とし、開催のよびかけ文においても、「終末期でない状態にまで終末期を拡大解釈し」と、我々の批判の基軸を明らかにしている。私の論文も横内氏の「みなし末期」論を基礎にしながら論理を展開した。もし本気で「医療を否定していない」というのなら、誤解・曲解を言う前に、広井氏は「みなし末期」を明確に肯定している共著者の竹中氏と見解が同じであるのかどうか、末期の定義を改変する意図があるか否かを明らかにすべきである」(石井[1998b(上):14])
 「みなし末期」という語は横内の言葉であり、一九九五年の滝上との対談(横内・滝上[1995]→註(4))、横内[1996][1997]等で説明されている。また著書『「顧客」としての高齢者ケア』でも高齢者への医療の打ち切り・非開始、尊厳死についての記述がある(横内[2001b:4-5,101-102 etc.])。

★36 横内はずっとこのことを述べてきた。
 「北欧諸国では延命治療はやらないということですが、それは単に延命治療の放棄ということに止まりません。疾患の治癒の可能性までも放棄しているのではないでしょうか。
 よく北欧の高齢者事情を紹介した本では、老人ホームにおいて、徐々に衰弱し、食事もとれなくなり、水もとれなくなり、静かに息をひきとります。これが「みなし末期」です。一見、老衰に似ていますが、全く違います。衰弱し食事も水もとれなくなった原因は、多く脱水か急性疾患にありますから、その原因を取り除けば元気な姿に戻ります。実際、点滴一本だけで回復する場合もよくみられるはずです。決して、老衰死ではありません。
 つまり、北欧では、食事をとれなくなった状態を意図的に末期とみなして治療しないという、国民の合意が成立しているのです。私は、末期には三つあるといいましたが、第一の「老化の末期」、第二の「生命の末期」に対して、これを第三の「みなし末期」と呼んでいます。日本では、「生命にとっての末期」にどのような医療をとるかという問題でさえも社会的合意は得られていません。まして、「みなし末期」については、議論さえ始まっていない。北欧と日本との、老人医療に対する価値観の落差は、我々の予想をはるかに越えているのです。」(横内の発言、横内・滝上[1995:264])


UP:20061229 REV:20071221,23,28 20080329,0414 20090305, 20130928
老い  ◇安楽死・尊厳死  ◇WHO 

TOP HOME(http://www.arsvi.com)