宇井 純
うい・じゅん
1932/06/25〜2006/11/11
last update: 20231220
・沖縄大学名誉教授
・プロフィール http://www.southwave.co.jp/swave/uistory/uino1/uino1_pf03.htm *リンク切れ
■最新記事
◇加藤正文 20210813 「70年にわたる研究の軌跡、戦後史つぶさに 環境経済学の第一人者、宮本憲一氏「未来への航跡」刊行」『神戸新聞NEXT』
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202108/0014587023.shtml
“本書では森裕之・立命館大教授や諸富徹・京大教授ら宮本教授から指導を受けた一線の研究者らによる論考もある。また島恭彦、水田洋、柴田徳衛、大江志乃夫といった碩学のエッセーや、原田正純、宇沢弘文、宇井純ら各氏と行った国内外の公害調査の貴重な写真もある。”/【キャプション】“世界環境調査団の団長としてポーランドの環境汚染を調べる宮本憲一さん(右から2人目)。左から原田正純さん、宇井純さん。右端は現地の研究者ドブロブロスキー博士=1975年(宮本さん提供)”
◇新泉社・安喜健人さんがつくった「宇井純セレクション(1)原点としての水俣病」 公害を問う言葉、まず自らに
『朝日新聞』2021年5月12日掲載《好書好日》
https://book.asahi.com/article/14347633
“公害との闘いに生涯を捧げた環境学者、宇井純(ういじゅん)氏(1932〜2006)。自らも水銀を川に流した一技術者であることの深い悔恨から水俣病の原因究明と患者救済運動に奔走し、また公害を生んだ社会や学問への問いとして自主講座「公害原論」を主宰した人物である。|宇井氏は新聞雑誌から市民運動のミニコミまで数多くの媒体に寄稿し、精力的に発信を続けたが、講義録『合本 公害原論』(亜紀書房)以外に単行本は数えるほどしか残されていない。”
◇田中駿介 20210418 「#汚染水の海洋放出決定に抗議します(下)――繰り返される「手口」と、私たちの「責任」」,『論座』
https://webronza.asahi.com/national/articles/2021041800003.html
“かつて、東大工学部82番教室で、公開自主講座「公害原論」が開講された。当時東大助手を務めていた宇井純が開講し、水俣病を中心に様々な公害についての「講義」が行われた。教壇に立ったのは必ずしも科学者に限らない。運動家や市民が講師を務めることもあり、闊達な議論が行われた。|その講義の中で、宇井は海洋投棄について、合流式下水道や混合処理と並ぶ「衛生工学の三悪技術」として論じている。”
◇河合仁志「「水俣病を告発する会」結成50年 東京でシンポ、活動継続誓う」
『西日本新聞』2020/12/6_6:00
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/670858/
“会結成の中心人物だった故宇井純さんを師と仰ぐ沖縄大名誉教授の桜井国俊さん(77)は、当時の東京大で企業側に立って発言する教授陣が幅を利かせる中、宇井さんが自主講座を開いて公害を世に問い続けたエピソードを披露した。”
■著書
◆宇井 純 19680720 『公害の政治学――水俣病を追って』,三省堂新書30,216p. ASIN: B000JA5G3C 380 [amazon] ※ ee
◆宇井 純 19711125 『私の公害闘争』,潮出版社,239p. ASIN:B000J9NRNY 280 [amazon] ※ ee
◆宇井 純 1971 『公害原論 1』,亜紀書房,275p. 550 千葉社1439
◆宇井 純 1971 『公害原論 2』,亜紀書房,283p. 550 千葉社1440
◆宇井 純 1971 『公害原論 3』,亜紀書房,270p. 550 千葉社1441
◆宇井 純 1974 『公害原論 補巻1』,亜紀書房,288p. 950 千葉社1442
◆宇井 純 1974 『公害原論 補巻2』,亜紀書房,282p. 950 千葉社1443
◆宇井 純 1974 『公害原論 補巻3』,亜紀書房,297p. 950 千葉社1444
◆宇井 純・生越 忠 1975 『大学解体論 1』,国書刊行会,239p. 950 千葉社2215-1
◆宇井 純・生越 忠 1975 『大学解体論 2』,亜紀書房,254p. 950 千葉社2215-2
◆宇井 純・生越 忠 1976 『大学解体論 3』,亜紀書房,316p. 950 千葉社2215-3
◆宇井 純 19770124 『反東大・反百年祭──公害問題の視点から』,公開自主講座「大学論」実行委員会・東大工学部助手会. ※
◆宇井 純 19770225 『住民を結ぶ旅――反公害世界行脚』,筑摩書房,226p. ASIN: B000J8WNDK \1260 [amazon] ※ ee m34
◆宇井 純 198806 『公害原論 合本』,亜紀書房,270p. ISBN-10: 475058813X ISBN-13: 978-4750588131 [amazon]/[kinokuniya] ※ ee
◆宇井 純 編 19911115 『公害自主講座15年』
,亜紀書房,501p. ISBN-10: 475059122X ISBN-13: 978-4750591223 2976 [amazon]/[kinokuniya] ※ ee
◆Ui, Jun ed., 1992, Industrial Pollution in Japan, United Nations University. [Karaimo Books]
“Foreword
Overview
Chapter - 1 The Ashio Copper mine pollution case: The origins of environmental destruction
Chapter - 2 Japan's Post-Second World War environmental problems
Chapter - 3 The arsenic milk poisoning incident
Chapter - 4 Minamata disease
Chapter - 5 The Miike coal-mine explosion
Chapter - 6 Social structures of pollution victims
Conclusions
Contributors
”
◆宇井 純 20061210 『新装版 合本 公害原論』
,亜紀書房,872p. ISBN-10: 4750506184 ISBN-13: 978-4750506180 3990 [amazon] ※ ee.(宇井[1988]の新装版)
◆宇井 純 編 20070515 『自主講座「公害原論」の15年』,亜紀書房,501p. ISBN-10: 4750507024 ISBN-13: 978-4750507026 3675 [amazon]/[kinokuniya](宇井編[1991]を改題) ※ ee
◆20000907 「公害における知の効用」 栗原・小森・佐藤・吉見編[20000907:049-072] ※
*栗原 彬・小森 陽一・佐藤 学・吉見 俊哉 編 20000907 『言説:切り裂く』(越境する知・3) 東京大学出版会,285p. 2600 ※
■引用
◆「自主講座公害原論 開講のことば」
「公害の被害者と語るときしばしば問われるものは、現在の科学技術に対する不信であり、憎悪である。衛生工学の研究者としてこの問いを受けるたびに、われわれが学んで来た科学技術が、企業の側からは生産と利潤のためのものであり、学生にとっては立身出世のためのものにすぎないことを痛感した。その結果として、自然を利益のために分断・利用する技術から必然的に公害が出て来た場合、われわれが用意できるものは同じように自然の分断・利用の一種でしかない対策技術しかなかった。しかもその適用は、公害という複雑な社会現象に対して、常に事後の対策としてしかなかった。それだけではない。個々の公害において、大学および大学卒業生はもとんど常に公害の激化を助ける側にまわった。その典型が東京大学である。かつて公害の原因と責任の究明に東京大学が何等かの寄与をなした例といえば足利鉱毒事件をのぞいて皆無であった。
建物と費用を国家から与えられ、国家有用の人材を教育すべく設立された国立大学が、国家を支える民衆を抑圧・差別する道具となって来た典型が東京大学であるとすれば、その対極には、抵抗の拠点としてひそかにたえず建設されたワルシャワ大学がある。そこでは学ぶことは命がけの行為であり、何等特権をもたらすものではなかった。
立身出世のためには役立たない学問、そして生きるために必要な学問の一つとして、公害原論が存在する。この学問を潜在的被害者であるわれわれが共有する一つの方法として、たまたま空いている教室を利用し、公開自主講座を開くこととした。この講座は、教師と学生の間に本質的な区別はない。修了による特権もない。あるものは、自由な相互批判と、学問の原型への模索のみである。この目標のもとに、多数の参加を呼びかける。」(週刊講義録『公害原論』創刊号(1970.10.12)→宇井編[1991→2007:2])
↓
◇引用:2008/11/** 稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 『流儀』,生活書院 山田・立岩対談の注で
◆19990725 「医学は水俣病で何をしたか」,『ごんずい』53(水俣病センター相思社)
http://soshisha.org/gonzui/53gou/gonzui_53.htm#anchor605632
「椿教授の果たした役割
一九六五年に第二水俣病が発見されると、あらためて医学の能力が問われることになった。新潟における症状の抽出と患者の発見には、水俣の経験は参考にはなったが、水銀濃度の高い重症の症状であり、中程度以下の症状は新潟では独自に洗い出された。この時期診断の中心になった椿忠雄には、自分が新しい未知の問題に直面しているという意識はあったらしい。当時知り合った一介の東大助手にすぎない私にも、謙虚に意見を求めたことや、当時新潟水俣病問題の研究班を新潟大学の研究者だけで結成しようとした医学部教授会に対して、県の北野衛生部長が水俣の経験をもつ班員を加えて独占を破ったことを許容した事実からもそれは推察される。
しかしこのような病気に対する謙虚な姿勢は長くはつづかず、のちに椿は新潟水俣病の第二次訴訟で、昭和電工側から最重要証人と期待されるほど、水俣病に対して限定的な立場をとり、水俣病の認定制度を維持しようとする環境庁の理論的支柱となった。この変貌の理由について椿はほとんど語っていないが、私にはほぼ推察がつく。
椿はこのあとスモン病の原因研究に参加しその原因がキノホルムであることを発見する。一般に医師が新しい病気を発見するのは、一万人のうちで一人に一生一度に起こるぐらい幸運なことだといわれる。椿は新潟水俣病とスモンの二つの病気の原因を発見した、いわば日本の医師として最高の名誉を得るに値する功績をあげたことになる。この功績が椿に専門性を強調する傲慢への道を開いたといえよう。二つの発見はいずれも問題がかなりの程度まで煮詰まって来て、誰が発見者になるかは時間の問題であり、しかも発見したことを発表するには決断が必要であって、決断のための勇気を迫られるのは事実だから、椿が自信満々になることも無理はないが、患者の運動を「このままでは国益にかかわる」などと、日本国を背負ったつもりで考えるのは、やはり椿が国家鎮護の大学である東大出身だからであろうか。」
↓
◇言及:立岩 真也 2004/11/15 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院,449p. ISBN:4260333771 2940
「☆07 これまでにもその文章をいくつか引用してきたが、今井尚志、近藤清彦、佐藤猛、林秀明、吉野英といった医師たちがいて、熱心に支援に関わってきた。また既に一九七〇年代から川村佐和子、木下安子といった保健・看護職の人たちがALSの人に深く関わり、ALS協会等にも協力してきた。そして、スモン病、新潟水俣病の原因を特定した人である椿忠雄(都立神経病院院長の後、新潟大学神経内科教授)がALS協会の創設などにも協力した恩人として記憶されている(現在入手できる編書としては椿他[1987]、遺稿集があるが未見。椿の新潟水俣病への対応に批判的に言及しているものとして宇井[1999]、椿の死の後のALSの困難に短くだがふれた文章として林[2003])。こうした人々の業績、言説を跡付ける必要もあるが、本書ではその作業はまったくできていない。一九七〇年代から一九八〇年代のALSの人たちやその関係者、ALS協会の足取りは、今後の研究によって明らかになるだろう。」
◇言及:2008/11/** 稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 『流儀』,生活書院 山田・立岩対談の注で
■言及
◆公開自主講座「宇井純」を学ぶ実行委員会 編 2007 『公開自主講座「宇井純」を学ぶ』、公開自主講座「宇井純」を学ぶ実行委員会
cf.http://d.hatena.ne.jp/yummyseaweed/20070717
◆吉岡 斉 2007 「宇井さんの言葉と仕事は、何だったのか」、公開自主講座「宇井純」を学ぶ実行委員会編[2007:11-12]
「宇井純の仕事について私は、水俣病をはじめとする公害問題の解明・解決の先頭に立つリーダーとして、また自主講座運動の創始者として、若い頃から敬意を抱いていたが、宇井氏の仕事を自分の仕事の模範として役立てようという問題意識はなかった。なぜなら宇井氏の仕事は、ご自身も述べているように、筋立てた記述を目指すものではなかった(理屈よりも行動の人であった)。また私が科学技術の「上流」に興味があるのに対し、宇井氏は「下流」それも河口近くに興味をもっていた。さらに私にはチッソ・行政・御用学者などの悪徳はあまりにも明白であり、「科学技術批判学」によってさらに深める余地があるような事柄ではないように見えた(もっと微妙なグレイゾーンに私は興味があった。)」(吉岡[2007:12])
◆立岩 真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 2940 [amazon]/[kinokuniya] ※ d01.et.,
第2章・注21
☆21「[…]前の註に記したことでもあるが、それはこの国における「環境思想」をどのように捉えるのかにも関わっている。宇井純にしても原田正純にしても、その人たちが言ったことを煎じ詰めると、極めて単純な筋の話になる。つまり、差別のあるところに公害がある、「社会的弱者」が被害者になる。それだけといえばそれだけの話だ。
「最初、水俣病患者の家を訪ねた時、患者たちの病気のひどさもさることながら、その貧困と差別の苛烈にショックを受けた。そして、この貧困と差別は水俣病が起こったために生じたと考えた。しかしその後、いくつかの国内外の公害現場を訪ねた結果、私は差別のあるところに公害が起こることを確信するに至った。」(原田[2007a:123])
むろんその様々な出現の形態は様々であり、それに対する対し方にしてもまた様々ではあって、そうした部分ではいくらでも調べたりすることがある。実際、その人たちは、長い間そうした仕事を行なってきた。ただ、その「思想」は、縮めればずいぶんと短くなってしまう。もちろんそれでいっこうにかまわないのではある。なにか長々と、いつまでも論じることがよいなどということはないのだ。ただそうではあっても、わかりやすく見える言葉の上を私たちが滑っていってしまうことがしばしばあるなら、そしてそこでなされたこと、言われたことが大切だと思うなら、言葉をどのように足していったらよいのか、これは考えどころなのかもしれない。」
◆立岩 真也 2008/10/01 「争いと償い――身体の現代・4」,『みすず』50-10(2008-10 no.565):- 資料,
「身体を巡る社会について何を知り、何を考えて、何を言ったらよいのかを考えている。そこで、ほんのすこし、振り返ってみたいと思ったのは公害や薬害のことだ。それがこれまで書いてきたこととどのようにつながるのか。その説明は後でしよう。
一九六〇年代から七〇年代頃のそれは、昨今の「地球環境問題」の受け止められ方とはまたいくらかは異なる感触とともに、多くの人たちにとって相当の意味をもつできごとであったはずである。ただ、それが「社会」について考えたり、やがてそれを仕事にするきっかけの一つになったとして、そのことはそのまま「環境」を自分の仕事の主題に選ぶことにはならない。例えば私には――宇井純が亡くなって、追悼の催しの冊子が出され、多くの人がそれに文章(講演要旨)を寄せているのだが、その中で吉岡斉が述べているように☆01――例えば水俣病について、ことのよしあし、問題の構図自体はまったくはっきりしているように思えた。もちろん、きちんとした実証研究と社会運動が必要である。ただこの世には他にも様々が起こっており、水俣に関わる人たちは――たしかに数えれば少なくはあったのだが――いないでもなかった。私の知人にもそんな人がいた。それで私はそちらにおまかせということにして、別のことについて考えることになり、それは今後もそうだろうと思う。
ただそれでも、何も思わないできたわけでなく、いくつか気になってきたことはあった。」
☆01に上に掲載した吉岡斉の文章からの引用
◆稲場 雅紀・山田 真・立岩 真也 2008/11/30 『流儀』,生活書院
・安楽死・尊厳死法制化反対に賛同(2005)