HOME > Tateiwa >

死/生の本・3増補:死生本の準備5

「身体の現代」計画補足・21

立岩 真也 2015/02/17
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1561271757473139

Tweet

▽第17回からしばらくは『生死の語り行い・1』(立岩真也・有馬斉、2012)に当初収録するつもりでできなかった関連する本の紹介――そのもとは『看護教育』での連載、そして本への収録を計画していた時に作った本のリストやその解説である――をしていく。そのうちハイパーリンクがたくさんついた電子書籍『(題未定)』で出版予定。まずは、『生死の語り行い・1』――に出てくる本には重要な本が多いから――を読んでおいてもらえれば。△

『生死の語り行い・1』表紙

 ※今回は2004年の連載の「死/生の本・3」に註を加えたもの。

 「死/生の本」1と2の後、3回続けて「ALSの本」を紹介したのだが〔→本書では略★01〕、もとに戻す。とはいえ別々のことを書いているのではない。つながっている。というより、つながってしまっている。
 「尊厳死法」といったものを作ろうという動きがあるらしく、そんなことも気になり、ホームページのファイルを整理した。「安楽死」というファイルは、なぜだか、HPでトップページに次いで、また他のファイルを引き離して、アクセスの多いファイルで、最近は月に一万件を超える〔現在はまったくそんなに多くない〕。手を入れたのはそこからリンクされる年代別のファイル★02
 次に、連載をもう一つ始めさせてもらうことにした。筑摩書房のHP内の『Webちくま』に載せてもらう(トップページの上方、「ち」から入ってください)。だからインターネットで読める〔現在では読めなくなっている→〕。同じ人が書くから、というだけでなく下記する事情からも、内容はこの連載に連続したものになる。最初の回から「尊厳死法」を取り上げる。読んでください★03
 『ALS』([2004f])にも書いたが、昨年〔二〇〇四年〕、この連載をまとめて本にしようと思った。その時にはそのまま順序通りに並べればよいと思ったのだが、考えなおし、再構成し中身を増やし、主題別に分けて、出してもらおうと思った。筑摩書房のHPでの連載はその作業の一部でもある。そのうち、ちくま新書として出されるはず。だがこの予定変更にともない、出るのはしばらく先になる〔→一部が『生死の語り行い・1』になり、一部が今ここでまとめようとしているものであり、残りはまだ残っている〕。
 そして、あわただしい出来事の方は筑摩書房の連載の方に書き、こちらは、しばらく呑気に、「文化」的に、本を紹介していく。
 どんな筋の話になるか、あてはない。ALSや尊厳死・安楽死に関する文章がいくつも載った『現代思想』の昨年〔二〇〇四年〕11月号(特集:生存の争い)での小泉義之との対談「生存の争い」(小泉・立岩[2004])〔後に松原・小泉編[2005]に収録〕でも同じことを言っているが、私は、死について何を言ったらよいのか、すこしもわからないのだ★04
 いろいろ読んでも、やはり何もでてこない、かもしれない。けれど、たいしたことではないが、気になっていることが一つあるにはあって、それを気にしつつ読んでいこうと思う。しばしば、近代・現代において、人は死を隠してきた、遠ざけてきたと言われる。そしてそれはいけないことだとされる。これから、もっと死を知り、語らねばならないとされる。ゴーラーの本もアエリスの本も基本的にそんな話だった。あるいはそんな話の一部分に位置づけることができる。それらは私たちの社会が死を遠ざけ、隠そうとしているという理解をしていた。それはたぶん間違いではない。しかし、なんだかわかりよすぎる話のような気がする。またいきぎよくない私としては、「いさぎよい死」のようなものにつながってしまうとすると、心配になる。
◇◇◇
 こんなことを述べて、ようやく「死/生の本・2」の続きに入っていく。
 ノルベルト・エリアス(Elias, Norbert、一八九七〜一九九〇)というブレスラウ(現ポーランド)生まれのユダヤ系ドイツ人の社会学者がいて、多くの著作があり、その多くが翻訳され、現在入手できる。主著に『文明化の過程』(Elias[1969=1977,1978])という大著があるのだが、この書名のとおり、エリアスは歴史を「文明化の過程」だと言う。ごくごく簡単にすると、社会的な交流が増すにつれ、人々は野蛮にはやっていけないようになり、自らの感情を抑制し、人間関係を調節するようになってきた、社会はだんだんと上品になってきたのだと言う。
 もちろん、すぐさま、前世紀から今世紀の戦争を想起し、それは違うのではないかという疑問が起こる。ここは大切な疑問だが、ここでは略★05。奥村隆『エリアス・暴力への問い』(奥村[2001])等をご覧いただきたい。もう一つの疑問は、昔の人たちがそんなに野蛮な人たちだったのだろうかという疑問である。これを問題にしてきたのが、ハンス・ペーター・デュルという、一九四三年、ドイツ生まれの人だ。この人もとてもたくさんの本を書いていて、その多くの訳書がエリアスの本と同様、法政大学出版局から出されている。彼はその中で幾度もエリアスは間違っていると書いている。というか、その著作の大きな部分を占めるのは「文明化の過程の神話」というシリーズであり、彼は執拗にエリアスの歴史理解を批判するのだ。ここではそのシリーズ第一作、『裸体とはじらいの文化史』(Duerr[1988=1990])を、本書の主題を直接に扱ったものではないのだが、そのうちとりあげようと思う「感情」という主題★06に関わる本でもあるから、あげておく。
 エリアスの肩をもつ人は、デュルの批判は言いがかりだと反応する。たしかにひとまずヨーロッパに限れば、その中世が相当に野蛮な時代であったということは言えそうだ。ただ、社会一般が「文明化」されていくという筋の話を、もしエリアスがしているとすれば、それは受け入れ難い。デュルのように羞恥は「本能」だと言うかどうかはともかく、人と人との「距離」をめぐる規範はどこにでもあると考えた方がよいと思う。
 そしてどちらが正しいかよりも大切な問題は、この後の話にも関係するのだが、野蛮な態度/文明化された態度とはいったい、どんな基準で分けられる何であるのかである。長くなるのでここまでにするが、その問いが、死と向き合う/死から遠ざかるというわかったようなわからないような区別の問題とも関わりそうなことはわかっていただけると思う。
◇◇◇>
 本題である死についてはどうか。エリアスは――とても紛らわしいが――アリエスを、一九八〇年代の二つのエッセイを収録した『死にゆく者の孤独』の中で批判する。

 「アリエスは、記述されて残っている記録をそのまま歴史そのものとして受け取ってしまっている。[…]アリエスの資料の選択は、前もって措定された見解に基づいているのだ。つまりかれは、昔は人間は悠然と落ち着いて死んでいったものだ、との仮定の上に立って論を進めているのである。唯一現代においてのみ――とかれは強調している――死の迎え方が異なっているのだ、と。ロマン主義者の精神をもって、より良き過去の名において不信の眼差しをこめつつ、より悪しき現在を眺めるのである。[…]中世の人々がどれほど穏やかに死を待ち受けていたか、ということの証人として、アリエスは『円卓物語』のイゾルデとテュルパン大司教をひき合いに出しているが、とうてい賛成しがたい。かれは、中世叙事詩が[…]良いことずくめの理想像が描かれている作品であることを指摘していない。」([19-20])

 さきにあげたデュルは、エリアスが引き合いに出す資料の意味合いを間違って理解しているとエリアスを批判するのだが、同様の批判をエリアスはアリエスに対してしているのである。

 「高度に産業化された国民国家における生活に比較すれば、かつての中世封建国家における生活は――そのような国家が今日いまだに存在するとすれば、そこでは現在も――激情に支配されやすい、暴力的なものであったし、それゆえ不安定で短い、荒々しいものだった。死は、たまらないほど苦痛に満ちたものでありうる。以前は死の苦痛を和らげる手だてがほとんどなかった」([20-21])

 「文明化の過程」の論者による記述としてはいかにももっとも思える文章である。アリエスは過去に「穏やかな死」があると言ったのだが、それは過去を美化しているとエリアスは言う。
 そうかもしれない。ただ、同時に、このような争いにそれほどの意味があるだろうか、とは思えてしまう。つまり、ごく単純に、両方の契機があったのではないか。
 とりわけ災厄として大規模にもたらされる死を人々が恐れていたことは確かだろう。それと同時に、宗教があってのことだろうが、他者たちの死、自らの死を受容していく営みもあっただろう。そんな当然と言えば当然すぎる像しか思い浮かばないし、それでよいのではないか。そして、このように述べるだけでは、たんに両方正しいだろうというような凡庸な話にしかならないのだが、すこし予告すると、この平凡な理解に留まって考えることが、意外に大切なのではないか。と書いておいて、次回は、近代・現代の死をエリアスがどのように捉えたのかを見ていく。

■註

★01 「ALSの本・1」「ALSの本・2」「ALSの本・3」。これらは二〇〇四年に書かれた。その後、二〇〇七年に「ALSの本・4」「ALSの本・5」「ALSの本・6」「ALSの本・7」
★02 アクセス数(ヒット数)の総計は年間約一〇〇〇万とそう変わっていないのだが、 (→「統計&説明」)、一つひとつのページをみると、現在は最も多いページでも月間二〇〇〇を下回る程度だ。だからそんな数のアクセスがあったか疑わしくなるが、そんなこともあったにはあったのだと思う。
★03 『Webちくま』の連載(リンクされたページからは連載の各回の目次などを見ることができるは二〇〇五年五月から二〇〇七年一月にかけて十八回続いた。そして(とくに『唯の生』については他で書いたものの方が多いのだが)『良い死』『唯の生』の二冊の本になった。
★04 本文に記したように、この小泉との対談は『生命の臨界――争点としての生命』に収録されてから読んでいただけるとよいと思う。以下は冒頭の、すでにこの連載?でも述べていることだから、新しくはない私の発言。
 「とくに自分に内在的な理由からとかではなく看護学校でバイトするからとかそんな理由で、そうした数ある、多くは互いに似通つた本をいくらか見たことがあって、これガじやソない、そしてさらに、まずいかもと思つたことがある。そして、ためになるから読む
△036 というより、そうした言説をチェックしておく必要はあると思ってはきました。そしてでは自分は何をするのか、何ができるのかということも考えてきました。思ってきたことは三つあります。
 一つは、そんなことは言われてなくてもわかっているよということです。いまさら何言ってるんだろうと思えてしまう。病気になって体が弱って、気も弱ってくる。そうなったときに、その人にやさしくしてあげよう、その人が気持ちよく暮らしてたほうがいいよと言うわけです。しかし、そうしたこと、弱ったときにはとりわけ気持ちよく暮らしたいといったこと、それはいっぺ言われればわかる話です。そして、言われなくてもたいがいの人は分かっている。それ以下でも以上でもない。
 もちろん、それがなぜこの世でなかなか実現しないのか、それでどうすればいいのかということは考えないといけない。それはそうだと思っていて、だから私はその部分の仕事はするようにしてきました。けれど、その手前の部分については、もうわかっているということです。その話を何十年も繰り返ししゃべっているというのは何なんだろうと思う。もちろん、お客も更新されるでしょうし、新しいお客に同じ話をずっとしていれぱよいということはあるのかもしれません。しかしそれにしても、と思う。
 ニつめは、とはいえ、自分がそろそろ死にそうだということになって、死ぬのはやだな、怖いなと思う。それから、死ぬこことはまつたく別のことだと思いますが、体が痛くて、痛いのはいやだと感じる。そういうことに関して死生学だの死の臨床だのが何か言ってくれているのかというと、ほとんど何も、少なくとも私にとってはありがたいことを言ってくれたりはしていないのです。ありがたい話以前に、何か言ってくれているという感じが以前に、何か言ってくれているという感じがしないわけです。一つは死後の生といった、いわゆる宗教的なものに向かうべクトルがあるでしよう。ただ死の臨床や死生学は表向き特定の宗教に属さないかたちでやっているので、そこは暖昧になっている。すると結局、やさしくしてあげようとか、話を聞いてあげようとか、一番目の話を繰り返すことになる。もちろん他方には、宗教のようなものを持ち出して、死んでも生きているんだよという話をする人たちもいる。それはそれでよいのかもしれない。ただ、多くの人はそんな話を聞いても、自分の悩みから解放されたとはきっと思わない。そういう意味では得るものがない。
 三つめは[…]」(pp.36-37)
★05 このことと直接に関わるのではないが、人を(実際にはしばしば殺すのではあるが)殺さない(ことになっている)ことをどのように考えるのかという主題はある。
 『私的所有論』の第5章「線引き問題という問題」第2節「境界」:1「線引きの不可能」・2「同じであること/近いこと」、第3節「人間/非人間という境界」:1「ヒトという種、あるいは、人であるための資格」・2「人のもとに生まれ育つ人であることを受け止める人」・3「資格論の限界」・4「その人のもとにある世界」・第5節「はじまりという境界」:1「はじまりという問題」・2「生産物に対する権利」・3「他者が現われるという経験」・4「所有と資格」。また、 第2版に付した「ごく単純な基本・確かに不確かな境界――第2版補章・1」の第2節「人に纏わる境界」:1「位置」・2「殺生について」・3「人間の特別扱いについて」、4「始まりについて」もこのことに関わっている。
★06 感情の社会性/自然性を問題にしてきた。それに対して私は「感情の用法」を問うという方向があると考えてきた。「近代家族の境界――合意は私達の知っている家族を導かない」(立岩[1992/10])、「愛の神話」について――フェミニズムの主張を移調する(立岩[1998])等があり、それらは『家族性分業論前哨』(立岩・村上[2011])に収録されている。

■ここまでの「死生本の準備」

◆2015/02/15 「死を見つめる本・良い死の本:死生本の準備4――「身体の現代」計画補足・20」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1560017074265274
◆2015/02/09 「死/生の本・2増補(小泉義之の本)――「身体の現代」計画補足・19」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1557205197879795
◆2015/02/03 「死生学の本――「身体の現代」計画補足・18」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1554364208163894
◆2015/01/31 「死/生の本・1増補――「身体の現代」計画補足・17」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1553411651592483

■そこまでの「「身体の現代」計画補足」

◆2015/01/30 「いまさら優生学について――「身体の現代」計画補足・16」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1552887091644939
◆2015/01/08 「不定型な資料をまとめ出したこと――「身体の現代」計画補足・15」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1542932532640395
◆2014/12/20 「不定型な資料を整理し始めたこと〜横田弘1974――「身体の現代」計画補足・14」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1532834723650176
◆2014/12/10 「安楽死・日本・障害者の運動(予告)――「身体の現代」計画補足・13」
 [English]https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi.en/posts/1500472513573729
 [Korean]https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi.ko/posts/674499219334578
◆2014/11/27 「韓国の人たちと・続――「身体の現代」計画補足・12」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1522712254662423
◆2014/10/12 「これからの課題としての障害者運動と在日・被差別部落…解放運動との関わりに関わる研究――「身体の現代」計画補足・11」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1502938869973095
◆2014/10/06 「尾上浩二さん・広田伊蘇夫さんからのいただきもの――「身体の現代」計画補足・10」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1500213176912331
◆2014/10/01 「『そよ風のように街に出よう』/『季刊福祉労働』――「身体の現代」計画補足・9」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1498119143788401
◆2014/09/28 「『精神医療』という雑誌――「身体の現代」計画補足・8」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1496630793937236
◆2014/09/26 「資料について、の前に書いてしまったもの幾つか――「身体の現代」計画補足・7」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1495845864015729
◆2014/09/21 「「レア文献」――「身体の現代」計画補足・6」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1493567090910273
◆2014/09/06 「『現代思想』9月号特集:医者の世界・続/勧誘――「身体の現代」計画補足・5」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1484426548490994
◆2014/08/31 「『現代思想』9月号特集:医者の世界+『流儀』――「身体の現代」計画補足・4」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1479236585676657
◆2014/08/29 「今のうちにでないとできないこと(『造反有理』前後/広田伊蘇夫文庫)――「身体の現代」計画補足・3」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1477360962530886
◆2014/08/28 「調査について(『生の技法』の時)――「身体の現代」計画補足・2」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1476388215961494
◆2014/08/27 「『自閉症連続体の時代』刊行他――「身体の現代」計画補足・1」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1476171985983117



UP:20150218 REV:
立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
TOP HOME (http://www.arsvi.com)