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犠牲でなく得失について

良い死・15

立岩 真也 2006 『Webちくま』
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全体の目次
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 *以下は草稿

※次の本になりました。
◆立岩 真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 [amazon][kinokuniya] ※ d01.et.,

『良い死』表紙

犠牲は不要であること
 しばらく『病いの哲学』という本を読んでみていて、前回、犠牲について、というよりは、それよりさらに手前にある身体の帰属という問題についてすこし考えてみた。では、安楽死・尊厳死について犠牲の構造はあるか。あるとも言えるし、ないとも言える。これがいちおう答になるが、これではなんだかわからない。もうすこし言えば、実際にはあるが、ないようにすることができ、なくした方がよい、だから犠牲の問題として本来は考えるべきでなく、考える必要がないようにすればよい。これが答になる。
 医療倫理等の教科書等では誰かを生かすためには誰かが死なねばならないような状況がしばしば想定され、それについて学生たちが「ディスカッション」することになったりする。だが、そんな状況は実際には多くあるわけでなく、あってもなくすことができる。そのなかで例外的に存在するのが臓器移植の場面であり、だから論じられることにもなる。(このような把握を認めたくない人はいるだろうが、そう考えてしまえる事情はたしかに存在し、それはそれとして受け止めざるをえないという認識を私も上の本の著者と共有しているし、その上でどんなことが言えるかについて、前回、すこし、述べたのである。)それ以外にしばしば出てくるのは救命ボートの例なのだが、これは極限的で例外的な状況であり、他から助けがこないというその状況そのものは受け入れるしかないという設定になっている。だが、多くの場合には、ボートの大きさを大きくしたり別のボートをもってくることは可能であり、それをしないことこそが「倫理」に反している。そしてこんな当たり前のことに気がつかないようにその教科書ができているとすれば、それはまったく教育的でなく、有害図書よりもむしろ有害である。
 生者から生者への臓器の移転、むしろ生命の移転の場合では、人の生と人の死がつながっているから私たちは困ってしまうのだが、多くの場合にはそんなことは起こっていない。多くの場合、たかだか必要なものは、生存のための資材である。資材は、物であり、人の働きである。その提供が、人の生存を現実に脅かすことがあるのは、その提供者がごく限られた人に限られているからであって、その状態を変更するなら、可能になる。
 死の決定に関わる場面では、自分が死ぬか、あるいは自分を生かすために家族が死ぬ、とまではいかないとしても、大きな負担がかかるといった場面で、そのことを思って、自分が生きないことにするという行ないとしてなされる。これを自己犠牲の行ないと言うことはできよう。そしてそれは立派な行ないであるかもしれない。しかし、このような状況は、基本的には簡単に、なくすことができる。人を生かすために、人手としてまたお金の負担をする人として関わる人がもっと多くいればよいだけのことである。負担の範囲を広げる。それでよい。なにも深刻な問題ではない。

増やすことが得、か?

 このように私は考えるのだが、そうは思わない人がいる。負担の範囲を広くしたとしても、やはりその社会的な負担こそが大きな問題であるのだというのである。そして、それを自らのこととして案じ、では自らがこの世から退こう、と思ったり言ったりする人がいる。なかにはそれを実現する人もいるかもしれない。とすると、そのことについて考えて、なにか言っておく必要もある。
 現在のまた将来の負担がそんなたいへんなものであるはずがない、そう困るようなことではない、とまず思ってしまう人とそうでない人とがいて、何がこの二種類を分けているのかよくわからないが、私は前者である。後者の人がいなければそんなことを考えることもない。ただ実際に後者の人はいる。となるとその心配症の人に何を言ったらよいのか。
 お金そのものを消費して人はまた病人は生きているわけではない。人の動きを使い、また人以外の物を消費して生きていく。そして薬や注射といった物にしても、それは原料を使いながら多くの人が作りそして売っているものだ。原料はあるとしよう。するとつまりは人である。その人はいないか。こんなにたくさんいるではないか。と、まず私は思う。その人を助けることのできる人は一人だけで、しかも死と引き換えにしか助けられないといった場合ではまったくない。このことはたぶん認めてもらえるだろう。このことを認めてもらったときには、既にさきのような犠牲の構造は存在しないということを認めてもらっているわけだから、この確認自体にも意味はある。しかし、それでも、負担は負担だと、言われることになる。さて続けてどう言うか。
 『病いの哲学』の「あとがき」にも関連することが書かれている部分――なおこの箇所と同じ文章は2006年4月の『京都新聞』に掲載され、その後7月に刊行された『「負け組」の哲学』に収録された(pp.163-165)――がある。
 「昔、ある大臣が「老人医療は枯れ木に水をやるようなものだ」と発言して物議を醸したことがある。もちろん、まったく間違えている。老人を枯れ木に喩えるのが品性を欠くからだけではない。花も咲かない枯れ木に水をやって「無駄に」水を流したほうが、政治的・経済的・社会的には「善い」からである。このことを、品位を保ちながら述べるのは難しいが、なんとか試みてみる。
 例えば、動けなくなった人間に、無条件に年額で一千万円を渡すのである。」(p.233、)
 こんな話は聞いたことがないという人もいるのかもしれないが、私はそうでもない。資源は有限だ、浪費はできないといった、聞いているだけで暗くなるような話に抗しようとして、金が使われているということは国民総生産(の増大)に寄与しているのだとか、これで福祉労働者は食えているのだとか、これは一種の公共事業だとか、そんな話を私はかなりたくさん聞いてきた。ただ、それだけだとわりあい簡単に反論はされる。もうすこしていねいに言った方がよい。
 生産はなぜよいか。交換はなぜよいか。とても基本的なところから確認していこう。働くこと自体はその人にとって負のことであり、よいことだとはされない。病者のために働くことも、そうした仕事の一部だとしよう。むろんこれに反論はできる。仕事をすること自体がその人にとって価値あることなのだというように。ただ、そうした側面があることを認めながらも、一面でたいへんなこともたしかなことだから、ここは譲っておこう。働くことは労苦であり苦労であるとしよう。
 しかしそれでも働くのはどうしてか。代わりによいことがあるからだということになる。自分で働いてその産物を自分で得る場合は、働くのはしんどいが、得られるものがそれを上回るなら、働いた方がよいということになる。また市場での交換においては何が行なわれているのか。買われた財は消費され、消費することはその代価を払ってもその人に選ばれたがゆえによいことであり、また売却した側にとっても売ったものより代わりに受け取った金の方がよいから売ったとされる。両方によいことがあった。市場経済はよい、という時に言われていることは、煎じ詰めれば、最も素朴には、こういうことだ。働くのは辛いが、それより得られるものの魅力が大きいから働く。働く辛さを差し引いても利益がある。その意味で、生産することはよいことで、それが増えることもよいことである。市場で起こっていることはみなこういうことであるとすれば、公害を発生させる等々のいわゆる「外部不経済」のことを考えないのであれば、生産の嵩が増すことは、同時に、生産物の効用から労働の労苦を差し引いた純益が増えるということも示していることになるから、よいことだ、経済成長はよいことだ。こういうことになる。
 ただここで問題になっているのは医療や看護や介助といった仕事であり、それは贈与としてなされる。むろん実際にはすべてがそうでないとしても、自分の金で自分で買うのであれば、そのことでは文句は言われず、負担が問題化されることもない。問題とされるのは、そのためのお金が税や公的保険から払われるような場合である。するとどうなるか。以下、じつはとても簡単なことなのだが、すこし複雑なように見えてしまうかもしれない説明をする。
 まず家族が介助したり看護したりしているとしよう。働くのは本人とは別の人、例えば家族であり、受け取るのは本人である。次に、働く人が暮らせるお金を納税者が払う場合には、負担するのはその人たちであり、受け取るのは本人であるか、ときには本人を介してそこから支払いを受け取る――さきの小泉の文章ではそうなっている――働き手である。ここでは、便益を受ける人と支払う人とが別々である。(自分もそのうち受け取り手になるとか、そうなる可能性があると言って、この二者の同一性を言おうとする議論があって、それはかなりの程度もっともなのだが、このことは今はおいておくとしよう。可能性が誰にでもあるというのはそのとおりだが、現実には、より多く必要とする人とそうでない人との間の差異はやはりある。このことについては拙著『自由の平等』pp.126-127等。)
 このような場合、それがなされること、有償の仕事としてなされること、その総量が増えること、その「産業」が繁栄することが単純によいと言えるかどうか。自らの生産物の自らによる取得、市場における交換においては、出るもの(−)と入るもの(+)の比較が本人においてなされ、その上で本人はそれを自発的にしているのだから、それはよいに決まっている、だからその総量としてのGDPが増えること、金が余計に使われることはよいことである、という理屈になっていたのだが、それはここでは言えない。だから、ここでは何にせよ増えればそれだけよいはずだという主張は、自明に成立してはいないということである。まずこのことを確認しておこう。その複数の登場人物の利害を簡単に見ておく。
 A:税金や保険料を払う人たちがいる。その支払いはその人たちにとっては負のできごと(−)だとしよう。その金はどこに行くか。ここでは話を簡単にするために、みなB:介助や看護や医療を提供する人に渡るとしよう。それを得ることはその人たちにとって正のできごと(+)である。そしてその人たちは仕事をする。その仕事自体は労苦であり苦労である(−)としよう。そしてその行ないのC:受け手、病をかかえたり障害があったりする本人がいる。その人たちにとってその行ないを受け取ることはよいこと(+)である。
 (1)まず、Aが支払うものはBが受け取る。Aの支払い(−)とBの受け取り(+)は等しい。一人ひとりをみれば得失があるが、それをならせば同じである――ここでは「同じ」といった言葉はおおまかに捉えてもらえればよい。税金なり保険料としてAから払われただけのものは、Bによって受け取られる。だからここでは(所得が多い人は多く消費するとかいや逆だとかいった要因が働くから、正確には、おおむね、ということになるだろうが)同じだけが消費され、その全体は不変である。
 (2)B:働く人は苦労する(−)が、同時に受け取って(+)いて、差し引きはプラスである、すくなくともそれで生活を成り立たせていけている。
 (3)C:受け手にとってはよい(+)。
 以上のようなことになっている。この損得勘定について誤解があるなら、それは単純な誤解だから正してもらわなければならない。例えば(1)について、その支払いがなされること、それが増えることは、国民負担率(国民所得に対する租税負担と社会保障負担の割合)の増加につながるのだが、それ自体に何か問題があると考える人は一つ目について誤解している可能性がある。(なおここで、これまで無償の仕事であったものが、その仕事の量そのものは変わらないまま、有償の、社会的に負担される仕事になった場合に、国民負担率も上昇するとともに、GDPも増加することになるのだが、後者の変化はあくまで数字上の変化である。また、仕事の量が変わらないという前提の繰り返しでしかないが、社会の――世話する仕事の総量という意味での――総負担量も不変である。)
 以上の限りでは、全体として、なにかよからぬことは起こっていない。残るのは、結局、最も普通に問題にされるところ、(4)この全体の収支、とくにAの負担(−)とCの利益(+)、加えるならBの受け取り(+)と労働(−)(の差分としての利益)である。負担としてはAの負担が問題にされる。これらは同一の個々人において天秤にかけられているのではない。だから、同一の個人において+と−が勘案された上で利益があると思って生産がなされているのだから労働・生産・消費が増えることはよいことであるという、市場についてなされる話は、ここではそのまま適用することができないということである。
 だから、結局、供給を増やすこと自体が当然によいことであるという話にはならない。例えばさきの一千万円だが、この場合にはそれは直接には政府が渡すのだろう。となると誰かは払う。払う側の人は、払わなくてすめば、その分をその人は自分のために使える。となれば同じではないか。病人の方が貯めこまずに使ってしまうからその分よいということはありそうだし、そのことは、「当然、その人間は、生活と生命を維持するために他人を雇うだろうし商品を買うだろう。[…]悲しくもあることだが、手元に残しても詮無いので、一千万円は直ちに世間に還流するだろう」(p.233)と、指摘されてはいる。ただ、このことを別にすれば同じではないか。
 上の引用文で略した箇所に「動けなくなった人間は、それなりの生活と生命を享受するだろう。」(p.233)とある。しかし、別の人は渡さない分、やはり自らの生活と生命を(払わずにすむ分よけいに)享受できる、とも言える。あるいは別の用途に金をかけた方がよいという反論がなされる。
 その兼ね合いをどうするか。それは実際にはなにかしらの社会的決定によってなされるものであるしかない。そのことによって得られるもの(C:+)は、負担(A:+)に比してたいしたものではないと言う人もいる。もちろん、そんなことはないと思い、そのことを主張する人たちもいる。それはやはり負担であってもすべきことだ、とか、Cの利益、そしてそれに加えるにそれで生活する人たちBの利益が重視されるべきだという主張がされることになる。こうして話はもとに戻される。

条件を加えた場合

 というわけでここまではあまり威勢のよいことは言えない。景気のよい、調子のよい話にはならない。ただそれで終わりかというとそうではない。つまり、働く人が十分にいると考えられるなら、事情は変わってくる。Bが得られるもの、Bに提供するものの評価のあり方が変わってくるのである。
 実際にどのくらいの人たちが関連する仕事で働いているか知らない。調べてわかったら記すことにしよう。ただとてもたくさんの人たちがいるだろう。その人たちの仕事がなくなったとしよう。代わりに他の仕事があればよいということになるのだろうが、この社会に、そんな仕事がそうたくさんあるとは思えない。するとその人たちは失業することになる。
 だとして、その人たちに対する所得保障が何もなけれは、その人たちは稼げず、暮らしていけないことになる。これはよくないとしよう。それで所得保障の制度があるとしよう。するとその数の人間は生きてゆける。それは、その人たちが生きていけないことに比べてよいことである。
 さて、この状態と比べてどうかである。この状態自体をいけないと考え、何にせよ人が働く状態の方がよいと考える必要はない。ある仕事にまったく意味がなければ、負荷しかないのであれば、仕事で働いて金を得るより、ただたんに所得が保障される方がよいだろう。「公共事業」を正当化する話として、どんな無駄な仕事であっても、例えば穴を掘ってまた埋めるような仕事でもなんでもさせた方がよいといったことが言われることがあるが、それが本当に無駄なら、本人たちにとってもその仕事をすることに益を感じられないのであれば、それはやはりしない方がよい。その給料分をただ渡した方がよいのである。
 しかし、ここでの仕事はそんな仕事ではない。「無駄遣い」を指摘してまわりたい人たちにしても、その全体が無益であるなどとは言わない。いくらかの益があることは認めるが、そのために払うものに見合わないと言うのである。そんな人にとっても、この仕事をしてもらってその人に暮らせるだけものを払うのと、ただ所得を保障するのと、払うのは同じであったとして、すくなくともいくらか有益な仕事をしてもらえたらどうか。もっとも、実際にはより多く支払うことにはなるだろ。一般に、働く人が得る所得は、仕事をしない(できない)場合に保障される所得よりも、働く人には一定の上乗せをすべき、あるいはせざるをえないという理由から、多くなる。多くを得られることを望むなら、Bの仕事に就くことを望むだろう。その分社会は多くを払うことになるのだが、しかし今考えている場面については、その上乗せ分として支払われる額と、提供される医療や介助や看護の仕事とを見ればよい。ならば、そういう仕事をしてもらった方がよいではないか。
 そのように言うことができる。なおこのような書き方をすると、ここで見ている仕事だけが社会の仕事の中の「おまけ」の仕事であるような受け取り方をされるかもしれないのたが、もちろんそのように考えているのではない。社会全体の中に、常に増やしてかまわない余裕がある、ここで見てきた仕事を含め全部を集めてようやくちょうどよいぐらいになっているかまだ余っているぐらいだ、ということである。
 ここでは、足りている、余っているという前提がある。そしてこのことが言えるなら、それは、もう一つ、心配症な人のもう一つの心配事に簡単に答えられることにもなる。
 その心配症の人たちは、そんなところに人を割く余裕はない、他の仕事をしてもらった方がよいと言う。そんなことがありえないわけではない。たとえば、誰かの世話をしていたら、外に行って農耕したり獲物をとってきたりすることができず、生きていけなくなってしまうといった場合。そうなれば共倒れだから、普通の救命ボートのケースとまるで同じではないが、類似の場合である。また実際、この社会においては、そんな場合が実際にあることも認めよう。つまり一家の中ですべてをやりくりしなければならないとなれば、食料の生産その他を優先せざるをえないといったことがありうる。しかし、繰り返せば、その状態は変更可能である。次に、社会全体がそんな状況であれば、それでも無理だということになる。しかし、社会全体で、他の、たしかに様々に大切であるだろう仕事の担い手も含め、まにあっているのであればその心配はないということになる。
 そのことは認めた上で、それでも、もっと有効な有意義な仕事をさせた方がよいはずだと言う人はいる。ここでなされるのは、ただ生かすことであり、結果、その人たちは生きる以外のことをしないのだが、それに比べて、同じ時間、畑を開墾するとか、あるいは同じ人間の世話ならもっと前途有為の人の世話をした方がよいといったことが言われる。もちろん、それに対する正面からの答は、畑を耕して大根を作るのも、人間を育てて働けるようにすることも、つまりは、人がたんに生きるために必要だからではないか、だから、他にどうしようもないような状態――など、現に人々が生きているのであれば、そうそう考えつかない――であればいざしらず、そうした生産、拡大再生産のための支度に専心せねばならないというのは端的に倒錯しているという答である。より生産力・生産性を高度化し、その分それに直接結びつかない仕事をますます余裕をもって行なうことができるようになることについては基本的に賛成であり歓迎するけれども、それに専心しなければならない事情はここにはないではないかと言うことになる。

足りていること、足りること

 こうして、働く人はいて他の仕事――すくなくともここで考えている仕事と同等かそれ以上に必要な仕事――についても足りている、あるいは足りるようにすることができると言えるなら、そして基本的に、病によって働けないというだけではなく働く人が他にいてしまうので働けない(働かなくてすむ)人も生きていけてよいとするなら、「犠牲」について深刻になってしまうそのはるか手前にいて、その「負担」はたいしたことではないと言うことはできる。このように補っていくなら、『病いの哲学』のさきに引用した箇所の後に置かれる次のような文章――この箇所以降は新刊の『「負け組」の哲学』にはない――も基本的に首肯できる文章である。
 「これは近代社会に限ったことではないが、人間の社会は災いを転じて福となしてきた。品の無い言い方に聞こえるだろうが、他人の不幸を食い物にして多くの人間が飯を食えるようにしてきたのである。社会的連帯とは、経済的にはそのようなことである。そして、これは、悪いことではなく、途轍もなく善いことなのである。だから、シンプルにやることだ。誰かが無力で無能になったなら、力と能力のある者がそれを飯の種にできるようにするのである。そのためには前者の人間に「水をやる」のが最善で効率的に決まっている。」(pp.234-235)
 となると、現実に人はいると言えるのかどうかが問題になる。私は言えると思っている。人によっては、しばらく前は景気がわるくて失業率が高かったが、いまは2〜3%ぐらいのものだ、とか、これから少子高齢化がさらに進んで不足するだろうと言う人がいる。だから外国から人を入れようなどということにもなっているではないか、と言うのである。それに対して、外国には人がいるということ自体がたくさん人がいることを既に示しているというのが私の最初の答になるのだが、多くの人はそのような計算の仕方はしないから、さしあたり、このことは今はおいて、国内だけに限ることにしよう。もちろんどのように計算するかによる。私が想定するのは、政府の統計で0近くから5%ほどの間を行き来している率(失業率)ではない。働けるが働かないでいる人で働いてもよい人、今よりは働いてもよい人、すこしなら働いてもよい人は、専業主婦をしている人、パートで働いているがもっと働ける人、仕事をやめたがまだ働ける人、学校に行きたくはないが行ってしまっている人、長い時間はつらいが気の向いた時とか調子のよい時にいくらか働いてよい人の中にたくさんいる。少子高齢化が続いても(続くだろうが)、これからも基本的にはそれは変わらないとしか考えられない。とすると、問題はない。そうなるはずだ。
 それでもさらに疑り深い人はいるだろう。もう少し続けた方がよいのかもしれない。


小泉 義之 20060410 『病いの哲学』,ちくま新書,236p. ISBN: 4480063005 756 [kinokuniya][amazon] ※,


UP:20060919 http://www.arsvi.com/ts/2006054.htm REV:0925(誤字訂正)
『良い死』  ◇安楽死・尊厳死  ◇安楽死・尊厳死 2006  ◇立岩 真也
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