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Resource|資源/の不足について


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 *財源(政府などの収入源)source of revenue/(一般的な収入源)source of income
  資源・財源 resource 人的資源 human resource

  関連項目:人口

◆立岩 真也 2019/12/26 「ともに生きることと優生思想 社会学者・立岩さんの視点――相模原事件を考える〜公判を前に」,『毎日新聞』2019-12-26

◆立岩 真也 2015/03/07 「唯の生」,立命館大学土曜講座 於:立命館大学衣笠キャンパス

◆立岩 真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 [amazon][kinokuniya] ※ d01.et.,
第3章 犠牲と不足について

1 不安と楽観
 1 不安と楽観について・2 要約
2 避けられない場合
 1 共有財−生命の犠牲・2 私見・3 犠牲は不要であること
3 不足/の不在
 1 もの・2 人
4 移動/増加
 1 同じなら同じでしかない・2 増える
5 どこから計るか
 1 「自分のため」が届く範囲・2 生産への貢献という理由・3 代わりに――いっそ原則をはっきりさせること
6 枯れ木に水、がよいについて
 1 そう景気のよい話はできない・2 ただし、条件を加えた場合
7 何が妨げているのか
 1 利害・2 だが味方の方が多い・3 生産・成長のための我慢という話
 4 国際競争という制約・5 どこでもできることではないという話に対して
8 それでよい/それでも
 1 それでよい・2 それでも憂える良識的な人たち・3 受け答えについて

◆立岩 真也 1997/09/05 『私的所有論』,勁草書房,445+66p. ISBN-10: 4326601175 ISBN-13: 978-4326601172 6300 [amazon][kinokuniya] ※
◆立岩 真也 2013/05/20 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版,973p. ISBN-10: 4865000062 ISBN-13: 978-4865000061 1800+ [amazon][kinokuniya] ※
Tateiwa, Shinya(立岩 真也) 2016 On Private Property, English Version, Kyoto Books

 chap.4 note 14
 One debate regarding the distribution of medical resources involved the assertion in Sade [1974] that the right to receive medical services is only a negative right and the criticism of this position in Beachamp and Faden [1979]. While presenting claims that receiving medical treatment is a negative right that follow from the arguments discussed in Chapter 2 of this book, Engelhardt [1986] at the same time also examines other lines of argument, and in the end does not clearly support any one stance. Other relevant texts include Singer [1976], Veatch [1976], Daniels [1981] and Childress [1981:74-97]. In cases in which equal medical care cannot be given to everyone, Ramsay [1970b] advocates indiscriminate selection through a "human lottery." My view is in Tateiwa [2008b] and Tateiwa & Hotta [2012].

 「◇14 医療資源の配分についての議論として、医療サービスを受ける権利は消極的権利でしかないとするSade[1974]、こうした主張を批判するBeachamp & Faden[1979]。Engelhardt[1986=1989:407-456]では、一方で第2章に見た議論からそのまま導かれる消極的権利の主張を紹介しつつ、他方では別の論の筋も検討▽292 しており明確な主張はなされていない。他にSinger[1976]、Veatch[1976]、Daniels[1981]、Childress[1981:74-97]等。全員に平等な治療を施せない場合に無差別選択(ヒューマン・ロッタリー)を支持するのはRamsey[1970b]。【日本では経済学者による著作がいくらかある→hp[医療経済]。それらの多くは現実の記述・分析だが、そこに示される現在の数字や将来の予測をもとにして、あるいはより漠然とした不安から、この国に限らないのだが、その抑制が常に語られてきた。】」

◆1950年代 「人工呼吸器を用いて換気を行なう方法は麻酔の分野以外に他の面にも広がって来た。/この大きなきっかけとなったのは1952年におけるコペンハーゲンにおけるポリオの流行である。この時呼吸麻痺に対する治療としては気管切開をした後、気管カニョーレを介して手でバッグをおして人工呼吸を行ったのであるが、バッグをおす人があまりにも多く必要だったので、デンマークの医科大学の殆んどの学生を必要とする程であった。/このためポリオによる死亡率は80%から25%までに低下したが、これが契機となってヨーロッパ各地では人に代る人工呼吸器の開発に迫られたのである。」(山村[1991:7])
◇山村 秀夫 1991 「人工呼吸器の歴史」,天羽編[1991:3-10] [14]
◇天羽 敬祐 編 1991 『機械的人工呼吸』,真興交易医書出版部 ※ b

廣松渉 1972 『現代革命論への模索』,新泉社→1975 改装版

 「われわれは、もとより『ゴーダ綱領批判』にいう共産主義の第二段階に一足とびに移るわけにはいかない。しかし、第二段階の共産主義は、果たして、一部の論者が考えるほど、”気が遠くなるような将来のこと”であろうか? なるほど、マルクスの時代には、それは遠い将来の理想であったかもしれない。だが、現代資本主義は、マルクスの予想を超えて発展をとげてはいないか? われわれは、現代資本主義がマルクスのいう第一段階を実現したなどという馬鹿げた主張をするつもりはない。しかし、マルクスが第一段階の途中ではじめて実現されうると考えたいくつかの条件が、変□した形においてではあれ、□る程度現実化していることに着目することができる。例えば、「児童労働の全般的禁止は大工業の存在と両立できない。それは空疎な叶わぬ望みである」とマルクスは主張しているが、今日の生産力水準はおそらくマルクスが第一段階もかなり進んでからはじめて実現されると考えた水準に達しているといえよう。生産と流通の組織化という点についても同様である。端的にいって、経済と密着している方面での客観的条件は、今日すでに、マルクスが第一段階の途中になってようやく実現され(p.232)ると予想した水準に到達している。この限りで、第一段階を跳び越すことはできないにせよ、第一段階の途中と考えられていた地点、いわば第一段階と第二段階との中間ともいうべき地点を、われわれは直接的な射程に収めることが可能ではないのか。」(廣松[1972→1975:232-233])

 cf.立岩 真也 2004 『自由の平等』,岩波書店
 「☆02[…]なお十九世紀後半に夢想された社会の現実的な条件は既に存在していると見ることもできるのではないかと廣松[1972→1975:232-234]に述べられているのを[2000a]で紹介した。」(立岩[2004:288]・序章注2)

◆生命保険協会・成熟化社会特別研究チーム 1980

「老齢化社会が進み老齢者が人口の多数を占めるようになると、……老齢者のための福祉コストが労働者に重くのしかかり、その旺盛な活力を阻害することになる。しかも、政治的な配慮から福祉コストを個人から企業へ転嫁すると、その過重な負担により、企業経営力が脆弱化し国際競争力を著しく弱め、国の経済地位も低下し続け、その結果一億総貧困化へと沈んでいくことになる」(生命保険協会・成熟化社会特別研究チーム[1980:280],河口・川上[1989:266]に引用))

◆丸尾直美 1981

「人口構成の高齢化は経済にもさまざまな影響をあたえる。第一に、人口の中に占める生産年齢人口の比率が低下するため、他の条件が等しいかぎり、国民一人当りの実質生産高ないし、実質国民所得の成長が鈍化する。第二に、人口構成が高齢化して高齢の扶養人口の比率が高まると、高齢者のための年金、医療費、社会福祉サービス費などの費用負担が重くなり、……この費用負担が経済成長にとってはマイナスの影響を与える」(丸尾[1981:198],河口・川上[1989:263]に引用)

森岡正博 1988 『生命学への招待』,勁草書房

 「私が苦しむのがいやだという利己的傾向が姥捨山行為を生み、その姥捨山行為が今度は再び私を苦しめる。それにもかかわらず、姥捨山行為を生む原因となった利己的傾向を、私たちの多くは、決して克服することができない。……姥捨山問題が生じる状況において、正論の倫理学は不毛である。……姥捨山問題の最大の特徴は、それが、自らを見えにくくする仕組みを備えていることである。」(森岡正博,『生命学への招待』,勁草書房,1988,pp.246-247)

cf.立岩 真也 2000/03/05 「選好・生産・国境――分配の制約について(下)」,『思想』909(2000-03):122-149 関連資料
 「☆18 […]森岡正博が「姥捨山問題」について論じている(『生命学への招待』、勁草書房、一九八八年)*。「私が苦しむのがいやだという利己的傾向が姥捨山行為を生み、その姥捨山行為が今度は再び私を苦しめる。それにもかかわらず、姥捨山行為を生む原因となった利己的傾向を、私たちの多くは、決して克服することができない。…姥捨山問題が生じる状況において、正論の倫理学は不毛である。」(二四六−二四七頁)問題の源泉を、しばしば何か外側にあるもの、私(たち)ではないものに求めてしまうことに対し、そうではないのだと森岡は言う。この指摘は重要である。森岡は、後に、とくにこの部分が彼のこの最初の著書で引き継いで考えるに値する部分だとして、考察を継いでいくことになる。ただ、一人一人にあるものから考えようというこの方向は、かえって「欲望」「文明」(大文字の)「システム」といった、かなり普遍的なもの、一般化されたものを説明項としてしまうことにもなりうる。すべてが説明されるとも言えるが、それで終わってしまうことにもなる。(それは「欲望」が単一のものであることを意味しない。むしろ右の引用からもわかるように、複数の相反するものが同時にあることがふまえられる。ただ、両極の二つのものが立てられると、すべてのその二つのいずれかの割合での組み合わせで「説明」されてしまう。)私は、現実にはいくつもの仕掛けがあり、もう少し細かな多様な線が入っているだろう、まだら模様があるだろうと思う。(註(25)でも関連したことを少し述べる)。例えば「ケア」について語る「哲学的」「思想的」な言説の多くが、基本的に正しいことを語るのだけれども、そして聴くべきことも多いのではあるけれども――うるわしいものについて語ってしまう分、「姥捨山問題」を正面に持ってきてしまう森岡よりもさらに――関係や社会の構成、屈折、現に作動している力学、力関係を略してしまって、その結果、時に出口が違ってしまったりする。相当数の要素・部品の性質とその組み合わせについて考える必要があるのだが、それを十分に考えていくことができたら、そこから可能な社会のあり方を考えることができると思う。それは(「人文科学」との棲み分けにそうこだわることもないのではあるが)「社会科学」のする仕事としてなかなかおもしろい仕事だと考えている。
 『現代思想』二〇〇〇年三月号が「介護」を特集するが、それに掲載される論文では、このような視点からもいくらかのことを述べる。」

cf.立岩 真也 2002/02/25 「森岡正博の本」(医療と社会ブックガイド・13),『看護教育』43-02(2002-02):118-119(医学書院)

◆今井 敬(経団連副会長) 199608
 「経済活力維持のために国民負担率の抑制を」
 http://www.keidanren.or.jp/japanese/journal/jou9608.html
 (以下は上記ホームページよりの引用。直接ホームページをご覧ください。)

経済活力維持のために国民負担率の抑制を
今井 敬
経団連副会長

 世界に類を見ない高齢社会を迎えるわが国では、国民負担率(国民所得に占める租税負担と社会保障負担合計の比率)の上昇が、国民一人ひとりにとっても企業にとっても大変な重荷となってくる。今後も現状の社会保障の給付水準を前提とすれば、今の若い世代が高齢者になる時には、国民負担率は50%を遥かに超えるものと推定されている。社会的コスト負担の増大によって、世代間の不公平が拡大して個々人が働く意欲をなくし、企業が国際競争力を喪失すると、経済の活力が失われる上に国の財政も破綻してしまう。労働力人口と貯蓄率の減少に伴う潜在成長率の低下が懸念される中で、これを克服していくためには、行政改革を行なうことは勿論であるが、医療をはじめとする国民への過剰なサービスを見直すことによって、財政全体の歳出を削減することが何よりもまず必要である。
 その際、国民の間で十分なコンセンサスを得ておかなければならない基本理念は「自己責任に基づく受益者負担の貫徹」である。この考えに立つと、受益をナショナル・ミニマムのレベルで享受できれば、これを超える内容をさらに望むか否かは個人の自由な選択に委ねられ、より高い水準を望む人は自助努力で負担を賄うということになる。
 また高齢者は全て弱者という考え方にとらわれることなく、資産や所得の豊かな高齢者は、後世代に極力迷惑をかけないよう費用を応分に負担することも必要だろう。現役の世代は自分たちにとって暮らし易い未来を作るためにも、また子や孫の世代に必要以上に重い負担をかけないためにも、創造性を大いに発揮して新たな産業の創出と経済規模の拡大に努力すべきである。
 政府も国民も、現状の痛みを恐れて問題を将来に先送りするのではなく、21世紀を見据えて効率的で、世代間でも公平な税制・社会保障制度の改革を推し進めることこそ、安定的な経済成長と、活力ある高齢社会の実現を両立させる方途であると確信する。
(いまい たかし)

◆立岩『私的所有論』p.169より

 「医療資源の配分についての議論として、医療サービスを受ける権利は消極的権利でしかないとするSade[1974]、こうした主張を批判するBeachamp ; Faden[1979]。Engelhardt[1986=1989:407-456]では、一方で第2章に見た議論からそのまま導かれる消極的権利の主張を紹介しつつ、他方では別の論の筋も検討しており明確な主張はなされていない。他にSinger[1976]、Daniels[1981]、Childress[1981:74-97]等。」

◇Beauchamp, Tom L. ; Faden, Ruth R. 1979 "The Right to Health and the Right to Health Care", Journal of Medicine and Philosophy 4:118-130(飯田編[1988:134-137]に坂井昭宏・野村春成の解説「健康権と医療権」)
◇Childress, James F. 1981 Priorities in Biomedical Ethics, Westminster Press(pp.74-97 Allocating Health Care Resources (chap.4)について飯田編[1988:138-147]に谷田信一の紹介「医療資源の配分」)
◇Sade, Robert 1974 "Is Health Care a Right ?", Image 7:11-18(飯田編[1988:129-133]に江黒忠彦の解説)
Singer, Peter 1976 "Freedom and Utilities in the Distribution of Medical Care", Veatch ; Branson eds.[1976:175-193](飯田編[1987:143-145]に今井知正の紹介「医療の配分における自由と効用」)
土屋 貴志 1994 「医療資源の配分の倫理」,『実践哲学研究』17 http://www.ethics.bun.kyoto-u.ac.jp/jk17/tuchiya.txt

◆上條 俊昭* 19971205 「いま、なぜ医療ビッグバンなのか」,西村監修[1997:1-19]
  *(財)医療経済研究機構専務理事 1930年生
 西村 周三 監修 19971205 『医療ビッグバン――どう変わる明日の医療』,日本医療企画,235p. ASIN: 4890413464 2310 [amazon][boople] ※ b m/e01

 六大改革こそ日本版ビッグバン
 このままでは日本経済は医療費増大に耐えられない
 「周知のとおり経済成長は人口増加とかなり密接な関係がある。人口がすう数的に減少すれば、経済成長は困難になる公算がかなり高くなる。人口の高齢化によって、医療費の増大が予想される時期に、経済成長が停滞すれば、どういうことになるかは説明するまでもないであすう。今後、国民医療費の対GNP比は急角度で上昇し、やがて一〇%を超え、ヨーロッパの水準を上回る時期が到来する公算が大きい。
 このような事態が起きれば、日本経済は医療費の負担に耐えぎれなくなる。また、医療制度の運営が行き詰まってしまうだろう。人口の高齢化とともに、国民医療費のある程度の増加は必要だし、また望ましいことでもある。しかし、国全体の経済成長が難しくなる時期だけに、極力医療サービスの効率化を図り、無駄を省き、国民医療費の伸びを適正にすく方策が求められるのは当然の話であろう。」(上條[1997:16])
 →国民の健康づくりを重視すべき

◆西村 周三 20000220 『保険と年金の経済学』,名古屋大学出版会,236p. ASIN: 4815803722 3360 [amazon][boople] ※, b m/e01

◆Zizek, Slavoj 2000
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/zizek.htm
 Butler, Judith ; Laclau, Ernesto ; Zizek, Slavoj 2000 Coningency, Hegemony, Universality: Cotemporary Dialogues on the Left, Verso=20020418 竹村 和子・村山 敏勝 訳,『偶発性・ヘゲモニー・普遍性――新しい対抗政治への対話』,青土社,441p. 3200 ※

 「わたしはいまも、古典的マルクス主義の流れに立って、現代資本主義はまさにその勝利において、月並みな産業資本主義よりも危険な爆発を起こしうる新たな「矛盾」を育んでいると思う。いくつもの「非合理性」がすぐに頭に浮かぶだろう。この数十年の息もつかせぬ生産性向上の結果、失業率は上昇し、長期的視点では、社会を発展させるには労働力の二〇パーセントだけが再生産すればよく、残りの八〇パーセントは純粋に経済的な視点からはただの余剰になってしまっている。」(p.423)

立岩 真也 2000/02/05「選好・生産・国境――分配の制約について(上)」
 『思想』908(2000-02):065-088 関連資料
立岩 真也 2000/03/05「選好・生産・国境――分配の制約について(下)」
 『思想』909(2000-03):122-149 関連資料

◆二木 立 20000420 『介護保険と医療保険改革』,勁草書房,272p. ASIN: 4326750448 2940 [amazon][boople] ※, b m/e01 r01

 「私自身も、一九九二年に、「これからのあるべき在宅ケアを考える場合」には「広義の文化的問題、あるいは価値観に属する問題を再検討しなければならない」と問題提起し、その一つとして「単なる延命治療の再検討」をあげたことがある。
 しかし、本報告書第4章「ターミナルケアの経済評価」(鈴木玲子・広井氏執筆)は、定義・将来<0160<予測・仮定がきわめて恣意的で、費用計算の方法も粗雑であり、結論(死亡場所の大幅な変化――病院死から自宅死・福祉施設での死亡へのシフト――により、二〇二〇年に一兆円もの医療費が節減できる)は、誤りである。以下、その理由を示す。」(二木[2000:160-161])
 →『「福祉のターミナルケア」に関する調査研究事業報告書』(1997)〜 cf.資源

◆二木 立 20011120 『21世紀初頭の医療と介護――幻想の「抜本改革」を超えて』 ,勁草書房,308p. ASIN: 4326750456 3360 [amazon][kinokuniya] ※, b m/e01

第3章 わが国の高齢者ケア費用―神話と真実
 「現実に即して終末期を死亡前一ヵ月間に限定すると、わが国の終末期入院医療総額(老人分+「若人」分は一九九八年度で七八五九億円であり、国民医療費のわずか三・五%にすぎない。これは、厚生労働省の外郭団体である医療経済研究機構が発表した『終末期におけるケアに係る制度及び政策に関する研究報告書』(二〇〇〇年)が行っている推計である(9:42)。
 […]終末期医療費をめぐる論争には決着がついたと言える。」(190)

◆額賀 信 20051221 『需要縮小の危機――人口減少社会の経済学』,NTT出版,230p. ISBN-10: 4757121695 ISBN-13: 978-4757121690 1680 [amazon] ※ b p02

 「いまや人は他人に迷惑をかけなければ自由と考えられていて、生活のあらゆる場で、個人の自由な意思が尊重されるようになっている。
 例えば、NEETやフリーター的生き方について、それは個人の自由な生き方の問題だと考える風潮も強い。個人の自由を尊重するという点では、最近の少子化もその好例である。<0230<結婚しないのも、子供を産まないのも個人の自由に属していて、それらを強制することは個人の尊厳に反すると考えられている。そうした自由が続いた結果、わが国は今、NEETやフリーターが増え、子供が減った。
 NEETやフリーター、少子化などの社会問題への対応は、これまでもっぱらそれを生み出している社会的要因を探り出し、それを改善するという手法がとられてきた。つまり個人ではなく、社会の問題点解消に重点が置かれてきた。それはそれで必要な対応だが、いまや、より基本的な問題を考える必要が高まっているように思われる。それは「私たちは、本当のところ、どこまで自由なのか」という根本的な問いかけである。
 それは、社会的存在としての企業が、多くの社会的責任(CSR)を負っている状況とも似ているだろう。」(額賀[2005:230-231])

◆浅井 篤  20060515 「QALYと医療資源配分」,伊勢田・樫編[2006:121-142]*
*伊勢田 哲治・樫 則章 20060515 『生命倫理学と功利主義』,ナカニシヤ出版,276p. ASIN: 477950032X 2520 [amazon][boople] ※, b be

 「本章では医療資源を配分するための方法の一つ、Quality-adjusted life-year(質調節生存年数、以後<0193<QALYと略記する)に基づいた方法論について検討する。QALY値を勘案した医療資源配分は功利主義――特に選好功利主義――的な手法であり、希少な医療資源の配分問題について明快な回答を与える。この方法では結果的に効用が最も大きくなる仕方で医療資源の配分が目指される。一方深刻な限界や問題点があり、さまざまな指摘や批判を受けている。」(浅井[2006:193-194])
 「重要なのは人びとの選好であり、社会の人びとがどのような医療制度を政治的に選択するかである。私は、人びとは弱者切捨てには<<原則的に反対するが、その主張は「共倒れ」の兆候が現れた時点で微妙に変化し始める、と想像する。」(浅井[2006:216-217])
 cf.QOL

◆滝上 宗次郎 20060608 『やっぱり「終のすみか」は有料老人ホーム』,講談社,253p. ISBN-10: 4062824043 ISBN-13: 978-4062824040 1680 [amazon] ※ b 0fm/a01 ts2007a

 「一時間四〇二〇円という破格の報酬が事業者に支払われているにもかかわらず、ホームヘルパーの労働条件は過酷そのものです。一軒一軒訪問して回るという在宅介護そのものの構造的な欠陥であると言えるわけです。」(滝上[2006:72])
 「老人ホームへ入居させれば家族の負担はなくなります。言い換えれば、在宅介護が家庭教師とするならば、老人ホームは塾だということです。子どもの家庭教師を毎日二人も三人も頼めば、月に三〇万〜五〇万円はかかります。在宅介護というシステムがいかに経済原則からかけ離れたものであるか、おわかりになるでしょう。
 また、少子高齢化となって社会保障の規模は拡大するばかりですが、その主要な財源を社会保険としています。その歪みが、ホームヘルパーなどのパート労働に如実に見られま<0073<す。介護保険制度は、財源のあり方を見ても最初から制度設計に大きなミスがあったのです。日本は今後、財源として消費税を真剣に考えるべきでしょう。」(滝上[2006:73-74]、第2部「残された選択肢は、有料老人ホームだけ」より)

◆小泉 義之 2006/04/10 『病いの哲学』,ちくま新書,236p. ISBN: 4480063005 756 [boople][amazon] ※,

 「昔、ある大臣が「老人医療は枯れ木に水をやるようなものだ」と発言して物議を醸したことがある。もちろん、まったく間違えている。老人を枯れ木に喩えるのが品性を欠くからだけではない。花も咲かない枯れ木に水をやって「無駄に」水を流したほうが、政治的・経済的・社会的には「善い」からである。このことを、品位を保ちながら述べるのは難しいが、なんとか試みてみる。
 例えば、動けなくなった人間に、無条件に年額で一千万円を渡すのである。」(p.233)
 「これは近代社会に限ったことではないが、人間の社会は災いを転じて福となしてきた。品の無い言い方に聞こえるだろうが、他人の不幸を食い物にして多くの人間が飯を食えるようにしてきたのである。社会的連帯とは、経済的にはそのようなことである。そして、これは、悪いことではなく、途轍もなく善いことなのである。だから、シンプルにやるこ<0234<とだ。誰かが無力で無能になったなら、力と能力のある者がそれを飯の種にできるようにするのである。そのたためには前者の人間に「水をやる」のが最善で効率的に決まっている。」(pp.234-235)

立岩 真也 20060830 「人口の問題ではない」『環』26(Summmer 2006):92-97(特集:「人口問題」再考)

◆2006/09/04 「終末期医療の見直しを・安倍氏、歳出削減で」
 日本経済新聞社 http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20060904AT3S0400Q04092006.html
 「自民党総裁選に出馬を表明している安倍晋三官房長官は4日、福岡市内で開いた九州ブロック大会で、社会保障関係費の抑制に関連して、「終末期医療は見直していかないといけない」と述べた。終末期の在宅医療促進などで抑制を図っているが、歳出削減の徹底に向けて一段の見直しが必要との認識を示したものだ。ただ、具体的な方法には触れなかった。
 終末期医療は高齢化の進展や医療技術の進歩などで、医療費に占める割合が高くなる傾向にある。死亡前1カ月の終末期医療費は総額約9000億円とされる。  安倍氏は社会保障費の抑制に向けて(1)介護予防の強化(2)年金、医療、介護を含めた社会保障の一体的な見直しの検討――もあげた。 (22:05)」
 cf.安楽死・尊厳死 2006

立岩 真也 20060900 「犠牲について・1――良い死・14」,『Webちくま』

立岩 真也 20060900 「犠牲でなく得失について――良い死・15」,『Webちくま』

立岩 真也 20061000 「得失と犠牲について・続――良い死・16」,『Webちくま』

立岩 真也 20061222 「この後に書こうと思うことについて――よい死・17」,『Webちくま』

立岩 真也 20070126 「おわりに――よい死・18」,『Webちくま』

→立岩 真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 [amazon][kinokuniya] ※ d01.et.,
第3章 犠牲と不足について

立岩 真也 20070301 「労働を得る必要と方法について――家族・性・市場 18」,『現代思想』35-4(2007-03):8-19 資料

立岩 真也 20070401 「技術について――家族・性・市場 19」,『現代思想』35-5(2007-03):20-31 資料

立岩 真也 20070501 「人の数について――家族・性・市場 20」,『現代思想』35-6(2007-5):8-19 資料

川口 有美子・下地 正樹 200711 「幸福で自由なALS療養者にかかるコストと支援の倫理」(仮題・申請中),日本生命倫理学会大会分科会F:医療経済と生命倫理

堀田 義太郎 200711 「介護・介助労働の値段と条件」(仮題・申請中),日本生命倫理学会大会分科会F:医療経済と生命倫理

野崎 泰伸 200711 「道徳的詐術と生命倫理――選択の正当性は倫理的か」(申請中),日本生命倫理学会大会分科会F:医療経済と生命倫理

◆立岩 真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 [amazon][kinokuniya] ※ d01.et.,
第3章 犠牲と不足について

◆坂井昭弘 19920320 「平等感情と正義」,伊藤彦・坂井編[1992:246-272]*
*藤勝彦・坂井昭弘編 19920320 『情念の哲学』,東進堂

 「2 医療資源のミクロ配分に関する古典的見解
  (1)医療資源配分の三つのレベル
  医療資源の配分には、三つの異なったレベルがある。第一のレベルはわれわれの自由に処理しうる全資源のうち、教育、文化、社会保障、治安の維持、
対外援助、防衛などの関係で、どれだけの部分を医療に割り当てるか<0249<という問題である。これはマクロ配分(macroallocation)と呼ばれる…
  第二は、特定の医療行為のために配分された一定量の資源を、具体的にどの患者に給付するかというミクロ配分のレベルである。
  第三のレベルは、天災や大事故などによるかつ深刻ではあるが、一時的な諸条件のために、資源の希少性がクローズアップされ、それに関する決断が要求される場合である。…

  (2)静寂主義
  医療資源のミクロ配分に関連する、おそらくもっとも古典的な見解はエドモンド・カーンのそれである。<00251<
  以下要約

  1841年のホームズ事件(救命ボート上での男性乗客投棄事件)の判例に対するるカーンの評釈
  →法定の見解:他の人々の生命を救うために乗客や船員を海上に投棄しなければならないのであれば、「乗客のなかから籤によって犠牲者を選ぶべきであった」との見解。
   「結果として人間ではなく、運命によってなされた選択に類似しているという点において、籤が唯一の受け入れることのできる手続きである。」
  →カーンの主張:カーンは生死の決定を籤に委ねることを認めない。こうした重大事件を賭や偶然に委ねるべきではないし、「殺人という手段によって、誰一人として無傷のままに生き残ることはできない。」
   さらに功績主義選抜も認めない。緊急避難的状況では、すべての人間が財産、家族関係、社会的地位などの道徳的個性を主張する権利を失い、同じ種の一員に化してしまう。道徳的個性を備えた人物ではなく、<0251<もはや人類の一成員にすぎないのであるから、誰も他人を差し置いて自己自身を救うことはできない。「一人を救うものは人類を救い、一人を殺すものは人類全体を殺すのである。」
   すべてか無か、というのがカーンのいう「終末のモラル」
  カーンの見解に対する批判:腎透析装置が開発された当時のように、最新の医療装置はその量からしても、それに要する費用の点からみても、それを必要とする患者すべてに供与することはできない。
   フリード:「それが有害だからではなく、すべての人がその恩恵に浴することができないという理由で、個々の医師に医療サービスを禁止するシステムには、ことの本筋に反したものがある。」
   ジョン・ブルーム:誰一人治療を受けないなら、「公平は完全に満足される。しかし、これは恐らく資源の無駄使いであり最善の解決ではない。」
   ジョセフ・フレッチャー:功績主義的選択を擁護「合理的であることを拒否することは故意の非人間化であり、われわれを事物を盲目的偶然のレベルへ格下げすることである。」

  (3)功績主義
  ニコラス・レッシャー:高度救命治療(Exotic Medical Lifesaving Therapy:ELT)を施す患者の選抜の基準として、各個人の社会的評価を採用すべきと主張。
   レッシャーの患者選抜法:第一段階(グループ・スクリーニング法)(a)選出母体(b)科学の進歩(c)成功の見込み
               第二段階(患者個々のケースに基づく選抜)医学的要因として(a)成功の相対的可能性(b)平均余命、社会的要因として(c)家族における役割(d)過去の社会的貢献度(e)将来の社会的貢献度が考慮される
               第3段階 無差別選別→偶然性の要素を介入させることによって、不完全であることが明らかである選抜システムを生死の決定に使用する償いができ、システムを管理する者の精神的負担を軽減し、治療を拒否された患者側も自己の状況を受け入れやすい

  「腎透析装置が導入された六〇年代初期に、ワシントン州シアトルのスエーデン病院だ採用された素人<0253<の委員会による患者選抜手続きを支持して、レッシャーは以下のように述べている。もしELTによる治療を必要とするすべての患者を収容できるだけの十分な設備があるのであれば、誰がその治療を本当に必要としているのかの決めるのは、明らかに医学上の事柄である。しかし、治療を希望する患者の数がELTの能力をはるかに超えている場合には、純粋の医学的基準だけでは患者選抜の十分な基礎を提供できない。ここには、正義と効用という社会的課題がつねにつきまとう。ELTは社会の側が投じた希少資源であり、これを利用するに当たっては「社会的利益」が考慮されてしかるべきである。したがって、医学的専門的手続きのあとに、公益代表者としての素人の意見がそれを完成し補完すべきだる。」
   →アウトカの批判:現実に多くの医療を必要としているのは、子供、老人、低所得者、重大な慢性的疾患に悩まされている者など社会的弱者である。したがって、「社会的生産性という、人間の価値に関する基準に屈服することはできない。として無差別選抜をよしとする。→チルドレスやラムジー

  (4)平等主義
  チルドレス:一般に認められた選抜基準「医学的適合性」を前提としたうえで「最終選抜においてもこの基準を使用すべきか否か」
  →最終段階での患者選抜には三つの主要なアプローチがある。@「たとえば年齢、性別、家族内の子どもの数などといった客観的基準の使用」しかし、この基準も医学的基準「一六歳以下医の子供は問題が多いので、この処置にはふさわしくない」「この女性には二人子供がいるから、優先権が与えられるべきである」のような社会的基準に帰着する。したがって次の二つの選抜基準が残る。
   A功利主義的選抜「社会にもっとも多く貢献するであろう人に優先権を与える」チルドレスは医療に適切なやり方とはみない
   B「先着順、抽選、無差別選抜」機会均等の大原則と個人の尊厳という重要な価値を表現し、神の無差別の配慮という神学的教義に対応し、医師と患者の信頼関係を確保するという長所をもつ。社会的価値や評価基準の多様化により、そのうちのどれをゆうせんさせるべきかについて意見の一致をみることはできない。したがって。医療資源のミクロ的配分に関しては、Bの無差別選抜を原則とする方が望ましい。
  ポール・ラムジーも同様の立場:神の役割を演ずる代わりに、最後の審判を前にした神の配慮を模倣すべきである<0256<
  →ただし、平等主義的配分が優れているわけではない。@チルドレスもラムジーもともに治療の効果性を第一の選抜基準としているため、彼らのいう平等原理に矛盾するA彼らのいう「医学的適合性」とは、要するに治療に要するコストとその効果との比較からなる経済学にほかならないB医療資源の配分にかかわる患者選抜は純粋に医学的な問題に尽きるのではない。社会側の莫大な投資に起因する問題であり、われわれ自身の生命にかかわる問題である。あるいは、この問題に関しては、医師もまた政策立案者であることが要求されているC実践の困難性、すなわち、個々の候補者の具体的な経歴や社会的<0256<地位を知ったうえで、なお、無差別の選抜をなうことは可能であるのか。先着順には、医療従事者による恣意的な価値評価が介入する余地がある<0257<


  3 QALYsと必要の強さ
  (1)期待される生存年に基づく配分


UP:2007 REV:20070503,06,12, 20141027, 20150125, 20200211
人口  ◇生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築  ◇生存・生活
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