「(続)介護保険はなぜ失敗したか――21世紀の社会保障制度とは」
滝上宗次郎 20010210 『週刊東洋経済』5677:78-81
■滝上 宗次郎 20010210 「(続)介護保険はなぜ失敗したか――21世紀の社会保障制度とは」,『週刊東洋経済』5677:78-81
[論点]21世紀の社会保障制度とは
(続)介護保険はなぜ失敗したか
2001.02.10 週刊東洋経済 第5677号 78〜81頁 4頁 写図表有 (全6,853字)
有料老人ホーム グリーン東京 社長 滝上宗次郎
要点
1 デンマークでは、日本と比べて要介護者が早死にするし、死生観も違う。それを考慮せずに日本がまねするのは無理がある。
2 90年代の介護保険運動は、保険は権利だ、家で死ねる、嫁の解放など幻想のヒューマニズムに彩られ、忘れられた10年だった。
3 今年は高齢者医療が焦点になる。介護保険のように意図的な情報操作を行い、厚生労働省に都合がいい形で改正してはならない。
たきうえそうじろう
1952年、東京都生まれ。77年一橋大学経済学部卒業、三菱銀行調査部を経て、87年から現職。一橋大学経済学部・東京女子医科大学非常勤講師。
著書
『厚生行政の経済学』(勁草書房)、『終のすみかは有料老人ホーム』(講談社)など。
在宅介護は、当初予測した市場規模を三倍以上も上回る巨額なものとなる。その財源は保険方式では到底賄えるものではない。
低所得の高齢者にとって月に一五〇〇円の介護保険料は重く、全国各地で滞納者が多い。半額免除の措置が外れて三〇〇〇円となる今年10月からはいったいどうなるのか。確かに、高齢者は平均値で見れば他の世代に比べて資産がある。だが世代内部では貧富の差が大きく、二極化している。となれば、保険料を数倍に引き上げて財源を数倍にする方法は、貧しい層の存在によって絶対に採れるはずがない。
筆者は本誌昨年9月2日号論点「介護保険はなぜ失敗したか」(以後、前作という)で、保険方式にしたことで、制度の運営が困難になったと述べた。今回は、財源面でも保険方式は決定的に間違っていたことを検証したい。
市場規模の予測をミス税法式への移行は不可避
なぜ厚生労働省は、市場規模の予測を極端に低く見積もるという過ちを犯したのか。それは、二つのアプローチの方法がともに間違っていたことと、二つの計算結果が偶然にも一致したからでもあろう。
一つは、現状の家族介護にどれほどの費用が投じられているのか、というアプローチであった。アンペイドワークである家族介護を、給料をもらうホームヘルパーが行ったとして換算した。1993年の値で、約二兆円であるという。介護保険法創設の中核を担った旧厚生官僚らは共通してこう述べている(『社会保険旬報』96年2月11日号)。
−−介護保険とは、家族が私的に負担していた介護費用を社会全体で負担しようとするものであるといえる。したがって、介護保険が導入され、そのための費用負担が生じても、家族の負担が減って、社会全体としても負担はさして変わらない。
要するに、家族の介護は大ざっぱに見て平均が、一回三〇分の家事や介護を一日六回して合計三時間、それに時給一〇〇〇円を掛けて三〇〇〇円。ついては在宅の介護費用は国全体で年間約二兆円になる、といった計算であろう。
これはおかしい。というのも、ホームヘルパーが町に点在する家々を回るとなると、往復のロスタイムなど労働の経済性は失われてしまう。合計で三時間の介護を一日に六回に分けて訪問すれば、その費用は三〇〇〇円の三倍以上かかる。したがって、要介護者が今より少なかった93年の時点でも、在宅ケアだけで六兆円を超える財源が必要だ。
二つめのアプローチは、人口五〇〇万のデンマークでの総介護費用をそのまま一億二〇〇〇万の日本に置き換えるというものである。高根の花に見える北欧の福祉を日本でも実現できると説き明かし、デンマーク神話の端緒を開いた『デンマークに学ぶ豊かな老後』(岡本祐三著、90年、朝日新聞社)はこう語る。
−−訪問看護婦、ホームヘルパー、補助器具支給などの各種社会資源について、その項目だけみて、日本で「デンマークなみ」の老人ケアを実現しようとしたら、いわば「最低限度」の必要分として、「四兆円強かかるだろう」という結果になった。
すなわち、四兆円強から施設介護の費用を除くと、在宅ケアは同じく年間約二兆円となる。そして「わずかな金額ではありませんか」と付け加えた。理想の福祉国がわずかな金額で維持できるはずはない、という矛盾にはまったく気づかなかったようである。筆者が前作で指摘したように、実際はデンマークのヘルパーは家事援助が主体であり、医療は不完全であるために高齢者が要介護である期間が相当に短いから、「わずかな金額」ですむのである。
デンマークの福祉は自分の力で生きること
デンマークの福祉の基本は、help to self‐helpという言葉で言い表される。その理念は極めて高いが日本とは別物である。自分の力で生きなさい(self‐help)、そのための援助を社会は惜しまない(help to)ということである。日本の地域医療を代表する諏訪中央病院の内科医長である吉澤徹氏と看護婦の吉澤薫氏が、昨年11月25日号の本誌に次のように書いたが、まさしくそのとおりなのである。
−−デンマークでは、ヘルパーは「フォークを握って」「ソフトドリンクを一口どうぞ」と誘導し、時に一口大に切り分けてお年寄りが食べるのをじっと見守ります。
デンマークの補助器具はself‐helpを援助するために開発されたといっても過言ではない。握力が衰えても利用できるようなフォークやコップなどが数多くある。
筆者は90年にデンマークを訪問し、圧倒された。当時の日本に見当たらなかった指先だけで操作できる高額な電動の車いすを多くの高齢者が利用していたからである。しかも、市町村は無料で高齢者に貸していた。これが世界一の福祉か、百聞は一見にしかずだと驚嘆した。しばらくして、高齢者は自力で移動するように社会から求められていることを知った。寮母が車いすを押す日本とはまったく違う世界があった。
自力で食べられなくなれば、助けてくれる子供は同居していないから、独居の高齢者にとり悲惨な結末はすぐにやってくる。それに対して、日本で介護といえば新聞に載る写真も、テレビの映像も、口に食事を運んであげることである。
こうした彼我の違いのほかに、筆者はデンマークから多くのことを学んだ。介護を受ける高齢者がヘルパーに要望や苦情を堂々と言っていたが、それは当時の日本では考えられなかった。痴ほうの高齢者については、古くなってセピア色になった家族の写真が施設の個室の壁に多数飾られていた。若いときの記憶はしっかりしているからである。数々の現場ノウハウが筆者のホームの運営に取り入れられた。しかし、見学する日本人の側に盤石の視点がないと、基本思想が異なるためにデンマークをまねすることは取り返しのつかない失敗となる。
ナーシングホームを見学したときに、筆者は質問した。「元気な痴ほうの高齢者しかいらっしゃいませんが、身体的に要介護となった方はどうしていますか」と。他の施設に移すという返事に対して、筆者は「そこもぜひとも勉強したい」と何度もお願いした。しかし「お見せすることはできません」と断られた。ホームの職員はどのような気持ちで、自分たちがお世話してきた高齢者をその施設に送るのだろうか。他国の人に見せられない施設では何が起こっているのだろうか。日本人である筆者には、越えることのできない文化や宗教や死生観の違いを感ぜざるをえなかった。
他国のまねがどんなに危険か。たとえば今の日本では、痴ほうの高齢者対策の切り札として、スウェーデンで開発されたグループホーム(一〇人未満の元気な痴ほうの集合住宅)が話題になっている。しかし、体力を失えば退去せざるをえないが、受け皿は考えられていない。
約八割が病院で死亡する日本にあって、諏訪中央病院は在宅死の比率が極めて高い。その傾向に長野県もあり、県全体で三割を超えて全国一だ。在宅死は、同居する家族の手厚い介護のお陰である。
東京の下町である足立区千住は今でも多くの親子がともに暮らしている。そこに地域に根づいた柳原病院があり、訪問看護の一大拠点を形成している。その実践と理論のリーダーである宮崎(大沼)和加子看護婦が書いた『家で死ぬ』(同僚の佐藤陽子氏と共著、89年、勁草書房)は、介護に携わる者にとって得がたい教材である。一九人の高齢者が在宅死に至るまでの、数カ月から数年間の並大抵ではない関係者の努力が丹念に描写されている。
一九の事例の一つ一つがいずれも独居ではない。住み込みの家政婦を雇う資力があれば別だが、家族の多大なる介護なくして家で死ぬことはできない。たとえ、看護婦やホームヘルパーが一日に何度と訪問しても独居の在宅死はまず不可能である。筆者は、有料老人ホームで一五年働いてきた経験からもそう思う。
独居の高齢者はいかに死を迎えるのか
そこで疑問が出てくる。病院死がほとんどなく、施設もやめてしまって皆が在宅介護となったというデンマークでは、どうやって在宅死が可能であるのか。
突然くる脳卒中や心臓発作によって即死となる場合を除いて、いったい、デンマークのように独居の高齢者の在宅死はありえるのかを、諏訪中央病院はその日々の業務から熟知しているはずである。それを公表する社会的責務があろう。
諏訪中央病院の前院長である参議院議員の今井澄氏(民主党の影の厚生労働大臣)は、昨年11月の参議院国民福祉委員会でこう述べている。
−−長野県は医療費が(全国で)一番低いから、じゃ医者にかかれなくて不幸な目に遭っているのか。そんなことはないですよね。平均寿命は全国一と言ってもいいです。……長野県並みの医療費にすることができるんですよ、同じ日本人だったら。(議事録による。カッコ内は筆者)。
熱烈に介護保険を推進してきた今井氏が、津島雄二大臣(当時)を相手にしたこの発言はいただけない。介護保険の理念とは家族介護を否定しているからだ。したがって、長野県は入院という高額な医療手段を使わずに往診によって在宅死を推進して医療費を抑えているものの、全国一ともいえる嫁の介護がなくなれば長野県の老人医療費は一気に膨張するだろう。今井氏が主張する政策はどうしても今夏の参議院選挙目当てに見えてしまう。確かに長野県の平均寿命はトップレベルにあるが、それは県民の約三%にすぎない要介護者によって左右されてはいない。高齢者が七〇歳や八〇歳を超えても農業などの自営業に従事して体を動かし、長寿のためであろう。
朝日新聞の社説は、長年にわたり歯の浮くようなデンマーク神話を増幅させながら、介護保険推進の世論をリードしてきた。訪問介護の混乱が誰の目にも見えてきた昨年9月15日の敬老の日には、デンマークでは施設をなくしてしまい、多数が在宅でケアスタッフによって「食事の介助」を受けている。国際的には、デンマークのような方向が当たり前、と訪問介護を一段と強調した。
これでは、誰もがデンマークでは手厚い医療と介護があるために家族が同居していなくても家で死ねる、と思い込むのも無理はない。しかし、事実はそうではない。医師であり宮古市長でもある夫とハメル市を数日訪れた熊坂伸子氏は、自らのホームページでこう語っている。
−−デンマークでは、老人が死を迎える場所は介護センターやケアハウスなどの施設が圧倒的に多い。自宅での死というのは若い人の病気や事故がほとんどである。
すなわち、大量の人員を必要とする在宅死を選ばずに、これまでは常に職員のいる施設に移されて死んでいたということだ。昨年、三カ月もの間、「高齢者の福祉と医療を勉強するために」同じハメル市に滞在し、「現場をつぶさに体験しました」と本誌に書いた諏訪中央病院の吉澤氏は、施設は今はなくなったと主張するものの、死に場所についてはその実態を詳細に知っているはずである。それを隠して、見聞録的な言い回しを用いてデンマークには日本並みの老人医療や食事の介助があると全体像を曲げて主張した。ゆがんで伝えられたデンマーク神話をなおも必死に維持しようとする試みは、日本の21世紀の社会保障制度改革を混乱させるだけだろう。
医学の進歩にもかかわらず長くならない平均余命
国連の人口統計を見てみよう(八一ページ図)。日進月歩の医学の発展にもかかわらず、デンマークは男女ともに82年以降は七五歳時点の平均余命が横ばいに推移している。一方、日本は一貫して伸びている。
春山満氏は『介護保険・何がどう変わるか』(99年、講談社)で、日本の特別養護老人ホームでの入所期間が五〜一〇年であることを前提にして、強い疑念からデンマークのホーム長に質問する。
−−「そうすると、自分がここへ来ると半年から一年で死ぬということをわかって来るんですか?」
「たいへん答えづらい質問ですが、そのとおりです」
そして、「私が見落としてきた点、それはまさに福祉先進国デンマークの手厚い福祉政策の一方にある厳しい死の選択です」と感慨を述べるのである。
本誌12月2日号に「北欧の高齢者医療はなぜ伝えられないか」という副題で、横内正利医師は北欧の優れた一面だけを日本に紹介してきた医師やジャーナリストに対して、日本国民を愚弄していると批判し、「日本は、日本にふさわしい独自の高齢者福祉・高齢者医療を目指すべきだ」と結語した。
市野川容孝東大助教授は、福祉国家は優生学と親和性があると述べている(立岩真也著『弱くある自由へ』2000年、青土社)。誰が「生きるに値する」のかという選別の問題が、「すべての者に」という理念とは矛盾する形で出てきてしまう。つまり、福祉の理念は天井知らずだが、財源は有限だからというのである。優生思想は人間に序列をつけて間引きする。劣生を排除するための不妊手術を認めた優生保護法はナチス的であるとして96年廃止されて、日本の医療には今のところ優生思想はない。
だが、人間に序列をつける考え方が、高齢化に伴って頭をもたげてきたことを筆者は深く憂慮する。すなわち、終末期医療費が極めて高額で無駄な医療であるかのような事実無根の情報を流して、「延命医療は疑問」「健康寿命が大切」といった宣伝活動が出てきたことである。
前者は、延命医療という言葉を救命医療に置き換えれば打ち消すことができる。国民、さらにはマスコミまでもが高齢者における延命医療と救命医療の違いを理解できないでいる、という死角を突いた絶妙な死のスローガンである。後者は、体力の衰えた高齢者の人命の貴さを卑しめている。これらのプロパガンダを行う厚生労働省や経済学者は、自分たちは憲法二五条の生存権を認めていない、ということを国民の前に明らかにしてほしい。
昨秋、御用機関である医療経済研究機構は、「終末期におけるケアに係わる制度および政策に関する研究」という報告書を世に出した。「死亡直前の医療費抑制が医療費全体に与えるインパクトはさほど大きくないと考えられる」と正確な記述もあるものの、一〇〇ページを超えるこの報告書は、全体が高齢者の生存権を否定する思想で満ちている。その表題にあるように「政策に関する研究」だからであろう。
昨年の老年医学会学術集会の会長を務めた佐々木英忠東北大学教授は94年にある調査を行った。人口一・五万人の宮城県のある町では、死亡直前一・五カ月間の医療費は八四歳前では約七〇万円であるのに対して、八五歳以上は二〇万円、九五歳以上は一〇万円と極端に少ない。
ではなぜ高齢者医療が無意味であるという一部の世論があるのか。それはがんの末期に焦点を絞ってマスコミが繰り返し報道するからだろう。苦痛を和らげる以外の延命治療はせずにホスピスに移ったり、住み慣れた自宅に戻って最期を充実して過ごすがん患者は少なくない。しかし、治る見込みがなく、苦痛があり、余命があと少し、だと予測できる病気はほかにどれほどあるのか。さらに高齢者のがんならば、多くは苦痛もなく進行が極めて遅い。余命は判断できずとても長いのである。
経済学者は、非高齢者のがん患者への延命医療を例に挙げて、まったく根拠もなく要介護の高齢者の救命医療までも否定するが、人命無視もはなはだしい。厚生労働省は、弱者の人権無視に転化しやすい「健康日本21」運動を即刻やめるべきだ。早朝に庭師が盛りを過ぎた花を刈り取るバラ園はいつ見ても美しい。だが、日本社会はバラ園ではない。
厚生労働省は、介護保険で財政的に大きな失敗をした。それを取り返そうとして高齢者を狙い撃ちにし始めたとすれば、薬害エイズ事件の反省は早くも官僚の脳裏から消え去ったと言わざるをえない。
21世紀にふさわしい社会保障制度の改革とは、国民へ真実の情報を提供することが第一である。医療は、社会的入院や薬剤費をまず是正すべきだ。老人医療費の伸びを抑えようと、病院死を減らし在宅死の比率を引き上げたいと愚考するならば、介護保険は、家族介護への現金給付を実施すべきだ。それでも高齢化によって社会保障費は増える。その財源は欠点を改良した消費税である。