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『ケアってなんだろう』・2

医療と社会ブックガイド・62)

立岩 真也 2006/07/25 『看護教育』47-07(2006-07):
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http://www.igaku-shoin.co.jp/mag/kyouiku/


※この文章の全文(にいくらか捕捉を加えたもの)は以下の本に収録されました。
◆立岩 真也 201510 『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』,青土社 ISBN-10: 4791768884 ISBN-13: 978-4791768882 [amazon][kinokuniya] ※ m.


 いくつもの話を中断してしまいながら、互いに関係はしている幾冊かの本を紹介してきた。つまり、3月号5月号で天田城介の本を1冊ずつあげながら、それらの本の中味には立ち入らず、いったい何を書いたらよいのだろうというようなことについて書き、4月号6月号では小澤勲が書いた本、関係した本を紹介した。いずれも認知症の人に関わる本だった。
 6月号の続きから行こう。取り上げたのは『ケアってなんだろう』だった。その中の天田との対談で、小澤はあなたの仕事のもとになっているものがあるだろうと幾度も問われるが、彼は、B:それは現場でだんだんとできてきたのだと、その場その場でやっていくしかないのだと答える。そうした問答が幾度か繰り返される。
 それはきっとそうなのだろう、小澤はそのように思っていて、そのように答えるしかなかったのだと思う。ただ、そのように答えられて、こちらが、不満ではあるとしても不安にはならないとしたら、そこには何かがある。小澤さんならたぶんだいじょうぶというものがあるのだ。というのも、ただ医療者側の感覚、判断、恣意でものごとが運んでいったなら、とても困ることもいくらでも起こりうるからであり、実際起こっているからである。「現場感覚」「匙加減」はときに一番危ないものである。
 恣意は危ない。では、C:マニュアルを作り、ガイドラインを作って対処すればよいのだろうか。しかし、微妙なところが難しくもあり、また大切でもあるのだった。
 「ほんとうはマニュアルやテクニックとして提示しなければいけないところでも、ぼくはなかなかそうしきれませんね。」(p.33、田口ランディとの対談の中で)
 現場の裁量にまかされることによって困ることもあるのだが、今度は、マニュアル通りにやっていますということで手抜きが行なわれ、自らを免責し正当化することがなされる。だからこれもよいやり方とは限らない。
 さてどうするか。いずれでもない答、つまり、A:本人に決めてもらうという答があるにはある。そうすれば、供給者の側の裁量も、また利用者・供給者双方を守りまた規制するきまりもなくてすむ。もっとまじめにその可能性は考えてよいと私は思う。しかし小澤が相手にしている人たちの場合、本人に聞けないからこそ、あるいは聞いたままにできないからこそ、医療者の側が対応を考えざるをえないことにもなっている。
 こうして、本人が決めるのとそうでないのと大きく2つあり、さらに後者をBとCとに分けると、3つはある。そして、いずれも決定的ではない。
◇◇◇
 「ケア」は既に行なわれていて、既に多くのことを私たちは知っている、少なくとも知っているような気がしている。既に知っている社会のことについて、何を調べたらよいだろう。何を書いたらよいだろう。書かれたものを読んでも多く既視感がある。ここがなかなか難しいと5月号で述べた。
 けれど、知っているようでわかっていないこと、そんなことも意外に多い。例えば、いまあげた3つが各々どのように使われているのか、また使い分けられているのか、それが何をもたらしているのか。それらを調べることができる。ただそのときには、3つのやり方にそれぞれ得失があることに注意深くあった方がよい――調べていけば、おのずとわかるはずなのではあるが。そのことに気がつかないと、例えば、現場での「臨機応変」な対応等々がなされていることにただ感心して終わってしまうことになりかねない。
 以前、『季刊社会保障研究』で三井さよの『ケアの社会学』(2004年、勁草書房)を評したときにも同じことを書いた。(とくに日本では、書評はその本のわかりやすい要約として機能していて、その点では私のその書評は書評たりえていないかもしれない。かなり平明に書かれている本より分かりにくい書評になっている。しかし私は、いつもの書評より多い紙数をもらったこともあり、よくできたその本に対して、そのことを書くしかないと思って書いたのではある。)
 三井が取り出すのは、看護の現場での「戦略的限定化」と「相補的自律性」である。[…]

 […]

 例えばこのたびの「尊厳死法」騒動にしても、種々の利害が絡んでいるはずである。かなりの程度医療の側の裁量でやっているのだが、ことがことだけに訴えられたらどうしよう等々、気になることはある。また、生死に関わることを医療者の側が判断・決定するのは、ときには気の重いことである。だから、どこかで決めてもらった方が楽だと思う。そこで、「ルール」を決めてほしい、本人がよいと言ったらよいことにしてほしい、よいことにするルールを決めてほしいということになる。そうした事情があることは、だいたい見当がつくのだが、そこをもっと詳しく明らかにすることがなされてよいはずである。
◇◇◇
 さてそうして、実際に起こっていることがわかったとしよう。ただこのことは、ではどうしたらよいかを直接に導くものではない。どんな場合に、どちらが、どのようによいのかが問題になる。そしてそのときの基準は何なのかという問題がある。そして、いずれにも限界がある場合、しかしいずれかでいくしかなく、例えばさきのBでいくとして、そこに可能性としては必ずある危険を少なくするものは何なのか。こうした問いがある。そして、これらの問いは基本的には同じ問いであり、答えも同じであるはずだ。
 そしてその答が小澤にあるから、不安ではない、たぶん大きな間違いは起こらないだろうと思えるのだ。だいじょうぶだと思える理由は、難しい理由ではない。殺されたりすることはないだろう、邪険に扱われることはないだろう、否定されることはない、任せておいてもそうまずいことにはまずならないだろうと思えるということであく。私は、この単純なものがあの人たちによって獲得された、あるいは維持されてきたのだと思う。それがあの人たちから受けとるべきものだと思う。
 前回紹介したように、小澤は、とくに同業者との対談で自らを反省し、かつて自分(たち)は図式的であリ政治主義的であったと言う。たぶんそれはそのとおりだ。その頃実際に起こったことには、ときにかなりぶざまでどろっとしていて醜いといってよいようなこともあったはずだ。また、それほど信じてもいないのに図式的であったりもしたことがあったはずだ。そこで、小澤はもっと仕事に内在的なところから、仕事を再開していかなければならないと思ったと言う。それは偽らざるところだとは思う。そんなこともあって彼は時代について語らない。
 私は、その時代に示された理論に受け取るべきこまごましたものがそう多くあるとは思わない。ただ、基本的なかまえとして獲得されたものがある。それがその時代がくれたものであり、小澤が自分の持ち場で獲得してきたものだと思う。そしてそれは、この本では、例えばスウェーデンに行って感じた違和感を口にする田口ランディとの対談で述べられている。
 さて、その人たちのいくらかは「政治」からいったん足を洗った。そして、やわらかでおもしろい部分を作ってきた。ただ、私は、政治の季節がまたやってきていて、不幸なことに、短くともしばらく続くだろうと思う。すると、その政治の場は、損耗しときに空疎であるがゆえに退却するべき場ではなく、損耗し空疎ではないように、組み立て組み替えてゆくべき場だということになるだろう。
 そしてこのことが、全体として平和な感じのこの本に示されている。説明しよう。小澤が立っている場所がなければ、現場主義は最も危険なものである。にもかかわらずこの本が基本的には幸福感によって包まれているのは、はっきりとした立ち位置が存在するからである。これは論理的に明らかなことである。そして、その立ち位置が、いま試されてしまっているのである。

■紹介した本

小澤 勲 編 20060501 『ケアってなんだろう』,医学書院,300p ISBN: 4-260-00266-X 2000 [amazon] ※,

■再録

◆立岩 真也 201510 『精神病院体制の終わり――認知症の時代に』,青土社 ISBN-10: 4791768884 ISBN-13: 978-4791768882 [amazon][kinokuniya] ※ m.


UP:20060528 REV:0601(誤字訂正)
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