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原田 正純

1934/09/14〜2012/06/11

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・水俣学
・熊本学園大学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E6%AD%A3%E7%B4%94

■HP

◆原田正純 著作目録
 http://www.geocities.jp/uwasano/harada-masazumityo.html
http://gw.civic.ninohe.iwate.jp/100W/06/070/page3.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E6%AD%A3%E7%B4%94
 原田 正純(はらだ まさずみ、1934年9月14日 - ) は、鹿児島県出身の医師。学位は医学博士。ラ・サール高校、熊本大学医学部卒業。水俣病と有機水銀中毒に関して数多にある研究の中でも、患者の立場から徹底した診断と研究で水俣病に関してもっとも詳しい医師であるといえる。1989年、『水俣が映す世界』(日本評論社)で大佛次郎賞を受賞。2001年、吉川英治文化賞受賞。2010年、朝日賞受賞。
経歴
1959年、熊本大学医学部卒業
1964年、熊本大学大学院医学研究科神経精神医学修了、精神神経科助手
1970年、精神神経科講師
1972年、熊本大学体質医学研究所助教授
1984年、体質医学研究所改組のため遺伝医学研究施設疫学部に移籍
1993年、再改組で遺伝発生医学研究施設に移籍
1999年3月、熊本大学退職
1999年4月、熊本学園大学社会福祉学部教授に就任
2010年、熊本学園大学を退職

◆「2010年度朝日賞、3氏1団体に贈呈」
 http://www.asahi.com/national/update/1228/TKY201012280001.html

 「2010年度の朝日賞は次の3氏1団体に決まりました。各界からの推薦をもとに、朝日新聞文化財団と朝日新聞社の選考委員会(委員長=秋山耿太郎同財団理事長・朝日新聞社社長)が審議し、決定しました。1月27日に東京・日比谷の帝国ホテルで贈呈式を行い、正賞のブロンズ像と副賞(1件500万円)を贈ります。
◇池澤夏樹氏 作家
 世界的視野に基づく創作・評論活動と文学全集の編集
◇原田正純氏 医師
 水俣病研究を通した学際的な「水俣学」の提唱と深化
◇探査機「はやぶさ」プロジェクトチーム
 (チーム代表=川口淳一郎・宇宙航空研究開発機構教授、産業界代表=萩野慎二・NEC宇宙システム事業部シニアマネージャー、学術界代表=土屋和雄・京都大名誉教授)
 産官学の協力による世界初の小惑星探査往復飛行
◇細野秀雄氏 東京工業大フロンティア研究センター教授
  透明酸化物半導体・金属の創出
主催 朝日新聞文化財団」

■著書

◆???? 『有機水銀中毒(水俣病)』(共著)出版社:薬物が起こす神経障害(高倉公明,宮本忠雄編)

◆19721122 『水俣病』,ミネルヴァ書房,244p. ISBN-10: 4004111137 ISBN-13: 978-4004111139 [amazon] ※ ee
◆1976 『有機水銀中毒,神経疫学』(黒岩義五郎編)(共著)
出版社:医学書院
◆1983.9『いま、水俣病は?』原田正純、宮本憲一(岩波書店・岩波ブックレット), 岩波書店,71p. ASIN: B000J7B46S
◆19850120 『水俣病にまなぶ旅――水俣病の前に水俣病はなかった』,日本評論社,310p. ISBN-10: 4535575266 ISBN-13: 978-4535575264 2600 [amazon] ※ b
◆1985.2『水俣病は終っていない』原田正純(岩波書店・岩波新書)
◆198605 『水俣の赤い海』,フレーベル館,279p. ISBN-10: 4577008734 ISBN-13: 978-4577008737 [amazon] ※ ee
◆19890601 『水俣が映す世界』,日本評論社,321p. ISBN-10: 4535577978 ISBN-13: 978-4535577978 3570 [amazon] ※ b
◆1989.9『水俣病』原田正純(岩波書店・岩波新書)
◆1989.10『水俣・もう一つのカルテ(水俣=語りつぎ)』原田正純(新曜社)
◆1990 『発展途上国の環境問題』出版社:「21世紀の政治経済学」 有斐閣(共著)
◆1992.10『水俣の視図 弱者のための環境社会学』原田正純(立風書房、学習研究社)
◆1994.8『炭じん爆発 三池三川鉱の一酸化炭素中毒』原田正純(日本評論社)
◆19940920 『慢性水俣病・何が病像論なのか』,実教出版,223p. ISBN-10: 4407029579 ISBN-13:978-4407029574 [amazon] ※ ee
◆1995.5『この道は(シリーズ・私を語る)』原田正純(熊本日日新聞社(熊本日日新聞情報文化)
◆1995.6『水俣病と世界の水銀汚染(J・JECブックレット)』原田正純(実教出版)
◆1996.7『裁かれるのは誰か』原田正純(世織書房)
◆1996.9『胎児からのメッセージ 水俣・ヒロシマ・ベトナムから(J・JECブックレット)』原田正純(実教出版)
◆1997 『メチル水銀の神経毒性,水俣とアマゾン』(共著)
◆1997 『有機水銀中毒,その他の重金属中毒』(共著)出版社:器質,症状性精神障害(三好功峰,他編)
◆1997 『広がるアジアの環境汚染と健康障害』(共著)出版社:アジア環境白書(日本環境会学編)(東洋経済新報社)
◆1997.12『炭坑の灯は消えても 三池鉱炭じん爆発によるCO中毒の33年』原田正純(日本評論社)
◆1998 『水俣病原因究明の道程,水銀の分析と臨床疫学』(共著)出版社:環境計測の最先端(三田出版会)(小泉英明編)
◆1999.6『三池炭鉱1963年 炭じん爆発を追う』森弘太、原田正純(日本放送出版協会)
◆2000 『胎児性水俣病とPCB胎児症』出版社:カネミ油症 ダイオキシン汚染・関東ネットワーク
◆2000 『アジアにおける環境汚染による健康障害』出版社:アジア環境白書2000
◆2001.3.21『日本国憲法の逆襲』佐高信編(岩波書店)
◆2002.2『金と水銀 私の水俣学ノート』原田正純(講談社)
◆20020830 『環境と人体』,世界書院,279p. ISBN-10: 4792710405 ISBN-13: 978-4792710408 [amazon] ※ ee
◆2002.11『いのちの旅 「水俣学」への軌跡』原田正純(東京新聞出版局)
◆2003.5『OD>水俣・もう一つのカルテ(OD版)』原田正純(新曜社) amazon bk1
◆2004.3『Minamata disease』原田正純(熊本日日新聞情報文化センター)
◆2004.3『水俣学研究序説』原田正純、花田昌宣(藤原書店)
◆2004.3『水俣学講義』原田正純(日本評論社)
◆2004.5『環境福祉学入門』炭谷茂、原田正純(環境新聞社)
◆2005.7『水俣学講義 第2集』原田正純(日本評論社)
◆20070406 『豊かさと棄民たち――水俣学事始め』,岩波書店,双書時代のカルテ,126p. ISBN-10: 4000280880 ISBN-13: 978-4000280884 1155 [amazon] ※ b

■論文・他

◆1968 「Sudeck症候群や多彩な精神症状を示した一酸化炭素中毒後遺症の1例」『脳と神経』20:1095-1099
◆19700607 「この痛苦に軽量があるのか(告発された水俣病の重大局面)」『朝日ジャーナル』12(23):117-120
◆1971 「炭じん爆発により集団発生した一酸化炭素中毒後遺症の5年目の脳波学的研究」『精神経誌』73:854-865
◆19710305 「水俣病の前に水俣病なし――医学者としての視点(むき出しになった"水俣差別”)」『朝日ジャーナル』13(9):40-41
◆1972 「16年後の水俣病の臨床的・疫学的研究」『神経進歩』16:870-880
◆197204 「水俣病の概念(公害裁判(特集)2)――(公害裁判の現状と問題点)」『法律時報』44(5):41-43
◆1973 「環境における長期微量汚染の人体に及ぼす影響」『公衆衛生』37:171-175
◆1973 「中毒性脳障害における痴呆」『精神医学』10:408-412
◆197308 「第二、第三の水俣病をもたらしたもの(公害・薬害と人間の権利(シンポジウム))」『中央公論』88(8):149-152
◆19731125 「公害と国民の健康(医療と人権(特集))――(疾病構造と医療の現実)」『ジュリスト』548:128-132
◆1974 「中毒性疾患と頭痛」『診断と治療』62:50-55
◆19750115 「水俣病の認定の遅れを問う――認定とは医学にとって何か(公害健康被害補償制度)」『ジュリスト』579:44-51
◆197508 「重症臓器質障害患者の睡眠特性、とくにREM期睡眠を中心にした睡眠リズムの検討(第10回「脳のシンポジウム」<特集>)」『神経研究の進歩』19(4):767-770
◆197511 「カナダにおける水銀汚染問題」『日本の科学者』10(11):511-514
◆197601 原田 正純・赤木 健利・藤野 糺 「疫学的・臨床的調査(カナダ・インディアン水銀中毒事件――第2次世界環境調査報告<特集>)」『公害研究』5(3):5-18
◆197601 「臓器質性疾患患者の睡眠周期(睡眠と臨床<今月のテーマ>)」『臨床脳波』18(1):11-19
◆197604 原田 正純・立津 政順 「中毒・その他――一酸化炭素中毒(救急計画法)――(主要疾患の救急計画)」『綜合臨床』25(増刊号):1146-1151
197609 原田 正純[他] 「長期にわたって精神病とされた水俣病――部検所見と水俣病の精神状況」『精神医学』18(9):935-944
◆1977 「二硫化炭素中毒,水銀中毒」『薬物依存と中毒』U:295-332
◆1977 「水俣における保存臍帯のメチル水銀に関する研究」『公害研究』6(3):49-60
◆197702 原田 正純[他]「カネミ油症(塩化ビフェニール中毒)小児の6年後の精神神経学的追跡調査」『精神医学』19(2):151-160
◆197704 樺島 啓吉・原田 正純・丸林 徹「異所性松果体腫瘍の1例――経過・部検所見」『脳と神経』29(4):453-458
◆197708 原田 正純・津嘉山 毅・立津 政順「水俣病の精神病状――病例報告を中心に」『精神神経学雑誌』7988):393-413
◆197710 原田 正純[他] 「一酸化炭素中毒後遺症――炭塵爆発により集団発生した患者の10年目の脳波」『臨床脳波』19(10):668-673
◆197804 「水俣から土呂久へ――公害病の概念について(最近の公害訴訟)」『公害研究』7(4):38-39
◆197806 「私に教え、勇気づけるもの――川本裁判上告審への意見書」『思想の科学』第6次(92):122-139
◆197810 原田 正純[他] 「慢性進行性脳症状を呈した先天性トキソプラズマ眼症」『脳と神経』30(10):1101-1107
◆19781103 「「語り言葉」があぶり出す民衆の差別構造――岡本達明編『近代民衆の記録7・漁民』(思想と潮流)」『朝日ジャーナル』20(44):67-69
◆197812 原田 正純[他] 「トキソプラズマ症の脳波」『臨床脳波』20(12:795-799
◆1979 「慢性水俣病の臨床症状」『水俣病』:301-329(作成者注:72年の『水俣病』改定時の増補分か<要確認>)
◆197905 南 竜一・原田 正純 「夜間せん妄状態とREM睡眠との関係(睡眠<今月のテーマ>)」『臨床脳波』21(5):315-323
◆197908 「今こそ水俣病の全容解明を(トピックス)」『科学朝日』39(8):30-31
◆197910 原田 正純・赤木健利・樺島 啓吉 「高圧電流による脳外傷」『脳と神経』31(10):1025-1031
◆198003 「振動病の精神神経学的研究」『熊本大学体質医学研究所報告』30(2):143-172
◆198006 原田 正純 [他] 「慢性二硫化炭素中毒(血管障害型)のCT-scanと脳波所見」『臨床脳波』22(6):420-426,永井書店
◆198010 原田 正純 [他] 「ベェネズエラの水銀汚染事件」『公害研究』10(2):53-57,岩波書店
◆198103 原田 正純 [他] 「慢性に進行した重症小児水俣病の1剖検例」『熊本大学体質医学研究所報告』31(2):219-233
◆198103 原田 正純 [他] 「心停止後15年間失外套症状群を呈した1例の睡眠特徴と経過」『Brain and nerve』33(3):283-290,医学書院
◆198109 原田 正純 [他] 「先天性(胎児性)水俣病の1例――13年めに見出された剖検例」『精神神経学雑誌』83(9):572-581,日本精神神経学会
◆198203 原田 正純・鹿子木 敏範・宮崎 美代子 「加齢が脳波に及ぼす影響の研究――中枢神経機能老化の1つの指標として (加齢に関する体質的研究)」『熊本大学体質医学研究所報告』32(2):27-39,熊本大学体質医学研究所
◆198203 原田 正純 [他] 「加齢が睡眠に及ぼす影響の研究――老年期精神障害の終夜睡眠ポリグラフの検討 (加齢に関する体質的研究)」『熊本大学体質医学研究所報告』32(2):41-52,熊本大学体質医学研究所
◆198204 「世界の水銀による環境汚染事件 (水俣病問題の現段階<特集>)」『公害研究』11(4):29-37,岩波書店
◆198212 「Hypsarhythmia, 失外套症状群を示した重症水俣病の睡眠と脳病変」『臨床脳波』24(12):850-857,永井書店
◆1983 「不知火海有機水銀汚染の医学的追及」,(以下要修正)最首・丹波編[1983:325-388]*
*最首 悟・丹波 博紀 編 20071215 『水俣の啓示 上』,筑摩書房,368p. ISBN-10: 4861821657 ISBN-13: 978-4861821653 2940 [amazon][kinokuniya] ※ b
◆198301 原田 正純 [他] 「一酸化炭素(CO)中毒の脳波と後遺症――1症例の初期脳波, CT所見から」『臨床脳波』25(1):38-43,永井書店
◆198307 「水俣病の認定制度と医学的実態 (公害の原点・水俣病の解決のために<特集>)」『公害研究』13(1):23-29,岩波書店
◆198707 インタビュー:Olthuis, John・原田 正純・宮本 憲一 「カナダ・インディアン水銀中毒事件の現状――ジョン・オルシス護士に聞く (公害の原点・水俣病の解決のために<特集>)」『公害研究』13(1):49-52,岩波書店
◆1990 「ベトナムにおける枯葉剤の健康に及ぼす影響について」『社会医学研究』9:75-79
◆1993 「環境と先天異常」『日本体質学雑誌』56/2:16-24
◆1993 「胎児性水俣病」『大阪小児科学会雑誌』10/1:27-33
◆1995 「水俣病、日本の環境汚染におけるメチル水銀中毒」『中毒学評論』25/1:1-24
◆1995 「ブラジル・アマゾン水域の採金による水銀汚染調査」『公衆衛生』59/5:307-311
◆1996 「発展途上国における工業中毒と環境汚染の特徴」4/捕冊:157-169
◆1999 「タンザニアにおける水銀汚染調査、健康と頭髪水銀の関係について」『綜合環境科学』227/:149-156
◆1999 「三池一酸化炭素中毒症の長期予後、33年目の追跡調査」『日本精神神経学会雑誌』101/7:592-618
◆20000205 「医学における認定制度の政治学――水俣病の場合を中心に」
 『思想』908(2000-02):103-123 
◆2001 「ケニアにおける漂白せっけんによる水銀中毒」269/2:183
◆20071215 「水俣病公式発見から五〇年――宝子を想う」,最首・丹波編[2007:]*
*最首 悟・丹波 博紀 編 20071215 『水俣五〇年――ひろがる「水俣」の思い』,作品社,368p. ISBN-10: 4861821657 ISBN-13:978-4861821653 2940 [amazon][kinokuniya]※ b

■言及

◆立岩 真也 2005/08/** 「良い死・3」
 『Webちくま』[了:20050724]

◆岡本 晃明 200702 「医療と報道倫理」
 『新聞研究』2007年2月号
 「公害、環境問題の原点であり、現在に至るまで日本の戦後ジャーナリズムの歴史に大きな位置を占める水俣病の問題は、写真家ユージン・スミスが撮影した一枚の胎児性水俣病の少女の写真によって、世界に知られることになった。目を見開く少女を抱きかかえて入浴する母の写真は、大きな力を持った。少女は亡くなった。だが写真は近年、母の申し出により、京都在住の写真家の元妻の手で封印され、もう人の目に触れることはない。水俣病の発見、治療に尽力した原田正純医師は、苦い思いを込めて、こう語っている。
 「我々は、胎児性患者の姿を先頭に、公害の悲惨さを告発してきた。だがいつかそのことが、こんな悲惨な人間を生んでしまったと、重度障害者は悲惨だ、と見なすことになってはいなかったか。後に発生した新潟水俣病で胎児性患者が少ないことは、中絶が多かったからではないか。写真を封印したお母さんは、この子は宝子だった、もう十分働いたといっていたB」。

◆立岩 真也 2008 『良い死』,筑摩書房 文献表

◆立岩 真也 2008/10/01 「争いと償い――身体の現代・4」,『みすず』50-10(2008-10 no.565):42-52 資料,

 「□害について
 身体を巡る社会について何を知り、何を考えて、何を言ったらよいのかを考えている。そこで、ほんのすこし、振り返ってみたいと思ったのは公害や薬害のことだ。それがこれまで書いてきたこととどのようにつながるのか。その説明は後でしよう。
 一九六〇年代から七〇年代頃のそれは、昨今の「地球環境問題」の受け止められ方とはまたいくらかは異なる感触とともに、多くの人たちにとって相当の意味をもつできごとであったはずである。ただ、それが「社会」について考えたり、やがてそれを仕事にするきっかけの一つになったとして、そのことはそのまま「環境」を自分の仕事の主題に選ぶことにはならない。例えば私には――宇井純が亡くなって、追悼の催しの冊子が出され、多くの人がそれに文章(講演要旨)を寄せているのだが、その中で吉岡斉が述べているように★01――例えば水俣病について、ことのよしあし、問題の構図自体はまったくはっきりしているように思えた。もちろん、きちんとした実証研究と社会運動が必要である。ただこの世には他にも様々が起こっており、水俣に関わる人たちは――たしかに数えれば少なくはあったのだが――いないでもなかった。私の知人にもそんな人がいた。それで私はそちらにおまかせということにして、別のことについて考えることになり、それは今後もそうだろうと思う。
 ただそれでも、何も思わないできたわけでなく、いくつか気になってきたことはあった。そしてこのしばらくの間に、何を知っているわけではない私であっても、またごく当たり前のことであっても、言っておいてよいことがあるように思えることがあった★02。そこで以下、一部は別に記したから省きながら、すこしのことを述べる。
 むろん、それにどのように「社会」が関わったのかはみなが知っていることである。害は、もちろん物理的、化学的な過程を経て身体に及ぼされるものなのだが、人・社会は、その害を起こさないことができたのにそれを起こした、止めることができたのに止めなかった。そのことを被害者は訴え、糾弾した。そしてその多くはまだ解決されていない状態にある。また争いはいったん決着したとして、その身体は残り続ける。それだけのこと、しかしそれだけで十分に重たいことだ。
 その上で、三つある。そのうちの二つは考えること、もう一つは、その二つともに関わって、知って確認しておきたいと思うことである。
 第一に、「害」のことをどのように言うのかという問題がある。社会を指弾するのであっても、技術による救済を求めるのであっても、害を与えられるのはよくない。よくないから批判し、謝罪を求め、問題の解決を求める。そして「私の体を返せ」と言う。その人たちの中に障害者との連帯を求め呼びかけた人がいたのだが、それは障害者を否定することだと言われてしまった。こんなことが幾度か起こってきた。新潟水俣病では胎児性の患者が出なかった。それを喜べるのかという反問があった。とくにチェルノブイリでの事故の後しばらく盛況だった原発反対運動で、障害児が生まれるから反対という反対の仕方がよいのかと思った人たちがいた★03。
 これらのことは知られている人には知られている。ただどれだけの範囲に知られているのだろう。だから語る人は繰り返し語らねばならないことになる。二〇〇五年の六月、原田正純は「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」の集会でもそのことを――その集会に合わせた話というよりは、水俣病に関わることごとの歴史の概説といった内容の話の中で――語った。彼はその会の代表にさせられてしまったのだ。その時に「阻止」の主張に賛同者を募ったのだが、そこには例えば宇井純も名を連ねている。
 そのことを不思議がる人がいるかもしれない。公害・環境破壊と連続して生起する科学技術批判、現代医療批判は、「自然」を肯定する。するとその批判は、医療という技術に支配されない「自然な死」を肯定してもよいのではないかというのである。実際、そのような流れも存在しないではない。例えば、イヴァン・イリイチの思想は、その時代に大きな影響を与えたのだが、その「脱病院化社会」の思想をそのように受け止める人、利用する人たちがいる。
 すると私たちはいったい何を肯定し何を否定するのか。その答は単純なもののはずだという予感はあるのだが、それでもいくらか考え、説明する必要があるように思える。それで、今度出してもらった『良い死』(立岩[2008a])の第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」でこのことについて、すこしのことを述べた。そこでは、ユージン・スミスが撮った有名な胎児性水俣病の子とその子の母親の写真が与えたもの、そしてそれが「封印」されることになった経緯などにもふれている。それでこの論点については、ここでは論じない。ただ、このような様々があるにはあったのに、忘れて、あるいは知らずに、なにか新しいこととして、昨今流行し出したテーマとして、こうした主題を論じようとするのは、あまり格好のよいとことではないように思う。これらで言われたことはたしかに、「脳神経倫理(ニューロエシックス)」や「エンハンスメント」といった最近流行りであるらしいテーマとまるで同じではない。しかし関係はしているはずなのだ。」

◆立岩 真也 2008/11/01 「争いと償い・2――身体の現代・5」,『みすず』50-11(2008-11 no.566):44-54 資料,

 「[…]同時に、この国に起こってきたことについて何かを言おうと思う時、あるいはそれを引き継いで考えようとするとき、難しいところもあると思う。簡単で明瞭で取り付く島がないように思われ、同時に、言葉が無力であるように思われる。
 学問はいくらかの複雑さを好むところがある。何十字かで言ってしまえそうなことがあるとして、そしてそこで言われることはたしかに正しいとして、しかしそうであれば、その一度だけ言えばよいということになる。そして、この数十年の間にこの国で言われたことで大切なことは、煎じ詰めればそういう単純なことであるようにも思えるのだ。
 つまり、一つ、ただ生きているのでよいことが言われたと思う。一つ、この社会で損な立場に置かれる人が損をし続けるのだ(それはよくない)と言われたと思う。私はどちらも正しいと思う。ただ、ならばこれ以上なにか言うことがあるのかということになる。
 もちろん、本当に何もなければそれはそれでよい。考える必要のないことを考える必要はないのだから。そして何がよく、何がよくないかがわかった上でするべきことはいくらもある。つまり実態を細かに調査し、具体的な問題を指摘し、そして改善を主張すればよい。
 例えば宇井純や原田正純がした仕事を、いま述べたように要約することはできる。というか本人たちの書き物に書いてあるのは、そんなこと、例えば「差別のあるところに公害が起こる」(原田[2007:123])といったことだ。十四字である。本人たちは、そのように認識し、そして人によっては半世紀を超えて、するべきことをしてきた。それでよい。ただ、なにかもうすこしそれに足して言えることがあるようにも思う。「学問」として成立している「環境倫理学」といったものであれば、それに言われることは複数の部品から成り立っていて、そしてどの部品を採用するかについて、受け取る人によったら瑣末でくだらないと思える延々とした議論を行なっていくことができる。そこに通用する文法があり、文法通りの言葉を発すれば、それは蓄積されていく。引き継がれている。そしてそうした営みを対象として記述することもそう難しいことではない。同様に私たちは、(バイオエシックスとしての)生命倫理学の歴史を語ることができる。他方はそうではない。例えば「水俣学」が提唱されもするのだが、それがどんなものなのか、私にはよくわからない。
 それでかまわないのだと考えることもできる。しかしやはり、言えることがあるようにも思える。結果として、また意図してのこととして、アカデミズムの外側に身を置いてきたもの、言葉の体系を構築していくことを意図せず、ときには言葉を発しないような営みでもあったものについて、どのように語るか。これはなかなかに難しく、はっきりした目算が立っているのではないが、いつか、考えてみたいと思う★04。」
「★04 生存学創成拠点が二〇〇八年に刊行した冊子に『時空から/へ――水俣/アフリカ…を語る栗原彬・稲場雅紀』(発行:立命館大学生存学研究センター、生存学研究センター報告2)がある。その前半には、特別公開企画「歴史のなかにおける問い――栗原彬先生に聞く」が収録されている。栗原の講演の後に私とコメントがあって、その中で私は同様のことを述べている。」

 *上掲『みすず』連載は2011年内に単行書化される予定。→『身体の現代・1』

◆立岩真也 2009/03/25 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 [amazon][kinokuniya]Kyoto Books ※ et. [English]

 「〔二〇〇五年〕六月の集会は「「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」発足集会」。これは、名称のとおり、このたびの法律制定に対して反対の立場を明確にした集会だった。
 四月の集会でも発言された清水昭美さんが中心になって呼びかけた、のだと思う。私もまた、呼びかけ人の一人ということになったのだが、これもまた、はなはだ確固としない腰の据わらない行ないとしてなされた。私は今でも、どんな場所・位置にいるのがよいのか、よくわからない。しかし、この法案がいらないと思っていることはたしかだから、まあよかろうと思った。集会の案内をホームページに載せ、賛同人を募集した。ほかにすこしメーリング・リストで広告したりもした。そして当日の昼東京に着くと、式次第そのものがよくわからないまま、次に発言する人にマイクを渡すというような役をなんとはなし務めることになった。
 集会は、最初は呼びかけ人、次に賛同者として名をつらねた人が次々に話をするというものだった――その幾つかについては次回に書こうと思う〔結局書けなかった〕。そして原田正純さんが講演した。またなんであっても「長」のつくものはいやだという原田さんはこの会の代表を引き受けてもくださった。
 ▽234 原田さんの講演の時、私はマイクをまわしたりする仕事を一休みできて、ぼうっと座っていた。講演そのものは、とくに安楽死・尊厳死についての話というわけではなく、水俣病に関わる基本的なことを、よく知らない人にも知ってもらおうというものだった。先日の〔二〇〇五年五月の〕日本保健医療社会学会の大会での話とも多くは共通するものだった。
 私はこの集会がどうやって終わるのかすこし心配しながら、原田さんの話を、失礼ながら、聞くともなしに聞いているうち、以前から気になっていた反公害と病者・障害者の生との間にある、あるいはあるように思える緊張、矛盾について、なにか考えようがあるような気がしてきた。
〔この後に続く部分を、『良い死』第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」4節「会ってしまうこと」1「告発との不整合?」の一部(一七〇―一七二頁)とした。「例えば水俣病の悲惨があったし、現在もある。[…]こんなことをどう考え継ぐか、そしてそれと「尊厳ある死」というものがどう関わるかである。」〕」(pp.233-234)

◆立岩真也 2015/07/01 「生の現代のために・4――連載 113」『現代思想』43-(2015-7):-

 「そして新潟県阿賀野川流域の人々に起きた第二水俣病(新潟水俣病)のことがある。このとき、胎児性の水俣病者はほとんど出なかったと言われる。中絶されたと言われる。そういうことでよかったきだろうかという疑問が、例えば生涯水俣病の人たちに関わった原田正純の著書・講演に出てくる。
 そしてたぶん一九九八年、「入浴する智子と母」という胎児性水俣病の子を抱く母を撮った有名なユージン・スミスの写真が、非公開とされることになったことを『良い死』(立岩[2008:227-230])に記した★06。ユージン・スミスは七八年に亡くなっており、アイリーン・スミスがそう決めたという。原田もこのことに関わることを記している。

 「水俣高校で社会科の先生がユージンの智子の写真を見せて「環境を汚染するとこのような子どもが生まれる」と解説した。在校していた妹は手を挙げて「それは姉です。姉をそんな風に言わないでください」と涙ながらに抗議した。」(原田[2007:350])

 二〇〇四年の『京都新聞』によれば、非公開にしたきっかけは九八年に父好男から「もう休ませてやりたい」と聞かされたことだったという。「写真がいたるところで使われ、ビラや広告の一部のような気がした。裸姿が痛々しかった。やっとうちに帰ってきたね、という思いですかね。智子は家族全員の毒を持って行ってくれた「宝子」です」と語ったという。その記事を書いた岡本晃明の文章(岡本[2007])も含め、より長く『良い死』に引用した★07。
 悲しいそして/あるいは醜い現実を知らせるために悲しいそして/あるいは醜い姿・現実を写真を撮り、それを見せる/見ることについてはいくらかの議論がある。後で紹介することがあるだろう。ただそれとともに、その姿は――もちろん悲しいとともに美しいということはあるわけだが、そのことをふまえても――そもそも悲しいのかという問いがある。そうしたことが問われている。」

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■原田正純氏追悼記事

◆20120611 訃報:原田正純さん死去77歳…水俣病研究の第一人者(毎日新聞 [外部リンク]http://mainichi.jp/select/news/20120612k0000m040088000c.html

 医師として水俣病患者の診療や公害問題の解決を訴え、水俣病研究の第一人者だった原田正純(はらだ・まさずみ)さんが11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で亡くなった。77歳だった。

 鹿児島県出身。鹿児島のラ・サール高、熊本大医学部を卒業し、熊本大大学院神経精神科教室へ入った。水俣病公式確認(1956年)から約5年後の61年、現地調査のため初めて熊本県水俣市を訪れ、母胎内で有機水銀を浴びた胎児性患者に接した。当時の医学で胎盤は化学物質を通さないとされていたが、症例を集めて62年、胎児性水俣病の存在を立証した。

 患者29世帯が原因企業チッソ(東京)に損害賠償を求めた水俣病1次訴訟の原告支援を目指した水俣病研究会に参加し、73年の原告勝訴判決(熊本地裁で確定)につなげた。72年、スウェーデンのストックホルムで開かれた第1回国連人間環境会議に胎児性患者らと乗り込み、公害被害を世界に伝えた。

◆20120612 原田正純氏が死去(新潟日報 [外部リンク]https://www.niigata-nippo.co.jp/world/main/2012061101002469.html

 胎児性水俣病など水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で死去した。77歳。鹿児島県出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。

 熊本大大学院に在籍していた1961年夏、初めて熊本県水俣市で被害者を診察、その悲惨な生活にショックを受けた。以後、一貫して水俣病研究に取り組んだ。

 64年、胎盤は毒物を通さないという当時の通説を覆し、胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し大きな衝撃を与え、日本精神神経学会賞を受賞した。

◆20120612 原田正純氏が死去 水俣病研究の第一人者(日本経済新聞 http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG12011_S2A610C1CC0000/

 水俣病研究の第一人者で、患者の支援に尽力した元熊本学園大教授の医師、原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市の自宅で死去した。77歳だった。連絡先は同大水俣学研究センター。お別れ会は14日正午から、熊本市東区月出8の1の5の玉泉院月出会館。喪主は妻、寿美子さん。

 鹿児島県出身。熊本大医学部の大学院生だった1961年に水俣病の研究を始めた。「胎盤は毒物を通さない」という当時の定説を覆し、母親の胎内で有機水銀中毒になる胎児性水俣病を確認。62年の胎児性患者の水俣病認定につなげた。

 患者らが起こした数多くの訴訟に原告側の証人として立つなど、支援活動にも尽力。患者の認定については複数の症状を組み合わせる国の基準を批判し、幅広く認定するよう主張した。カナダやアマゾンの水銀汚染など、世界各地の公害も精力的に調査してきた。

 熊本大助教授から熊本学園大に移り、水俣病問題を医学だけでなく社会や文化の領域にまで広げて包括的に研究する「水俣学」の講座を2002年に開講。05年には同大に水俣学研究センターを設立し、センター長を務めた。

◆20120612 原田正純さん死去 水俣病研究の第一人者(くまにちコム [外部リンク]http://kumanichi.com/news/local/main/20120612002.shtml

 水俣病事件に長く向き合い、水俣病研究の第一人者だった医師、原田正純(はらだ・まさずみ)さん=神経精神医学=が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で死去した。77歳。通夜、葬儀の日程は未定。

 熊本大医学部卒。1972年から同大助教授。99年から2010年まで熊本学園大教授を務めた。

 熊本大大学院生だった61年から水俣に通い続け、多くの水俣病患者を診察。ライフワークともなった胎児性水俣病の研究では日本精神神経学会賞を受賞した。水俣病訴訟の法廷では患者側に立った証言を続け、長年の臨床経験から構築した病像論を展開した。

 活動は海外にも及び、カナダやアマゾン川流域などの水銀汚染やアジアのヒ素中毒、ベトナムの枯れ葉剤の影響など世界各地の環境汚染の現場で調査を継続。三池炭鉱の炭じん爆発によるCO(一酸化炭素)中毒やカネミ油症事件など研究対象も多岐にわたった。熊本学園大では、水俣病事件を学際的にとらえる「水俣学」を提唱した。

 「水俣病」(岩波新書)や子ども向けの「水俣の赤い海」(フレーベル館)など著書多数。「水俣が映す世界」は大仏次郎賞、「水俣、もう一つのカルテ」は熊日文学賞。環境保護への貢献から、94年にUNEP(国連環境計画)のグローバル500賞、2001年に熊日賞。10年には「KYOTO地球環境の殿堂」入りが決まった。(石貫謹也)

◆20120612 医師の原田正純さん死去 水俣病研究の第一人者(朝日新聞デジタル [外部リンク]http://www.asahi.com/obituaries/update/0612/SEB201206110063.html

 水俣病研究の第一人者で、半世紀を超える研究や被害者の診療にあたり、有機水銀が胎盤を通じて子どもに伝わる胎児性水俣病を突き止めた元熊本学園大教授で医師の原田正純(はらだ・まさずみ)さんが11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため死去した。77歳だった。葬儀の日取り、喪主は未定。

 1934年生まれ、鹿児島県育ち。熊本大で医師免許を取った翌年の61年、熊本県水俣市で水俣病の調査を開始。「胎盤は毒物を通さない」という当時の常識を覆し、母親の胎内で有機水銀に侵されて起こる胎児性水俣病を突きとめた。

 周辺の不知火海一帯を歩いて診察し、被害の広がりの解明にも貢献。全国の水俣病裁判では、一貫して被害者の立場に寄り添って証言を続けた。

 また、戦後最悪の炭鉱事故で、458人の命が奪われた63年の三井三池炭鉱(福岡県大牟田市)の炭じん爆発では、一酸化炭素中毒患者を40年間追跡し、「後遺症はほぼない」とする教科書の誤りを正した。
 (無料記事はここまで)

◆20120612 原田正純さんのお別れ会、14日に熊本で(朝日新聞デジタル [外部リンク]http://www.asahi.com/obituaries/update/0612/SEB201206120008.html

 水俣病研究の第一人者として知られ、11日に77歳で死去した元熊本学園大教授で医師の原田正純さんの葬儀について、同大の水俣学研究センター長の花田昌宣教授(59)が12日記者会見し、発表した。通夜は近親者のみで行い、無宗教の「お別れ会」を14日正午から熊本市東区月出8の1の5の玉泉院月出会館で開く。喪主は妻寿美子(すみこ)さん。

◆20120612 水俣病研究 原田正純医師が死去(NHK NEWSWEB [外部リンク]http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120611/k10015760331000.html

 公害の原点と言われる「水俣病」研究の第一人者で、半世紀にわたって患者の診察を続けてきた医師の原田正純さんが、11日夜、急性骨髄性白血病のため、熊本市内の自宅で亡くなりました。
77歳でした。

 原田さんは、昭和9年、鹿児島県に生まれ、昭和34年に熊本大学医学部を卒業して医師となり、翌年から水俣病の研究に携わりました。
 患者の家を一軒一軒訪ねて診察し、昭和37年には、母親の胎内で有機水銀の影響を受けた胎児性の水俣病患者の存在を発表。
 水銀が母親の胎盤を通ることはないとされていた当時の世界の医学界の定説を覆しました。
 水俣に通うなかで目の当たりにした患者への差別や、補償が進まない現実から「水俣病は単なる病気ではない。企業と行政による犯罪行為であり、事件だ」と発言していました。
平成11年に熊本大学を助教授で退官後、熊本学園大学の教授に就任し、負の遺産としての公害を将来に生かすことを目的に「水俣学」を開講しました。
 去年から闘病生活をしていましたが、最近まで水俣に通い、胎児性患者の診察を続けるなど半世紀にわたって医師として水俣病に関わり続けました。

◆20120612 水俣病研究の第一人者、原田正純氏が死去(YOMIURI ONLINE [外部リンク]http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120612-OYT1T00009.htm

 「公害の原点」とされる水俣病研究の第一人者で、胎児性患者の存在を明らかにした元熊本学園大教授の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため死去した。77歳だった。

 鹿児島県出身。水俣病の公式確認から5年後の1961年に熊本県水俣市を訪れて以来、水俣病患者の診察や症状の研究に従事。熊本大講師、助教授を務め、研究グループの一員として患者の診断や聞き取りを行った。その過程で、母親の胎内でメチル水銀を摂取して生まれた胎児性患者の存在に気付き、胎盤は毒物を通さないという当時の定説を覆して62年の胎児性患者の水俣病認定へとつなげた。

 一方、多くの水俣病訴訟で患者側の証人に立ち、国や原因企業チッソの責任を追及してきた。2002年度には熊本学園大で「水俣学」を開講し、同大の水俣学研究センター長も務めた。

◆20120612 <原田正純さん死去>胎児性水俣病を確認…患者から学ぶ貫き(YAHOO! JAPAN ニュース [外部リンク]http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120612-00000000-mai-soci

 水銀汚染の恐ろしさを世界に知らしめ水俣病やカネミ油症患者の医療にも携わり、国内外の公害問題で活発な発言を続けた原田正純さん(77)。胎児性水俣病を確認して50年の節目の死に、関係者から惜しむ声が相次いだ。

【死去の一報】訃報:原田正純さん死去77歳…水俣病研究の第一人者

 4月23日に原田さんの自宅を訪ねたNPO法人「水俣フォーラム」(東京)の実川(じつかわ)悠太事務局長は「病床でも『患者さんを1人にしちゃいかん』と繰り返した」と振り返り「患者から学ぶ姿勢を貫き、それが差別され医療に対する信頼を失いつつあった患者の救いとなった」とその死を惜しんだ。

 約50年前、原田さんの診察を受けた水俣病胎児性患者の永本賢二さん(52)=熊本県水俣市=は「体が痛くてものすごくきつかったが、原田先生はいつも真剣に診察してくれた。先生が診てくれたから私たち胎児性患者の存在が認められた。ありがとうという言葉しかない」と語った。

 また、研究を共にした中地重晴・熊本学園大学教授(環境化学)は「本当にまじめな先生で公害被害者の立場に立ち、体制側に取り込まれないという信念を貫かれた。生き方を尊敬している。皆で先生の思いを継ぎ、被害者の救済につなげていきたい」と話した。

 公害研究を通じて約25年前から原田さんを知る津田敏秀・岡山大大学院教授(疫学)は「いろいろな患者団体や考えの人が参加した運動を『よかたい、よかたい』と言ってまとめる姿が印象的だった」と振り返った。

◆20120612 原田正純氏が死去 水俣病研究の第一人者(47NEWS [外部リンク]http://www.47news.jp/CN/201206/CN2012061101002469.html

 胎児性水俣病など水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で死去した。77歳。鹿児島県出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。

 熊本大大学院に在籍していた1961年夏、初めて熊本県水俣市で被害者を診察、その悲惨な生活にショックを受けた。以後、一貫して水俣病研究に取り組んだ。

 64年、胎盤は毒物を通さないという当時の通説を覆し、胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し大きな衝撃を与え、日本精神神経学会賞を受賞した。

◆20120612 原田正純さん死去:胎児性水俣病を確認…患者から学ぶ貫き(毎日jp [外部リンク]http://mainichi.jp/select/news/20120612k0000m040099000c.html

 水銀汚染の恐ろしさを世界に知らしめ水俣病やカネミ油症患者の医療にも携わり、国内外の公害問題で活発な発言を続けた原田正純さん(77)。胎児性水俣病を確認して50年の節目の死に、関係者から惜しむ声が相次いだ。

 4月23日に原田さんの自宅を訪ねたNPO法人「水俣フォーラム」(東京)の実川(じつかわ)悠太事務局長は「病床でも『患者さんを1人にしちゃいかん』と繰り返した」と振り返り「患者から学ぶ姿勢を貫き、それが差別され医療に対する信頼を失いつつあった患者の救いとなった」とその死を惜しんだ。

 約50年前、原田さんの診察を受けた水俣病胎児性患者の永本賢二さん(52)=熊本県水俣市=は「体が痛くてものすごくきつかったが、原田先生はいつも真剣に診察してくれた。先生が診てくれたから私たち胎児性患者の存在が認められた。ありがとうという言葉しかない」と語った。

 また、研究を共にした中地重晴・熊本学園大学教授(環境化学)は「本当にまじめな先生で公害被害者の立場に立ち、体制側に取り込まれないという信念を貫かれた。生き方を尊敬している。皆で先生の思いを継ぎ、被害者の救済につなげていきたい」と話した。

 公害研究を通じて約25年前から原田さんを知る津田敏秀・岡山大大学院教授(疫学)は「いろいろな患者団体や考えの人が参加した運動を『よかたい、よかたい』と言ってまとめる姿が印象的だった」と振り返った。

◆20120612 水俣病患者ら故原田さんを惜しむ(南日本新聞社 [外部リンク]http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=41102

 「公害の原点」とされる水俣病研究の第一人者である熊本市の医師、原田正純さん=さつま町出身=が11日深夜、77歳で亡くなった。胎児性水俣病の存在を突き止め、水銀汚染の恐ろしさを海外にも発信するなど、活動は医学の分野だけにとどまらず、「ノーモア・ミナマタ」の情熱は最後まで衰えなかった。訃報から一夜明けた12日、水俣病患者や研究者らは故人の死を惜しんだ。

◆20120612 水俣病研究の第一人者 原田正純氏死去 77歳(東京新聞 [外部リンク]http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012061202000091.html

 胎児性水俣病など水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師で熊本学園大水俣学研究センター顧問の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が十一日午後十時十二分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南七の自宅で死去した。七十七歳。鹿児島県出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。 

 熊本大大学院に在籍していた一九六一年夏、初めて熊本県水俣市で被害者を診察、その悲惨な生活にショックを受けた。以後、一貫して水俣病研究に取り組んだ。

 六四年、胎盤は毒物を通さないという当時の通説を覆し、胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し、大きな衝撃を与えた。六五年に同論文で日本精神神経学会賞を受賞した。

 一連の水俣病訴訟では患者側証人として出廷し、複数の症状の組み合わせを求める国の認定基準を批判し、より広く認定するよう訴えた。

 二〇〇二年には熊本学園大で「水俣学」講座を開講。〇五年、同大で「水俣学研究センター」を立ち上げセンター長に就任し、医学以外の視点からも水俣病研究を先導し続けた。

 著書も多く、「水俣病」(岩波書店)は英語、韓国語などに翻訳され、問題を世界に広く伝えた。「水俣が映す世界」(日本評論社)で大仏次郎賞を受賞した。

◆20120612 水俣病研究の原田正純氏が死去(nikkansports.com [外部リンク]http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20120612-965967.html

 胎児性水俣病など水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市の自宅で死去した。77歳。鹿児島県出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。

 胎盤は毒物を通さないということが通説だった1964年、母親の胎盤を経由し胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し、大きな衝撃を与えた。65年に日本精神神経学会賞を受賞。

 2002年には熊本学園大で「水俣学」講座を開講。05年、同大で「水俣学研究センター」を立ち上げてセンター長に就任し、医学以外の視点からも水俣病研究を先導し続けた。

 ブラジルや中国など海外にも出掛け、水俣病の疑いのある患者を発見した。「水俣病」など水俣病関連の著書も多い。(共同)

◆20120612 [つぶやき] 訃報:原田正純先生(Limnology 水から環境を考える [外部リンク]http://d.hatena.ne.jp/Limnology/20120612/p1

◆20120612 原田正純さん死去:「水俣の教訓、次世代へ」 最後まで意欲−−熊本学園大会見(毎日jp [外部リンク]http://mainichi.jp/area/news/20120612ddg041040006000c.html

 11日に77歳で死去した水俣病研究の第一人者の医師、原田正純さんが10年までセンター長を務めた熊本学園大水俣学研究センター(熊本市中央区)は12日、原田さんのお別れ会を14日正午から、熊本市東区月出8の1の5の玉泉院月出会館で行うと発表した。喪主は妻寿美子(すみこ)さん。現センター長の花田昌宣教授らが記者会見し、原田さんの功績をたたえ、死を悼んだ。

 同センターによると、お別れ会は原田さんの遺志で無宗教の自由葬で営まれるという。

 記者会見した花田教授は「原田先生は最後まで『水俣病の教訓を次世代、特に子供たちに伝えたい』と意欲を燃やしていた」と話し、原田さんが子供向けの内容の本など執筆活動も精力的に続けていたことを明かした。10年に血液のがんと診断されたが、最近は自身の意思で抗がん治療を受けず、輸血を受けながら自宅で静養していたという。

 花田教授によると、11日は夕方まで意識がはっきりしており、椅子に座って庭を眺めながら寿美子さん(68)に「庭がきれいね、ありがとう」と言葉をかけた。最期は寿美子さんや2人の娘、弟に看取られてベッドで息を引き取った。

◆20120612 原田正純氏・死去・・・77歳・・・・・我々は、もう絶対に忘れてはならない・・・・!!!!!(方木さんの日記 [外部リンク]http://d.hatena.ne.jp/houkisan/20120612/1339463032

◆20120612 水俣病と生きる 医師・原田正純の50年 ドキュメンタリー番組(siniaimacoco Hatena::Diary [外部リンク]http://d.hatena.ne.jp/siniaimacoco/20120612/1339480029

◆20120612 原田正純先生逝く(リタイアして想う [外部リンク]http://sorami108.blog.fc2.com/blog-entry-250.html

◆20120612 14日に故原田正純氏のお別れ会(@niftyニュース [外部リンク]http://news.nifty.com/cs/headline/detail/kyodo-2012061201001463/1.htm

 11日死去した水俣病研究の第一人者の医師、原田正純氏が顧問を務めていた熊本学園大水俣学研究センター(熊本市)は12日、原田氏のお別れ会を14日正午から熊本市東区月出8の1の5、玉泉院月出会館で執り行うと発表した。喪主は妻寿美子(すみこ)さん。同センターによると、原田氏は2010年に白血病を発症、今年春から体調が悪化して自宅療養を続けていたという。

◆20120612 原田正純さん死去=水俣病研究の第一人者 (時事通信社 [外部リンク]http://woman.infoseek.co.jp/news/society/story.html?q=120612jijiX456

 水俣病研究の第一人者で、元熊本学園大教授の医師原田正純(はらだ・まさずみ)さんが11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市の自宅で死去した。77歳だった。鹿児島県出身。葬儀の日程や喪主などは未定。

 1962年、胎盤は毒物を通さないという当時の定説を覆し、有機水銀が胎児に重大な障害を与えることを突き止め、「胎児性患者」の存在を明らかにした。以降、「公害の原点」と言われる水俣病の研究を半世紀にわたり続けた。

 34年鹿児島県生まれ。64年3月に熊本大大学院医学研究科を卒業し、同大助教授などを経て99年熊本学園大教授。「水俣病」「水俣が映す世界」など著書も多く、大仏次郎賞や吉川英治文化賞などを受賞した。 

◆20120612 原田正純氏が死去 / 水俣病研究の第一人者(佐賀新聞 [外部リンク]http://www.saga-s.co.jp/news/global/corenews.0.2222624.article.html

 胎児性水俣病など水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で死去した。77歳。鹿児島県出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。

 熊本大大学院に在籍していた1961年夏、初めて熊本県水俣市で被害者を診察、その悲惨な生活にショックを受けた。以後、一貫して水俣病研究に取り組んだ。

 64年、胎盤は毒物を通さないという当時の通説を覆し、胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し大きな衝撃を与え、日本精神神経学会賞を受賞した。

◆20120612 14日に故原田正純氏のお別れ会 水俣病研究の第一人者(岩手日報 [外部リンク]http://www.iwate-np.co.jp/newspack/cgi-bin/newspack_c.cgi?c_national_l+CO2012061201001462_1

 11日死去した水俣病研究の第一人者の医師、原田正純氏が顧問を務めていた熊本学園大水俣学研究センター(熊本市)は12日、原田氏のお別れ会を14日正午から熊本市東区月出8の1の5、玉泉院月出会館で執り行うと発表した。喪主は妻寿美子(すみこ)さん。

 同センターによると、原田氏は2010年に白血病を発症、今年春から体調が悪化して自宅療養を続けていたという。

 花田昌宣センター長は記者会見で「(原田氏は)弱者に寄り添って生きてきた人だった」と話した。

◆20120612 原田正純さんが逝去されました(一般財団法人水俣病センター相思社 原田正純さんと相思社職員弘津の思い出 [外部リンク]http://www.soshisha.org/jp/archives/853

◆20120612 原田正純さんインタビュー「水俣病患者とは誰か」(一般財団法人水俣病センター相思社 2011年2月にインタビューし、ごんずい120号に掲載したものを再掲 [外部リンク]http://www.soshisha.org/jp/archives/866

◆20120612 14日に故原田正純氏のお別れ会 水俣病研究の第一人者(中國新聞 [外部リンク]http://www.chugoku-np.co.jp/NewsPack/CO2012061201001462.html

 11日死去した水俣病研究の第一人者の医師、原田正純氏が顧問を務めていた熊本学園大水俣学研究センター(熊本市)は12日、原田氏のお別れ会を14日正午から熊本市東区月出8の1の5、玉泉院月出会館で執り行うと発表した。喪主は妻寿美子(すみこ)さん。

 同センターによると、原田氏は2010年に白血病を発症、今年春から体調が悪化して自宅療養を続けていたという。

 花田昌宣センター長は記者会見で「(原田氏は)弱者に寄り添って生きてきた人だった」と話した。

◆20120612 原田正純さんお疲れ様でした(隙だらけ 好きだらけ日記――映像 写真 文学 そして風景 [外部リンク]http://nagata-kozo.com/?p=8723

◆20120612 原田正純さん死去=水俣病研究の第一人者(時事ドットコム [外部リンク]http://www.jiji.com/jc/zc?k=201206/2012061200014

 水俣病研究の第一人者で、元熊本学園大教授の医師原田正純(はらだ・まさずみ)さんが11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で死去した。77歳だった。鹿児島県出身。葬儀の日程や喪主などは未定。
 1962年、胎盤は毒物を通さないという当時の定説を覆し、有機水銀が胎児に重大な障害を与えることを突き止め、「胎児性患者」の存在を明らかにした。以降、「公害の原点」と言われる水俣病の研究を半世紀にわたり続けた。
 34年鹿児島県生まれ。64年3月に熊本大大学院医学研究科を卒業し、同大助教授などを経て99年熊本学園大教授。「水俣病」「水俣が映す世界」など著書も多く、大仏次郎賞や吉川英治文化賞などを受賞した。

◆20120612 原田正純医師の訃報を知って。(花さんの「婆ぁのくせに・・・・」 [外部リンク]http://hanaco.tblog.jp/?eid=291509

◆20120612 原田正純氏が死去 水俣病研究の第一人者(山梨日日新聞web版 [外部リンク]https://www.sannichi.co.jp/kyodo/news2.php?genre=Main&newsitemid=2012061101002469

 胎児性水俣病など水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で死去した。77歳。鹿児島県出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。

 熊本大大学院に在籍していた1961年夏、初めて熊本県水俣市で被害者を診察、その悲惨な生活にショックを受けた。以後、一貫して水俣病研究に取り組んだ。

 64年、胎盤は毒物を通さないという当時の通説を覆し、胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し大きな衝撃を与え、日本精神神経学会賞を受賞した。

◆20120612 水俣病研究の第一人者、原田正純さん死去(YOMIURI ONLINE 九州発 [外部リンク]http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/national/20120612-OYS1T00191.htm

 「公害の原点」とされる水俣病研究の第一人者で、胎児性患者の存在を明らかにした元熊本学園大教授の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため死去した。77歳だった。自宅は熊本市東区長嶺南7の1の30。

 鹿児島県出身。水俣病の公式確認から5年後の1961年に熊本県水俣市を訪れて以来、水俣病患者の診察や症状の研究に従事。熊本大講師、助教授を務め、研究グループの一員として患者の診断や聞き取りを行った。その過程で、母親の胎内でメチル水銀を摂取して生まれた胎児性患者の存在に気付き、胎盤は毒物を通さないという当時の定説を覆して62年の胎児性患者の水俣病認定へとつなげた。

 一方、多くの水俣病訴訟で患者側の証人に立ち、国や原因企業チッソの責任を追及してきた。2002年度には熊本学園大で「水俣学」を開講し、同大の水俣学研究センター長も務めた。

◆20120612 原田正純氏が死去 水俣病研究の第一人者(my j:com [外部リンク]http://news.myjcom.jp/society/story/2012061101002470.html

 胎児性水俣病など水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で死去した。77歳。鹿児島県出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。1964年、胎盤は毒物を通さないという当時の通説を覆し、胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し、大きな衝撃を与えた。

◆20120612 原田正純氏が死去 水俣病研究の第一人者(山陽新聞 [外部リンク]http://www.sanyo.oni.co.jp/news_k/news/d/2012061101002469/

 胎児性水俣病など水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で死去した。77歳。鹿児島県出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。

 熊本大大学院に在籍していた1961年夏、初めて熊本県水俣市で被害者を診察、その悲惨な生活にショックを受けた。以後、一貫して水俣病研究に取り組んだ。

 64年、胎盤は毒物を通さないという当時の通説を覆し、胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し大きな衝撃を与え、日本精神神経学会賞を受賞した。

◆20120613 原田正純さん 水俣病問い続けた半世紀(西日本新聞 [外部リンク]http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/307417

 原田正純さんが亡くなった。77歳だった。水俣病と出合って半世紀、つねに患者に寄り添って、水俣病の診断と研究を続けた医師だった。

 その原田さんは、1972年に書いた初めての著書「水俣病」(岩波新書)をこんな言葉で結んでいる。

 「水俣病は決して終わってはいない。ここには、社会的にも医学的にも今から新しく手をつけなければならない問題がまだまだ山積みされている」

 40年後のいま、この言葉はそのまま水俣病を取り巻く状況でもある。現場主義を貫き、目の前で起きている被害を直視し続けた医師ならではの、本質を見抜く確かな目が、そこにある。

 「水俣に行かなくなり、患者を診察しなくなったら、私は私でなくなる」が、若いころからの口癖でもあった。

 水俣病の患者・家族たちが69年にチッソを相手に踏み切った第1次訴訟を支援するためにつくられた「水俣病研究会」を通じて知り合った石牟礼道子さんや宇井純氏らの姿に影響された、と本人から聞いたことを思い出す。

 石牟礼さんのような感動的な美しい文章は書けない。宇井氏のように膨大な資料を分析し、自らの理論を展開する知識や能力も持ち合わせていない。

 私にできることは患者の実態を通して「医学としての水俣病を語る」ことしかない。それを最期まで実践した医師であり、医学者だった。

 医学として「水俣病とは何か」を追い求めてきたことが、原田さんに企業と行政の無責任さ、加害者としての自覚のなさが、事件を引き起こし、被害を深刻にした根源であることを確信させた。

 それが、熊本学園大学での「水俣学」開講のきっかけにもなった。「水俣病は終わっていない」という思いが「歴史の負の遺産としての水俣病研究を次の時代に生かす」学問として実を結んだ。

 その意味では志半ばだったかもしれないが、原田さんがこの半世紀、語り続けてきた医学としての水俣病は、医学の領域を超えて水俣病事件の本質に迫るものとして、重く受け止めたい。

 水俣病公式確認から56年。現在も不知火海沿岸に居住歴のある人々が、水俣病救済特別措置法に基づく救済を申請している。その数は5万人を超え、7月末までの期限を前にしても申請者が続く。大部分は間違いなく水俣病被害者であり、救済されて当然の人たちである。

 しかし、原田さんには「生きているうちに救済を」という患者の痛切な思いを逆手に取って、行政と加害企業が再び一時金で、水俣病を終わらせようとしているようにしか見えなかったのだろう。

 亡くなる直前まで「水俣病とは何かという本質」を問い続けることをやめれば行政も企業も医学も水俣病の過ちを繰り返すことになる、と言い続けた。

 福島原発事故の対応にも当てはまる。原田さんの指摘をいまかみしめたい。

=2012/06/13付 西日本新聞朝刊=


◆20120613 原田正純さん死去で 作家・石牟礼道子さん証言 「穏やかな陽光のよう」(西日本新聞 [外部リンク]http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/307359

 「原田正純先生は誰に対しても優しく、楽しい人でした。先生の存在は穏やかな陽光のように、私の作品に投影しています」−。代表作「苦海浄土(くがいじょうど)」をはじめ、水俣を深いまなざしで表現し続けている作家石牟礼(いしむれ)道子さん(85)=熊本市=は、12日、長い交友のあった原田さんの死を悼んだ。2人は「水俣」を世に問うことで“戦友”だったように、記者には思われる。以下は、出会いからの記憶をたどった石牟礼さんの証言録である。

 初めて会ったのは、水俣病がまだ「奇病」と呼ばれていたころでした。最初、食中毒事件と言われていたので、熊本大の医師の先生方が原因を調べにおみえになった。その中に原田先生もおられた。まだ青年でしたが、胎児性の子どもたちがなついて、「先生、先生」と甘えていました。

 私は当時、役場にあった(奇病に関する)マル秘文書を読ませてもらっていた。患者が「おめき声を出して死んでいく」というような、すさまじい症状が書いてあった。私は、あまりのことに、(「奇病」について)書きとめておかずにおれなくなった。

 当時、亡くなった患者さんは(大学で)解剖されておられた。私はある程度書き進むうち、解剖を見たくなり、原田先生にそれをお願いした。幾つかの医学用語についてお尋ねもした。「そういうことを聞きに来た人は初めて」と言われた。

 私はそれを渡辺京二さんが出されていた「熊本風土記」に連載させてもらったら、原田先生が読んでおられて「医者の診断書より詳しく書いてある」と言われた。それで私はやや安心した。私はずっと、先生に読んでいただくのが喜びでした。

 先生は非常に開放的な方で、広い牧場に牛が放たれたように、人の心を伸びやかにし、遊ばせてくださいました。先生にかかれば気持ちが大変自由になる。そんなお人でした。寂しいですよね。

=2012/06/13付 西日本新聞朝刊=

◆20120613 原田正純氏死去 水俣病の教えは今も(東京新聞社説 [外部リンク]http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012061302000128.html

 原田正純さんは、いつも水俣病患者のそばにいた。患者に寄り添い、その暮らしから真実を読み取ろうと試みた。弱いから見えるものがある。原田さんが提唱した水俣学は、弱者に学べと訴える。

 水俣病とは、何だろう。水俣病研究の第一人者、原田正純さんの生涯をかけた問いだった。

 水俣病多発地帯、ミカン畑に囲まれた熊本県水俣市湯堂の集落を、原田さんは「わたしの原風景」と書いている。

 半世紀以上前、熊本大学の若き医師として、朽ちかけた貧しい患者の家を訪ね歩いた。診察を拒否する患者たち。水俣病と診断されて、風評被害に遭うのが怖い。大学病院の医師が診察を拒否されるなど、想像すらしなかった。

 しかし、原田さんは、その現実を直視した。

 「治らない病気を前にしたとき、先生たちに何ができるのですか」。患者からのこの厳しい問いかけに、真っすぐ向き合うことにした。

 水俣病の原因は、チッソという化学会社が、水俣湾に垂れ流した有機水銀だ。高度経済成長を牽引(けんいん)した、元は「国策企業」である。これらは疑う余地がない。しかし、水俣病の正体は、いまだ判明していない。政府と最高裁で病気の認定基準が違う。補償が膨らまないように、国が配慮しているようにも見える。

 水俣病はなぜ起きて、なぜ終わらないのか。

 原田さんは、自らを問い詰めた。本当は極めて社会的、政治的、経済的な“水俣事件”を医学に独占させたこと、医学に丸投げしたことが間違っていたと気が付いた。そして「専門家とは何か」という新たな問いにたどり着く。

 「専門家と素人」の壁を取り払い、水俣病にかかわり合ったさまざまな分野の人の話をみんなで聞きながら、私たちの生き方や社会のあり方を見直そう。そう考えて提唱されたのが「水俣学」だった。人々の健康を奪い、地域のきずなを引き裂いた水俣の悲劇を繰り返さないために。

 原田さんの願いは、かなえられたのか。私たちは今、原子力ムラに封印された科学に対する不信に揺れている。政府は原発再稼働へと急いでいる。

 福島で何が起こったか。水俣学の手法で検証してみたらどうだろう。情報を全面的に開示させ、私たち自身の暮らしに当てはめて、それぞれに考えよう。水俣学は、今に生きているのである。

◆20120613 「水俣学の遺志継ぐ」 原田正純さん、悼む声相次ぐ(朝日新聞デジタル [外部リンク]http://www.asahi.com/national/update/0612/TKY201206120358.html)

 11日に急性骨髄性白血病で亡くなった水俣病研究の第一人者、原田正純さん=元熊本学園大教授。77歳だった。「戦後最大の公害事件」と向き合ってきた医師の死を惜しむ声が各界から相次いだ。

 原田さんが医学的な助言をしたという石牟礼道子さんの著書「苦海浄土」。その作品を「世界文学全集」に編集した作家の池澤夏樹さん(66)は「『水俣』は終わっていない。もっと働いてもらいたかった」と残念がる。「病気を研究する中で、自然に被害者の立場に立ち、思想に裏付けられた科学者だった。結論をねじまげる科学者が多い中で、重大な仕事をした人」

 ノンフィクション作家の澤地久枝さん(81)は講演会や会合で原田さんと顔を合わせてきた。「大きな痛手です。勇気を持って告発され、あれほど丁寧に患者さんとお付き合いをされた方は他にいません」

 公害・環境問題に関わる人でつくる日本環境会議の代表理事だった原田さん。3月に松江市内で開かれた大会で、水俣病と福島第一原発事故を比較し、「放射能は海に出て薄まる」との専門家らの意見に怒った。「海で薄くなったものが食物連鎖で濃縮されたのが水俣の教訓ではないか」
 (無料記事はここまで)

◆20120613 [外部リンク]原田正純さんご逝去(togetter)

◆20120613 原田正純さん死去:県内からも悼む声 水俣病研究の第一人者 /新潟(毎日jp [外部リンク]http://mainichi.jp/area/niigata/news/20120613ddlk15040017000c.html

 水俣病研究の第一人者の医師、原田正純さんが11日、急性骨髄性白血病のため77歳で亡くなった。県内でも患者や関係者から悼む声が上がった。

 12日朝のラジオのニュースで逝去を知ったという新潟市東区の沼垂診療所の関川智子医師(70)は「患者の味方になってじっくりと話を聞く方。大きな存在がいなくなってしまった」と悲しみを語った。新潟水俣病2次訴訟の場で交流を深めた中村洋二郎弁護士は「現地に入って公害の原点を切り開いてくれた。2次訴訟でも原田先生の存在は大きかった」と話した。

 晩年も水俣病被害者救済特別措置法(特措法)の申請期限締め切りに反対していたという原田さんについて、新潟水俣病の未認定患者でつくる「阿賀野患者会」の山崎昭正会長(70)は「水俣病の第一人者だった。遺志を継いで特措法を締め切らないよう今後も活動していきたい」と力を込めた。【塚本恒】

◆20120613 原田正純さんが提起した問題(隙だらけ 好きだらけ日記――映像 写真 文学 そして風景 [外部リンク]http://nagata-kozo.com/?p=8729

◆20120613 原田正純医師追悼(京都新聞 凡語 [外部リンク]http://www.kyoto-np.co.jp/info/bongo/20120613_2.html

 母体を通じ有機水銀中毒になる胎児性水俣病患者の存在を明らかにした医師原田正純さんが亡くなった。若き日は京都府南丹市日吉町で鉱山マンガン中毒の診療もした▼水俣病の公式確認の6年後から、原田医師は汚染地域に指定されていない不知火(しらぬい)海沿岸の漁村を歩いた。だが漁民の拒絶にあった。手足が曲がり、しびれがあっても申請にも病院に行かない人たち▼水俣病患者が出たと言われると、魚が売れない、結婚ができなくなる。被害をできるだけ矮小化(わいしょうか)する国や企業との闘いと同時に、差別との闘いだった。天草諸島での水銀汚染の可能性をメディアで訴えると、地元の怒りを買った▼胎児性水俣病患者宅に通いつめ、信頼関係を築いた。「胎児に影響はない」という医学の常識が被害を拡大させ、累々と死者が出てから後に因果関係が証明されたことを背負っての歩みだった。静かな語り口を思い出す▼「重症患者の写真を掲げ、声高に公害反対を叫んできました。でもそれはいつか障害者は不幸だと、障害者の存在を否定することになっていないでしょうか」。7年前には、尊厳死法制化を阻止する会の代表になった▼言葉を発せず、食事も排泄にも介助がいる胎児性水俣病患者の生の輝きを、水俣で学んだ一番大切なことだと語った。そして「生きるべき命と生きられない命の区別はない」と。

◆20120613 「水俣学の遺志継ぐ」 原田正純さん、悼む声相次ぐ(わたしのブログ [外部リンク]http://plaza.rakuten.co.jp/zhu123/diary/201206130004

◆20120613 原田正純氏が死去 水俣病研究の第一人者(@SHIZUOKA [外部リンク]http://www.at-s.com/news/detail/100131887.html

 胎児性水俣病など水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため熊本市東区長嶺南7の1の30の自宅で死去した。77歳。鹿児島県出身。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。
 熊本大大学院に在籍していた1961年夏、初めて熊本県水俣市で被害者を診察、その悲惨な生活にショックを受けた。以後、一貫して水俣病研究に取り組んだ。
 64年、胎盤は毒物を通さないという当時の通説を覆し、胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し大きな衝撃を与え、日本精神神経学会賞を受賞した。

◆20120614 原田正純さんの人柄や功績しのぶ 「お別れ会」営まれる(asahi.com [外部リンク]http://www.asahi.com/national/update/0614/SEB201206140006.html

 水俣病研究や患者の支援に尽くし、11日に急性骨髄性白血病で亡くなった熊本市の医師原田正純さん(享年77)の「お別れ会」が14日、同市東区で営まれた。原田さんがその存在を立証し、半世紀にわたって交流を続けた胎児性水俣病患者の人たちや、患者の支援者らが集い、原田さんの人柄や功績に思いをはせた。

 会が始まる前、会場の入り口近くに原田さんのひつぎが開いた状態で置かれ、弔問に訪れた患者らが原田さんの顔を見つめたり、手を合わせたりして最後の別れをしていた。

 親交のあったジャーナリストの柳田邦男さんは「原田さんの存在が大きかったのは、人間性を重視することを全身で表現してきたから。患者が社会に置かれた立ち位置をしっかり見据え、差別が生じた日本のゆがみを構造的に捉えていた」と振り返った。

 患者家族が初めて補償を求めて訴えた水俣病第1次訴訟(1969〜73年)を理論面で支えるため、研究者や市民がつくった水俣病研究会に原田さんと参加した元チッソ労働者の山下善寛さん(71)は「亡くなる寸前まで患者のために尽くされた方。水俣病の問題は終わっておらず、まだ先生の力を借りたかった」。

 原田さんと共に潜在被害を明らかにする掘り起こしに取り組んだ患者運動のリーダー、故川本輝夫さんの長男愛一郎さん(54)は「先生の言った『患者に学ぶ』『現場から社会の病理に切り込む』が忘れられない。私たちの世代がそれを継いでいきたい」と話した。

◆20120614 「愛された人だった」故原田正純さん お別れ会に水俣病患者ら(西日本新聞 [外部リンク]http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/307641

 水俣病研究の第一人者で11日に77歳で亡くなった医師、原田正純さんのお別れ会が14日正午から、熊本市東区月出の斎場で営まれた。原田さんが診察に当たった水俣病患者や研究者仲間など全国各地から集まった大勢の人が別れを惜しんだ。

 原田さんは1961年、熊本大大学院時代に初めて水俣を訪れて以来、現場主義を貫き、水俣病患者の診察と研究を続けた。「毒物は胎盤を通過しない」という定説を覆し、胎児性水俣病患者の存在を世界で初めて明らかにした。

 会場には、原田さんが水俣で患者を診察する様子などを撮影した42枚の写真と、聴診器や帽子などの遺品が展示された。

 子どものころから原田さんの診察を受けていた水俣病被害者互助会の佐藤英樹会長(57)は「誰に対してもにこやかな笑顔で接し、みんなから愛される方だった。もっと長生きしてほしかった」と話した。

◆1300人参列し原田正純さん「お別れ会」 2012年06月14日 (くまにちコム [外部リンク]http://kumanichi.com/news/local/main/20120614005.shtml

 水俣病研究の第一人者で、11日亡くなった医師、原田正純さんのお別れ会が14日、熊本市の斎場であった。県内外の各界から約1300人が参列し、胎児性水俣病に光を当てた功績をたたえ、常に弱者に寄り添った優しさをしのんだ。

 喪主の妻寿美子さんは「もう一度水俣に行きたい。患者さんに会いたいと言っていた」と療養中の原田さんの言葉を紹介。作家の石牟礼道子さんは「会うたびに伸びやかな気持ちになった」と話し、手向けの詩を朗読。大阪市立大の宮本憲一名誉教授は「原田さんがいなければ、水俣病は権力の手で隠されたかもしれない」と弔辞を述べた。

 「患者に学ぶ」が持論だった原田さん。胎児性患者の坂本しのぶさん(水俣市)は「これから誰に相談したらいいのか分からない」と声を詰まらせた。胎児性患者の長女を亡くした1次訴訟原告の上村好男さん(同)は「今日は1次訴訟を提訴した日。天国で先生に声をかけてもらい、娘も笑っているでしょう」と話した。

 カネミ油症五島市の会事務局長の宿輪敏子さんは「水俣病もカネミ油症も救済が進むよう、天国で後押ししてください」と呼び掛けた。会場には、原田さんが生前繰り返し聴いていたポルトガルの民族音楽が流れ、参列客全員で献花。調査で訪れたカナダなど海外からの弔電も相次いだ。

 参列した水俣病患者の緒方正実さん(水俣市)は「『頑張れば正義が勝つんだから』という先生の言葉に救われ、行政と闘う覚悟を決めた」と振り返った。三池炭鉱の炭じん爆発でCO(一酸化炭素)中毒患者となった夫の看病を続ける清水栄子さん(荒尾市)は「何でも相談でき本当に頼りにしていた」。ノンフィクション作家の柳田邦男さんは「暮らしや社会に入り込んで、何をすべきか探った医師。本当のヒューマニストだった」と悼んだ。(石貫謹也、楠本佳奈子)

◆20120614 原田正純さんの偉業しのぶ…熊本でお別れ会(YOMIURI ONLINE [外部リンク]http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120614-OYT1T01085.htm

 水俣病研究の第一人者で11日に77歳で亡くなった元熊本学園大教授・原田正純さんのお別れ会が14日、熊本市内の葬儀場で開かれた。
 親交のあった胎児性患者や研究者ら多くの関係者が参列した。
 冒頭、喪主の妻、寿美子さん(68)が「一貫した信念を持ち、現場主義を貫き通した人だった」とあいさつした。医師として原田さんが昨年8月に行った「最後の水俣病検診」などの様子も上映された。
 作家の石牟礼道子さん(85)は遺影の前で、「原田先生のいない世界は考えられない」と語った。また、胎児性患者の坂本しのぶさん(55)は「本当にお世話になりました」と述べた。
 会場の一角には、原田さん愛用の聴診器やかばん、帽子のほか、診察や講演会の写真が展示され、参列者は被害者の支援にも尽力した故人の偉業をしのんだ。

◆20120615 原田正純さん(愛媛新聞社ONLINE [外部リンク]http://www.ehime-np.co.jp/rensai/chijiku/ren018201206150662.html

 ユージン・スミスの撮った「入浴する母子像」を覚えている人は多いだろう。胎児性水俣病患者の娘を抱いたお母さんが慈しむように湯船につかる写真。11日に亡くなった原田正純さんは、この娘上村智子さんの主治医だった
 水俣病の診察、研究、裁判。原田さんは「患者の声を聞きすぎる」と言われるほど一貫して被害者の側に立った。「水俣病は患者の中にしかない」と言いながら。胎児性水俣病の発見も母親たちの疑問の声が始まりだった
 当時、毒物は胎盤を通過しないのが医学常識。「しかし、先生。この子は魚を食べていないのです。私の食べた魚の水銀がこの子に移ったに違いなか」。母親の目に圧倒された原田さんは100のへその緒を調べ、有機水銀が胎盤から子供に伝わる事実を突き止める
 成長一辺倒の国家と企業が垂れ流した公害。それは世代を超えて人類の存続を脅かすという黙示でもあったのだが
 「あのとき、人が傷つき、狂い、死んでいるとき世論(国民)もまた、豊かさと便利さ(経済発展)を選択したのではなかったか」(「苦海浄土」石牟礼道子、講談社)―後に原田さんは苦しげに振り返った
 水俣病を鏡に、さまざまな社会現象から何が見えるか。原田さんは晩年「水俣学」を唱えた。3・11後の今、広がる格差や原発再稼働のでたらめ…。その鏡に映して考えるべきことは多い。

◆20120615 水俣病研究の第一人者 原田正純氏死去(MSN Japan産経ニュース [外部リンク]http://sankei.jp.msn.com/life/news/120612/art12061207280002-n1.htm

 水俣病研究に取り組み、患者の早期救済を訴えてきた医師の原田正純(はらだ・まさずみ)氏が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため死去した。77歳。自宅は熊本市東区長嶺南7の1の30。葬儀・告別式の日取り、喪主は未定。

 昭和39年、母親の胎盤を経由し胎児が有機水銀中毒になる胎児性水俣病を研究した論文を発表し、大きな衝撃を与えた。40年に日本精神神経学会賞を受賞。

 平成14年には熊本学園大で「水俣学」講座を開講。17年、同大で「水俣学研究センター」を立ち上げてセンター長に就任した。

 ブラジルや中国など海外にも出掛け、水俣病の疑いのある患者を発見した。

 著書も多く、「水俣病」(岩波書店)は英語、韓国語などに翻訳され、問題を世界に伝えた。「水俣が映す世界」(日本評論社)で大仏次郎賞を受賞した。

◆20120615 水俣病患者ら「先生ありがとう」 原田正純さんお別れ会(南日本新聞社 [外部リンク]http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=41146

 11日、77歳で亡くなった水俣病研究の第一人者で熊本市の医師原田正純さん=さつま町出身=のお別れ会が14日、同市の斎場で開かれた。水俣病被害者や研究者ら約1300人が参列、優しい面差しでほほ笑む遺影を前に、「先生ありがとう」と別れを惜しんだ。
 闘病生活を支えた喪主の妻寿美子さん(68)は。「現場主義を貫き、もう一度、水俣に行き、患者さんと会いたいと話していた。多くの人に支えられ幸せだった」とあいさつした。
 作家石牟礼道子さん(85)=熊本市=は50年来の親交を振り返り、「人はいかに生きるべきか、存在で教えてくれた」。原田さんにささげる詩「花を奉る」を朗読した。
 胎児性患者の坂本しのぶさん=水俣市=は「先生、本当にありがとう」と涙ながらに語り、胎児性患者の娘を亡くした上村好男さん=同=は「患者や家族の大きな支えだった。長い間ご苦労さまでした」とねぎらった。
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◆20120615 最近の各紙の原田正純先生の関連記事(バリアフリーデザイン研究会http://www.barrier-free.jp/の連絡版 [外部リンク]http://blog.goo.ne.jp/bariken0301/e/a967576ff9885f36cb903c799d2dd7e6


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水俣病  ◇病者障害者運動史研究  ◇WHO 
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