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【2018年度】立命館大学産業社会学部「質的調査論(SA)」

"Qualitative Research Methods (SA)" [The First Semester of the 2018 Academic Year]
at College of Social Sciences, Ritsumeikan University.


授業期間[Class Term]:2018/04/11 - 2018/07/18(全15回[Total 15 lectures])
担当教員[Lecturer]:村上 潔MURAKAMI Kiyoshi

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last update: 20180725


【Index】
授業日程 ■授業の概要と方法 ■受講生の到達目標 ■講義内容 ●第1回 ●第2回 ●第3回 ●第4回 ●第5回 ●第6回 ●第7回 ●第8回 ●第9回 ●第10回 ●第11回 ●第12回 ●第13回 ●第14回 ●第15回 ■参考 ●対象候補とした(が取り上げられなかった)もの ●関連する情報

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■授業日程

@2018年4月11日 A4月18日 B4月25日 C5月2日 D5月9日 E5月16日 F5月23日 G5月30日 H6月6日 I6月13日 J6月20日【休講(地震の影響)】→6月27日 K7月4日 L7月11日 M7月18日 N7月21日(統一補講期間)

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■授業の概要と方法

この授業は、2017年度産業社会学部「質的調査論(SB)」(http://www.arsvi.com/d/2017qasmk.htm)を継承する性格の授業として位置づけられるものである。
端的に言って、この授業では、「質的調査(社会調査)自体を相対化する視座」を獲得することを目標とする。質的調査(社会調査)そのものを自明視することなく、その本質的・方法論的限界を確認し、それを補うアプローチのありかた、よりドラスティックに/内在的に対象に迫る思想的/倫理的/運動的立ち位置について検討し、理解を深める。
@質的調査(社会調査)とはいかなるものかを確認したうえで、A近年の意欲的な研究成果や提言、B古典的な作品がいまなお担保し続ける意義を読み解いていく。フィクション/ノンフィクション・ドキュメンタリー・記録文学・民俗誌・自然誌・文化誌・聞き書き・生活記録、といったキーワードにも適宜(クリティカルな観点から)言及していく。

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■受講生の到達目標

@質的調査(社会調査)そのものの性質を的確に理解する。
A質的調査(社会調査)が内包し、かつ実際に表面化する「問題」について、的確に理解する。
B質的調査(社会調査)を根本的に問う力をもつ古典的な作品について知り、その意義を理解する。
C質的調査(社会調査)の研究成果という枠を乗り越える影響力をもつ近年の成果を把握し、その意義を理解する。
D以上の過程を通して、質的調査(社会調査)のありかた自体を批判的に検証し、そのうえで自らの調査プランを明確にしていく視座を獲得する。


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■講義内容

第1回:「授業の進めかたについて/イントロダクション」[2018/04/11]

◇担当教員紹介
◇シラバス変更について
◇評価のつけかたについて
◇受講にあたって留意すること
◇この授業で扱うこと/扱わないこと
◇2017年度「質的調査論(SB)」の振り返り
━━━
◇Attitude/Spirit/Standpoint
◇歴史性・同時代性
◇[歩く]=[探す/調べる]=[読む]

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第2回:「なぜいま質的調査なのか(1)」[2018/04/18]

◆鈴木英生 2017/09/23 「[トレンド観測]Theme:「関西の社会学者」著作続々――マイノリティの現場を深く」『毎日新聞』東京朝刊
◇社会学の来歴と動向
◇社会学者と質的調査
‐ 相対化・イメージの言説ゲーム(ポストモダン・脱構築)
  ×
‐ 実質的・本質的・実直な調査への志向
◇「中央」との距離
━━━
▼【2017年度】立命館大学産業社会学部「質的調査論(SB)」
‐ 第5回:「最新研究成果(1):渡辺拓也『飯場へ――暮らしと仕事を記録する』(洛北出版/2017)」[2017/10/24]
‐ 第6回:「最新研究成果(2):有薗真代『ハンセン病療養所を生きる――隔離壁を砦に』(世界思想社/2017)」[2017/10/31]
‐ 第7回:「最新研究成果(3):上間陽子『裸足で逃げる――沖縄の夜の街の少女たち』(太田出版/2017)」[2017/11/07]

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第3回:「なぜいま質的調査なのか(2)」[2018/04/25]

◆村澤真保呂 2017/11/09 「開催趣旨文(カルチュラル・タイフーン2018の開催のお知らせ)」Association for Cultural Typhoon
◇社会的背景
貧困格差差別
‐ グローバリゼーション/ネオリベラリズム
‐ 制度・組織・現場の行き詰まり
◇「御用学者」と社会調査
‐ 権力性/権力の非対称性
‐ 「体制」/「官僚制」
‐ 忖度
‐ 業績主義
‐ 産官学協同/「協働」
cf.「コンプラ」
◎こうした課題を(調査の前で/あとで/なかで/外で)意識的に問題化すること
━━━
◆三枝三七子 2013 『よかたい先生――水俣から世界を見続けた医師 原田正純』学研教育出版 cf. 原田正純水俣病
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第4回:「なぜいま質的調査なのか(3)」[2018/05/02]

◇中央(中心)−周縁
‐ ヒエラルキー/権力性
‐ 狩り場/搾取
◇「大学」の「研究」が孕む「暴力性」
‐ 「調査」の名のもとに行使される「暴力」
‐ 国家の「眼」を体現
◆連載「帝国の骨」(10):「遺骨87体未返還、尊厳無視 <医の倫理根源 京大の収集>」(『京都新聞』2018年1月20日掲載)
「あなたの祖父や祖母が、番号を付けられ大学の研究材料にされているところを想像してほしい、と北海道で出会ったアイヌの人たちはいう。」
◆連載「帝国の骨」(11):「遺骨返還の風、京大拒否 <標本にされた「祖先」>」(『京都新聞』2018年1月21日掲載)
「時代の多数者の側の要請と、研究目的という「大義」はあったのだろう。だが得られた知識を現地の人に返さず、奪われる側の痛みにまひすれば、どうなるだろう。」
◆連載「帝国の骨」(12):「「学問のため」帝国と同化 <京大が持ち去った人骨>」(『京都新聞』2018年1月21日掲載)
「学問のためなら、それでも収集していいと考えていたなら、それは植民地主義との批判を免れない。」
━━━
◇小さな・名もなき者の歴史(× 大文字の歴史)
◆「文春オンライン」編集部 2017/08/13 「小さな声を拾い集めておかないと、単純な「歴史物語」に騙されてしまうから――音楽家・寺尾紗穂が「戦争」を書く理由」(特集=「戦争」を書く――「あのころ」を問い続ける新世代たち)『文春オンライン』
◇アカデミズムの境界線を越えるスタイル
━━━
◇メディアの変容・変質
‐ ドキュメンタリー/ノンフィクション/ルポルタージュの縮小
‐ 「ジャーナリズム」の威信低下
◇運動体の縮小・変質
‐ 制度化(NPOなど)
‐ 「対抗/抵抗/闘争」から「共生/協働/包摂」へ
‐ 当事者に代わって研究者が過去を記録する必要性

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第5回:「無自覚的な「正常」規範」[2018/05/09]

◇ナショナリズム/オリエンタリズム/植民地主義的目線
◇「国民」/「民族」/「辺境」/「異界」
◇「特殊性」を抽出する/暴きだす(国家の)欲望
◇統治・同化・訓化・序列化・排除
◇アカデミズム/ジャーナリズムによる批判と加担
◇マジョリティの「善意」によって作動する「暴力」
◇ネット社会が強化する単一規範
大野光明 2018 「[リレーエッセイ:家族のかたち 第5回]あたらしい人との暮らし(2)――まだ見ぬ世界の入り口で」『Chio通信』05: 4-5
◆マリアム・タマリ 2018 「[パレスチナの朝(134)]ハラジュク、ヒジャブ」『すばる』40-6(2018-06): 65

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第6回:「記録と記憶――プラットフォームの喪失のなかで」[2018/05/16]

◇近過去/現代史
◇調査をする/される/まとめる/読む際の前提となる「共通認識」
◇「共通の土壌」の無効化
 cf. 「教養装置」としてあった「渋谷系」
◇情報メディアの分散化と淘汰
‐ 出版不況/新書ブーム
◇ソースの遍在・フラット化
◇評価軸の溶解
 ――「批評」の不在
━━━
◇「見取り図」
‐ 中村佑子 Yuko Nakamura(@yukonakamura108)
「いまはいろんな時代のいろんな思想が、時代背景なしに再評価されたり称揚されたりして、思考の流れがグチャグチャという感覚が強いです。それは大きな地図を描く批評的言説が、iPhoneの手元の言葉たちに埋もれ、例えば『ぴあ』レベルでも俯瞰できる媒体の少なさが主因だと思う。」
[2017年11月29日11:41 https://twitter.com/yukonakamura108/status/935700117004283904]

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第7回:「記録と記憶――近いがゆえに捨て置かれる「歴史」」[2018/05/23]

◇「過去」に「される(されてしまう/してしまう)」こと
◆富樫貞夫 2017 『〈水俣病〉事件の61年――未解明の現実を見すえて』弦書房 ◆高峰武編 2018 『8のテーマで読む水俣病』弦書房 cf. 水俣病
━━━
◇記録することへの意識
 ……小さな歴史/顧みられない過去/消去される痕跡
◇記憶の消滅――への危機感
‐ 時代性
‐ 世代の断絶
‐ 語ることのできる人/つなげる人の希少性
‐ 微細なニュアンス
◇近過去/現代史という「穴」
山田真(聞き手:立岩真也) 2007/12/23 「山田真に聞く」
「〔立岩:〕この研究科で、病気や障害に関係する研究したいっていう人が割合たくさん来て、それ自体は歓迎なんですけれども、話したり、書いたものを見てる中で、「あぁそっかこんなことも伝わってないんだな」とか「知られてないんだ」っていうことにけっこう頻繁に出くわすんです。
 それが100年も200年も昔の遠いどこかのことであれば、それも当たり前かなとも思うわけですけども、そうではなくて、この国に起こった、30年、40年、20年前の出来事であったりしても、やっぱり知らない。端的に知らない。知られてないことっていっぱいあるんだなということは前から思ってまして、よく思うことなんですね。
 それでいいだろうかと。もちろん、人間の記憶容量には限界があるし、世の中にあることみんな覚えていられない。次々に忘れてしまっていいこともたくさんあるに決まってますけれども、そうとばかりも言えないことも、やっぱりこの領域に関しては、この領域に関しても、あるだろうと思うわけです。
 そういった意味で、まず非常にべたな意味で、「この間何があったのかしら」ということを記録にとどめておく仕事がやっぱり必要なんじゃないかということを痛感というか実感する部分がある。日本に限らず、この社会において何が起こって、それが今にどういう形で引き継がれたり、断絶したりしているのか、そういうことが気になる。それはそれとして押さえておきたい。ほっとけばなくなってしまう、薄れてしまう。それでぼつぼつとそんな仕事を始めているわけです。」

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第8回:「「感情」を記録する――価値づけられない言葉を集め・残すこと」[2018/05/30]

◇「公的」な言葉(「社会的・客観的・科学的」):語られる・書かれる→残る・残される
◇「公的」とみなされない言葉(「感覚的・感情的・主観的」):語り得ない・書かれない→残さない・残されない
◇「事実・理屈」:記録する価値があるもの×「感情・感覚」:記録する価値がない(とされる)もの
◇「感情」に対するセンシティヴィティ――調べる際/書く際/読む際のリテラシー
◇言葉にされない/されてこなかった感情を記録する→共有する(時代と場所を越えて)
◇同一性ではなく差異を体現する言葉――「パーソナル」な・「親密」な感情と記憶
━━━
◆田尻久子 2016 「被災地とことば――熊本発文芸誌『アルテリ』の六ヵ月」『震災学』9: 90-95→2018 「被災地とことば」『猫はしっぽでしゃべる』ナナロク社: 70-77 ◇(一括りに)「被災者」と「される」ことへの(表明されない)戸惑い・負い目
 cf. 「被害者」・「被差別者」・「障害者」
◇語ることへの葛藤――語れる状況にあること
◇発したい言葉・発せられない言葉・つぶやき
 cf. 記録されることのない「欲される言葉」
◇日常的でありすぎて言葉にされない気持ち・ふるまい――を書きとめる
◇言葉を「社会化・序列化」することなく、こぼれる言葉を拾い集め・残す。
━━━
◆中村佑子 2018 「私たちはここにいる――現代の母なる場所[連載第三回]」『すばる』40-6(2018-06): 272-289 ◇女性性/母性――感覚でしか捉え得ないもの/当事者が言葉を残さないもの
◇上/外からの同一化(の力)を拒否しつつ(その外側にこぼれる)通底で分かち合える言葉を探し・集めること
◇ジェンダー:[理屈=男]×[感情=女]――価値の序列
◇当事者性を越えること――をどのように目指すのか
◇誰が言葉を「与える」のか/言葉をもたない人の言葉を誰が書くのか

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第9回:「言葉にできないこと/言葉をもたない人・もの――を言葉にする」[2018/06/06]

◆田尻久子 2018 「写っていないもの」『猫はしっぽでしゃべる』ナナロク社: 98-107 ◇非言語表現のもつ両義性
‐ 言葉で捉えることとの断絶と接続可能性
‐ 物質性と潜在するイメージ
◇記憶・感情をとどめ/喚起する力
‐ 記録であり表現
‐ 「読む」側の主体性と受動性
━━━
◆田尻久子 2018 「錆びたトタン」『猫はしっぽでしゃべる』ナナロク社: 134-141 ◇個人的資質+社会的意味+他者の記憶
◇変わっている感触に対する認識――それ自体を書く(ことの意義)
━━━
◆田尻久子 2018 「ことば」『アルテリ』5→2018 『猫はしっぽでしゃべる』ナナロク社: 142-153 ◇聞き取る・読むという行為そのものを自己対象化する
‐ 暴力・傲慢・搾取×矛盾・葛藤
◇表象不可能性
‐ 環境/生物/気配(風・音・空気)
‐ 非文字・非言語文化(風習・祭祀・踊り)
‐ 整合性のない感情
‐ 聞き手(調査者)が耐え得ない重さの言葉
◇表象代行
‐ 言葉を「奪われた」存在
「サバルタン」
 cf. ポストコロニアル/ポストコロニアリズム
‐ (研究者による)二次的な文化収奪
‐ 修正主義
◇代弁
石牟礼道子
‐ 「悶え神」

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第10回:「言葉を集積する/集積された言葉を探す」[2018/06/13]

◇アーカイヴ/アーカイヴィング
◇収集・整理・公開・研究(利用)
━━━
◇なぜ集めるのか
‐ 保管:「記録」として残すこと
‐ 多様な主体(研究者/当事者/関係機関)が参照可能な状態にすること
◇「公」(国・自治体)がやること/やらないこと
‐ 事業の縮小
‐ 対象の選別
━━━
◇大学(学術機関)の役割
@立命館大学生存学研究センター
arsvi.com:立命館大学生存学研究センター
◆立岩真也 2016 「アーカイヴィング」立命館大学生存学研究センター編『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』生活書院
◆立岩真也 2016/11/07 「病者障害者運動史研究――生の現在までを辿り未来を構想する」(2017年度科学研究費(基盤B)申請書類)
A熊本学園大学水俣学研究センター
水俣学アーカイブ
水俣学研究センター所蔵資料データベース
水俣学プロジェクト
━━━
◇大学というシステムから離れて――社会教育として/当事者支援として/地域を基点にアカデミアをつなげるために
B一般財団法人水俣病センター 相思社
「相思社について」
「資料整備 相思社の存在理由として」
「相思社で卒業論文・修士論文・博士論文を書いてみませんか」
cf. 「「水俣病の記録」劣化の危機 見学施設「歴史考証館」が老朽化 ネットで改修費の寄付募る」(2018年6月17日『西日本新聞』朝刊)
━━━
◇[当事者―運動―地域]というつながり
◇アカデミアが下支えを担う(後方支援)
◇調査者・研究者による[当事者―運動―地域]へのコネクト(導入口としてのアーカイブ)

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第11回:「語りを聞くこと、記録すること(1)」[2018/06/27]

◇領域
‐ 歴史学
‐ 民俗学
‐ 文化人類学
‐ 社会学
‐ 政治学
◇ことばをめぐる方法論
‐ 実証主義
‐ 構造主義
‐ 構築主義
◇語られることばをどう扱うか
‐ 国家的記録
‐ 文献史料の補完
‐ ことばのもつ役割・機能の相対化/脱構築
‐ 信仰のことば/オノマトペ――意味論を越えて
cf. 国立民族学博物館
◇発せられることばの性質
‐ 発する主体は誰か(機関か個人か/身分/ジェンダー)
‐ 「公」:大文字の「政治(まつりごと)」の領域
‐ 「私」:一個人/庶民/住民/生業/生活/「おんなこども」……
‐ 公私の同居(グレーゾーン)――[例]村の青年団/婦人会の寄合
‐ 祭礼
◇なぜ聞き取るのか/記録するのか――は諸要因の複合によるヴァリエーション

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第12回:「語りを聞くこと、記録すること(2)」[2018/07/04]

◇何を聞くのか
‐ 歴史(記憶・体験)
  |連続/往還
‐ 現在(状況・活動)
◇なぜ聞くのか
‐ 記録(アーカイブ)
‐ 教育(啓蒙)
‐ 政治(政策)*アドボカシー
‐ 社会運動
‐ 当事者運動 *エンパワーメント
◇誰が聞くのか
‐ 調査者/研究者/ジャーナリスト
‐ 当事者
‐ 支援者
‐ 運動体 *NPO法人
‐ 行政/管理者 *「第三者機関」
‐ 属性の問題:ジェンダー・セクシュアリティ/健常者・障害者
◇聞き手の位置
‐ 後景
‐ 対置
‐ 前面(ドキュメンタリー/ルポルタージュ)
◇どう書くのか
‐ 出来事の歴史化→現在への連続性
‐ 時代史(一九七〇年代/高度成長期)
‐ 通史 *困難
◇マイノリティ/マージナル
‐ 女性/移民/障害者/「貧民」
‐ 記録されてこなかった領域
‐ 特殊カテゴリー化――功罪
‐ 政策課題としての扱い(福祉による救済[善意]/リスク要因排除[統治の暴力]――コインの裏表)
◇記録をどうまとめるのか
‐ 研究論文・学術書
‐ インタビュー記事(報道)
‐ 聞き書き集(私家版)
‐ 伝記[人物]
‐ 郷土史[地域]
‐ 女性史・民族史・運動史
‐ 社会史(集合心性/生活文化)
‐ 物語化(昔話/民話)*山代巴『民話を生む人びと――広島の村に働く女たち』(岩波書店〔岩波新書青版B-125〕/1958)
‐ 見聞記/旅行記 *宮本常一『忘れられた日本人』(未来社/1960→岩波書店〔岩波文庫青164-1〕/1984)
‐ エッセー
‐ アート

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第13回:「語りを聞くこと、記録すること(3)」[2018/07/11]

◆大門正克 2017 『語る歴史、聞く歴史――オーラル・ヒストリーの現場から』岩波書店(岩波新書新赤版1693)

▼はじめに
「聞き取りやオーラル・ヒストリーといえば、今を生きる人が同時代の人に話を聞くことであり、同時代を対象にしていると思われているようである。たしかにそういう側面があるが、[…]聞き取りやオーラル・ヒストリーを同時代のテーマに限定せずに、広い歴史の視野のなかで検討する必要があるのではないか。」(pp.ii-iii)
「そのような関心のなかで読んだ瀬川清子の本はすこぶる面白かった。[…]瀬川の本には、全国を旅するなかで生活世界に分け入って聞いた女性たちの語る声が書きとめられている。戦前の女性の声を書きとめているのは、篠田〔鉱造〕や瀬川くらいであり、貴重な仕事である。瀬川の本が面白かったのは、女性たちとともに、瀬川の声も書きとめられていたからである。篠田と柳田〔国男〕の本には本人は登場しない。それに対して瀬川の本には瀬川本人が登場する。[…]瀬川は自らも登場させることで、さりげなく、聞き書きにおける聞くことや聞き手の役割が大事であることを書きとめていたように思われる。」(p.iii)
「歴史のなかの語ること、聞くこと、書くことに関心をもち、戦前から戦後の日本の歴史を訪ねてみた。すると、そこには、文字を中心にした今までの歴史では見えていなかった大変に興味深い世界がひろがっていた。語り手や聞き手の声が聞こえる世界であり、沈黙や表情を含め、生身の人間同士が向き合った歴史の場面であって、人びとの生きられた歴史を垣間見ることができる。聞き手は自らの登場の有無を含め、さまざまな工夫をして書きとめていた。」(p.iii)
「本書では、語ることと聞くことの場面を〈現場〉と名づけ、歴史と現在の〈現場〉を訪ねる。語ることと聞くことの〈現場〉は実にさまざまである。[…]文字を自ら残すことが少ない人びとから意識的に話を聞く〈現場〉もあった。文字に残りにくい歴史とは、たとえば女性の歴史であり、沖縄やアイヌの歴史、在日朝鮮人や被差別部落の歴史などである。」(p.iv)
━━━
▼第1章:声の歴史をたどる
「現在に至るまで続く政治中心のオーラル・ヒストリーの出発点は、明治前期における、『旧事諮問録』をはじめとした旧幕時代の聞き取りにあり、それらは文字史料による実証主義歴史学の補完的役割を担うものと位置づけることができる。」(p.9)
「聞いた話を叙述する場合、戦前には二つの方法が提起されていたと整理することができよう。一つは記録に重点をおくものであり、質問に対する語りをそのまま叙述しようとする方法であって、政治の記録が代表例である。もう一つは、語り方や語った内容をそのときの雰囲気、場面は連動しているという理解に立ち、場面も含めて叙述する方法であり、『光雲回顧談』や篠田〔鉱造〕の『百話』に代表される。」(p.25)
「民俗学の出発点には、聞き書きがあったことに留意したい。」(p.26)
「聞き書きを出発点として誕生した民俗学は、政治史から生活へ、文献から伝記・伝承へ、歴史上の視座の転換を強く要請し、政治史中心の官学アカデミズム歴史学を厳しく批判した。[…]柳田民俗学は、近代化のなかで忘れられようとした人びととその歴史に光をあてるものであり、近代化、中央からの文化の一方的流入に対する批判であって、「無告の民の苦しみを歴史の闇からひきだす」ものであった[…]。文字を書くことはできないが、伝記・伝承を含めて生活の慣習や作法が生き生きと機能している人びとを、柳田は「常民」と名づけた。」(p.26)
「『遠野物語』では、柳田が〔佐々木〕喜善の話を取捨選択し、文体にも留意して叙述されている。どのように叙述をすれば、「感じたるまま」に書いたことになるのか、柳田はそのことを自覚し、文体を選びとっている。明治以降、ここに、叙述を自覚し、文体を選びとった「語る歴史、聞く歴史」の叙述がはじめて登場したのである。」(p.29)
「明治以降の「語る歴史、聞く歴史」における『遠野物語』の画期性は、人に話を聞いて書くことのうちには、語る―聞く―生活世界―叙述するという一連の要素があり、「語る歴史、聞く歴史」はこれらの関係のなかで書かれることを、はじめて議論の俎上にのせたことにある。」(p.30)
「柳田国男の『遠野物語』は、「語る歴史、聞く歴史」の画期をなす書物であったが、そこでも聞き手である柳田は表にあらわれない。聞き手であり、書き手が会話のかたちで叙述に登場するところに、瀬川〔清子〕の叙述の大きな特徴があったのであり、これは戦前のなかではじめてのことであった。」(p.33)
「瀬川はいうまでもなく女性であり、女性が女性から聞いた話を叙述することも、今までにないことであった。」(p.33)
「全国を旅した瀬川は、労働に支えられた海女たちの底抜けの明るさや健康な姿に衝撃と感銘を受け、そのような「一隅の生活」のなかにも「私共を蘇らせてくれる力」があることを教わった。そして、[…]全国各地をまわり、女性たちから生活の「力」を教わろうとした。」(pp.34-35)
「瀬川は、当初、「質問要項」に頼って予定していたことを聞き、「昔の人の考え方に辿りつこうと焦」ったが、しだいに「遠い昔の声々を、自分の生命の中に聞き分け」るようになったと述べる。」(p.35)
「生活世界への着目という点で柳田を継承しながらも、瀬川は、女性の「生活の力」を発見するに至っている。」(pp.35-36)
━━━
▼第2章:戦後の時代と「聞く歴史」の深化
「断続的にではあれ、戦前から戦後にかけてもっとも長く続いているのは政治を聞く歴史であった。[…]それに対して、戦後に新たに登場したのは、植民地/在日朝鮮人/アジア、女性、労働/社会運動などの領域だった。」(p.46)
「とくに植民地/強制連行と女性の聞く歴史がとりくまれたのは、戦争と敗戦後という二つの大きな契機があったからであり、戦前には見られない戦後の「語る歴史、聞く歴史」の特徴であった。」(p.47)
「「語る歴史、聞く歴史」において、一九七〇〜八〇年代が画期になった理由としては、この時代の歴史的位置を指摘できよう。一九六〇年代の高度成長の進行による急激な社会変化後の一九七〇〜八〇年代になると、人びとはようやく自分たちの生活を振り返ることができるようになった。地域の自然に関心を寄せた「小平市玉川上水を守る会」が、同時に地域に長く住む人びとのくらしを聞き書きしたことは、高度成長による時代の変化のなかで聞くことへの関心が醸成されてきた状況をよく示している。また一九七〇年前後はベトナム戦争が激しかった時期であり、敗戦から四半世紀がすぎるなかで、戦争体験者が生きているうちに戦争体験を聞くことへの気運もあらわれてきた。|ここであらわれた聞く歴史には、かつての柳田国男の近代化批判と共通の問題意識があり、戦争と戦後(高度成長)を批判的にとらえ返す気運の高まりを読みとることができる。」(p.55)
「戦後の日本は、植民地や大東亜共栄圏の清算が不十分のなもとで、アメリカ中心の体制に組み込まれた。そのことが歴史観にも影を落とし、戦争については日米の太平洋戦争に限定して、アジアが不在になる傾向が長く続いた。政治・行政・戦争の聞く歴史にもこの傾向が反映されていたが、視野をひろげれば、朝鮮総督府高官からの聞く歴史もとりくまれていたのであり、この聞き取りも含めて、戦後の聞く歴史を検証する必要がある。」(pp.56-57)
「朝鮮総督府高官からだけでなく、強制連行された人や在日朝鮮人など、日本の植民地支配やアジア太平洋戦争の影響下におかれた人びとからも聞く歴史が行われるようになった」(p.57)
「一九七〇年代に入ると、右で述べた強制連行などに加えて、沖縄戦や空襲を体験した人びとから戦争体験を聞く歴史が始まった」(p.57)
「女性については、一九五〇年代以来の戦後の「語る歴史、聞く歴史」の大きな特質であり、女性の経験を語り、聞く歴史がさまざまに実践された。経験を聞く歴史が登場したこと自体、戦後の特質であり、その先鞭をつけたのが女性の領域だった。」(pp.57-58)
「朴〔慶植(パク・キョンシク):『朝鮮人強制連行の記録』1965〕は、文字史料や文献を徹底して探し、それにもとづいて論文を書くだけでなく、全国各地を調査し、人に話を聞き、史料を集めるなかで主題の解明に迫ろうとしたのである。一九六〇年代の日本の学問の世界では、文字史料が確かなものとして最優先され、聞き取りは二次的なものとみなされる傾向があった。そのなかで強制連行を調べる朴は、文字史料か聞き取りの二者択一ではなく、そのどちらも重視した。」(p.67)
「朴はここで一人称の「わたし」で登場し、訪問先で人に会って話を聞き、史料を探し、それらを組み合わせて叙述している。それらを組み合わせたときに論文のような叙述スタイルではなく、紀行文のような叙述スタイルが選ばれたといっていいだろう。」(p.68)
「帝国主義と民族の問題は、言語や名前にまでおよぶという朴の問題提起は、文字史料に依拠するだけでは導き出されなかったはずである。聞く歴史を大事な手がかりにすることで、朴は、朝鮮人の身体に加えられた死と暴力を明るみに出し、さらに言語や名前をめぐる問題にも光をあてることができた。」(p.70)
「沖縄戦の座談会は、まさに〈現場〉にほかならなかった。複数で語り合う座談会は、沖縄戦体験者一人ひとりの胸の奥底にしまいこまれていた記憶や思いの封印を解き放つ〈現場〉になり、[…]沖縄戦の体験を呼び起こしたのである。」(p.77)
「座談会記録には資料的価値がないなどの意見があった。ただし、[…]二五年の経過により「戦争体験の採録」は「不可能」という意見はまったく「ナンセンス」であり、座談会こそ住民の視点から沖縄戦を知ることができる場にほかならなかった。」(p.77)
「座談会の背後には膨大な沈黙があることも受けとめ、そのもとで実現した座談会は、先に述べたように、沖縄戦を語る、聞く〈現場〉となり、沖縄戦を呼び起こすことになった。」(p.78)
「これ〔1977年:沖縄戦の戦没者33回忌〕以降、行政や研究者が主導した聞き取りから、「市民運動」による聞き取りに転換していった」(p.78)
「沖縄と同じように、本土の戦争体験も一九七〇年前後に掘り起こされていった。東京大空襲をはじめとした空襲体験であり、背景にベトナム戦争があった。」(p.79)
「戦争体験を語ること、書くことが呼びかけられるなかで、声が出され、体験記が書かれたところに、一九七〇〜八〇年代の戦争体験の特徴があった」(p.81)
「『沖縄戦記録1』〔1971〕からは、沖縄戦の様相以外にも多くのことが伝わってくる。この本は、集落で開いた座談会ごとにまとめられていて、[…]座談会は公民館や区長宅、個人宅で開かれ、区長などが立ち会っている様子が見受けられる。」(pp.82-83)
「以上の叙述全体を通して、沖縄戦を「語る歴史、聞く歴史」の〈現場〉が浮かび上がる。そこで印象的なことは、語り手と聞き手の様子が書きとめられていることであり、語り手の語りを受けとめて叙述する際に、聞き手がさまざまな留意をしていることである。」(p.83)
「座談会では、淡々と語る人もいれば、感情をこめて語る人もいて、そのいずれも場合にも聞き手は語り手の思いを推し測り、感慨を書きとめている。」(p.83)
「「語る歴史、聞く歴史」の〈現場〉に立ち会うことで、聞き手もまた、[…]沖縄戦に導かれていった。」(p.83)
「語り手の思いや語りを受けとめてどのように叙述すればいいのか、そのことも書きとめられており印象深い。」(p.84)
「方言を共通語に訳す場合を含めて、宮城〔聰[さとし]:沖縄県史編集審議会〕は語りをできるだけ整序しないようにした。それは、「記録のたしかさ」[…]を求めたからであるとともに、沖縄戦の鮮烈な経験と語り方は密接に関連しており、それゆえに話が入り組んでいると宮城は理解していたからであった。」(p.86)
「朴慶植は、全国各地での聞く歴史を通して、強制連行の朝鮮人は名前を奪われ、その状態は戦後も続いていることを明らかにするとともに、朝鮮語で聞いた話を日本語に直さなくてはならない違和感を帝国主義と民族の問題として提起した。沖縄戦の〈現場〉に立ち会った宮城聰は、鮮烈な沖縄戦を語る歴史をどのように受けとめ、方言と共通語のどちらで叙述するのかに腐心し、「たどたどしい日本語」で話した花岡事件の生存者は、激すると中国語になり、聞き手である野添憲治は、その語りを受けとめ、反芻するなかで聞き書きを行った。」(p.88)
「ここから浮かび上がるのは、【傍点:語る歴史】は語り手の身体と分かちがたく結びついており、語られた言葉は、身体におよんだ苦痛や暴力と一体になっていたことである。[…]ここで浮き彫りになった言葉と身体をめぐる問題は、文字史料からはなかなか見えないことであり、文字史料(言葉)の側に問題を提起し、文字史料の読解にも大きな示唆を与えるはずである。」(p.89)
「語り手の体験を受けとめる聞き手の役割は大きい。そこでは、語り手の語りを引き出すだけでなく、戦争や植民地の体験をどのように受けとめたらいいのかに悩み、試行錯誤する聞き手の姿があり、その姿のなかから戦争や植民地支配をめぐる問題が浮かび上がる。「語る歴史、聞く歴史」のうえに【傍点:叙述する局面】が見えてくる。日本語への変換を含め、聞いたままに叙述するのか整序するのかなど、さまざまな論点が浮かび上がる。」(p.89)
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▼第3章:女性が女性の経験を聞く
「戦後の「語る歴史、聞く歴史」の大きな特徴は、それまでほとんど対象にならなかった女性の経験を聞く歴史があらわれたことである。女性は文字史料を残すことが少なく、歴史の表舞台に登場することもきわめて限られていた。それに加えて、篠田鉱造や民俗学の瀬川清子などを除けば、戦前においても、女性が聞く歴史の対象になることはなかった。その状況が変わるのは戦後になってからである。農村や都市、炭鉱などの各所で、女性たちの経験を聞く歴史があらわれた。女性に経験を聞いた人の多くは女性だった。女性による女性を相手にした聞く歴史があらわれたのである。」(p.92)
「一九五〇年代の三人〔丸岡秀子・山代巴・鶴見和子〕には共通点がある。女たちに文章を書いてもらったり、話を聞いたりしたものを、自ら別のかたちの文章にまとめていることである。実名を出すことなどとてもできない社会環境があった。三人は女たちの話に耳を傾け、どう伝えればいいのかについて腐心し、文章を書いている。」(p.94)
「一九五〇年代には生活を記録として書く生活記録運動がひろがり、一九六〇年代まで続いた。そこでは、地域や職場における自らの生活体験とともに、母の戦争体験などを聞き、それを生活記録として書くことも行われた。文章を書く人、話を聞く人に女性が多かったことはこの運動の大きな特徴だった。」(p.96)
「戦後になると、広範な領域で女性に話を聞き、書くようになったことがわかるであろう。[…]女性に聞いた話を民話や生活記録として【傍点:書くこと】に主眼がおかれていた。」(p.96)
「主に九州で女性の経験を聞いた森崎和江、山崎朋子、古庄ゆき子らは、聞き書きというかたちで、聞くことと書くことの両方に主眼をおいた。一九五〇年代末から一九七〇年代にかけて、書くことに重心をおいた段階から、両方に重心をおいた聞き書きへゆるやかに移行したといっていいだろう。一九六一年に発行された森崎和江『まっくら』のサブタイトルは「女坑夫からの聞き書き」だった。これは聞き書きを自覚した作品の登場として重要な意味をもっていた。」(p.96)
「三人の聞き書きには、語り手の語りだけでなく、語ること、聞くことに向き合い、格闘する過程が刻まれている」(p.97)
「女性たちからほとばしる「エネルギー」を受けとめ、深く掘るために、森崎は、「自他の体験を全体史の中にどう位置づければいいのかと、幾年も心に抱き、なんとか文字化してその意味を問い、責任を持とう」とした。」(p.102)
「森崎は敗戦前後に瀬川清子の書いたものに出会っていた」(p.104)
「民俗学も森崎のアトヤマの聞き書きも、いずれも歴史のなかで顧みられなかった人びとの話に耳を傾けるものだったといえよう。」(p.104)
「「語る歴史、聞く歴史」には、人びとの原初的なエネルギーが含まれており、森崎はそれと向き合うなかで、女たちの「聞き書き」を編み出したのであろう。」(p.105)
「からゆきさんを訪ねる旅の以前から山崎と森崎に交流があり、旅の出発点にあっても接点があったことは印象深い。瀬川清子の書いたものに接した経験をもって炭坑で聞き取りをした森崎和江、山崎はその森崎と接点をもちながら天草に向かったことになる。女たちの連鎖のなかで、女たちの「語る歴史、聞く歴史」が少しずつ開かれていったのである。」(p.106)
「山崎の聞き書きの特徴を三点指摘する。|第一に、おサキさんが詳細にわたって語り、それを山崎がまとめることができたのは、ひとえに共同生活を三週間続けた賜物だった。」(p.108)
「第二は、女性が女性に聞くことで、性売買まで含めた聞き取りが可能になったことである。」(p.108)
「第三に、山崎は天草の島での聞き書きを「紀行文スタイル」で叙述したうえで、冒頭と最後の章において、近代日本の歴史と歴史学の双方を批判している。山崎は、からゆきさんの聞き書きを通じて新たに「底辺女性史」を提唱し、東南アジアに「出稼売春婦」を駆り出した日本帝国主義を批判し、さらに、階級と性という二重の桎梏のもとに長く虐げられた女性たちの存在を明らかにしてこなかった歴史学のあり方を批判している。」(p.109)
「山崎は一九七〇年に「アジア女性交流史とわたし」[…]という文章を書き、今までの女性史は、解放史であってもエリートの女性を対象とし、西欧の尺度で書かれていたと述べる。それに対して、山崎自身は「底辺生活がひとつの原体験」であり、エリート中心の女性史では見えない「底辺の女性史」を模索していること、底辺に生きた女性は、からゆきさんや大陸の花嫁などのようにアジアに深くかかわっていたとして、底辺女性からさらにアジアへの視座を加える必要性を指摘する。」(p.112)
「森崎は、[…]「資料に依ることのない女性史を掘るには、たゆみなく歩くことと自ら歴史を創るところの日常的な集団的活動のつみ重ねがいる」と指摘し、さらに、「研究の成果が個体の私有へ帰すような史実の発掘法に終るならば、庶民が常に素材化されてきた歴史を越え得ないことになってしまう。私たちはここを越えていきたい」と述べた」(pp.113-114)
「森崎はここで聞き書きにかかわって、大事な指摘をしている。アジアや戦争を問うこと自体の困難を自覚し、資料のない女性史を掘るために歩き続け、庶民が常に素材化されてきた歴史を越えることである。」(p.114)
「森崎が心がけたことは何だったのか。それは、[…]「心を無にして、相手の思いの核心に耳をすます」、「相手の語りたく伝えたく思っておられることの、その肌ざわりを感じとること。けっして、こちらの予定テーマを持たぬこと」だった。」(p.114)
「相手の話のなかに聞きたいことを求めた森崎に対して、山崎は、聞きたいことが自分自身のなかに強くあったのであり、ここには、「語る歴史、聞く歴史」の二つの大きな方法の相違が横たわっていた。」(p.114)
「古庄は、「書くことを通して」[…]農村の女たちとともに「この時代を生きたい」と思い、女たちの今を知るために過去に向かった。古庄は、「どこまでいっても孝女・貞女・愛国婦人」しかいない大分の歴史に「窒息しそう」になるが、女性史の叙述を通して、女たちが生きていた社会のなかに女たちを「蘇生させよう」とした」(p.116)
「古庄は、[…]「在野の学」を担う地域の女性史の研究者を「はだしの研究者」と呼び、自分自身もその一人だと述べている。[…]「はだしの研究者」がもっとも優れた力を発揮したのは、「聞き書き」による女の歴史の掘り起こしだった。」(p.116)
「聞き書きの難しさは、語る言葉の表現方法にある。語った言葉をそのまま表現するのか、方言はどうするのか、語る歴史の表現を整えることはどの程度まで許容されるのか、聞き書きにはこのような問題がいつでもついてまわる。聞き書きの表現で古庄がもっとも苦労したのは、日本語と朝鮮語の問題だった。」(p.118)
「今でいえば、植民地主義の意識と向き合いつつ、どのように聞けばいいのか、そのことを古庄は考え続けていたといっていいだろう。」(p.119)
「古庄は鄭〔チョン:オモニ〕が語る歴史の言葉尻や雰囲気をとらえて、それを鄭の性格や個別の事情と結びつけて受けとめるのではなく、鄭が生きた全体性のなかで理解しようとした。」(p.120)
「全〔チョン〕オモニの「口伝」について古庄は、「オモニの語ったままでなく、私なりに整理したもの」と指摘するとともに、時系列には編集していない。|時系列に編集しなかった理由には、朝鮮人強制連行の調査に同行した経験があったように思われる。この調査の証人の一人だった全オモニにとって、「誰が、いつ、どこで、何をしたかといった分析的質問ほど困るものはないよう」であり、古庄は、「この種の質問で、彼女が何度か絶句したのを思い出」し、「伸びやかな問わずがたりの時間」が必要だったのではないかと記す。」(p.121)
「全オモニのなかで時間の節目は、[…]自分の経験とつながっており、さらに時間や人物、場所は、「一つのドラマのように、生活のなかでつながり合って、あれを引っぱれば、こっちまで、こっちを引っぱればあっちまで出てこなければ完結しないものになっている」ことに古庄は気づいた。全オモニの語る歴史のなかでは、時間にそって経験があるのではなく、経験のなかで時間がつながり合っていた。」(p.122)
「古庄は、経験のなかに時間があり、「豊かな感情の持主」である全オモニの語りにふさわしい聞き取りと叙述の方法を考え、聞き取りでは時間にそった「分析的質問」はせずに、叙述も時系列に編集しないことを選んだのではないかと思われる。」(p.122)
「全オモニの語りは、[…]「何か一つを実証しようとしているのではなく、人間らしく生きられなかった日々すべての告発」として受けとめる必要がある。「オモニのうた」は、「在日朝鮮婦人の日本における生活」の「部分的真憑性よりも全体的真実性」を示したものであり、古庄は、「特定の個〔ママ〕有名詞を通りぬけた、在日朝鮮人旧世代の婦人の声をオモニのなかにきいた」と述べている。」(pp.122-123)
「全オモニにとって、「苦労」をめぐる時間と経験は、貧しさとやりくりのなかで連鎖するようにつながり合っていた。それが全オモニの記憶にはりつき、語る歴史にも反映していたので、話があちこちに飛び、時間を行き来しているように感じられたとしても、それは無秩序に語られたことでは決してなく、貧しさのなかで生活をやりくりして生をつなぐことを基本とした生活実践が具体的に語られていたのであり、そこを読みとる必要がある。全オモニは全オモニなりの生きた歴史の全体性を語っていたのである。古庄は朝鮮語の壁があったにもかかわらず、全オモニの語る歴史のなかでつながり合っていた連鎖を理解し、全体性を受けとめようとした。古庄は、全オモニもまた、生きた歴史のなかに「蘇生させ」ようとしたのである。」(p.125)
「古庄の聞き書きのうち、とくに「オモニのうた」は、経験を「語る歴史、聞く歴史」のなかで記念碑的な位置をしめる作品だと思う。それはなぜか。」(p.125)
「一点目として、古庄は何よりも全オモニの感情や気持ちの起伏を含めて語る歴史を受けとめている。[…]その叙述には、対面性/身体性が「語る歴史、聞く歴史」の大事な要素であることが刻み込まれているといえよう。」(p.126)
「身体と感情を受けとめた古庄は、全オモニの「口伝」を時系列で編集せずにまとめた。これが二点目である。[…]全オモニの語る歴史に徹底して寄り添った古庄は、在日朝鮮人女性に普遍的な歴史も聞くことができたといっていいだろう。」(p.126)
「古庄はまた、「オモニのうた」は、「オモニの語ったままでなく、私なりに整理したもの」であることも自覚していた。これが三点目である。」(p.127)
「「オモニのうた」は、語る、聞く、叙述するという三つの側面に自覚して向き合った作品であり、この三つすべてを自覚して経験を「語る歴史、聞く歴史」にとりくんだ作品はそれまでになく、その意味で「オモニのうた」は記念碑的な作品といえる。」(p.127)
「それまで、自らの歴史をもてなかった女性が自らの歴史を語る、それを仲立ちしたのが森崎ら三人であった。その特徴とは何か。」(p.127)
「一つは時間。[…]戦後と高度成長による時代変化のなかで、三人は、聞き書きによって、文字史料に残らない女性の経験に含まれた原初的なエネルギーを引き出そうとしたのである。」(p.128)
「二つ目の特徴は身体性である。」(p.128)
「三人の聞き書きからは、女性のセクシュアリティの歴史も浮かび上がってきた。」(p.128)
「三つ目の特徴は特有の場である。[…]三人の場は、植民地、アジア、九州という共通性をもつ。植民地に近い九州で女性が女性の経験を聞いたとき、植民地やアジアとの接点が見えてきたのである。これらの地と高度成長が交差するなかで行われた聞き書きからは、取り残され、翻弄され、底辺を際立たせていた女たちの歴史が浮かび上がってきた。」(p.130)
「この時代の「語る歴史、聞く歴史」には、対象だけでなく、異なる二つの方法があった[…]。一つは、記録を重視するものであり、語り手と聞き手がまじわる場面を設定し、記録にかかわる人[…]が加わり、聞き手の質問に答えるかたちで語り手が話すものである。[…]もう一つは、文字に残らない歴史や残りにくい歴史、文字を書けない人びとの歴史をめぐって、経験を聞くものである。」(p.132)
「経験を聞く歴史からは、語り手に尋ねるだけでなく、語り手に寄り添い、語り手の感情を受けとめるなかで、語り手の話に耳を傾け、聞くことを意識した聞き手があらわれてきた」(p.132)
「経験を語る歴史は語り手の身体や感情とともに存在しており、経験を語る歴史を受けとめて聞く歴史に向き合い、そこからさらに叙述にとりくむ聞き手がいてはじめて成り立つ。経験を語る、聞く、叙述する場面における聞き手の重要性。語り手と聞き手がともにいて成り立つ〈現場〉。[…]経験を「語る歴史、聞く歴史」の特徴がここにある。このような聞く歴史と叙述を通してはじめて、歴史の奥底に沈み、さまざまな抑圧や生活の困苦のなかで見えにくくなっていた人びとの経験がようやく姿をあらわすことになったのである。」(p.133)
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▼第4章:聞き取りという営み
「〔岩手県和賀郡〕和賀町の聞き取りを通じて、私は、聞くことには二つの側面があると整理するようになった。一つは相手に尋ねることであり、もう一つは耳を傾けることである。英語でいえば前者はaskであり、後者はlistenになる。聞き取りでは一般的に聞き手の側に聞きたいことがある。その際には必ずaskがあり、askに促されて語り手が語り始めることが多い。askは聞き取りという相互行為を成り立たせる大事なきっかけである。ただし、聞き手のaskの内容と語り手が語りたいことが一致するとは限らない。そのような場合にaskだけでは語り手が語りたいことを聞き逃してしまうことになる。語り手の語りに耳をすますlistenが必要になる。」(p.145)
「聞き手はaskに意識を集めているのか、listenに集中しているのかで、語る歴史の聞き方が大きく異なってくるのである。」(p.150)
「〔askを軸にした〕「人生を聞く」方法は、最初から時間の経過(人生の節目)にそって話を聞こうとするために、語り手の側が語りたいことを制約してしまったり、語ったことを聞き逃したりすることになりかねない。「人生を聞く」方法は、語り手が「伝えたく思って」いることの「核心に耳をすます」聞き方や(森崎和江)、語り手が生きた歴史のなかに語り手を「蘇生させ」ようとする聞き方(古庄ゆき子)とは、異なる聞き方だと言わざるをえないだろう。」(p.155)
「海野〔はる子:山梨県落合村湯沢農民組合婦人部長〕さんは、多大な苦労をしていた。しかし、苦労をしたことを叙述することと、それを苦労克服物語として叙述することは意味が異なる。[…]海野はる子さんを、私は苦労を克服して活躍せんとする筆致で描いてしまったのではないか。苦労克服物語には、必要以上に当人を称賛するニュアンスをともなってしまう。」(p.159)
「私は、あらためて「人生を聞く」という方法にひそむ問題点について考えるようになった。この聞き取り方法は、人生の節目にそって社会的経験を聞くので、語り手自身が苦労の克服にそいながら話したり、聞き手が語り手の人生を苦労の克服に結びつけて理解したりする傾向を含んでしまう。」(p.159)
「「人生を聞く」方法は、聞く歴史としても歴史叙述としても難点があったといわざるをえないだろう。」(p.160)
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▼第5章:聞き取りを歴史叙述にいかす
「私はしだいに「聞く」ということに大事な意味があるのではないかと思うようになった。私から質問せずに、聞き役に徹してみると、今まで以上に、語り手の語る歴史に耳をすますことができるようになった。振り返ってみれば、[…]私の関心に合わなかったので語り手の肝心な話を聞き逃してしまったり、私が用意していた別の質問に移っていったりしたことがあった。聞く歴史への臨み方しだいで、語る歴史の理解も変わってくることにようやく気づいたのである。」(p.166)
「話に耳を傾けているなかで、語り手の沈黙にも意味があるのではないかと思うようになった」(pp.166-167)
「沈黙にはさまざまな思いがあるだろう。話の内容の整理や逡巡、決断のあとに、沈黙を破る声が出てくる。聞き取りで語り手が沈黙すると、私はできるだけ呼吸を合わせ、語り手が話し始めるのを待つようになった。聞くということには、相手に尋ねるaskと相手の話に耳をすますlistenの二つがあることを理解したのは、このころのことだった。|人が話すということは、話し方や表情、身振り、手振り、沈黙、感情などの身体的行為と一体であり、[…]声に耳を傾けるということは、身体的行為を含めてまるごと受けとめることにほかならない。ここに人と人とが対面する「語る歴史、聞く歴史」の特徴があるのだろう。」(p.168)
「聞き手がaskする過程だけが聞き取りなのではない。askのあとにlistenが必要であり、さらにaskとlistenを受けとめるtakeが欠かせなかった。聞き取りとは、このように語り手と聞き手の応答の過程なのであり、聞き手が語り手の話を深くlistenする必要があるように、語り手も聞き手のaskに規定される面があった。同じように今を生きる語り手と聞き手が対面しつつ、双方向で応答する過程をくりかえしながら認識を深めようとするもの、これが聞き取りにほかならない」(p.169)
「私は、私なりの二つの観点から通史と「語る歴史、聞く歴史」のかかわりを考えようとした。一つ目は、通史と「語る歴史、聞く歴史」の相互関係についてである。仮に、既存の「日本の歴史」に個人の歴史をあてはめて、それを通史とするのであれば、通史に個人の歴史を叙述する意味はない。それでは、個人の歴史はあくまでも既存の歴史を説明する手段になってしまうからである。あるいはまた個人の歴史を積み重ねるだけでも通史にはならない。」(p.176)
「listenする聞き方をふまえた通史の叙述はありえないかということも考えた。これが二つ目である。[…]和賀町に何度も通い、語る歴史に耳を傾けるなかで、女性たちが語る歴史は戦前・戦時の時代にくりかえしもどることを実感した。[…]これらの世代の人たちにとっては、現在に至るまで、戦前・戦後はくりかえしもどるべき時代としてあることが語る歴史から聞こえてきた。」(p.177)
「昭さん〔小原昭[おばら・てる]:満州移住→引き揚げ→和賀町で戦後開拓に従事〕を通史のなかに位置づける場合、引き揚げ過程における被害の委譲を歴史のなかにどのような経験として位置づけるのかという課題があった。被害の委譲について、今の時点で過去の行動を裁断し、批判することは簡単だが、それですべてが解決するわけでなない。」(p.177)
「私は昭さんの語る歴史に耳を傾けるなかで、昭さんにとっての苦難とは何だったのかを考え続けた。その苦難には、引き揚げ過程だけでなく、満蒙開拓時代[…]、戦後の和賀町で[…]の厳しい経験があり、さらに戦後に[…]封印された満州経験が含まれていたのではないか。二重三重に乗り重なった抑圧のなかに被害の委譲が含まれていたのであり、さらに満州の記憶全体が激しい圧力で封印されたのである。くりかえしもどるべき戦前・戦時は、それぞれの人の戦前・戦時・戦後の経験のなかでつながり合っており、反芻されたり、問い直されたりしているのではないか。とすれば、昭さんの引き揚げ過程でおきたことは、戦前・戦時・戦後の昭さんの経験のなかに位置づける必要があるのではないか。」(p.178)
「非日常世界に見える戦時期の出来事は日常世界とのかかわりで検証しなくてはならない」(p.179)
「私は昭さんの話を全体として受けとめて叙述しようとした。ここでの全体とは、「人生を聞く」方法によって組み立てたライフヒストリーとしての全体ではなく、沈黙やくりかえしを含めて、昭さんから聞いた話の全体である。そのうえで昭さんの戦前経験・戦争経験・戦後経験の意味連関を時代とのかかわりのなかで考えようとした。」(p.182)
「私は、聞き手である私の受けとめ方を含めて叙述をした。聞き手である私を登場させることになれば、叙述は、過去と現在、語り手と聞き手を行きつ戻りつすることになり、いきおい複雑になる面があった。過去の事象を過去の時間のなかだけで叙述すれば、その方が理解しやすかったのかもしれないが、現に語り手はくりかえし過去に戻った。歴史は時間の経過にそって整理できる面をもちながら、人びとのなかではたえず過去を振り返るかたちで現在がある。語り手と聞き手の相互行為を叙述しながら通史を描くことには困難もあったが、私には歴史叙述の新しい可能性があるように思えた。」(pp.182-183)
「歴史叙述、とくに通史の叙述のなかに「語る歴史、聞く歴史」を含める場合には、時代の叙述が優先されて経験は従属的に描かれてしまう危険性があり、その克服への自覚をいっそうもたなくてはならない。と同時に、このような困難をともないつつも、「語る歴史、聞く歴史」を通じた歴史叙述からは、単に文字史料の欠落を補うだけではなく、人びとの生にとってもっとも重かったものとのかかわりで時代の特質を明らかにできる可能性がある[…]。さらに、「語る歴史、聞く歴史」を含めた歴史叙述からは、[…]歴史は人びとと無縁なところでそびえ立っているのではなく、人びとの生と歴史、過去と現在は結びついているという「開かれた歴史」への気づきを促す可能性がひろがる。」(pp.185-186)
「吉沢〔南:『私たちの中のアジアと戦争』〕は、聞き取りについても文献史料と同様にその内容を「資料」ととらえ、「資料批判」を行なおうとした。吉沢は「事実」と「資料」を区別し、聞き取りの内容は「事実」そのものではなく、一つの「資料」であり、「資料」に対しては「資料批判」が欠かせないと考えた。ただし、同じ「資料」でも、聞き取りと文献史料には決定的な相違があった。それは、聞き取りの相手は生きた人間だったことである。」(pp.195-196)
「来意を告げて語り手の人生の歴史を聞くことから吉沢の聞き取りが始まる。聞き取りにあたり、吉沢は「討論」と「沈黙」に留意した。語り手の話を聞くだけではなく、語り手の感想や価値観に「疑問」を投げかけたり、自分の感想や評価を「対置」させたりする「討論」を行うことがあった。「討論」は、先に述べた「資料批判」と密接にかかわっていた。ある人の話を「資料批判」するためには、聞き手が話の内容=史料を読み込む必要がある。聞き取りでは、「生きた資料」である語りに聞き手が積極的に応答することで「資料批判」がはじめて成り立つ。この方法には聞き取りそのものを成り立たせなくさせる危険性があったが、両者の「討論」によってより緊密な信頼関係がつくり出される可能性もあった。|他方で吉沢は語られなかったことについて、語り手の「沈黙」を大切にしたこともあったという。「討論」と「沈黙」の境目がどこにあるのか、吉沢は明瞭に語ってはいないが、語り手が沈黙していることや忘れようとしていると思われることについては留意して「討論」せずにそのままにしたり、文章にしなかった場合があった。」(pp.196-197)
「『私たち』の読後感としては、吉沢が語り手に話しかける場面だけでなく、むしろ語り手の話を受けとめ、考え、反芻して自らの認識を更新していこうとする過程が強く印象に残る。」(p.198)
「吉沢は、「語る歴史、聞く歴史」の〈現場〉と向き合い、「討論」し、「沈黙」の意味を考え、自らの認識を反芻・更新しようとしていたといっていいだろう。」(p.199)
「吉沢は聞き取りをテープレコーダーに録音したのは一回だけであり、それ以外は聞き取りをしながら筆記した。録音の「忠実な復元」は、「語り手を尊重しているように見えるが」、それは、「話を一つの出来上がった素材として扱い、作品として定着させているにすぎない」。それに対して吉沢は、語りに対して「資料批判」を行い、自分の「歴史観と倫理」をふまえて反芻・更新しながら語り手の「人生を再構成」した。この本の「文章はあくまでも私」のものであるが、それは「生きた資料」と格闘した結果であり、その過程が見えるかたちで叙述しているところに『私たち』の特徴があった。」(p.200)
「『私たち』は「中間的な報告」であったが、この本には、聞き取りの方法、文字史料と聞き取りの関係、歴史叙述の方法など、現代史研究者の作業過程が洗いざらい叙述されている。要するに『私たち』は、聞き取りによって戦争体験にかかわる人生を描いたものであり、聞き取りを通じた歴史研究の方法を考察したものであり、聞き取りによる叙述を試みたものにほかならなかったのである。」(p.201)
「『私たち』執筆後の吉沢は、聞き取りと文字史料を「同列」に利用することには禁欲的であったが、史料の信憑性や史料批判の必要性は聞き取りと文字史料の両方にいえることであり、聞き取りだけが信憑性やバイアスを問われるのではないと述べ、聞き取りに「独自の意味」を認めていた」(p.202)
「吉沢は、「生きた資料」である語り手に意見を言うだけでなく、語り手の話を受けとめ、反芻して自らの歴史観を問い直そうとしていた。語り手との相互関係から開かれる世界は、文献史料による世界と異なるものであり、そこに聞き取りの「独自の意味」があった。」(p.202)
「吉沢の問題提起は、ポスト・コロニアル論や国民国家論とかかわって一九九〇年代以降の日本の歴史学で提起されるようになったものを先どりした面があった。」(p.203)
「聞き取りをふまえた歴史叙述では、聞き手の認識の推移や変化を含めて書かれることが少なくない。この点でも、吉沢、古庄、私ともに同様である。それに対して、文献史料にもとづく歴史叙述では、史料読解の詳細や史料を読解する研究者の認識の変化などが書かれることはまれであり、とくに研究者の認識の変化は行間の奥底にしまって書かないことが洗練された研究とされているように思われる。聞き手の認識の推移を含めた叙述は複雑さを増すので避けるべきかというと、そうは思わない。」(pp.204-205)
「「語る歴史、聞く歴史」は歴史学の方法を問い直す。聞き取りに向き合って語ること、聞くことの意味を考えることは、それまで自明に思っていた文字史料による歴史学の方法を問い直すことになり、さらには、暗黙のうちに前提にされていた歴史の時間と空間への問いを呼び起こし、歴史の叙述自体を再検討することになる。私はここに「語る歴史、聞く歴史」の可能性があると思っている。」(p.205)
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▼第6章:歴史のひろがり/歴史学の可能性
「聞く歴史、なかでも体験を聞く歴史がひろがる背景には、二つの大きな時代状況があるように思われる。一つは、一九九〇年代以降のグローバル化とメディア環境の変化である。グローバル化が進展すればするほど、メディア環境が激変すればするほど、一方で人びとを疎外する状況がひろがり、その反証として人と人の関係回復の希求、身体性の回復の希求が強まる。聞く歴史に関心が集まっている背景には、身体性の回復の希求があるように思われる。|九〇年代以降のグローバル化の進展は、他方で冷戦構造の崩壊と重なることで、世界の各所で二〇世紀の歴史の見直しを引き起こしている[…]。これがもう一つの時代状況である。そこでは植民地主義や軍事性暴力、黒人の歴史をはじめとして、人種主義や奴隷制に至るまで歴史全般が見直され、失われた歴史を回復する気運が生まれている。九〇年代以降の日本で、日本軍「慰安婦」や軍事性暴力などの体験を聞く歴史がひろがっている背景には、この時代状況が横たわっている。」(p.215)
「聞き手は、語り手が語ったこと、語りえなかったことについて、沈黙や表情を含めて考えることになる。語り手は、語り手が生きてきた過去から現在に至るまでの経験をさまざまな磁場とのかかわりで語る。その磁場には、すさまじいまでの歴史の抑圧や困難が加わっていることもある。しかも語り手は、聞き手との関係の〈現場〉のなかで語る。聞き手は、過去と現在に至る経験をさまざまな磁場を考慮して検証し、語りの内容と意味を確定させる必要がある。これらをふまえたうえで聞き取りを叙述する。」(pp.223-224)
「以上をふまえて、私なりに体験を聞く歴史が成り立つ条件を整理すれば以下の四点になる。|(1)語り手と聞き手の信頼関係のあり様|(2)聞き取りが成り立った条件、場についての自覚|(3)先入観を捨てて語り手の語りに耳をすます|(4)語りの意味を考え、聞き取りを叙述してかたちにする」(p.224)
「聞き取りの検証にあたり、文字史料とも照合することは当然のことである。しかし、文字史料を優先し、文字史料の枠内に聞き取りを位置づけることになると、ここで検討してきた、体験を語る歴史の複雑だが豊かな過程、困難を乗り越えてようやくにして語られた内容、〈現場〉に含まれた身体性の回復の側面などに光をあてることはできない。」(pp.224-225)
「「語りつぐ」を念頭において聞き取りについて考えてみると、聞き取りではもちろん語り手が重要な存在なのだが、聞き手が語り手から話を聞き、それらを叙述する一連の過程をふまえれば、語り継ぐうえで聞き手が重要な役割をはたしていることがおのずとわかってくる。聞き手は、単に質問をして語り手に語ってもらうのではなく、語り手の話の内容から思いまでをまるごと受けとめることができる場合がある。このようなことは、両者が直接対面する聞き取りであればこそできることである。聞き取りには、語り継ぐ可能性が含まれている。語り手と聞き手が直接に向き合う聞き取りが開く可能性、文字史料と異なる可能性がそこにあるのではないか。」(p.229)
「聞き取りには、体験や思いを「まるごと」受けとめる可能性が開かれている。」(pp.232-233)
「語り手との信頼関係や今までの語りをふまえ、語り手の語りや表情、沈黙を「まるごと」受けとめ、そのなかで肝心なことを受け継ぎ、言葉に責任をもって叙述する。「語る歴史、聞く歴史」には、語りを受け継ぐ可能性が含まれている。」(p.233)
「語り手と聞き手のあいだに信頼関係があり、聞き手が語り手の語りに耳をすますとき、聞き手は語り手に何があったのかだけでなく、語り手の思いや感情、沈黙などを含めて語りをまるごと受けとめることができる。ここに対面性・身体性をともなう聞き取りの固有の特徴と可能性がある。」(p.240)
「「語る歴史、聞く歴史」は、現在を生きる人に限られない。過去の歴史のなかにも「語る歴史、聞く歴史」は残されている。」(p.240)
「今まで、オーラル・ヒストリーといえば同時代の歴史と考えられてきたが、文字に変換されたものも含めることで、視野は一挙にひろがり、歴史全体を対象にすることが可能になる。[…]文字のなかに語ることや聞くことの痕跡を探し、語ることや聞くことが文字に変換される方法やプロセスをたどることで、「語る歴史、聞く歴史」が行われていた〈現場〉を回復させることができる。歴史の〈現場〉からは、声の痕跡や聞く場面など、人びとが生きられた歴史が浮かび上がる。この作業は、いうまでもなく、本書でとりあげた戦前の日本以外にも開かれている。歴史のなかの「語る歴史、聞く歴史」を訪ねる作業には、広大で大きな可能性が開かれている。」(pp.240-241)
「「語る歴史、聞く歴史」の歴史と現在をたどり、あらためて三つの印象が残る。第一に、[…]「語る歴史、聞く歴史」の〈現場〉には、語り手と聞き手の身体性が胚胎している。」(p.241)
「第二と第三は、とくに聞き手にかかわることである。聞き手は、自分の聞き方に向き合い、聞くことの意味を反芻し、更新するなかで、語り手が語ることをようやくまるごと受けとめられるようになる場合が少なくない。」(p.241)
「聞くことの困難に気づき、葛藤をへるなかで、ようやく人びとの生きた歴史をまるごと受けとめることができる。」(p.242)
「第3章の全オモニと第4章の桜林信義さんの語る歴史からは、時間の流れにそって生きてきたというよりも、経験を軸に、経験の共通項をつくるなどの工夫をして生をつなぐ生活実践をしていたことが確認できた。ここではいわば経験が主軸で時間は副軸であり、経験を軸として経験と時間が連鎖するようにつながっていた。[…]今回、二人から見えてきたことは、経験のなかに生きる知恵や拠り所を求め、経験を軸にしながら生をつなぐように生きる姿であった。」(p.242)
「「語る歴史、聞く歴史」からは、人びとの生活実践まで受けとめることができる。「経験を軸にして生をつなぐ生活実践」は、日本の近現代の人々の生き方を考えるうえで、きわめて重要な検討課題だと思われる。」(p.243)
「聞き手が未来に受け渡すのには、語り継ぐことと、書き継ぐことの二つの世界がある。一人ひとりの体験を聞いたあとに、聞き手は自らの言葉で責任をもって語り継ぐことで、体験は孤立したり、埋没したりせずに、未来に受け渡される。一人ひとりの話に耳をすました聞き手には、叙述する世界が待っている。語り手が語りたく思っていることをまるごと受けとめ、語り手を今と歴史の双方に位置づけて書く世界である。」(p.243)

◇オーラル・ヒストリーの/と「歴史」
◇対象とする時代のスパンを広く捉える
◇聞き手の声の存在
◇声以外も含めて読まれる生身の・生きられた歴史 *
◇語りのもつ身体性――をいかに損なわず記述するか *
◇語り・聞く「場」(場面・〈現場〉)そのものの意味 *
◇庶民がつねに「素材化」されてきた歴史を越える
◇聞き手が語り手に対してもつ(翻訳/整序できてしまう)権力――を自覚できるか
◇聞き手が抱える「内なる植民地主義」
◇聞き手の感慨・逡巡・試行錯誤とその意図を記述する
◇語り・聞くこと(行為)自体に正面から向き合う
◇「人生を聞く」方法論の陥穽――語り手側の意思の制約/「苦労克服物語」として叙述
◇沈黙・身体的行為を――「まるごと」――受けとめる
◇語られなかった「生きた歴史」の意味
◇ask・listen・take――応答の過程を繰り返す
◇語り手・聞き手間の積極的な相互作用関係
◇生きられた全体性と時代/通史
◇「経験」を軸にしてつながれる生――を受けとめて(時間の流れに沿うのではなく)描写する
◇聞き手の「成長」の過程――気づき・葛藤・試行錯誤
【補足:村上】
*身体性・場所性
‐ 生業の刻印(傷/変形/皮膚の硬さ)
‐ 不意に飛び出す踊り(郷土芸能)・唄(民謡/子守唄)
‐ 土地を規定する歴史性(土着性)
‐ (作られたリアリティではない)リアリズムが発露する瞬間
‐ アカデミズム:記憶・身体性の簒奪装置
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▼村上による本書への批判
◇「大きな歴史と「語る歴史、聞く歴史」のつながりから見えてきたことは、生活にかかわろうとしたのは国家だけではなく、戦争や占領に巻き込まれた人びとは、なんらかのかたちでそれを受けとめてとらえ返そうとしたこと、あるいは、人びとが国家に生活保障や生存の仕組みの転換を促し、国家がそれに応じる、その相互交渉の歴史のなかで時代はつくられてきたことである。この時代の通史の理解にとって重要なことは、生存のための相互交渉の歴史の視座をもつことではないか。」(p.181)
――このように「国家」と「人びと」とを平面的(=水平的)・対置的な関係性に位置づけることは危険ではないか。その「相互交渉」の場=地平自体のありかたを規定する「力」の存在(と、それを行使する主体)が不可視化されている。
◇「六車〔由実:介護民俗学〕は支援や結論を急がず、介護と聞き書きの両方に新しい光をあてるなかで、利用者さん(語り手)は生きてきた人生をあらためてたどり直して向き合い、聞き手もまた語り手に対して一人の人間として向き合い、さらには語り手の語りを深く受けとめてかたちにする。語り手と聞き手が〈現場〉で向き合うこのような関係には、語り手と聞き手の双方の身体性の回復を促す側面があるといっていいだろう。」(p.220)
――身体性の(「再認識/再獲得」ではなく)「回復」なるものは、双方にとって何を意味するのか、またそもそも誰が規定するのか。その問いなくしての称揚は、(聞き手側による)ナイーブかつ一方的な意味づけではないか。
◇「経験を軸にして生をつなぐ生活実践」(p.242)の受容、ならびに体験を「語り継ぐ」/「私たちの言葉で未来に受け渡す」(p.243)過程に際しては、(草の根レベルの/無自覚的な)歴史修正主義的転用/簒奪が常に介在する危険性を想定すべきではないか。ピュアリスティックな聞き手の態度を前提とした実践の蔓延がもたらす「功罪」に対し、冷徹に向き合う立場の必要性を喚起しておきたい。
◇否応なく表出する語り手のプリミティヴな身体性・精神性、そしてそれを受けとめ自らの言葉に変換する特異な能力を備えた聞き手の身体性・精神性は、必ずしも本書で前提とされている(と解釈しうる)「自立した近代的個人の自由意志」の範疇に収まるものではない。それは往々にして、「理解不能な禍々しさ」を携えたものであるはずだ。その存在/可能性を捨象してよいとは思えない。たとえば、なぜ本書は石牟礼道子『苦海浄土』に触れ「られなかった」のかを考えてみることは、無益ではあるまい。

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第14回:「語りを聞くこと、記録すること(4)」[2018/07/18]

*前回の続き

▼冒頭に話したこと
[事例紹介]「日本のZINEについて知ってることすべて――80年代インディー編」(2018/07/14|於:旧グッゲンハイム邸)【参考1】【参考2】
◇公開インタビューという方法
‐ オープンな場での知の共有
‐ 相互作用性(客席への問いかけ/客席からの応答)
‐ 聞き取りの「場」そのものがクリエイティヴな機能を発揮する可能性

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第15回:「語りを聞くこと、記録すること(5)――詩的叙述と「現場」実践の両立」[2018/07/21]

◇語りえない/語られなかった言葉を聞き取り、言葉にし、叙述する。
◇土地の言葉で自らの言葉を語る/土地の言葉を自らの言葉で再構成する
石牟礼道子:水俣[内から]
森崎和江:筑豊[外から]
◇女性の言葉――コミュニティ/労働の場で重層的にマージナライズされた存在
◇土地が規定する精神性(スピリチュアリティ)・身体性 *
◇「詩的」であることが体現するリアリズム(notリアリティ) *
‐ 唄・語りのリズム
‐ 情動・性・愛・エロス
*=近代科学(歴史学・社会学……)が切り捨てる要素
◇言葉・情報・環境・詩情を「まるごと」つかまえ、分離せずに表現する。:アカデミズムを越えたダイナミズム
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◆いとうせいこう×若松英輔 2018/05/30 「[対談]石牟礼道子を読むということ」『[文藝別冊]石牟礼道子――さよなら、不知火海の言魂』河出書房新社(KAWADE夢ムック): 78-94
「〔若松:〕石牟礼さんは、本当にさまざまなことをしましたが、まず、「見た人」です。とにかく現実を見続けた。そして見たことを見なかったことにしなかった。そこが彼女の文学の真ん中にある気がするんです。でも、今、その部分が忘れられている。私たちは、自分たちの目の前にあるものをまず見ることから始めれば石牟礼さんに近づけるかもしれないけど、石牟礼道子という存在の方ばかりを見ていると……。
いとう:石牟礼さんが見ていたものが見えなくなりますよね。
若松:そうなんです。そこは注意しなければいけない。石牟礼さんが亡くなって、みんなが讃えましたよね。もし石牟礼さんが生きていたら苦々しく思ったんじゃないですか。「私が見たものを見てほしい、私ではなく」そう言うと思います。
いとう:なるほど。石牟礼さんの文章が持つパワーはすごいから、我々はついつい石牟礼道子本人を見てしまう。難しいんですけど、それによって石牟礼さんの対象から目が逸れてしまうのはありますね。」(pp.79-80)
「〔若松:〕水俣病だけでなく、違うかたちで苦しんでいる方たちがいる。その存在が見えなくなるのは、いいこととは思えないんです。
いとう:つまり「誰を代弁しているか」を忘れるということですよね。」(p.80)
「〔若松:〕現代には、文学好きで、詩や和歌を少したしなむ程度だった女性が、巫女になり、預言者のように生きなければならない昏迷の必然がある。私は、現代を席巻して止まない、強欲や利己主義をたきつける「何か」はどこからくるのかを考えています。その「何か」というのは、あたかも消えてなくなったかのように思えるけど、今も私たちの目の前にあるはずなんです。ですから石牟礼道子を讃える前に、その「何か」を見なければいけないし、見なければ、彼女の言葉を受け継ぐことはできない。」(p.81)
「〔若松:〕現代はより多くの人に読まれることが文学の役割だと思われている。「世界的なものだ」というのが最大級の評価だったりする。でも石牟礼さんは正反対のことを言っている。本を読まない、自分の横にいる、言葉を奪われた者たちのために書いているというのです。こうした人の仕事を、「世界的なもの」だと評価すると、大切な何かを見失ってしまうかもしれない。彼女の言葉とその生涯を、もっと近いところで受け止めないといけない。」(pp.81-82)
「〔若松:〕石牟礼さんは『全集』も整備されているわけですから、もう掘り起こさなくてもいい。掘り起こす方向ではなく、読む方向にエネルギーを使わなくてはならない。」(p.82)
「いとう:言ってみれば、石牟礼道子のなかに石牟礼道子を見いださないということですね。それが石牟礼道子性だと。」(p.82)
「〔いとう:〕僕も震災後は『苦海浄土』を縋るように読みましたけど、最近は句集とか詩集を読むようになっているんです。それらの作品にはもちろん社会への怒りも含まれているんですけど、それよりもより個人的なものなんですよね。そういう個人的な部分が土台にあって『苦海浄土』などの作品が出来ていることに……つまり石牟礼道子を読んで圧倒されるのではなくて、石牟礼道子を読んで書きたくなることの方が自分にとってどうも重要になってきているみたいなんです。」(p.83)
「〔いとう:〕『苦海浄土』は中心に詩があって、詩によって書かれている。それが他の文学者とは圧倒的に違っている。
若松:心から同意します。詩というのは言葉たり得ないものをどうにか言葉にする営みです。自分が既に分かっていることを描くのとはまったく異なる営みなわけで、石牟礼さんにも、詩の主体は自分ではないという感覚が強くあったんだと思います。私が書いたとしてもそれは私ではない。違う「私」なんだ。それは水俣病で亡くなった人たちであり、さまざまな不条理に出会った人たちであり……という感覚が石牟礼さんにはあったんだと思います。」(p.83)
「〔若松:〕石牟礼さんは、水俣病は公害じゃない、虐殺だというのです。本当にそうだと思います。水俣病を公害だと言っていたら、とても重要なもの、本質的なものを見失ってしまう。[…]現場が見えないところで虐殺が起こっている世界で、私たちは何を見据えていかなくてはならないのか、そこが問題だと思うのです。」(p.84)
「〔いとう:〕論理的に「ここの政治課題はこうすれば解決しますよ」とか「この人たちはこうやって保障すればなんとかなりますよ」という考え方こそが実は一方的な目であって、文学的な目の対極ですよね。そうじゃない目を養うために本があるわけだから。」(p.85)
「若松:開高健[…]は、ある意味ではとても石牟礼さんに似ているとも思うんです。一見すると似ても似つかぬ二人ですよね。態度も文学もまったく違う。でも、二人は、人が行けない所、見ない所、意味がないと思う所に実際に出向き、そこで見たものを書いている。そういう点ではとても近い。」(p.85)
「〔若松:〕私たちは今、石牟礼道子の読者という立場にいるわけです。だからこそここで読者とはどういう存在なのかを真剣に考える。とてもいい機会でもある。
いとう:つまり石牟礼道子を語るな、読め、ということですね。」(pp.85-86)
「〔若松:〕石牟礼道子を研究、論究したもので、興味深く読めるものは多くないです。それはおそらく、今考えている意味で「読む」前に書いているからなんだと思うんです。いとうさんのようにその世界に行って、帰ってきてから書くのはいいと思うんですけど、「行く」という実践がないまま書くと、非常に小さなものになってしまう。」(p.86)
「〔いとう:〕石牟礼さんの中では海は広大で、海の側からこっちの世界を見ている。大いなるものからこっちを見る力がある。しかもそれに向かい合っている自分もいるし、さらにはその背後から自分と海とを眺める自分がいて、その全部が溶け合っている。だから、ある意味では分類しないというか、分類しないからすべてのものが見えているんですよね。」(p.87)
「〔いとう:〕患者さんたちの言葉を聞いて覚えて語ったという意味では、石牟礼さんだって〔『古事記』の稗田阿礼と〕同じで、まずは読み手だった。それから石牟礼さんは度々歌いますよね。話していても途中から歌い出す。おそらく喋ることと歌うことの区別がついていないんじゃないかと思うんですけど、言語は歌から発生したわけですから、常に言語の発生する現場を自身の中に抱えている人でもあった。」(p.88)
「〔若松:〕石牟礼道子も、「現場」で読まれないといけない。今のままだとケースに入った百済観音みたいになるような気がして……。」(p.89)
「〔若松:〕石牟礼さんの文学を読んでいると、言葉によって傷ついた人たちのドラマであり歴史です。先ほどのいとうさんの話にもありましたが、言葉は飛ぶんだと。音があれば自分が一生涯出会わないような人の心まで届く。でも文学がその飛躍の力、飛躍のはたらきを手放してしまったら、その可能性はとても小さなものになってしまう。」(p.90)
「〔いとう:〕未だに水俣病を巡ってその因果性や責任をちゃんと認めていない社会があるということ自体が酷いことですけど、放射能の場合、その被害は確率でしか言えないわけですよね。ある所は濃度が高いし、ある所は低い。しかもそれが体に影響する人もいればそうじゃない人もいる。そうなってしまったら、これはもう科学や数字では捉えられないわけです。現実がモザイク状に違うから、平均値で考えることはできない。むしろ、詩や文学でしかこの残酷さは表現できない。今こそ詩が必要な時代になったわけです。それなのに「放射能のことは書かないで。社会的なことは書かないで」と言われると、書く意味があるのかと思ってしまいます。」(pp.90-91)
「若松:何度か石牟礼道子と会っていて、こちらが彼女を書き手だと思って会っているうちは、あるところまでしか入れてもらえない、という感じがしたんです。でもある時、単にここにいることが面白いことなんだと気づいたんです。それまでは大事なことをお話しになるかもしれないと思って録音もしていたけど、それも止めて、こちらから話すこともやめてしまった。そうしたら石牟礼さんが、水俣の地図を描きながらいろんな話をしてくれた。書き手然とした態度は、さまざまな意味で文学の世界をとても小さくしているのかもしれません。
いとう:いちばん近くの隣人に向けて書くという石牟礼さんの姿勢が、マイナー文学や過激な文学にとって最も当たり前の態度なんでしょうね。というか、元々文学って声の小さきものだったんですよね。」(p.91)
「〔若松:〕石牟礼さんは、チッソの前で、一年七ヶ月も座り込みをした人です。直接本を売ったわけではないですけど、直に言葉を届けてきた。そういう、文学のある種の身体性がいつの間にかなくなってしまった。」(pp.91-92)
「若松:『苦海浄土』も、ある意味ではフィクションですよね。フィクションなんだけど、現場のことを書いている。フィクションだけど、「つくりもの」ではないのです。隠れた真実を言葉にしたものですが、世はそれをフィクションと呼ぶ。考証的に調べたところで、あるところまでしかたどり着かない。いとうさんは、小説を書きながら、フィクションを書いていると思っていないのではないでしょうか。むしろ現代に受容されているフィクションが信じられなくなってきて、ノンフィクションを書いている。でもノンフィクションで書いた方が、フィクションが生きてくる。まさに『苦海浄土』ですよ。石牟礼さんが何をしてくれた人かと言えば、文学のジャンルを打ち砕いてくれた人なんですよね。石牟礼さんがやらなかった形式はないですよね。」(pp.92-93)
「〔いとう:〕ジャンルについても同じなんですよね。その区別がない。どこどこのジャンルに行って書くというよりは、常に全ジャンルが含まれた作品の、どこか一端が突出して小説になったり句になったり。それがすごいしスリリングなんです。」(p.93)


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■参考

対象候補とした(が取り上げられなかった)もの

▼メディア
◆堀部篤史「[このごろ通信]雑誌は思考の教科書」『毎日新聞』2018年4月23日東京夕刊
◇「ノイズ」の必要性
◇体系化とそこからはみ出るもの
 ――どう掬い取るのか/その位置関係をどう描くか
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▼近過去/時代性/世代
◆ばるぼら・野中モモ編 2017 『日本のZINEについて知ってることすべて――同人誌、ミニコミ、リトルプレス 自主制作出版史1960〜2010年代』誠文堂新光社
「 そしてそれから
  みんな、口をそろえて
  「80年代は何も無かった」ってゆう
  何も起こらなかった時代
  でもあたしには…
漫画家・岡崎京子が『東京ガールズブラボー』最終回でヒロインにそう述懐させたのが1992年。ここで彼女が描いた「80年代の青春」は、まだ10年も経っていない近過去だった。そして2010年代。30年の時を経て、エイティーズ・スタイルは、もはや何周目という話ではなく若者たちの選択肢のひとつとなり、街にはいつか見た気がするけれど昔とはどこか何かが絶対に違う意匠があふれている。パステルピンクにペパーミントグリーン、ネオンカラーにブラッグ&ゴールド。高度消費社会、個人主義、多様化、細分化、ポストモダン。そんなキーワードが付された時代のリアルな感覚を、残されたZINEから探ってみよう。それは今日までずっと続いている「パンク以後(ポストパンク)」のはじまりではなかったか。」(p.65《Chapter:2 80年代のジン――ポストパンクの断片たち》リード文)

◆小林英治 2018 「アイオワで過ごした10週間――柴崎友香インタビュー」『なnD』6: 33-48
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▼エスノグラフィ
小川さやか 2017 「オートエスノグラフィに溢れる根拠なき世界の可能性」(特集=エスノグラフィ――質的調査の現在)『現代思想』45-20(2017-11): 123-137
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▼語りを聞くこと、記録すること
◆蘭由岐子 2004→2017 『[新版]「病いの経験」を聞き取る――ハンセン病者のライフヒストリー』生活書院
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▼[シミュレーション]ジャズ“で”調査する
◆マイケル・モラスキー 2005→2017 『戦後日本のジャズ文化――映画・文学・アングラ』岩波書店(岩波現代文庫S305)
◆マイケル・モラスキー 2010 『ジャズ喫茶論――戦後の日本文化を歩く』筑摩書房
◆Manabu Nakamura(edit, photo: Takao Fujioka)「JAZZ CD & RECORD LIGHTHOUSE――関西・新譜ジャズ専門店、最後の光「ライトハウス」」『KANSAI JAZZ GUIDE: WAY OUT WEST』110(2018-05): 2-6
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▼[シミュレーション]「1968年」を調べる
◇時代の「アクチュアリティ」をつかむ/見出す――歴史意識・時代感覚の必要性(cf.「トレンド」をつかむ「マーケティング」といった概念とは真逆の――そうしたものを破壊するための――アプローチ)
◇なぜ1968年か?
‐ 世界同時性
‐ 政治=運動=思想=文化
◇1968年「を調べる」こととは
‐ 当事者性
‐ 継承と断絶
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「[プレスリリース]「1968年」――無数の問いの噴出の時代」(国立歴史民俗博物館/2017)
「[企画展]「1968年」――無数の問いの噴出の時代」(2017年10月11日〜12月10日/国立歴史民俗博物館)
◆安田常雄 2018 「思想の言葉――「一九六八年」は民衆生活(思想)とどのように交錯するか」(特集=〈1968〉)『思想』1129(2018-05)
◆島泰三・中川えりな・四方田犬彦「「1968年」――あれから半世紀」『中日新聞』2018年4月21日《考える広場》
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「1968年――転換のとき:抵抗のアクチュアリティについて」(映画上映+パフォーマンス/シンポジウム/ミクストメディアシアター/展示)
 2018年5月27日〜6月16日 於:ゲーテ・インスティトゥート東京
《フランス映画祭2018 京都》
 2018年6月25日〜7月1日 於:出町座
 *『グッバイ・ゴダール!』・『中国女』上映
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“Archive of 1968”(Verso Books)
“[Reading List] 50 Years on from 1968”(Verso Books)
“[Reading List] '68 and the Situationists: A Reading List”(Verso Books)
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◆クリスティン・ロス(箱田徹訳) 2002=2014 『68年5月とその後――反乱の記憶・表象・現在』(革命のアルケオロジー 3)航思社
◆ノールベルト・フライ(下村由一訳) 2008=2012 『1968年――反乱のグローバリズム』みすず書房
━━━
◇20180613 「JAZZ & CITY #3──平井玄×中村寛」『ele-king』
「1968年から50年? それがどうした。
語られれば語られるほど、肝心なことが消されていく。
さて、南ロンドンから鳴り響くUKジャズを最近は聴いている。
そこにロリンズ風のモールス信号フレーズが聞こえる。
ロリンズから半世紀、カリブ海から大西洋を東に回り込んできた連中の若い音だ。
ジャズは生きている。死んでいるのは俺たちだ。」
◇平井玄(@hiraigen)
『思想』1129(2018-05)〔特集=〈1968〉〕
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◆「[鼎談:四方田犬彦×福間健二×大島洋『1968[1]文化』(筑摩書房)]時代の最先端は常に少数派だ――時代が動いていく、それが面白いと言って拍手しているだけではダメだった」
 『図書新聞』3345号(2018年3月31日)1・2・7面 【Web掲載版】
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◆片岡義男 2018 「辰巳ヨシヒロ、広瀬正、三島由紀夫」『珈琲が呼ぶ』光文社: 282-310 ━━━
◆小杉亮子 2018 『東大闘争の語り──社会運動の予示と戦略』新曜社
◆小杉亮子・福岡安則 2018 「[対談]東大闘争が問うたもの 己の生き方を今問うために――『東大闘争の語り 社会運動の予示と戦略』(新曜社)刊行を機に」『週刊読書人』3240(2018年5月25日)号: 1-2 【Web掲載版】
◆佐藤淳二・小泉義之「京都大学人文科学研究所2018連続セミナー第1回載録:〈68年5月〉と私たち」『週刊読書人』3241(2018年6月1日)号: 1-3 【Web掲載版】


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関連する情報

【2017年度】立命館大学産業社会学部「質的調査論(SB)」(担当:村上潔)
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▼第3回のイントロダクションで言及
◆山際淳司 1985 「江夏の21球」『スローカーブを、もう一球』角川文庫→2017 『江夏の21球』KADOKAWA
◆2018/04/25 「衣笠さん 球界一の洋楽通だった――絶妙センス“ブルーノ・マーズ+江夏の21球”」『スポニチ Sponichi Annex』
◆平井玄 2018/04/16 「【R.I.P. Cecil Taylor】すべての棺桶をこじ開けろ――セシル・テイラー追悼」『ele-king』  ◇平井玄(@hiraigen)
「セシル・テイラーが4月5日に死んだ。それについてエレキング電子版に書いた。オーネットもそうだが、多くの訃報は彼らを「フリージャズの先覚者」として伝える。これがどうも墓石のように感じて仕方がない。棺桶に蓋をする。魂を閉じ込める。でも「棺を覆いて収まる」音楽じゃない。そこを書いた。」
[2018年4月17日11:00 https://twitter.com/hiraigen/status/986061850868563969]
━━━
▼第3回で言及
◆デヴィッド・グレーバー(酒井隆史訳) 2015=2017 『官僚制のユートピア――テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』以文社
━━━
◆『現代思想』2018年5月臨時増刊号
 《総特集=石牟礼道子》
 cf. 石牟礼道子
━━━
◇ETV特集「わが不知火はひかり凪(なぎ) 石牟礼道子の遺言」
 2018年5月5日(土)23:00-24:00 Eテレ(NHK)[再放送:5月9日(水)24:00-25:00]
━━━
映画『月夜釜合戦』
 2018年5月5日(土)〜5月11日(金) 於:シネ・ヌーヴォ(大阪)
 2018年7月14日(土)〜7月20日(金) 於:出町座(京都)
 cf. 【2017年度】立命館大学産業社会学部「質的調査論(SB)」:第13回「スラムを「内側から」描くということ――映画『月夜釜合戦』を題材に」[2018/01/09]
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《『ニッポン国VS泉南石綿村』公開記念:原一男監督特集》
 2018年5月5日(土)〜5月18日(金) 於:元町映画館(神戸)
 cf. 原一男
 cf. 映画『ニッポン国VS泉南石綿村』公式サイト
 cf. 「原一男監督と考える 70年代の生の軌跡――障害・リブ・沖縄 〜初期ドキュメンタリー作品上映とトーク〜」(2016/04/29 於:立命館大学朱雀キャンパス5F大ホール)
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▼第5回のイントロダクションで言及
《追悼特別展 高倉健》
 2018年4月7日(土)〜5月27日(日) 於:西宮市大谷記念美術館
元町映画館&Cinema KOBEで高倉健代表作を5月に上映<追悼特別展連携企画>(シネルフレ)
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《ストローブ=ユイレ 回顧から新地平へ》
 2018年5月5日(土)〜5月11日(金) 於:出町座(京都)
《ストローブ=ユイレ 回顧から新地平へ》
 2018年5月8日(火) 於:同志社大学寒梅館ハーディーホール
 16:00『労働者たち、農民たち』/18:30『放蕩息子の帰還』
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▼参考書として(第7回の導入で言及)
◆入江公康 2018 『現代社会用語集』新評論
◆奥野克巳・石倉敏明編 2018 『Lexicon 現代人類学』以文社
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▼第7回の導入で言及
◆田尻久子 2018 『猫はしっぽでしゃべる』ナナロク社
cf.
‐ 米本浩二 2016/07/16 「[熊本地震 3カ月]「橙書店」被災と復興の物語――文学の拠点、守りたい」『毎日新聞』西部朝刊
‐ 清水晃平 2017/09/27 「サントリー:熊本・橙書店に地域文化賞――読者と作家出会い」『毎日新聞』
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◆林えいだい 2018 『《写真記録》関門港の女沖仲仕たち――近代北九州の一風景』新評論
cf. 米本浩二 2018/04/15 「[日曜カルチャー]林えいだい――遺作、刊行 「女ごんぞう」写真記録」『毎日新聞』西部朝刊
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◆藤沢美由紀・中嶋真希 2018/05/16 「性的少数者:LGBT取材「知識不足」――課題を指摘」『毎日新聞』
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◆大谷能生 2018 『平岡正明論』Pヴァイン(ele-king books)
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特集上映《七〇年代の憂鬱――退廃と情熱の映画史》
 2018年6月9日〜7月6日 於:神保町シアター


*作成:村上 潔MURAKAMI Kiyoshi
UP: 20180411 REV: 20180414, 18, 24, 25, 26, 29, 0502, 03, 05, 06, 07, 09, 14, 16, 17, 24, 26, 28, 30, 31, 0604, 06, 13, 14, 27, 0707, 18, 19, 25
事項
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