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『唯の生』表紙 立岩 真也 20090325 『唯の生』,筑摩書房,424p.
ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 \3360

□御注文→[amazon]gumroad経由1000円

目次
書評・紹介
文献表 (別ファイル)
索引 (別ファイル)
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■立岩 真也 20090325 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 3360 [amazon][kinokuniya] ※ et.

*『唯の生』の定価が3360円(税込)となりました。『良い死』2500円+送料実費、『唯の生』2700円+送料実費でお送りいたします。
*出版社販売終了&在庫なくなりました。テキストファイル版頒布することに(2014.07.30)。1000円です。→gumroad経由

■ 関連する催等

◆2009/03/29 安楽死・尊厳死法制化を阻止する会3.29シンポジウム 於:東京
◆2009/03/27 JUNKU大阪トークセッション・森岡正博×立岩真也「生死を決める、その手前で」

 *いずれの催でもお買い求めいただけます。

 
■目次



目次

第1章 人命の特別を言わず/言う cf.Singer, PeterKuhse, Helga加藤 秀一

1 新しいことは古いことと同じだから許されるという説
 1 伝統の破壊者という役
 2 既になされているからよいという話
2 α:意識・理性…
 1 α:意識・理性…
 2 それは脱人間中心主義的・脱種差別的な倫理ではない
 3 それは人の生命の特別を言わない
 4 ただそれが大切だと言っているがその理由は不明である
3 関係から
 1 〈誰か〉への呼びかけ
 2 関係主義の困難
 3 かつて親などというものはなかったかのように
4 別の境界β:世界・内部
 1 世界・内部
 2 人間/動物
 3 復唱

第2章 近い過去と現在

1 二〇〇五年・尊厳死法案 [2005.5]
 1 患者の意思による、について
 2 不治で末期に限る、について
 3 伝統ある動きであることについて
2 一九七八年版/二〇〇三年版 [2005.6]
 1 二つの法案
 2 太田典礼 cf.太田 典礼
 3 変容?

第3章 有限でもあるから控えることについて――その時代に起こったこと

1 その時代に起こったこと、のために
 1 はっきりした早くよくわからない変化
 2 短絡
2 一九八〇年代
 1 老人病院批判
 2 寝たきり老人のいない国
 3 もう一つの発見
 4 要約
3 確認
 1 なおす/とどまる:本人において
 2 なおす/とどめる:援助者他において
 3 寝たきり/自立
 4 控える本人と控えさせない家族という図
4「福祉のターミナルケア」
 1 「福祉のターミナルケア」
 2 集会/番組/国会
 3 批判した人たち
5 限られた場所への移行
 1 医療の経済
 2 結果、生ずること
 3 予め限られている福祉への移行
 4 結果、生ずること
6 大勢の形成
 1 調査
 2 「たんなる延命」
 3 苦痛 cf.苦痛
 4 票の差
 5 職業人たち
 6 家族/市民
 7 人間学
7 経済
 1 経済的でない人々の賛同
 2 無駄が無駄であることを承諾すること
 3 それを仕事とする人たち
 4 改革が節約になると言ってしまうこと
 5 保険として主張し実現されることの制約
 6 「後期高齢者」
 7 やはり基本をはっきりさせる

第4章 現在

1 二〇〇五年春・夏 [2005.11]
 1 復唱・他
 2 四月の集会
 3 六月の集会

2 二〇〇六年三月 [2006.3]
 1 集会と事件
 2 意識がない(とされる)場合のこと
 3 自分のこと

3 二〇〇六年夏 [2006.7]
 1 事件後
 2 詮ない仕事

4 倫理委員会で
 1 倫理委員会で・二〇〇七年一月 [2007.1]
 2 何を伝えるか
 3 倫理委員会で・二〇〇八年七月 [2008.7]

5 日誌
 1 二〇〇五年
 2 二〇〇六年
 3 二〇〇七年
 4 二〇〇八年

第5章 死の決定について [2000.10] 287-306 cf.小松 美彦

 1 書かれていないが前提されていること
 2 私・対・私たち、でなく
 3 決定を駆動するもの
 4 変更すること・言うこと

 [補] 小松美彦の本  [2004.08]

第6章 より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死 [2004.11] cf. 清水 哲郎

 1 積極的行為/消極的行為の区別は怪しい→賛成
 2 緩和のために死が早くなることは認める→賛成
 3 緩和のための死/死のための死の区別が有効である→反対
 4 生と生の間の選択と生と死の間の選択は違う
 5 まとめ

 [補] 近刊の教科書から [2005.07]
 [補] 書評:清水哲郎『医療現場に臨む哲学II――ことばに与る私たち』[2000.1]

第7章 『病いの哲学』について cf.小泉 義之『病いの哲学』

 1 何か言われたことがあったか
 2 死に淫する哲学
 3 病人の肯定という試み
 4 病人の連帯
 5 身体の力を知ること

 [補]死/生の本・2 [2004.11]

終わりに

索引

文献表

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■紹介・書評

◆2015/08/03 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/628179610061017088
 「https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1633299920270322「『唯の生』という題を思いついた時には「いいかも」と思った。「ただのせい」と読む。宇野邦一一に『<単なる生>の哲学』[…]という本があり、それが出た時、「先に使われたかな」という感があったのだが、まったく同じにはならずにすんだ。」

◆2015/07/08 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/618723339444465664
 「『唯の生』(立岩真也、2009)http://www.arsvi.com/ts/2009b1.htm 第7章『病いの哲学』について 1何か言われたことがあったか/2死に淫する哲学/3病人の肯定という試み/4病人の連帯/5身体の力を知ること。小泉義之『病いの哲学』http://www.arsvi.com/b2000/0604ky.htm」

◆2015/03/23 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/579839296191881216
 「質問もあったので。「『唯の生』という題を思いついた時には「いいかも」と思った。「ただのせい」と読む。宇野邦一に『<単なる生>の哲学』という本があり[…]「先に使われたかな」という感があったのだが、まったく同じにはならずにすんだ。」→http://www.arsvi.com/ts/20090005.htm

◆2015/02/09 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/562129792837746688
 「立岩真也 ?@ShinyaTateiwa 2日前にも知らせた『良い死』『唯の生』『生死の語り行ない・1』の続きの仕事〜「死/生の本・1増補――「身体の現代」計画補足・17」https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1553411651592483 … G・ゴーラー、フィリップ・アリエス、斎藤義彦の本紹介。(アフリカ日本協議会〜アフィリエイトのことも)」

 ……

◆2014/11/16 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/533930585958281216
 「立岩真也 ?@ShinyaTateiw 『唯の生』(立岩真也,2009)http://www.arsvi.com/ts/2009b1.htm  は現在テキストファイル・1000円で提供→https://gumroad.com/l/rIYT  第1章「人命の特別を言わず/言う」、第2章「近い過去と現在」、第3章「有限でもあるから控えることについて」

◆2014/11/15 https://twitter.com/ssaishu/status/533748054881361921
 「最首悟 ?@ssaishu ただの人について、皆でいじくるものの、よくわからない。「ただの人イエス」(柴田秀)はまじりっけがない、神人キリストとは峻別するまるごと人、という意味。「唯の生」(立岩真也)もわからない。「良き死」に続いて発行されたゆえ、死に比べれば論ずるところ少ないとも受け取れる。ただ、ただし。」

◆2014/10/15 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/522586301388701696
 「立岩真也 ?@ShinyaTateiwa 安楽死という名称が(創始者によれば)人聞きがわるいので「日本安楽死協会」から「日本尊厳死協会」と名を変えたその協会は、このたび自らは「尊厳死法」を主張していないのだと語り、名称をさらに変更することに→http://www.arsvi.com/d/et-nsk.htm  cf.立岩真也『唯の生』第2章」

◆2014/08/22 https://twitter.com/ShinyaTateiwa/status/522586301388701696
 「生存学研究センター ?@ritsumei_arsvi 唯の生』(2009)第7章「『病いの哲学』について」→小泉義之『病いの哲学』(2006、筑摩書房)  (4…今回) 人を引き合いに出すこと/ソクラテス/ハイデッガー… 【続きは下記でご覧下さい】 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1470774949856154 …」

……

◆2011/10/17 http://blog.m3.com/pheasant/20111017/1

◆2009/07/05 http://jiyuu-gennsou.at.webry.info/200907/article_4.html

◆2009/07/05 http://jiyuu-gennsou.at.webry.info/200907/article_6.html

◆伊藤 氏貴 2009/06/01 「書評:立岩真也 『唯の生』」,『文學界』2009-6
 http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E6%B0%8F%E8%B2%B4
 http://www.meiji.ac.jp/bungaku/teachingstaff/teacher_a/ito%20uji.html

◆2009/05/24 http://askatasuna.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_9331.html

◆2009/05/13 http://d.hatena.ne.jp/ogawa-s/20090513/p3

◆2009/05/12 http://archive.mag2.com/0000156149/20090512050000000.html

◆2009/05/10 http://jnetmore.blog50.fc2.com/blog-entry-325.html

◆2009/04/24 http://d.hatena.ne.jp/schizophrenic/20090424/1240537065

向井 承子 2009/05/10 「書評:立岩真也『唯の生』――生死めぐる難題に挑む」,『東京新聞』『中日新聞』2009-05-10
 http://www.tokyo-np.co.jp/book/shohyo/shohyo2009051002.html
 「生死めぐる難題に挑む
 ふつうに暮らしていてなにか変だと思うことが増えている。ことに、生死にかかわる人生の大事で、答えがみつからぬまま結論を制度に委ねようとする傾向も目立つ。
 そのむずかしさは、たとえば「としよりや病人は大切に」というのがあたりまえだったような、私たちの感性に組み込まれてきた文化の根本まで覆すところにある。  本書には、現代の生死をめぐる困難な課題がぎっしりと詰まる。決して論理的に居丈高に説き伏せようとするのではない。著者特有の螺旋(らせん)状に思考を積み重ねる文体を通して、読者はひとりの思想家が生死をめぐる混沌(こんとん)の地平に立ち竦(すく)む姿を見る思いとなる。それほどの難題が現代の生と死に立ちはだかる。
 たとえば、臓器移植法のいう脳死という概念。生きているように見えても法が定めれば死。だが動いている心臓を取り出すことへの違和感は残る。また「不治で末期」と診断されたら尊厳死を選べるための法制化の必要をいう人もいる。そう願う人もいるだろう。だが、そもそも「不治」や「末期」の診断は確かか、治療やケアは十分だったのか、技術や社会環境の吟味を求める人もいる。
 しばしば、高齢者には「過剰な医療」は不要と言われる。そういうこともあるだろう。だが、政治的に喧伝(けんでん)されるうちに、いつのまにか世間がそう思うようになり、やがて制度化され、老いるほどに医療が受けにくくなった歴史は現実である。
 一九八〇年代以降現在まで時代に登場した言葉が大量に採集され分析の対象となる。いま生死の境につきつけられる難題とは、生々しいほど具体的な現実が複雑に絡みあい編み出したものだった。膨大な作業の末に「これだけ言葉を重ねてきて…要するにどう考えるのかと問われるかもしれない」と記す。だが、読後、心に残るのは「生きることを否定する価値を信じる必要はないこと」との巻末の明言だった。」

◆2009/04/24 http://d.hatena.ne.jp/schizophrenic/20090424

◆2009/04/21 http://d.hatena.ne.jp/SugarCheap/20090421/p1

◆2009/04/17 http://d.hatena.ne.jp/al-ghad/20090417

◆2009/03/03 http://d.hatena.ne.jp/thigasikawabata/20090303/1236605454


■言及/著者による紹介・言及

◆2014/08/15 http://www.ritsumei-arsvi.org/

『唯の生』(2009)第7章「『病いの哲学』について」→小泉義之『病いの哲学』(2006、筑摩書房)
 冒頭部から引用(しばらく続けるつもり)→この本:http://www.arsvi.com/ts/2009b1.htm
 昨日の続き。すこし略([…])あり。註(今のところ)略。(立岩真也)

 「[…]「臨床人間学」でもよいし「臨床哲学」でもよいし、あるいは「全人的医療」でもよいし、なんでもよい、もうすこし「応用的」「実践的」な学・言説についても[…]人が既に知っていること以上のなにごとかが言えるようには思えない。にもかかわらず、とてもたくさんの量の言葉があり、多くの本が出ている。
 以前、一九九〇年頃、非常勤講師として東京都立川市の看護学校で「社会学」を担当していたことがある。教室の学生をあまり容易に寝つかせない方がよいかもしれないと思って、当時からずいぶんの数の本が出ていた「死生学」の本などもすこし見た。三鷹市立図書館等にもたくさん並んでいた。今はもっと多いだろう。また古本屋に行くと、そうした本たちはきわめて安価に買えたりもしたから、いくつかは買い、買い出すときりがないのではあるが、ある程度を集めた。すると背表紙に「死」の文字ばかりが並ぶ、きわめて不吉な本の列が書架にできることになった。そして本のリストを作った。飽きてしまったので収集はやめたが、ずっと更新を怠っているリストはホームページに載せたままになっている◆2。
 それらを読んでおもしろかったかと言えば、それほどおもしろくはなかった。それらの多くは「臨床」のために書かれているのであるから、床に就いているその人が、あるいはその人に、どのように対したらよいのかが書かれ▽345 ていることになっている。そして、その人たちにとって情勢は切迫しているのだろう。そして、周囲の者たちは死に臨んだその人を突き放さないことになっているはずだ。とすると何を言うか。やさしくしたらよいだろうし、苦痛をやわらげ、いささかでも快適にした方がよい。それはもちろんまったくそのとおりだ。そして、その人がなにかを語るのであれば、語ることをよく聞くのがよい。傍にいてほしいと思っているのなら、そうした方がよい。それもそのとおりだ。
 ただ、そうしたことなら、それはもう知っていることではないか。あるいは、すくなくとも一度聞けばよいことではないか。技術的に具体的なこと――これはこれで明らかに大切なことだ――のいくらかは別として、今までも行なってきたし、今でも行なえることではないか。その次に言うことはないのか。ほとんどないのだが、中味としては、さきに述べたことを薄めたようなことが言われたりする。まず、当人を突き放せないことがここでは前提になっているから、死ぬことなど考えるだけ無駄だといったものいいは少なくなる。しかし同時に、多くは宗教的なものへの抑制が効いてもいるから、「あの世」が積極的に持ち出されることもない。無常を説いたとしても、それが解決・解消される場所を提示することができないから、それを強調しても仕方がないということになる。
 私は、しばらく考えていても何も浮かばない。それで私は深く考えたりしない。何かを読んでも、何も加わることはなく、何も変わらず、そのままだ。誰にとってもそう事情は変わらないだろうと思う。しかし、現代において死は隠されている、語られないという枕詞を置いて、死にゆくことについて語る言葉が夥しくある。
 では社会科学はどうか。一つは記述する。とくに社会学――『生死本』で幾つかを紹介する――は、人を援助したりしないから、気楽なものだ。それにその学は、相手から距離をとること、冷ややかに見るのがよいことだと思っている。そのような場にいると、言われていることを集めて、その集まり具合や偏り具合を指摘してみることも仕事にはなる。事態に対して「搦め手」から行くのが常道だから、死を「めぐって」起こっていることごとを調べ▽346 てまわる。これはある程度おもしろい。そしてこの嫌味な作業をする人も、この社会に流通しているまるめ方まとめ方が違うのではないかと思って、それで収集の作業をしているふしがある。なぜ死を遠ざけたり、避けたりしてはならないのだろうか。実際に存在しているからだろうか。しかし、存在していても避けてよいこともある。あるいは、死に直面するということがどういうことなのか。納骨堂のされこうべを見ることは死に直面することなのか。人が死んでいくのを看取ることが死に直面するということか。こんなことを思って、それで言説を縁取ろうとする。ただこの営みにも限界はあるように思われる。つまりは何が気に食わないのか、迂回しないで、あるいは迂回を経た上で、それを言うことが求められることがある。
 もう一つ、それ以前から、例えば社会学にしても、今述べたようなひねくれた学だけであったわけではなく、人の役に立とうとする部分はあったし、また自らはそんなことを思ってなくても、役に立つことを期待されることがある。このごろは「臨床社会学」などと呼ばれるものもある。もちろん、そうした学が役に立つ場面は様々ある。しかしそれで病気がなおるわけではない。そして死ぬ人は死ぬ。その件について何かができるわけではない。もちろん、床にある人が話すことを聞いたりすることはできるし、そうして語ることがしかじかの理由で抑圧されてきたことを指摘することもできよう。そうしたことはまちがいなく大切である。しかし、やはり、それだったら言われなくとも、と思う。それで、その件で不平を言おうとするのだが、しかし、臨床社会学などやっている人も、その困難あるいは不可能性はわかっている。あるいはわかっていると言う。そして不平を言う側も、代わりの何かを提示できるわけではない。そんな具合になっている。そしてわざわざ「困難」に向き合う必要もないのだ。とすると、今の状況になにか不快である人はそれをどう言おうか、困ってしまう◆3。調べる前からわかっているようなことを調べてわかったなどと言わない方がよい。調査し研究するなら、もうすこし工夫が必要だ。このことは、このことまでは、確実に言える。その上で何を言ったらよいのかである。」

◆2014/08/14 http://www.ritsumei-arsvi.org/

 「『唯の生』(2009)第7章「『病いの哲学』について」→小泉義之『病いの哲学』(2006、筑摩書房)
 冒頭部から引用(しばらく続けるつもり)→この本:http://www.arsvi.com/ts/2009b1.htm
 (立岩真也)

 「1 何か言われたことがあったか
 小泉義之の『病いの哲学』([2006a])がちくま新書の一冊として刊行された◆1。『兵士デカルト』([1995])が最初の著書で、読んだことのない人は誰も思いつかないだろうが、今度の本に一番近いのはこの最初の本であるようにも思う。だから、この人は長いこと同じことを考えてきたのだと思う。
 書いてあることは二つである。「死に淫する哲学」を批判すること、これが一つ。もう一つは、「病いの哲学」あるいは「病人の哲学」を作り出そうとすること。長い本でないが、それでも分けて述べることにする。まず前者、「死に淫する哲学」について、むしろその手前の前置きを述べる。
 私は、死や病について、何か書けると思ったことがないし、実際、書けないし書いたことがない。誰か書けるなら書いてほしいとは思ってきた。しかし書かれているものを読んでも、とくに教えてもらえた気がしない。むしろ、結局はこんなところに落ちて、あるいは落ち着いてしまうのか、と思ってきた。ただ、その中のおかしなところについては何か言えるとは思ってきたし、そのことを書いてきた。ただ、批判は批判でよしとして、それ以上、何か積極的に言うことはなく、むしろ、よく言われていることをもっともと受け取るだけのことにしかならないようにも思ってきた。つまり、言われていることはだいたい予想できる範囲のことで、いくらかは批判できるが、しかしそうとしか言えないのだろうなとも思い、自らが別のことを言えるわけでもなく、その意味では積極的に批判でき▽343 るわけでもない。そんなところにずっといる。ただだからこそ、何かをより積極的に言うことができるというのなら、それを聞こうと思ってはきた。
 「病人の哲学」はそれかもしれない。ならばよろしく、ということになる。ただ、「死に淫する哲学」の批判は、まず批判し、次に、別様に語るという二つのうちの前者の仕事ということになる。
 西洋の哲学に限らないように思うのだが、哲学が死について語るとき、それは一つに、この世の無常、この世に存在する人とその営みの卑小を説いたりする。たしかに無常ではあるにちがいない。しかし、地下の納骨堂に並ぶされこうべを見せたり、あるいは女が死んで、その死体が腐乱し骨になっていく図を見せて、死を思わせ、神様の方に、あるいは浄土の方に勧誘するというのはどうなのだろう、と思う人は思うだろう。人の存在の有限性が言われ、そこから、なにかより価値のあるものにつなげられるのだが、そんなことでよいのだろうか。また、そうした死を思う(思わせる)あり方と比べて、現代人は死(を思うこと)を忘れていると語るのも、なにか違うのではないかと思える。(もちろん、そのようなことをまったく思わない人もいるのではあって、その人は現代人が薬物などで苦痛を回避することを嘆き、代わりに、断食などしてその苦痛のもとに死んでいくことを賞揚したりするのである。「どうぞ御自分は御随意に」、と言おうと思う。)
 もう一つ、他方には、もっと醒めたことを言う人たちもいる。それは、煎じ詰めれば、死は経験されるできごとではないのだから、死を恐れることもまた迷妄なのだといったことを言う。前段はそのとおりだとして、だから後段が言えるだろうか。前段はわかっている、わかっていても、わかった上で怖がったりしているのだ。その言説は、人を突き放しているようでしかし啓蒙的に働こうとする言説としてあるのだが、しかし実際にはあまり効かないようにも思う。
 ひどく通俗的にまとめると、そんなことになっているように思う。しかしもっと高級なものであるだろう哲学的▽344 言説はそれ以上の何かを言っているのだろうか。よくわからないという感じをいだいてはいた。そしてやっかいなのは、言われていることをそのままに肯定できないのだが、同時に、それらはなにかしらもっともなものではあるように思えるということだ。たしかに私は有限で卑小で無力な存在ではあろうと思い、信心があって死後の生が存在すると信じられるなら、確実に効果的だとも思う。しかし信心がなければだめだ。そして近頃の哲学は、死後の世界があるなどとは語らないことになっている。ならばいったい何を語ることがあるだろう。いくらか世俗化させて、命のつながり、であるとか、残された人の記憶の中に残ることであるとかが言われることはある。こうなると、世俗的に常識的な水準でも理解しうる話にはなる。しかし効能はその分薄れる。」」

◆立岩 真也 2014/08/01 「精神医療現代史へ・追記5――連載 102」『現代思想』41-(2014-8):-

 ……

◆立岩 真也 2009/03/25 「『現代思想』特集:ケアの未来――介護・労働・市場」(医療と社会ブックガイド・92),『看護教育』49-3(2009-3):-(医学書院),
◆立岩 真也 2009/05/25 「『唯の生』」(医療と社会ブックガイド・94),『看護教育』49-4(2009-4):-(医学書院),
◆立岩 真也 2009/07/25 「『良い死』『唯の生』続」(医療と社会ブックガイド・96),『看護教育』49-7(2009-7):-(医学書院),
◆立岩 真也 2010/05/01 「『税をなおす』の続き――連載 54」,『現代思想』38-5(2010-5):- 資料
◆立岩 真也 2010/08/16 『人間の条件――そんなものない』,理論社,よりみちパン!セ,392p. ISBN-10: 4652078552 ISBN-13: 978-4652078556 1500+ [amazon][kinokuniya] ※
◆立岩 真也 2010/12/01 「人間の特別?・1――唯の生の辺りに・8」,『月刊福祉』2010-12
◆立岩 真也 2011/01/01 「人間の特別?・2――唯の生の辺りに・9」,『月刊福祉』2011-1
 ……


UP:20080619 REV:20081226 20090129, 0305, 20, 25, 27, 20090525, 27, 20100415, 1004, 20111023, 20140713, 0815, 20150323
『良い死』  ◇安楽死・尊厳死  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa