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「幸福で自由なALS療養者に必要なコストと支援の倫理」

川口 有美子・下地 真樹 200711
第19回日本生命倫理学会大会・分科会F:医療経済と生命倫理

last update: 20151225

■要旨(400字以内)


>>>>>下地による第三稿(報告要旨として送付)>>>>

 特に長期在宅人工呼吸療法の筋萎縮性側索硬化症(以下ALS)患者に即して、以下のことを述べる。
 まず、「幸福で自由なALS患者」が現実に可能であることを述べる。第一に、ALS患者が必要とする医療・介護資源を効果的に運用するための手法とし て、当事者主体の事業モデル(さくらモデル)を紹介する。第二に、同モデルに即して、達成可能なQOL水準およびそのために必要な医療・介護資源の総量を 実証的に示す。以上が、「幸福で自由なALS患者」を可能にした条件である。しかしながら、第三に、現行制度下ではALS患者への資源配分が不十分であ り、早急に制度整備の必要性があることを指摘する。最後に、ALS患者の生を支える経済はそれを支えない経済と少なくとも等価であること、これらの経済の 間の社会的選択は純粋に価値判断の問題であり、効率性の問題は生じないことを述べる。

>>>>>川口による第二稿>>>>>

 特に筋萎縮性側索硬化症所(以下ALS)に即して、以下のことを述べる。
 第一に、長期在宅人工呼吸療法のALS患者の生を支えるために、現在どの程度の医療・介護資源が分配され、また実際に必要であるのかを事例に即して述べる。
第二に、支援費制度により、ALS患者自身が消費者としてのみではなく、主体的に医療・介護資源の運用に関わったことによって、「幸福で自由なALS患者像」(さくらモデル)が、世界で初めて達成されたことを述べる。
 第三に、幸福で自由な患者の役割を、医療福祉行政の啓発、地域における雇用創出、知的資本の蓄積、各種技術の進歩・発展などを行うエージェントとして、 位置づけられることを述べ、さらに、患者の生を支える経済と支えない経済の間の社会的選択は、純粋に価値選択の問題であり、患者の生を支える経済が我々の 社会にもたらす効果について述べる。

====下地による第一稿====

 特にALSに即して、以下のことを述べる。第一に、患者の生を支えるために、どの程度の医療・介護資源が必要であるのかを、実際に行われている在宅生活 事例に即して述べる。第二に、患者自身が消費者としてのみではなく、生産者として医療・介護資源の運用に関わることによって、必要な資源量を相当程度節約 できることを述べる(さくらモデル)。第三に、さくらモデルにおいて果たしている患者の役割を生産活動、資本蓄積、技術進歩として位置づけられることを述 べる。第四に、難病者の生を支える経済と支えない経済の間の社会的選択は、効率性についての問題ではなく、純粋に価値選択の問題であることを述べる。


◆再分配の経済学に関するノート(当日配布資料)

2007年11月10日 阪南大学経済学部准教授 下地真樹

       メールアドレス:shimoji☆hannan-u.ac.jp(☆を半角の@に変えてください)

◇目次

  はじめに

  1 市場メカニズムの効率性

自発的な取引と価格 / 価格の意味 / 価格の機能 / 部分均衡と一般均衡 / 環境与件と市場メカニズム / 残された問題──不足する人の問題

  2 課税と給付と効率性

所得再分配という問題 / 労働−余暇の選択問題 / 外部性と最適生産量の選択問題 / 課税と給付の非効率性 / 非効率性の再検討

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◆はじめに

 市場メカニズムは効率的な資源配分を実現すると言われる。まず、それがどのような意味であるのかを確認する(◆1)。次に、確認されたことを踏まえて、 課税と給付によって市場の実現した資源配分を修正することの意味について検討する(◆2)。(なお、以下の説明は、経済学(特に厚生経済学)の基本的な内 容をできるだけ直感的に説明したものであり、特に新しい知見というわけではないことをお断りしておく。)

◆1 市場メカニズムの効率性

◇自発的な取引と価格

 市場は効率的な資源配分を実現すると言われる。そのための重要な要件は、そこで実行される取引が、取引当事者の自発的な同意に基づいて行なわれる、とい うことである。私たちが自発的に取引(交換)を行なう場面において、私たちは、手放すものと獲得するものを比較した上で、獲得するものがより望ましいなら ば、その取引に同意する。このようなプロセスが重要だとされている。そこで、まず最初に、このプロセスを具体的に考えてみよう。

 二人の人物が取引する場面を考える。パン職人Aがおり、屋台を引いてメロンパンを1個100円で販売しているとし、Bがそれを購入しようかどうか思案し ているとする。まず、Aの側から見てみよう。Aにとって、ここで提案されている取引は、「メロンパン」を手放し「100円」を手に入れる取引である。も し、Aの主観において「メロンパンよりも100円にこそ価値がある」と思えば、Aは取引に同意する。逆に、Bにとっては、「100円」を手放し「メロンパ ン」を手に入れる取引である。Bの主観においても、同様に、「100円よりもメロンパンにこそ価値がある」と思えば、Bは取引に同意する。双方が取引に同 意すれば、取引は実行される。

 ここで鍵になっているのは価格情報の働きである。では、この価格とは一体どのようにして導かれたものなのだろうか。もしかすると、Bは120円でも取引 に応じるかもしれず、Aがそれを見越してもっと高く売りたいと考えるならば、値段の交渉が始まる可能性がある。同様に、Aは80円でも取引に応じるかもし れず、Bがそれを見越してもっと安く買いたいと考えるならば、そこでも値段の交渉が始まる可能性がある。

 では、メロンパンの価格はなぜ(120円でも80円でもなく)100円であったのか。この点を考えるために、二つの段階に分けて考える。まず、売り手で あるA、買い手であるBにとって価格情報が持つ意味を考える。次に、A以外の可能的な売り手たち、B以外の可能的な買い手たちについて考える。

◇価格の意味

 Aは、獲得できるものが大きければ大きいほど嬉しいはずなので、メロンパンをできるだけ高く売りたいと考えているはずである。100円で売ることができるなら、200円でも300円なら嬉しいはずである。Aがつけられる価格に上限はない。

 しかし、下限はある。つまり、Aがこのメロンパンを作るためには、原材料費やパンを作る自分自身の手間など、さまざまな資源が投入されているはずであ り、こうした投入資源の価値を反映して、メロンパンにAがつける価格の下限は決まる。もしかすると、(100円の方が望ましいのは当然だとしても)90円 や80円ならばAはメロンパンを売ることに同意するかもしれない。しかし、さらに下がって70円になるならば、「自分で食べた方がマシである」、「もうメ ロンパンを作ることなどやめた方がマシである」と考えるかもしれない。つまり、売り手であるAにとっては、パンの価格について下限はあり、その下限価格 は、Aがパンに投入した資源の価値に応じて決まることになる。

 同様に、Bについても考えてみよう。Bにおいては、手放すものは小さければ小さいほど嬉しいはずなので、メロンパンをできるだけ安く買いたいと考えるは ずである。100円で買うことができるなら、80円、60円ならばもっと嬉しいはずである。Bがつける価格にも下限はない。(※1)

 しかし、上限はある。つまり、Bがこのメロンパンを買うために手放すお金は、もしメロンパンを買わなければ他の財やサービスを購入することが可能であ り、メロンパンを買うことは、他の財やサービスを諦めることを意味する。Bがメロンパンを購入するとは、あんパンやクリームパンを諦めることである。その ため、メロンパンの価格があまりにも高い場合、「メロンパンを買うくらいなら他の何かを買う方が良い」と考えるかもしれない。つまり、買い手であるBに とっては、パンの価格について上限はあり、その上限価格は、Bがメロンパンを購入する代わりに諦める他の財やサービスの価値に応じて決まることになる。

◇価格の機能

 さて、売り手であるAと買い手であるBにとっての価格の意味を考えた。次に、A以外の可能的な売り手たち、B以外の可能的な買い手たちについて考える。

 A以外の可能的な売り手たち、仮にA’、A”と名前をつけておくことにしよう。A’、A”も、Aと同様に、原材料や自身の労働力を投入してメロンパンを 生産する技術を持っている。A’やA”の持つ技術は、Aの持つ技術とよく似ているだろうけれども、しかし、それぞれ微妙に異なってはいる。原材料を無駄に してしまわないテクニックや生産管理ができるならば、相対的に少ない資源でメロンパンを作ることができ、つまり、相対的に安い価格でも売ることができるか もしれない。あるいは、パンを焼くことが好きで、その仕事の手間をそれほど苦にしないならば、自身の所得として受け取る部分を少なくしてもよいと考えるか もしれない。この場合にも、下限価格は他の可能的売り手たちよりも低くなりうる。つまり、「メロンパンを作ることをやめた方がよい」と考える下限価格が、 他の可能的売り手たちよりも低い売り手が存在しうる。

 可能的な売り手、A、A’、A”といった人たちは、それぞれに異なる条件のもとでメロンパンの生産を行い、その受け入れ可能な下限価格はそれぞれ異なっ ている。Aにとっての下限価格が100円である場合、仮にA’にとっての下限価格が90円であるならば、A’は90円(あるいは、99円でもいい)の価格 をつけることで、Aの客を奪うことができる。その際には、Aはメロンパン販売業からの撤退を余儀なくされるかもしれない。高い価格をつけると、より安い価 格をつける別の売り手に、客を取られてしまう。可能的な売り手たちは、このような意味での「競争」にさらされてため、売り手の立場としては「価格は高けれ ば高いほどいい」としても、好き勝手な価格をつけることができない。(※2)

 B以外の可能的な売り手たちについても同様である。仮にB’、B”と名づけることにしよう。B’、B”も、Bと同様に、メロンパンを買う際には、メロン パンの価格と同額の他の財やサービスを諦めることになる。だから、メロンパンに支払ってもよいと考える上限価格もそれぞれにある。ここで、B以外のB’、 B”がつける上限価格は、メロンパンとメロンパン以外の諸財に対する主観的評価を反映して、異なっている。たとえば、メロンパンが大好物であるならば、メ ロンパンにつける上限価格はより高くなるだろうし、さほど好きなわけでもないならば、低くなるだろう。つまり、「メロンパンを買うのをやめた方がよい」と 考える上限価格が、他の可能的売り手よりも高い買い手が存在しうる。  可能的な買い手、B、B’、B”といった人たちは、それぞれに異なる好み、すなわち、メロンパンやその他の財やサービスに対する主観的評価を持つ。これ を経済学では選好と呼ぶ。可能的な買い手たちは、それぞれの選好に基づいた上限価格を持ち、より高い価格をつける人から先に財を手に入れることになる。あ まりに安い価格にこだわるならば、その財は別の買い手に先に買われてしまうことになる。買い手たちは、このような意味での「競争」にさらされているため、 買い手の立場としては「価格は安ければ安いほどいい」としても、好き勝手な価格をつけることができない場合も多い。

 このように、売り手は可能的な売り手たちと、買い手も可能的な買い手たちと、それぞれに「競争」にさらされている。多数の売り手、多数の買い手がたがい に競争しあうような状況を、経済学では完全競争と呼び、この条件をみたしている市場を完全競争市場と呼ぶ。以上見たように、完全競争市場で成立する市場価 格は、可能的な買い手の生産条件、可能的売り手の選好といったきわめて多くの情報を反映したパラメータとして成立する。そして、市場で成立した価格にした がって取引することは、より安く提供できる売り手が「より少ない資源で財を生産する」優れた売り手として生き残り、より高く買おうとする買い手が「より強 く財を選好する」優先されるべき買い手として生き残ることを導く。これが、市場の効率性の意味することである。

◇部分均衡と一般均衡

 ここまでは、メロンパン市場という、市場の一部を形成する特定財の市場について考えてきた。部分の市場において成立する均衡状態を考察する分析を、経済 学では、部分均衡分析と呼ぶ。これに対して、あらゆる財についての市場を全体として考察する分析を一般均衡分析と呼ぶ。ここで、前節までの部分均衡的理解 を一般均衡的理解に転換することにしよう。

 メロンパン市場は、メロンパン市場として独立に存在しているわけではない。それは、他の諸々の財やサービスの市場と影響をおよぼしあっている。まず、売 り手たちについて考えよう。売り手がつける下限価格は、その原材料やメロンパン製造に伴う手間(労働)に対する評価に基づいていた。これは、言い換えれ ば、諸々の原材料の市場でつけられる価格、労働市場でつけられる価格(賃金)との関係の中で決まる、ということでもある。もし、メロンパンの原材料として は、小麦粉やバター、卵、グラニュー糖、ミルクなどが使われるそうだが、当然のことながら、小麦粉等々、これらの財についても市場が存在しており、それぞ れに対して価格が成立する。さらに言えば、小麦粉の原材料、バターの原材料等々に対しても市場が存在しており、それぞれに対して価格が成立している。ま た、労働市場においても、パン職人の労働市場において、その賃金(価格)が成立している。ここでも、さらに言うならば、パン職人以外の様々な職種・職能に 対する個別的な労働市場においても、その賃金(価格)が成立しており、パン職人として働くかどうかということ自体が、こうした様々な個別的労働市場の間で の選択として決定される。

 次に、買い手たちについて考えよう。買い手がつける上限価格は、その財に対して支払ったときに諦めることになる別の財やサービスに対する評価に基づいて いるのだった。当然、ここで比較対象となった財やサービスについても市場が存在し、それぞれに価格が成立している。もし、「甘いパン」が食べたいだけであ るのならば、メロンパンにいくら支払う気があるのかは、アンパンの価格に大いに影響を受けるだろう。もし、パンにこだわらないで甘いものを食べたいのであ るならば、それ以外の様々な甘い食品に対してつけられた価格の影響を受けるだろう。仮に、そうした甘い食品すべてに、買い手にとっては「高すぎる」と思え るような価格がついているならば、そもそも甘い食品をおやつとして食べること自体を諦めるかもしれない。その人は、甘いおやつの代わりに、漫画本でも買っ てたのしむことを選ぶかもしれない。

 このように売り手、買い手双方において、メロンパン市場は、他のありとあらゆる財やサービスの市場との関係の中にあり、その影響を受ける。言い換えれ ば、メロンパン市場におけるメロンパンの価格は、他のさまざまな財やサービスの市場におけるそれぞれの価格との相対関係において意味を持つ、ということで ある。重要なことは、メロンパンが100円であるということではない。「100」という絶対値には意味はない。重要なことは、メロンパンの価格が100円 であるときに、他の財やサービスがいくらであるかということとの相対関係である。「メロンパンの価格が100円である」というときの価格を絶対価格と呼 び、他の財やサービスにつけられた価格との相対的な価格の大きさを相対価格と呼ぶ。

 以上を踏まえて、前節までの結論に対して、次のことを付け加えておこう。市場の効率性とは、部分均衡的な意味においてではなく、一般均衡的な意味におい て理解されなければならない。つまり、メロンパンの価格がメロンパン市場において効率性を達成するのではなく、あらゆる財の市場で成立する価格が、全体と して、あらゆる財に対する市場全体の効率性を達成するのである。ゆえに、もし、メロンパン市場において、(課税や給付(補助金))などの政策を行なうなら ば、それはメロンパン市場の価格を歪めるに留まらず、あらゆる財やサービスに対してつけられた価格のバランスを崩すことになり、それは市場全体の効率を損 なうことを意味するのである。私たちは後に、価格に対する介入──課税と給付──について議論するが、その介入は介入された部分市場に対してではなく、そ の部分市場を含む全市場に対して影響を及ぼすものとして理解されなければならない。

◇環境与件と市場メカニズム

 さらに、私たちの与えられた環境与件の変化と市場メカニズムの関係について簡単に述べておこう。私たちは、必要なものは必要なだけ欲しいと思う。たとえ ば、水ならば、必要なだけあればいい、と思う。しかし、仮に水不足になったらならばどうなるだろうか。つまり、人知の及ばないレベルにおいて私たちの従わ ざるを得ない前提条件=環境与件が変化したらどうなるだろうか。

 水不足が生じると、当然のことながら、水の価格が上昇することになる。水を必要としない人はいないので、これは多くの人にとって困った事態ではある。し かし、水の価格を政策的に制限し、低くとどめておくことは賢いやり方ではない。というのも、水が不足しているからには節約しなければならないにも関わら ず、水の価格がそのままであるならば、その低く抑制された価格を前提にした水の使用は止まることはないからである。「節水にご協力を」という公共広告にも 一定の効果はあるにせよ、ほとんど期待できるものではない。

 水の価格を市場に任せておくならばどういうことが生じるだろうか。当然、人々は水の利用を抑制しようとするだろう。しかし、価格の変化はそうした我慢を 強要するに止まらない。たとえば、入浴時に利用した水を溜めておき、洗濯や掃除などに利用しようと考えるかもしれない。あるいは、(雨どいのような)雨水 などを溜めておいて使う技術が考案されるかもしれない。汚れた水をキレイにして再利用するための装置が開発されるかもしれない。つまり、水の利用を我慢す るだけではなく、それを代替する様々な知恵や工夫が生み出され、しばしば、それを実現する新たな財やサービスが考案されることになる。

 先の例において、雨どいや水をキレイにする装置は、水とはほとんど関係のない別の物質で作られた財のはずである。しかし、こうした財を利用することに よって私たちが獲得するのは、水の利用そのものの代替物である。つまり、水資源の不足が、水以外の資源を利用した財によって補われるのである。このよう に、水価格の高騰に促されて、その価格高騰を受けて、代替的手段が模索されるのである。それによって、私たちの実際のニーズ自体は、ある程度、みたされる ことになる。このように、私たちの暮らす世界の環境与件の変化は、価格変化を通じて、別の社会状態への変更を促し、結果として私たちが生活の中で得られる 便益を高めたり維持したりするのに役立つのである。

 以上、ここまで述べてきたことをまとめる。市場で成立する価格は、生産者の使用できる技術、消費者の選好、私たちの社会が置かれた環境与件、これらすべて要素を反映して各市場の価格は成立し、また、その変化を反映して変動する。

◇残された問題──不足する人の問題

 ここまでは、市場の果たす役割について述べてきた。ここで、市場が果たしえない役割について考えよう。先に、次のように述べた。

「市場で成立した価格にしたがって取引することは、より安く提供できる売り手が「より少ない資源で財を生産する」優れた売り手として生き残り、より高く買 おうとする買い手が「より強く財を選好する」優先されるべき買い手として生き残ることを導く。これが、市場の効率性の意味することである。」

 この引用部においては、「より高く買おうとする買い手」のことを「より強く財を選好する優先されるべき買い手」と前提してしまっている。ここは当然、批判されるべき点である。

 たとえば、次のような問題を考えてみよう。「マッサージをしてもらいたがっているお金持ち(R)」と「病気のケアをしてもらいたがっている貧しい人 (P)」がいるとして、どちらのニーズにも応えることのできる労働者Lがいるとする。仕事における労働負荷など諸条件は同じであると考えると、R、P、い ずれにせよLの労働力を必要としているわけだが、市場のルールに則るならば、「より高く買おうとする買い手」がLの労働力を雇用することができる。つま り、この状況であれば、明らかにRが雇用することになるだろう。「より高く買おうとする買い手」を「より優先されるべき買い手」とみなすことは、このよう なことでもある。

 しかし、多くの人にとっては、Pのニーズこそが優先されるべき、より基本的なニーズであると感じるだろう。つまり、「マッサージ」のニーズよりも、「病 気のケア」の方が、より優先されるべきニーズであると考える感覚が別にある。ここでは、ニーズの内容に基づいて「より優先されるべき選好」を考える態度 と、支払う金額の大きさに基づいて「より優先されるべき選好」を考える態度が衝突している。

 同じことは、先に述べた水価格高騰の例についてもいえる。確かに、水価格の高騰は、水資源の節約や代替技術の開発を促すために必要な役割を持っている。 しかし、それは水価格の高騰においても生活を維持することができる、という前提があっての話である。仮に、先のPのように、高騰した水価格を支払うことが できない人がいるならば、その人にとっては市場の効率性などどうでもよい話となってしまう。あるいは、支払うことができない人は、水を手に入れることがで きないとしても、病気のケアが受けられないとしても、それは受け入れなければならない、と述べるに等しい。そのため、市場メカニズムが効率的な資源配分を もたらすとしても、そこで暮らしてゆくことができない人の問題は残る。◆2では、こうした問題について考える。

※1 ちなみに、マイナスの価格もつく可能性がある。取引される財がここでのメロンパンのように「なんらかの便益をもたらすもの」であるなら、プラスの価格がつく。しかし、

※2 もっとも、この下限価格は生産量とも相関関係を持っているため、たとえば「一日100個ならば下限価格90円でいいけれど、200個作るならば 100円にしなければならない」というようなこともあるかもしれない。そのような場合には、AとA’(そしてA”も)、メロンパン市場の中で共存すること になる。逆に、「一日100個ならば下限価格90円だけれども、200個にするならば80円でもいい」というようなこともあるかもしれない。つまり、生産 規模を拡大するほど、下限価格を引き下げることができる場合もある。これを規模の経済性と呼ぶ。規模の経済性がある場合には、たくさんの企業が競争しあう という状況ではなく、少数の、あるいは単一の企業だけが市場で生き残るという場合もある。これを寡占、独占と呼ぶが、本稿では詳しく取り上げない。

◆2 課税と給付と効率性

◇所得再分配という問題

 まず、◆1で確認したことを整理しよう。競争的な市場で成立する価格は、効率的な資源配分を実現する。しかし、効率的な資源配分において生活が困難になる人は残る。

 価格を政策的に歪めることは、できればしない方がよい。たとえば、「病気のケア」を低価格に抑えるように法律などで強制する、といったことはしない方が よい。そのようなことがなされるならば、その低価格では「病気のケアを提供することなど、やめた方がマシである」という人を増やし、病気のケアそのものの 供給は減少する。つまり、必要な人すべてに行き渡らないことになる。価格を操作するのを控えるとすれば、どんな手段があるだろうか。

 必要な財が十分に手に入れられない人がいる。そのようなときに一番に目をつけるべきポイントは、価格ではなく所得である。つまり、先のRとPについて言 えば、Rが持っているお金を(一部)取り上げて、Pに渡せばいい。すると、Rがマッサージに対して支払う上限価格は下落するはずである。同時に、Pが病気 のケアに対して支払う上限価格は上昇するはずである。その結果、Lがマッサージではなく病気のケアを生産する可能性は高まることになる。

 このような所得移転は何を意味する、あるいは意味しないだろうか。仮に、Rがおり、Pがいて、その合計の所得が決まっているとしよう。そのとき、「総所 得の9割をR、1割をPが持つ」、「5割をR、残り5割をPが持つ」、「1割をR、9割をPが持つ」、その他どのような分け方であれ、可能な分配の組み合 わせは無数にある。これら分配の組み合わせから、どれでもいいから一つを選び、それを初期条件に設定するとする。そこから出発して、R、Pはそれぞれさま ざまな財に対して価格づけを行い、それに基づいて価格が成立する。二人の所得に格差がある場合、より平等的である場合、どのような場合であれ、その初期条 件に対応して、相対価格が成立する。そして、二人の所得格差が大きい場合には、より多くの所得を持つ人がより多くの財を持つような帰結に辿りつき、そこで 市場は均衡する。より平等的である場合には、それぞれが持つ財もより平均的になり、そこで市場は均衡する。実は、これらどちらの帰結であっても、先に述べ た「売り手の技術条件」、「買い手の選好」、「環境与件」といった様々な情報はすべて反映されており、そこで成立した状況は「効率的な」状況である。つま り、異なる初期条件に対応した、異なる市場均衡が導かれ、それらはすべて「効率的」なのである。つまり、先のような所得移転は、非効率性を意味しない。

 ここで「マッサージ」と「病気のケア」の例について、再び考えることにしよう。私たちが、ニーズの内容に基づいて「より優先されるべき選好」を考える態 度を採用するとしてみよう。つまり、「病気のケア」こそが「マッサージ」より優先されるべきだと考えるとしよう。その場合には、PがLを雇用することが可 能になるまで、Rの所得の一部を取り上げPに渡すという操作をすればよい。つまり、基本的ニーズがみたされている人に対して課税し、それが十分ではない人 に対して給付する、という操作をすればよい。

 理論的には、これでよい。しかし、私たちの所得には、所得を獲得するまでの過程がある。つまり、所得が賃金や利子・配当であるならば、これは労働市場や 資本市場における価格なのである。だから、価格を歪めずに所得を操作すればよいと言っても、実際には、何をするとしても、価格に手をつけることになる。 よって、一般的な見解としては、次のようになる。所得再分配(課税と給付)を実施するにあたっては、価格の歪みにともなう非効率が不可避である。この点 を、さらに検討していこう。

◇労働‐余暇の選択問題

 まず最初に、課税の非効率性が何を意味するのかを確認する。一例として、労働市場における労働供給の問題を取り上げよう。ある個人は、一日二四時間とい う時間を持っている。この時間を、労働時間とそれ以外の活動時間(経済学者はこれを余暇と呼ぶ)に分ける。これを労働‐余暇の選択問題と呼ぼう。ここでの 選択は、「労働時間1時間から得られるもの」と「余暇時間1時間から得られるもの」の大小関係に配慮しつつ、なされる。すなわち、それぞれをW (Work)、L(Leisure)と置くと、次のようになる。

 W>Lなら、その時間は、働く。
 W<Lなら、その時間は、働かない。
 W=Lなら、どちらでもいい。

 Wとは、基本的には賃金のことであり、Lとは、余暇時間を通じて得られるさまざまな便益である。たとえば、余暇に遊んで過ごすならば、そのたのしさが得 られる。WとLの相対的な大きさは、すなわち価格であり、私たちの生きている世界のあり方を前提として組み込んでいる。そして、私たちはそれに反応して働 く時間・それ以外の時間を選ぶことにより、効率的な時間配分を達成していると理解される。

 さて、このような問題設定において、課税=労働所得税はどのように理解されるだろうか。Wから一定割合を取り除いて税収とする、ということを意味する。 それはつまり、WとLの関係(相対価格)を変更して、労働を相対的に不利にすることを意味する。その分だけ、WとLの相対的な大きさは価格としてのシグナ ルをゆがめられることになり、それに起因して労働時間が減少・余暇時間が増大するという形で非効率が発生する。

 当然の反応として、「余暇といっても、働いているではないか」という言い分があるだろう。たとえば、家事労働などである。しかし、ここで余暇とされてい る時間の活動が持っている特徴は、すなわち、「その時間の活動による成果物を活動者本人が受け取る」ということである。たとえば、家事労働といっても、そ の成果を受け取るのは、家事労働をする本人である(とみなされている。後に、この点は問題となる)。

 やや注意が必要なのは、自分以外の家族のための家事や介護などである。この場合も、たとえば「主婦による夫のための家事」は、「夫の提供するさまざまな 便益と交換でなされる活動」であり、家庭内経済における交換関係とみなされたりする。あるいは、「子どものための家事」は、子どもが便益を享受すること が、親自身の利益にもなっており、それゆえに、その便益はやはり親自身が受け取っている(とみなされることもある。この点も、問題となる)。

◇外部性と最適生産量の選択問題

 では、課税は常に非効率性をもたらすのであろうか。そうとばかりも言えない。むしろ、課税が効率性を回復するようなケースを考えてみる。企業活動は、生 産したものを売り、それによって原材料費等の費用を支払い、これを継続することで成り立っている。ある企業が、追加的な財の生産を決定するにあたって考慮 することは、「追加的な生産によって得られる売上」と「追加的な生産によって失う費用」の大小関係である。追加的な売上をR、追加的な費用をCと書くこと にすると、次のようになる。

 R>Cなら、その財を生産する。
 R<Cなら、その財を生産しない。
 R=Cなら、生産してもしなくてもどちらでもいい。

 基本的な構図は、先ほどの労働時間決定問題と同じである。ここで、この企業が周囲の環境を悪化させることで近隣住民に迷惑をかけているとしよう。この迷惑による損害の大きさをDと置くと、社会的に効率的な生産を行なうためには、次のような配慮が必要となる。

 R>C+Dなら、その財を生産する。
 R<C+Dなら、その財を生産しない。
 R=C+Dなら、生産してもしなくてもどちらでもいい。

 このようになる。しかし、環境悪化による被害Dについては、この企業は気にしなければ自分が負担するものではないため、企業が被害Dを考慮にいれる理由 はない。よって、依然として、RとCの大小関係のみに基づいて意思決定を行なうことになる。すると、R<C+Dであるにも関わらず、R>Cであるような状 況が存在することになる。これはつまり、「社会的には費用の方が大きいため生産しない方がいいのだが、生産の実行を決定する企業の立場においては費用の方 が小さく、利益を出すことができるため、生産されてしまう」ことを意味する。このような生産においては、考慮に入れられなかったDの大きさによって、非効 率が発生してしまう。

 この問題を回避するために必要なことは、少なくとも理論的には単純なことであり、すなわち、この企業に生産量に応じてDに相当する税を課せばいい。する と、企業は生産量を決めるにあたって、被害Dを考慮に入れなければならないため、社会的に効率的な意思決定と企業にとって都合のよい意思決定が一致するこ とになる。

 労働‐余暇の選択問題においては、課税が価格が発するシグナルを歪めるため、非効率を生じさせる、ということを述べた。公害が存在する場合の最適生産量 の選択問題では、元々価格というシグナルに反映されない情報を反映させるために、課税という手段を用いることが却って効率を増すことになっている。以上の 議論を整理すると、課税がない場合とある場合で異なる市場均衡があり、一方を基準として他方を非効率と見なす、という論立てになっている。

 あるときは、課税が非効率をよび、別のときには、課税が非効率を補正する。これを分けるのは、企業の生産に伴う環境悪化などの要素、行動を決定する主体 の考慮に入らない要素の有無である。これを外部性と呼ぶ。つまり、外部性がないときには、市場均衡は効率的であり、外部性があるときには、外部性の分だけ 補正するような課税を行なった後の市場均衡の方が効率的だ、というわけである。

◇課税と給付の非効率性

 両方の分析に共通するのは、課税が人々の行動に影響を及ぼす(租税を回避する行動)をどう評価するか、という問題である。同じことが、給付についても言 える。何らかの対象に給付を行う場合、これもまた人々の行動に影響を及ぼす(給付条件を満たすように行動を変える)。そして、この行動の変化自体が非効率 を意味するのであった。

 課税による非効率化を評価するには、第一に、その介入による行動の変化がどの程度であるのか、ということ、第二に、変化があるとして、その大きさが外部 性の大きさに対応しているかどうか、という点が問題になる。公害企業の最適生産量選択問題の場合、環境悪化の影響が価格には反映されないので、それを補正 するものとして税が用いられれば、効率化をもたらすことになる。

 それでは、介護や医療といったニーズに対する給付はどうであろうか。しばしば、医療への給付が、日常的な健康への配慮を少なくしてしまう、といった問題 は生じうる。しかし、給付を受け取ることを目的としてALSになることを選択する個人は存在しないので、この点での問題は生じない。さらに、ALSに限定 せず、重度障害一般に話を広げてみよう。この場合でも、「給付を受けない非障害者」の方が、「給付を受けた障害者」よりも、その可能な行動範囲等々といっ た利便性の意味でより優位である、ということはそうそうないのではないか。重度の障害を持つ人に多くの資源を投じて十分に高い水準のQOLを達成したとし ても、障害を持たない場合に比べて行動が制限されるなどのさまざまな不便は完全には解消しえていない。これは技術的な問題である。既にある障害を肯定する ということと、わざわざ障害を獲得するということは別の話である。よって、難病や障害を理由にした給付は、そもそも人々の行動変化を引き起こさないと言う ことができる。

 ただし、残る問題は一つある。給付の財源の問題である。給付の財源は、広く税によって負担を求めることになる。そして、全体に税を課すことができれば、 行動の歪みは生じない。しかし、労働と余暇への課税を考えてみよう。実は、労働に課税することはできるが、余暇に課税することはできないのである。という のも、余暇活動の成果はそのまま本人がそれを取得してしまうからである。それを調べて課税するとしても、そもそも余暇活動については市場がないため、当 然、価格も存在しない。そのため、余暇活動で取得された便益の大きさを測ることができないので、課税するとしても、一体いくら課税すればよいのかが分から ないことになる。このため、「所得再分配(課税と給付)を実施するにあたっては、価格の歪みにともなう非効率が不可避」となる。

◇非効率性の再検討

 課税と給付にともなう非効率性は、人々の行動変化を引き起こさない場合には、あるいは、人々の行動変化が外部性の評価と適合している場合には、生じな い。しかし、私たちが財源を労働に対する課税を通じて獲得しようとするならば、余暇に課税できないために、労働と余暇の相対価格の変化は生じてしまう。こ れが「不可避の」非効率性とされたのだった。

 しかし、この点についても次のような再検討の余地があることを述べておく。第一に、もし、経済全体に課税する手段が存在しないのであるならば、存在しな い手段を前提にして達成しうる経済状態を基準にして、それよりも非効率だ、という論法はどこかおかしい。私たちが、経済全体に課税することができるのに、 あえて市場経済の領域にのみ課税しているのであれば、それは相対的に非効率だ、という話になるだろう。しかし、そのような手段は存在しないのである。

 だとすれば、経済全体に課税する手段が存在しないことによる労働‐余暇の相対価格の歪みは、それ自体、再分配の費用として、一種の取引費用として考えられるべきものではないか。このように考えうるとすれば、先の非効率は非効率だと言うのはおかしいことになる。

 第二に、そもそも、非市場経済の領域を「行為者が、行為の成果物をすべて取得している領域」、余暇の領域とみなすこと自体に問題があるのではないか。し ばしば指摘されるように、いわゆる人間の、ひいては労働の再生産を支える労働は非市場経済においてなされているのである。そこで行なわれている再生産労働 は、確かに行為者本人が受益している部分もあるが、しかし、社会がそこから受益していることは間違いなく、そこに外部性が存在しているとみなすことができ る。

 このように、非市場経済の領域で行なわれていることのうち、「本人が受益している」とは限らない、それには収まらない行為が多くある。さらに指摘するな らば、政治参加、および政治参加の前提となるこの社会のしくみに対する理解を深める学習・研究といった活動は、本人ではなく(本人が好きでやっているとこ ろもあるにせよ)、社会全体も同時に受益しているのであり、それは外部性とみなすことができる。ゆえに、労働を不利にし余暇を有利にする(これはいまや、 賃労働を不利にし、不払労働と余暇を有利にする、と言い換えねばならない)課税は、外部性を適切に補正する効率化政策と捉えることも可能である。

 以上の検討は、さらに考察を進め、その妥当性をより詳細に調べてみなければならない。しかし、課税の非効率性という前提には疑う余地があることは十分に指摘できるものと考えられる。



UP:20070423、1112
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