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死/生の本・2増補(小泉義之の本)

「身体の現代」計画補足・19

立岩 真也 2015/02/09
https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1557205197879795

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▽第17回からしばらくは『生死の語り行い・1』(立岩真也・有馬斉、2012)に当初収録するつもりでできなかった関連する本の紹介――そのもとは『看護教育』での連載、そして本への収録を計画していた時に作った本のリストやその解説である――をしていく。そのうちハイパーリンクがたくさんついた電子書籍『(題未定)』で出版予定。まずは、『生死の語り行い・1』――に出てくる本には重要な本が多いから――を読んでおいてもらえれば。△

『生死の語り行い・1』表紙

 長い(といってもさほど長くはないのだが)文章はフェイスブックには不向きであるようにも思えてきた。そこでこちらの方は案内程度に留め、この続きは
http://www.arsvi.com/ts/20150059.htm
でどうぞ、というふうに前回からしている。そこに書いたけれども、もう一つ、その文章にはリンクがたんさん張ってあって、それを見てもらうには(ふつうの?)HP上の方が適しているように思えたというともある。
 A:2004年のあたりから書いた文章を、基本そのままに、註を加え、そしてそれと別にB:以前作りかけた本のリストと文章をいくらか仕立てなおしてまとめようとしている。前々回はAの初回
◇2015/01/31 「死/生の本・1増補――「身体の現代」計画補足・17」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1553411651592483
 前回はBの初回ということになる。
◇2015/02/03 「死生学の本――「身体の現代」計画補足・18」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1554364208163894
 今回はAの2回目。「死/生の本・2」(連載「医療と社会ブックガイド」43・2004/11)で私は「死/生の本・1」の続きを少した記した後、小泉義之の本を紹介した。
 http://www.arsvi.com/w/ky01.htm
 そのあと私は小泉の『病いの哲学』『唯の生』の第7章でいくらか長く紹介している。そしてこの「死/生の本・2」(の最初のところを略したもの)もその章のあとに付している。
 前回記したような死生学の語り方・書き方と違う語り方・書き方はないのだろうと思って、私自身は考えつかないのだが、小泉はそれを考えているようなので、その章を書いた。その第7章の目次は以下。
 1 何か言われたことがあったか
 2 死に淫する哲学
 3 病人の肯定という試み
 4 病人の連帯
 5 身体の力を知ること
http://www.arsvi.com/ts/2009b1.htm
 それはそれとして(現在は、借りるのでなければ、かなり高くなってしまっている古本と、当方から提供できるテキスト・ファイルで読んできいただくしかないのだが)読んでいただければと思う。そしてその後の小泉の本を私はまだ読んでいない★01。それは後でまた補うとして、まずはずっと前に書いた文章とやはりかなり前に書きかけた註を少し補うにとどめる。
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■死/生の本・2(連載43・2004/11)に加筆

 *本文への加筆は〔〕
 *注を新たに加えた。
 *『良い死』『唯の生』『生死の語り行い・』『2』総合文献表

 前回の終わりに斎藤義彦『アメリカ おきざりにされる高齢者福祉――貧困・虐待・安楽死』(ミネルヴァ書房)をとりあげた。私は、いま書く意味があるのは、まずこの本のようなものだと思う。
 米国での安楽死論議が紹介されることはあるし、高齢者の虐待防止のための活動が紹介されることもあるが、それがなされている、あるいはなされざるをえない文脈がある。一番簡単に言えば、金のない高齢者、あるいは医療や介護のために金を使い果たしてしまった高齢者が生きることは辛く困難なことだということである。それを見ないで安楽死について議論しても、また、たしかに意味はあるだろう権利擁護のための活動を取り入れようと言っても、仕方のないところがある。もっと時間をかけた取材、調査をすれば、また別の本ができただろうとは思う。しかし、米国の高齢者福祉や医療について書かれたものは他にもあるが、こうした本はこれまであまりなかった。実際を知るために、読んでおいたらよい本だと思う★02
◇◇◇

 さて。前回、斉藤の本の前に紹介したのは、死が隠され遠ざけられるようになったことを言う本だった。そして、では、ここ数十年おびただしく現われてきた死についての言説――それには現代社会では死が隠されていると言うものも含まれる――のことはどう考えたらよいのだろうと述べた。また、隠してきたものを表に出そうと言われても、それがどういうことなのか、どうしたらよいのかわからないと述べた。そして私は、死生学とか死の臨床といった言葉を冠せられる本をいくつか読んでも、やはりわからない。
 弱っている人にはやさしくしたらよいとか、傍に付き添っていたらよいとか、話をよく聞いたらよいとか、それはよいことだとは思う。しかしそれは、既に誰もが知っていることで、それ以外のことは書いていない、と思えてしまう。そう決めつけてもいけないのだろう。私がただひねくれ者なのかもしれない。ただ今のところはそう思えてしまう。
  では何を書いたら、生や病や死について何か書いたことになるのか。私にはよい案がまるでなく、書きようがない。だからその部分はさておくことにしてきた。しかし、ひょっとしたら書きようがあるのかもしれないと、最近、小泉義之の本を読んで思った。〔続く部分は、他の文章と合わせ書き加えた上で『唯の生』第7章に収録した。〕
 小泉は1954年生まれの哲学者。私がいま勤めている大学院〔立命館大学先端総合学術研究科〕の教員だから、職場の同僚でもある。
 単著が6冊、そして対談の本が1冊ある。発行年順に並べると、『兵士デカルト――戦いから祈りへ』(1995、勁草書房)、『デカルト=哲学のすすめ』(1996、講談社現代新書)、『弔いの哲学』(1997、河出書房新社)、『ドゥルーズの哲学――生命・自然・未来のために』(2000、講談社現代新書)、『レヴィナス――何のために生きるのか』(2003、日本放送出版協会、『生殖の哲学』(2003、河出書房新社)。そして対談に各々の文章を加えた本として永井均・小泉義之『なぜ人を殺してはいけないのか?』(1998、河出書房新社)。最近のものはいくつか読んでいた。他はぱらぱらと頁をめくったくらい。最初の2冊は手にとったことがなかった。
 『現代思想』(青土社)の昨年の11月号の特集は「争点としての生命」だった。この号については第34回で紹介した。1年後、10月末には発売になる今年の11月号は「生存の争い」という特集になった。私は「死の尊厳」といったお話についての原稿〔清水哲郎の論を検討した「より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死」(立岩[20041101]→『唯の生』第6章〕も書いているのだが、それ以外に、小泉と対談することになった〔「生存の争い」→『生命の臨界――争点としての生命』(松原・小泉編[2005]に収録〕そんなこともあって、読んでいないものに目を通すことになった。読んだら、とくに、デカルトについて書かれている最初の2冊がおもしろかった。
 その前に、他の本は別の機会に紹介するが、『弔いの哲学』からは一箇所引用しておこう。死を遠ざけている社会であるということになっているにもかかわらず、あるいはそれゆえに、私たちの社会では――第41回に紹介した小松美彦の本の題名でもあるが――「共鳴する死」といったもの言いの方が受けがよい。しかし、それはどこか違うのではないか。それだけでは言えることが言えていないのではないかと私は思ってきた。この本には次のような箇所がある。

 「誰かの死と誰かの生の断絶を思い知ることは、おそらくとても大切なことである。遠くの隣人であれ近くの隣人であれ、誰かが死ぬことは、私の生とはまったく関係がないということを思い知ることが、ほんとうの弔いである。このことを具体的に誰かの死を念頭におきながら述べると、きっと非難や反発を招くだろうし、私自身にも違和感が生ずるだろう。それはどう応ずべきかは、今はわからない。ともかく、誰かの死と誰かの生は断絶しているという真理を、絶対に手放さないで思考をすすめていきたい。」(p.10)
◇◇◇

 そしてデカルト。社会科かなにかでいちおう名前は教わり、「我思う、ゆえに我あり」と言ったと聞いて、「そんなばかな」と思ったり、「なんだか高慢なやつだ」と思ったりして、それで終わり、という人が多いはずだが、小泉の最初の著書『兵士デカルト』を読むと、どうやらデカルトはすごい。
 パスカル(とカント、さらにヘーゲル)が時々、かたき役というか、だめなやつとして出てくるのだが、なるほど、死を哲学的に、あるいは臨床的に語るというものの多くがどうにもおもしろくないのは、それらがパスカル的というか、パスカルをさらに通俗的にしたものであるということにあるのか、と思える。しかしそれでは、デカルトはどうなのか、よく伝わらなくても当然だ。引用する。

 「デカルトの懐疑が徹底的でありえたのは、私が欺かれても現に生きていること、これだけを真で確実なこととして肯定して、他の一切のことを欺く神に由来する欺瞞として退けたからである。だからデカルトにとっては、生きるか死ぬかという問題以外は、すべて取るに足らない問題である。そしてとくに、病気や死をめぐる言説も価値を失う。例えば、ホッブズの自然状態、ヘーゲルの主人奴隷論、生命倫理、民俗誌的社会史は無意味になる。病気や死について何を語ろうとも、人間はいずれ病んで死ぬからである。[…]<真で確実なことは、人間が生きて死ぬことだけである>と本当に知る人、そしてその知に相応しく生きる人は少ない。ここにコギトの核心があり、<老人>の智恵がある。」(pp.4-5)

 こうして引用しても、まったく単純なことが言われているようでもあり、やはりわからないようにも思える。そこでこの本を読むのがよいのだが、難しい本であるのはたしかだ。そこでまずは、2冊目に新書で出された『デカルト=哲学のすすめ』がよい。それで論証の部分が気になったら、その部分は――私自身はまだまったく読みこなせていないのだが――『兵士デカルト』に戻るという読み方もあるだろう。
 より断定的で、明瞭で、同時に「なぜそう言えるの」と疑問が現われてくる『デカルト=哲学のすすめ』から引用を幾つか。

 「今はデカルトとともに、「病気であるときに健康でありたいと欲望することはない」賢者が現存することだけを確認しておこう。私たちは少なくとも、賢者に学んで、病気と健康についての真実の探究を始め直すことではきる。私たちは少なくとも<聴く耳>をもつことはできるのである。」(p.50)
 「実際、私が少なくとも一箇所、体を動かせるのでなければ、私は他人の力を借りてリハビリを遂行することさえできないし、私が本質的に老いるのでなければ、私は生きているとは言えないし、生きているのでなければ、他人との関係を取り結ぶことさえできない。これがデカルトの独我論であり、このことを「コギト・エルゴ・スム」は言い表しているのである。」(p.79)
 「デカルトが<私は存在する>という言明によって言い当てようとした真実とは、死にゆく者が徹底的に独りで生きているということであるし、死にゆく者が共同性や社会性から完全に離脱しているということである。<私は存在する>という言明は、死にゆく者が生きていることを示すために発する最後のサインとして聞き取られなければならないのである。」(p.97)
 「デカルトによれば、身体に損害があっても痛くないときがあるし、痛いときでも苦しくも悲しくもないときがある。さらには「痛みを喜びをもって堪えることがある」。では、なぜこのようになっているのか。なぜこのような賢者が可能になっているのか。」(p.183)

 最後の問いに対する答えがこの本に記されていると読むか、それとも読まないか。そんなことも確かめるために、まずは読んでみるしかない。

■註
★01 単著では、『デカルトの哲学』(小泉[2009])、『倫理学』(小泉[2010])、『生と病の哲学――生存のポリティカルエコノミー』(小泉[2012])、『ドゥルーズと狂気』(小泉[2014])がある。
★02 『現代思想』2015年3月号の特集が認知症で、私はその雑誌にずっとさせてもらっている連載?のその号に載った分の一部で、米国における医師幇助自殺・安楽死のこと、児玉真美がそのブロクで紹介しているVSED(餓死自殺・(planned death by) voluntarily stopping eating and drinking)にすこし触れている。そうした派手でもありまた静かなできごとでもあることを見るとき、斎藤が記しているような「背景」はやはり見落とさない方がよいと思う。またその回では、斎藤が紹介している「日本尊厳死協会」と「呆け老人をかかえる家族の会」(現在は「認知症の人と家族の会」)とのやりとりを紹介している。
★03 以下は以前(2011年ころ?)書きかけた文章のまま。近年の著作は読めていないので、読んで書き足し、書き直す予定。
 『ドゥルーズの哲学』([2000])は私が最初に読んだ小泉の本で、その年の「収穫」という文章では次のように記した。
 「D・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ――自然の再発明』(青土社)。なんだかよくわからないままおもしろいといえば小泉義之『ドゥルーズの哲学』もそうなのだが、そしてそう言うと著者に叱られてしまうように思える点でも似ているのかしれないが、おもしろい。」
 『生殖の哲学』は、フランケンシュタインが表紙にいて、帯には「劣生社会万歳! 人間を終焉させ、怪物を生産するクローン万歳!」とあって、たしかにそんなことが書いてある。私は、残念ながら、怪物は生産されないと思うのだが、そういう現実的な予想を措けば、おもしろい。
 『レヴィナス』は、しばらくずいぶん流行し翻訳や関連書がたいさん出ている哲学者、エマニュエル・レヴィナスについての本だが、同時に生殖について、人が子を産む、産んでしまうということがどういうことであるのかを考えようという本である。
 対談の本は、わりあい読みやすいと思われているかもしれない。また『なぜ人を殺してはいけないのか?』という題名も気になる。しかしこの対談本から入るのはおすすめしない。永井はここ十年もっとも読まれている哲学者の一人でもあり、例えばそのニーチェ論には重要な指摘があると思うのだが、この本で、二人の話はどうにも食い違い、そのままで終わる。この食い違い、すれ違いが、どのように、なぜ起こっているのかを考えることは、多分、かなり重要なことなのだが、それを考えることは、そうやさしいことではなく、骨の折れることだろう。ただ、それを考えていくつもりがあれば、意義のある本ではある。
 『デカルト=哲学のすすめ』には次のようにある。
 「デカルトによれば、身体に損害があっても痛くないときがあるし、痛いときでも苦しくも悲しくもないときがある。さらには「痛みを喜びをもって堪えることがある」。では、なぜこのようになっているのか。なぜこのような賢者が可能になっているのか。
 痛みは、身体の自己保存を阻害するような刺激であるとしよう。その限りでは、痛みは苦しみと悲しみを引き起こす。ところが、そのような刺激に侵されているときにも、人間は生きている。いかに痛くとも、いかに苦しくとも、現に生きているからには、以前として身体は自己を保存する力を失ってはいない。その限りでは、他ならぬこの「身体に合一している限りで、魂に属している善」が示されているはずである。そしてその限りで、魂には喜びが喚起されているはずだし、魂は生きていることを喜んでいるはずである。もちろん、この喜びは、痛みや苦しみによってかき消されがちではあるが、いかに悲惨な生であっても、魂は現に生きていることの喜びを感じることが可能である。そしてそれが本当に可能であることを、賢者が教えてくれているのである。」(p.183)


■cf.「身体の現代」計画補足」一覧

◆2015/02/03 「死生学の本――「身体の現代」計画補足・18」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1554364208163894
◆2015/01/31 「死/生の本・1増補――「身体の現代」計画補足・17」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1553411651592483
◆2015/01/30 「いまさら優生学について――「身体の現代」計画補足・16」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1552887091644939
◆2015/01/08 「不定型な資料をまとめ出したこと――「身体の現代」計画補足・15」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1542932532640395
◆2014/12/20 「不定型な資料を整理し始めたこと〜横田弘1974――「身体の現代」計画補足・14」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1532834723650176
◆2014/12/10 「安楽死・日本・障害者の運動(予告)――「身体の現代」計画補足・13」
 [English]https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi.en/posts/1500472513573729
 [Korean]https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi.ko/posts/674499219334578
◆2014/11/27 「韓国の人たちと・続――「身体の現代」計画補足・12」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1522712254662423
◆2014/10/12 「これからの課題としての障害者運動と在日・被差別部落…解放運動との関わりに関わる研究――「身体の現代」計画補足・11」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1502938869973095
◆2014/10/06 「尾上浩二さん・広田伊蘇夫さんからのいただきもの――「身体の現代」計画補足・10」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1500213176912331
◆2014/10/01 「『そよ風のように街に出よう』/『季刊福祉労働』――「身体の現代」計画補足・9」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1498119143788401
◆2014/09/28 「『精神医療』という雑誌――「身体の現代」計画補足・8」
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◆2014/09/26 「資料について、の前に書いてしまったもの幾つか――「身体の現代」計画補足・7」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1495845864015729
◆2014/09/21 「「レア文献」――「身体の現代」計画補足・6」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1493567090910273
◆2014/09/06 「『現代思想』9月号特集:医者の世界・続/勧誘――「身体の現代」計画補足・5」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1484426548490994
◆2014/08/31 「『現代思想』9月号特集:医者の世界+『流儀』――「身体の現代」計画補足・4」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1479236585676657
◆2014/08/29 「今のうちにでないとできないこと(『造反有理』前後/広田伊蘇夫文庫)――「身体の現代」計画補足・3」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1477360962530886
◆2014/08/28 「調査について(『生の技法』の時)――「身体の現代」計画補足・2」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1476388215961494
◆2014/08/27 「『自閉症連続体の時代』刊行他――「身体の現代」計画補足・1」
 https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1476171985983117


UP:20150209 REV: 

立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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