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得失と犠牲について・続

良い死・16

立岩 真也 2006 『Webちくま』
http://www.chikumashobo.co.jp/new-chikuma/index.html

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全体の目次
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 *以下は増補・改稿の上『良い死』(立岩真也,2008,筑摩書房)に収録されました。お買い求めください。
『良い死』表紙

復習と補足
 前回、犠牲といった深刻な話をする必要はないことを述べた。人はいるし、ものはある。働く人たちにとっては、その仕事で働くことで、職がない場合よりいくらかは多くを得られる。金を使い人の世話になって短いあるいは長い時間を過ごすことはわるくない。これらを述べた。
 しかも、まったく当たり前のことだが、負担が増えるのは仕事が増える場合のことである。今まで負担していた人と別の人が――実際にその仕事を担うというかたちであれ、税や保険料によって経済的に負担するというかたちであれ、その両方であれ――負担する場合には、今までの人の負担が少なくなり、別の人のが多くなるだけのことである。新たに作り出されることはなく、全体については同じである。仕事自体を増やさず、無償であったものを有償化するとGDPはその分増加することになるが、それはさしあたり数字の上でのことだけである。このこと自体には正の意味も負の意味もない。
 ただこれは、これまで過重に負担してきた人にとってはよいことである。そしてその人の辛さを受け止めなくてすむようになるから、世話をされる側にとってもよいことである。ただ、絶対量自体が足りないとすれば、たんに担い手が変わっても仕方がないのだから増やすことになる。それでいっこうにかまわないと私は考えていて、そのように書いてきた。
 それでも、必要なところに金を回さないもっともな、あるいはもっともらしい要因はある。そしてその要因の働きを小さくすることはできる。以上については、2000年に『思想』に2回に分けて掲載された「選好・生産・国境――分配の制約について」にいくらかのことを書いた。第1節「不安と楽観について」、第2節「負担について」、第3節「生産について」、第4節「国境が強迫する」に分かれている。第3節は1「分配が生産に寄与することもある」、2「しかし生産は分配を抑止する」、3「生産についての立場」、4「「もの」について」、5「「ひと」について」、6「生産はどこから来るのか」という構成になっていて、5と6だけを今年出版された『希望について』に再録した。全体は書き直し、書き加えて、別にまとめたいと考えている。その際、その文章では行なわなかった、またここでも行なっていない具体的な金勘定についても、できたら行なってみたいと思う。
 現に起こっていることは単純なことで、医療費が関わっている。その必要に対応させて保険料や税金を増やせない。しかし税制を変えて、多く得て多く持っている人からたくさんもってきていっこうにかまわないだろうと思う。所得の調整とサービスの供給とは別のことではないか。そんな疑問があるかもしれない。しかしそんなことはない。今のようにしつらえれている社会・市場において多く稼げてしまっている人が、そこではうまいぐあいに生活を維持できない部分に、政府という集金・分配機構を介して渡すという一連の流れとしてこれを捉えることができる。
 「死亡前1カ月の終末期医療費」が年に9000億円かかっているといったことが言われ、こんど政権党の総裁になった人が、なんとかせねばならないといったことを言う。その一つに「介護予防の強化」があげられたりして、その部分については、力なく、笑える。「介護予防」を推進すると「終末期」の金がかからなくなる理由がわからない。もちろんただ加害的であるだけの行いはやめるべきである。しかし金がかかるからかからないようにという理由でなされる行い、削減される行いがどんな行いであるのか。結局1人が年に9000円ほど余計に払えばすむことだとか、○○には年間何十兆円が使われているではないかとか、いろいろなことが言える。そのいろいろなことを言えばよいと私は思う。
 そうすると「経済」にしかじかの影響をもたらすといった議論があることを知らないではない。しかし、現状に加えて何割かを増やす程度のことならなにごとのことでもない。たいしたことが起こるはずはない。たんにそのことを言えばよいようにも思う。そして、前回述べたことを繰り返すと、医療関係者等の仕事が少なくなったとして、その分仕事がなくなったその人たちを死なせないのであれば、どうせその人たちが暮らせる金は出すことにもなるのだ。

広く見渡した時
 仮想的には、限界はある。例えば人口の半分が非常に多くの世話を要する状態になるといった状態を考えるなら、もちこたえられないかもしれない。
 しかし第一に、仮にそのようなことがあったとして、それでもすべきことをして、結果、人類が衰滅したってよいのだという主張もありうる。そしてこれはそれほど途方もない主張であるのか。そんなことはないと言い張ることも不可能ではない。第二に、現在はそうでないのだから、そのことをもって現在なにがしかのことをしなくてもよい理由にはならない。第三に、将来の可能性・蓋然性を考えた場合にも、人間を含む生物の生命に与えられている性能としてそんなことはほぼありえない。
 こうして、一方では仮想の状態が語られ、救命ボートの話がなされ、他方では今年の国家予算の数字が並べられ、両方が曖昧につなげられるのだが、ともかく、この主題については、他人のために自らの身を投げ出すといった状況はない、すくなくともなくせる。
 このようなことを言うと決まって「発展途上国」のことを持ち出す人たちがいる。日本であれば余裕があるとか余っているなどと言えるかもしれないが、そんな呑気なことを言っていられないような地域が地球上には広く存在するではないかというのである。
 たしかに呑気でいられない地域があり、人々がいることは認めよう。しかしそのことを指摘する人は何を言いたいのだろうか。第一に、他では様々に贅沢をし世界平均よりずっと多くのものを消費しているのに、この場面でだけ世界標準に合わせようというのだろうか。しかしそれはなぜか。どうでもよいような財についてはともかく、基礎的なところでは世界に大きなむらがあってはならないという主張には一理ある。だが、ならばすればよいことは、足りない方を足りるようにすることではないか。
 すると第二に、それができないのだと言うだろう。たしかに、もちろん、現実には巨大な困難がある。しかしここでも、もとに戻って考えてみることだ。必要なのは、人とそしてものである。少なくとも人はとてもたくさんいる。ではものはどうか。そのような順序で考えていくことはできる。いつもこの例ばかりを出すのだが、HIV/エイズの薬のことがある。薬をうまく使えばHIVに感染しても発症を抑えることはできるし、エイズになっても進行を遅くすることや止めることはできる。しかし薬の値段が高く、この病によって最も困難な状況に置かれているアフリカ、とくにサハラ砂漠以南のアフリカの人たちが薬を買うことができない。そんな状況がずっと続いてきた。それはこの世で最もどうしようもないことのように思われた。しかし特許権によって保護されることによって高くされていた薬の値段を下げることは、困難ではあるにせよ不可能なことではなく、実際困難ではあったし、今でも困難だが、それでも、下げることができ、事態は局所的にではあるが改善されているところがあり、これから改善することもできる。だから、何もできないと予め決まってはいない。問題は人の不足ではない。人は余るほどいる。すくなくともいまのところ、ものの不足でもない。人とものの使い方である。(ものの方については、前掲の拙著『希望について』のVI「所有について」に収録された幾つかの文章、「所有と流通の様式の変更」、「遺伝子情報の所有と流通」等でも関連したことを書いている。人については上に紹介した「選好・生産・国境」の一部を含む同書のIV「不足について」、V「働くということ」。むしろ国際的な格差を減らすことが、国内における適切な分配の条件になることについては、III「境界について」に収めた「限界まで楽しむ」等。)

しかし憂えている人たち
 犠牲といった、たいそうなことが問題になる場面ではないのだと述べた。しかし、思いと言葉と行いは、以上に述べたこととはまた別の契機も含みながら、この社会に現われ、そのある部分は増幅し増長しているようだ。そしてそれにも幾つかの層があるように思う。
 まず、生きられる人だけが生きられることを権利として語り、そこで排除されることもまた正しいと言う人たち、自由至上主義者――言葉使いが間違っていると私は思うのだが――というか市場原理主義者というか、そんな人もいないではない。しかしそのように確信的な人はそう多くはない。多くの人たちは、人が早くに死ぬことになってまで福祉・医療を削った方がよいという「狂信的」な人々ではない。ただ、とりわけこの日本の国の場合、原理への信仰というより、国家財政その他のことを理解しているつもりであって甘いことは言っていられないというその立場を、ときになぜその人はかくもと思うほど、自らが代行・代表しているような人たちがいくらかはいる。その人たちは、その現実路線を進むこと、進むしかないと主張し続けることに使命感を感じているのかもしれない。日本安楽死協会の創設者であり立派な優生思想家であった太田典礼も、福祉や医療の体制の充実が必要だとは言っている。その本を読むと、彼が言っていることはかわいそうなほど論理的でなく、矛盾したことが様々に言われていて、全体として、論としての体裁をなしていない。だが、彼にしても医療・福祉政策を充実すべきことは述べてはいる。そして他方で、すぐ、そのような営みには限界があるのだと言うのである。もちろん今どきの人はもっと賢い。賢いからもうすこし筋道の通った話をするのだろう。
 では、この世のことがよく見えていると自認するその人たちは、あたまやからだが不随意であることについてどのように考える傾向があるのだろう。そんなことを考えていくと、その人たちにとっては、その「現実」が、というかその人が「現実」と思うものが信仰の対象なのであって、その意味で、その人もまた立派な原理主義者であるようにも思われる。その人たちにはどのように対してよいかわからないのだが、それでも、間違いではないと思うことを示すぐらいのことはできるし、またそのぐらいのことしかできないのかもしれない。理詰めで議論をしていると思っている人とは、その水準で話をするように努めた方がよいのだろうということだ。

良識的な人たち
 多くの人はそこまで確信に満ちてはいない。ただまず、負担と疲労の現実を知る人たちがいる。それは負担の偏りに起因する。これはまったく現実的なものである。つまり家族に負担がかかっている。これは大きな要因である。そして自分の舅であるとか姑であるとか、親であるとか、配偶者であるとか、さんざん苦労したという過去をもつ人がいる。あるいは現在そうだという人もいる。そこで相応に深い思いをもち、よく考えて、「リビング・ウィル」を書くことになる人たちもいるだろう。この状態は変更可能である。しかしいま現在の現実はまったくこのようなものでしかないから、依然として大きく困難な問題ではある。困難は困難でなくすることによってしか対応できない。言うべきことは基本的にはそれで終わりである。
 ただ、この辺りにいる「普通」の人々、多くはそれなりに苦労も知っているその人々の場所はもうすこし微妙である。その人たちは医療や福祉に関わる制度の充実を願い求めている人々であるのかもしれない。その人たちは医療や福祉の貧困に批判的なのではある。さらにその人たちは、どのような状態になっても生きることも権利であることさえ主張するかもしれない。しかし、そのように言うとともに、身近な人たちの身体的な負担であれ、また大きな単位の財政的な負担であれ、負担であること、負担でもあることを知ってはいる。資源には限度があり、あるいはあるらしく、そうたいして期待はできない、あるいは期待すべきではないと思ったりもする。たしかに、人々が生きづらいのは嘆かわしいことではあるが、そんなことをどれだけ言っても、実際はそこそこまでしかいかないという現実主義がある。
 そしてそんな人の中には、人々全般には生きる権利はあるのだろうと思い、そのことを支持しながら、そしてただ抽象的に支持するのでなく、ときにその種の職業に従事したり民間の非営利の活動に参加したりしながら、しかし自分の時には、と決めてあったりする人もいる。それはなにか自己を他から差異化し肯定しようとする行いであるように思え、自己実現活動の一環であるとも見えることがある。そして「自然」であること、そして「自然」に「美しい」ことは、この社会にあって、深く肯定される特性なのである。
 日本安楽死協会から日本尊厳死協会へと移り、その会員の数が増えていく中に起こったのは、熱心で攻撃的ですこし変わった男たちの集まりから、苦労も知っており多くの場合は控えめであるかもしれないがしかし芯がしっかりとあって言うべきことは言おうという人々を多く含む組織への変化だったのだろうと思う。そのような真面目な人たちと何を話せばよいのか。どうぞみなさま各自のお考えのとおり、と言っておしまいにしたいように思う。それでも考えなければならないのかもしれない。
 ただ、まずはもうすこし単純な人たちのことについて。

受け答えについて
 例えば私の祖母であった人がそうであったかもしれないと思うのだが、ただ人さまに迷惑をかけたくはないと言う人たちがいると思う。なぜそうなのか、幾つか言えることはあると思うが、それはここでは略すことにしよう。とにかくそのように思っているらしく、そのように言う。
 ともかくそんな人がいるとしてどうするか。ただ、そんなことを考察したりする前に、社会は実際にどんなふうにやってきたのかと考えてみよう。多くの社会では――なのかどうか、知らないからわからないのだが――そのような立派なことを言う人に対して、まず、その気持ちはありがたく頂戴するけれども、その気持ちだけいただく、だから、ここはこちらの思いを汲んでいただき、その申し出は取り下げてもらいたいと言うことになり、それに対して、言い出した人は、いやいやそんなことはできない、と返すのだが、いやそれではこちらが困る、と言うことになっていて、そしてまたその人は実は生きていたくもあるから、結局は取り下げる。そんな過程があったりしてきたのではないか。
 たしかにそれはいささか煩雑でもあり儀礼的でもある。なにより、相手がそう返してくれないと困るし、返してくれる相手がいないと困る。だからとてもよいことであるのかどうかはわからない。しかし、これは実際にはそれほど深刻でない場合について、自己犠牲的である人たちに対して、人々がすることになっていること、なっていたことではないか。
 そして、ものの言い方、受け答えの仕方は様々であるとしても、このことは普遍的な規範でもあるのではないかと思う。他人のためになることをすることはよいことであり、他人のためにならないことをしないことはよいことである。利他的な行いがよいことであることを否定する必要はない。さらに、このことについて人々には義務があるとも言えよう。そして、自己犠牲自体も肯定されてよいものとしてあるだろう。それは自分よりも他人を大切にすることであって、そのこと自体はよいことではある。しかし、ここで、その申し出をそのままに受け入れたらどうだろう。それは結局、自己犠牲を肯定する価値を否定することにもなってしまうのではないか。
 やりとりをしている暇がない場合もあるにはある。とっさのことで周囲に人がおらず、助ける人が自分の他にはおらず、しかも助けるなら自分も危険だといった場合である。しかしそんなことがそうたくさんあるわけではない。救命ボートの話は、ここでもまったく一般化できない。多くの場合には、そしてここで私たちが考えている場面でも、やりとりする時間はある。そこでやりとりするにせよ、しないにせよ、申し出をそのまま受け入れるとしよう。すると何が起こるのかである。その人が亡くなり、その分周囲にいた自分たちが楽になるということである。その人にとっての他人たち(自分たち)のためになることをさせることによって、すくなくともそれを止めないことによって、(その人にとっての他人である)自分たちが得をするということである。それはつまり、他人の自己犠牲を求める(止めない)ことによって、その他人に不利益を生じさせ自分たちが利益を得ることであって、それは結局他人を利用しているということであり、自己犠牲を肯定する価値を否定しているということである。
 これは実際にはしばしばあることだ。自己犠牲の、というよりは自己犠牲を称揚し教えることの怪しさ危なさはここにある。子どもたちや青年たちに国家・国民のための犠牲を教えるのは、もう戦場に出ることのない教師や政治家ではないかと言われるときに示されているのはこのことである。その人たちは、その者を、自分(たち)のために死なせることになるのだから、結局自らが教えたことを裏切っている。自己犠牲を教えてはならない、すくなくとも自己犠牲を言うときには慎重でなければならないとはこういうことである。教えるなら、どんな条件のもとで誰が犠牲になり誰が損失を被らないのかという因果とともに教えるべきである。でなければ、犠牲もまた正しくなされることがない。慎重でなければ、かえって教えない方がよい。
 だから、私たちは、可能であれば――ほとんどの場合可能であるはずなのだが――その自己犠牲の申し出を断らねばならないということだ。本当にどうしようもない時であれば、それをありがたく受けることになるかもしれない。しかしそうでないのであれば断らなければならないということである。そしてこれはなにか「日本文化」的なことなのではなく、どこででもそう考えられているはずのことであると思う。
 だから、拙著『ALS』でも幾度も述べたことだが、「中立」というものがなにかそれ自体よいことであるとただ考えるべきではない。
 中立は近ごろの流行である。周囲の人たちはただ「正確な情報」を伝えるのだと、そのことに徹するのだと、そうした得た情報をもとに「決定」するのは本人なのだと、そう言われる。インフォームド・コンセントとかインフォームド・ディシジョンといった言葉はそのような意味で使われる言葉である。しかしその結果起こることは上記したことである。
 となると、もうこのような社会になってしまっているのであるなら、つまり言ったことがそのまま実行に移されてしまうのだから、軽々な発言は慎んだ方がよいということにはなるかもしれない。もう他人からは止めてもらえないのだから、もし本当は長く生きたいのであれば、死にたいなどと言わないようにしなければならないということである。
 ただ一つ、そのような態度を習得するまでの時間はそこそこにかかるかもしれない。そのことに慣れない間、次々に本人が言ってしまったことは実行に移されることになるかもしれない。そしてもう一つ、時間が経ち、相手が「中立」に接してくることをもう皆がわかったとして、私はもうよいから、と言う人はやはりいるだろうということだ。それは生来のその人の性格からかもしれないし、また辛い状況のもとにいて、もう自分はいい、と思っていることによるかもしれない。それでよいのかである。


UP:20061027 REV:1027, 20150306  ◇安楽死・尊厳死  ◇安楽死・尊厳死 2006  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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