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良い死・18

立岩 真也 2007 『Webちくま』
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全体の目次
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*この連載は以下の2冊の本になりました。お買い求めください。
◆立岩 真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 2940 [amazon][kinokuniya] ※ d01. et.,
◆立岩 真也 2009/03/25 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 [amazon][kinokuniya] ※ et.

『良い死』表紙    『唯の生』表紙

*以下は草稿
*『Webちくま』に掲載されしだい、ここでの本文の掲載を停止します。

 ◇死なせることを巡る言説 1970年代
 ◇死なせることを巡る言説 1980年代
 ◇死なせることを巡る言説 1990年代
 ◇『福祉のターミナルケア』1997
 ◇死なせることを巡る言説 2000年代

おわりにのはじめに

 当初、延びてしまったその上で、12回程度を予定していたこの連載だが、結局18回になってしまい、終わらないのだが、きりがないので、いったん終わらせることにする。幾度かお知らせしたように、この連載は、『思想』に書いた文章と合わせ、構成その他かなりを変えて、筑摩書房で本にしていただく。年内に、と思っている。それを読んでいただけたらと思う。ここでは前回、書きかけたこと、ここしばらくの間にいったい何が起こったのかについて思うことをすこし記す。引用など載せてしまうとたいへん長くなってしまう。それはホームページの方に掲載する。そこから今回の文章の4倍ほどの分量のある、様々な本からの引用集も見ていただけるようにする。そして今どうしたらよいものかと思っていることについて、今のところの考えを記してみることにする。まずそちらの方に関わる説明を簡単にしてから、始めよう。
 数年前から、民医連京都中央病院という病院の倫理委員会の委員を、適格であるとは思われないのだが、している。臨床検査技師の起こした不祥事がきっかけとなって設置された委員会だと聞いている。議事録その他、ホームページに掲載されている。お誘いいただいた時は、この病院は「先端的」な医療・研究を行ったりする病院ではなく、病院に起こる日常の問題を検討するので、ということで、それなら、と思ったのが一つ。もう一つ、他のメンバーに、著作や報道で名前は知っていたけれども、会ったことはない人か幾人かいて、心強そうだったし、どんな人なのか見てみたいという邪心もあったりで、あまり深く考えることもなく、お受けしてしまった。
 たしかに当初は病院内のもめごと、乱暴な患者にどう対したらよいのかといった、楽しい、といったらいけないが、そういう議題もあったのだが、しかし、すぐに、けっこう基本的な、というか厄介なというか、重たい主題が続いて議題となり、いつも引きたい気持ちの方が強いのだが、結局今にいたるも、自らの適格性に疑問をいだきつつ、その委員を務めている。そして、いま議題になっているのが、「心肺蘇生の停止」のことをどうするかである。
 一つ思うのは、当たり前といえば当たり前だが、メンバーが違えば出てくる話はいくらでも違ってくるのだろうということだ。どこの委員会でも出てくる案がみな同じがよいということもないだろうが、てんでに違ってよいというものでもないのだろう。ただこれから記す、様々な背景があった上で、なんとはなしにこんなものだろうとされるものが、それでよければよいのだろうが、そのままには乗れないのではないかと思う時、一人だけ、流行外れのことを言うのはつらいものだ。それだけなら仕方ないとして、仮にその疑問の方に理があるかもしれないとして、それを通すのは難しい。その時、決まっているらしい流れにそのまま乗ればそれでよいとは思わない人が複数いるのは、むろんこのままの流れに乗ってよいのだろうかと思う人にとってのはなしだが、心強い。そして、時間をかけて議論ができるのはよい。そうした、恵まれた、相対的にはかなり恵まれた状態で議論はできているのだが、それにしても重い。それは起こる事態の重さであり、様々をもう認めてよいのではないかという流れにどう向かったらよいのだろうという重さである。
 今既定の流れ、であるかにみえるそれは、いったいどこから来ているのだろう。

変化について

 かつて「延命措置」は医療側の仕事として行うべきことであるとされていた、それが変わった、変わっているという。それは実感としてあるようだ。
 ともかくその措置は行うことになっていた、という。それが「医の倫理」としてということであったのか、ともかく行なうものだとされ、他の人がすることをまねしていた、繰り返していたということなのか。これもよくはわからない。そしてさらに、実際、過去どの程度のことが実際に本当になされていたのかも、よくはわからない。ただ、今に比べて律儀に行なっていたことは、その人たちの経験としてしばしば語られる。
 そしてそれが変化したとされる。それがなんだったのかということである。行なっていることが無駄なことではないか、しない方がよいことであるのではないかと思った人たちは、医療者にもまた亡くなる人を看取った人にもいた。後に記すように、私は、すくなくともそのある部分は、もっともなことだと思う。その全体がまちがっていると思わない。しなくてもよいことが行なわれているという感覚がたしかにあって、そんなことがないと言うのは違うように思う。
 ただいくらかていねいに見ておいた方がよいと思う。いくらか細かに見ていく必要があると思う。以下、ていねいにでも細かにでもないが、順不同で考えられることを列挙する。
 第一に、高齢化が進んだということはやはりあるだろう。実際がどうというより、そのように言われ、それが繰り返されるという部分も大きいはずだ。「少子高齢化」は、もう長いこと、大学生のレポートや高校生の作文の枕詞になっている。ただ同時に、それはリアルなこと、たしかに現実として感じられていることではある。とくに病院や施設に多くの人がいて、そこに働く人たちにとって、高齢の人が多いことは現実としてあり実感としてある。それは在宅福祉に携わっている人にとってもそうだろう。その人たちが仕事に行く先々には、仕事だから当然なのだが、高齢者ばかりがいる。別の仕事をしている人たちに見える現実は違う。ただその人たちも、やがてアマチュアとして、時にはとても長く、死の手前にいる人に接することになり、そしてうろたえることがいる。そして仕事として多くの人たちと接する人たちがいる。その人たちは、すくなくとも私が見て聞いて知っている範囲内では、一般的に、仕事をするその相手の人たちを大事にしている。ただときに、そうして大事にしていることと同時に、徒労感のようなものはあり、人が死んでいくことへの慣れというものはやはりある。
 第二に、どの範囲にどの程度知られどの程度の影響力があったのかわからないが、「欧米の事情」が伝わり、「福祉先進国」でも「延命」は行なわれていないことか言われる。一般に、とくに短期の海外――に限らないが――研修・見学の場合、見たいものがあって、それを確認して帰ってくるということはある。またたいがい見させられるものは、熱心に取り組まれうまくいっているところであり、先進的な事例であるから、その他の事情はわからないままということがある。ただそれでも、時にはだからこそ、それは積極的な役割を果たすことがあった。例えば北欧はしかじかであるという報告は、遅れた日本の状況を改善すべきであるという話に結びついてきた。デンマーク他には「寝たきり老人」がいないという報告にもそのような効果があった。ただ、そのことを知り、肯定しつつも、それがどうして成り立っているかと思った人のなかに、そこでは、たんにケアが充実しているというだけでなく、あるいはそのケアを充実させるためにも、ある時点で医療を停止していることを知り、そのことを報告する人たちがいる。別の人たちはそのように受け止めなかったかもしれないし、たんに知らなかったのかもしれない。あるいは、このことは言わない方がよいと思ったのかもしれない。ただ、ある部分ではそのことは言われるし、そのまたある部分においては、それはしだいに共通の了解になっていったのかもしれない。
 むろんそれは費用の問題として語られただけではない。「欧米諸国」と比較して、またそれとは別に、第三に、本人は「延命」を望んでいないのだが、周囲の都合で生かされていると言われる。日本では、家族の意向によって、あるいは本人に近い人よりむしろ普段は関係のない親戚などの意向によって、生きさせられてしまうことが繰り返し指摘される。そんなことがあったこと、あることを否定しない。たしかにそんなことが多くあるだろう。しかしすこし不思議でもある。
 つまりそれと違う場合もある。そう長く生きてもらわなくてよいと思い、そのことを、それとなくあるいははっきりと、伝える家族・親族もいる。どちらの方が数が多いのか、これもまた知ることは難しいだろうし、また知る必要があるのかもわからないのだが、たくさんいる。そう言われた(が、すくなくとも「末期」の状態でなかっから医療者の側は受け入れず、その後も長く生きている)人を私は具体的に思い浮かべることができる。ただそのような人たちはあまり書かれたものの中に出てこない。それは、家族の余裕、余力の度合いにもよるだろう。余裕のある人たちを受け入れる病院では、もうやめてくれと言うより、ともかく続けてくれと言う人が多いのかもしれず、医師が自らの仕事場で見知ったことを人にやさしく説くといった本を書く、そのような文章の書き手は、そのような職場、「よい病院」にいることが多いのかもしれない。ともかく語られることとしては、日本では、家族や親族の意向で生きさせられることが多いということであることが多い。それに比して、かの国では「個人」が確立しているのだと言われる。その個人という個人はいったいどんな個人なのかと思う。しかしそのことはそれほど詰めて考えられることもなく、ともかく「わが国」では他律的にものごとが決められるのだと言われる。
 第四に、「過剰」として捉えられる部分がかつては病院の経営に資するものとしてあったという事情があるように思う。そしてその後にはそうでなくなったという事情があると思う。これも誰かが調べたらよいことだと思うが、かつて、さほどの手間をかけず人手はかけず、しかし、薬剤その他は多く使い、そのことによって収入を得、それが病院の経営に寄与していたことがあったかもしれない。
 それは、当然のこと、不正の感覚を人々に呼びおこすものでもあっただろう。これだけ投与されているものは、結局のところ、病院の収入を維持するためのものであり、それは当の人に益をもたらさず、ときには害である。たしかにそのような事実もあった。それは「延命」への傾きを医療にもたらすものであるとともに、それが批判される根拠ともされ、別の方向に向く動因ともなる。
 そして第五に、以上に関わり、そして一番目に記した高齢化の進行という了解とともに、医療費の増大が問題にされる。費用の問題はやはりあるだろうと言われる。それも、必ずしも単純に費用を抑えたいといった話だけではない。まともな水準の「ケア」、例えば寝たきりにさせないケアをしようと思ったら、その他の部分を削るしかない、ケアが充実しているとされるそれらの国々ではそのようにしているという話も伝わる。
 それに対して、他方の側の人は「終末期医療」にそれほど費用はかかっていないと言う。だがもちろん、どれほどであれ、かかるにはかかる。これは否定できない。ある人たちがたいした額ではないというその同じ額を、とても費用がかかっていると判断し心配する人もいる。だからこの反論は費用がかかりすぎだという批判を全面的に打ち消すわけではない。
 以上と関係しあって、第六に、医療から福祉、施設から在宅へという主張があり――その主張にはそのまま対応しないのではあるが、いくらかはそれに近似した――現実の変化がある。これは第五点、経済の面からも言われる。在宅の方が、あるいは医療から福祉の方に人を渡した方が費用がかからないというのである。それに対して、そんなことはないと言われる。まともに対応しようとすれば、福祉は医療の代わりにはならないし、またかえって在宅ケアの方が費用はかかるというのである。それは基本的に正しい指摘である。するとさらに、費用がかからないから在宅・福祉を推進しようというのではないと言われたり、いや実際にそのように言っているのではないかといった反論がなされたりして、論争が起こることにもなる。この時、医療の側は、自らの仕事に対する信念があり末期であろうと医療を必要とする人がいることを知っているから、またそれだけでなく、すくなくともそれが経営にとって負の影響を与えるものでない限りにおいて、自らの仕事の領分の縮小を警戒する。1990年代の終わり、「福祉のターミナルケア」を巡って起こった論争が、論争としてそれなりに取り上げられたことの一因には、このことがあったかもしれない。
 ただ実際の政策は、とくに介護を家族に渡すことで、費用を減らす政策としてその方に重点を移す。正確には、家族介護の基本を事実上維持しつつ、公的介護保険を加えてなにがしかの負担軽減をはかり、「在宅」の「福祉」の方に移行しようとする。そして、この「安上がり福祉」に対する批判は当然になされつつも、自分のいたい場所で時を過ごすこと自体は望まれていることでもある。現にある施設、とくに病院がよい環境であるとは思われない。
 こうして費用の伸びを抑えることが目標にされ、そのときにむしろその批判が利用されるといったかたちで、病院で行われてきた「終末期医療」に金をかけなくなったとしよう。すると、かつては、少なくともそれで経営的に損はしなかったのだが、それがそうでなくなる。病院にとってもわりにあわない仕事になる。そのことによって、撤退、差し控えの方に向かう、向かわざるをえないことになる。ここで、かつて「福祉」の方への移行を警戒し、医療の削減を批判し、その文脈において、「差し控え」を批判してきた医療の側の批判も、すくなくともいくらか、弱いものになる。もう既に事実としてわり合わない仕事になってしまっていて、それを今さら動かせないとすれば、それにこだわっても仕方がないというのだ。ここ1年2年、医療の側からの「差し控え」や「中止」に対する批判がさほど強くないように思われるのにも、このことがいくらかは関係しているのかもしれない。
 こうして事態はいくらかは複雑ではある。それを解きほぐしながら、ものを考え、言っていく必要がある。今まで、この連載でも、いくらかのことは述べた。また、今回の主題とは別に書いてきたものの中で、以上に対応する私の考えはいちおう記してきた。それをまとめて述べることは、本の方で行おうと思う。以下では、今回最初に述べこと、「心肺蘇生」のことについて、いったいどうしたらよいのかについて。

何を伝えるか

 全般的に言って、「停止」の対象は拡大している。というより、既に拡大している。それがこのところの事態を牽引していることは事実だろうと思う。そして医療者の側に、どちらでもよいからはっきりしてくれ、とか、もうすこし言えば、実際にもうやっていること、やってしまっていることを追認してくれ、とか、そんな気持ちがあるのだろうと思う。どのように対したよいだろうか。
 一つの答は本人にあらかじめ聞いておくという答である。実際そのようなことになっている。各所で、そういう方向で検討されている。さまざまなガイドライン、ガイドラインに向けた文書なども、おおむむそういう方向のものになっていると思う。
 ただ私はそれで片がつくとは思わない。このことは『思想』での連載で述べたから詳しくはそちらを見ていただければと思うのだが、ここではより現場に即して、起こりそうなことを記しておく。
 まず、どのようにするのかを聞くとして、いつそのことを聞くのか。いっそあらゆる病院の利用者に、これこれの状態になったらどうしたいかを聞いておくという手はある。しかし、まず多くの人にとって、それは少なくとも現実的な想定の外にある。そんなことにはならないだろうと思って、ならないために病院に来ている。
 ではもっと後に、末期という状態の到来が近々予想される人に聞いたらよいのか。しかし一方では、それはそんな厳しい状態であるがゆえに、死の予告のように受け取られるかもしれない。であるとしても、書類の項目のいずれかに○を記すべきだという考え方はむろんある。しかし、そうして厳しい状態を予告することを意味しても決めさせることが当然のことだとは――ここではその理由を述べられないが――言えないと思う。また他方に、厳しい状態にある人たちの多くは既に自らの思いをすくなくとも言葉によっては十分に伝えることが難しくなっている。だからこそもっとその前に――つまり想定される状態からはまだ遠いところにいる時に――意向を聞いてそのとおりにするというのでなければ、代理の人に決めさせればよいだろうか。しかしこの方法にも――やはりその理由をここで述べられないが――難がある。
 私は以下のように思った。
 むしろ、この病院はこのように皆に対すると言った方がよいのではないか。もちろん、どちらの選択もある、どちらを選ぶかはあなたが決めることだというメッセージがその人をないがしろにするということではない。むしろ多くの場合にはその反対である。しかし、ことが生き死にに関わる場面で、生きるのも死ぬのもあなたの選択だとするのは、それと違う。むしろ、病院は、その病が治るか治らないか、それは様々であるとしても、基本的には命を救うところであり、命を長らえさせるところであると、そのことを私たちは行うと、まずそのことを、言うまでもないことかもしれないが、その言うまでもないことを、言うことではないか。そのためのことを私たちはきちんと行う、身体の機能がひどく衰えていようと、認知症が進行していようと、それで差をつけることはしない、行うべきことは行う。そのように言う。
 その方が人は安心するだろうと思う。今回の私たちの作業のように、一つの病院での決まりごとを決める場合には、少なくともこの病院はそうすると、その方が安心するだろうと思いここではそうすると言い、どうしてもそのように思えない人は、別の病院にしてくださいと言うことも――これは別の「選択肢」も否定しないというある種の「逃げ」でもあるのだが――できる。
 その上で、いかなる場合にでも、技術的に可能なすべてを行うべきだとは私は考えない。一つには、寿命が短くなる可能性のある選択肢だが、寿命が長くなる可能性はある別の選択肢よりも、その人にとってよい、楽な状態が保てるという場合に、前者をとることはありうるだろう。この社会が「太く短く」をことさらに推奨する社会であるなら、これもそう簡単に断じてよいことではないが、まずはそう言えるとしよう。ただここではこの場面が問題になっているのではなかった。全身の状態が悪化していって、心臓の機能と呼吸の機能、とくに心臓の機能が弱くなっていって、その推移からやがて、ごく近いうちにそれは停止の時を確実に迎える、その時に、電気による刺激を与えるあるいはマッサージを行うか、続けるか、そういう場面である。
 幾度か述べたように、そのときにその人がどんなであるのか、そう簡単にわかると思わないようにしよう。ただ、意識の水準は低下している。まったく何も感じなくなっていれば、やはり述べたように、その人にとっての害もないのだが、しかしやはり同時に、益もない。害がなく、そして益がある可能性があるのであれば、事態の改善の可能性があるのであれば、その処置を行えばよいではないかと述べたのだが、ここではそれはないとしよう。すると、処置を行う積極的な理由はない。他方、まったく何も感じていないのでもなさそうで、ときに――もっと上手なやり方はないのだろうかと私は思ってしまうのだが――肋骨を折ってしまうような圧迫が加えられ続けることは苦しかろうと思えることはあり、そのことは否定できないような場面がある。そしてその時のその人の状態は、低い水準においてではあるが生体の機能が保たれているのではなく、また突発的で一時的な事態として心肺の機能が低下しているのでなく、多くは長い闘病のすえ、もう最後の段階を迎え、機能水準が急激に低下している。それは回復可能な一時的な低下ではない。
 とすれば、その時には、処置は止める、行わないとした方がよいだろうと私は思った。たしかにもちなおす可能性はまったくのゼロではない。しかし人の世に起こることのほとんどは厳密にはゼロではない。数多くの経験から、ゼロだと思える、ほどなくしてこの人の生は終わると確信できる時には、そしてここでは一人の医療者の判断でなく複数の人たちの判断が一致している時には、処置は行わない。それ以外の場合、すべきことは医療者の義務として行う。この病院ではそういう方針で臨む。このように、次に言う。
 絶対にもう無駄だと、その判断をさせることにおいて、それは医療者に負荷をかけ、責任を負わせる。まじめにそのことについて考えろということだ。ただ、それでも述べたように、まったく可能性がないというという判断は難しい。間違えることはありうる。その判断を信用できない、あるいは信用していているが受け入れたくない人がいるだろう。そして、周囲の人たちにとっても、その人の死がいささかでも先延べになってほしい、そのように思うことはあるだろう。そのように思うこと自体は当然のことでもある。だから、その場合には、医療者の側から見ると無駄かもしれず苦痛であるかもしれないのだが、処置を行ってほしい続けてほしいと言ってほしいと伝え、その希望はかなえるようにするとすればよいのではないか。ただ後者、関係者の意向・願望の場合には、心肺蘇生の術が本人の身体に負荷をかけるるものである以上は、本人の希望を優先したいとする。
 そこで、例えば以下のような文章を渡すことにする。([ ]内はまだ迷いのあるところ、検討の余地があると思うところ、教えてもらわねばならないと思うところ。)

 「当院では、病気をなおすために私たちができることをきちんと行います。また残念ながら病気がなおらないとしても、できるだけ気持ちのよい状態で長生きができるためのことをできる限り行います。身体の状態がよくなくとも、知的な活動がうまくいかなくなっても、そのことには変わりはありません。人の状態によって行うべきことを行わないことはいたしません。
 しかし、残念ながら、病が進行し、全身の状態が悪化し、数時間の間[などと言うことができるのかどうか]に確実に死を迎えることが明らかであると、医師を含む複数の医療者が判断した場合には、あえて心肺蘇生[要説明]を行なうことはいたしません。その時にご本人がどんな状態であるのは推察することしかできず、明らかではありませんが、この状態での蘇生のための処置はからだに相当に強い刺激と負担を与えることになると考えるからです。
 しかし私たちの診断に100パーセントということはありません。長い時間でないとしても、いくらか状態がもちなおすことがまったくないと断言することはできません。また、ご家族他関係者の方が、すべての動きが止まってしまう前に御本人に会われ、最期までを見届けたいという思いを尊重すべきだとも思ます。そこで、最期の時に臨まれる御本人の負担に配慮しつつも、御本人が望まれるのであれば、あるいは御本人が許容されるのであれば、本当の最期まで、心肺の動きを維持すべく処置することもいたします。このことについては、担当の医師に相談していただければと思います。できるだけの説明をし、ご希望に沿うように対処したいと考えております。」

 このような案でよいのか、私にもよくわからない。これでよいのかという思いはある。しかし、第一に、この病院がというのではないが、なしくずしに様々を「停止」することが行われるようになっている時、なにも示さないことによって現状を追認するというのはよくないように私は考えた。
 しかし、ならば「停止」を行わないとだけ言えばよいのではないか。ここが迷うところだ。ただ、1回について3時間ほどの会議をもう3度か4度行なってきて、かなり執拗に根掘り葉掘り医師や看護師に聞いてみたところでは、やめてよいことがあるように思えた。そして、その時の医療者たちの経験は、なにか死にゆく人に対する、既に亡くなった人たちに対する罪責感のようなものとしてその人たちに残っているように思えた。そしてそれを――たしかに「かわいそうだから」としてなされるあるいはなされないことに危ないことは多々あるのだが、この場合には――ただ錯視とみることはできないように思えた。本人に対して加害的であるように思え医療者に徒労感だけでなく罪責感をもたらすようなことと、それと区別することができると思われる様々な思惑、理由によって命を長らえさせる処置を行わないこと、処置を停止することとを分けて、後者について、するべきことをきちんと行うことを明確にし、そのことをはっきりと伝えた方がよいのではないかと思った。
 それでもなお、原則的にいかなる場合にも処置を行うが、ここで行わないとした場合についてだけ、あらかじめどうするかを決めず、本人の選択に委ねるという方針もあるだろうと思う。しかしそれは、このような状態の場合に人に委ねるとはどういうことか、その状態を医療者がどのように把握し、どうするのがよいとするのか、基本的にまた個々の場面に即して考えること、また示すことを放棄することであるようにも思った。
 そしてもう一つ、いったん何かを認めたとしたら他も認めることになってしまうのではないかという懸念がある。「滑り坂」を滑っていってしまうのではないかというのである。ただ、区切りをつけてそれ以外はしないことを明言するという方法にも、滑っていくことを止める効用はあるだろうとも思った。ここには、すべてを認めないことは実際にはできないだろうという判断があり、とすれば、実際にはなにかを認めることになるのだから、その結果、事実上認められていってしまう範囲はかえって広がってしまうのではないかという危惧がある。
 しかしそれでも、できるかぎりのことを、とりわけそれが苦痛でないように行なうことができるのであれば、行なうという方がよいのではないか。そのように思うところはある。私は、明らかに無益なことであり加害的なことでもあると思えるのにその措置をしなければならないとされ、せざるえないという医療者の側の不満が堆積していって、その不満がすべての措置をすべきであるという方針への不信となり、かえって、停止されるべきでないことの停止をも行なってよいという方に滑っていくことかもしれないことを心配しているのだと思う。しかしその心配のために、明らかにやめた方がよい、しない方がよいと思わるものについて、やめること、しないことを認めようというのは、たんにその人たちが思ってしまっているだけであるかもしれないものを重く見すぎていないか。まだ私にはわからないところがある。そのまだわからないところをはっきりさせようというのが今回の議題なのだから、やはり、これは私に務まらない仕事だと思う。
 この連載をしている間に様々なことが起こって、そんなことにふれて書いた回があったりもして、右往左往した連載になった。そんな時には、当然、新聞記事など読まなればならないのだが、実際には、読むのがいやで、見るのもいやで、ぎりぎりまで読まなかったり、結局読まなかったりした。例えば今回の前半にいくらかを記したそれなりに複雑な動きがあるのに、あっさりと、するするとことが動いていくのはいやだと思うし、するするとものごとが語られるのもいやだと思う。だから、仕方なく、いやでも、ものごとがいかに様々にわかりやすく語られ、それが合わさってどんなことになっているのか、それを言う必要はやはりあるのだろう。
 そしてそんな時には、ふらふらしないで、原則的になればよい、そのように言っていった方がよいと思うのが一つ。それでそんな書き口の本のことをしばらく紹介したりもしたのだった。しかし、そうして様々がある中で、もういい、もうよそうという思いは否定しきれないようにも思って、結局はふらふらしてきた。ただ、こんど、今関わっている事案について、なにかは決まって公表もされる。その時それが、もしさきに記したような、あまり見かけない書き方の文章になっていたら、それはすなおに読んでほしいと思うし、伝えるのなら、すなおに伝えてほしいと思う。生きている限りはよく生きられるようにできることをする。なにかさまざまにややこしいこともまたあるとしても、このこと自体は単純なことであって、基本的には、そう難しいことでもないはずだ。


UP:20070126 REV:0127
安楽死・尊厳死  ◇安楽死・尊厳死 2006  ◇立岩 真也
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