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『「福祉のターミナルケア」に関する調査研究事業報告書』(1997)〜



◆19970224 「死は医療のものか――イギリス、スウェーデンのターミナルケアに学ぶ」
 「高齢化の急速な進展や疾病構造の変化の中で新しいターミナルケアのあり方を探る「福祉のターミナルケア調査研究委員会」(委員長=千葉大助教授 広井良典氏)が、昨年10月、長寿社会開発センターに設置された。
 同委員会では本年1月5日から15日まで、イギリス,スウェーデンでの海外調査を実施し、本紙はこの調査に同行し取材を行なった。本調査についての報告は別途なされるが,調査内容の一部は、広井氏が「看護学雑誌」(医学書院)に連載中の「ケアって何だろう」第4回(第61巻4号,1997年4月号)以降でも紹介の予定である。本紙では,いち早く両国のターミナルケア事情について報告する。」
 『週刊医学界新聞』2229
 http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n1997dir/n2229dir/n2229_05.htm

◆199703 竹中文良(インタビュー)「『医』と『死』――21世紀の「医」を考える・3」
 『鉄門だより』(5521)1997年3月号
 http://homepage2.nifty.com/toshimitakano/2-7/15.html
 「[…]
 ―――先生は、厚生省の外郭団体である長寿社会開発センターの「福祉のターミナルケア研究会」に参加されているそうですが、どういう活動をされているのですか。
  国内外の様々な施設を視察し、ターミナルケアが病院以外の介護施設でどのくらいまでできるのかを調査しています。昨年末には、帯広の「とよころ荘」という養護老人ホームをケア訪問したのですが、ここは、老人ホームでありながら、入所者ががんの末期になったり、死期が迫ったりしても、病院に送ったりせず、嘱託医の協力を得ながら、そのままターミナルケアを行っているのです。今まで医師がやっていた最期の看取りに、過度に医師が関与するのではなく、あるところまできたら、医師は、治るか治らないかの見極めだけをきちんとして、あとはそれほど医療がタッチせずに自然に任せるのがいいのではないかと私は思いました。個人の考え方にもよりますが、80すぎた人で10%くらいしか治る可能性のない治療を強いてやる必要はないでしょう。公的介護保険など、医療よりも介護の方でみるという方向に世の中動いていますので、老人ホームでのターミナルケアの取り組みは重要だと思います。とよころ荘の人は、「私たちはターミナルケアというのを特別に考えていない。自然に、他の人たちと同じような態度で接しているうちに、自然に亡くなっていく。そういう形が理想ではないか」とおっしゃっていました。ターミナルだからといって、勢いづいてケアをする必要はないわけです。北海道の原野のど真ん中にあって、外で馬が駆け、花もいっぱいある素晴らしい環境で、介護者や看護婦は実に自然にやっていました。
  ―――ターミナルケアは大きく取り上げられるようになって、大変そうなイメージが広がったように思いますが、もっと自然体でやるべきだということですね。
  ええ。同じ研究会で、今年1月には、イギリスとスウェーデンのターミナル事情を視察してきましたが、ここでも「医療での死」から「自然な死」への方向転換を実感できました。末期がん患者では苦痛を与える治療行為は行わず、自然の成りゆきに任せているのです。
  私は、治せないがんが見つかったときが人間の天寿だと思っています。そうなったら、「がんと対決」するのではなく、「がんと対話」するべきなのです。これからの医療においては、がん死を自然死と認めるような考え方が広まることが必要だと思います。人間というのは、がんで死んだというと「かわいそう」となりますが、老衰というとほっとします。でも、ある年齢以上になれば、老衰もがん死も一緒ですよ。がん死も自然の成りゆきだと思えばいいんです。「がんは病気ではなく、老化現象の一つの形にすぎない」と言う人もいます。[…]」

◆竹中 文良 19970520 『がんの常識』,講談社新書,221p. ASIN: 4061493566 693 [amazon][boople] ※, b c09 ts2008

 「九六年一月初旬、私は長寿社会開発センターに新しく設置された「福祉のターミナルケア研究会」(委員長=広井良典・千葉大学助教授)の海外調査に同行し、イギリスとスウェーデンのターミナル事情を視察した。
 ホスピス発祥の国、イギリスで見学したセントオズワルド・ホスピスは、日本のホスピスと同じくがん患者が主な対象であるが、日本のホスピスとは基本的なところで相違点がいくつか感じられた。
 私の直感だが、いくつか見たイギリスのホスピスには日本のホスピスに充満する緊張感<0204<とか使命感のような一種の「重さ」がない。[…]
 このホスピスは「死に場所」というより、これ以上の治療は望めないほど理想的な「在宅死を支える患者のための施設」であり、日本のホスピスが手にできないでいる終末医療のシステムをみごとに機能させていた。
 もう一つの違いは末期がん患者に対する医療態度だ。<0205<
 […]
 イギリスのホスピスでの末期がん患者に対する緩和ケアのノウハウを見ると、日本よりはるかに医学的な考察が行われている。日本では、痛みにしても病的または肉体的疼痛や精神的痛みとか苦しみはともかく、具体的に説明できない霊的痛みという表現まで出現する。それで患者の苦痛が理解できたような気になる。イギリスでの緩和ケアチームの行為を見ると、もっと具体的でフィジカルな視点から患者のニーズをとらえている。
 日本でももう一度医学的な原点に戻り、論理的な考察が必要であることを痛感した。[…]
 イギリスで感じたことの最後は、緩和ケアにおけるチーム医療についてである。」(竹中[1997:204-206])

■長寿社会開発センター 199711 『「福祉のターミナルケア」に関する調査研究事業報告書』,長寿社会開発センター

 第1章 竹中 文良 199711 「「福祉のターミナルケア」の課題と展望」,長寿社会開発センター[1997:1-3]
 第2章 広井 良典 199711 「本調査の趣旨と結果の概要」,長寿社会開発センター[1997:4-34]
 第3章 桜井 紀子 199711 「特別養護老人ホームにおけるターミナル期のトータルケアをめざして」,長寿社会開発センター[1997:35-53]
 第4章 鈴木 玲子・広井 良典 199711 「ターミナルケアの経済評価」,長寿社会開発センター[1997:54-62]
 (参考資料1)
 (参考資料2)「福祉のターミナルケア」に関する海外調査 白石正明 71-77
 (参考資料3)
 (参考資料4)
付録
 『ジレンマと方向性:緩和ケアの将来』(イギリス・ホスピス及び専門的緩和ケアサービス全国協議会中間報告書〔1996年8月〕)

 著者
 竹中文良 日本赤十字看護大学教授
 広井良典 千葉大学法経学部助教授
 桜井紀子 さくらばホーム施設長
 鈴木玲子 日本経済研究センター副主任研究員
 白石正明 医学書院看護出版部

◇「これからの時代においては、”長期にわたる介護の延長線上”にあるような看取りが大きく増加し、そのような場合には、狭義の医療のみならず、介護など生活面のサービス、家族への支援を含めたソーシャル・サポートといったものの重要性が非常に大きくなる。したがってこれからのターミナルケアにおいては、医療と福祉(+心理)の連携を含めたより総合的なアプローチが求められていると思われる。こうした問題意識から、筆者らは数年前、「福祉のターミナルケア」と題する国内外の調査研究をおこない、調査結果と提言を報告書としてまとめた。」(広井[2000:144]*)
*広井 良典 20000915 『ケア学――越境するケアへ』,医学書院,268p. ISBN:426033087X 2,415 [amazon][kinokuniya][boople] ※ c04

■19971229 『毎日新聞』・オピニオンワイド
 (ノンフィクションライター向井 承子)
 「この11月、厚生省の外郭団体である財団法人長寿社会開発センターから報告書「福祉のターミナルケア」が出された。医療の手にまかされてきたターミナル・ケアを福祉の手に取り戻そうという趣旨である。
 中心筆者の広井良典・千葉大助教授は理由を記す。
 「タミナル・ケアが医療の問題である限りそれは…どうしても技術論に傾いてしまう。(これからのターミナル・ケアでは)医学的介入の必要性の薄い『死』のあり方が確実に増え、長期ケアないし『生活モデル』の延長線上にあるような、いわば『福祉的なターミナルケア』が非常に大きな位置を占めるようになるのではないか」
 この指摘が当を得る現実は確かにある。老人病院の無残な光景。大病院では、生と死の文化を軍靴で踏みにじるような高度医療が襲う。だが、前者は社会が高齢者を支える方法を持たないばかりに発生したいびつな現象であり、後者は高齢者の医療の本質を問わず老年医学や看護などを育てずに流されてきた日本の医療行政と医師教育の反映である。どちらも行政や専門家たちの怠慢の結果で、根本的な解決は急務である。
 一方、報告書には、高齢者の終末医療像の分析もなければ、何よりも簡単に終末期に追い込まないための方法が語られていない。あいまいな自然死像をもとに終末医療を一気に「無意味」「過剰」とし、「死に行く者への吸引や酸素吸入」「心臓マツサージや人工呼吸」などを「儀礼的」「無意味な延命」として列挙する。
 高齢者の医療に詳しい医師たちが「終末期ではないものまで終末期とみなして医療を打ち切る暴挙」と憤るのは当然だろう。だがなぜ、こうも過激な医療打ち切りが提起されたのか。
 報告書は「終末医療費の縮小」のための試算結果を提示。終末医療の是非が医療費削減を目的とした攻策的な文脈で公然と語られる時代が来たのだろう。政府関係の報告書では世に出た時には既に政策基盤となっていることが少なくない。事実、厚生省の来年度予算には延命治療見直しを示唆する事業予算の計上がみられる。弱者の生命淘汰はすでに政策目標なのか。高齢者に生きる権利はないのか。
 このほど、事態を案じる人々と「フォーラム・未期医療を考える」を呼びかけた。時代の意図に流されない知恵を結集したい。「高齢者に生きる権利はないのか」、l月24日(土)午後l時30分〜。東京・永田町、星陵会館。運絡先、0429・64・3094。」
 http://www.inetmie.or.jp/~kasamie/syuumatukiIRYOUHI.html

■19980124 フォーラム・末期医療を考える――老人に生きる権利はないのか (シンポジウム「高齢者に生きる権利はないのか」)

◇二木[2000:159]

◇向井 承子 20030825 『患者追放――行き場を失う老人たち』
 筑摩書房,250p. ISBN:4-480-86349-4 1500 [amazon][boople][bk1] ※, b d01

 「話は数年前にさかのぼる。1997年11月。東京の永田町で「フォーラム・末期医療を考える――老人に生きる権利はないのか」と名付けたシンポジウムが開かれた。老年医学者の横内正利氏、社会保障の専門家で有料老人ホームの経営者である滝上宗次郎氏、医師で病院経営者、医療政策の専門家である石井暎禧氏らが呼びかけ人だが、かねがねこのことが気になっていた私も患者・家族の立場ということでそのひとりに加えていただいていた。/シンポジウムは、メディアに大きくとり上げられることこそなかったが、その後、専門誌(『社会保険旬報』)での長い論争(石井暎禧氏、横内正利氏と広井良典氏による)のきっかけとなり、いまふり返っても、制度の枠組みが大きく転換していく過程で、医療と福祉の最前線の政策思想と技術倫理と現場の実情が真剣勝負でぶつかりあうきっかけになったと思う。/ことの発端は一冊の報告書だった。『「福祉のターミナルケア」に関する調査研究報告書』と題され、厚生労働省の外郭団体である長寿社会開発センターが1996年度の調査研究事業報告書 <179< として世に出したものだった。/(中略)/だが、報告書の筆者が「ターミナルケアが『医療』の問題として論じられるかぎり……どうしても技術論に傾いてしまう。……(これからのターミナルケアでは)医学的介入の必要性の薄 <0180<い『死』のあり方が確実に増え、言い換えれば、長期ケアないし『生活モデル』の延長線上にあるような、いわば『福祉のターミナルケア』が非常に大きな位置を占めるようになるんではないか」と言い切るのには違和感を覚えた。それは生と死の文化が政策的な意図をもった文脈、いわば「政策論」にとりこまれているような違和感だった。/(中略)/「生活モデルを」との主張への違和感は、その現状の分析が伝わってこないためだった。死の場面で「技術論」を否定するのならば、その前に、おとしよりたちをあえて死なせたり悪化させたりしないように、死を追い込まないためにも、「医療の質」の技術評価をこそしてほしかった。」(向井[2003:179-181])
 *「1997年11月」は「1988年1月」の誤記と思われる(立岩)。
 「『福祉のターミナルケア』論は、母のケースを思い起こすとさらに理不尽だった。母だけではな <0182<い。必要な医療も受けられず、医療不在の場で病状を悪化させられ、寝たきりに追い込まれ、病状や障害が重くなるにつれ医療から排除されていった人びとの姿が心に焼きついて離れないままだった。「そろそろ畳の上の大往生を」……。死に時をまるで政策にとって都合のよい鋳型にはめこむような、このてのキーワードを何度、聞かされたことだろう」(向井 2003:182-183)

■19980126 NHK列島福祉レポート「老人ホームでみとりたい」
 「とよころ荘」がとりあげられる。

◇「シンポジュウムの席上、広井氏から『私の考える「福祉のターミナルケア」の実例が、NHKの報道番組で紹介される、この「とよころ荘」の取り組みをみれば、私への批判が誤解であることがわかるので、ぜひみてほしい』という発言があった。広井氏らの「意図するもの」が抽象的でなくビジュアルに示され宣伝されることとなった。ところで「とよころ荘」については、「介護型は、なるべく医療に頼らず極力自然のままの死を心がけているというもので、北海道のとよころ荘では施設長の方針」と広井氏により紹介されている(シルバー新報平成9年9月25日号)。
 私も録画してもらったテープをみて、広井氏への批判が正しかったことを改めて実感した。1.「とよころ荘」の老人ケアは内容的にきわめて高く、特養でできる限りの医療・看護も提供するという方針で行われていると思われること、2.にもかかわらず、このケースは「みなし末期」であると推定されること、3.以上の二点が感動のドラマとして描かれている、という構成だからである。
 この報道番組の意図をめぐって、現在、横内氏とNHKとの間で書簡のやりとりが行われていると聞く。いずれその経緯はつまびらかに明らかにされると思うが、それを待たずして、政治問題化がはじまった。衆議院厚生委員会において山本(孝)議員により「とよころ荘」問題がとりあげられ、小泉厚生大臣が、答弁したからである。「わたくしは、その患者さんの判断を重視すべきじゃないかと思います。治る可能性があるんだというお医者さんから十分な説明を受けたとしても、治療をしたくないともし主張されるのだったら、その患者の意志というものが最大限尊重されるべきじゃないかというふうに私個人としては思っております」、ここまでは、いちおう「自己決定権」の認知にすぎない。しかし、簡単にこういってしまっては、「愚行権」が、宗教的信念(エホバの証人の場合でも、治療拒否ではなく、限定医療の要求にすぎない)がなくとも、確認の手続きもなくとも、無条件(自殺未遂者への治療の中止を含め)で認められ、「みなし末期」が容認され、そして医師の消極的自殺幇助も認められることを、厚生大臣が明らかにしたことになる。つづけて「それは年齢によっても違ってくると思います。八十の人がそう言うのか、九十の人がそう言うのか、百歳の人がそう言うのかによっても違ってくる。医者の対応も違ってくる」と答えることにより、自己決定の絶対的尊重が、うわべにすぎず、自己決定の尊重は年齢によって変えてよいとする年齢差別が発言の核心であることが明らかになった。かくして広井氏らの主張が、厚生省の路線であることが、大臣答弁を通じて明らかになったのである。この事件の意味についての私の分析と見解は第二章において述べたい。」(石井[]*)
 1月26日NHK列島福祉レポート「老人ホームでみとりたい」という番組が放映された。まず前半で、「とよころ荘」のケアの様子が紹介された。この部分をみれば、老人に整った服装をさせ、お化粧をさせるなど、要介護老人を普通の生きた人格として扱っている立派なホームである。医療については、酸素吸入も、吸引も、経鼻栄養も行っている。看護婦さんのみならず、介護者も医療知識を学び介護に生かしている。このホームを広井氏は「吸引や酸素吸入をできる限り行わず」という施設と同列に扱い、「なるべく医療に頼らず極力自然のままの死を心がける介護型施設」と紹介し、「施設長の方針」と解説するのは、そうあって欲しいと思う広井氏の我田引水が過ぎ、ひいきの引き倒し、ほめ殺しになっている。
 さて問題は後半部、胃潰瘍の老人の医療にある。診断治療についてテレビから読みとれる「事実」は、横内氏と同じ理解なので氏の要約を借用する。「夫婦で同ホームに入居していた80歳の男性は、ある日、突然下血します。主治医は、胃潰瘍からの出血を疑いましたが、本人は入院を拒否しました。そして、家族は、本人の気持ちと手術に耐える体力はなかろうという主治医の意見によって、入院せずにホームで暮らし続けることを希望しました。「今の状態では、(大きな)検査に耐えられる状態ではないし、入院すると精神的に不安定になってしまう」ので、「痛みだけをないようにお願いしました」と家族の一人が語っておられました。それを受けて、「症状を抑えるための治療だけを実施」することになりました。下血直後、50/−近くまで下降し、その後は100/−近くを維持していましたが、8日めに静かに息を引き取りました」。
 番組は、老人医療に明るくない人が見れば、自分もあやかりたい最後であると理解するように制作されている。しかし我が国の標準的医療という観点でみれば、さまざまな疑問のある症例である。
 胃潰瘍の出血は、通常、手術の必要がなく、入院も必ずしも必要ではない、内科的治療で治癒させることができる。この場合も手術が必要である理由は示されていない。ホームに入居のまま治療するので十分可能と考えられる。しかし画面で見る限り、治癒を目指して治療が行われた形跡はない。横内氏のいう「限定的医療」でさえ行われてはいない。止血剤を混ぜた点滴が行われたとのことであるが、胃潰瘍の出血には気休め以上の効果は期待できない。明らかにこの段階で「死を予期したケア」である緩和ケアに移っている。  この番組を見る限り、末期でない患者に、緩和ケアを行った「みなし末期」であると思われる。そこで横内氏はNHKに「みなし末期の紹介を意図したのか」という質問を行った。さまざまなやりとりの後、「死因は肺炎である。みなし末期の意図はない。最善の医療を行ったと信じている」という回答が行われたとのことである。回答と画面のストーリーでは違いすぎる。突如「肺炎」と変わった病名は番組においては一度も出ず、肺炎の治療がおこなわれた形跡もない。真相は分からない、しかし回答の通りとすれば、なぜ事実と違う「見なし末期における安楽死」のストーリーを作ろうとしたのかが、問われてくる。ともあれ書簡の往復が交わされている途上であるので、今後の展開を注目したい。公平にみて番組は、ケアが優れていることをもって、みなし末期を容認させようとする意図が明瞭にあり、広井氏の推薦の理由も理解できる。
 実体はどうであったのか、ここからは、私の推論である。一抹の疑念は残るが、「とよころ荘」の方針はテレビで紹介された「できるだけ入院させずに最後まで介護する」(これは問題のない、優れた方針である)ということであって「できるだけ医療を控えて、自然の看取りを」(安楽死の方針)と広井氏が理解する合意ができているとは思われない。しかし、その施設においてすら、「みなし末期」を作り出しているのは、担当医師の責任だけではなく、北海道の医療過疎に依るのではないかと私は想像する。町立病院から週二回の往診があると紹介されているが、道東の特養にとっては、贅沢の部類に属すると思われる。そして町立病院に入院したとしても、往診で提供される以上のレベルの医療が受けられるとは保証できない。日本の医療にとっては、ごく当たり前の、胃潰瘍の内科的治療ですら、手に負えないレベルの医療資源(人材・設備・機器)の状況、これが過疎地医療である。NHKは「みなし末期」は過疎地の現実と紹介すればよかったのではないか、美談にしたてたのが間違いだったのである。NHKは明確な制作意図があったのだろうか、それともただ「みなし末期」を常識と考えていただけなのであろうか。
 制度的欠陥と老人医療への無知は、そして介護環境の困難さは、過疎地に限らず、全国あらゆる場所で、日常的に「みなし末期」を生み出している。それを「幸福な死」として容認し「幸福な生」があり得ることを忘れている。広井氏らの主張はこの現実を容認する役割を果たしている、と私は思う。」(石井[19980501]*)
石井 暎禧 19980501 「みなし末期という現実――広井氏への回答」,『社会保険旬報』1983(1998.5.1):14-19,1984(1998.5.11):36-29,1985(1998.5.21):32-35 http://www.sekishinkai.org/ishii/opinion_tc02.htm

◇宮原 伸二 20050527 『美しく死ぬ――そのための上手な生き方』,総合ケアシーザル,161p. ISBN-10: 486069094X ISBN-13: 978-4860690946 1260 [amazon][kinokuniya] ※ d01.

 「大分前にNHKで、「良い死」という事で放送されたことですが、ある施設で高齢者に、黒い便が出ました。そして、その便が続き、次第に弱っていきました。当然、食欲もありません。施設では末期とみなし、特に治療をしませんでした。数日後、亡くなりました。何もしないで自然の状態で死んでいきました。これが良い死だと放送されたわけです。その後、NHKは「よ(ママ)い死」<0068<ということは撤回した様ですが。黒い便は、多くの場合は胃・十二指腸からの出血です。胃潰瘍、十二指腸潰瘍、あるいは胃ガンなども考えられますが、出血は比較的簡単に止めることができます。医療がかかわることによってBさんは、まだまだ元気に長生きできたと思われます。これが「みなしの末期」です。
 みなしの末期が、実は、特別養護老人ホームや在宅で療養している中にはかなり見られます。医療側は、人命軽視とする意見が強くあります。福祉の方の中で一部の方には、たとえ脱水だろうと肺炎だろうと、その人の一つの運命だろうし、いずれそうなるのだろうから、単に点滴をしたり肺炎を治したりしても、それは一時的に過ぎない。所詮数カ月後には、似たような運命が訪れるのだから、それはそれで自然の理にかなっているという考えです。それを「福祉の死」ということもあります。
 […]いずれにしろ、今は、ど<0069<っちが正しいという結論は出ていません。私は、医師として助かる命が死んでしまったら、大変残念ですから、「みなしの末期」は認めたくありません。」(宮原[2005:68-70])

石井 暎禧 19980201 「老人への医療は無意味か――痴呆老人の生存権を否定する「竹中・広井報告書」」,『社会保険旬報』1973号(1998.2.1)
 http://www.sekishinkai.or.jp/ishii/opinion_tc01.htm

広井 良典 19980221 「タ−ミナルケア議論において真に求められる視点は何か――「死の医療化」への深い疑問について」,『社会保険旬報』1975(1998.2.21):13-17
 石井[19980201]について、「私たちの主張をあまりに誤解、場合によっては曲解するものであり、多くの論点がすれ違いのままに終わっていると思われる」
 「私たちは、終末期における医療が、「少なければよい」などと言っているのではないし、ましてや医療を否定ないし排除しようとしているのでもない」

横内 正利 19980301 「高齢者の終末期とその周辺」,『社会保険旬報』1976

■19980311 第142回国会衆議院厚生委員会
 http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/142/0223/14203110223003c.html
 理事 山本孝史*/厚生大臣 小泉純一郎
 *民主党国会議員
 http://www.ytakashi.net/
 http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/profile/431.htm
「○山本(孝)委員 それで、そこに関連するのですが、高齢者がたくさんお住まいになっておられる老人ホームのところでインフルエンザがはやって、集団でお亡くなりになるというケースがありまして問題になりました。この方たちにぜひ受けていただくのがいいなというふうに私は思ったわけでありますね。
 そう思っておりますのは、老人ホームにおけるところの医療の体制というのは極めてお粗末なものがあるのじゃないか。一応、五十人以上の老人ホームには医師一人の配置基準がありますけれども、これは兼任がほとんどでございますので、その老人ホームの中には常駐をしておられないわけであります。
 そういったところで、今、関係者の間で静かなブームを呼んでおります本がありまして、「「福祉のターミナルケア」に関する調査研究事業報告書」というのがございます。もう皆さん関係の方たちはお目通しをいただいている本だというふうに思いますけれども、高齢者の末期医療はどうあるべきかということについての議論をあえて提起されているんだというふうに私は思っております。
 そう思っておりましたら、先般、一月二十六日でございますが、NHKの教育テレビで「列島福祉リポート 老人ホームで看とりたい 北海道とよころ荘の試み」という放送がございました。内容は、入居者の八十歳の男性が突然下血をいたします。主治医は胃潰瘍からの出血を疑いますが、本人は入院を拒否をいたします。手術に耐える体力はないだろうという主治医の意見によって入院しないことになりまして、家族は痛みだけはないようにお願いをし、症状を抑えるだけの治療を実施した。その結果、八日後にその男性は老人ホームで亡くなりました。
 このビデオを私が見ました限りにおいては、ビデオの、ビデオといいましょうか番組の制作者は、病院でチューブにつながれて亡くなるというような末期の姿ではなくて、住みなれている老人ホームでみんなにみとられながら亡くなることができる、非常にいい試みなんだという肯定的な評価を下して番組をおつくりになったというふうに受けとめております。
 しかし問題は、下血をしたと。胃潰瘍を疑われていて、下血をしただけで治療が中止されて老人ホームで亡くなるというのは、これは治療の放棄ではないだろうかという声が一部上がっているわけであります。
 そこでもってこの福祉のターミナルケアという問題と絡んでくるわけでありますが、前置きが長くなって申しわけありません、大臣にお伺いをしたがったのは、高齢であるならば、治る可能性のある病気であっても治す努力をしなくてもよいのではないか、そういう御主張が一部諸外国にはございます。日本の中にはコンセンサスはないと思いますが、今申し上げたような主張、問題提起について、大臣の御見解をお伺いいたしたいと思います。
○小泉国務大臣 私は、その患者さんの判断を重視すべきじゃないかと思います、判断があるうちは。ある年齢を過ぎて、場合によっては治る可能性があるんだというお医者さんから十分な説明を受けたとしても、患者さんが、どうしてもそれはしたくない、病院に行きたくない、手術をしたくない、治療はしたくないともし主張をされるのだったらば、その患者の意思というのが最大限尊重されるべきじゃないかというふうに私個人としては思っております。
 それは年齢によっても違ってくると思います。八十の人がそう言うのか、九十の人がそう言うのか、百歳の人がそう言うのかによっても違ってくる。医師の対応も違ってくる。恐らく、その患者さん自身に判断能力があるかによっても違ってくる。しかし、ある程度の年齢が過ぎた場合に、十分な説明を行った場合には、患者の意思が最大限に尊重されるべきだ、基本的に私はそう思っております。
○山本(孝)委員 元厚生省におられました千葉大学の広井先生がいろいろと今御発言をされておられるわけですね。川渕さんも同じような御見解を今厚生省の中で展開されておられると私は受けとめておりますが、ヨーロッパで、老人ホームで経口栄養を受けておられる方たちの姿は余り見ない。それはなぜなのか。それは、社会的なコンセンサスとして、そういう状態になれば治療をしなくてもいいんだというコンセンサスがあるんだ。したがって、福祉先進国と言われているにもかかわらず、北欧諸国の平均寿命は日本よりも低いという状況になっている。医療費も、高齢者にかかわる医療費は日本に比べて少ないということになっている。
 御案内のとおりに、医療費の中で高齢者が占める割合は非常に高いわけであります。ここのところをどう考えるのかというのは、医療費の一種抑制という言葉を使うと語弊がありますが、医療費の伸びを考えていく中でどうしても考えざるを得ないテーマ、そういう意味で問題提起をされたのだと思いますが、患者の判断は尊重されなければいけない、そう思います。
 今申し上げた放送はぜひ見ていただければと思いますが、患者の意思を確認するような状況はありません。その中で、医師がみずからの判断でそのように治療をやめてしまうということは本当にいいのだろうか。ここはしっかりとした議論をしていただきたいと思いますし、この豊頃町の状況というものも、いい悪いの話は別にして、実情をぜひ厚生省としても把握をしていただきたいというふうに思います。」

◆石井 暎禧 19980501 「みなし末期という現実――広井氏への回答」,『社会保険旬報』1983(1998.5.1),1984(1998.5.11),1985(1998.5.21)
 http://www.sekishinkai.or.jp/ishii/opinion_tc02.htm

◆1998/06/06 シンポジウム「高齢者の終末期医療――尊厳死を考える」
 老人の専門医療を考える会(会長=青梅慶友病院長 大塚宣夫氏)主催
 『週刊医学界新聞』2299(1998-07-27)
 http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n1998dir/n2299dir/n2299_08.htm
 「高齢者終末期医療への視点――老人の専門医療を考える会シンポジウムより
 さる6月6日,東京の銀座ガスホールにおいて,老人の専門医療を考える会(会長=青梅慶友病院長 大塚宣夫氏)主催によるシンポジウム「高齢者の終末期医療−尊厳死を考える」が開催され,高齢者医療に取り組む第一線の演者らが話題を提供した。

死は医療のものか
 「これからのターミナルケアに求められる視点」を口演した広井良典氏(千葉大助教授)は,「超高齢時代においては後期高齢者の死亡が急増し,長期の介護の延長線上にあるようなターミナルケアが増加すると見込まれる。より,ソーシャルサービスや『生活モデル』的視点の重要性が高まる」との見解を示した。
 その上で,戦後日本においては「疾病構造の変化,医療技術の高度化,病院化の進展の中で,急速な死の医療化(medicalization)が起こり,病院での死が急増した(日本人の病院での死亡率は,1965年には死亡者全体の29%だったが1995年には74%に拡大)」と指摘。「日本における死に場所としての病院への集中と,ターミナルへの今日の人々の意識は,高度経済成長期を中心とするこの30年の時代環境と,制度・政策のあり方によって大きく規定されたものである」との考えを示した。
 さらに広井氏は,「死は医療のものか」と問い,「死は医療サービスにより一義的に決められるものではない。個人の判断による死のあり方の『選択』の幅を拡大すること。それを可能とするような政策的支援が重要である」と強調した。
 具体的には,在宅・福祉施設でのターミナルケア,施設や居宅に孤立しないような通所型サービスへの支援などをあげるとともに,「死生観そのものを含めて,ターミナルケアというものを,より広い視点から捉え直す作業がいま何より求められているのではないか」と問題を提起をした。

 「みなし末期」は許されるか
 一方,「終末期医療の検証を」を口演した横内正利氏(浴風会病院診療部長)は,「高齢者の末期については多くの誤解と混乱がある。末期とは考えられない状態までも末期とみなされて議論されている」と危惧を表明。「虚弱・要介護のレベルにある高齢者は,急性疾患などによって容易に摂食困難に陥るが,多くは治療によって疾患が軽快すれば,経口摂取が再び可能となる。しかし,もし治療しなければ死に至ることも少なくない。このような高齢者の摂食困難に対して,それを不可逆的なものとみなして医療を実施しないとすれば,それは『延命』治療の放棄ではなく,治癒の可能性をも放棄することだ」と述べ,治癒の可能性があるにもかかわらず,末期とみなすこと(「みなし末期」)を「国民的合意なしには許されるものではない」と主張した。
 また,高齢者医療における治療法や治療の場の選択については,「一定のレベルを超えた治療は望まない,ある限られた範囲内の治療で治癒を試みてほしいという『限定医療』を望む場合が一般的である」と述べ,「この場合,『みなし末期』との決定的な違いは治癒する可能性が十分残されていることであり,医療者が『自然な看取り』を心がけるのは危険である」と警鐘を鳴らした。」(記事全文引用)

◇「がんのターミナルケアについては、関連学会も多く設立され、医療技術面を中心に多くの知見や議論の蓄積がなされてきた。これと同様のことが、今後は高齢者のターミナルケアに関してもおこなわれていくべきであろう。そうした意味では、たとえば筆者も一度参加する機会があった、「老人の専門医療を考える会」主催の一般人も含めた公開シンポジウムのような試みは意義あるものと考えられるし、こうした議論は今後いっそおこなわれていくべきだろう。
 ちなみに同シンポジウムにおいて、中川薫氏(定山渓病院院長)は、高齢者のターミナルケアに関するいくつかの詳細な事例にそくした報告をおこなった後、「こうしたことを表立って議論することは、つい最近までほとんどタブーのよちうなことだったので事例紹介をすること自体に相当勇気が必要だった。しかし、今日の反応を見て、こうしたテーマをオープンに議論する期が熟してきているのを感じた」という趣旨のことを述べられていた。「後期高齢者の死亡の増加」という時代背景を踏まえれば、高齢者のターミナルケアに関する医療技術を検証し、その評価や透明化を図っていくことは時代の要請といえる。」(広井[2000:152])*
*広井 良典 20000915 『ケア学――越境するケアへ』,医学書院,268p. ISBN:426033087X 2,415 [amazon][kinokuniya][boople] ※ c04

横内 正利 19980721 「高齢者の自己決定とみなし末期」,『社会保険旬報』1991

広井 良典 19980821 「これからのターミナルケアに求められる視点」,『社会保険旬報』1994(1998.8.21):12-20

横内 正利 19981201 「高齢者の自己決定権とみなし末期〈続報〉」,『社会保険旬報』2004(1998-12-1):12-16


◆向井 承子 20030825 『患者追放――行き場を失う老人たち』
 筑摩書房,250p. ISBN:4-480-86349-4 1500 [amazon][boople][bk1] ※, b d01
 「最近(1997年末)、財団法人「長寿社会開発センター」というところから出た「福祉のターミナルケア」についての報告書を読んだ。ターミナル・ケアとは直訳すれば「終末期のケア」ということになるのであろうか。末期医療と訳されることもあり、使うものの意図を反映しやすいことばだと以前から思っていたのだが、この報告書でもやはりターミナル・ケアが実に戦略的に位置づけられているように感じた。まず、冒頭部の論文が「死は医療のものか?」との見出しで始まる。そして、これまでの「メディカル・タームで語られるターミナルケア」から「ノン・メディカルな、つまり医学的な介入の必要性の薄い……長期ケアないし『生活モデル』の延長線上にあるような、いわば『福祉のターミナルケア』が非常に大きな位置を占める」と問題提起をしてから、「『政策としてのターミナルケア』の課題」の検討に入っていく。/たった、数行の引用だが、医療や福祉関連の論文は難解で片仮名ことばの援用が多いものなのである。メディカルタームとか、ノン・メディカルとか、ターミナル・ケアなどと言われると学問的 <0067<な感じだけれども、要はどこでどう老い、病み、死んだらいいのか、という話であり、これまで死が医療用語だけで語られてきたとの指摘はもっともである。産むのも死ぬのも病院まかせの現代人は、自分で生死の演出などとうの昔に投げ捨てているから、老人病院の悲惨な現実は聞き飽きるほど知っているのに、ではどうしたらいいのかわからないので困っているのである。せいぜい、「ぼっくりと死にたいねえ」と井戸端会議で言い合う程度では解決の糸口にならない。一般市民はそのレベルで、でも以前よりは少しぶつぶつ不安を口にし、悲鳴をあげながらどうしたら政策参加できるか悩み始めたところなのだが、報告書の方は一気に「ターミナルケアの経済評価」へと飛んでき、どうしたら終末医療にかけるお金を減らせるかという方向づけを試みる。
  ガン末期の父親に退院を勧めるために使われたことばがふとよみがえった。
  「お父さんはそろそろ畳の上の大往生の時期ですよ。幸せに逝かせてあげて下さい」
  真に受けて退院させたとたん、大往生直前の憔悴し切った人はよみがえって歩きだしてしまったのは余談だが、死をどこでどう迎えるのか、自分や家族の意思を保障するにはどうしたらよいのか。そちらは手つかずのまま、人のいい現場の職員をコマンドに仕立てあげながら進行させていく「政治的事態」はしっかり見据える必要があるだろう。」(向井2003:67-68)
 「やがて、過剰医療ということばが生まれる。患者がまるで検査やクスリを消費するだけの存在、病院を支える道具のように扱われることになる。
 それは患者が選んだことではなく、医療関係者たちが患者を医療経営のコマとして扱う羽目に自ら負い込まれる、いわば自縄自縛の落し穴にはまってしまった結果なのだが、そのころから今度は、家族もかかわりようのない高度医療の場で死んでいく人たちのことが問題視されるようになった。患者の治療にも、まして孝不孝にもかかわりなしに湯水のように患者にお金がかけられるようになり、スパゲッティ症候群ということばが生まれてきた。そして、当然のように病院で医療に頼って生き続けるおとしよりの存在が財政面から問題視されることとなって、いまでは、医療が必要な人もそうでない人も一気呵成に医療から追放されようとしている。」(p.8)
 「話は数年前にさかのぼる。1997年11月。東京の永田町で「フォーラム・末期医療を考える――老人に生きる権利はないのか」と名付けたシンポジウムが開かれた。老年医学者の横内正利氏、社会保障の専門家で有料老人ホームの経営者である滝上宗次郎氏、医師で病院経営者、医療政策の専門家である石井暎禧氏らが呼びかけ人だが、かねがねこのことが気になっていた私も患者・家族の立場ということでそのひとりに加えていただいていた。/シンポジウムは、メディアに大きくとり上げられることこそなかったが、その後、専門誌(『社会保険旬報』)での長い論争(石井暎禧氏、横内正利氏と広井良典氏による)のきっかけとなり、いまふり返っても、制度の枠組みが大きく転換していく過程で、医療と福祉の最前線の政策思想と技術倫理と現場の実情が真剣勝負でぶつかりあうきっかけになったと思う。/ことの発端は一冊の報告書だった。『「福祉のターミナルケア」に関する調査研究報告書』と題され、厚生労働省の外郭団体である長寿社会開発センターが1996年度の調査研究事業報告書 <179< として世に出したものだった。/(中略)/だが、報告書の筆者が「ターミナルケアが『医療』の問題として論じられるかぎり……どうしても技術論に傾いてしまう。……(これからのターミナルケアでは)医学的介入の必要性の薄 <0180<い『死』のあり方が確実に増え、言い換えれば、長期ケアないし『生活モデル』の延長線上にあるような、いわば『福祉のターミナルケア』が非常に大きな位置を占めるようになるんではないか」と言い切るのには違和感を覚えた。それは生と死の文化が政策的な意図をもった文脈、いわば「政策論」にとりこまれているような違和感だった。/(中略)/「生活モデルを」との主張への違和感は、その現状の分析が伝わってこないためだった。死の場面で「技術論」を否定するのならば、その前に、おとしよりたちをあえて死なせたり悪化させたりしないように、死を追い込まないためにも、「医療の質」の技術評価をこそしてほしかった。」(向井 2003:179-181)
 「『福祉のターミナルケア』論は、母のケースを思い起こすとさらに理不尽だった。母だけではな <0182<い。必要な医療も受けられず、医療不在の場で病状を悪化させられ、寝たきりに追い込まれ、病状や障害が重くなるにつれ医療から排除されていった人びとの姿が心に焼きついて離れないままだった。「そろそろ畳の上の大往生を」……。死に時をまるで政策にとって都合のよい鋳型にはめこむような、このてのキーワードを何度、聞かされたことだろう」(向井 2003:182-183)
◇二木[2000]*
 「私自身も、一九九二年に、「これからのあるべき在宅ケアを考える場合」には「広義の文化的問題、あるいは価値観に属する問題を再検討しなければならない」と問題提起し、その一つとして「単なる延命治療の再検討をあげたことがある。
 しかし、本報告書第4章「ターミナルケアの経済評価」(鈴木玲子・広井氏執筆)は、定義・将来<0160<予測・仮定がきわめて恣意的で、費用計算の方法も粗雑であり、結論(死亡場所の大幅な変化――病院死から自宅死・福祉施設での死亡へのシフト――により、二〇二〇年に一兆円もの医療費が節減できる)は、誤りである。以下、その理由を示す。」(二木[2000:160-161])
*二木 立 20000420 『介護保険と医療保険改革』,勁草書房,272p. ASIN: 4326750448 2940 [amazon][boople] ※, b me
 cf.二木 立 19921015 『90年代の医療と診療報酬』,勁草書房,251p. ASIN: 4326798815 [amazon][boople] ※, b m/e01
 「第二は、在宅障害老人地対する単なる「延命」のための医療の再検討である。
 わが国は世界に冠たる「延命医療」の国であるから、在宅の寝たきり老人の状態が悪化した場合には、病院のICU(集中治療室)に入れられることも少なくない。このことの「再検討」とか「制<0142<限」などというと、「医療費の抑制」とか「患者の人権無視」といった非難をたちどころに浴びせられる可能性がある。
 しかし、ここで考えなければらならないことは、多くの医療・福祉関係者が理想化している北欧諸国や西欧諸国の在宅ケアや施設ケアでは、原則として延命医療は行われていないなことである。
 この点に関しては、有名な老人病院である青梅慶友病院院長の大塚宣夫先生の著書『老後・昨日、今日・明日』(主婦の友社、一九九〇)がもっとも参考になる。同書によると、大塚先生はヨーロッパ諸国を訪ねて「次の二点の真偽」を確かめたかったそうである。「第一は、ヨーロッパの老人施設にはわが国でいういわゆる『寝たきり老人』が極めて少ないこと、第二は、ヨーロッパの国々では高齢者に延命のための医療行為がほとんどなされていないということ」(一一四頁)。そして結論は、二つともその通りであったとのことである。
 あるいは、ドイツの老人ホームを実地調査した『ドイツ人の老後』(坂井洲二著、法政大学出版会、一九九一)によると、ドイツでは人々がホームに入る時期を遅らせ、死期が近づいた状態になってはじめて入る人が増えてきたため、「三〇〇人収容の老人ホームで一年間に三〇〇人も亡くなった」例さえあるという(一〇八頁)。わが国でこんなホームがあったら、たちどころに「悪徳ホーム」と批判されるであろう。
 わが国では、ヨーロッパ諸国の在国ケアや施設ケアという、なぜか「寝かせきり」老人がいない<0144<ことに象徴されるケアの水準の高さのみが強調される。しかし、単なる延命のための医療を行っていないという選択もきちんと理解すべきである。
 誤解のないようにうと、私は障害老人に対する単なる延命のための医療を一律禁止すべきだ、といっているのではない。しかし、事実として、延命治療よりもそれ以前のケアを優先・選択する「価値観」「文化」を持っている国があることを見落とすべきではない。
 そして、わが国でも、今後は同じような「選択」が必要になるであろう。デンマークの福祉に詳しい有名な有料老人ホーム経営者は、「わが国で、一方ではデンマークやスウェーデン並みのケア、他方で効果の非常に疑問な末期の延命医療を無制限に行うとなると、どんな立場の政府でも、その財政負担に耐えられない」といわれている。」(二木[1992:142-144])

◆20010407 山崎摩耶(日本看護協会理事)講演
 http://homepage2.nifty.com/netmatsudo/yamakouen.htm
 主催:地域ネット松戸
 「今日は福祉関係の方もお見えですか?別に福祉関係の方に苦言を呈するつもりはないのですが、私は医療看護の介入しないターミナルケアというのはありえないと思っております。昨今は「福祉のターミナルケア」とかという論文をお書きの方もいまして、「おいおいおい、ちょっと待ってよ」と言いたい感じがあります。
 特養も全国調査をいろいろ見ますと、半数が自分のところでターミナルを看取れます、と答えていますが、半数が最後は病院に運ぶと答えています。
 先ほど申しましたように、特養のナースの配置数が非常に少ないのではないでしょうか。そうすると特養で、24時間看護婦がいないところで、どうやって誰がターミナルケアを看るのでしょうか。福祉だけでターミナルケアが出来るのでしょうか。
 ですから、特養に訪問看護婦が24時間ターミナルケアに外から看護を提供しに行く、という仕組みどうですか?私は真面目に考えておりまして、これは施設間で相対契約をすればいい話ですし、介護保険下では特定施設ですから、有料老人ホーム、ケア付き住宅、ケアハウス等はそういう仕組みが既に出来ております。」
◇二木[2001]*
 「現実に即して終末期を死亡前一ヵ月間に限定すると、わが国の終末期入院医療総額(老人分+「若人」分は一九九八年度で七八五九億円であり、国民医療費のわずか三・五%にすぎない。これは、厚生労働省の外郭団体である医療経済研究機構が発表した『終末期におけるケアに係る制度及び政策に関する研究報告書』(二〇〇〇年)が行っている推計である(9:42)。
 […]終末期医療費をめぐる論争には決着がついたと言える。」(二木[2001:190])*二木 立 20011120 『21世紀初頭の医療と介護――幻想の「抜本改革」を超えて』,勁草書房,308p. ASIN: 4326750456 3360 [amazon][boople] ※, b

◆西川 周三 「21世紀医療保険改革の課題」,『社会保険旬報』2001
 「福祉のターミナルケア」論争に触れ、「この問題提起は、単にターミナルの状況にとどまらず、長期ケア全般にわたって、倫理的考慮も絡めて、本格的に議論する必要のあるテーマである」

◆石井 暎禧 20010121 「終末期医療費は医療費危機をもたらすか――「終末期におけるケアに係わる制度及び政策に関する研究報告書」の正しい読み方」,『社会保険旬報』2086(2001.1.21)
 http://www.sekishinkai.or.jp/ishii/opinion_tc03.htm
 「日本社会はいかに高齢者を抱え守っていくかが問われている。「国民負担率」や「老人医療費抑制」という言葉の呪縛を解き放って、「すでに起こった未来」の老人ケアコストの増大を数値的に把握し、どこかに無駄があるのではないかという幻想は捨て、まずそれを担う覚悟を決めるべきである。無駄はあるだろうが、その程度では問題は解決しない。国民の覚悟を促すためこそ、医療・福祉の提供者は、その仕事の質を高め、それを可能にする効率的な社会的システムを提案していかなければならない。その過程で誤った既得権を捨て、制度の合理的改革を身を切る覚悟で行うべきであろう。この点では医療者側にも責任の一端がある。」(最後の段落の全文)

◆石井 暎禧 20010300 「医療保険改革と「老人終末期医療」――事実に基づいた改革を」,日本病院会医療経済税制委員会報告書『制度と政策の変革を目指して』
 http://www.sekishinkai.or.jp/ishii/opinion_tc04.htm
 ……

◆終末期医療に関する調査等検討会 2004/07 『終末期医療に関する調査等検討会報告書――今後の終末期医療の在り方について』  http://www.mhlw.go.jp/shingi/2004/07/s0723-8.html

■言及

山本 たかし メールマガジン『蝸牛のつぶやき』2006/03/05号
 http://www.ytakashi.net/CONTENTS/2.merumaga/06TEXT/2-2-27text.html
 『山本たかし 国会アクション』
 http://www.ytakashi.net/index.html
「■尊厳死法制化と独立型の高齢者医療制度との関連

 尊厳死法制化を考える議員連盟(中山太郎会長)の総会が開かれました。「考える」となっているので、法制化の賛意に関わらず参加できると理解し、私も参加しています。
 会合では、法務省から安楽死・尊厳死に関する代表的な判例の紹介と、厚労省より終末期医療を含む在宅医療推進の取組状況の説明があり、意見交換に入りました。
 真っ先に自民党の女性議員が手を挙げて、「早く法制化を」と迫りました。前回の会合でも「医療費が足りないのですよ」と発言した人です。他にも「本人の生前の意思表示は、どのような意味を持つのか」との質問もありました。ずいぶんと危なっかしい集まりです。
 私は、次のように述べました。
 「今の時点での尊厳死法制化は反対です。医療費抑制が叫ばれるときだから、なおさら反対です。自己決定権を根拠とされますが、家族に負担がかかるからとか、経済的負担を避けたいなどの理由は、社会的に迫られたものであって、自己決定ではありません。臓器移植法でも中山先生と議論しましたが、脳死を人間の死として、死体から臓器を摘出することの違法性を阻却することと、生きている人を死に至らしめる行為の違法性を阻却することは、まったく異なった議論です。尊厳死に対する国民の関心も、移植法の時のように盛り上がっているとは思えません。どうぞ、慎重にお願いします」
 中山会長は閉会の挨拶で、次のように述べました。
 「核家族化が進み、これからは面倒を見てくれる家族のいない高齢者が増える。終末期は病院に行かざるを得ない」
 この主張は、介護保険導入時に激論となった「福祉のターミナルケア」議論に決着がついていないことの表れでもあります。厚労省の「在宅での看取りを支える」との説明に、出席者から「医療的ニーズが高いのに、自宅で看取るとは、何を考えているのか」との発言もありました。国会での議論は、いつも生煮えのままです。
 ところで、今回の医療制度「改正」で、独立型の高齢者医療制度が創設されます。財源は、介護保険と同様に、公費で半分、若年者の「連帯」保険料で当面は4割、高齢者の保険料で同1割とする仕組みです。
 介護保険で問題となったように、給付総額が増えると、給付の「適正化」が求められます。介護では、ヘルパーを家政婦さんのように使っていることが問題となりました。高齢者医療制度の総額が増大したとき、どのような対応策が講じられるのでしょうか。「尊厳死」が大手を振って歩くようになるのでしょうか。独立型の高齢者医療制度については、この点を良く議論しなければなりません。国会での慎重かつ十分な議論が求められます。」
◆立岩 真也 2008/04/01 「有限でもあるから控えることについて・3――家族・性・市場 31」,『現代思想』36-4(2008-4):- 資料,
◆立岩 真也 2008 『…』,筑摩書房 文献表


UP:20061129 REV:1201,06,08,12,13,29 .. 20080313,15 0406
安楽死・尊厳死  ◇石井 暎禧  ◇二木 立  ◇広井 良典  ◇横内 正利
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