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籤/サバイバル・ロッタリー survival lottery


■サバイバル・ロッタリー survival lottery

◆立岩『私的所有論』第3章より(pp.52-55)

「すべての人に一種の抽選番号(ロッタリー・ナンバー)を与えておく。医師が臓器移植をすれば助かる二、三人の瀕死の人をかかえているのに、適当な臓器が 「自然」死によっては入手できない場合には、医師はいつでもセントラル・コンピューターに適当な臓器移植提供者の供給を依頼することができる。するとコン ピューターはアト・ランダムに一人の適当な提供者のナンバーをはじき出し、選ばれた者は他の二人ないし、それ以上の者の生命を救うべく殺される。」 (Harris[1980=1988:170])

 例えば一人の健康人Aの心臓と肝臓を取り出し、それを心臓移植と肝臓移植によって救われる二人の患者Y・Zに移植するならば、二人の生と一人の死が帰結 する(図2・9)。これを行わないなら、一人の生と二人の死である(図2・8)。最大多数の最大幸福という観点からは、前者が選ばれることになる。どのよ うな配分の初期値も前提せず、各状態から得られる各々の幸福の総量を基準として、その総量が最大であるものを良しとする「正しい」功利主義に立てばこうな る。◆22
 このように述べた後、ハリスは、予想される反論、また実際に寄せられた反論に答えていく。
 「Xの個性が尊重されるべきである」という主張には、しかしY・Zの個性も尊重されるべきだろうとハリスは言う。これが神を演じることになるという指摘 には、「われわれに物事を変える能力がある時には、物事を変えないという選択をすることもまた、世界に何がこれから生じるかを決定すること」 (Harris[1980=1988:172])であり、Y・Zを死ぬに任せることも神を演じていることに変わりはないとする。
 また、Xを殺すことは確実に殺す行為だが、Yを死ぬに任せるのは多分Yが死ぬことになるように振る舞うことだから前者は許容されないという、死がもたら される確実性を論拠にする議論には、それは事実問題であり、Yにしても放置すれば必ず死ぬ場合があるだろうと応ずる。以上についてはその通りと言う他な い。
 ただハリスは以上の立場をどこまでも通していくわけではない。籤引きによって臓器を配分するのでは、人々は健康を維持しようとする(例えば肝臓のために 大酒を飲まないようにする)努力を怠ることになり、結果として健康な臓器の数が減ってしまうという理由によって、籤に参加する範囲を縮小すべきであるとす るのである。
 こうしてハリスは、臓器移植という技術について考えることによって、機能主義者によって自明とされ、考慮されることのなかった論点を辿った。従来、身体 (内の器官)の移動は想定されることがなかったのだが、免疫抑制剤の登場が@の条件をある程度は解除してしまった。だからといって(通常であれば)移動、 交換は行われない。しかしハリスは、このようにして、各自の臓器が各自に置かれたままであることが利益となるかと問い、否定的な結論を導くのである。ただ 最後にB資源の増減に対する顧慮という条件が考慮され、各自に臓器=資源を保有させないと各自が資源に対する配慮を行おうとする動機を欠いてしまうため に、サバイバル・ロッタリーが行われる範囲が制限されるというのである。ただ先に述べたように、Bの条件が常にそれほど強く働くとは考えられない。また、 政策的・技術的な工夫によって、各人が(とりあえずその人に与えられた)資源(臓器)に対する管理を怠らないようにすることも可能かもしれない。とすれ ば、やはりサバイバル・ロッタリーは有効なのである◆23。
 以上は、私に与えられている資源(身体…)が私のもとに置かれることが功利主義によっては正当化できないことを意味する。しかもここでは、私達が功利主 義に対して通常感ずる大きな問題点、すなわち個々の幸福の比較、個々人の幸福に対する貢献度の比較は行われていない。例えば社会の幸福の増進に有益な人間 のために無益な人間を犠牲にしてよいのかという批判は当てはまらないのである。
そして、ここで譲渡・移動が行われない(したがってより「有利」な状態が実現されない)のは、譲渡・移動が実際に可能でないという「事実」に(だけ)依拠していることを再確認しておきたい。しかも、この「事実」は技術によって既に部分的には覆されてしまっている。
 このことは、もし私達がサバイバル・ロッタリーを認めないなら、そして私の身体は私のものであることを前提として立てるのでなければ、認めないその理由を以上見たものと別に用意しなければならないことを示している。
 そして、ハリス自身の立場はともかく、私は、この問題の本質が「最大多数の(最大)幸福」という功利主義の原理を認めるか否かにあると考えない。図を変 更し、〇と×の数をそれぞれ一つずつとしよう。図2・9が図2・8より功利主義の観点から有利だとは言えなくなるだろう。しかし図2・8を採用し図2・9 を採らないとすればそれはなぜか。「生存権」だろうか。しかし内臓に単なる(しかし致死的な)疾患がある者にもそうでない人と同じく「生存権」があると言 えないか。そしてそれは「平等の原理」でもない。「平等」を単なる均等配分とすれば、そもそもここでは分割が不可能だ。三人が三分の二ずつ生きていること はできない。これは誰もが同じだけという帰結がそもそも不可能な状況なのだ。それにしても一死二生より一生二死の方が平等で公平だと言えるか。これも言え ないだろう。また右に見た一生一死と一死一生の場合にも、平等の原則は何も言わない、言えないだろう◆24。」

Harris, John 1975 "Survival Lottery", Philosophy 50 <65>
―――――  1980 "The Survival Lottery", Violence and Responsibility,
 Routledge :66-84
 =1988 新田章訳,「臓器移植の必要性」,加藤・飯田編[1988:167-184]
 <52-54,65>

◆立岩 2004/10/10 「遺伝子情報の所有と流通」,『GYROS』7:146-154

 「たしかに一方の人が失うことが一方の人が得られることを帰結する場合には問題はより微妙に、そして深刻になる。目の見える人は目の見えない人に眼球を 与えるべきなのか、健康な臓器を有する(生きた)人はそうした臓器をもっていない人に与えるべきなのか。考えてみると、そうべきでないと、そうすぐに強く 言い切れない。ただここで詳しくは論じられないが、このような場合でも、やはり譲渡を求めることはできない。前者は「眼球くじ」という、後者は「生存く じ」という主題――生命倫理学や政治哲学ではこうした極端な例をもってきて議論がなされことがしばしばある――に関わる。前者について拙著『自由の平等』 ([2004/01/14])、後者について拙著『私的所有論』([1997])で考えたことを述べた。」

◆立岩 2005/09/30 「自由はリバタリアニズムを支持しない」
 日本法哲学会 編 20050930 『リバタリアニズムと法理論 法哲学年報2004』,有斐閣,pp.43-55

 「次に、私が述べてきたことは、単純なことで、身体に対する権利とその産出物に対する権利とは別のものだと考えることができるし、多くの人は別のものだ と考えているし、そう考えた方がよいと思っているし、私もそのように考えるということである。このことが簡単に理解できるだろうと思われる例を本に記し、 報告でも同じことを述べた。報告者の一人であった愛敬浩二も言及している「眼球くじ」の話である。  「科学技術が進歩し眼球を百パーセントの成功率で移植できる場合、二個の健康の眼球の持ち主Aは、眼球を持たないBに眼球を一つ配分すべきか。提供者A の決定は無作為のくじによる。」(愛敬[2000:52])
 この引用に続けて私は次のように述べた。
 「これに対して人は「すべきでない」と答えるだろうとし、ゆえに身体は「他の誰のものでもなく自分のもの」であることが明らかであり、ゆえに私有派の主 張が正当であるとされる。このように話が運ぶ。ここでは私たちも「すべきでない」という答を共有しよう。しかしそうしても、目の見える人が目が見えること によって生産する――あらゆる行為も含む広い意味での――財を独占してよいことにはならない。目が見えることで可能な行為があり、行為の結果がある。「身 体は誰のものでもなく私のものである」としても、たまたま目の見えるその眼球を別の人に供出しなくてよいとしても、その人は例えば外を出歩くことを助ける ことができ、その行いは健康な眼球があり目が見える人の義務とすることもできよう。」

小泉 義之 20060410 『病いの哲学』,ちくま新書,236p. ISBN: 4480063005 756  [boople][amazon] ※,

「眼球を失った人間や眼球が機能しない人間に一個の眼球を贈与するために、二個の眼球を持つ人間の中から候補者を籤で選ぶことは、無条件に正しいと私は考える。二個ある臓器、血液、脊髄などに関しても、同様の計画は無条件に正しいと考える。」(p.135)


■ヒューマン・ロッタリー (human lottery)

◆立岩『私的所有論』第4章注14より(p.169)

「医療資源の配分についての議論として、医療サービスを受ける権利は消極的権利でしかないとするSade[1974]、こうした主張を批判する Beachamp ; Faden[1979]。Engelhardt[1986=1989:407-456]では、一方で第2章に見た議論からそのまま導かれる消極的権利の主 張を紹介しつつ、他方では別の論の筋も検討しており明確な主張はなされていない。他にSinger[1976]、Veatch[1976]、 Daniels[1981]、Childress[1981:74-97]等。全員に平等な治療を施せない場合に無差別選択(ヒューマン・ロッタリー)を 支持するのはRamsey[1970b]。」

Ramsey, Paul 1970b "Human Lottery ?", in his The Patient as Person, Yale Univ. Press
 (飯田編[1988:155-158]に坂井昭宏の解説) <169>


UP:1998 REV:20060413
脳死・臓器移植

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