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フーコー『性の歴史』――死生本の準備9

「身体の現代」計画補足・25

立岩 真也 2015/03/21
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1577594385840876

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▽第17回からしばらくは『生死の語り行い・1』(立岩真也・有馬斉、2012)に当初収録するつもりでできなかった関連する本の紹介――そのもとは『看護教育』での連載、そして本への収録を計画していた時に作った本のリストやその解説である――をしていく。そのうちハイパーリンクがたくさんついた電子書籍『(題未定)』で出版予定。まずは、『生死の語り行い・1』――に出てくる本には重要な本が多いから――を読んでおいてもらえれば。△


※本、でました!
立岩 真也 2017/08/16 『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』Kyoto Books \800 →Gumroad

立岩真也『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』表紙   『生死の語り行い・1』表紙

 ※今回は2005年の「死/生の本・5」に註を加えたもの。

  ここしばらく「尊厳死法案」が国会に上程されるとかされないといった「時事問題」が気になり、そのことにもすこし触れてきた。他に新聞に文章を書いたり、インタビューが載ったりしている。また過去の法案や私の書いたもの等を集めて製本したものを頒布することも始めた。これらの全文や案内をホームページに載せたからご覧ください。またこれもお知らせしてあるが、筑摩書房のホームページ内の『Webちくま』で「良い死」という連載も始まっている。こちらもどうぞ。
  そしてこちらの連載の本筋としては、ゴーラー、アリエスエリアスといった「古典」を紹介してきた。これらの本ではそれなりに事実が記されていた。その事実を巡って理解が対立もしていた。ただ、共通しているのは、この時代・社会は死を隠している、死を遠ざけているといった了解である。そしてここしばらく私たちが読む文章や聞く話といえば、なにを証拠にそう言うのか、上記した人たちがそんなことを既に書いてくれているからいちいち証拠はいらないということなのか、とにかく、そのように語ることになっている。例えば「死生学」の話を始める枕言葉のように使われている。
  それは本当のことだろうか。もちろん、それなりにもっともな部分はあり、だから流通してもいるのだろう。しかし、隠している、遠ざけているという言説がかくも増殖しているなら、その意味で、もはや死は隠されても遠ざけられてもいないのではないか。十分に饒舌に語られているではないか。このように混ぜ返したくもなる。そして基本的な問題は、そのようなおおざっぱな言い方で、実際のところは何のことを言っているのかである。そしてそれがどんな効果を与えているかである。
  語らない方がよい、隠しておいた方がよいと言いたいのではない。ただ、隠されていた(から)、それを表に出さなければならないという話は、もっともなのかもしれないのだが、すぐ真に受けることはない。あまり素直に、あらかじめよいことであるかのように言ってほしくはないとは思う。

◇◇◇

 こんなことを書くと、ミシェル・フーコーという人が書いたことを思い出す人がいるかもしれない。私も、彼がその時代に感じていた違和との相似――しかしその中身はだいぶ違うはずで、そのことはこれから考えてみたいのだが――があるように感じてもきた。その感じは、まずはフーコーが死について書いたものから得たのではない。彼には自殺について肯定的に語っている文章もあって、私は著書で引用したこともある★01。それには、彼がカトリックの力の強い社会にいたこと、その社会の中でゲイであったことも関わってはいるだろうし、それは今回記すことにも関わっているのだが、それもまた後に回そう。(一つ加えておけば、フーコーは追悼文を含め何箇所かでアリアスに肯定的に言及している。その文章は『ミシェル・フーコー思考集成X 1984-88 倫理/道徳/啓蒙』(Foucault[1994=2002])に収録されている。ホームページに一部引用掲載★02。)
 私が想起するのは『性の歴史』という、一九八四年の彼の死によって未完に終った最後の著作の第一巻『知への意志』(Foucault[1976=1986])である。この巻の出版はかなり早く、一九七六年。日本語訳が出たのは十年後の一九八六年だが、私たちが大学院生などやっていた一九八〇年代前半にはこの本の存在はよく知られていて、たしか英訳版も読むことはできた。(そして私の場合は、それから約二十年、フーコーを読むことはなかった。)第1巻の時の計画はまた違ったものだったのだが、結局第3巻までが出版された。第2巻は『快楽の活用』(Foucault[1984a=1986])、第3巻は『自己への配慮』(Foucault[1984b=1987])。第4巻は『肉体の告白』のはずだったが、刊行されることはなかった。こうした経緯については、D・エリボン『ミシェル・フーコー伝』(Eribon[1989=1991])に記されている。(十四年前に買ったまま放置しておいたこの本を読みながらこの文章を書いているのだが、なかなかおもしろい。)
 全体の序論のような位置づけで書かれた第一巻で述べられていることは、まとめてしまえば単純なことではある。十九世紀、ビクトリア朝の時代、性が秘匿されるようになったと言われる。しかしその「抑圧の仮説」は間違っている、むしろ性はおびただしく語られるようになったのだとフーコーは言う。それがどんなことかであるかは読んでもらえばよい。
 冒頭に近い部分を引用する。この箇所はすこし難しそうに書いてあるが、全体としてはとても読みやすい本である。以下ではその本が書かれる意図が記されている。

 「それは、一つの社会の症例に問いかけることである。一世紀以上も前から姦しく己が偽善を責め立て、いとも冗長に己が沈黙を語り、言わずにいることを執拗に詳細にわたって論じ、自らが執行している権力を糾弾し、己が機能の源である掟から自分を解放してみせると約束する、そうした一つの症例に、である。[…]私が提出しようと思う問いは、したがって、何故われわれは抑圧されているかではなく、何故われわれはこれほどの情熱をもって、またわれわれの最も近い過去とわれわれの現在とわれわれ自身にたいするこれほど烈しい後悔の念をもって、自分たちは抑圧されていると言い立てるのかということである。いかなる螺旋状の運動によって、われわれは、性が否定されていることを肯定し、われわれが性を隠していることを誇示し、性を沈黙させていると語るにいたったのか」(p.16-17)

 引用の中の「性」という語を別の言葉に替えても通用するのではないか。このことをさきに述べた。

◇◇◇

 自分のことを語ったり、自分のことを反省したりする。それはどこかなんだか怪しい、だまされた感じがする。自分の何かについて語ったり、自らに働きかける主体になることによって、何かに従属してしまうことがある。英語でも主体・主語と臣下・従属は同じ語(subject)で表わされるが、フランス語でも同じで、主体であることによる従属を言うのに、フーコーは主体(=服従)化(assujettissement)という言葉を使った。(その仕組みについては、『私的所有論』第6章2節「主体化」。)
 このような理解は、ニーチェのキリスト教批判の中にあったものである。二ーチェはこのことをまったく執拗に幾度も書いている。フーコーは、新奇なそして妙なことを言った人だと思われることがある。しかし私はそんなに新しいことを言ったわけではないと思う。きわめてまっとうな、当然のことを言った人だと思う。加えると同時期、一九七八年に吉本隆明『論註と喩』(吉本[1978])という本が出ている。この本の中の「喩としてのマチウ」で、吉本はマルコ福音書を読み解く。そこでも一つ下敷になっているのはニーチェだ。吉本はフーコーの本を知らずに書いたのだろうし、同じ時期、フーコーも吉本を知らない。(この二人はその後、かなり話のすれちがう対談をして、吉本[1980]に収められた。)★03
 吉本は福音書というテクスト自体に既に「内面」(の発見による服従)を見出すのだが、フーコーはカトリックの教会における告解の制度に主体化を見出す。人は問われ、自らに問い、語り、そのことによって神に従属するのである。それが様々に変容しつつ、現代に至るのだと言う。

 「告白は、性に関する真なる言説の産出を律する最も一般的な母型だったし、現在でもそうである。そうはいっても、かなり重要な変形をこうむってきている。告白は長らく、改悛の実践の中に固く組み込まれてきた。しかし次第次第に、プロテスタンチズム、反宗教改革、十八世紀の教育学、そして十九世紀の医学が現われてから…広がったのである。」([82])

 ならば、その歴史をたんたんと追っていけばよいようにも思える。しかし先にもすこし記したように、その作業はそう順調にはいかず、第2巻が出るまでに時間がかかった。これらをどう理解するかもなかなか大切なところではある。
 当然と言えば当然のことだが、フーコーが知ったのは、言葉がなく性の主体が存在しない状態から、告白によって主体が現われる状態へという単純な歴史があるのではないということだ。では、古代のギリシア、ローマはどんなことになっていたのか。そこに向かい、とどまる。人々は、自分のことをただ語らないのではなく、気にしないのでもない。そのあり方を彼は調べて書いていく。そしてそれはフーコーにとってただ歴史的な事実だったというのでなく、なにか好ましいものに思えた。「生存の美学」といった標語が記される。これもわかる道行きではある。だがしかしという感も残る。それは何かという問いも残る。

■註

★01 「彼らは、自殺についてしていけない唯一の問いだというのに、「なぜ」という問いを問わずにはいられない。
 「なぜだって? 単に、私が望んだからだ」。[…]
 博愛主義者たちへの忠告がある。本当に自殺の件数が減ることをお望みならば、十分に反省された、平静な、不確実さから解放された意志をもって命を断つ者しか出ないようにしたまえ。自殺を損ない、惨めな出来事にしてしまう恐れのある不幸な人々に自殺を任せてはならないのだ。いずれにせよ、不幸な者の方が、幸福な者よりも遥かにたくさん存在するのだから。」(Foucault[1979=1987:186-188])
 この箇所を[19980701→2000:38])で引用した。そして『唯の生』第5章として収録した[20001010]では次のように記した。
 「自己決定の肯定と、安楽死への懐疑と、両方のものが同じところから発している。
 ではどちらを優先するのか。解決は論理的には簡単である。安楽死を駆動する条件が除去された上で、しかも当の人が死を選ぶ時、その決定を認める。この時、ごく単純な悦び(Foucault[1979=1987])として自死はありうる」(立岩[20001010→2009:301]
 ここに註を付した。
 「「ありうる」と言うのは、私にはその悦びはわからない、あるいは少しわかるような気がするにしても、それで死のうとは思わないからである。フーコーの論については市野川容孝による検討がある([1997 : 318]に文献とともに紹介)。市野川の議論については別に検討したい。〔まずは市野川[1993][1994]をあげておく〕」(立岩[20001010→2009:306])
 その 『私的所有論』では次のように記した。
 フーコーは「死への「自己決定」について語ったことがある(Foucault・渡辺[1978:165](来日時の講演)、Foucault[1988:176](一九八三年のインタヴュー))。この自己決定が「生・権力」に対置されるものとしてあったという解釈も可能である。
 市野川([1993b])は、ドイツ医療政策史を辿って、次のように指摘している。
 「生−権力の存在理由は、死に通じた斜面の上で、人間の生命を無限に押し上げることにある。だから「不治であるという考えそのもの」は、生−権力をその根底から付き崩していることになる。生−権力が、それに対処しうる唯一の方法は、死という開始点にその生命を投げ返す(=廃棄する)こと以外にない。しかも、それは一九世紀以降、主体の権利という回路を経由し、さらに今日的に言えば「自然死」という名称をともなって。だが、それは本当に権利なのだろうか。…/…一つだけ言わなければならないことがあるとすれば、それは、生−権力という道具箱から、尊厳死や安楽死を実践として擁護してはならないということである。尊厳死や安楽死を正当化する根拠が、どこかにあるのかもしれない。しかし、それは決して生−権力論ではない。この点でフーコーは間違っている。少なくとも軽率である。…われわれの時代においてますます困難になっているのは、死への自由ということではない。障害をもつ者、不治の病にある者、死にゆく者、そういった人々との関係性こそが、ますます不可能になってきているのだ。そうした関係性に身を開いていく自由、それがわれわれの時代にとって最も困難な、だが最も重要な自由なのである。」(市野川[1993b:175]、中略した部分では本書第6章でも少し触れたナチスに言及し、木畑和子[1987][1989][1992]の参照が求められている。)」(立岩[1997→2013:534]、木畑のその後の論文として木畑[1994])
★02 『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』に載った「真実への関心」。
 「彼は、かつて植民地だった国々で農業の発展に専心しなければならず、資料センターを整えねばならなかったし、しかも、そのセンターに情報革命を初めて導入した一人でもあった。彼は、世界を駆け巡っては、その決定いかんによっては時として人口の大部分が生きるか死ぬか、救われるか飢餓に置かれるかが定まるような、かの偉大な国際的テクノクラートたちに出会った。
 「日曜歴史家」、彼は自分自身のことをこう呼んでいた。だが、彼の歴史家としての週末を充実させていたのは、右のような本職の活動であり、多忙を極める週日だった。」(Foucault[1984→1994=2002:347])
 また『ル・マタン』でのA・ファルジュ、『ル・マタン』のジャーナリスト、F・デュモンとJ−P・イオミ=アミュナトギとの対談「歴史のスタイル」で。
 「アリエスは、自己への関係、自己自身に与えられる重要性、自己の文化が、普段言い慣わされるのとは異なって、個人主義の純然たる結果ではないということを、思うに完璧に掴んでいました。私たちは、個人主義的でないけれども自己の文化があるような社会集団を、申し分なくもつことがあります。」(Foucault[1984→1994=2002:348])
★03 私が吉本について書いた短文として「世界の肯定の仕方」がある。
 「彼には、何かに、例えば政治に参画したり、あるいは何かを、例えば自分自身を自らで作り出していくことが、それはときに必要であったり、ときにそれを人は求めてしまったりすることがあるとしても、それ自体として価値があるわけではないという、冷静な認識があると思う。また、そんな「積極的」な契機が人に含まれてなくても、それはそれでよいではないかという見方があると思う。」(立岩[20040228:94])
 また『私的所有論 第2版』でもフーコーと吉本について記している箇所がある(立岩[2013:803-806])。そこではすれ違い方についてもいくらかのことを記した。

■文献(一部)→文献表(総合)

◆Foucault, Michel 1976 La volonte de savoir (Histoire de la sexualite I),Gallimard=1986 渡辺守章訳,『知への意志――性の歴史I』,新潮社
◆Foucault, Michel 1984/02/17 "Le souci de la vérité",Le nouvel observateur 17-23(1006):74-75→Foucault[1994:646-649]=2002 安原伸一郎訳「真実への関心」,Foucault, Michel[1994=2002]
◆Foucault, Michel 1984/02/21 "Le style de l'histoire",Le matin 2168, 21 février 1984:20-21→Foucault[1994:649-655]=2002 安原伸一郎訳「歴史のスタイル」,Foucault, Michel[1994=2002]
◆Foucault, Michel 1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes=20020325 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成X 1984-88 倫理/道徳/啓蒙』,筑摩書房,389p.
◆吉本 隆明 19800610 『世界認識の方法』,中央公論社,193p. ASIN:B000J87T0M ISBN: 9784120009440 924 [amazon][kinokuniya]※ p→198402  『世界認識の方法』,中央文庫


■ここまでの「死生本の準備」 →連載一覧

◆2015/02/28 「自分らしい私の死の本:死生本の準備8――「身体の現代」計画補足・24」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1565714123695569
◆2015/02/24 「死/生の本・4増補:死生本の準備7――「身体の現代」計画補足・23」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1564184703848511
◆2015/02/21 「死はタブーの本・死生本の準備6――「身体の現代」計画補足・22」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1562898630643785
◆2015/02/18 「死/生の本・3増補:死生本の準備5――「身体の現代」計画補足・21」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1561271757473139
◆2015/02/15 「死を見つめる本・良い死の本:死生本の準備4――「身体の現代」計画補足・20」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1560017074265274
◆2015/02/09 「死/生の本・2増補(小泉義之の本)――「身体の現代」計画補足・19」
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◆2015/02/03 「死生学の本――「身体の現代」計画補足・18」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1554364208163894
◆2015/01/31 「死/生の本・1増補――「身体の現代」計画補足・17」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1553411651592483

■そこまでの「「身体の現代」計画補足」

◆2015/01/30 「いまさら優生学について――「身体の現代」計画補足・16」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1552887091644939
◆2015/01/08 「不定型な資料をまとめ出したこと――「身体の現代」計画補足・15」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1542932532640395
◆2014/12/20 「不定型な資料を整理し始めたこと〜横田弘1974――「身体の現代」計画補足・14」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1532834723650176
◆2014/12/10 「安楽死・日本・障害者の運動(予告)――「身体の現代」計画補足・13」
 [English]https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi.en/posts/1500472513573729
 [Korean]https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi.ko/posts/674499219334578
◆2014/11/27 「韓国の人たちと・続――「身体の現代」計画補足・12」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1522712254662423
◆2014/10/12 「これからの課題としての障害者運動と在日・被差別部落…解放運動との関わりに関わる研究――「身体の現代」計画補足・11」
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◆2014/10/06 「尾上浩二さん・広田伊蘇夫さんからのいただきもの――「身体の現代」計画補足・10」
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◆2014/10/01 「『そよ風のように街に出よう』/『季刊福祉労働』――「身体の現代」計画補足・9」
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◆2014/09/28 「『精神医療』という雑誌――「身体の現代」計画補足・8」
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◆2014/09/26 「資料について、の前に書いてしまったもの幾つか――「身体の現代」計画補足・7」
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◆2014/09/21 「「レア文献」――「身体の現代」計画補足・6」
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◆2014/09/06 「『現代思想』9月号特集:医者の世界・続/勧誘――「身体の現代」計画補足・5」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1484426548490994
◆2014/08/31 「『現代思想』9月号特集:医者の世界+『流儀』――「身体の現代」計画補足・4」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1479236585676657
◆2014/08/29 「今のうちにでないとできないこと(『造反有理』前後/広田伊蘇夫文庫)――「身体の現代」計画補足・3」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1477360962530886
◆2014/08/28 「調査について(『生の技法』の時)――「身体の現代」計画補足・2」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1476388215961494
◆2014/08/27 「『自閉症連続体の時代』刊行他――「身体の現代」計画補足・1」
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UP:20150321 REV:
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