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『豊かさと棄民たち――水俣学事始め』
原田 正純
20070406 岩波書店,126p
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last update: 20181101
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原田 正純
20070406 『豊かさと棄民たち――水俣学事始め』,岩波書店(双書 時代のカルテ),126p. ISBN-10: 4000280880 ISBN-13: 978-4000280884 1100+税
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■内容
■岩波書店Webサイト内のページ:
https://www.iwanami.co.jp/book/b260004.html
「どの公害と環境破壊にも、共通の法則性がある。汚染は歴史的・地域的差別の上に発生し、被害者の存在は常に隠蔽され忘却されてゆく。医師として患者と共に闘い続けた著者が、水俣学という総合的な人間学を構想する。今も終わらない社会的差別の構造にメスを入れ、経済発展の陰に「棄てられた」犠牲者たちを真に追悼するために。」
◆書評情報
・熊本日日新聞(朝刊) 2007年7月22日
・南日本新聞(朝刊) 2007年6月3日
・熊本日日新聞(朝刊) 2007年5月31日
■目次
予断・診断・独断 ミナマタ・シンドローム
第1章 「棄てられていた」水俣病――「認定」とは何か
第2章 胎児性水俣病――人類への警告
第3章 経済成長の陰に――三池炭鉱炭塵爆発
第4章 水俣再び
第5章 公害は個別のあるところに
終章 水俣学事始め
■引用
▼引用:村上潔
自然のなかに生き、自然とともに生きている人びとは、限りない自然の恵みを享受していた。しかし、彼らはしばしば権力者でも、資産家でもなかった。どちらかと言えば、社会的には弱い立場の人々が大部分なのである。環境汚染の被害は、社会的に弱い立場の人々を直撃する。|最初に水俣を訪れた時、症状のひどさもさることながら、患者たちが置かれた環境の貧困と▽△差別のむごさに衝撃を受けた。その折には、単純に私は
水俣病
が発病したから差別が起こったのだと考えた。しかし、それは間違いであったことに、後に気づかされる。【太字:差別のあるところに公害が起こることを経験から教えられていくのである。】(pp.vii-viii)
私の水俣病に対する思いは、時には広がりをみせ、また時にしぼみながらも、この四十余年間燃え続けてきた。このようにも持続できたのは、誤解を恐れずに言えば、水俣病事件のもつ妖しい魅力のゆえであった。[…]私を惹きつけてやまないものは、水俣病事件のもつ無限の底深さと、多様性の中にもはっきりと見えてくる法則性であった。さらに付け加えれば、水俣病の患者たちと彼らが暮らしてきた風土がもつ魅力、懐かしさと言うべきか、原風景というべきか、なにかしら十分には説明のできない懐かしさであった。それは、近代化・工▽△業化、合理化に象徴される現代の風潮と対峙する、非近代的・非合理的と言われるものに対する一種の慕わしさと、憧れみたいなものなのかもしれない。|さらにその上に、水俣病事件を見つめ続けることは、世界を見つめることに通じていた。私にとって水俣病は、世の中を見る鏡であり、その鏡は現代のさまざまな事象を、残酷なまでに克明に映し出して見せてくれた。それは時として苛酷でもある辛い現実を如実に映し出すこともあったが、時にはそこに、人間のもつやさしさ、たくましさなど、希望のきらめきを捉えることもできたのである。こうして、私の水俣病を通しての知的模索は、ミナマタ・シンドロームを体系化する作業へと進もうとしている。すなわち、環境問題を媒介とした一つの総合的な人間学としての「水俣病」へと進化させる試みへと至っている。|いま、大学の仲間たちとともに進めている「水俣学」とは、水俣病の医学をここで教育し、研究する「水俣病学」ではない。水俣病を起こし、今日に至るまで解決を阻んでいるものとは何であったのか。その原因となった、現代社会の中に潜む根源的な問題を、もっと言えば、社会や人間そのものに内存している諸問題を、水俣病事件を通じて研究し、後世やそれを担う若者たちに伝えること(教育)を目指したいのである。(pp.xi-xii)
お母さんたちの目線で見たとき、医師や市立病院、大学病院、市役所、保健所などがどのように映っていたかよくわかった。|こんな話を聞いた。経済的に困りきった母親が、市役所にすがると、役人が「水俣病と決ま▽△れば、何とか助けてあげられるんだが」と言う。「いつ、決まるとですか」と返すと、「水俣病は、保健所の担当だから」と逃げをうつ。それではと保健所に行くと、「いま、大学が研究中」と言われる。大学が研究中と言われても、お母さんたちはどこに行って何を聞けばいいのか皆目わからない。まして、重症なこの子どもを連れても置いても、とても百キロもある大学病院まで訪ねてなど行けない。そこでお母さんたちは、市立病院を訪ねる。すると、「一人、解剖するとわかるかもしれない」という言葉が返ってきたのである。お母さんたちは、決して口に出さなかったが、誰かが死ぬのを待ったのである。私たちの無力さを思い、悔しさの臍をかむ思いだった。しかし振り返れば、この時も私は間違いを犯していた。水俣病であろうとなかろうと、現実に困った状況に追い込まれた親子がそこにいるという現実を重視すべきであった。そのことには、水俣病であろうとなかろうと関係ないのである。しかし私は、できるだけ早く、何としてでも水俣病であることを証明しようと焦っていたのである。(pp.34-35)
私が患者宅を訪ねていくと、きまって後ろからそっとついてくる女性がいた。最初は、保健婦さんかと思っていたがそうではなさそうだった。家の入口で控えめに静かに立ち、それでいて彼女の優しい眼つきが印象的であった。後に知るのだが、この女性こそ水俣病の運動に大きな影響を与えた
石牟礼道子
さんその人であった。もう一人は、患者や家族たちが「学生さんのカメラマン」と呼ぶ青年だった。[…]彼がいまや押しも押されもせぬ報道写真家・桑原史成さんであった。[…]さらにもう一人、役所や大学で「いま東大の若い研究者がきて、資料をあれこれ漁っているが、何をするかわからない▽△から用心するように」と注意を受けたことがある。この若い研究者が故
宇井純
さんであった。彼は富田八郎[とんだやろう]のペンネームで、水俣病事件のことを合化労連の機関紙に掲載していた。これは、わが国初の貴重な水俣病事件記録である。この三人と私とはその当時はついにお互いに話す機会はなかった。しかし、分野は医学、文学、写真芸術、工学と異なっても、この事件の重大さを肌で感じ取っていたことに変わりはなかった。とにかく自分の眼でしっかりと見、何ができるかを模索していた点で共通していた。後には私にとってかけがえのない人たちとなり、大きな影響を与えてもくれたのである。(pp.68-69)
二〇〇二(平成一四)年度の後期から、熊本学園大学で水俣学(環境論特講)の講義を始めることができた。正規の授業としては全国初の講座だと思う。|水俣学は、私自身の四十余年にわたる水俣病との関わりの総括と、現場からの学問の捉え直▽△しの作業であって、後に続く若者へのメッセージのつもりでもある。|水俣病は一地方に起こったお気の毒な特殊な事件ではない。水俣病はいま私たちが生きている現代社会のきわめて象徴的・普遍的でかつ本質的な課題を内在させている。そこに、社会のしくみや政治のありよう、専門家の役割や学問のありよう、そして自らの生きざままで、あらゆる問題が映し出される。それほどに水俣病は底深く、普遍性をもった事件である。(pp.120-121)
水俣学は水俣病の医学的な知識を普及、啓蒙するためのものではない。専門家や学問のありようから、この国の政治や行政のありよう、そして個人の生きざままでの広範な問題を水俣病に映してみて、何が見えてくるかを探る作業である。|私はかつて、「水俣病は鏡である。この鏡は、みる人によって深くも、浅くも、平板にも立体的にもみえる。そこに社会のしくみや政治のありよう、そして、自らの生きざままで、あらゆるものが残酷なまでに映し出されてしまう」と書いたが、その実践の一つの試みである。(p.121)
いくつかの国内外の公害現場を訪れた結果、私は差別のあるところに公害が起こることを確信するに至った。世界的にも貧困な集団、少数民族など、差別された▽△民に常に開発のしわ寄せ(公害)が降りかかってきていた。したがって、公害をなくすことは、技術や資本だけの問題ではない。その技術や資本を誰のために、どう使うかが問題なのである。|環境汚染によって発生する健康被害は、生理的弱者と社会的弱者が真っ先に影響を受けるというのも特徴と言える。したがって水俣学は、そのような弱者の立場に立つ学問を模索したい。|水俣学は学際的、かつバリアフリーで、学閥、分野、領域、枠組みを超えた学問を目指す。その中でも重要なことは、いわゆる「専門家」と「素人」(非専門家)の壁を取り払い、市民や労働者、被害者自身も参加する学問であることである。そのような立場に立とうとするには既存の枠組み(装置)を破壊するエネルギーが必要で、権威主義、官僚主義、保守主義などを変革する学問でなければならない。|水俣学は現場に依拠し、現場に学ぶことを主眼とする学問を目指す。私はこの間、現場の当事者の発言がいかに真実を伝えていたかを多く経験した。また、専門家が現場を離れることで真実を見失っていく状況を、権威がひとり歩きして、権威を守るために仮説が妄想になっていく過程をいくつもみてきた。真の専門家は現場の声を真摯に取り上げ、科学的な体系として実証し構成していける者のことである。▽|△水俣学の一つのヒントは、足尾鉱毒事件にあった。田中正造は強制破壊された谷中村の掘っ立て小屋に被害民と共に住み、被害民から学ぶことを「谷中学」と呼んでいる。掘っ立て小屋に住んで亡くなるまでの九年間、“教える”“聞かせる”姿勢から“教えを受ける”“聞く”姿勢に変わったという。そして“社会は大学なり”といい、社会(民衆)から学ぶことの重要性を語っている。そして、知識を悪用する人や、そういった知識しか与えない学問を鋭く批判した。田中正造の直訴事件からすでに百年以上の時を経たいま、各地にさまざまな形態の研究会が、専門家、非専門家の枠組みを超えて、市民を巻き込んで立ち上がっている。そして、なお多くの研究が続けられて、わが国の近代化の真実の姿をあぶり出してきている。その結果、日本における近代化は何を犠牲にしたものであったのかが鮮明にあぶり出されてきているのである。|足尾に百年の歴史があるなら、水俣には百年、二百年も持続しても、研究し尽くせぬほどの問題が山積している。被害民がわずかに癒されるのは、水俣病の責任が明らかにされ、その教訓が後世に活かされる時である。まさに水俣病は人類にとっての宝(教訓)の山、負の遺産である。「水俣学」を二一世紀にふさわしい新しい学問の拠点(地理的にも思想的にも)として模索していきたい。▽|△したがって、水俣学は水俣病の医学的知識を学ぶ「水俣病学」ではない。「水俣学」は「学問は何のためにあるか」、「学問は誰のためにあるのか」、「なぜ、人は学ぶのか」といった根源的な問いかけを、水俣病を通じて若者たちと共に考える素材を提供するものである。(pp.123-126)
▼引用:立岩真也
「子どもを病院に連れてくる時は、親心であろう、それなりにこざっぱりした服装をさせていた。それが自宅を訪ねてみると、ウンチとオシッコにまみれて寝かされていた。ある子は独り寝かされていて、その視線の届く範囲には一メートルほど開けられた雨戸があるばかりで、そ<0033<の子の世界は隙間から見える海と空と岬の木々だけであった。訪ねていく私たちに、一人の美しい少女ははにかむような表情を全身に表して迎えてくれた。ある子の家は、とても人が住んでいるとは思えないほどのあばら屋だった。また別の子の家は[…]」(原田[2007:33-34])
「この裁判中に、チッソの社長や役員、環境大臣や担当官は何人も代わった。それに対して、患者は死ぬまで変われない。これは決定的に不公平である。」(原田[2007:118])
「最初、水俣病患者の家を訪ねた時、患者たちの病気のひどさもさることながら、その貧困と差別の苛烈にショックを受けた。そして、この貧困と差別は水俣病が起こったために生じたと考えた。しかしその後、いくつかの国内外の公害現場を訪ねた結果、私は差別のあるところに公害が起こることを確信するに至った。」(原田[2007:123])
■言及
◆立岩 真也 2008/09/05
『良い死』
,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193
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※ d01.et.,
◆立命館大学産業社会学部2018年度後期科目《質的調査論(SB)》
「石牟礼道子と社会調査」
(担当:村上潔)
*増補:
村上 潔
UP: 20071114 REV: 20181016, 17, 1101
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原田 正純
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水俣病
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