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死はタブーの本:死生本の準備6

「身体の現代」計画補足・22

立岩 真也 2015/02/21
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▽第17回からしばらくは『生死の語り行い・1』(立岩真也・有馬斉、2012)に当初収録するつもりでできなかった関連する本の紹介――そのもとは『看護教育』での連載、そして本への収録を計画していた時に作った本のリストやその解説である――をしていく。そのうちハイパーリンクがたくさんついた電子書籍『(題未定)』で出版予定。まずは、『生死の語り行い・1』――に出てくる本には重要な本が多いから――を読んでおいてもらえれば。△

『生死の語り行い・1』表紙

 「死がタブーにされている」という話について。その話は、「死を見つめて」という「死生学」の話が始められる枕詞のようになっている。前に、どうもそのように思えないところがある、「死がタブーにされている」という話が夥しく書かれている語られているように私には思えると書いた★01。それはそう思っているのだが、もうすこしは見ておくことがあるように思う。たんにいくつかを列挙する。
 その前に、社会学者の澤井敦が幾つか書いていることを紹介。「死――現代社会において死はタブーであるのか?」(澤井[1997])、「『死のタブー化』再考」(澤井[2002])、その論考をまとめたものとして『死と死別の社会学――社会理論からの接近』(澤井[2005])。

 1)たしかにこれまでとりあげてきた歴史家たちに指摘されるまでもなく、人が若くしてあるいは幼くしてたくさん亡くなった時期は長いし、今でもそんな現実がなくなったわけではない。そうした場ではたしかに人は死に面してきた。そうであらざるをえなかった。多くの人が亡くなるなかで、数少なく人が生きて、その多くの死を看取る。その状況とたしかに多くのひとたちが長生きできるような時代とは異なる。そのことは認めよう。
 ただ他方で、かつて多くの人たちは比較的早くに亡くなっていった。それに比して、今の人たちの多くは、そう元気というわけではない長い死ぬまでの時間を過ごす。死を知るとか見るといった言葉が何を指すのか意味するものは一つに定まらないのではあるが、その過程を自らが感じたり、他の人のその過程につきあう時間が長くなっているという意味では死生学の人たちが言うところの dying の過程に多く人が面しているとは言えるかもしれない。これが一つ。「死ぬ間際」というのについてもどうだろう。医療機関で心肺の機能をかなり維持させたりすることはあるから、「御臨終」に接する経験はかなりあるようになっているとも言えるはずだ。

 2)死んだ人を見るその人に接するという体験について言われることもある。病院で死ぬ人の数はたしかに増えた。その病院は死を意識しつつも、死なないでいられたら、死ぬのが遅くできたらと思う人がいる場所である。するとそこで死が隠される傾向はたしかに強くなる。そのことを記述した社会学者の本を2001年からの連載で紹介した。また紹介するだろう★02

 3)他にあるだろうか。2)にもかかわって「人は死ぬ」という事実を知ることが「死をタブーにしない」ことだろうか」。ただよほどの人でなければ、人は死ぬこと自体は知っている。それを知ること、その具体的な身体・屍を見ることはなにをもたらすだろう。諸行無常を知ること、現世がこのようなものであると知ること、ということになるだろうか。そして別の世に向かおうということになる。たしかに所業無常は知るだろう。しかしそれは必ずしも次の世への信仰には向かわない。となるとともかくそのことを知ればよいということなのだろうか。

 4)さらに「死なせる」ことに関わる議論が「タブー」であると言われることもある。その中には「こういう状態になったら」もう死なせてもよいのだということが「タブー」になっているということもあり、また「こういう人間を生きさせたら」社会は大変だ(からやはり死なせた方がよい)という話が「タブー」になされていると話になることもある。

 他にもあるのだろうが、とりあえずこのぐらいで。ここ数十年あった話はどんなものであったか。おおまかには1)2)に関わる事実――のいくらかの部分をスキップしているように私には思えるの事実――を前提にして3)の話にもっていくのがおおくある筋のように思える。ただ前々回に述べたことだが、それでどうなの?ということになる。人生は有限だから一生懸命、大切に生きようということになるか。それは大切かもしれないが、その大切なことはだいたいみなが知っているようにも思う。そこでなんだからわからないというのが述べたことだった。
 そしてそれとの関係が微妙だが、4)が語られることがある。書名としては『死はタブーか――日本人の死生観を問い直す』(太田典礼[1982])が初のものかもしれない。目次は読める。太田は「葬式無用論」でも知られ無宗教を公言した。彼的にはそれが死を直視するということになる。そしてそれと論理的には別のことであるはずだが、4)自分が死ぬこと、人を死なせることを「タブー」なく語ろう〜行おうということになっている。
 あとはもっと普通の話をしているものをいくつか。と思うのだが、次のものも2)から4)という流れの文章になっている。『叫び――品位ある死を求めて』(Cruchon & Thibault[1985=1988])の 序文より

 「死は原始社会では日常生活の一部であることができたのに、今ではかつてないほど日常生活から切り離されている。死は集団意識の領域か>0006>ら閉め出され、覆い隠されて、物質的な富や無制限の生産性に対する崇拝が幅を利かせているこの現代文明の、暗い押入れのなかにしまいこまれているのだ。死、おとなにとっても子どもにとっても、むごたらしさのイメージしか与えない、非生産性の最たるものとしての死。もちろん、ここで問題になっているのは、死それ自体ではない。生命の停止が、単に各人の信仰の有無にかかわる事柄にすぎない「死後」が、問題なのではない。「死ぬ前」のことが、臨終が、実に越えがたく、実に恐ろしい、あの生と死のあいだの関門が問題なのである。
 本書が紹介するのは、1982年から85年のあいだに尊厳死協会に寄せられた、数百通の投書や手記のうちのいくつかのものに赤裸々なかたちで示されている、生きざま、精根つきた老年、長びく死、傷心である。」(pp.6-7)

 普通のもの、無数にあるが、たとえば『ユーモアは老いと死の妙薬――死生学のすすめ』(デーケン[1995])より。

 「現在の日本では、死をタブー視する一般的風潮から言っても、告知はもちろん、医師が患者に病状を理解しやすく説明して、一緒に闘おうという姿勢は、まだほとんど見られない。」(デーケン[1995:221])

 ここういうものはきりがない。そしてこうした語りで始まりつつ、結局は、終末期医療のあり方を語るといった流れの話がある。例えば日本医師会第III次生命倫理懇談会「末期医療に臨む医師の在り方」についての報告」(日本医師会第III次生命倫理懇談会[1992])。
 座長加藤一郎(成城学園学園長)、副座長坂上正道(北里大学看護学部教授)、委員:川上正也(北里大学医学部教授)、鈴木永二(三菱化成株式会社相談役)、曽野綾子(作家)、中根千枝(民族学振興会理事長)、中村雄二郎(哲学者・明治大学教授)、堀田勝二(弁護士)、永瀬正己(日本医師会代議員会議長)、杉本侃(大阪大学医学部教授))

 「わが国では、これまで長い間死を口にすることは、不吉であり、避けるべきものとされ、一種のタブーのようになっていた。そのために、末期医療のあり方についても、あまり議論がされなかった。
 しかし、今日では、末期医療の問題は、事柄が重要な上に、現実にさしせまった問題でもあるので、あいまいなままに放置しておくことはできない。近年では、わが国でも、死についての学問や、死についての教育の必要性が多くの人々によって説かれるようになってきている。人の生命に係わりをもつ医師としては、死をめぐる諸問題についても、率先して合理的な対処の仕方について考察を深め、広く国民に周知させていく必要がある。この「末期医療に臨む医師の在り方」についての報告が、そのための一助となることを期待したい。」

■変化について

 こうして「終末期医療」の話につながっていくのだが、だとすると、すくなくともその時点で、「タブー」がなくなっていくあるいは「タブー」を破ることが語りなすべきことになっていく。
 以前にも同じ箇所を引いた大谷いづみの「「いのちの教育」に隠されてしまうこと――「尊厳死」言説をめぐって」より。

 「ここ数年、「いのちの教育」「死の教育」に取り組んでいる人々が口々に触れるのは、「死が病院に隔離されてタブーになった現代に、死をとりもどすこと」である。わたしが高校「現代社会」の授業で初めて「脳死・安楽死・尊厳死」を取り上げたのは1980年代後半のことだから、このテーマを取り上げてきた者としては、かなり早い部類に入るのだろう。だが、取り上げた当初から現在に至るまで、「タブー」を破った、というように思ったことは一度もない。
 そもそも、高校時代にカレン・アン・クインラン事件の報道を目の当たりにし、判決の出た1976年の文化祭のイベントで、「安楽死、是か非か」のディベイトを体験しているのだ。」(大谷[2003→2005:91])

 カレン・クインラン(Karen Ann Quinlan)事件は一九七五年から。それと同時期の文章。『子どもとサナトロジー――〔死〕ということをどう教えたらよいか』(Rudolph[1978=1980])より

 「死について教えたり、話し合ったり、あるいは子どもの前でこの問題を持ち出したりすることは、専門家の間でも一般のレベルでも、何十年もの間タブーであり続けてきたが、この一〇年末、大きな変化が見られるようになった。死に関する研究報告が増え、専門誌や教育方面の刊行物の中に、死についての調査が載せられるようになると、各種の有名雑誌や、テレビというマス・メディアに、いくつもの論説が登場してきたのである。
 ビジネス・ウィーク誌が死の教育について採り上げることなど、誰が予想し得ただろうか。ところが一九七六年四月五日の巻末特集記事に、「家族の死に対処する」という題のの記事を載せており、まさしく死の教育に関心を寄せて、心理学的、法律学的側面と、実際的な側面から、全国的に取り組んでいるのである。」(Rudolph[1978=1980])

 そして一九九〇年代になるとかつて「タブー」を言ってきた人たちもすこし流れが変わったことを言うようになる。デーケン「新しい死の文化の創造をめぐって」より。

 「二十世紀後半になって、アリエスの分析による死のモデルに続く、新しい社会意識として「死への準備教育」という考え方が芽生えました。「死への準備教育」は「人間的な死」の復活を目指すものです。いま欧米を始めとする世界の国々では、学校教育の中にこの運動を根づかせようという動きが活発に行われています。ここ数年来、日本でも死のタブー化の時代は終わりに近づき、人々の意識は「死への準備教育」の積極的な実践の方向へ向けられつつあると思われます。」(デーケン[1995b:82])

 『生と死のケアを考える』(ベッカー編[2000])に収録されているカール・ベッカー(Becker, Carl) 「ポルノ化した「死」」より。

 「筆者は三〇年近く「死」を研究対象にしてきたが、書店に「死の本」のコーナーがもうけられるほど「死」が話題となっている今となっては、死についての本を増やす意味をよりいっそう慎重に考えていくつもりである。」(ベッカー[2000:5])

 その変化のきっかけとして大谷もカレン・クインラン事件をあげているが、『新しい死の文化をめざして』(デーケン,アルフォンス・ 飯塚 眞之編[1995])所収の彦坂泰治(生と死を考える会副会長)「新しい死の文化をめざして」でもこの事件に言及される。

 「死のタブー化は二十世紀後半にピークを迎えたが、しかし、それは死の絶対的不可避性ゆえに崩れざるを得なくなった。果てしない延命努力が患者側から告発される事態が起こったのである。一九七五年、米国のカレン・アン・クインラン事件では人工呼吸器の停止を求め、一九八三年のナンシー・クルーザン事件では水分栄養の投与が拒否されて、医療が伝統として掲げてきた「死の否定」は否定された。「死ぬ権利」を主張する権利意識と個人の独立精神の高揚の中で、医療の果たすべき役割を根本から再考しなければならなくなった。」(彦坂[1995:8])

 さらに、『生死の語り行い・1』でわりあい紙数を使って紹介した香川知晶の『死ぬ権利――カレン・クインラン事件と生命倫理の転回』(香川[2006])より。
 「現代の死に対する関心は、医療施設での死に向けられていた。それが死の言説の脱タブー化という現象をもたらした。そこに見られる漠たる不安、かては何かが違うという意識が、クインラン事件の登場によって、現代医学の生み出すモンスターという明確な表象を伴った恐怖に結びついた。こうして主張されたのが、「死ぬ権利」だった。」(p.344)

■金にまつわるタブー(の解除)

 大野竜三の『自分で選ぶ終末期医療――リビング・ウィルのすすめ』(大野[2001])より。

 「現代医療、少なくとも現代の日本の医療現場においては、患者の生命の延長が至上命令とされており、最善を尽くして患者さんの生命を延長することが、日常の診療において行われています。そして、医学教育の場でも、当然のこととして、そのように教えられています。
 終末期の延命治療もその延長にあり、最善を尽くして患者さんの延命をはかっています。しかし、延命治療には相当の費用を要します。欧米の医療現場においては、要した費用に見合うだけの効果が得られるのかということが問題にされ、費用対効果という解析がしばしば行われます。一方わが国の医療界にあっては、正面きって費用のことを論ずるのは恥ずかしいことであると見なされ、むしろタブー視される傾向にあり、費用対効果が論ぜられることも、医学生に教育されることもほとんどありません。」(大野[2001:171-172])

 ダニエル・キャラハン(Daniel Callahan)の『自分らしく死ぬ――延命治療がゆがめるもの』の「訳者あとがき」より。

「[…]私は、最初の仕事で国民健康保険の発足に関わり、最後の仕事で介護保険の発足に携わったので、医療保険の動向には関心を持ち続けきた。
 昭和46年の東京都知事選で美濃部氏が老人医療費の無料化を旗印に圧勝して以来、高齢化の進展とともに老人医療費に伴う財政負担は増大を続け、財政制度、健康保険制度を揺るがすまでになった。そこで、別のポケットとして介護保険の制度が創設されたが、赤字の雪だるまは止まらない。
 例の物議をかもした「年寄りは 死んでください 国のため」という川柳も、その下に、「とはいうものの お前ではなし」とついているものと解釈しているが、年寄りは人に言われなくても、病気になって死ぬように体内時計がセットされている。日本では病気や死を容認することはタブー視されてきた観もあるが、近年やっと延命医療の是非がマスコミにも取り上げられるようになった(既に30年位前から、現場には課題としてあったようであるが)。
 著者の意見は、医療の財政的な側面だけではなく、患者の自己の維持、生の質、という側面からも医療保障のあり方を取り上げて具体的な提案に至り、説得力があるが、一歩間違うとポリティカル・コレクトネスの観点からの批判を招く危険もあるので、最新の注意が払われている。また、死生観には宗教的あるいは哲学的な価値の認識が随伴するが、著者のその人の属するコミュニティの問題として普遍化している。本者のような共通認識がベースになって、尊厳死の立法化などの議論が展開されることを期待したい。
                         岡本 二郎」(p.263)★03

 そしてこのような「語り」は今でも繰り返されている。例えば二〇一四年末の『産経新聞』の報道は「米女性「尊厳死」 日本では「自殺幇助」? 終末期医療 タブーなき議論必要」という見出しのもので、それををもとにした「投票」についての感想を求めれて書いた「意識調査で「日本でも尊厳死を」が83% どう読むべきか?」(立岩[2014/12/24])
 「一つ加えておくと、この産経新聞の記事のタイトルにある「タブーなき」には「終末期医療」の「コスト」についても「正直に」という意味合いが込められているように感じる。そしてそのことに関する「漠然とした不安」が賛成票の多さに関っているのではないかとも思う――このことは私のツィッター等に対する反応を見ても感じることだ。安楽死尊厳死の是非についての議論をするためにも、医療費等、費用についての具体的な情報をもとにした議論がされる必要があっただろう。」

■註

★01 「なぜ近い過去を辿る必要があると考えるのか。この間に考えるべきことが提出され、いくつかの道筋が示されたと思うからだ。出来事としても様々なことが起こった。いくつもの対立点が現われ、今に継がれる批判がなされ、その答の試みが途上のままになっている問いが示された。その後を考えるためにそこに何があったかを知っておく必要がある。加えれば、医療社会学も医療人類学もここ数十年の変動と別に現われたのではなく、そこから生じた。最初から規範的な議論をその仕事の中心とする医療倫理学・生命倫理学に限らない。医療と社会に関わる学自体が近代医学・医療批判と関係をもちながら、その中で始まった。だからこの時期以降の動きを検討することは、それらの学が言ったことを再考してみることでもあり、これから何をするかを考える上でも必要だ。
  さまざまなことが起こりそしてまだそう時間のたっていない部分について記述がない。例えば精神障害と犯罪についてどんな議論があったか。どのように高齢化が問題とされ議論されたか。いつハンセン病者に対する差別が差別だということになったのか。いつからどんな経路で自己決定という言葉が使われ広まったのか。少子化・高齢化に対する危機感をいつ誰が言い、どのように普及したのか。優生学という言葉が否定的な言葉となったのは、いつ、どのような人たちの間でだったのか。その他、「自分らしく死ぬこと」といった言説の誕生と流布について。そして様々な治療法の栄枯盛衰、いつのまにか消えてしまった様々なものの消え入り方、学会や業界の中での様々な(中にはひどく重要な論点を含む)対立、等々。ある年代以上ならある程度のことを知っている人もいる、それ以降の人たちはまったく何も知らない。そこにいた人しか覚えておらず、その人たちも記憶は定かでなく、覚えていたくないものは忘れているか、忘れたことにしている。だから、特に論争的な主題については「これまで語られてこなかった」という枕言葉がよく置かれるのだが、それをつい信じてしまうことにもなる。ところが、例えば安楽死について、医療に使える資源には限界があることについて、今までタブーとされ語られてこなかったからあえて私が語ると言うのだが、それは間違いなのだ。まさにそのような前言とともに繰り返し語られているのである。」(立岩[20031210])
★02 そうした空間について、『小児がん病棟の子どもたち――医療人類学の視点から』(田代[2003])より。
 「林君は病名を告知されていない。たんに血液の病気だからとしか言われていない。しかし、彼の担当ナースは「この子は、自分の病気ががん系統であることをなんとなく(まわりの雰囲気などから)知っているような気がする」と述べている。また、日ごろの林君を見ていて、病気とかがんとかの直接的な話題は出なかったにせよ、私は彼の「するどさ」と「賢さ」をかなり感じていた。そのような林君が「自分の病気はもしかしてがんなのでは?」という疑義をもつだろうことは十分にありえる。そこで林君は、自分の疑義を確かなものにしようとある種の「確かめ」をここで試みたと思われる。それがシーン6である。しかし、林君の発話は、誰にも相手にされなかった。同意はもちろんのこと、反発や反論さえなかった。「沈黙」をもって迎えられたのである。しかし、私がその場の状況に立ち会って感じたのは、現象的には「沈黙」であっても、そこにいたまわりの子どもやナースの雰囲気は、どちらかといえば積極的なある種の意志を感じさせるものだった。それは、「沈黙」というより、「黙殺」という雰囲気だった。」(田代[2003])
 このように病棟社会の成員を脅かしかねない「良くない情報」、ここではすなわち「死およびそれを連想させる話題」は、強烈に峻拒される。林君は、このタブーを犯し病棟社会の秩序を破ることによって、皮肉にもふたたびタブーや秩序を「黙殺」の内に強烈に学ぶことになった。
★03 私が入手したこの本の古本に訳者が「尊厳死法制化を考える議員連盟所属議員各位様」宛に送った手紙が挟まれていた。以下のように書かれている(全文)。
 「訳書「自分らしく死ぬ」の送付について
 私はかなり以前からの日本尊厳死協会の一会員ですが、このたびアメリカの医療倫理研究の第一人者Daniel Callahan氏の著作「The Troubled Dream of Life」(初版1993年、改定[ママ]版2000年)を翻訳いたしました。Callahan氏は、1986年の論文「Healthcare in the Aging Society」では、高齢者の医療に当てられる社会資源にも限界を設けないと次世代への配慮に欠けることになるとの警告を発しており、本書では高度の医療によって死が引き延ばされてもその人の生活の質は劣化して、人としての「自己」は保たれていない場合の多いことを指摘しております。
 本書は、そのほかにも尊厳死の法制化に当たって検討すべき事項の多くを含んでいると愚考し、僭越ながらご参考までに謹呈いたす次第です。ご笑覧いただければ光栄に存じます。」


■ここまでの「死生本の準備」

◆2015/02/18 「死/生の本・3増補:死生本の準備5――「身体の現代」計画補足・21」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1561271757473139
◆2015/02/15 「死を見つめる本・良い死の本:死生本の準備4――「身体の現代」計画補足・20」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1560017074265274
◆2015/02/09 「死/生の本・2増補(小泉義之の本)――「身体の現代」計画補足・19」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1557205197879795
◆2015/02/03 「死生学の本――「身体の現代」計画補足・18」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1554364208163894
◆2015/01/31 「死/生の本・1増補――「身体の現代」計画補足・17」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1553411651592483

■そこまでの「「身体の現代」計画補足」

◆2015/01/30 「いまさら優生学について――「身体の現代」計画補足・16」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1552887091644939
◆2015/01/08 「不定型な資料をまとめ出したこと――「身体の現代」計画補足・15」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1542932532640395
◆2014/12/20 「不定型な資料を整理し始めたこと〜横田弘1974――「身体の現代」計画補足・14」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1532834723650176
◆2014/12/10 「安楽死・日本・障害者の運動(予告)――「身体の現代」計画補足・13」
 [English]https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi.en/posts/1500472513573729
 [Korean]https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi.ko/posts/674499219334578
◆2014/11/27 「韓国の人たちと・続――「身体の現代」計画補足・12」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1522712254662423
◆2014/10/12 「これからの課題としての障害者運動と在日・被差別部落…解放運動との関わりに関わる研究――「身体の現代」計画補足・11」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1502938869973095
◆2014/10/06 「尾上浩二さん・広田伊蘇夫さんからのいただきもの――「身体の現代」計画補足・10」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1500213176912331
◆2014/10/01 「『そよ風のように街に出よう』/『季刊福祉労働』――「身体の現代」計画補足・9」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1498119143788401
◆2014/09/28 「『精神医療』という雑誌――「身体の現代」計画補足・8」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1496630793937236
◆2014/09/26 「資料について、の前に書いてしまったもの幾つか――「身体の現代」計画補足・7」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1495845864015729
◆2014/09/21 「「レア文献」――「身体の現代」計画補足・6」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1493567090910273
◆2014/09/06 「『現代思想』9月号特集:医者の世界・続/勧誘――「身体の現代」計画補足・5」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1484426548490994
◆2014/08/31 「『現代思想』9月号特集:医者の世界+『流儀』――「身体の現代」計画補足・4」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1479236585676657
◆2014/08/29 「今のうちにでないとできないこと(『造反有理』前後/広田伊蘇夫文庫)――「身体の現代」計画補足・3」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1477360962530886
◆2014/08/28 「調査について(『生の技法』の時)――「身体の現代」計画補足・2」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1476388215961494
◆2014/08/27 「『自閉症連続体の時代』刊行他――「身体の現代」計画補足・1」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1476171985983117


UP:20150224 REV: 

身体の現代:歴史・年表  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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