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人口の問題ではない

立岩真也 20060830
『環』26(Summmer 2006):92-97(特集:「人口問題」再考)


 *20060718校正済

すぐに言えること

  このことについて、私は、みなが思っていることを思っているだけだ。人口が増えないことさらに減ることには、とくに狭くて人がたくさんいるところでは、よいこともたくさんある。むろん環境への負荷のこともある。そして、世界全体について人が増えていることを心配しながら、自分の国について減るのはいけないというのは、基本的には、おかしい。「子育て支援」と呼ばれるものはした方がよいが、それ以前に、すべきことだが、「少子化対策」とはまず下品な言葉である。この問題についてあまり騒がない方がよい。産み育てたい数より生まれる数の数が少ないのは確かなようであるから、生み育てることが容易になることで、結果として、出生率は上がるもしれない。そうでもないかもしれない(両方の説がある)。いずれにしても、生じた状態に対応して社会をやっていけばよい。そしてそれは可能である。それだけのことである。
  以上についてごく簡単に、しかし前の段落よりはもうすこし長く、この七月に刊行された拙著『希望について』(青土社)に収録された文章に書いてもいるから、それをご覧いただければと思う。その本は既発表の雑多な文章を収録した本で、全体が八つのパートからなっていて、そのIVが「不足について」と題され、そこに三つの文章を収録している。一つは「少子・高齢化社会はよい社会」という文章で、これは一九九七年に、その当時勤めていた学校の公開講座で話をした際、受講者に配布した資料。ずっと以前から題の通りに思っていて、今も変わらずそう思っている。この公開講座の後も同趣旨の話をしてきた。学校の講義でもした。
  そして『助産婦雑誌』(医学書院)という雑誌に載った「ふつうのことをしていくために」という文章の一部、「「少子化」という紋切型」。その雑誌の二〇〇一年一月号の特集「二一世紀のいのち」のために書かれた。「市民向けの公開講座」というのもそんな場所なのかもしれないけれど、例えば「新しい世紀を迎えるに当たっての新年の病院長御挨拶」なんていうものの中で、助産の仕事をする人たちに対して「少子高齢化」なんていう言葉が頻繁に使われているように思って、「みなさんは少子化をくい止める先頭にいるんですから、がんばりましょう」なんていうことが言われたりしたら、それは嫌だなと思って書いた。そして、少子化対策では要するに働ける人間が生まれることが願われているのだから、それは今ではいちおうよくないものだとされている「優生思想」とどこがどう違うのか、言えるなら言ってください、というようなことを書いた。
  もう一つは『思想』の二〇〇〇年二月号・三月号と二回に分けて掲載された「選好・生産・国境――分配の制約について」という題のわりあい長い文章のごく一部。その雑誌は二月号の特集が「生命圏の政治学――生命・身体・社会圏」というものだったのだが、そのような名の特集であれば、生命倫理だの医療倫理だのといった主題ももちろん大切なのではあろうが、まず、人が足りないだのお金が足りないだのといったお話についてなにがしかのことを言う必要があるだろうと思って書いた。
  それらに書いたことから、すこし言うべきことを足しておく。現在の変化が急速なのは確かである。しかしそれは(第一次)ベビーブームに起因する。あんなことはもう二度と起こらない。今度の変化をうまく乗り切ればなんとかなる。なんとかなる根拠はいくつもある。この社会は働きたくて働ける人をきちんと使っていない。人は余っている。未来に足りなくなるとも思えない。ついでに言うが、この社会で失業があるとは、全員が働かずに全員が暮らせるだけのものを得られているということであって、基本的には、たいへんよいことである。このことについては、やはり『希望について』のV「労働」に収録した文章で述べている。「労働の分配が正解な理由」「ニートを生み出す社会構造は」「できない・と・はたらけない――障害者の労働と雇用の基本問題」という三つの文章が並んでいる。

何が語られてきたのかを知ろうとすること

  そして、その本は既発表の文章を集めた本なのだが、新たに注をつけた。「人口減少」とか「少子化」とか、それらしき書名の本をいくらか集めて、そしてそれを列挙し、ごくごく短く注記を付した(一三一−一三三頁)。(ホームページ→五〇音順索引→人口でそれらの本の書誌事項などが出てくるから、それをごらんください。)私が常識だと思うようなことを常識だとは書いていないような困った本が依然として多いのかと思ったが、そうでもなかった。近年の単行書、なかでも経済・ビジネス書といった類の本には、政府が何を言い何を行なっても止められないものは止められない、なるものはなるのだという認識があって、そのうえでこれからどんなふうに商売をしていったらよいかというような書き方のものがかなりあった。他に、放言のたぐいが連ねられた、人によってはとんでも本と思うかもしれないような本、こういう言葉が題にあるとすこし余計に売れるかなというようにして題がつけられたようにも思える本、年来の持説とおぼしき主張をこの主題に関わらせて行なう本、危機感を煽るというほとではないが事態を避けられないものとした上で経済・社会をより「合理化」していかねばならなといった話にもっていく本。以上の複数の性格を兼ね備えた本ももちろんある。
  世の一部はこんな感じで動いてもいるのかと思う。新聞やテレビの中立・客観報道は、その結果として、政府の審議会やらで語られる危機の言葉を伝え、その対策としてなされる行いを世間に広めているのだが、もっと冷たい受け止め方をしている部分もある。
  以上は、さっと見てみると現在はこんな感じなようでもあるということなのだが、それをすこし過去に延長してみたらどうか。これまで何が起こってきたのか、言われてきたのか、私たちは知っているようで知らない、とすくなくとも私は思う。この国の最近のこと、ここ数十年のことに限っても、どこまでのことがはっきりしているのだろうか。私が知らないだけで、そうした研究の蓄積があるのかもしれないのだが、どうなのだろう。あまり調べられていないとしたら、きちんと調べた方がよいことだと思う。この特集でも、知らないことが明かにされる、すくなくともより多くの人に知られるようにはなるだろう。それはよいことだ。

世代間移転という枠組について

  次に以上に書いていないことをすこし。それでもこの国で心配があることの大きく一つは年金の問題があるからだ。今ある制度は世代間移転の仕組みをとっている。それは、今作っているものを貯蔵して、それを将来使おうという仕掛けではない。いま生産している人が、生産されたものの一部を、もうリタイアした人たちに渡しているという仕掛けである。もちろん、各世代の比率が一定に保たれていれば、受け取りは一定になる。また世代別の人口比によっては、自分で貯金したのを後で使うという場合と結果として同じになる。だが、他の時代に比べて、これから、とくに今からしばらくの時期、受け取る人の数が支払う人の数に比べて多いとなると、その時期だけ、いわゆる「現役世代」の負担が大きくなるというのは事実である。だからといって今から人の数についての「対策」をして、ここ数十年が問題であるこの問題が解決されるとは思えないのだが、深刻な顔をしている人のことはわからないではない。
  この問題はこの問題としてそれなりに複雑である。この方式自体をやめようという話に合理性はあるけれども、今までそのように運営されてきたものを急にやめることは困難でもあるし、また、そのつもりで生きてきた人にとっては迷惑か、迷惑ですまない話でもある。なんでこうなったのが、予測がつかなかったのだ、予測できなかったのは愚かではないか、等々の議論があるのだが、ここでは略す。
  一つだけ基本的なことを確認する。国が保険屋のようなことをするのは格別に咎め立てするようなことでもないが、どうしてもしなければならないことでもない。保険なのであれば保険会社にやってもらってもよい。国がすべきことは、この社会の経済の仕掛けのもとでは必ず生ずるし、また――次に述べるが――拡大する、格差を是正することである。たくさんあるところから少ないところにもってくることである。この基本的な位置から考えていくことが大切である。そのように考えていけば――述べたように、人は制度が続くものだと思って暮らしているから、そのことは考慮せざるをえないにしても――基本的には、なんとかならないはずはない。
  とすると、危機を語る現在の論議が、この部分を回避していることが見えてくるし、また回避してなんとかしようとする時、あるいはなんとかしようとするふりをする時、さして現実性もないし即効性もない、人の数を増やしてどうこうという案のまわりをぐるぐる回るということになっているのではないかと考えることもできる。
  もう一つ。同じ世代間移転のあり方が、人口が増えている地域の人口増に影響していると考えるのはもっともなことである。ここにも贈与を受ける場合、贈与してくれる人の数は多い方がよいという要因が絡んでいる。子に自分を養ってもらおうとし、その一人ひとりにそう多くを期待できないなら、たくさん必要だということになる。それをただ避妊の知識がないとか、男が避妊に応じないといった話だけで片付けない方がよい。ただもちろん、この個別にはまったく合理的な対応は、生産財の制約といった条件のもとでは、例えば耕せる土地が限られているといった状況のもとでは、結局はさらなる窮乏をもたらすことにもなる。すべきこともこうしたところから考えるべきである。ここでも、鍵は、ごく簡単に言うにとどめるが、社会的・世界的な分配である。

問題は正しくは分配の問題である

  財の移転の問題をすなおに社会的分配の問題と考えないことが、問題を人口の増減自体の問題とし、その水準に問題の解決を求めさせてしまうのではないかと述べたのだが、人を増やしたい理由はまだあるだろうか。だれもが思うことは、国家の有する人力・軍事力や生産の総量による国力の増強、国際的覇権といった話だ。それはそれで、そうした事大主義がいまどのぐらいの現実性があるのかも含めて、追っておく必要のあることだろう。毛沢東時代の中国が人を増やすことをおおいに奨励し、その後にそのつけがまわってきて、正反対の政策をとらざるをえなくなったという話もある。ここではもう一つ。
  さきにあげた「選好・生産・国境」にすこし書いたことなのだが、人が多いと誰が儲かるのか、人が少なくなると誰の儲けが減るのか。誰もが、ではない。このことも考えてみれば当たり前のことなのだが、そして見出そうと思って読めばビジネス実用書からも関連した記述を拾うことはできるはずだが、あまりはっきりと言われていないように思う。
  人が多くてもそううれしくない仕事はどんな仕事か。ごく簡単に言うと、相手にする客に限界があったり、自分の仕事の供給に限界があったりして、得られるものが増えない仕事である。本に再掲した文章でも蕎麦屋の話が出てくるのだが、一人の蕎麦屋が一日に出せる蕎麦の量には限りがある。また町の人口が減っても、蕎麦屋も同時に同じ割合で減っていくなら、商売に影響はしない。また町の人口が二倍に増えたら、蕎麦屋が二軒になるだけである。これは職人や農業や漁業の仕事をしている人たちだけに限らない。大きな組織に属していても、大きな工場で働いていても、一人ひとりの働ける分に上限があるなら、そして働き手の数と消費者の数とがおおむね対応するなら、そう事態は変わらないはずである。
  他方、人が多くいたらよい商売はどんな商売だろうか。第一に、多くの相手を客にできる商売、そしてその供給を独占できるような商売である。これに関わる要因として複製や伝達の技術がある。もとのものは一つであっても、それをたいした手間でなく数多く作れる場合、配れる場合、そして供給を独占できるなら、儲かる。人数が倍になり収益が倍になることがある。ワールドカップのことを考えてもよい。コンピュータのソフトのことを考えてもよい。ただスポーツや音楽――産業全体というより、そこで実際にボールを蹴ったり演奏したりしている人たち――が占める割合はそう大きくはない。(しかし、それらは人々に受けているから、この世に金持ちがいてよいだろうという理由に、この数多くない例がもってこられることがある。)さらに知識や技術などが絡む場合には、所有権の法的保護という側面がより強くなる。つまり限られた人・組織がもうかるような仕組みが社会の中に作られているということである。第二に、経営者になり資本家になって、個々の労働者や組織から上前を得られる場合である。さきほどの蕎麦屋も、一軒目の蕎麦屋がもうかったものだから、店の数を増やし、他の人に働かせ、そのあがりを受け取れることになれば、客は多い方がよくなる。
  人口の増減のもつ意味合いは人によって違う。これは考えてみれば当たり前のことだ。次に、後者のような商売が多くなる――実際、一貫して大きな割合を占めるようになっている――ことは、格差を大きくする方に作用する。人が増えるということは、誰かに利益をもたらすことがあるとして、それはすでに儲かっている側が得られる利益であって、仮に人口政策がうまくいったとして、それは、今のままの社会のシステムでは、格差を拡大する方向に作用するということである。
  そしてたとえば年金をめぐるさきほどの話は、所得分配の問題として考えればすっきりするのに、そこを回避し、世代間の人口比の問題にしてしまうことによって、かえって(人口比を簡単に変えることなどできはしないのだから)問題の解決を困難にしているということだった。そして、世界の他のより広い地域では、子の数に頼らなければならないことが、人口増に関わっているようだった。そして結局、生活はよくならない。ここでも、子に頼らなくても人々が一人ひとり得られるものが多くなればうまくいく。不可能なことではない。国内的・国際的に、直接的な所得分配が行われるだけでなく、生産財と労働がうまく渡ればよい。(私が分配と言うときには、それは、所得の分配――それは重要であり、仕組みとしても割合簡素な仕組みで可能であるからまずなされるべきことではある――だけでなく、生産財の分配と労働の分配の三つを指す。このことについては拙著『自由の平等』(岩波書店、二〇〇五、序章)、『希望について』所収の「限界まで楽しむ」「労働の分配が正解な理由」「所有と流通の様式の変更」他。稲葉振一郎との対談本『所有と国家のゆくえ』(NHKブックス、二〇〇六)でもこのことを述べている。)
  だから、問題ははっきりしている。問題は人口の問題ではない。問題は分配の問題である。


UP:2006
資源  ◇人口  ◇立岩 真也
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