石牟礼道子と社会調査
Ishimure Michiko and Social Research
立命館大学産業社会学部2018年度後期科目「質的調査論(SB)」
"Qualitative Research Methods (SB)" [The Second Semester of the 2018 academic year]
at College of Social Sciences, Ritsumeikan University.
授業期間[Class Term]:2018/10/02 - 2019/01/15(全15回[Total 15 lectures])
担当教員[Lecturer]:
村上 潔(
MURAKAMI Kiyoshi)
last update: 20190124
■授業日程
@2018年10月2日 A10月9日 B10月16日 C10月23日 D10月30日 E11月6日 F11月13日 G11月20日 H11月27日 I12月4日 J12月11日 K12月18日 L12月25日 M2019年1月8日 N1月15日
■授業の概要と方法
2018年度の本授業は、そのテーマを「石牟礼道子と社会調査」とする。石牟礼道子(1927-2018)は、稀代の文学者であるだけでなく、水俣/水俣病とのつながりを通して、社会調査・医療・アカデミズム・ジャーナリズム・社会運動・地域文化活動などの世界に多大な影響を及ぼした(参考Webページ:http://www.arsvi.com/w/im12.htm)。この授業ではその全貌のごく一部を確認していくことで、【1】石牟礼道子の存在・行動によって「社会調査」のありかたがいかに問われ・変質した(/しなかった)のか、【2】石牟礼道子を媒介にして、「社会調査(質的調査)」につらなる様々なジャンル・フィールドの人々がいかに越境しあい・かかわりあい・「状況」が動いていったのか、【3】いま社会調査(質的調査)について学び、これから何らかの調査に携わろうとする者たちは、それらのことが投げかける問いをいかに受け止め、何を学びとるべきなのか、を(その内容のダイナミズムをできるだけ失わないよう)把握することを目的とする。
■受講生の到達目標
@質的調査(社会調査)の「外側」にどのような(学術的/文化的/実践的)ジャンルが存在し、それらがどのように重なり合い/分け隔てられているのかを、的確に理解する。
A質的調査(社会調査)に影響を与える「状況」・「時代性」・「精神性」について、的確に理解する。
B質的調査(社会調査)自体がもつ本質的な「限界」について、的確に理解する。
C質的調査(社会調査)の「限界」を乗り越えるために、いかなる発想の転換が必要なのか、いかなるオルタナティヴな手法が効果的なのか、について自ら考えを深める。
D以上の過程を通して、質的調査(社会調査)のありかた自体を批判的に検証し、そのうえで自らの調査プランを明確にしていく視座を獲得する。
■講義内容
第1回:「授業の進めかたについて」[2018/10/02]
◇成績評価方法について
◇この授業に至る経緯
‐ 2017年度立命館大学産業社会学部後期科目「質的調査論(SB)」
‐ 2018年度立命館大学産業社会学部前期科目「質的調査論(SA)」
◇この授業で扱うこと/扱わないこと
◇講義の展開について
◇シラバス(の修正点)の確認
◇導入
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【授業開始にあたって教員から】
この授業は石牟礼道子“について”の授業ではない。作家論や文学論を講義するわけではない。あくまで、石牟礼道子という存在を軸/媒介に、社会調査、とりわけ質的調査(のありかた)について学ぶものである。したがって、石牟礼道子という人とその作品については、受講生各自で自主的に学んでほしい。幸い、京都には〈KARAIMO BOOKS〉(西陣)のような――石牟礼道子とその周辺のテーマについて学ぶにはこのうえない教材提供機関としての――場所もある。その自主的な学習に関連する取り組みにあたって、必要とあらば私=村上も(授業“外”の活動として)助力を惜しまないので、そうした依頼は随時歓迎する。
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◇石牟礼道子“と”(not“の”)社会調査
‐ “と”:距離・関係性
◇“石牟礼道子”と“社会調査”は:
(1)どうつながっていて――人や活動組織・共闘関係
(2)★どうつながっていないのか――そのことがなぜ(社会調査にとって)意味があるのか
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◆石牟礼道子 [1998] 2018 「波と樹の語ること」『現代思想』46-7(2018-05臨時増刊): 170-185
「私のテーマは、文学ではございますけれども、日本の近代というのが大層気にかかっておりまして、もっとも象徴的な水俣におりますけれども、大地と海辺が接して、呼吸しあっているようなところ、渚に生きている生き物たちと目線を接しながら、生きている人たちがどういうことを感じているのか、どんな喜び、どんな悲しみを持って生きているのか。それを、観念、概念の言葉で論評するように言ってみてもその実感が私自身、出てきませんので、なるべくこれをその内部から描写していくように考えてみたいと思ってまいりました。」(p.170)
◆岡和田晃 2018 「石牟礼道子という表現運動(ドキュメント)」『[文藝別冊]石牟礼道子――さよなら、不知火海の言魂』河出書房新社(pp.166-176)
「二〇一八年二月一〇日、石牟礼道子は長年苦しめられてきたパーキンソン病によって没したが、主要な文芸誌は軒並み追悼特集を組んだものの、その内容は石牟礼文学のアニミズム性に着目するあまり、水俣病が象徴する問題の現在性を後景化させた論旨のものが少なくなかった。つまり、水俣病は過去のもの、石牟礼文学は脱政治化する形で受容されているわけであり、それこそが谷川雁のみならず、評者もまた危惧している問題にほかならないだろう。」(p.170)
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◇石牟礼の言葉は、海の言葉であり、海の生き物の言葉であり、大地の言葉であり、大地に漂う命たちの言葉であり、かつ、水俣病患者の言葉でもある。
◇前近代性と近代性の相克そのもの
◇アカデミズムはそれをどう受けとめ(られ)るのか
‐ 受けとめ“る”:姿勢を示す→“られる”:可能性を探る
‐ 限界が大きいことは承知のうえで
第2回:「石牟礼道子の近代批判」[2018/10/09]
【はじめに】
◇評価/授業環境におけるアクセシビリティ
‐ セーファースペースの構築――自律性・協同性 cf.「もやい」/「もやい直し」
‐ 効率・生産性優先主義に対するオルタナティヴ/対抗実践
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◇石牟礼=近代の捉え返し・「告発」
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◇近代批判を(必然的に・正面から)受け入れ/展開する強固な土壌
‐ 1960年代後半〜1970年代前半
‐ 大学/芸術:「1968年」 cf. 五月革命
◇石牟礼道子を「理解」するということ
(1)外側から――水俣病問題への尽力/日本文学史における位置
:近代性:高校/大学の授業を通じて
(2)内側から――水俣の海・空・大地/悠久の時間/人ならざるものたちの世界
:非/反近代性:自らの心身を通じて
‐ 授業でできるのは(1)まで/のみ
◇石牟礼の近代批判
‐ 必然性・説得力
‐ 神話的・幻想的世界であるにもかかわらず/であるがゆえに現前するリアリズムとその凄み
◇その背景と前提――@原初体験
‐ 『あやとりの記』・『椿の海の記』など
‐ 自然・風土・伝承・神・歴史
‐ 交感・記憶(・幻視)
◇その背景と前提――A「近代」と対峙した先達たち【→次回】
◇【参考】
‐ 【引用】「石牟礼(いしむれ)道子さんが亡くなった。著書「苦海浄土」で水俣病患者の声をすくいあげてきた作家が告発したのは、公害や環境の破壊にとどまらない。私たちの社会に深く横たわる「近代」の価値そのものだった。」/「明治150年。近代国家の出発が為政者から勇ましく語られる時だからこそ、作家が生涯かけて突きつめた問題の深さと広がりを、改めて考えてみたい。」(「[社説]石牟礼さん 「近代」を問い続けて」2018年2月12日『朝日新聞』東京朝刊10面〔オピニオン〕」
第3回:「田中正造−谷中村−水俣」[2018/10/16]
◇田中正造と高群逸枝――石牟礼道子の大きな先達
‐ 【引用】「すこしもこなれない日本資本主義とやらをなんとなくのみくだす。わが下層細民たちの、心の底にある唄をのみくだす。それから、故郷を。|それらはごつごつ咽喉にひっかかる。それから、足尾鉱毒事件について調べだす。谷中村農民のひとり、ひとりの最期について思いをめぐらせる。それらをいっしょくたにして更に丸ごとのみこみ、それから……。|茫々として、わたくし自身が年月と化す。突如としてわたくしははじめて脱け出す。日本列島のよくみえるところへ。|しかしよく見えるはずはなかった。そこはさらに混迷の重なりあう東京だったから。“森の家”という森にいたのだ。女性史を樹立した高群逸枝さんの森の家に。」(石牟礼道子 2004 『[新装版]苦海浄土――わが水俣病』講談社 pp.299-300)
◇石牟礼道子にとっての田中正造
‐ 【引用】「私が正造のことを知ったのは、1960年代半ば頃でしょうか。[…]当時、私は水俣のことを書きたいと思っていて、日本で最初に公害問題と闘った人を知りたくて、生家のある佐野市や晩年を過ごした旧谷中村を一人で訪ねました。」/「私にとって田中正造は“思想上の父”です。」/「正造が亡くなってからの近代100年は日本が“毒死”に向かって進んだ年月だったと思います。」/「近代化で豊かになったと言いますが、決して豊かではありません。偽の、人工的につくられた、見せかけだけの繁栄です。そして、水俣は人柱にされました。」/「日本はいま、毒死に身もだえつつあります。しかし、野辺の花は咲いています。それは、何の罪もない人たちが生きているという希望です。100年の歳月を超えて、我々は正造の魂を受け継ぎ、生きていかなければならないのです。」(「インタビュー 水俣病を追求 石牟礼道子さん」『読売新聞(YOMIURI ONLINE)』2013年01月03日13時53分《伝える 正造魂》)
‐ 【引用】「1967年のある日、石牟礼道子さんは、栃木県の渡良瀬川(わたらせがわ)の最下流から足尾銅山へ足を運んだ。当時40歳。<せつに、田中正造じいさまに逢(あ)いたい。彼の魂に逢いたい>との思いから、熊本県水俣市から単身やって来た。」(米本浩二「不知火のほとりで――石牟礼道子の世界:50 転生」『毎日新聞』2016年9月25日西部朝刊)
‐ 【引用】「恵みの海とともにあった人々の質素だが穏やかな暮らしが、いかに奪われたか。成長を最優先し欲望をかきたてる政治、科学への信頼、繁栄に酔い、矛盾に目を向けぬ人々。それらが、何を破壊してしまったのか。|虐げられた人の声を聞き、記録することが、己の役割と考えた。控えめに、でも患者のかたわらで克明な観察を続けた。|運動を支えるなかで、国を信じて頼りたい気持ちと、その国に裏切られた絶望感とが同居する患者らの心情も、逃さずに文字にした。[…]|権力は真相を覆い隠し、民を翻弄(ほんろう)し、都合が悪くなると切り捨てる。そんな構図を、静かな言葉で明らかにした。|現場に身をおくと同時に、石牟礼さんが大切にしたのは歴史的な視点だ。公害の原点ともいうべき足尾鉱毒事件を調べ、問題の根を探った。|こうした射程の長い複眼的なまなざしが、さまざまな立場や意見が交錯し、一筋縄ではいかない水俣病問題の全体像を浮かびあがらせ、人間を直視する豊かな作品世界を作り上げた。」(「[社説]石牟礼さん 「近代」を問い続けて」2018年2月12日『朝日新聞』東京朝刊10面〔オピニオン〕」
‐ cf. ◆大鹿卓(解題:石牟礼道子) 1972 『谷中村事件――ある野人の記録・田中正造伝』新泉社(2009 新版)
◇田中と石牟礼の共通点
‐ 近代の「毒」に侵された空間(大地/山河/海)に執着し、そこに悠久の理想郷を見る/描く。(cf. “苦海”=“浄土”)
‐ 公害闘争
‐ 共同体との距離(内/外)
‐ 差別され・奪われ・打ち捨てられし者たち=「棄民」と共にあること
‐ 他者の受難・受苦を背負う cf.「悶え神」/「悶え加勢」
‐ 英雄化とその裏で隠蔽されていく本質的問題
◇社会調査と谷中村
‐ 1902年:内閣設置の第二次鉱毒調査委員会:貯水池設置の方針→谷中村強制買収→廃村→強制破壊
‐ ◆荒畑寒村 1907 『谷中村滅亡史』(1999 岩波文庫):記録文学の古典
◇調査者としての田中正造
‐ 詳細な現況調査――自らの足と目で
‐ ◆花崎皋平 2015 「共生とアイデンティティの思想」『アジア太平洋研究』40: 75-84
【引用】「今の時代に学ぶべき民衆思想家として、今日は、一人は田中正造、そして戦後の1960年代に、『苦海浄土』という水俣病についての記録作品から思想文芸活動を出発させた石牟礼道子の二人についてお話をしたいと思います。」(p.77)/「田中正造については今、日本のなかで研究者は少ないのです。研究される方は、衆議院での田中正造の活動、そして直訴に到り、そしてそのあと、谷中村が廃村にして、鉱毒水をためる遊水地にするために、谷中村の人たちを全員追い出すという事件が起こるまでの田中正造を論じています。しかし私はそのあとがとても大事だと思っております。|[…]田中正造は政
府の谷中村をつぶす活動に抵抗した人たちと生き方を共にします。最後に16戸が住まいの強制破壊に抵抗してとどまるのです。大雨のなか、その人たちといっしょにその場に座り込みます。そして、彼は、この谷中村の農民たちを見て「発明した」したといいます。[…]谷中村の人々から学ぶ。それまで彼は、この人たちを何とか教えて闘いに立ち上がらせようという指導者的な立場だったのですが、これ以後は、一番下層で粘り強く闘う人たちの仲間に入るということを心がけました。それ以後、被害民の若者たちを連れて、あるいは一人で、たくさんある渡良瀬川の支流を一筋一筋歩くのです。そして沿岸の人たちに、いつのときはどこまで水が来たか、あの洪水のときはどうだったか、ということを聞いてそれを記録に残してゆく。」(p.77)
◇「谷中学」から「水俣学」へ
‐ 「谷中学」(田中正造)→「水俣学」(2002〜:原田正純)
‐ 国家の権威的アカデミズムに対置/対峙する、自前の・現地の・草の根の・支配される(被害を受ける)側からの「学」。
‐ あらゆる角度のアプローチから、公害問題の「根源」(「近代化」・「開発」……)に迫る。
‐ ◆原田正純 2007 『豊かさと棄民たち――水俣学事始め』岩波書店(双書 時代のカルテ)
第4回:「高群逸枝と石牟礼道子」[2018/10/23]
◇前回との対比
‐ 田中正造:足・行動
×/=
‐ 高群逸枝:読・書:文献史料の蒐集・渉猟・読解・分析・主張
◇石牟礼の目指すモデルとしての高群
‐ 在野の研究者(日本女性史を打ち立てる)
‐ 近代アカデミズム(歴史学)の枠に収まらない射程のダイナミズム
‐ 家父長制×(<)原日本の婚姻・夫婦(・愛情)関係
‐ 近代を超えるために
‐ 時の国家の規範・支配的価値観との相克
‐ 調査・研究=信念=自身の生:不可分
◇石牟礼と高群の共通点
‐ 熊本:「中央」(東京)との距離
‐ 「主婦」として:当事者意識
‐ (村落)共同体への愛憎
‐ イデオロギー闘争や政治決着を超えた領野を見据えている
‐ 厳密な資料蒐集・調査をふまえつつ、客観的(科学的)な記録・分析にとどまらない表現へと向かう。
‐ 愛=精神性/神=超越性――と切り離せない世界
‐ 「巫女」・「魔女」・「天才詩人」
‐ 「詩」的/「物語」性:アカデミズムの外に置かれる
‐ 自然/環境/生業(農民/漁民)――に根差す
◇共通する課題
‐ 国家という枠の桎梏(:あるべき「日本」という原像)
◇石牟礼の目/情
‐ 「母なる」対象=高群への追慕
‐ 邂逅→衝動→追体験→描出
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◆石牟礼道子 20121030 『最後の人――詩人 高群逸枝』藤原書店
◆西川祐子 19820325 『森の家の巫女――高群逸枝』新潮社
◆鹿野政直・堀場清子編 20010116 『高群逸枝語録』岩波書店(岩波現代文庫)
◆栗原康 20180810 「高群逸枝(1894〜1964)――家庭をケトバセ!」栗原康編『狂い咲け、フリーダム――アナキズム・アンソロジー』筑摩書房(ちくま文庫),187-190.
第5回:「石牟礼による/なりの近代の超えかた」[2018/10/30]
◇高群逸枝と/の反近代
◇水俣(の自然・環境・人・状況)に引き付けて高群を感じ・論じる石牟礼
‐ 『苦海浄土』の原型は〈森の家〉で執筆
‐ 谷中村−熊本(水俣)−東京:時間と空間を越えてつながれる体系
‐ 高群を規定する石牟礼の言葉=石牟礼自身のありようを規定
◇高群の「母」・「血」・「詩」・「反近代」を継承した石牟礼なりの展開
‐ 最下辺の民に寄り添う「悶え神」として/詩人(たぐいまれな言葉をもつ者)として
‐ アカデミズムの外からアカデミズムを問う
「自然科学と人文科学、社会科学、すべての学問を統合総括するもうひとつ上の学問、たとえば人類学、とでも名づけうる学問が今後生まれねばならぬ。アカデミーの共同研究がそこまで行くであろうか。」(
『最後の人――詩人 高群逸枝』p.288)
◇石牟礼のとったアクション
@反近代(性)を表現する:『苦海浄土』
A近代性を抱き込む:学者との協同/調査団結成(高群との相違点)
◇近代科学の側の人々を「巻き込んだ」石牟礼の存在意義/役割
‐ 点(人)と点(人)を結びつけるハブ(HUB)としての石牟礼道子
‐ 問いを突きつけられた(と自覚する)アカデミズムの人間たち
‐ 被害の実態把握にとどまらず近代批判へと射程を広げる
‐ 「水俣病」の先にある「水俣」そのもの/全体へ
◇アカデミズムからの積極的な応答の土壌
‐ 「水俣病」に応答を迫られる近代アカデミズム(医学・自然科学・社会科学・人文科学)
‐ 東大医学部における闘争:近代医学/医療批判
cf.
第6回:「水俣と/の社会調査」[2018/11/06]
▼医師による調査
◇細川一[1901-1970]:チッソ水俣工場附属病院院長
‐ 水俣病「公式確認」:1956年5月1日(「水俣地方に類例のない神経患者が発生」)
‐ 1957〜:猫実験→1959/10:「猫400号」発症:原因確認(→チッソ:実験続行禁止)
cf. 1959/10:厚生省食品衛生調査会水俣食中毒部会答申(熊本大学医学部の研究成果から「有機水銀が原因」)→厚生大臣が部会解散
‐ 石牟礼道子への資料提供
‐ 1970/07:水俣病裁判で証人として臨床尋問:証言→患者側勝訴に寄与
◇原田正純(1961〜:水俣調査/1972『水俣病』)
▼化学者による調査
◇宇井純(1961〜:水俣調査/1964〜:合化労連機関紙『月刊合化』に連載→1968:『公害の政治学――水俣病を追って』)
▼写真家による調査
◇桑原史成(1962〜:水俣取材→1965:写真集『水俣病』)
◇ユージン・スミス(1971〜74:水俣取材/1975:『MINAMATA』(英語版)/1980:『水俣 MINAMATA』)
▼多ジャンルの人間たちが同時期に活動
私が患者宅を訪ねていくと、きまって後ろからそっとついてくる女性がいた。最初は、保健婦さんかと思っていたがそうではなさそうだった。家の入口で控えめに静かに立ち、それでいて彼女の優しい眼つきが印象的であった。後に知るのだが、この女性こそ水俣病の運動に大きな影響を与えた石牟礼道子さんその人であった。もう一人は、患者や家族たちが「学生さんのカメラマン」と呼ぶ青年だった。[…]彼がいまや押しも押されもせぬ報道写真家・桑原史成さんであった。[…]さらにもう一人、役所や大学で「いま東大の若い研究者がきて、資料をあれこれ漁っているが、何をするかわからない▽△から用心するように」と注意を受けたことがある。この若い研究者が故宇井純さんであった。彼は富田八郎[とんだやろう]のペンネームで、水俣病事件のことを合化労連の機関紙に掲載していた。これは、わが国初の貴重な水俣病事件記録である。この三人と私とはその当時はついにお互いに話す機会はなかった。しかし、分野は医学、文学、写真芸術、工学と異なっても、この事件の重大さを肌で感じ取っていたことに変わりはなかった。とにかく自分の眼でしっかりと見、何ができるかを模索していた点で共通していた。後には私にとってかけがえのない人たちとなり、大きな影響を与えてもくれたのである。┃(原田 2007: 68-69)
▼映像作家による調査
◇土本典昭(1965〜:水俣シリーズ:全17作)
▼民間研究組織による調査
◇1968/01:〈水俣病対策市民会議〉→1968/04:〈水俣病を告発する会〉→1969/09:〈水俣病研究会〉
◇1970/08:水俣病研究会『水俣病に対する企業の責任――チッソの不法行為』(研究報告書)
‐ 第1次訴訟勝訴に寄与
‐ 住民が専門知を得る実践
◇1972/05:水俣病研究会『認定制度への挑戦――水俣病にたいするチッソ・行政・医学の責任』(研究報告書)
‐ 認定制度の不備を明らかに
‐ 患者当事者の文章を掲載
▼地域問題としての調査
◇宮本憲一主宰:〈地域自治体問題研究会〉
‐1977:宮本憲一編『[講座 地域開発と自治体 2]公害都市の再生・水俣』筑摩書房
◇原田正純・藤野糺「現在の水俣病の問題点――とくに、社会医学的側面について」(宮本編 1977: 3-37)
‐ 認定制度の問題点を指摘
‐ 未認定患者が認定されるべき社会的根拠を提示
◇深井純一「水俣病問題の行政責任」(宮本編 1977: 98-188)
‐ 水俣病被害を防止・最小限化できた各種行政の責任を明らかに
▼総合調査
◇不知火海総合学術調査研究(1976〜1983):〈不知火海総合学術調査団〉
‐ 石牟礼道子の呼びかけにより色川大吉が結成
‐ 東京の研究者たちを水俣に呼び寄せる
‐ いまの水俣を「あらゆる学問の網の目にかけておかねばならない」(石牟礼 [1977] 2004: 174-175)という問題意識
━━━
◇「隠れ水俣病」の発見と問題化:現象・実態・要因・背景
◇水俣の全体像:企業と地域社会の歴史・風土/差別
◇その内外にあり調査を補強するもの:患者当事者たち自身の発信:川本輝夫・杉本栄子・緒方正人
◆森下直紀 20120310 「社会調査者はなにを見たか――水俣病被害の構造的理解を求めて」,天田城介・村上潔・山本崇記編『差異の繋争点――現代の差別を読み解く』,ハーベスト社,218-240[第9章]
- 社会調査が、水俣病による被害を、そして水俣病被害者をどのように捉えてきたのかを明らかにする試みは、これまでほとんどなされてこなかった。その理由として、上記の検診調査研究に比べ、水俣病であるとの診断を下すことのできない社会調査者の研究は、水俣病事件の解決に役立たないとみなされてきたことがあるのではないだろうか。しかし、検診調査をおこなった医師たちが、被害者の個々の身体的状況を明らかにしようと試みたように、被害の総体を明らかにするべく、被害者たちの歴史的・社会的・経済的な被害の実態を解明しようとした研究もまた欠くことのできないものであり、被害者たちが自己を見つめなおすための重要な手がかりになるとはいえないだろうか。┃(p.219)
- 被害の実態から国民の目をあざむき、いたずらに被害者を生み出し続けた産官の連携があった。さらに、政府とチッソの連携に加えて、水俣病の病像をきわめて限定的に解釈に、多くの被害者の生存権をおびやかした医学の存在があった。水俣病事件におけるこの産官学コンソーシアムが、この問題の解決を遅らせた主要因を提供してきたのである。┃(p.221)
- 水俣病の「公式確認」以降、この病の原因究明のための医学研究がさかんに展開された。しかし、奇病という事態に直面し認証研究を開始せざるを得なかった医学分野と異なり、人文・社会科学分野の研究は立ち遅れた。その決定的要因は、この問題の重大性を伝える情報が十分に媒介されなかったことにある。水俣出身の詩歌人の石牟礼道子は、1959年ごろから水俣病にかかわる詩歌を積極的に発表しはじめた。現在に至るまで、石牟礼は文学世界から水俣とかかわり続けている。┃(p.222)
- 当時の化学業界にとって水俣病などの公害被害を未然に防ぐことはできなかった。したがって、宇井〔純〕の水俣病への取り組みは、化学者としての宇井なりの責任の取り方に相違ない。┃(p.223)
- この〔1968年9月26日の〕政府見解を受けて、公害被害者たちは1969年6月14日にチッソに対して損害賠償請求を熊本地裁に提訴(水俣病第1次訴訟)した。この訴訟支援として「水俣病を告発する会」が結成された。1970年8月に刊行された『水俣病にたいする企業の責任――チッソの不法行為』(水俣病を告発する会)は、「水俣病を告発する運動の一翼をになう市民・労働者および研究者の有志からなる研究組織として1969年9月に発足した」水俣病研究会の最初の研究報告書である([…])。この書籍は、第1次訴訟を勝利に導くうえで重大な役割を果たしたが、それは同時に、宇井が示していた住民が専門知を得ようとする試みでもあった。┃(p.224)
- 初期の被害実態研究では、水俣病の被害プロセスの立証に重点が置かれた。そして、公害の健康被害の救済に関する特別措置法が1969年12月15日に定められると、被害者たちが「公式」に被害者として認められるかどうかという制度的問題が生起した。その結果、被害実態研究は被害者を一様に捉えることはできず、被害者を「認定水俣病患者」、「未認定患者」、「潜在患者」に分類し、後2者に対しての制度的救済を求めていく。┃(p.225)
- この書籍〔水俣病研究会『認定制度への挑戦――水俣病にたいするチッソ・行政・医学の責任』1972年5月〕には、水俣病被害当事者として川本輝夫および田中フジノによる文章が掲載された。公害被害者であるはずの当人や家族の受けてきた様々な差別の実態が、当事者の手によって明らかにされねばならなかったからである。┃(p.225)
- 被害者本人の手によるこの文章〔川本輝夫「認定への長く厳しい闘い」〕は、水俣病問題における被害者とチッソ関係者・市民の意識の差を示し、地域における被害者の抑圧的地位を明らかにしていたのである。┃(p.226)
- 水俣病の医学的問題、未認定問題などを一般に知らしめた最初の書籍は、原田正純の上梓した1972年の『水俣病』[…]であった。|この研究は、川本が暗に示していた「隠れ水俣病」という存在をはじめて公にした点が特筆されるものであるが、水俣病と診断を下すことのできる医師ならではの指摘でもあったのである。原田ら医師の検診調査によって、水俣病として「認定」を否定された人たち以外にも、水俣病の認定申請をおこなわない多くの人々が存在することが明らかにされた。┃(p.226)
- 「隠れ水俣病」は、水俣病像という医学の問題だけに還元できる問題ではなく、チッソが形成する地域社会、漁業者にとっての水俣病、水俣病患者の補償金へのねたみ、これらが形成する水俣病被害者への差別の表象として観察された。すなわち水俣病被害者には、「認定水俣病患者」、「未認定水俣病患者」、「潜在水俣病患者」、「隠れ水俣病者」/「隠され水俣病者」、が存在していることが確認されたのである。┃(p.227)
- 1970年の水俣病研究会の『認定制度への挑戦』は、「少しでも疑われる場合、水俣病と認定すべきである」と指摘いていたが、ここ〔原田正純・藤野糺「現在の水俣病の問題点――とくに、社会医学的側面について」1977年〕では水俣病の認定を棄却された被害者の社会環境を詳細に示すことで、「未認定患者」が水俣病として認められべき根拠を主張したものであった。┃(p.228)
- 宮本研究会〔宮本憲一主宰「地域自治体問題研究会」〕では、チッソとともに被害者の声なき声を抑圧してきた行政の責任についても検討が加えられた。深井純一による「水俣病問題の行政責任」の論考は、当時公開されていなかった多数の一次資料を詳細な文献調査と被害者支援者の協力によって発掘し、分析したものである。[…]深井は、公害法制の整備以前にあっても、水俣病被害の防止・最小限化に果たすべき各種行政の責任を明らかにしたのである。┃(p.229)
- 宮本研究会と入れ替わるように調査を開始した不知火海総合学術調査研究のそれまでの研究との差異は、水俣病被害の重層的な構図を不知火海沿岸地域の風土や文化といった歴史的文脈に求め、さらに、従来からのこの地域の伝統的社会をチッソはどのように変容させたのか、これらを明らかにした点にある。|1976年から83年まで継続したこの調査研究は、アメリカ合衆国において社会学を学んだ鶴見和子と哲学を専門とする市井三郎を中心とする「近代化論再検討研究会」のメンバーが中心となった。この研究会は、「欧米の近代化論の普遍性に疑問を抱き、それぞれが第三世界や日本の固有な発展の道を模索すること」[…]を課題としていた。┃(p.230)
- 不知火海総合学術調査団の結成を色川〔大吉〕に要請した石牟礼は、水俣病問題支援に初期からかかわり、1968年1月に「水俣病対策市民会議」を結成し、翌年4月に熊本市の知人・友人らと共に、「水俣病を告発する会」を結成、水俣病患者支援の中心的活動家となっていく[…]。水俣病被害の問題を、日本の近代化社会という大きな構図の中に求める向きは、宇井以降根強いものがあった。石牟礼もその一人として、東京を中心として活動する研究者を水俣に呼び寄せ、外在的な視点から水俣の問題を捉えることを望んでいた。┃(p.231)
- 色川が掲げた不知火海総合学術調査団の目的を達成するために求められた初期の課題として、調査の協力者をいかに得るか、があった。調査開始時点でこの課題に対応したのは、調査団の案内役を請け負った映像作家の土本典昭であった。┃(p.232)
- 土本にとって、巡回上映は水俣病問題を解決へと導くために、不知火海沿岸地域住民に水俣病の正しい知識を認識してもらうための社会運動であったが、同時に、巡回上映運動を通じて不知火海総合学術調査研究の予備調査をも担っていたのであった。┃(p.232)
- 『水俣の啓示』に取りまとめられた不知火海総合学術調査団の研究成果と、それ以前の研究成果の質的な差異は、水俣病事件を地域の伝統のなかで捉えようとしたことにある。例えば、先に紹介した宮本研究会における研究が、▽△チッソという近代工業社会を代表するような企業の地域への進出にその原因を一義的に求めた一方で、不知火海総合学術調査研究では、水俣病の被害を増大させた背景を不知火海沿岸地域の歴史的・社会的・経済的な状況の検討から得ようとしていた。┃(pp.232-233)
- 不知火海総合学術調査研究は、不知火海沿岸地域の抱える歴史的・経済的・社会的条件の検討により、「隠れ水俣病」が成立した背景にある状況を明らかにしたのである。┃(p.237)
- 「隠れ水俣病者」は単に公害被害者であるだけでなく、不知火海沿岸の地域的要因によって形成された被差別者でもあった。したがって、医師による集団検診調査によって発見された「隠れ水俣病者」の検証的探求そのものが、地域社会における差別を再生産する役割をも果たしていたのである。水俣病被害者にとって「研究被害」ともいえるこの結果は、調査対象者たちにいかなる貢献を成し得たのであろうか、あるいは彼らの経験に見合う社会変革的な提案をおこなっていたのであろうか。┃(p.237)
- 社会調査研究は不十分であること以前に、「水俣病患者をとりまく全体像」の解明という目的では、水俣病被害者の「人権の回復」に接続しないという可能性を検討しておかなければならない。水俣病史の現在がライフ・ヒストリー研究を中心とした「現場の知」の集積に力を注いでいる状況を踏まえれば、水俣病被害者の歴史的・社会的・経済的状況を明らかにするだけでなく、個々の被害者に内在する問題を集積する作業に解決の糸口を見出そうとする試みにそれは現れている。すなわち、水俣病事件の被害実態調査に関する諸研究は、水俣病史において、「現場の知」を集積するための研究手法を獲得していったといえるだろう。┃(p.238)
第7回:「不知火海総合学術調査研究(1)」[2018/11/13]
◇石牟礼道子の目的(思惑)
×
◇色川大吉らの反応(応答)
━━━
◆石牟礼道子 197707 「島へ――不知火海総合学術調査団への便り」『潮』218(1977-07): 168-179→20040810『妣たちの国――石牟礼道子詩歌文集』講談社(講談社文芸文庫),168-189
- やっぱり、遺言状というものは書いておかねばならん、と思うのでした。不知火海沿岸総合学術調査団というようなものを発足させる前に、それをしておかねば。|生きのびるのであれば、不知火海沿岸一帯の歴史と現在の、とり出しうる限りの復原図を、目に見える形にしておかねばならぬと、わたしは以前から考えはじめていました。せめてここ百年間をさかのぼり、生きていた地域の姿をまるまるそっくり、海の底のひだの奥から、山々の心音のひとつひとつにいたるまで、微生物から無生物といわれるものまで、前近代から近代まで、この沿岸一帯から抽出されうる、生物学、社会学、民俗学、海洋形態学、地誌学、歴史学、政治経済学、文化人類学等、あらゆる学問の網の目にかけて▽△おかねばならないのではないか。網の目にかけるということは、逆にまた、現地のひとびとの目の網に、学術調査なるものがかかるということでもあります。出来あがった立体的なサンプルは、わが列島のどの部分をも計れる目盛りになるでしょう[…]不知火海沿岸一帯そのものが、まだやきつけの仕上がらない、わが近代の陰画総体であり、居ながらにして、この国の精神文化の基層をなす最初の声が、聴き取る耳と心を待っているのではありますまいか。幾層にも幾色にも、多面的にも原理的にも、この中にある内部の声を聞くことが出来れば、それが尺度になりうるのではあるまいか。その中心軸にうごいている風土の情念こそ、この国の魂を養い育てて来たのだとわたしは思うのでした。みずからは形を持とうとはしなかったもののすべてが、ここには全部あるのではないかと。┃(pp.174-175)
- ほんの少し考えてみてもわたしどもは、[…]知的らしくなればなるほど人工的、技工的繊細さを外面にはつけて来て、表明されないやさしさというものを見失ってしまいました。みずからは語り出さぬものたちを、応答なしとかんちがいし、そこを通りすぎてしまったように思います。その結果、突然加乗されて見えはじめたのが▽△たとえば水俣なのですが。┃(pp.175-176)
- そのような状態を表現するには学問でなくとも、ひょっとして文学、あるいは深い芸術が生まれうるならば……、より望ましいのですが。┃(p.176)
- なぜいま総合学術調査という形のものが見たいかといえば、やはり離れて眺めてみなければ、自分らのいるところの鳥瞰図が見えにくいからです。ここにあるなつかしい生きた全資料、全ての生きている遺産は確実にほろびつつあるのですから。┃(p.176)
- わたしどもは、まったく好奇心の源泉といってもよいほどで、自分自身の自滅にすら、しんしんたる興味を持たずにはいられません。自分自身が、まだあらわされない学問的総合の序説であると知れば、わたしたちはたぶん慎ましくなることでしょう。学問と言いましても、表現の一形態でしょうから、わたしたちの背後にある一見無口な世界に、耳を近づければ、人類史の永遠を一瞬に表現するほどの賑わいに満ちています。人々のまなざしは予言そのもの、韻律そのものです。頽廃のかなしみにおいて。▽|△いつの頃からか、ここに偏在している目として耳として、あるいは嗅覚として、わたし自身もいるのかもしれません。同じ目たちや耳たちと共に。けれども、外在するまなざしたちがどこかになければ、球体の向こう側が視えて来ません。内側からと、外側からととらえなくては視えて来ません。これはなんという欲望だろうとわたしは悩みます。|たぶんわたしは、幾度目かの蘇生をしようとしているのかもしれません。水俣へというより、序説としての現代の中に。┃(pp.177-178)
- 潮の流れを見ているアコウの老樹のような気分です。風が吹くと、鬼角の方角に向かって、自分の髪が白く光り、流れようとするのを感じます。ばさり、ばさりと、葉のようなものが自分の枝から落ちてゆきます。初夏も来ようというのに。いよいよ「おもかさま」にちかづくのだな、とわたしは思いながら、不知火海総合学術調査だなんて、先生方には、しごくオーソドックスなことかもしれないけれども、わたしの側からいえばひょっとして、自分の狂気もこのように、立ち枯れてゆくのだなあと感ぜられるのです。この静止▽△した気持は。┃(pp.178-179)
- 潮のふくらみも透明度を増して、春と夏のあいだの、秘奥のようなこの季節に、先生方をお招きすることが出来ないのが残念です。ときじくのかくの木の実が、自分自身の芳香によってみごもる季節に。いらしていただける時期が、いつかはきっと訪れるでしょう。そのとき先生方は、御自分の季節をまたひとつ、お持ちになれるでしょう。┃(pp.181)
- もちろん、情況論的に、ここに停止している時間について解いてみることはできるのです。けれども運動なるものが、時計の振り子のような永久運動を常にはらんでいる以上、ここでわたし自身はその振り子を止めておき、無限の時間、ミクロの時間の奥行きの中にはいってゆかねばと思います。|じっさいわたしたちの時間は止まったままか、さかのぼる時間、そこから脱出できない時間になってしまったのですから、そこを入口としなければ“行き道”がわからないのではないかと思いはじめるのです。うつつの目には見え、うつつの耳にはきこえて、動きつづけている振り子の裏側の、時間と時間の間にひらいている、みえないほそい入口へ這入ってゆこうかと。|見えない暗幕をかきあげ、使者たちをそこから招じ入れたいと思います。使者たちとても学者さんなどという仮の姿でやって来て、不知火海にいる人びとと入れ替わりなさいます。▽|△漁師のおじいさんやおばあさん、死んだ人、若者や少女たち、山のあのひとたち、海のあのひとたち、川のあのひとたち、歴史の実存者たちと。まだ暖かみの残っている歴史の心音に掌をあてて、時間をゆっくりかけて巻きもどしてゆけば、ほろり、ほろりと、あのひとたちが出て来ます。l丁重に、丁重にあつかわねば、あのひとたちが苦しがるから。┃(pp.185-186)
- わたしには、せっぱつまって進退きわまれば、命とひきかえにしますから、神さま、これこれのことをさせて下さい、とまことに軽々しく安易に願かけをする習性があります。[…]神さまに脅迫がましい願かけをするのです。[…]|神さまだってご都合がおありだから、そうそうこちらの願いを聞いてばかりもいらっしゃれまいと支度をするところへ、不思議やこれまで、使者たちがあらわれるのでした。あの世の人たちの群となってあらわれたり、熊本の、水俣病を告発する会となってあらわれ▽△たり、狐の子になって来てくれたり、土の中に身籠っているみみずの声であったり、彼方の空から降ってくる雪の匂いであったりしました。|この度もまた、使者たちがあらわれて下さったなあと、瞬き見るような思いです。これはいつの時代の人びとなんだろうと。|不知火海総合学術調査団、なるべく世界感のある名称と、そのような内容だといいですね、ええほんとうにそうしましょう、最初のお願いのとき色川大吉先生におめにかかり、期せずして口から出たことばでした。それはたぶん羞かみから、自分の卑小さを表わそうとして言い合ったのだとおもいます。調査団なんて、わくを作ろうとしたとたん、それにはまりそうな滑稽さに照れておりました。┃(pp.188-189)
◇学術調査なるものを被調査者(現地の患者当事者たち)の目にさらす:検証にかける
◇固有の不知火海の姿→普遍化(時間的/空間的):システム(=精神文化の基層)の可視化
◇近代という(産業・経済による)「自滅」・「頽廃」の過程を自らの姿としてドキュメントする
◇もの言わぬ存在(人間以外の生物や自然環境)を無視してきた(結果、水俣病のような公害を引き起こした/止められなかった)学問への警鐘
◇外在性の導入:石牟礼を含む「中/内側」にしかいられない存在に視角を提供する
◇石牟礼自身の「蘇生」/「狂気」に連動した/させられたプロジェクト
◇学者たちを水俣の自然/時間の秩序の内側に組み込む
◇(近代文明に侵略されていく神話的世界という意味で)「止められた」ミクロの時間を遡行・深化
◇やってくる学者=神の使者:学者は仮の姿
◇学者の招来:不知火海に生きた無数の小さな「命」たちと引き替えに
◇「調査団」という(学者にとっては当然の)枠組みは初めから相対化されている
◇そもそも「学問」を近代科学(アカデミズム)として捉えていない
第8回:「不知火海総合学術調査研究(2)」[2018/11/20]
◆米本浩二 20151213 「不知火のほとりで:石牟礼道子の世界/37 歓待」『毎日新聞』西部朝刊25頁(文化面)
「 不知火海総合学術調査団は鶴見さんら近代化論再検討研究会のメンバーを軸に76年発足。役所などの後ろ盾がある公的組織ではなく、手弁当のボランティア集団である。76〜80年を第1期、81〜85年を第2期とし、合計10年間活動した。第1期のメンバーは団長の色川さんや鶴見さんら12人。成果は『水俣の啓示』(上下)にまとめている。
調査団は石牟礼さんの懇請に応えてできた。東京のチッソ本社前での約2年間の座り込みを終えた石牟礼さんに、闘争の第2ステージとして「学術調査が必要」との思いが芽生えた。75年11月には熊本県議の「ニセ患者発言」に抗議した水俣病患者らが逮捕される事件が起きた。加害企業と権力が結託した闇の深さにたじろぐわけにはいかない。道子は旧知の色川さんをチッソのヘドロ埋め立て地に連れて行く。なぜ調査団なのか。石牟礼さんの文章を引く。」
「 調査団は石牟礼家での出迎えなど地元の歓待に感激した一方、当惑もした。色川さんと鶴見さんは9日ぶりの帰京後、「道子さんらの期待が大きすぎて気が重い」「こうなっては後戻りできない」などと話し合っている。
石牟礼さんと鶴見さんは出迎えの日が初対面だった。26年後の02年に対談をし、「魂入(たましい)れ」の日を懐かしむ。「都会にいるとアニマ(魂)が飛んでいっちゃって、魂の脱け殻みたいだから、魂を一人一人ていねいに入れてやろうという儀式が石牟礼道子さん宅で行われた。手料理を一晩中いただいているうちに、道子さんが一人一人に魂を入れてくださった」(鶴見)。「魂を入れるなんて、そんなものものしいものじゃないんですよ。魂入れと、一種の枕詞(まくらことば)みたいにいうんですよ。しかしやっぱり気持ちはお互いに魂を入れなおしてやろうやという、ちょっとあらたまったような気持ちで申し上げるんですよ」(石牟礼)。調査団は毎年春と夏にそれぞれ10日間の合宿をした。石牟礼家での「魂入れ」は毎回欠かさず行われ、「一度も手を抜くことなく、そのもてなしを続けられた」(色川さん)。」
◆色川大吉編 19830310 『水俣の啓示――不知火海総合調査報告(上)』筑摩書房,426p.
▼色川大吉「総論――不知火海総合調査の経過と問題点」(pp.5-38)
- 私たちが一二人の調査団を組んで水俣入りをしたのは、一九七六年(昭和五一年)三月の末のことであった。不知火海はまだ春浅く、島々の岬の桜がようやくあかるみはじめたばかりであった。|私たちは現地の人々、患者さんや一部の住民、支援の人々から、「よくぞ来てくれた」と誠心誠意迎えられ、至れり尽くせりのもてなしをうけた。それもこの調査団の結成が石牟礼道子の懇請によるものだったからだと思う。┃(p.6)
- 不知火海の人々は多く律義で礼節厚く、魂の魅力にあふれていた。その感動が調査団員の心を年ごとに深くひたして、それぞれの学問の根底を洗い直してくれた。それが私たちにとって最も大きな収穫であったように思う。┃(p.6)
- この調査団は、不知火海沿岸住民の水俣病と近代化による被害の実態の総合的な学術調査をめざして、ひろく専門家をあつめて構成されたわが国ではめずらしい学際的なグループであった。┃(p.6)
- その団員たちの顔ぶれの多彩さと組み合わせの妙に驚かされる人もあろう。もともとこの調査団は八年間もつづいた「近代化論再検討研究会」をベースにして生まれた。アメリカで社会学を学んで帰った鶴見和子と哲学者市井三郎を中心とするこの会は、[…]学際的な小集団であった。|一九七二年(昭和四七年)、私は民俗学者桜井徳太郎と共にこの研究会に加わった。これらの人々は欧米の近代化論の普遍性に疑問を抱き、それぞれが第三世界や日本の固有な発展の道を模索することを共通の課題としていた。┃(p.7)
- ちょうどその年〔1975年〕の夏、熊本で「ニセ患者発言」による水俣病患者逮捕事件が起こり、石牟礼道子、日高六郎、宇井純、原田正純らが、忘れ去られようとしていた水俣の問題に識者の関心をよび起こし、この機会に本格的な総合調査を行なう必要のあることを呼びかけた。その長期を要する大がかりな総合調査団結成のアピールを受けとったとき、正直にいって私たちの気持が動いたわけではなかった。事実は、その年一九七五年(昭和五〇年)の一二月、私が水俣に行ったとき、石牟礼道子から直接に懇請をうけて、はじめて気持が動いたのである。|私は帰京後、近代化論研究会のメンバーにこの要請を伝え、共同研究のフィールドを水俣に設定しようと強く訴えた。[…]その結果、この会を基盤にして一九七六年(昭和五一年)の春に「不知火海総合学術調査団」を結成することになったのである。┃(p.8)
- 石牟礼道子のいう通り、私たちアメリカやソビエトや中国、古い日本などを研究してきた者は、遠いがゆえに水俣に呼びよせられた。私たちが最初に水俣入りしたとき、石牟礼を中心に現地の水俣病関係の主だった人がつどい、私たちを上座にあげ、魂入[たましいい]れの儀式をしてくださった。そのころ、私はその真意をはかりかね、これは民俗の作法にしたがった最高級の歓迎、一種の余興でもあるのかと思っていた。ところが日を経るにしたがい、これは容易ならぬ足入れ式であることが分かってきた。つまり、私たちは調査団を組んで海を渡り、水俣入りした瞬間から、それぞれの名を御柱に打ちつけられた“使徒”になっていたのである。|そのことを迂闊にも私はながい間分からずにきた。神さまに「使者」を派遣して下さいと願かけた人は、ひきかえに自分の命をさしだしていたということも、二年ほども気づかずにいた。そういえば私たちを常に手厚く迎えてくれた石牟礼家の人びとや患者さんの表情に、測りがたい敬虔なものがあったことに改めて気づくのである。┃(p.9)
- 三月末から五泊六日の最初の水俣合宿のうち、三晩は深更まで団員間の激論がくりかえさ▽△れた。「自分は主戦場たる専門の仕事を置いて、なんのためにここに来たのか」という言葉に対して「専門とはなにか」「なんのための学問研究か」という学問論をめぐる対立にまで議論は発展した。┃(pp.9-10)
- 当初、私は調査団を代表して、[…]記者団にたいして、次のような景気のよい抱負を発表していた。|「そもそもこの総合調査は、一般的に日本の近代化のひずみや公害の影響を一地域を選んで調べるという程度のものではない。戦後高度経済成長が水俣病を激化させて、不知火海沿岸の住民と環境をいかに激しく破壊したか、その経過と実態の全貌を総合的に調査する。そして、それぞれの因果関係と問題の所在を解明し、正確に記録し、その報告書を後世に残すと共に、広く人類に警告しようとする目的を持っている」等々と。|しかし、私たちが水俣や津奈木[つなぎ]で胎児性水俣病患者を病床に見舞ったり、鹿児島県出水[いずみ]の漁村部落に一人の水俣病認定患者の家を訪れたとき、その主人は補償金で家を新築したあと、不治の病苦と人生の索漠、世間の目に耐えかね、縊死[いし]した直後であった。私たちはそうした家々の内にこもる希望のない闇に打たれ、嗚咽する現実に直面して言葉を失った。その日から、私たちの間ではこの学術調査を、机上の近代主義者や御用学者たちにたいする挑戦であり、現代を根源から問いただす科学的実践であるなどという調子のよい声を発する者はいなくなった。┃(p.10)
- 「第一期のメド十年間。死ぬときは代わりの人を見つけて死んで下さい。」|石牟礼道子のその言葉に接してから団員たちの夢見は急に悪くなる。そのころ私たちを招いた人は、それを実現するためには百年も要する途方もない学問幻想をひそかに抱いていた。|[…]〔「生きのびるのであれば[…]精神文化のすべてを語りつづけているのではあるまいか」(石牟礼 [1977] 2004: 174-175)*若干文面が異なる〕|この言葉は私たち調査団への夢のような期待、できることなら果たしたい遙かなる理想を示している。しかも、その期待には不知火の風土の情念、この「くに」の文化の根の部分、民の心の奥を、内側からとらえてほしいとの願いがこめられていたのである。┃(p.11)
- 一九七七年(昭和五二年)、[…]そのころ私たちは『椿の海の記』を全員読んでいて、石牟礼道子の世界のイメージを知っており、氏が学問に、途方もないことを求めている“純真さ”に当惑していた。|そのようなことは私たちにはとうていできない。どんなにすぐれた学問をもってしても、旅人の目や一時滞在者の目で捉え得るものには限度がある。その土地の、その民の、最深の心意現象は、定住者に▽△しか感得することはできない。┃(pp.11-12)
- なるほど、外在者の目をもって、この世界の円周を見渡し、離れて比較し、眺めてはじめて分かる全体の鳥瞰図がある。水俣や不知火海が日本という列島の、歴史の、どこに位置しているのか、どんな問題性を象徴しているのか、見定めなくてはならぬ。それは理解できる。しかし、そのあと彼女が私たちに示した次のような忠告は、既成の学問の枠をこえて、まっすぐに民の心の深みに入ってゆく実験者を、私たちの中から呼び起こすものであった。┃(p.)
- 先生方よ、不知火海に生きている人、死んだ人、その人たちの、まだ暖かみの残っている歴史の心音に掌をあてて、時間をゆっくりかけて巻きもどして下さい。そうすれば、ほろり、ほろりと、あのひとたちが出てまいります。ただ丁重に、丁重にあつかわねば、あのひとたちが苦しがる。〔(石牟礼 [1977] 2004: 186)*若干文面が異なる〕┃(p.12)
- こうして私たちは年を経るごとに一歩、一歩、現地の人びとの世界のなかに入りこんでいったのである。┃(p.12)
- 「不知火海(汚染)総合学術調査団」という名称は私と石牟礼道子との話しあいの間にあらわれた。総合としたのは社会科学班と医学班と生物班があいついで結成されるものと考えたからであった。一九七六年(昭和五一年)三月、発足のとき、社会科学班は一二人の団員と事務局、それに土本典昭氏ら水先案内を買って出てくれた協力者によって構成されていた。医学班が原田正純をチーフとして自主的に活動を開始したのは、その夏からである。┃(p.13)
- 次に調査団の研究経過について報告したい。[…]私たちは原則として春と夏、現地調査を合宿形式で行なうことにし、一九七六年(昭和五一年)の春から一九八〇年(昭和五五年)の夏まで合計一〇回の水俣での調査を遂行した。その他に、個人で熊本および水俣に出張調査に行った例も多い。それらの成果は東京や熊本に持ちかえられ、ほとんど毎月開かれた定例研究会(四十余回)において発表され、討論された。なお、この定例研究会には多くのすぐれた研究者をゲストに招いて、専門の講義を拝聴し、水俣病問題についての理解を深めることができた。┃(p.14)
- その年〔1976年〕の一〇月、私たちはトヨタ財団の研究助成をうけられることになった。承認された研究題目は「不知火海環境汚染に関する学際的総合調査(近代化と水俣病問題による生活・自然環境の変化の追究)」であった。|右の研究題目をかかげて、一九七六年(昭和五一年)から七七年にかけての三度の現地調査を行なうことによって、私たちは次のような調査の基本方向とでもいうべきものを、ほぼ確定することができた。|まず、私たちは不知火海全域を視野にいれておく必要上、水俣から離島へゆく時は全員で行動することにした。[…]それも、現地住民に信頼の厚い、映画『不知火海』の監督土本典昭氏に案内してもらえたことは幸いであった。これによって水俣を起点とする不知火海の風土像を、それぞれイメージとしてつかむことができたと共に、地味、地勢、集落配置、経済環境、産業立地、汚染の範囲、潮汐の方向なども頭に入れることができた。これは各班の個別調査の共通の基盤になったものと思う。┃(p.15)
- 社会学班は三通りのアプローチの道をとっている。宗像巌は宗教社会学の立場から水俣病患者多発地区の茂道[もどう]部落に調査の焦点を定め、「部落共同体の崩壊と再生」のテーマに取り組んだ。とくに漁村住民の“共同主観”の型という新しい概念枠組を使って、「人々の心の世界にまで入って記録してゆくこと」をはじめた。鶴見和子は、同じ多発部落を選びながらも患者多発部落の三モデル地区を“定住と漂泊”という観点から悉皆調査することになった。日高六郎は水俣病が高汚染地区の小学生や中学生にどのような影響をあたえているかを、現場の教師たちの研究チームと協力して解明する仕事に着手した。┃(p.16)
- 調査団内部では最初の春の水俣合宿いらい、はげしい議論がつづいていた。それは水俣の現実があまりに衝撃的で、一人ひとりが居てもたってもいられない焦だちを感じていたからでもあった。それに、グループ内には水俣病とは無縁の分野を専門にしている人が少なくなかった。その人々は訴えていた。「自分の専門としている分野で後れをとることが心配だ。自分にはやらなければならない仕事が山程あるのに」と。それに対して、「水俣のような所でやることこそ真の学問ではないか。五年や一〇年、自分の研究を中止してでも取組んでみる価値がここにはある」という意見とがぶつかりあっていた。菊地昌典は、「不知火海総合学術調査団に参加して――水俣と私」(『東京新聞』一九七七年一月一九日)という小文の中で、このときのことを次のように記している。┃(p.17)
- 水俣には、「近代化の罪悪に、素手であらがっている姿、『進歩』に陶酔する人々が忘却している『進歩』の犠牲者、鋭い『進歩』の告発者の姿が、そこにはあった。気の遠くなるような永い年月、孤立無援の反乱と、死を賭けた異議申立ての姿勢の持続は、現代における最も貴重な生き方の典型である。率直にいって、私は大変な仕事にかかわり合うことになったという気を、今でも完全に払拭することはできない」〔菊地〕と。┃(p.18)
- 第二年度あたりからグループ間の論争は、方法論上の相互批判にと転換していった。なかでも宗像巌の問題提起は重要であった。それは患者や住民にたいする面接態度の変更を私たちに求める性質のものであった。宗像はこういっている。|「水俣世界の真実像を理解するためには、自ら直接、この世界の深奥にかくれている精神の鼓動に触れて、その意味をできるかぎり共感的に理解することに努めなければならない」と。だが、そのような試みは、当初、わが調査団員がほとんど不可能に近いとしていたことであった。その土地の定住者でもない外部観察者が、どうして住民の心意現象の深みを理解することができようか、と。┃(p.18)
- 考えつめたあげく、「水俣漁民の生活世界の基底にある暗黙の世界観(住民の潜在的な共同主観)」に参入すべく、対象地を一箇所にしぼり、集団調査を徹底的に避けて(三年目からは水俣行きの時期までずらした)、宗像は孤独な個別傾聴式の聞きとりに沈潜していったのである。|茂道部落に何十回となく執拗に足をはこぶ真摯な宗像の姿は、住民の目からさえ奇異に見えるほどであった。しかし、やがてその誠意は通じ、人々は胸を開いて、意識の底にあるものを啓示しはじめる。┃(p.19)
- 本書の宗像論文において、それは「三層構造世界観」の自然関係層、人間関係層、交換関係層として、はっきりと理論化された。水俣多発〔ママ〕部落のうちでも最激甚被害地といえる茂道部落において、なぜ住民がいまだに強い復元力を維持しているのか。また、あれほどのむごい痛苦や破壊をうけながら、この部落の人々の基層意識が不変であるように見えるのはなぜか。その原因を宗像はこの三層構造世界観のダ▽△イナミズムで解析してみせたのである。┃(pp.19-20)
- 「チッソなくして水俣なし」という神話を分析しながら、石田〔雄〕は水俣病事件史において水俣市政が果たした否定的な役割を、そのさまざまの官製「市民運動」や市の広報の歴史的分析を通してはっきりと浮かび上らせた。[…]水俣市がこれまで全体としてとってきた「水俣病かくし、チッソ擁護、水俣病忘れ」のイデオロギーは、これらの行政機構〔住民管理の仕組みとしての上意下達的制度〕によって下部に浸透され、全市をおおう漠とした同調性をうみだし、「差別の無限の連鎖を見えにくくしている」と批判したのである。┃(p.21)
- 一九八〇年(昭和五五年)六月、大学セミナーハウスでの合宿で、小島麗逸は宗像報告を批判してこういっている。「水俣病闘争によって何がもたらされたか。それは宗像さんが期待されている方向とは違う。大勢はやっぱりヨーロッパ近代がつくりだした方向にむかって滔々と流れている。地域の自立的な自給部分をどんどん消滅させ、『近代』へ『近代』へと向かっていったではないか。しかも、それは今や社会の底辺にまで貫徹しているのだ。私の調べたかぎり、水俣病発生はその基本的方向を促進したにすぎない。[…]▽△[…]共同体の再生という方向ではなく、『近代』をますます進行させてゆく方向に、水俣病闘争の結果も(補償金などをふくめ)寄与したのではなかったのか」と。┃(pp.23-24)
- “再生の芽”論争の主役は鶴見和子である。なぜなら鶴見は当初から「内発的発展」のテーマをかかげていたからである。[…]やはりここでも個別の聞きとり調査こそが、「漂泊と定住」という概念を新しく創りかえさせる要因となった。▽|△鶴見和子は五年間水俣に通いつづけ、「こちらが何年のつきあいであるかによって、相手の見え方が変わってくる」「水俣は深い、時間をかけなければなりません」と自戒しながら、患者・住民に教えられ、「定住」そのものが動いているということの実態や、「漂泊」と「定住」が出あい、相互に転換しあうという構造の発見にたどりつく。そこから基層民の下からの変革の力や共同体再生の萌しを解明しようとしていったのである。┃(pp.24-25)
- 鶴見和子の第二のテーマは「内発的発展」である。それを鶴見は患者の個人史を通じて考えた。天性楽天的、開放的で、ゆたかな表情をもつ彼女は、「面白いオナゴ学者」「賑わい神さん」として部落の人人〔ママ〕から最も愛された一人だが、八〇年六月、次のようにいっている。|「私のような強い個性の女が、水俣へいってあの人たちに逢って、その個性の強さに圧倒されてしまうんです。ウ・ウ・ウッとつまってしまうんです。行くたびに、その実感がだんだん強くなって、感動してしまうんです。その実感から自分の理論を再検討してみたい。」「石田さんのは共同体を制度として問題にする視角だと思うんです。それも必要で、なくてはならないでしょう。だけど、私のは“共同体によって深められる人間、個”の問題です。人と人との具体的なつながりを重視しているんです。……▽△『たうちがね(蟹)』に何時間でも話しかけているチッソ労働者鬼塚巌さんの『個』とは何でしょう。近代的個我とは違うのではないか。海や土や共同体からはぐくまれたものではないのか。川本輝夫さんの個もジーッとしているときは同じだと思う。そういう個が原点となった運動だったのではないでしょうか、あの水俣闘争は。そういうことを科学できちんと捉えたい。」|こうした感性的認識から、それぞれの個人史の中の個の質の問題、水俣病患者の個の多義性の解明へと向かっていった。┃(pp.25-26)
- 原田正純はその医学班の報告論文をきびしい自己批判からはじめている。昭和三〇年代に確定した水俣病の概念(水俣病像)は、認定のための行政概念であり、患者治療のための医学的概念ではなかった。▽△[…]その結果、膨大な不全性水俣病や慢性の潜在水俣病患者をしめだし、救済を遅らせてしまった。そのことに原田が気づいたのは一九六九年(昭和四四年)である。「ほんとに愕然とした」と原田はいう。それ以来、原田は自主検診をはじめ、一九七〇、七一年には三〇〇枚をこえるカルテをつくった。その過程で潜在性水俣病や隠れ水俣病は、じつは「隠され水俣病」であり、「うして(捨てられた)水俣病」であること、つまり「政治病」「社会病」であることを認識した。|原田正純は水俣病の原因を医学面にとどまらず、社会学的、政治学的な要因まで究めなければならないとして、この調査団に参加した。一九六〇年(昭和三五年)の「水俣病は終った。水俣病は解明された」というような不合理に、もっと早く気づいていたら、数千人の人々をこの業苦から救いだすことができたろうにと、地団太を踏む。そのくやしさが原田正純のあの情熱的な活動を生みだす。┃(pp.27-28)
- この▽△結果はやがて行政を動かすことになる。つまり、まず患者、被害民が問題を提起し、次に専門家集団がこれに呼応して解答をさぐり、最後に行政がやむなく後からついてくるという構図(これは日本の公害問題の取り組みに見られる一般的な構図である)が、原田医学班の手によってさらけだされた。これは歴史的にも大きな意味を持つ。なぜなら行政のみか、医学者そのものの独善的なタコツボもこわされるからである。原田はこの論文の最後に、私も“被害民の真の救済とは何か”という問いかけを忘れていたように思うと、きびしい自責の言葉を記している。単なる医学論文にとどまらない謙虚な哲学的省察がある。┃(pp.28-29)
- 哲学者市井三郎が「公害と文明の逆説」を執筆しているが、この【傍点:もと】になった論文は、一九八〇年(昭和五五年)六月の合宿研究会の折、グループ間で激しい論議のマトになったものであった。それは市井論文のなかに限定つきで原子力発電所を必要悪として是認するという意見があったからであった。これについては、原発が必要悪というなら水俣病も必要悪になるのではないか、自分の責任でなく苦痛をこうむる少数の犠牲者の立場に立てば、そんなことはいえないはず、など激しい批判が続出した。┃(p.29)
- 市井は論集編集委員会の▽△要請をいれて、問題の論文を全面的に書き直し、こんどは「人間淘汰」という観点からの公害批判論を展開した。この「淘汰」という概念を市井は世間一般でいう意味とは違って、価値中立的な概念として使用したというが、公害問題を捉えるのに「人間淘汰」という枠組を使うことが妥当であるかと、内部から強い異論が続出した。┃(pp.29-30)
- 菊地昌典は「チッソ労組と水俣病」のテーマを持って、水俣に通いつづけ、多くのチッソ労働者と面接したが、一九七九年(昭和五四年)[…]九月の定例会で次のように報告している。「[…]▽△[…]これで私は書ける。安賃闘争から恥宣言へ、その間のことを理屈はいわず、労働者の語りとして表現することにしてみたい。表現は力なのだから、自分は表現の方法にこだわりつづける。」そして最後に、菊地はこういった。「水俣は学問の対象ではない。自分の学問にとっては不要である。そこでは理論化などより聞き書きシリーズのようなものこそ重要であると思う。患者さんの苦しみや内面世界は、論文とは別の形で表現するしかない。そしてそれは必ず残る仕事になろう」と。┃(pp.30-31)
- 私は宗像さんや鶴見さんとは違って水俣の共同体に幻想を持つことができない。私はかつて朝鮮に君臨し、その体質を持ちかえって水俣を支配したチッソ株式会社の挽歌を書く。そう宇野〔重昭〕は一九八〇年(昭和五五年)六月の研究会で語っている。|そのころ宇野重昭の構想はこうであった。チッソ会社の発展史を日本資本主義史の上に位置づけて概観する。その前提に立ってチッソ責任者の思考様式を裁判記録などを通して分析する。[…]|[…]日本資本主義における「チッソ型」なるものを解明することが、水俣病拡大の社会的原因をみきわめる上に欠かせないことだと、宇野重昭は認めたのである。┃(p.32)
- 最首〔悟〕の視線は不知火海全域の漁業と漁民の運命に注がれている。しかも、最首の方法は行▽△政資料や官庁統計などよりも漁民の直接史料を尊重する徹底した史料主義である。[…]|最首は告白している。私はこの調査団に入るとき、苦しみを自分に引受ける人間の最もすばらしい剛毅な側面を不知火海の人々に見たいと思った。漁民が持っていた五つの能力、そのすべてを奪ってしまった水俣病、しかも、罹病しても、なお強く生きようとしている人々に私は感銘し、その謎を知ろうと思って、漁民一人ひとりに逢ってきた。私にとってはそれが挽歌か讃歌かはどうでもよい、剛毅な漁民像の列伝のようなものを書きたいのだ、と。┃(pp.34-35)
- 歴史家色川大吉と水野公寿が協力して叙述したいと思ったのも、そうした不知火海海域に生きる民衆の百年史であった。[…]ここでは水俣の差別の構造を解くにも中世以来の伝統からの視角を重視した。また、石牟礼道子はこの不知火海、水俣に住む庶民の思想を、おのれの魂の内海を通して描きだすことに努めている。┃(p.35)
- この調査団は水俣病問題に個別具体的に分けいり、事実を記録してゆくという仕事と、それをつねに歴史的背景から考察し、全日本的、世界的な問題との比較の目で見直し、特殊を普遍化するということをしてきたように思う。しかも、その方法は一、二の例外をのぞけば極力住民の中に融けこみ、そこから謙虚に内なる声を聞きだそうという態度を基本としていた。この調査団に共通している特徴が何かあるとすれば、それは一つには、こうした民衆史的な方法であったといえるかもしれない。┃(p.38)
◇「魂入れ」に象徴される、既存の(アカデミックな)調査研究の概念/枠組みを超えた招来環境の設定。→戸惑いをもたらす/覚悟を迫る→調査団のこの調査に対する認識が再確認される
◇人々の「魂の魅力」→団員の「心」を浸す→「学問の根底を洗い直」す
◇「学際的なグループ」としての実態/意義
◇石牟礼の目論見に(結果的には)即して動いていく調査団――「専門とは/学問とは」を根本から問い直す内部の激論
◇大仰な理念を圧倒する、患者たちを取り巻く現実。――に打ちのめされる経験
◇「不知火の風土の情念、この「くに」の文化の根の部分、民の心の奥を、内側からとらえてほしい」(石牟礼の期待)を退けつつ向き合う→「既成の学問の枠をこえて、まっすぐに民の心の深みに入ってゆく実験者を、私たちの中から呼び起こす」:自身を変革していく(変身の)主体性の発露
◇調査団員全員が「不知火海の風土像」を確認→各人がイメージをつかむ→それに基づいて各調査研究を進める/調査団「共通の基盤」に
第9回:「不知火海総合学術調査研究(3)」[2018/11/27]
◆色川大吉編 19830729 『水俣の啓示――不知火海総合調査報告(下)』筑摩書房,503p.
▼羽賀しげ子「調査団日誌」(pp.429-468)
- 小島〔麗逸〕さん、「水俣へ行くことによって我々学者、知識人がどれだけ混乱するか、それを第三者が見てほしい。」[…]宇野〔重昭〕さん、「水俣からどれだけのものを教えられるのか、その先はどうなるのか、まったくわからない。とにかく水俣へ行ってみよう。」鶴見〔和子〕さん、「公害という日本の近代そのものを、まったく今まで接触しなかった私たちが、テーマにする、面白いと思うのよね。私は民衆から学ぶというのは虫のいい話で、じゃいったい学問が民衆の役に立つか、なんていうこともよくわからない。何を残せるか。」小島さん、「いや、残せるものは挽歌ですよ。今までの学問は有害なんです。わしゃぁせめて人畜無害の学問をやりたいですな。」┃(p.433)
- 石牟礼さんのお宅にようやく着く。家の中へ誰が先に入るかで、互いにゆずりあってなかなか決まらない。色川、鶴見、綿貫〔礼子〕……の順だった。道子さんは黒いブラウス、黒地に花もようのロングスカートを身につけて迎えてくれる。うれしそうな、というより神妙な、少し固い表情である。調査団より一足早く数日前から現地に来ていた土本典昭さんによれば、このときの道子さんは形相が変わり、料理はもちろん服装にまで気をくばっていたという。|石牟礼さんは魂入[たましいい]れの仕たくをすっかり終えて調査団を迎えた。水俣ではお客様を迎えたり、村の人が何となく元気がなくなったりすると、魂入れと称して寄り合い、飲んだり食べたりする風習があると▽△いう。しかしこの晩のそれはもっと深い意味をもつ儀式であった。┃(pp.434-435)
- 私が石牟礼さんの文学に強く引かれていることを知っている色川さんは、私に一つの課題を与えていた。ちょうど良い機会なのだから、彼女が調査団と出会ってどのようにスパークするか、よく観察し、ノートしなさい、と。しかし、道子さんは、この【傍点:一流】と自他共に認めている学者たちに対して、特に変わった接し方をしているようには思えなかった。私たちに示すのと同質の優しさをもっているようだった。むしろスパークしたのは先生たちの方だった。┃(p.436)
- 一二時から初めての内部だけの話しあいがひきつづく。予想外の現地側の大歓迎と毎日の行事にどのように調査を進めていけばよいのか。宇野、菊地〔昌典〕対色川、小島の意見が対立する。支援グループとどうつきあってゆくか、患者さんたちとどうつきあってゆくか。「こんな筈じゃなかった」という声にたい▽△し、小島さんが、「もう私たちは深入りしたんですよ」と答え、宇野さん、菊地さんは、「学問を尊重するためあくまでも客観的立場を堅持したい。」┃(pp.440-441)
- 深夜ひとりでノートをつける。今夜の夕食のおり、先生たちのほか外部の人は道子さんと緒方正人さんだけになったとき、学者風の学問の話に花が咲いていた。そうした内容に道子さんは入らず、上目づかいにうかがい警戒する表情になった。緒方さんは居心地が悪そうなようすで、道子さんが、「この中で大学を知らないのは、私と正人さんだけね、こういう話面白いね」と助け舟を出す。ああいう先生たちは学問のことのほかに、【傍点:ふつう】の話題がないのだろうか。狭いな、とても。┃(p.441)
- 帰宿後は夕食をはさんで内部の話し合いをする。今夜は相思社で若い支援者たちとの懇談会が設定されているので、その前に互いの意思疎通を図ったのだった。まず[…]宇野さんから話してもらう。「水俣の運動がこれほど分裂しているとは思わなかった。ここにはどうにも展望がなく、とてもやりきれない。自分が今まで勉強してきたことや方法論で水俣にアプローチして、何か、患者とか、ここで闘っている人たちのために明るい展望を見られるような形でやれるかどうか、どうしてもまだつかめない。それから、物理的なスケジュールの問題」と。▽|△色川さんや鶴見さんが、「展望がなければやらないの?」とすぐ反論する。┃(pp.442-443)
- 鶴見 ふつうから見て、美しい学問を作ってはいけないのではないか。みにくいけれど本物である、そうした学問をやりたい。
綿貫 本当の学問は学者の内からではない、既成の中にはない。
宗像 今日、行った明水園での患者さんの話の中で、ご先祖が心配だという言葉がありました。受難の世界から新しいものが生まれてくるのではないか。┃(p.444)
- 石牟礼 まだこういうお顔ぶれになるとはわかりませんでしたけれど、先生たちに痛切に来ていただきたいと思っていました。なぜそんなふうに考えたかといいますと、たとえば胎児性の子供たちは植物人間とかいわれますけれども、やはりこの世が見えていまして、そういう魂こそ今や日本のありさまをちゃんと見ている。そういう子供たちはぜんぜん自己表現できない、この世と繋がっていないようでいて、生きていることで今のこの世を表現している。そういう眼でこの世を見たとき、私たちのおかれている情況ですか、学生の言葉でいえば――(相思社や活動家の面々に)学生なんていってごめんね、知識人なのよあなたたちも、漁民から見れば。原存在としての生命が極限的なところでまさに殺されようとしている、そういうまなこで見た今の日本。そしてそういう生命[いのち]と日本との繋りはやはり、表現しなければならない。形にしなければいけない。私は主観的に書きましたけれど、それではとても十分ではないので。私もとみに体力衰えまして後が大変短くなりましたので、なんとしてもこれを集団の力で表現しておきたい。あの胎児性の子供たちには見えていると思うですね、それを完璧に表現したい、欲ばりですけど。あらゆる角度で、構造的にトータルに。|先生方おっしゃっていますように、今はまにあわない、五年一〇年後もまにあわないかもしれないけれども、これを形にしておけば、どこかの民族の、私たちの孫の世代に、何か光、何か考える【傍点:よすが】になるんじゃないかと思います。死んでゆく人たちの一番よく見えたこの世というのが、そこに表現されるのではないか。一番基本的な意味で感覚を持っている人たち、学者でなくても、左官、土方、大工さんでもいいんですけど、とにかくあらゆる力を結集して、この一世紀ぐらいなら再現できるのではないか。この人たち(現地の活動家、支援者)のやっていることも含めて、人生の経験者である学者さんたちに加勢していただいて、形を作ってみたならば、次の世代に対する魂の遺産になりはしないか。幸いにわかっていただきまして、それは大変うれしいです。┃(pp.445-446)
- しばらくたって遅れて参加したランさん(蘭康則)が自己紹介をして、そのあと、自分は現実の運動の方が大事で、ものになるかならないかわからない調査に時間をとられるのはいやだ、運動は闘いの中からしか生まれないだろうし、知識人というのは信用してません。ま、何か成果でも出てくれば信用してもよい、とつづけた。┃(p.447)
- そのとき青年たちが、道子さんのいうように調査団の先生たちと、実は焼酎を飲みながら語りあかしたかったのだ、とは気がつかなかった。ただあのばか騒ぎが懐かしく、私はひとりで酒宴に残った。交流会は失敗していた。先生たちと青年たちの間で。道子さんと先生方の間で。|道子さんは、[…]大合唱をよそに、からむように私にしゃべりつづけていた。|「先生たちにこの姿を見てほしかった。先生方はモダニストね。この子たちは大人なんです。川本〔輝夫〕さんのこと、まわりで本当にいたわっているの、調査団のことも先生たちのこともいたわって、大人なんです。調査団を支えているのはこの子たち。」┃(p.448)
- 告発〔=〈水俣病を告発する会〉〕の例会では色川さんが水俣の調査について一時間半ほど話す。「調査団内部がそれぞれデコボコなんです。水俣に対する感じ方なども。でも水俣で受けた経験は、重く深刻なものになっているようで、石牟礼さんが調査団をとりこにしたいと思ったことは、ある程度成功しているようです。」┃(p.451)
- 先生たちはしかし、いたずらな自縛にとらわれてもいられず、土本さんや現地の活動家といった適切な道案内に助けられて、水俣を中心とした各地へちらばっていった。“品の良か、えらか学者先生”という、【傍点:やゆ】も警戒も怖れも尊敬も含んだ思いというものが、沿岸の人たちのいつわらざる気持ちなのだろうが、そのことにひるんだように見えなかった。いや本当はちゅうちょもしたし、傷もついたし、頭をかかえることもあったに違いない。知識と地位を持ってしまった者と庶民の間にある深い深いへだたり、これはもう超えられない。「先生たちは何をしに来[く]っとじゃろか、ここに何があっとじゃろ。」「おら大学の先生はおとろしかもん」という痛烈な言葉を調査団と親しい患者さんから聞いて、どんなに先生たちが近づいたと感じても、それは漸近線にすぎないのだ、と私は思った。ただ、人びとはなかなか本心を表面に現わさずに、何かもっと悠久といったふうに他者を受け入▽△れてゆくようなのである。┃(pp.461-462)
- 人びとは孤独なのだった。ことにおじいさんやおばあさんたちは、家族さえ(【傍点:だからこそ】なのだが)聞▽△かないその一代記というものを私たちに語るとき、彼ら自身の生涯を再確認していた。生きてきた、あるいは生きている証[あか]しを語ることによって私たちに手渡し、歴史の上に自分という存在の刻印を、目に見えなくともたしかな形として残そうとしていた。|そのことは道子さんの次のような言葉を思い出させる。一九七七年の夏、道子さんは上京して調査団の定例会で発言した。|一人ひとりの細民を別々にとり出して精細にその姿をありのままにとらえませんと、水俣の過去の歴史の闘いの意味もこれからのことも全く見えてこないと思うのです。あの人たちには一生に一度でもよい、貴種の人とじかに話しあってみたい、自分の話を聞いてもらいたいという、それはそれは深い願望があるんです。[…]都の人に話したいと思ってるんですね。先生方を最初にお迎えしたときと、二度目三度目とでは違ってきます。あの人たちは少しずつ小出しに出すのです、もっと来てもらいたいから。蓄積の量は厖大なんです。┃(pp.463-464)
- 貴種といわれた当人たちはひどくとまどい、反撥さえ見えていた。貴種などという権力の汁を吸った人間の血はひいていないと。水俣の人びとに接した実感では、そうした感触は感じられなかったと。しかしおもしろいことに、調査団お互いの間では、あの人は貴種だと思いあっている【傍点:ふし】があった。┃(p.466)
- しかし大分意見がかわされたころ、赤崎覚さんがひきさくようなシニカルな調子で、「先生たちは泣くような目にあってないでしょう、食えなかったことなんかないでしょう」と発言して、空気は急速に硬直した。[…]昭和三〇年代、水俣市役所の衛生課にいた赤崎さんは水俣病が発見されたころから患者さんとつきあわれ、孤立していた患者さんの運動をもっとも古くから支えてきた一人である。[…]道子さんがあわてて赤崎さんを制したけれど、それでこの夜はもう終わりだった。┃(p.466)
- 貴種について道子さんが伝えにくそうに言葉を重ねれば重ねるほど、話に誰もついていかない。特に土本さんと色川さんは、道子さんが饒舌になっているといらだちを示した。彼女のとらえた庶民意識や知識人についての認識を、私はたぶんそのとおりなのだろうと思った。ただそれから先がどうなのか見えにくかった。そうした民の心の深層がわからないかぎり、どのような調査も学問も的はずれになる、という警告なのだろうか。┃(p.467)
- 調査団の一人ひとり、水俣とのつきあい方はそれぞれ違い、一概にはいえないのだが、もう一つ熱意に欠けたのは事実だった。調査そのものと共にグループのあり方についても主体性が薄かった。[…]この程度で良いのだろうか、これで水俣や芦北や天草諸島に住む人たちと呼応できるのだろうか、水俣病闘争の全貌をとらえられるのだろうか、という疑問はぬぐえなかった。┃(p.467)
◇多層的なコンフリクト
@調査団内で
A調査団×患者・支援者
B調査団×石牟礼
(C患者・支援者内で)
◇石牟礼の両義的な役割:コンフリクトを顕在化させる(引き出す)と同時にそれを前提として人々をつなぎ合わせる
◇意義:コンフリクトそのものの自覚を通して各ファクターの認識が変容・転化していく
━━━
◇水俣における「魂」について/患者さんたちの「表現」(+「責任」)について――石牟礼(ら)の言葉から確認できること
◆石牟礼道子 20130420 『蘇生した魂をのせて』河出書房新社,222p.
‐ 「現代や未来に対するある発せられない言葉をもった精霊たちが出現しておられる」
‐ 近代(「近代人」/「近代の合理主義」)では把握・理解できない――が、水俣には確実にある、水俣の人々には確実に見え・聞こえるもの。
‐ 「この世には読み解けないことがあるんだということを」「いくらかは形にしたい」
‐ 「いまひとつ環境問題には魂が入られんなあと」
‐ 「患者さんの気持ちになって、魂をどうやって入れ直そうか」考える
‐ 「魂の世界」を「何とか取り戻したい」
‐ 「魂の救済」
‐ 「近代を超えた叡智」
第10回:「不知火海総合学術調査研究(4)」[2018/12/04]
◇宗像巌と鶴見和子
‐ 石牟礼の求めるものを真正面から追求した二人
@宗像:「共同主観」
‐ 「水俣漁民の生活世界の基底にある暗黙の世界観(住民の潜在的な共同主観)」
‐ 「心の世界」/「精神の鼓動」
‐ 「孤独な個別傾聴式の聞きとり」/「執拗に足をはこぶ」
A鶴見:「内発的発展」
‐ 個別の聞きとり調査
‐ 患者の個人史
‐ 「基層民の下からの変革の力や共同体再生の萌しを解明」
‐ 「近代的個我とは違う」「海や土や共同体からはぐくまれた」「個」:石牟礼のいう「魂」に相当
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◆小松原織香 201803 「「公害問題」から「環境問題」へ――水俣地域における「不知火海総合学術調査団」の活動を手掛かりに」『現代生命哲学研究』7: 74-106
◇調査のありかたについて
‐ 宗像:「自然にほぐれるようにお話を伺ったのが一番内容も深いものだったと思います。こんな悲しい体験をした人々に社会学の調査項目による質問なんて、非常識だし、失礼だし、絶対に駄目ですよ。」(宗像 1999: 37)
‐ 鶴見:「自分が何か偉い人で学問してきて人を裁くとか調べるとか、そういうものではないということがだんだんわかってきたんですよ。」(鶴見 1998: 31)
‐ 鶴見:「お話をうかがうことを通して、私が何を学んだかというと、つまり、自分の学問によって人を分析する、社会を分析するというのが社会学なのですけれども、それがここではできない、ということがわかったのです。」(鶴見 1998: 32)
*宗像巌(宗像論集編集委員会編) 1999 『美と象徴と魂の風景』宗像巌論集編集委員会
*鶴見和子 19980305 「水俣民衆の世界と内発的発展」『[コレクション 鶴見和子曼荼羅Y]魂[こころ]の巻――水俣・アニミズム・エコロジー』藤原書店,28-79.
◇一時的に研究者としての立場を捨てる(棚上げする)/→最終的には「科学できちんと捉」える(鶴見)
◇自然・環境――との絆/への信念
‐ 宗像:「〔水俣漁民の〕意識の底に長年にわたって沈潜してきた「世界と自分」、「自然と私」、あるいは「海とわれわれ」との魂のかかわりには、かなり、根深い絆ができている。」(宗像 1999: 38)
‐ 鶴見:「患者さんたちから学んだことは、自分が肉体的にも、心も魂も傷ついた訳ですが、それを癒やしていく、それをどうやったらできるかといえば、自然とのつきあいを回復していくことを通してしか癒やしていくことはできないということ。」(鶴見 1998: 31)
‐ 色川:「最近になって私が分りかけたことは、あの人たちは、先祖代々不知火の海に抱かれてくらして、そこに人の言葉ではない、春を伝える風や夏を告げる潮の音を聞きながら、大きな生命に溶けこみ、包まれ、祖霊に見守られて生きてきたという強い信念を持っているのだということです。」(色川 1982: 203)
*色川大吉 1982 「不知火海総合調査五年を経て――環境破壊と人間再生のドラマ」『同時代への挑戦』筑摩書房,179-230.
◇「自然の中で生き、人以外の生命に溶け込んで暮らしている当事者の非言語的な「環境思想」」(小松原 2018: 84)
→宗像・鶴見が深く追究
▼宗像:
・水俣の漁民にとって不知火海は生命が無限に再生を繰り返す象徴世界を具現化したもの
・漁民は「「自然の語りかけ」を聞きながら生活し、いつのまにかこの世界特有の宗教的感性を心に抱くようになってきている」
・水俣の漁民は「人と自然との関係」の中で生きる経験をもとに独自の「生命の連続観」を基底に置く世界観を魂の次元で作り上げる
・水俣の漁民は水俣病を経験してもその独自の世界観を失わなかった
・水俣病によって目に見える形では共同体の「人と人との関係」がずたずたに引き裂かれても、「人と自然との関係」から培われた「生命の連続性」への信頼は失われなかった。
・それゆえ魂の次元で「人と人との関係」は保たれ、再び人間関係の修復へと向かうことができる。
・こうした「人と自然との関係」を世界観の基底にもつ水俣地域の人々が今後の地域再生を担っていく
▼鶴見:
・「水俣病患者は各人が自然と向き合う中で回復の方法を模索して行かざるを得なかった」→「この過程において、水俣病患者は強烈な個性を持った個人としての主体を確立する」
・「自らの身体を、自分たちの住む地域の自然の一部と見なし、内なる自然と外なる自然との対話と共生をとおして、自立した判断と行動の主体を形成するという姿勢」
・自然との対話と共生の中から新たな地域再生を担う主体が形成されている
・その主体は「自由で自律的な個人」としての近代的自我とは異なる
・水俣地域で形成された主体は「自らの身体」や「身近な動植物」、さらに「見過ごされてきた小さな生きものたち」との関係、すなわち「人と自然との関係」の中で見出される主体。
・水俣病を経験したからこそ、再び自然と向き合う中で、水俣地域の人々は新たな主体を確立していった。
・この主体こそが近代産業によって破壊された水俣地域を修復する力をもつ
▼小松原:
・「宗像と鶴見に共通するのは、水俣地域の人々の新たな主体を提起したことである。その主体は、水俣病が徹底的に破壊した人間の身体や共同体を再生させる力を、「人と自然との関係」の中から得ている。共同体の再生が経済的・政治的に不可能である場合にも、こうした主体は自然と向き合う中で絶望せずに希望を見出していくことができるのである。この水俣地域の内部で生まれてきた主体の持つ環境思想が、外部からやってきた調査団の研究を通して、可視化されたと言えるだろう。ここで、水俣地域を訪問した調査団の外部者としての存在意義が明らかになるのである。|それと同時に、調査団と水俣地域の人々の断絶が埋まることはなかった。どんなに深く水俣地域の人々の魂の世界を見聞きし、学ぶ姿勢に徹したとしても、団員は外部の他者であることに変わりはない。」(p.90)
・「水俣地域で生き、身体に痛苦を引き受けた人々の魂の世界へは決して到達できないという、本質的な断絶である。団員は聞き取り調査を通して水俣地域の人々との深い関係を築きながらも、その奥底にある断絶が埋まらないことも明確に自覚していた。外部者と内部者は決して一体化できないのである。|他方、外部者は内部者と一体化できないからこそ存在意義があるとも考えられる。[…]水俣地域の人々にとって「人と自然との関係」を中心とした環境思想は前提であって、不可視化されているのである。その上で石牟礼は、調査団が水俣を訪れることは「私たちにとってひとつのよみがえりの転機になるともいえます」と述べている。このように石牟礼は、調査団は外部者として内部者と断絶しているからこそ、内部者の思想を抽出していくことができると考えているのである。」(p.91)
━━━
◇現地の「人と自然との関係」を追究することで環境思想を可視化しえたこと
◇「外部」の研究者が状況の記録を超えて人々の「魂」や地域の「再生」のありかたにまでコミットしていったこと
◇「公害問題」を「環境問題」に移行・拡張させたこと
――に可能性を見出す
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(▼村上からの批判点)
◇「公害問題」→「環境問題」:脱政治化/脱固有(土着)化/「魂」の(学問)対象化――ジレンマの不在
◇近代アカデミズム(社会学)の枠組みの便宜的着脱――二重基準
◇現地の共同体「内部」の複雑な交錯性は現存――楽観的理念主義への批判の必要性
第11回:「不知火海総合学術調査研究(5)」[2018/12/11]
◇鶴見和子×石牟礼道子
◆石牟礼道子・鶴見和子 20020430 『言葉果つるところ――〈鶴見和子・対話まんだら〉石牟礼道子の巻』藤原書店,314p.
◇「魂」を内在化させた「学問」
◇「客観性」の定義を塗り替える
◇「言葉のつくりかえ」/「自分の言葉をつくりだしていく」――「作品」になる
◇「非人格的な知性」と「情念の世界」に橋を架ける
◇「地球的規模」で「環境問題」を考えるという設定の危うさ――「水俣」がなくなってしまう:普遍化の陥穽
‐ 「環境問題」:「手軽な口当りのよい言葉」/「脱け殻」/「空洞化」――「魂」が抜ける:(水俣病を引き起こした)根本要因を見落とす
◇自然の「生命の響き」を聴く人たちの「心を聴く」
━━━
◆鶴見和子 19980305 「水俣民衆の世界と内発的発展」『[コレクション 鶴見和子曼荼羅Y]魂[こころ]の巻――水俣・アニミズム・エコロジー』藤原書店,28-79.
- 自然と人間との共生、つまり自然に対する感覚というもの、これは石牟礼道子さんの『苦海浄土』とか、私は彼女の一番の傑作は『椿の海の記』だと思うんですけど、あれに出てくる自然と人間の一体感、それはとっても大事なことだと思うんです。私たちの今の学問というのは、「感性」というものをほとんど忘れてしまった。ものの感じなんて心理学でやればいいというように切り離してしまう。私は女だからそんなことを気にするのかも知れませんけど、ものの感じ方というのは学問の一番根底にあるもので、これを忘れたサムライ学問は本当の学問ではない。石牟礼さんをはじめ水俣の人たちが持っている、あの自然に対する感性というものをどうしたら学問の中に入れて▽△いけるか、それを入れることによって初めて、公害とか自然破壊のないような学問を私たちは作り上げていくことができるのではないかというふうに思うのです。┃(pp.91-92)
- 〔不知火海総合学術調査団での調査で〕お話をうかがうことを通して、私が何を学んだかというと、つまり、自分の学問によって人を分析する、社会を分析するというのが社会学なのですけれども、それがここではできない、ということがわかったのです。だから、むこうから話を聞いて、自分の学問をやり直す、作り直すということが、歳をとってから可能ならば、そうする以外にない、ということなのです。そこで、格闘したんですね。そこで学んだひとつの大事なことは、人間は自然の完全なる一部である、したがって、人間が自然を破壊することによって人間は人間自身を破壊している、ということ。もうひとつ、患者さんたちから学んだことは、自分が肉体的にも、心も魂も傷ついた訳ですが、それを癒していく、それをどうやったらできるかといえば、自然とのつきあいを回復していくことを通してしか癒していくことはできないということ。そのことが、私は、初めてわかったのです。┃(p.32)
◇「感性」を内包させた学問――自然との共生へ
◇「自然」と「人間」を切り分けない
◇「回復」・「癒し」の可能性へのアプローチ――学問の枠を超えて
第12回:「不知火海総合学術調査研究(6)」[2018/12/18]
◇鶴見和子:「どんでんがえし」の必要性(「[座談会]水俣調査の課題をめぐって」*p.501)
*色川大吉(司会)・内山秀夫・桜井徳太郎・土本典昭・鶴見和子・日高六郎・宗像巌・綿貫礼子 19830729 「[座談会]水俣調査の課題をめぐって」色川大吉編『水俣の啓示――不知火海総合調査報告(下)』筑摩書房,469-503.
‐ 石牟礼論文・角田〔豊子〕論文を理想型とする
‐ 近代アカデミズムの方法で分析:「出口なし」に帰結
‐ 「出口のある学問の方法をわたしたちが水俣調査の中から出していく」
‐ 学問に携わる者としての落とし前:近代の袋小路を突破する――像を描く
‐ 色川からの反論
第13回:「不知火海総合学術調査研究(7)」[2018/12/25]
【導入】
◆古井由吉(聞き手・構成:すんみ) 20181206 「[インタビュー]読むことと書くことの共振[ともぶ]れ」
『すばる』41-1(2019-01): 24-35
- 〔古井:〕百年前といまは、自分というものに対する考え方、自我というものに対する考え方が、随分違うんじゃないかと思うんです。いま、僕らが感じている自分とか自我というのは、自分一人でしかない。全部自分が責任を持たなきゃならない。どうも百年前の人は、自我というのはそんな孤立したものとは感じていなかったんじゃないか。つまり、過去の人間の自我が、樹木が根っこから養分を吸い上げるように、自分の中に伝わってきているんじゃないか。百年前の小説なんかを読むとその広がりが随分大きくてね。何でこんなことが書けるんだろうって驚くことがありますよ。こんなこと個人では表現できないんじゃないか。┃(p.26)
- 〔古井:〕読むということにあるさまざまな矛盾とか分裂、書くということにある矛盾と分裂、これが僕の場合には一つにつながっています。例えば主人公が息を引き取るとしますね。その場面を主人公になりかわって、意識の中に入って書く。現代の人間からしたら不可能なことですよ。だって、誰も死を体験したことないんだから。外面から書くよりしょうがない。ところが、百年以上前は平気でやったようですね。それは自我が自我を超えているからでしょう。感情移入と言うけど、いまの人間は、ほかの人に感情移入するのが難しい。ところが、百年以上前の人は、いまの我々から比べると、とて▽△もわかるはずのない昔の人にまで限りなく感情移入をしている。それから、もう一つ、魂という言葉があるでしょう。僕ら、一応科学の洗礼を受けた頭からすると、死後の魂はあり得ない。ところが、百年以上前の人は、どこかその考えを保っている。死後の魂を信じているんです。[…]考えてみれば、言葉というのは、自分の死後の先まで行くんです。[…]言葉というのは不思議でね、個人を超えるところがあるんです。┃(pp.26-27)
- ――古井さんの作品では、自分の声や言葉によく他者のものが入り込むんですよね。和歌などの歌が急に出てくるときもあれば、「という」のような伝聞形式で他者の声が入ってきて、ついには「という」が消えて自他の境が曖昧になる展開になることもあります。あと個人の記憶もかなり曖昧に書かれています。ある記憶を語りながら、自分でその記憶をいぶかったり、「ようだ」とか「らしい」と言ったりしてふっと自分から離れてしまうんですよね。┃(p.27)
- 古井 僕の場合は空襲の体験が大きいですね。次の瞬間生きているかどうかわからない。瞬間が肥大するんですよ。すると、一種の離人症みたいになる。その体験を踏まえないと、僕には人の心は書けないなと思う。瞬間の中で、瞬間が肥大して、その中で確固とした自我を立てるのは難しい。どうしても離人的な反応でしのぐしかない。それがあるいは僕の基本的な体験なのかもしれない。そちらのほうを実相と感じるところがあるんですよ。これを何とか踏まえないと、身の回りのことも書けないんじゃないかと。┃(p.27)
- 〔古井:〕若いころの記憶のほうが客観的で正確なことのほうが多い。年とってからの記憶は、ないことまでいろいろつけ加わる。でも、どっちが記憶として深いのか、これはまた別の問題でね。┃(p.28)
- 自我ですっかり限られていない体験。長いこと生きていると、それにすっかり影響されているんだよね。┃(p.28)
- ――原始的な集合というものは、他者の声が入ってきたり、自分から自分が離れていったりするという感覚を書くことだけでは表現できないものなんでしょうか。
古井 それがどういう状態であって、どういう状態を持っているかということは表現することはできるけれど、そのものを言葉であわらすのは難しいし、現代の言葉が壊れてしまう▽△かもしれない。┃(pp.28-29)
- 〔古井:〕言葉が矛盾を大きく受け入れる器ではなくなっている。漱石は、いまの感覚で読んでいると、大層大胆に矛盾したことを書きますよね。┃(p.29)
- 〔古井:〕そういうものは社会の底流にある。それに書き手が応えられていないんじゃないか。その問題なんですよ。どうしても僕らは合理的な文脈に言葉を持っていくでしょう。そうでないと世の中生きていけないからね。┃(p.29)
- 〔古井:〕〔過去に出していた雑誌『文体』の〕創刊号のあとがきに、我々は文体は持たない、持ち得ないと書いた。我々の文章というのは個別的なもので、いわゆる文体というものと違うのだと。文体というのは時代のものだ。時代のスタイルというのが壊れつつあるときに、我々が文体を持っているなんてとても言えたもんじゃないって書いた。┃(p.29)
- 古井 文体というのは個を超えるものだと考えなければならない。個人のものじゃないわけです。┃(p.29)
- 〔古井:〕〔現在は〕人のつながりが狭いんですよ。だから、かなり偏った情報しか入ってこない。インターネットにある情報というのはちょっと一般的過ぎるところがあるでしょう。インターネットで打ち込む言葉にあまり個別性がない。人が話すことなら、その口調とか、顔つきとともに受け取る。それから、どの場所で聞いたかということ。空間のありようによって人の感じ方とか思うことは違うから、本当は空間を書くというのは大事なことなんですけどね。[…]でも、僕もやっぱり現代の画一的な空間に暮らしている。なかなかその場にものを言わせるということはできないんですよ。むしろ空間というの▽△は、決して自明なものじゃない。[…]空間というのは、立ったり、座ったり、歩いたり、何か行為、行動に伴ってそのつどできてくるんですよね。それが伴わない空間というのはあり得ないんじゃないかなと。┃(pp.33-34)
- 〔古井:〕それから、時間のほうでいうと、僕らは時計の時間の上に立っているでしょう。だから心理的な時間を書くのが苦手になっているんじゃないか。また、それをやったら、読む人がわからないんじゃないかという強迫観念があるもので、いちいち時間を指示するんです。[…]これは徒労じゃないかという気がするですね。時間の流れ方が人によって違うでしょうから。特に一日の移り、お日様の移りを共通には体験していませんよね。多分人間というのは天体の動きに影響されていると思うんですよ。季節ばかりじゃなくて、一日のうちでね。だから、百年前の人が「夜」と言うでしょう。それはいまの僕らが言う「夜」とどうも違うみたいですよ。┃(p.34)
- ――『始まりの言葉』(岩波書店)という本の中で、古井さんは近代的時間について「時間が八方塞がれ、どこへも流れひろがっていかないような、遮断の感覚」が「堪えがたい」と批判的に書かれていますよね。┃(p.34)
- 古井 しかし、そういう近代においてもなおかつ何かがあるんですよ。[…]個人を超えた、非常に力強い、天に通じるようなものを感じるという境地。どうも西洋の文学はそれを目指しているようでね。神秘的な合一といったものを求めるところがありますね。日本の文学、古典にはそれはあまりないんじゃないかと思う。むしろ自然と一つになるとか、それから空[くう]を見るとかです。┃(p.34)
━━━
◆《耳をすませば》
「闘い続けた“表現者”〜石牟礼道子(作家)・金子兜太(俳人)〜」
2018年12月30日午前6時25分〜6時54分
NHK総合
◆
[語る:人生の贈りもの]渡辺京二(『朝日新聞』2018/12/11〜)
‐ 1 石牟礼道子の「未発表作」を編む(2018/12/11)
‐ 8 石牟礼さんの原稿、傑作と確信(2018/12/20)
‐ 9 水俣病、近代社会に疑問投じた(2018/12/21)
‐ 10 闘争に黒いのぼりや白装束(2018/12/24)
‐ 11:「もうひとつのこの世」が見えた(2018/12/25)
◇市井−最首論争
‐ 市井三郎×最首悟
‐ 市井三郎「哲学的省察・公害と文明の逆説――水俣の経験に照らして」(『水俣の啓示――不知火海総合調査報告(上)』pp.389-412)
‐ 最首悟「市井論文への反論」(同pp.413-426)
◇近代工業社会の(なかの)問題なのか[改良主義]×近代工業社会(そのもの)が問題なのか[全面批判]
◇@「人間淘汰」/A「必要悪」(:「不条理な苦痛」の表象として)
‐ 優性思想か価値中立か
‐ 個々の人々の苦しみを不可視化
‐ 調査者・研究者の立ち位置
‐ 思想と当事者性の関係のありかた
‐ 人間中心主義の限界
◇似田貝−中野論争(1974-75)
‐ 似田貝香門[にたがい・かもん]×中野卓[なかの・たかし]
‐ 調査者−被調査者の関係の変革
‐ 「共同行為」――の(不)可能性
◇調査団:近代性(近代アカデミズムの矛盾)を内包した研究集団としての限界を露呈――逆説的な成果
‐ 市井個人の問題ではなく学者/学問(総体)の「力量不足」(鶴見)の象徴として見る
‐ 被害者運動/カタストロフィーへの向き合いかた
‐ 当事者研究的な形態を捉え直す視座
━━━
- 鶴見 足りないところがあるということなんです。それはもう皆さん一人ひとりがおっしゃっていること。それが市井論文に一番集中的にというか、わりにはっきり出てきちゃったのだとおもうんです。それは市井さん一人の問題ではないと、わたしは思っています。
わたしは市井論文がああいうふうな反応をひきおこしたというのは、(淘汰ということばを使う必要があったかどうか、そこは一つ問題ですが)やはり現代の文明が進行していく中で、一番弱いものが切り棄てられるという問題があるということ、そういう問題だと思うんです。水俣病の問題は。で、それが近代工業文明だと思うんです。一番弱いところが最も強い犠牲を強いられる。からゆきさんの問題はまさにそういう問題です。
わたしは角田〔豊子〕さん、石牟礼さんの文章にすごく感動しました。最後のところなんかすごいと思った。帰らない▽△とあのおばあさんがいうところは。その理由がすごいと思うのです。後生が大切だから帰らないというのは。わたしはこれは宗像論文に呼応すると思いました。わたしは石牟礼さんはすごいと思った。あそこでどんでんがえしをしている。やはりどんでんがえしがあるかないかということが、角田さん、石牟礼さんのようなすぐれた作品と、わたしのように作品になっていないものとのちがいだと思います。学者が書いたものの不足が市井さんの論文の中の不足として非常にはっきり出てきている。だからわたしは同罪です。
それはなぜかというと、どんでんがえしを理論的にちゃんと出していないということなんです。あれだけの苦しみをした人たちがなんかもう本当にこの本を読んでいると出口なしになっちゃう。わたしは石牟礼さんのところを読んで初めて救われました。わたしはもちろん宗像論文を読んで救われましたけど、これはすばらしいけど、まだ全体のイメージとしては出口がない。
これは学問の課題だと思うんですけど、水俣の問題というのは、やはり近代工業文明の最も極限的な害悪を身にひきうけた人たちの問題です。そうすると、わたしたちが使っている学問の分析の道具というものは、近代工業文明の枠の中の学問の用語です。その方法で分析していくと、出口なしという推論が最も客観的、科学的であるということになるわけです。そういう方法でやっている限りでは、どんでんがえしはありえないということなんです。ですからわれわれの力量不足を市井論文がつぶさにあらわしたとわたしは思います。
それに対する反論は、出口のある学問の方法をわたしたちが水俣調査の中から出していくことにしかないと思っています。┃(「[座談会]水俣調査の課題をめぐって」pp.500-501)
- 〔宗像:〕受難のなかで、人びとが受苦の意味を問い、魂の救いを求めているなかで、「絶対的無原罪の魂の受難」の事実は水俣の啓示の核心となると思います。それは“出口を求めてゆく”魂にとってあらたな開かれた思想形成の発火点となる意味を秘めていると思います。不知火海の世界観は、一つの美しい内海海上他界観の上に構築されているとみておりますが、この世界観の天蓋をつらぬくように、水俣受難史が一つの光彩をみちびきよせていることは確かだと感じております。┃(同p.502)
- 色川 私も市井論文について、“学者は……同罪である”という鶴見さんの御指摘は、鶴見さんご自身の自戒のことばとして承わります。しかし、この「どんでんがえし」と「出口なし」ということがらの理解については異論があります。「近代」というものがいかに凄いか、凄いものであるか、それを性根を据えて見すえるということが、結局はその出口をひらく始まりだと私は思うのです。この点、他の執筆者にも異論があろうかと思います。こんどの私たちの研究成果が、全体として「出口なし」かどうか、もっと討論したい所ですが、もうスペースもありません。[…]私たちの誰一人、この本をもって満足できると信じている者はおりません。水俣についての研究や表現は、人類が生きつづけている限り、これから五〇年も一〇〇年もつづけられてゆくでしょう。┃(同p.502)
━━━
◆森下直紀 20101120 「水俣病史における「不知火海総合学術調査団」の位置――人文・社会科学研究の「共同行為」について」,山本崇記・高橋慎一編『「異なり」の力学――マイノリティをめぐる研究と方法の実践的課題』(生存学研究センター報告14),立命館大学生存学研究センター,319-348[第2部第2章]
◆山本崇記 20101120 「社会調査の方法と実践――「研究者」であることの範域をめぐって」,山本崇記・高橋慎一編『「異なり」の力学――マイノリティをめぐる研究と方法の実践的課題』(生存学研究センター報告14),立命館大学生存学研究センター,294-318[第2部第1章]
第14回:「原田正純/水俣学」[2019/01/08]
【導入】
◆藤本和子 19821030 『塩を食う女たち――聞書・北米の黒人女性』晶文社,227p.☆→20181214
岩波書店(岩波現代文庫:文芸303),288p.
☆:【帯文】「滅亡の妖兆漂うアメリカで語り始める黒人女性たち。藤本和子という純度の高い知性に連れられて、神のごとき生身で誌される現代の雅歌の意味を、私どもはここに読む。――石牟礼道子氏評」
◇原田正純
━━━
◇石牟礼道子との間接的な共闘/紐帯
‐ 各々の持ち場(文学/学術/芸術……)
◇「中立」はありえるか/あるべき「中立」とはいかなるかたちか
‐ 被害者/少数者「の側に立つ」必然性――批判への批判
◇見えない(見えなくされた)被害を視る
‐ 「診断」の目にかからない社会的要因
‐ 「生きた人間」を捉える
◇アカデミズムに何ができるか/アカデミズムは何をするべきか
‐ 近代科学の(なかで対応を模索するという)矛盾
‐ 医学(医療)/社会科学の前提の根本的組み換え
◇「水俣学」の立ち上げと確立
‐ 地域での協同研究・教育・普及活動――内在的・還元的・拡張的
‐ 当事者重視/風土・環境・生業への意識/総合的に人間(を取り巻く世界)を捉えるための学/知
━━━
◆原田正純 19721122 『水俣病』岩波書店(岩波新書青版841),244p.
◆原田正純 19850220 『水俣病は終っていない』岩波書店(岩波新書黄版293),227p.
◆原田正純 20091030 『宝子たち――胎児性水俣病に学んだ50年』弦書房,198p.
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◆原田正純(インタビュー&編集:永野三智) 20120612 「原田正純さんインタビュー「水俣病患者とは誰か」」一般財団法人水俣病センター相思社
◆三枝三七子 20130817 『よかたい先生――水俣から世界を見続けた医師 原田正純』学研教育出版,135p.
━━━
◆原田正純・花田昌宣 200403 「「水俣学」の誕生」『機』2004年3月号(藤原書店)
◆原田正純・花田昌宣 20040330 『水俣学研究序説』藤原書店,371p.
◆原田正純 20070406 『豊かさと棄民たち――水俣学事始め』岩波書店(双書 時代のカルテ),126p.
◆花田昌宣 20170501 「インクルーシブな避難所と水俣学の経験――地域に根差した学と社会運動」『現代思想』45-8(2017-05): 96-104〔特集=障害者――思想と実践〕
第15回:「永野三智」[2019/01/15]
【導入】
◆《ETV特集:ふたりの道行き》「志村ふくみと石牟礼道子の“沖宮”」
2019年1月19日(土)午後11時00分〜午前0時00分
NHK−Eテレ
http://www4.nhk.or.jp/etv21c/x/2019-01-19/31/11130/2259646/
“水俣を描き続けてきた作家・石牟礼道子さんと、長年の友人で人間国宝の染織家・志村ふくみさん。二人が最晩年をかけ挑んだ「能」にこめられた思いに迫る。”
◆
第44回カライモ学校「カライモブックスで水俣と石牟礼道子さんのことを話す」
日時:2019年2月24日(日)14:00〜16:00(13:30開場)
場所:カライモブックス(京都市上京区社横町301)
話し手:奥田直美・奥田順平(
カライモブックス)
聞き手:実川悠太(
水俣フォーラム)
定員:20名
入場料:1000円
☆ご予約ください
karaimobooks@gmail.com / 075-203-1845(カライモブックス)
◆藤本和子 19821030 『塩を食う女たち――聞書・北米の黒人女性』晶文社,227p.→20181214
岩波書店(岩波現代文庫:文芸303),288p.
- この本を読みながらぼくはずっと石牟礼道子の『苦海浄土』のことを考えていた。あれもまた近代工業国家で漁民という前近代的な地位に置かれ、なおかつ水俣病という宿痾を押しつけられた、つまりは黒人であって女でもあるというのと同じ二重の軛に苦しむ人々の話であり、決して単純なインタビュー集ではないがそういう側面も持つ▽△偉大な文学作品である。┃(pp.261-262|池澤夏樹「解説」)
- 閉じこめられたくない、という気持を抱いてわたしは暮らしてきたと思う。永遠に傷つくことのないかに見える【傍点:にほん】的な共同体意識や、図式に変身しがちな思想の数々に閉じこめられたくないと。意識をくり返し脱皮し、ひろびろと視野を開いて、生の実質をつかみたいのだと感じてきた。他者のたたかいを見ることは、とりわけ生▽△の実質を語る力を持つたましいの遺産を受け継いできたかにみえる、これらの女たちの言葉に接触できたことは、それについて多くの手がかりを与えてくれた。┃(pp.251-252「あとがき」)
- この聞き書を記したわたしという者は、他者の理解ということを過程として考えているようだ。自らを生み出すためのプロセスの一側面であると。無色透明のわたしが耳を傾けるのではなく、自分は誰なのか、と問い続けながら、わたしをつくってきた私的な体験や、歴史の背景や、にほん人としての意識の質を問い続けながら、同時に相手のことばを、相手の、独自の体験と歴史を精神世界の脈絡の中でとらえ、わかろうとつとめることだ。[…]拮抗する磁場はどこか、共有する磁場はどこか。ただ身をすりよせて行くことでもなく、ただ客観視する(純粋に客観視することなど、ありえないことだが)ことでもなく、わたしの思想の欠落部分を指示してくれるものを知るようにすることでなければならない。┃(p.252「あとがき」)
- 聞き書の作業の過程で大変力を貸してくれた黒人女性の一人は、彼女がそうと公言しなければわからないほど、皮膚の色は白く、わたしたちは皮膚の色とは一体何なのかということについて話し合ったが、彼女はこの問題はとことんまで煮つめて考えられていないもので、それはあまりにも問題が複雑なのだからと前置きして、しかし「断言するけど、あたしは黒人なの。なぜ自分は黒人だといわずに、白人として通してしまわないのか、とたずねる白人もいる。黒人であるとは、精神的な範疇であり、心理的な範疇であり、同時に社会的事実だということが、そういう人には全く理解できていないわけよ」といった。|わたしたちは「皮膚が黒いばかりに差別されて」などと不用意に決まり文句を使うのだが、アフリカ系アメリカ人と、またブラックスと自らを呼称する人々を結んでいるのは皮膚の色だけではなく、それを超えたものですらある歴史体験の共有と、体験の意味をさぐろうとするこころの作用なのだ。経済的身分や社会的身分が白人と同等になれば、あるいは褐色の皮膚を白く漂白してしまえば、アフリカ系アメリカ人やブ▽△ラックスと自称する人びとが消えてしまうわけではないということ。作家のトニ・モリスンは「黒人の文化遺産を、精神の遺産を守れ。われわれはアメリカにおける異族であるなら、異族であり続けよう。それを諦めてしまうことは、われわれの存在の根を根こそぎにすることだ。そのようなことがあってよいのか」と問うている。そして女たちはそれぞれ、それぞれにふさわしいやりかたで、その存在の根について考えているのだ。生活の真只中にあることがらを通して。女であるとは、黒人の女であるとは、どういうことなのかという問を通して。|わたしはそれを知りたいと思った。彼女らが自らの体験を語るのに耳をすますことができれば、いくらかでもわかるかもしれない、そしておそらく、彼女らが個の歴史を掘り起こす声の中から、「知る」だけではなく、学ぶことができるだろうという確信のようなものさえあった。彼女らは、また、個的な体験を、めんめんと過去に遡る生の軌跡や、魂から魂へ残された血のような英知の遺産に結びつけて、それとの関係において捉えることもできる人びとだろうという確信もあった。それはその通りだった。そのような彼女らの語り声は、わたしたちの背の向こうで、いつか声を与えよと待っている日本の女たちの生を掘り起こし、彼女らの名を回復しようとするわたした▽△ち自身に力を貸してくれるかもしれない。|おおやけの場でも、彼女らはその仕事を始めている。それは痛みと、また一つの力を意識するところから出発した。アフリカ系アメリカ人の、とひと纏めにされていた歴史から、黒い女たちの歴史を引き出してみること。彼女らは彼女らについてつくり上げられてきたステロタイプに、そのイメージに長いこと傷ついてきた。そして一方には、自らの過去や経験を名付けることがなされていないのではないか、いや、なされていたとしても、それをそのような歴史の追求として明らかにしていないのではないかという焦燥があった。[…]黒人の女であるということはどのようなことなのか、それを名付け、それについて語る言葉を探しているのだ。┃(pp.19-21|「生きのびることの意味」)
- 彼女らを理想化したり、ロマンチックな目で眺めることではなく、つねに正と負のエネルギーや衝動が引き合っている共同体の中で毎日を生きている女たちの像を、その動態のうちにとらえることはできるか。話を聞かせてもらって、そのことを聞き書として伝えようとする者の責任は何か。開かれたこころを裏切らないとは? しかも、トニ・ケイド・バンバーラが語ったように、「黒人社会にあることを言葉でいおうとしたって、半分も表現できないと思う。実際に生起することなのに、それを描写できる言語がないわけ。社会科学の対象になるべきことがらなのに用語がない。そういう現象はぼんやりした目には映らないし、偏見のある目にも見えてこない。詩人だって、う▽△まく表現できないようなことがらなの。新しい言語が必要なのよ」――という状況もあるのだから。けれども同時に、彼女らは、ひとりひとりが語り手でありうる伝統に支えられてもいる。┃(pp.24-25|「生きのびることの意味」)
◇水俣病を「聞く」ということ
◆栗原彬編 20000218 『証言 水俣病』岩波書店(岩波新書新赤版658),216p.
◇水俣の歴史・環境・風土――を破壊したシステム
◇闘いの過程と個々の生活世界
◇「私」の潜在的加害者性――をどう認識するか
━━━
◆永野三智 20180912 『みな、やっとの思いで坂をのぼる――水俣病患者相談のいま』ころから,252p.
◇相談者・支援者(not 調査者・研究者)
◇闘争・支援の場/オルタナティブな場
◇患者:引き裂かれた立場/複層的な・交錯した背景――それを引き出せる/読み取れる立ち位置
◇「寝た子を起こし続ける」:役割/使命
◇石牟礼的なスタンス――継承と差異
◇「遅れてきた」世代――のアドバンテージ
◇「聞き手」が(語り手に)「(責任を)問う」ということ:その強度をもった活動の条件/ありかたとは――調査者・研究者はどう引き受けるのか
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◆永野三智 201608 「水俣病患者ではない者が語り継ぐことの可能性を信じて」『まなぶ』714: 27-29〔特集=平和をつむぐ力〕
◆永野三智 201704 「[明日をかえる法人――新たな人権への取り組み:第20回]水俣病を通して社会に問いかける――水俣病センター相思社の取り組み」『ヒューマンライツ』349(2017-04): 42-47
◆永野三智 20171201 「水俣病事件の経緯・現状・課題と水俣病センター相思社」『同時代史研究』10: 92-98〔同時代史の現場――水俣病事件をめぐる同時代史〕
◆永野三智 20180530 「悶え加勢する」『[文藝別冊]石牟礼道子――さよなら、不知火海の言魂』河出書房新社(KAWADE夢ムック),pp.35-39
◆永野三智 201809 「[自著を語る]水俣病――何をもって終わりとするのか 「悶え加勢する」相思社でありたい(永野三智『みな、やっとの思いで坂をのぼる』)」『総合文化誌 KUMAMOTO』24: 168-174
◆旗野秀人×永野三智 20181207 「[連載:「佐藤真の不在」との対話 第3回]水俣病発生から【遅く来た若者】だからできること(後編)」里山社
◆旗野秀人×永野三智 20181214 「[連載:「佐藤真の不在」との対話 第4回]水俣病発生から【遅く来た若者】だからできること(後編)」里山社
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◆井川加菜美 20160502 「水俣病60年/下 「相思社」で患者の相談役 永野三智さん」『毎日新聞』西部朝刊
◆今も終わらない水俣病被害語る 京都で出身者講演
2018/01/27_23:50 『京都新聞』
◆水俣病“閉ざした思い”一冊に 相思社の永野さん、40人から聞き取り
2018/09/11付 『西日本新聞』朝刊
◆荻上チキ Session-22 20181102 「【音声配信】特集「水俣病公害認定から50年。相談窓口となってきた相思社の永野三智さんに聞く、被害者たちのいま」永野三智×荻上チキ 2018年11月1日(木)放送分(TBSラジオ「荻上チキ・Session-22」22時〜)」TBSラジオ
◆石原真樹 20181109 「永野三智 水俣病センター相思社職員――タブーの扉開き 水俣の苦悩聞く」『中日新聞』**面《あの人に迫る》→20181110 『東京新聞』21面《あの人に迫る》
◆久米宏 ラジオなんですけど 20181215 「あなたは魚(いを)の骨になりなさい 水俣病センター相思社・永野三智さん」TBSラジオ
◆[ひと]永野三智さん 水俣病と認められていない人たちの言葉を本にした
2018年12月22日『朝日新聞』東京朝刊2面(総合)
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cf. ◇一般財団法人水俣病センター 相思社
・「水俣病センターキノコ工場相思社につとめる患者、坂本登さんと緒方正人さん、そして膨大な患者たちを世話している若者二人が、熊本県警に逮捕された事件の中に呼びもどされた時、わたしはしきりに遺言状の草稿と、死んだ直後に自分が見ている葬式について思いめぐらしていました。」(石牟礼 [1977] 2004: 168)
・「水俣病認定申請協議会は、このあたりの「水俣病センター相思社」に本拠を構えていて、熊本県当局および、熊本地方検察庁や熊本県警、そしてこれをあやつるものたちにとって、厄介な集団に育ちつつありました。」(石牟礼 [1977] 2004: 169)
■参考
対象候補とした(が取り上げられなかった)もの
■第**回:「最首悟」[2018/**/**]
◇最首悟
◆最首悟 20130222 「「いのち」から医学・医療を考える」高草木光一編『思想としての「医学概論」――いま「いのち」とどう向き合うか』岩波書店,235-315
+「シンポジウム 「医学概論」の射程――一九六〇年代から三・一一後へ」高草木光一編『思想としての「医学概論」――いま「いのち」とどう向き合うか』岩波書店
◆最首悟・丹波博紀編 20071215 『水俣五〇年――ひろがる「水俣」の思い』作品社
◆立岩真也 20080801 「再掲・引用――最首悟とその時代から貰えるものを貰う」『情況』第3期9-9(2008-08): 59-76
cf. ◆立岩真也 20030725 「最首悟の本」(医療と社会ブックガイド・29)『看護教育』44-07(2003-07)
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■第**回:「宇井純」[2018/**/**]
◇宇井純
◆宇井純 19680720 『公害の政治学――水俣病を追って』三省堂(三省堂新書30),216p.
◆宇井純編 19910215 『谷中村から水俣・三里塚へ――エコロジーの源流』(思想の海へ[解放と変革]24)社会評論社,328p.
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■第**回:「栗原彬」[2018/**/**]
◇栗原彬
◆栗原彬編 20000218 『証言 水俣病』岩波書店(岩波新書新赤版658),216p.
◆栗原彬(聞き手:立岩真也・天田城介) 20080307 「歴史のなかにおける問い――栗原彬先生に聞く」立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点『時空から/へ――水俣/アフリカ…を語る栗原彬・稲場雅紀』(生存学研究センター報告2)立命館大学生存学研究センター,pp.13-49
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◆石牟礼道子編 19730710 『不知火海――水俣・終りなきたたかい』創樹社,316p.
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▼「反近代」と「女のからだ」――1970年前後
◆荻野美穂 20140320 『女のからだ――フェミニズム以後』岩波書店(岩波新書新赤版1476),248p.
「米津〔知子〕がのちに大橋由香子との対談(『現代思想』一九九八年二月号)で述べているように、リブの「母性」重視には次のような側面もあった。|「当時は公害や薬害が噴出していた時代で、科学技術への根底的な批判も出てきて〈反近代〉が一つの理念になっていた。その〈反近代〉の拠り所として、月経のある女のからだ、子宮や産むからだを肯定するためには、ある意味で母性的な感覚を大事にしていた」。」(p.121)
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◆関礼子ゼミナール編 20161220 『阿賀の記憶、阿賀からの語り――語り部たちの新潟水俣病』,新泉社,248p. ISBN-10: 4787716107 ISBN-13: 9784787716101 2000+ [amazon]/[kinokuniya]
◆姉歯暁 20180830 『農家女性の戦後史――日本農業新聞「女の階段」の五十年』こぶし書房,280p.
関連する情報
◆石牟礼道子
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◇立命館大学産業社会学部2017年度後期科目「質的調査論(SB)」(担当:村上潔)
‐ 第15回:「古典(3)石牟礼道子」[2018/01/19]
◇立命館大学産業社会学部2018年度前期科目「質的調査論(SA)」(担当:村上潔)
‐ 第7回:「記録と記憶――近いがゆえに捨て置かれる「歴史」」[2018/05/23]
‐ 第8回:「「感情」を記録する――価値づけられない言葉を集め・残すこと」[2018/05/30]
‐ 第9回:「言葉にできないこと/言葉をもたない人・もの――を言葉にする」[2018/06/06]
‐ 第15回:「語りを聞くこと、記録すること(5)――詩的叙述と「現場」実践の両立」[2018/07/21]
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◆水俣病
◇水俣病 2018
◇水俣病 2019
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◆五味洋治 20170120 「林えいだい 記録作家」『中日新聞』《あの人に迫る》
“炭鉱で知られた福岡県・筑豊を拠点に活動する記録作家の林えいだいさん(83)が、昨年秋五十七冊目となる本を出版した。これまでも公害や炭鉱労働の実態、特攻隊員、朝鮮人強制労働など、歴史に巻き込まれ、犠牲となった人びとの証言や写真を丹念に集め、本にまとめてきた。林さんを歴史の記録に駆り立てる原点は、どこにあるのだろう。福岡の自宅を訪ねた。”
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◆前山光則 20180929 「水俣病の人と悶え、加勢する――『みな、やっとの思いで坂をのぼる』永野三智著」『西日本新聞』朝刊書評面《読書館》
◆野矢茂樹 20181006 「(書評)『みな、やっとの思いで坂をのぼる 水俣病患者相談のいま』 永野三智〈著〉」『朝日新聞』東京版朝刊30面(読書2)
https://www.asahi.com/articles/DA3S13711598.html
◆『みな、やっとの思いで坂をのぼる』刊行記念トークイベント:
「私たちの日常は近く、あるいは遠く水俣病と接している」
日時:2018年10月20日(土)14:00〜16:30(13:45開場)
話し手:永野三智(水俣病センター相思社職員)
聞き手:崎山敏也(TBSラジオ記者)
入場料:1500円(税込/ワンドリンク付き)
会場:エディトリ神保町(東京都千代田区神田神保町2-12-3 安富ビル2F)
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◆熊本学園大学水俣学研究センター:第15期公開講座「負の歴史をどう語り継ぐのか――次世代による負の遺産の伝承とは」
期間:2018年10月2日から10月30日までの毎週火曜
時間:18:30〜20:30
会場:水俣市公民館第1研修室
後援:水俣市教育委員会
◆小説家・保坂和志 トークライブ in 京都
◆人文研アカデミー連携企画「石牟礼道子さんの世界にふれよう」
講師/コーディネーター:藤原辰史(京都大学准教授)
2018年10月19日(金)・20日(土)
於:熊本市立図書館集会室ほか
◆ETV特集「写真は小さな声である〜ユージン・スミスの水俣〜」
2018年11月10日(土)午後11時00分〜午前0時00分
NHK Eテレ1
“写真集「水俣」で知られるユージン・スミス。今年生誕100年を迎えた彼のプリントや撮影時の録音が公開された。水俣に住み込み、患者さんの姿を世界に伝えた素顔に迫る。
公害の原点・水俣を世界に伝えたアメリカの写真家ユージン・スミス。その膨大なプリントや取材時の録音テープが公開された。従軍カメラマンとして太平洋戦争の激戦地を撮影した彼は、沖縄で負傷。戦後、近代化の影で切り捨てられようとした弱者に目を向けていく。妻・アイリーンと水俣に住み込み、患者さんに向き合い続けた日々。初公開の資料や患者さんらの証言から、悩みながら水俣を撮り続けたユージン・スミスの素顔に迫る。”
cf. ◇ユージン・スミス
◆いま石牟礼道子をよむ
出演:高橋睦郎×三浦しおん×伊藤比呂美
2018年11月10日(土)開演19:00(開場18:30)
於:Denkikan[熊本市中央区]
主催:熊本文学隊
◆社会運動史を学びほぐす――小杉亮子著『東大闘争の語り――社会運動の予示と戦略』を読む
2018年11月11日(日)14:00〜17:00
於:かぜのね(多目的カフェ)[京都市左京区]
コメンテーター:田村あずみ(滋賀大学)・原口剛(神戸大学)
主催:
大野光明・小杉亮子・森啓輔
参加費:無料・カンパ制
◆第43回カライモ学校:『みな、やっとの思いで坂をのぼる――水俣病患者相談のいま』刊行記念トーク
日時:2018年12月22日(土)15:00〜17:00(14:30開場)
話し手:永野三智さん(水俣病センター相思社)
聞き手:奥田直美・奥田順平(カライモブックス)
場所:カライモブックス(京都市上京区社横町301 http://www.karaimobooks.com/)
定員:30名
入場料:1000円
ご予約ください karaimobooks@gmail.com / 075-203-1845 (カライモブックス)
cf. 永野三智 201809** 『みな、やっとの思いで坂をのぼる――水俣病患者相談のいま』,ころから,256p.
◆大阪版『みな、やっとの思いで坂をのぼる』刊行記念トーク
日時:2018年12月23日(日)15:00〜17:00(14:30開場)
話し手:永野三智さん(水俣病センター相思社)
聞き手:牧口誠司さん
参加費:1,500円(1ドリンク付)*前売り・当日とも
会場:天劇キネマトロン朱雀ホール(地下鉄中崎町駅下車4番出口を北へ徒歩3分 セブンイレブンを通り過ぎて次の角を右へ http://amanto.jp/groups/tengeki)
主 催:永野三智トークショー大阪実行委員会
協 賛:サロン・ド・アマント天人
連絡先:maganoyatto@yahoo.co.jp
◆追悼シンポジウム「石牟礼道子 死者と魂」
開催日時:2018年12月23日(日)13:00〜17:30(受付12:00〜)
会場:上智大学四谷キャンパス10号館講堂
定員:500名
受講料:【一般】2,500円 【東京自由大学会員、上智大学グリーフケア人材養成講座受講生】1,500円 【学生】1,000円
主催:上智大学グリーフケア研究所/NPO法人東京自由大学
◆栗原康(政治学者)+森元斎(哲学者)+中里勇太(文芸評論)「半島のアクチュアリティ――島原、若松、石牟礼道子を巡って」(『半島論――文学とアートによる叛乱の地政学』(響文社)第三回刊行イベント)
日時:2019年1月26日(土)15:00〜17:00(開場14:30)
入場料:1000円
場所:長崎書店3Fリトルスターホール[熊本市]
◆平成30(2018)年度伊丹市立中央公民館市民講座「石牟礼道子の世界にふれる」
◆第44回カライモ学校「カライモブックスで水俣と石牟礼道子さんのことを話す」
日時:2019年2月24日(日)14:00〜16:00(13:30開場)
場所:カライモブックス(京都市上京区社横町301)
話し手:奥田直美・奥田順平(
カライモブックス)
聞き手:実川悠太(
水俣フォーラム)
定員:20名
入場料:1000円
☆ご予約ください
karaimobooks@gmail.com / 075-203-1845(カライモブックス)
*作成:村上 潔(MURAKAMI Kiyoshi)
UP: 20181002 REV: 20181003, 06, 07, 09, 10, 11, 15, 16, 17, 20, 23, 24, 29, 31, 1105, 07, 12, 13, 14, 20, 22, 25, 28, 1204, 09, 11, 17, 19, 20, 23, 24, 26, 27, 20190110, 12, 14, 15, 22, 24
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事項
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石牟礼道子
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水俣病
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水俣病 2018
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水俣病 2019