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ユージン・スミス 1918年12月30日〜1978年10月15日 ◆http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9 ◆原田 正純 19850120 『水俣病にまなぶ旅――水俣病の前に水俣病はなかった』,日本評論社,310p. ISBN-10: 4535575266 ISBN-13: 978-4535575264 2600 [amazon] ※ b (石牟礼道子、桑原史成、宇井純といった名を挙げて)「水俣病事件の歴史で、支援に立ちあがり、重要な役割を果たした人たちの中に、これらの名著、名写真の強<0307<い影響を受けた人たちがいた。 まさに、これらは高度成長後のわが国の未来に対する一つの啓示であった。患者が立ちあがり、市民・学生が立ちあがり、学者・弁護士をまき込んで、第一次水俣病裁判ははじまった。その間、ユージン・スミスの写真集は、水俣の現実を世界中に拡げる大きな役割を果たしたのである。」(原田正純[1985:307-308]●) ◆20041016 『京都新聞』2004/10/16付朝刊 「見出し:「関西水俣病訴訟・原告側勝訴確定 「問題根深い、悲しみ消えない」 元妻アイリーンさん 惨状を伝えた亡夫が撮影の写真、非公開に 水俣病を世界に伝えた米国人写真家故ユージン・スミスの元妻のアイリーン・美緒子・スミスさん(五四)=京都市左京区=は十五日、判決を最高裁の法廷で聞いた。「真しに反省をしない国の態度は恥ずべき。まだ救済されていない患者も多く、闘いはこれからも続く」と力を込めた。 水俣病の悲惨さを象徴するユージンさんの写真「入浴する智子と母」をアイリーンさんが非公開にして六年がたつ。 一九七一年、水俣市に住んだスミス夫妻は当時十五歳の上村智子さんと母良子さん(七〇)の姿を撮影。写真は「被害を伝えたい」という両者の思いから生まれた。国内外の雑誌や写真集に掲載、学校の教科書にも使われるなど、公害を象徴する写真となった。 湯ぶねの中で母親に抱かれる裸の少女。あばら骨が浮き、手足は硬直している。口を開けて目を見開く娘に、母は優しいまなざしを落とす。 智子さんは生まれつきの重度の水俣病で、成人式では晴れ着姿で父に抱かれた。その翌年の七七年にこの世を去った。 アイリーンさんが非公開にしたのは、九八年に智子さんの父好男さんから「もう休ませてやりたい」と聞かされたのがきっかけだった。 好男さんは「写真がいたるところで使われ、ビラや広告の一部のような気がした。裸姿が痛々しかった。やっとうちに帰ってきたね、という思いですかね。智子は家族全員の毒を持って行ってくれた『宝子』です」と静かに語る。 撮影から三十三年。京都で暮らすアイリーンさんは「これからも『見られない写真がある』という事実で、水俣を伝えることはできる。一つの区切りを迎えるまで要した歳月の長さは、水俣病が抱える問題の根深さそのもの。最高裁裁判決が終わっても悲しみは消えない」と語った。 【写真説明】「入浴する智子と母」を掲載した写真集「MINAMATA」を手に、智子さんへの思いを語るアイリーン・美緒子・スミスさん(京都市左京区) ◆『アエラ』 アイリーン・スミスの「肖像」 写真封印の経緯についての言及 ◆2007 「公害、環境問題の原点であり、現在に至るまで日本の戦後ジャーナリズムの歴史に大きな位置を占める水俣病の問題は、写真家ユージン・スミスが撮影した一枚の胎児性水俣病の少女の写真によって、世界に知られることになった。目を見開く少女を抱きかかえて入浴する母の写真は、大きな力を持った。少女は亡くなった。だが写真は近年、母の申し出により、京都在住の写真家の元妻の手で封印され、もう人の目に触れることはない。水俣病の発見、治療に尽力した原田正純医師は、苦い思いを込めて、こう語っている。 「我々は、胎児性患者の姿を先頭に、公害の悲惨さを告発してきた。だがいつかそのことが、こんな悲惨な人間を生んでしまったと、重度障害者は悲惨だ、と見なすことになってはいなかったか。後に発生した新潟水俣病で胎児性患者が少ないことは、中絶が多かったからではないか。写真を封印したお母さんは、この子は宝子だった、もう十分働いたといっていた」。」(岡本[2007]) ◆原田 正純 20071215 「水俣病公式発見から五〇年――宝子を想う」,最首・丹波編[2007:335-353]* *最首 悟・丹波 博紀 編 20071215 『水俣五〇年――ひろがる「水俣」の思い』,作品社,368p. ISBN-10: 4861821657 ISBN-13: 978-4861821653 2940 [amazon]/[kinokuniya] ※ b ee 「水俣高校で社会科の先生がユージンの智子の写真を見せて「環境を汚染するとこのような子どもが生まれる」と解説した。在校していた妹は手を挙げて「それは姉です。姉をそんな風に言わないでください」と涙ながらに抗議した。この教諭はその後、教育について深く考えさせられ、反省し真剣に障害と差別や人権と取り組むようになったと告白している。 また、過剰なマスコミの取材の中、母親は東京交渉から帰ってきて智子を抱きしめながら「この子を見た多くの日本の人たちが、ああ、やっぱり、環境は汚してならない。怖いことが起こると、思ってくれたと思う。それで日本の環境が少しでもよくなって、会社や工場や政府の偉か人が、今から気をつけてくれるようになるなら、このような子ですけど、少しは世の中のお役にたったことになります。東京に行ってよかったと思います。やはり、この子は宝子ですたい」といかにもさらっと言った。いのちに”生きるべきいのち”と”生きる価値のないいのち”などあろうはずがない。 この母親の言葉はとくに医療、福祉、教育の原点、いのちの価値を考えさせられるものでこれこそ、水俣からのメッセージである。」(原田[2007:350]) UP:20080118 REV:20080125,0202 ◇WHO |