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Smith, William Eugene

ユージン・スミス
1918/12/30 - 1978/10/15

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last update: 20180301

生誕100年 ユージン・スミス写真展
 (2017年11月25日〜2018年1月28日 於:東京都写真美術館地下1階展示室)
 http://crevis.co.jp/exhibitions/exhibitions_084.html
 W.ユージン・スミス(1918-1978)は、写真史上、もっとも偉大なドキュメンタリー写真家のひとりです。グラフ雑誌『ライフ』を中心に「カントリー・ドクター」、「スペインの村」、「助産師モード」、「慈悲の人」など数多くの優れたフォト・エッセイを発表し、フォト・ジャーナリズムの歴史に多大な功績を残しました。とりわけ日本とのかかわりが深く、17歳のときニューヨークで偶然であった日系写真家の作品につよい感銘をうけ写真の道を志すきっかけになったこと、太平洋戦争に従軍して、戦争の悲惨で冷酷な現実をカメラで世に伝えんとして自らも沖縄戦で重傷を負ったこと、戦後の日本経済復興の象徴ともいえる巨大企業を取材した「日立」、その経済復興の過程で生じた公害汚染に苦しむ「水俣」の漁民たちによりそった取材などがあります。
 本展覧会は、生誕100年を回顧するもので、スミス自身が生前にネガ、作品保管を寄託したアリゾナ大学クリエイティヴ写真センターによる協力のもと、同館所蔵の貴重なヴィンテージ・プリント作品を150点展示します。情報あふれる現代社会に生きる私たちにとって、ジャーナリズムの原点をいま一度見つめ直すきっかけになることでしょう。

◆徳山喜雄/Yahoo!ニュース特集編集部 2017/12/26 「「写真はときには物を言う」――水俣を世界に伝えた米写真家の軌跡」(Yahoo!ニュース)
 https://news.yahoo.co.jp/feature/836

◆岡本晃明 2017/**/** 「京都から語る水俣病公式発見60年(下)「宝子」の写真――未来へ絶望しないために」(『京都新聞』)
 写真集「MINAMATA」の日本版(1980年出版)を開くと、作家石牟礼道子さんの献辞がある。
 《ここは選ばれた聖地であり荒野である。仏典や聖書は現代においては生ま身の苦しみを描いた倫理の規範だけれども、生きている聖地には毒と血がながされる》
 世界に「公害」を知らしめた写真集は、世界的写真家故ユージン・スミスさん(78年没)と妻アイリーン・美緒子・スミスさんが71年から熊本県水俣市に3年間住み込み、撮影した共作だ。なかでも母親が胎児性水俣病の娘を抱き入浴している写真は、教科書にも掲載され、オバマ米大統領も自伝で少年時代の思い出として記したほど、世界の人々の心を揺り動かした。
 チッソの工場が海に流した水銀を母胎で受け重い障害がある少女と慈しむ母。上村智子さんは21歳で亡くなった。  アイリーンさん(65)はその後、京都市左京区で暮らし、反原発運動や環境問題に取り組む。98年、両親から「もう智子を休ませてあげたい」との思いを聞いた。水俣病患者救済に尽力した故原田正純医師によると、両親は「あの子は宝子【ルビ:たからご】だった」と話したという。
 アイリーンさんは両親と話し合った。主催者ではなかったが、東京での写真展でチラシやチケットにもあの写真が印刷され、路上で踏まれることがあった。「それは踏みにじること。ご両親の気持ちを無視することは冒涜*記事では旧字体*【ルビ:ぼうとく】です。私も娘がいます。親にとっては『偉大な写真』ではなく、娘の裸の写真なのです」
 裁判や運動の先頭に娘と立ってきた両親の「公害が二度と起こらないように」との気持ちは変わらなかったが、アイリーンさんは両親に「この写真はもう出さない」と約束した。著作権はアイリーンさんが持つが、新たな著作物への使用は許可しないことにした。
 公害や負の記憶を語り継ぐすべを問うとき、「痛ましさ」を背負わされた被写体の思いを、時を渡ってどう汲むのか。アイリーンさんの決断は、写真にとどまらずジャーナリズムや表現にとって、重い問いを投げ掛けている。
 「反発も受けた。ケース・バイ・ケースと思う。でも撮られた側の思いや、いろいろな人の思いを経て、1枚の写真は世に出ていく」
 […]「MINAMATA」にユージン・スミスさんはこう記す。
 《過去の誤りをもって、未来に絶望しない人びとに捧げる》

◆花谷寿人 2017/09/05 「一点張り・論説室から――胎児性水俣病の「宝子」たち」(『毎日新聞』東京朝刊)
 https://mainichi.jp/articles/20170905/ddm/004/070/011000c
 【引用】「母と娘は米国の写真家、ユージン・スミスの写真集で、入浴の母子像として有名になった。智子さんは生涯一度も言葉を発することはなかったが、水銀の惨禍を強烈に世界へ伝えた。」

◆2000/11/10 「「入浴する智子と母」に関する写真使用をめぐって……──アイリーン・美緒子・スミス氏インタビュー」(『清里フォトアートミュージアム友の会・会報』11号)
 http://aileenarchive.or.jp/aileenarchive_jp/aboutus/interview.html
「アイリーン:どうしたら智子さんを大切にできるか、長い間ご家族と話し合って合意した結論が出版を控えるというものでした。当時、水俣で写真を撮っていた塩田武史さんの紹介で上村さんたちと知り合い、何度か通って母子を撮らせてもらうことになりました。1971年12月、大事な写真を撮るのだ。お風呂での撮影をユージンが提案し、お母さんが応じてくれました。私はユージンの横でスレーブライト(註2)を持ってアシストしました。ある意味ではこの写真はお母さん、智子さん、ユージンと私、みんなで撮った写真だという感じがします。」
「アイリーン:確かに、この一枚の写真で人生が決まったという方にも出会いましたし、そういう話しも沢山聞いています。水俣の撮影から20数年、私はそこでの出逢いを通して学んだことを生かすことが恩返しだと思って、公害や原発の問題に関わってきました。逆に、写真を見る側と上村さんと私とのコミュニケーションにウェイトを置いて、別の活動をすることもできたと思いますが、その選択をしなかったことに対して悔いはありません。みんながこの写真を見られなくなる、私、それが「たいしたことじゃない」とは決して思っていません。まったくその逆だと思います。|この写真を発表し続けることで、私自身ずっと重荷に感じていたことでもあるのですが──、水俣の写真について問い合わせがある時、必ずといっていい程、「あのお風呂の写真がほしい」と言われたのです。公害、水俣のことを多くの人に伝えようとすればするほどあの写真が使われる。|でも、今ではあの写真に依存し過ぎていたと思っています。今回、智子さんに「私はもう休みます」「あとはあなた達が頑張るしかない」そういわれたような感じがします。公害だったら別な方法で訴えなさいと。だから、作品がなくなることは、健康的な面もあるんじゃないだろうかと感じます。」
「アイリーン:ユージンは、「ライフ」で写真を撮っているときに、自分には責任が二つある、それは、撮られる側に対する責任と、見る側に対する責任だと。「ライフ」の編集は、「ライフ」があるからこの作品が世間に出たと思うでしょう。それも現実で、実際お世話になっている。|でも、ユージンの信念は自分が写した対象と見る対象に注がれている。出版社が主体ではないんだと。彼は、写された側と見る側への責任を果たせば、必然的に出版界に対する責任も果たしていると言ったんですよ。」


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9

◆Smith, William Eugene & Smith, Aileen M. 1975 Minamata, Holt, Rinehart and Winston Inc.=1980 中尾 ハジメ 訳,『写真集 水俣』,三一書房 ASIN: B000J8B96W [amazon]→19820228 『写真集 水俣 普及版』,三一書房,192p. ASIN: B000J7QJGI [amazon]→19911215 『写真集 水俣 新装版』,三一書房,192p. ISBN-10: 4380912450 ISBN-13: 978-4380912450 5150 [amazon] ※

■言及

原田 正純 19850120 『水俣病にまなぶ旅――水俣病の前に水俣病はなかった』,日本評論社,310p. ISBN-10: 4535575266 ISBN-13: 978-4535575264 2600 [amazon] ※ b
 (石牟礼道子、桑原史成、宇井純といった名を挙げて)「水俣病事件の歴史で、支援に立ちあがり、重要な役割を果たした人たちの中に、これらの名著、名写真の強<0307<い影響を受けた人たちがいた。
 まさに、これらは高度成長後のわが国の未来に対する一つの啓示であった。患者が立ちあがり、市民・学生が立ちあがり、学者・弁護士をまき込んで、第一次水俣病裁判ははじまった。その間、ユージン・スミスの写真集は、水俣の現実を世界中に拡げる大きな役割を果たしたのである。」(原田正純[1985:307-308]●)

◆2004/10/16 「関西水俣病訴訟・原告側勝訴確定 「問題根深い、悲しみ消えない」 元妻アイリーンさん 惨状を伝えた亡夫が撮影の写真、非公開に」(『京都新聞』朝刊)
 水俣病を世界に伝えた米国人写真家故ユージン・スミスの元妻のアイリーン・美緒子・スミスさん(五四)=京都市左京区=は十五日、判決を最高裁の法廷で聞いた。「真しに反省をしない国の態度は恥ずべき。まだ救済されていない患者も多く、闘いはこれからも続く」と力を込めた。
 水俣病の悲惨さを象徴するユージンさんの写真「入浴する智子と母」をアイリーンさんが非公開にして六年がたつ。
 一九七一年、水俣市に住んだスミス夫妻は当時十五歳の上村智子さんと母良子さん(七〇)の姿を撮影。写真は「被害を伝えたい」という両者の思いから生まれた。国内外の雑誌や写真集に掲載、学校の教科書にも使われるなど、公害を象徴する写真となった。
 湯ぶねの中で母親に抱かれる裸の少女。あばら骨が浮き、手足は硬直している。口を開けて目を見開く娘に、母は優しいまなざしを落とす。
 智子さんは生まれつきの重度の水俣病で、成人式では晴れ着姿で父に抱かれた。その翌年の七七年にこの世を去った。
 アイリーンさんが非公開にしたのは、九八年に智子さんの父好男さんから「もう休ませてやりたい」と聞かされたのがきっかけだった。
 好男さんは「写真がいたるところで使われ、ビラや広告の一部のような気がした。裸姿が痛々しかった。やっとうちに帰ってきたね、という思いですかね。智子は家族全員の毒を持って行ってくれた『宝子』です」と静かに語る。
 撮影から三十三年。京都で暮らすアイリーンさんは「これからも『見られない写真がある』という事実で、水俣を伝えることはできる。一つの区切りを迎えるまで要した歳月の長さは、水俣病が抱える問題の根深さそのもの。最高裁裁判決が終わっても悲しみは消えない」と語った。
【写真説明】「入浴する智子と母」を掲載した写真集「MINAMATA」を手に、智子さんへの思いを語るアイリーン・美緒子・スミスさん(京都市左京区)

◆『アエラ』 アイリーン・スミスの「肖像」
 写真封印の経緯についての言及

◆2007

 「公害、環境問題の原点であり、現在に至るまで日本の戦後ジャーナリズムの歴史に大きな位置を占める水俣病の問題は、写真家ユージン・スミスが撮影した一枚の胎児性水俣病の少女の写真によって、世界に知られることになった。目を見開く少女を抱きかかえて入浴する母の写真は、大きな力を持った。少女は亡くなった。だが写真は近年、母の申し出により、京都在住の写真家の元妻の手で封印され、もう人の目に触れることはない。水俣病の発見、治療に尽力した原田正純医師は、苦い思いを込めて、こう語っている。
 「我々は、胎児性患者の姿を先頭に、公害の悲惨さを告発してきた。だがいつかそのことが、こんな悲惨な人間を生んでしまったと、重度障害者は悲惨だ、と見なすことになってはいなかったか。後に発生した新潟水俣病で胎児性患者が少ないことは、中絶が多かったからではないか。写真を封印したお母さんは、この子は宝子だった、もう十分働いたといっていた」。」(岡本[2007])

原田 正純 20071215 「水俣病公式発見から五〇年――宝子を想う」,最首・丹波編[2007:335-353]*
*最首 悟・丹波 博紀 編 20071215 『水俣五〇年――ひろがる「水俣」の思い』,作品社,368p. ISBN-10: 4861821657 ISBN-13: 978-4861821653 2940 [amazon][kinokuniya] ※ b ee

 「水俣高校で社会科の先生がユージンの智子の写真を見せて「環境を汚染するとこのような子どもが生まれる」と解説した。在校していた妹は手を挙げて「それは姉です。姉をそんな風に言わないでください」と涙ながらに抗議した。この教諭はその後、教育について深く考えさせられ、反省し真剣に障害と差別や人権と取り組むようになったと告白している。
 また、過剰なマスコミの取材の中、母親は東京交渉から帰ってきて智子を抱きしめながら「この子を見た多くの日本の人たちが、ああ、やっぱり、環境は汚してならない。怖いことが起こると、思ってくれたと思う。それで日本の環境が少しでもよくなって、会社や工場や政府の偉か人が、今から気をつけてくれるようになるなら、このような子ですけど、少しは世の中のお役にたったことになります。東京に行ってよかったと思います。やはり、この子は宝子ですたい」といかにもさらっと言った。いのちに”生きるべきいのち”と”生きる価値のないいのち”などあろうはずがない。
 この母親の言葉はとくに医療、福祉、教育の原点、いのちの価値を考えさせられるものでこれこそ、水俣からのメッセージである。」(原田[2007:350])

『唯の生』表紙 ◆立岩 真也 2008/09/05 『良い死』 ,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 [amazon][kinokuniya] ※ d01.et.,

 第2章「自然な死、の代わりの自然の受領としての生」の注25
 「(25)例えばユージン・スミスの写真がある(写真集に Smith & Smith[1975=1980→1982→1991]、桑原他[2007:<0227<59-76]にもユージン・スミスとアイリーン・スミスの写真が収められている)。石牟礼道子、桑原史成、宇井純といった名を挙げて原田は次のように記している。
  「水俣病事件の歴史で、支援に立ちあがり、重要な役割を果たした人たちの中に、これらの名著、名写真の強い影響を受けた人たちがいた。
  まさに、これらは高度成長後のわが国の未来に対する一つの啓示であった。患者が立ちあがり、市民・学生が立ちあがり、学者・弁護士をまき込んで、第一次水俣病裁判ははじまった。その間、ユージン・スミスの写真集は、水俣の現実を世界中に拡げる大きな役割を果たしたのである。」(原田[1985:307-308])
  その写真が後に「封印」されることになった。
  「公害、環境問題の原点であり、現在に至るまで日本の戦後ジャーナリズムの歴史に大きな位置を占める水俣病の問題は、写真家ユージン・スミスが撮影した一枚の胎児性水俣病の少女の写真によって、世界に知られることになった。目を見開く少女を抱きかかえて入浴する母の写真は、大きな力を持った。少女は亡くなった。だが写真は近年、母の申し出により、京都在住の写真家の元妻の手で封印され、もう人の目に触れることはない。水俣病の発見、治療に尽力した原田正純医師は、苦い思いを込めて、こう語っている。
  「我々は、胎児性患者の姿を先頭に、公害の悲惨さを告発してきた。だがいつかそのことが、こんな悲惨な人間を生んでしまったと、重度障害者は悲惨だ、と見なすことになってはいなかったか。後に発生した新潟水俣病で胎児性患者が少ないことは、中絶が多かったからではないか。写真を封印したお母さんは、この子は宝子だった、もう十分働いたといっていた」。」(岡本[2007])
  引用されている原田の発言は、二〇〇五年六月の「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」の発足集会での原田の講演の取材メモによる。そのメモをとった岡本晃明は――日本新聞協会賞を受賞した『折れない葦――医療と福祉のはざまで生きる』(京都新聞社編[2007])の取材班の一員でもあり、『生死本』で紹介するALS―D[2008]の書き手でもある――京都新聞の記者で、「関西水俣病訴訟・原告側勝訴確定 「問題根深い、悲しみ消えない」 元妻アイリーンさん 惨状を伝えた亡夫が撮影の写真、非公開に」という題・見出しの記事を書いている。
  「水俣病の悲惨さを象徴するユージンさんの写真「入浴する智子と母」をアイリーンさんが非公開にして六年がたつ。
  一九七一年、水俣市に住んだスミス夫妻は当時十五歳の上村智子さんと母良子さん(七〇)の姿を撮影。写真は<0228<「被害を伝えたい」という両者の思いから生まれた。国内外の雑誌や写真集に掲載、学校の教科書にも使われるなど、公害を象徴する写真となった。
  湯ぶねの中で母親に抱かれる裸の少女。あばら骨が浮き、手足は硬直している。口を開けて目を見開く娘に、母は優しいまなざしを落とす。
  智子さんは生まれつきの重度の水俣病で、成人式では晴れ着姿で父に抱かれた。その翌年の七七年にこの世を去った。
  アイリーンさんが非公開にしたのは、九八年に智子さんの父好男さんから「もう休ませてやりたい」と聞かされたのがきっかけだった。
  好男さんは「写真がいたるところで使われ、ビラや広告の一部のような気がした。裸姿が痛々しかった。やっとうちに帰ってきたね、という思いですかね。智子は家族全員の毒を持って行ってくれた『宝子』です」と静かに語る。
  撮影から三十三年。京都で暮らすアイリーンさんは「これからも『見られない写真がある』という事実で、水俣を伝えることはできる。一つの区切りを迎えるまで要した歳月の長さは、水俣病が抱える問題の根深さそのもの。最高裁裁判決が終わっても悲しみは消えない」と語った。」(『京都新聞』二〇〇四年一〇月一六日朝刊)
  そしてさらに別の本で、原田は次のように記している。
  「水俣高校で社会科の先生がユージンの智子の写真を見せて「環境を汚染するとこのような子どもが生まれる」と解説した。在校していた妹は手を挙げて「それは姉です。姉をそんな風に言わないでください」と涙ながらに抗議した。この教諭はその後、教育について深く考えさせられ、反省し真剣に障害と差別や人権と取り組むようになったと告白している。
  また、過剰なマスコミの取材の中、母親は東京交渉から帰ってきて智子を抱きしめながら「この子を見た多くの日本の人たちが、ああ、やっぱり、環境は汚してならない。怖いことが起こると、思ってくれたと思う。それで日本の環境が少しでもよくなって、会社や工場や政府の偉か人が、今から気をつけてくれるようになるなら、このような子ですけど、少しは世の中のお役にたったことになります。東京に行ってよかったと思います。やはり、この子は宝子ですたい」といかにもさらっと言った。いのちに生きるべきいのち≠ニ生きる価値のないいのち≠ネどあろうはずがない。<0029<
  この母親の言葉はとくに医療、福祉、教育の原点、いのちの価値を考えさせられるものでこれこそ、水俣からのメッセージである。」(原田[2007:350])
  普通に読んでいくと、原田のこの記述には辻褄のあっていないところがあるように思える。ではどう考えたらよいのか。あるいは言葉を足したらよいのか。そんなことを考えていくことが一つあるのかもしれない。」(立岩[2008:227-230])

◆山口 由美 20130427 『ユージン・スミス――水俣に捧げた写真家の1100日』,小学館,237p. ISBN-10: 4093798443 ISBN-13: 978-4093798440 1600+ [amazon][kinokuniya] ※ m34.

◆立岩 真也 2015/07/01 「生の現代のために・4――連載 113」『現代思想』43-(2015-7):-


UP:20080118 REV:20080125, 0202, 0626, 20130526, 20150702, 20180228, 0301
水俣病  ◇WHO

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