last update: 20151225
要旨
「究極の選択」と言われる。ある状況において、何か行為を選択すること、その選択の正当性の倫理をこれまでの倫理学は追求してきたように思われる。そして、それは生命倫理学においても同様なように思える。たとえば、「意思のなくなった時点における治療停止」のために、リビング・ウィルが言われ、自己決定が言われる。自己決定が大切であることは認めるにしても、生命の究極的な場面においてそれが「正当な」倫理であるとなぜ言えるのか。指針が必要にせよ、その指針はなぜ「倫理的」であると言えるのか。本発表では、(1)「究極の選択」をしなければならない状況において、ある決定が倫理的であるということは「道徳的詐術」であると述べ、(2)しかしながら「選択しなければならない現実」の位置取りをし、(3)その上で「真に倫理的な問題はどこにあるか」について考える。