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廣松 渉
ひろまつ・わたる
1933/08/11〜1994/05/22


・廣松 渉
・ひろまつ わたる
・哲学
・東京大学(元)

■著作

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%A3%E6%9D%BE%E6%B8%89

熊野 純彦 20040420 『戦後思想の一断面――哲学者廣松渉の軌跡』,ナカニシヤ出版,270p. ISBN:4-88848-869-X 2520 ※

★広松 渉『唯物史観の原像』三一書房,三一新書 737,238 p. ISBN: 4380710041 683 [amazon] ※

◆東大学生運動研究会 1956 『日本の学生運動――その理論と歴史』、新興出版

◆19631120 「学生運動の現在に思う討論会を司会して」,『東京大学新聞』1963-11-20

◆1963 「マルクス主義と自己疎外論」、『理想』1963-9

◆1966 「疎外革命論批判序説」、『共産主義』9→廣松[1970]

◆19690920 『マルクス主義の地平』,勁草書房,209p. 600 ※

◆1970 『現代革命論への模索――新左翼革命論の構築のために』、盛田書店

 「3後の1966年、この論文の分量にして半分ほどがそのまま重複する形で転用され、「疎外革命論批判序説」として発表されたのである。掲載され「付「疎外革命論」の超克に向けて」と題を改め、『現代革命論への模索――新左翼革命論の構築のために』(1970 年4月)[…]」(渡辺[2011])

◆     『科学の危機と認識論』,紀伊國屋書店 ※/千葉教養E514

◆19710315 『唯物史観の原像』,三一書房,三一新書737,202p. 550 ※

◆1970→1972 『現代革命論への模索』,新泉社→1975 改装版 ※

◆19721015 『世界の共同主観的存在構造』,勁草書房,279+9p. 1800 ※

◆19741025 『資本論の哲学』,現代評論社,291p. 1800 ※

◆19750401 『現代革命論への模索 改装版』,新泉社,340p. 1200 ※/千葉教養E526

◆19750520 『事的世界観への前哨――物象化論の認識論的〜存在論的位相』,勁草書房,316+11p. 2000 ※

◆19790928 『もの・こと・ことば』,勁草書房,218+3p. 1400 ※

◆広松 渉・吉田 宏晢 19791225 『仏教と事的世界観』,朝日出版社,エピステ−メ−叢書,185p. ISBN:4255790248 1050 ※

◆19800130 『弁証法の論理――弁証法における体系構成法』,青土社,408p. 1900 ※

◆19810620 『相対性理論の哲学』,日本ブリタニカ,247p. 1300 ※

◆19810714 『新左翼運動の射程』,ユニテ,269+17p. 2200 ※

◆19820210 『唯物史観と国家論』,論創社,318p. 2200 ※

◆19821028 『存在と意味――事的世界観の定礎』,岩波書店,547+16p. 4500 ※

◆1983 『物象化論の構図』、岩波書店

◆19900615 『今こそマルクスを読み返す』,講談社現代新書1001,270p. 600 ※

◆199112  『現象学的社会学の祖型――A・シュッツ研究ノート』,青土社,427+11p. ISBN:4791751612 3200 

広松 渉;坂部 恵;加藤 尚武 編 19900630
 『講座ドイツ観念論〈1〉/ドイツ観念論前史』
 弘文堂, 341p., 4,200(本体4,078) ISBN4335100310 4200 
広松 渉;坂部 恵;加藤 尚武 編 19900630
 『講座ドイツ観念論〈2〉/カント哲学の現代性』
 弘文堂, 338p.,4,200(本体4,078) ISBN4335100329 4200 
広松 渉;坂部 恵;加藤 尚武 編 19900920
 『講座ドイツ観念論〈第3巻〉/自我概念の新展開』
 弘文堂, 326,27p., ISBN4335100337 4200 
広松 渉;坂部 恵;加藤 尚武 編 19901110
 『講座ドイツ観念論〈第4巻〉/自然と自由の深淵』
 弘文堂, 355,19p., 4,500(本体4,369) ISBN4335100345 4500 
広松 渉;坂部 恵;加藤 尚武 編 19901125
 『講座ドイツ観念論〈5〉/ヘーゲル 時代との対話』
 弘文堂, 328p., 4,100(本体3,981) ISBN4335100353 4100 
広松 渉;坂部 恵;加藤 尚武 編 19901230
 『『講座 ドイツ観念論〈第6巻〉/問題史的反省』』
 弘文堂, 323,50p., ISBN4335100361 4500 

19900515 「脳死論の前提的価値観を問い返せ」,吉田編[1990:390-397]*
*吉田 惠子 編 19900515 『脳死――私はこう思う』,北窓出版,発売:星雲社,447p. 1700

 ※は生存学資料室にあり

■引用

◆東大学生運動研究会 1956 『日本の学生運動――その理論と歴史』、新興出版

 「最後につけくわえておけば、本書の全叙述は進歩的学生は勉強して理論の面で闘争に貢献するのが第一の義務だとする意見の誤りをパクロしたものと考える。六全協以後出てきたこの誤った意見は、学生層がプロレタリアートの直接予備軍とはなりえないとする「戦前理論」に基礎をもっている。彼らは、プロレタリアートの立場に完全に移行している人間として、学生の開に送りこまれたプロレタリアートの分遣隊に属することを忘れているのだ。」(東大学生運動研究会[1956:316]、渡辺[2010:80]に引用)

◆東大教養学部歴史研究会学生運動史研究グループ有志「学生運動の正しい発展のために――その課題と展望」(『学園』特集号、東京大学教養学部学友会学園編集部編、1956年)
 「学生層はインテリの中の青年層であり、青年としての特質、鋭敏な神経、理想への憧れ、積極的な行動性を持つものである」(渡辺[2010:90]に引用)

 「学生層の客観的規定性、学生運動の蓋然的方向は、必ずしも同時にすべての学生によって理解されるものではなく、学生層の史的当為(ゾレン)を深く自覚した部分と、未だそれに至っていない部分とをつくり出すことは避けられない。この自覚的部分が、過去の学生運動を分析して、その成果と欠陥とを明白にすること、更には運動上、組織上の正しい方針を確立して、それによって全学生層をし、かに結集するかが、当面する重要課題である。先進的部分によって提示されるとはいっても、それが外部から、偶然的に持ち込まれるものではなく、全学生層のものである。先進的部分によって提示される課題は、全学生を結集する方向をも規定するものであって、この意味に於し、ても全学生層の課題であり、また展望にも連るものである。」([50]、渡辺[2010:90]に引用)

◆19631120 「学生運動の現在に思う討論会を司会して」,『東京大学新聞』1963-11-20
 「当面のところ、待望の体系が手許に存在しない限り、社学問の成島君の提唱に従って、不断の決意的実践の過程で現時点における思想を互いに対質していくこと、それを保証しうる組織態勢と活動スタイルを確立すること、これこそが「沈黙を克販するための緊要にしてかつ現実的な課題」であろう。」(渡辺[2010:80]に引用)

◆1966 「疎外革命論批判序説」、『共産主義』9→廣松[1970]

「旧来の現象を基軸にした批判ではもはや現代資本主義批判としての現実性と有効性を持ちえないことを洞察し、疎外現象を手掛りにして大衆とのコミットを企て、そこから本質的根底的な体制批判に遡ろうとする。この意味で現代資本主義の状況に適応した“新しい"体制批判の“通路と視角"を提出したこと。[…]歴史とその発展、わけでも革命における“主体の役割"を再鞘面したこと。」(廣松[1966:36]、渡辺[2011:26]に引用)

 「物質的定在が人聞から独立に存在し、人聞から独立な運動法則をもつ限り、いくら自分で“創った"ものであれ、自分の意のままになるわけはない。[…]それをまるで造物主(神)にでもなったかのように、自分の被造物が意のままにならないといって怒ったり、嘆いたりするのはうぬぼれも甚だしい!」(廣松[1966:48]、渡辺[2011:24]に引用)

 「われわれは来るべき本論において、わが疎外革命論者たちの主張と真正社会主義者たちの主張とを対照しそれに関するマルクス・エンゲ、ルスの評言を併記するであろう。さらにはまた、真正社会主義ではないが『ドイツ・イデオロギー』第一巻であれだけの紙数を用いて批判されている聖マックス・シュテイルナーの革命論――ちなみにシュテルナーは、最近、実存主義の開祖の一人として注目されはじめた――と、わが疎外革命論者たちの「独創的な」主張とを対比してみせよう。それはおよそやりがいのない仕事ではあるが、茶番劇をみるという楽しみを読者に保証するであろう。」(廣松[1966:53]、渡辺[2011:24]に引用)

◆1983 『物象化論の構図』、岩波書店

 「商品世界においては、人びとは同格な商品所有者として登場しますが、商品交換は遡れば労働と労働の交換であって、商品世界における人びとは社会的に必要な労働を遂行することの可能なる者"という建前で現われることになります。すなわち「抽象的人間的労働」をおこないうる者として、その主体として、いわばdas Manとして現われます。具体的現実的な人間が互いにdas Manとしてentgegenkommen[出会い・対向]します。
 このような、二重化された「人格と人格との関係が、物象と物象との、労働生産物と労働生産物との、社会的関係に変装されて」現われるもの、それが価値関係にほかなりません。」(豊田[]に引用)

 「労働生産物が価値物として存立するのは、労働の主体がdas Manとしてgeltenすることにおいてであり、使用価値物が価値物として、有用労働の主体が抽象労働の主体として、まさしく言語的交通と同じ二重の二肢構造(都合、四肢的な存在構造)で存立するわけであります。」(豊田[]に引用)

 「生産」ということは、「人間(ヒト)−自然」の生態学的な動態的関連(『資本論』での表現を茲に藉りていえば「人間と自然との物質代謝」)の基軸であって、物質的生産の場という結節環における人間生態系的な編制関係、それが「生産関係」にほかならないのである。」(豊田[]に引用)

……、人間生態系の場合、……、主体と環境との相互関係の在り方に或る著しい特質が認められます。それは、シンボリックにいえば、道具という仲介手段を用いて、目的意識的に、環境に対する働きかけがおこなわれる点にあります。そして、この対象的活動たる生産活動は、協働Zusammenwirkungとして営まれ、そのことにおいて生産関係が社会的に編制されます。」(豊田[]に引用)

 「――マルクス・エンゲルスは、……、人間存在の基底的な関係を物質的生活の生産の場における人間生態学的関係"の場面に見極める。「生産において、人々は自然にたいしてばかりでなく、相互にも働きかける。人間は一定の様式で協働し、活動を互いに交換することによってのみ生産する。生産するためには、人間は一定の相互関連・相互関係に入りこみ、この社会的関連・社会的関係の中においてのみ、自然に対する働きかけ、つまり生産が行われる」ことに徴して、マルクス・エンゲルスはこの場面での関係、すなわち「生産関係」を以って人々の社会的諸関係の基底であると把える。この基底的な関係である生産関係が物象化されたもの、それが物象化された社会の全体的構造における「土台」(いわゆる下部構造")をなしており、この「土台」のうえに、人々の政治的・宗教的……その他、間主体的・共同主観的な諸関係の物象化された諸々の成態、つまり、政治的上部構造や諸々の社会的意識形象が上架された相で現前する。」(豊田[]に引用)

■言及

◆立岩 真也 2012/08/01 「制度と人間のこと・4――連載 81」,『現代思想』40-(2012-8): →

◆渡辺 恭彦 2011 「廣松渉の革命主体論――物象化論への途」、『文明構造論 : 京都大学大学院人間・環境学研究科現代文明論講座文明構造論分野論集』7:21-43
 http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/147328/1/bkr00007_021.pdf

◆渡辺 恭彦 2010 廣松渉の思想と実践(上)――戦後日本における学生運動の軌跡をたどって」、『文明構造論 : 京都大学大学院人間・環境学研究科現代文明論講座文明構造論分野論集, 6: 79-106
 http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/126709/1/bkr00006_079.pdf

◆長崎 浩 2009 「疎外革命論の時代 1〜3」、『情況』2009-6〜
 http://orpheus820.blog50.fc2.com/blog-entry-65.html
 http://orpheus820.blog50.fc2.com/blog-entry-66.html
 http://orpheus820.blog50.fc2.com/blog-entry-68.html

◆豊田素行 2008- 「スローワーク論」 http://homepage3.nifty.com/toyodasha/sub9/sub9back.htm

◆立岩真也「選好・生産・国境」注22

 「…廣松渉は、マルクスが夢想していた社会は今既に到来しているのだと、生産は相当に十分な段階に既に達しているのだと述べたことがある(『現代革命論への模索』、新泉社、一九七二年、一九七五年改装版二三二−二三四頁)。」

 「われわれは、もとより『ゴーダ綱領批判』にいう共産主義の第二段階に一足とびに移るわけにはいかない。しかし、第二段階の共産主義は、果たして、一部の論者が考えるほど、”気が遠くなるような将来のこと”であろうか? なるほど、マルクスの時代には、それは遠い将来の理想であったかもしれない。だが、現代資本主義は、マルクスの予想を超えて発展をとげてはいないか? われわれは、現代資本主義がマルクスのいう第一段階を実現したなどという馬鹿げた主張をするつもりはない。しかし、マルクスが第一段階の途中ではじめて実現されうると考えたいくつかの条件が、変□した形においてではあれ、□る程度現実化していることに着目することができる。例えば、「児童労働の全般的禁止は大工業の存在と両立できない。それは空疎な叶わぬ望みである」とマルクスは主張しているが、今日の生産力水準はおそらくマルクスが第一段階もかなり進んでからはじめて実現されると考えた水準に達しているといえよう。生産と流通の組織化という点についても同様である。端的にいって、経済と密着している方面での客観的条件は、今日すでに、マルクスが第一段階の途中になってようやく実現され(p.232)ると予想した水準に到達している。この限りで、第一段階を跳び越すことはできないにせよ、第一段階の途中と考えられていた地点、いわば第一段階と第二段階との中間ともいうべき地点を、われわれは直接的な射程に収めることが可能ではないのか。」(廣松[1970→1972→1975:232-233])

◆立岩 真也 1997 『私的所有論』,勁草書房
 「局所に望ましい関係を作っていくことが問題を解決しないのであれば、全域が一気に変わらなければならない。しかし、現在の関係が現在の私達を作っている限り、待っていては変わらない。とすれば事態を見抜いた者達、少数者達が先駆的にいまあるものを全面的に覆してしまい、関係を変えてしまえば、その後、関係が存在(意識)を規定するのだから、事態はうまく運ぶだろう。その他の人々の意識も変わる。だからまず少数者が、多数の承認を得られないとしても、関係を変えるしかない。このような主張が、論理必然的に、導かれる(廣松渉[1975][1981]、等)。だがそれにしても革命は容易ではない。」(立岩[1997:296])

◆立岩 真也 2004 『自由の平等』,岩波書店

 「☆02[…]なお十九世紀後半に夢想された社会の現実的な条件は既に存在していると見ることもできるのではないかと廣松[1972→1975:232-234]に述べられているのを[2000a]で紹介した。」(立岩[2004:288]・序章注2)
 「☆01しばらく前に終止してしまったかのような諸思想について、それらが何だったのか、どんな論理の構造になっていたのか、何を巡って対立したのか、再検討する必要があると思う(序章注15)。(疎外論/物象化論という対立については廣松[1972][1981]等、田上[2000]、他。なお本節と本書の何箇所かは[1997]を論じた三村[2003]への応答でもある。)また、本文に記したのは現実が変わると意識が変わるという一つの線だが、むろんそれだけが想定されたのではない。両者の間の幾度もの往復が、希望とともに、描かれたのだった。それはたしかに空想的だと思える。しかし、人もまた変わっていくはずであると考えるのは、人はこんなものだろうというところから議論しそこに留まってしまうのと比べて、少なくとも論理的に誤っているということはない。人はどのように変わっていくかわからないのだと、だから「代替案」を示せという脅迫に「誰にも予見できない未来」(西川[2002:112,138-139])を対置することは正しいのだし、論と現実を先の方まで進めていこうとする力に対してリベラリズムが反動として作用することに苛立つ人がいる(Zizek[2001=2002])のも当然なのである。」(立岩[2004:319]・第3章注1)
1970→1972 『現代革命論への模索』,新泉社→1975 改装版 <288,319>
1981 『新左翼運動の射程』,ユニテ <319>


REV:...20031125,20041118 20070711, 20120712, 13
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