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吉本隆明

よしもと・たかあき
1924〜2012/03/16

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◆立岩 真也 2021  『』,筑摩書房,ちくま新書
◆立岩 真也 2021  『』

◆2015/01/07 https://twitter.com/ritsumei_arsvi/status/552756547902640128
 「生存学研究センター ?@ritsumei_arsvi 本研究センター運営委員の上野千鶴子・先端総合学術研究科特別招聘教授が1月10日(土)午後11時〜翌0時30分に放送予定のNHKシリーズ「日本人は何をめざしてきたのか」2014年度シリーズ『知の巨人たち』第5回 吉本隆明に出演予定です https://www.facebook.com/ritsumeiarsvi/posts/1542508716016110

http://www.kobosha.co.jp/yoshimoto/d.html
◆「吉本隆明ワールド」
 http://shomon.net/ryumei
◆「吉本隆明の思想」
 http://homepage2.nifty.com/vff02773/old2/yoshi/index.html
 (「戦後最大にして最高の思想家、吉本隆明氏の思想を、私のできる範囲で紹介、解説していくページです。」1998年9月10日)
http://www.angel-z.com/yoshimoto/

■新着

◆2011/07/10 「資本主義の新たな段階と価値論の射程」(インタビュー 聞き手:津森和治・編集部),『別冊Niche』3:5-33
◆20080123 『「情況への発言」全集成1――1962〜1975』,洋泉社MC新書,389p. ISBN-10: 4862482155 ISBN-13: 978-4862482150 [amazon][kinokuniya] ※



◆吉本 隆明  195208  『固有時との対話』
 自家版,53p.
 固有時との対話/少数の読者のための註
◆吉本 隆明  195309  『転位のための十篇』  自家版,53p.
 火の秋の物語/分裂病者/默契/絶望から苛酷へ/その秋のために
 ちいさな群への挨拶/廢人の歌/死者へ瀕死者から/一九五二年五月の悲歌/審判
 「ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる」(「ちいさな群への挨拶」)
◆195609  『文学者の戦争責任』武井昭夫との共著  淡路書房
◆吉本 隆明 1954 「マチウ書試論」,『現代評論』1・2他→吉本[1959]
◆吉本 隆明 1959 『芸術的抵抗と挫折』,未來杜
◆吉本 隆明 1962 『擬制の終焉』,現代思潮社 *
◆吉本 隆明  196303 『丸山真男論』
 一橋新聞部
◆吉本 隆明  196505  『言語にとって美とはなにか』第1巻
 勁草書房
◆吉本 隆明  196510  『言語にとって美とはなにか』第2巻
 勁草書房
◆吉本 隆明 19680815 『情況への発言――吉本隆明講演集』,徳間書店,272p. ASIN: B000JA5AP6 660 [amazon] ※
◆吉本 隆明  1968   『吉本隆明全著作集7 初期詩篇T』 勁草書房 千葉社1058共通
◆吉本 隆明  1969   『吉本隆明全著作集3 初期詩篇U』 勁草書房 千葉社1057共通
◆吉本 隆明  19681205 『共同幻想論』,河出書房新社,257p. ASIN:B000JA4PZM  \2100 [amazon][kinokuniya] ※
◆吉本 隆明 19690715 『吉本隆明全著作集〈13〉政治思想評論集』,勁草書房,700p. ASIN:B000J98ZDG \5040 [amazon][kinokuniya] ※ p
◆吉本 隆明 19701120 『情況』 ,言叢社,187p ASIN:B000J9A5GG [amazon] ※ p
◇197401  「最後の親鸞」,『春秋』1974-1〜1974-2・3→吉本[197610][]
◆197504  『書物の解体学』
 中央公論社,駒場904Y1-2
◆197506  『思想の根源から――吉本隆明対談集』
 青土社
◆197511  『吉本隆明新詩集』
 試行出版部
◆197608  『知の岸辺――吉本隆明講演集』
 弓立社
◆197610  『最後の親鸞』
 春秋社  千葉教養E683
◆197706  『初期歌謡論』
 河出書房新社
◆197809  『戦後詩史論』
 大和書房,269p.  東大駒場911Y23-2
◆吉本 隆明 19780905 『論註と喩』,言叢社 ,187p. ASIN: B000J8IFQE 1200 [amazon] ※/東大駒場160-Y2.1
◆今西 錦司・吉本 隆明 19781210 『ダーウィンを超えて――今西進化論講義』,朝日出版社,171p. 960 ※
◆1979   『悲劇の解読』,筑摩書房,272p.  高円寺910-28Y
◆吉本 隆明 19800610 『世界認識の方法』,中央公論社,193p. ASIN:B000J87T0M ISBN: 9784120009440 \924 [amazon][kinokuniya]※→19840210 『世界認識の方法』,中央文庫,199p. ※
◆吉本 隆明 198101  『言葉という思想』
 弓立社
◆吉本 隆明 19810725 『増補 最後の親鸞』,春秋社→吉本[20020910]
◆吉本 隆明 19820430 『空虚としての主題』
 福武書店,243p. 1200 高円寺904
◆吉本 隆明 198210  『源氏物語論』
 大和書房→198509  『源氏物語論(新装版)』,大和書房
◆吉本 隆明 19821220 『「反核」異論』
 深夜叢書社,264p. 1600 東大本郷S10-943 *
◆吉本 隆明 19830510 『素人の時代』(対談集)
 角川書店,279p. 1400 三鷹904
◆吉本 隆明・山本 哲士 19830725 『教育 学校 思想』 日本エディタースクール出版部,211p.  本郷K10-822
◆吉本 隆明 19840715 『マス・イメージ論』
 福武書店,284p. 1200 三鷹→198805  『マス・イメージ論』,福武文庫
◆吉本 隆明 19841215 「共同幻想とジェンダー」(講演),樺山・山本編[1984:24-69]
◆吉本 隆明・山本 哲士 19841215 「<アジア的ということ>と<対幻想>」,樺山・山本編[1984:93-148]
◆吉本 隆明・芹沢 俊介 198501 『対幻想――n個の性をめぐって』,春秋社,シリ-ズ家族 1,222p. 1400 
◆吉本 隆明・上野 千鶴子 198506 「フェミニズムと家族の無意識」(談),『現代思想』13-6(1985-6)
◆吉本 隆明 19850610 『死の位相学』,潮出版社,xxxiii+267p. 1500 杉並914-7 d
◆吉本 隆明 198509  『重層的な非決定へ』
 大和書房
◆吉本 隆明 198510  『難かしい話題 吉本隆明対談集』
 青土社
◆吉本 隆明 198511  『吉本隆明ヴァリアント』
 北宋社
◆吉本 隆明 198712  『宗教』 大和書房,吉本隆明全集撰 5,526p. 2800 
◆吉本 隆明 19880410 『イメージ論 (吉本隆明全集撰7)』,大和書房,521p. ISBN-10:447960006X ISBN-13:978-4479600060  \2946 [amazon][kinokuniya] ※
◆吉本 隆明 19880625 「<死>の構造」,吉本他[1988:7-47]*
◆吉本 隆明・竹田 青嗣・芹沢 俊介・菅谷 規矢巨雄・川上 久夫・田口 雅巳 19880625 『人間と死』,春秋社, 233p. ISBN:4393331214,1400 ※
石原 慎太郎・安藤 忠雄・糸井 重里・吉本 隆明・楠田 恵理子・中村 雄二郎・新井 満・大岡 信・浅田 彰 19881220 『堤 清二=辻井 喬対談集』 ,トレヴィル,242p. ISBN-10:4845703831 ISBN-13:9784845703838 \1200 [amazon][kinokuniya] ※
◆吉本 隆明 198909  『像としての都市――吉本隆明・都市論集』 弓立社,377p. ISBN:4896671260 2200 
◆吉本 隆明 19920316 『大情況論――世界はどこへいくのか』,弓立社,253p. ISBN-10:4896672615 ISBN-13:978-4896672619 \2039 [amazon][kinokuniya] ※ p
◆吉本 隆明・河合 隼雄・押田 成人・山折 哲雄 19930310 『思想としての死の準備』 三輪書店,191p. 2060 三鷹114
◆吉本 隆明 19970830 『新・死の位相学』,春秋社,460p. ISBN-10:4393331680 ISBN-13: 978-4393331682 \2730 [amazon][kinokuniya] ※ a06
◆吉本 隆明 19980108 『遺書』,角川春樹事務所,231p. ISBN-10:4894560445 ISBN-13: 978-4894560444 1365 [amazon][kinokuniya] ※ a06
◆吉本 隆明・三好 春樹 20001030 『〈老い〉の現在進行形――介護の職人、吉本隆明に会いにいく』,春秋社,222p. ISBN-10:4393331893 ISBN-13: 978-4393331897 \1680 [amazon][kinokuniya] ※
◆吉本 隆明 20010615 『心とは何か――心的現象論入門』,弓立社,213p. ISBN-10: 4896671031 ISBN-13: 978-4896671032 [amazon][kinokuniya] ※
◇吉本 隆明 200201 「永遠と現在」,『アンジャリ』2
◆吉本 隆明 20020910 『最後の親鸞』,筑摩書房,ちくま学芸文庫(吉本[19810725]に、「永遠と現在」(吉本[200201])が加えられ、中沢新一の解説が付される) ※
◆吉本 隆明 20080123 『「情況への発言」全集成1――1962〜1975』,洋泉社MC新書,389p. ISBN-10: 4862482155 ISBN-13: 978-4862482150 [amazon][kinokuniya] ※
◆吉本 隆明 20110630 「これから人類は危ない橋をとぼとぼ渡っていくことになる」,河出書房新社編集部編[2011:34-54]*
*河出書房新社編集部 編 20110630 『思想としての3・11』,河出書房新社,ISBN-10: 4309245544 ISBN-13: 978-4309245546 1680 [amazon]/[kinokuniya] ※ d10.
 2012/03/16逝去

■講演・録音

◆19790317 「障害者問題と心的現象論」,主催:富士学園労働組合,場所:小金井公会堂→吉本[19790625],→吉本[20010615:158-178]
 https://www.amazon.co.jp/障害者問題と心的現象論/dp/B01BBFGHNQ/


◆「マチウ書試論」   
◆「転向論」   
◆「埴谷雄高」   
◆『心的現象論序説』   

 
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■書評・言及等

◆小林 一喜 19681114 『吉本隆明論』,田畑書店,278p. 790 ※
『現代思想』 19741001 特集:吉本隆明――その思想的主題と核心 『現代思想』02-09 680 ※
◆蓮實 重彦 19750616 「書評:吉本隆明『書物の解体学』」 『日本読書新聞』1975-6-16→蓮實[198201:232-235]*
 *蓮實 重彦 198201 『小説論=批評論』
◆久米 博 19790201 「書評『論註と喩』吉本隆明著」,『現代思想』07-02(1979-2):228-234
蓮實 重彦 198003 「吉本隆明『悲劇の解読』――野性の悲劇について」,『海』1980-3→蓮實[198201]
蓮實 重彦 198103 「吉本隆明『論註と喩』――矛盾について」,『国文学』1981-3→蓮實[198201:39-49]
◆吉田 裕 19810828 『吉本隆明とブランショ』,弓立社,269p. ASIN:B000J7T3TS \1890 [amazon] ※ yt08
◆山下 恒男 19821225 「意識の共同性と個別性――吉本隆明『共同幻想論』と『心的現象論』から考える」(差別の心的構造 第15回(最終回)),『福祉労働』17:165-179 ※
◆粟津 則雄ほか 19851115 『吉本隆明ヴァリアント――現在の地軸1 よって、非知の知を知ること』,北宋社,553p. ISBN-10:4938425769 ISBN-13:978-4938425760  \2100 [amazon][kinokuniya] ※ yt08
橋爪 大三郎 198608 「吉本隆明はメディアである」,『現代詩手帖』吉本隆明特集 ※(原稿COPY)
◆土井 淑平 198612 『反核・反原発・エコロジー――吉本隆明の政治思想批判』 批評社,382p. 2800
◆谷口 孝男 19870101 「吉本<幻想論>の現在」,『クリティーク』06(特集:家族と性):85-97 ※
◆竹田 青嗣 19880130 『世界という背理――小林秀雄と吉本隆明』,河出書房新社,197p. 1600 三鷹901
◆鷲田 小彌太 1990 『吉本隆明論』 三一書房
◆鷲田 小彌太 1992 『増補 吉本隆明論』,三一書房
橋爪 大三郎 20031121 『永遠の吉本隆明』,洋泉社新書y0098,190p. 720 ※



◆吉本 隆明 19790625 「障害者問題と心的現象論」,『季刊福祉労働』03:008-020 ※

■言及

◆立岩 真也 200401 「アイリス・ヤングの勉強会のためのメモ・1」

 「人により立場は様々ながらも、決定に参加し参画しするまじめな人をまじめに支持するという点では共通しており、そのことに私は少し違和感を感じる。むろん日本でもこの種の議論をする人はたくさんいて、(ある種の)政治学をしている人たちもそんな人たちだと思う。
  私は吉本隆明という人が言っていることの多くはわからないのだが、ただ、「「市民」にならねば」という強迫のないところ、基本的に政治は仕方がないからするものだという感じで捉えているところは、それでよいのではないかと思い、共感する。ここから見ると、そうでない立場もまた特定の立場のように、はっきりと見えてくる。(年明けに頼まれ原稿で吉本について短い文章を書くのだが、そこではそんなことを書くと思う。)

◆立岩 真也 2004/02/28 「世界の肯定の仕方」,『文藝別冊 総特集 吉本隆明』,河出書房新社,pp.94-97
 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/sangatu/yosimotohon/yosimotohon04.htm

◆立岩 真也 2005/05/25 「死/生の本・5――『性の歴史』」(医療と社会ブックガイド・49),『看護教育』46-05:(医学書院)[了:20050331]

◆最首 悟・立岩 真也 2009/06/12 「対論」,高草木編[2009:225-231]*,
*高草木 光一 編 20090612 『連続講義「いのち」から現代世界を考える』,岩波書店,307p. ISBN-10: 400022171X ISBN-13: 978-4000221719 2400+ [amazon][kinokuniya] ※


◆立岩 真也 2013 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版

「◇01 多くの宗教は外的な行為の形を指示し、また、そのことによって自らの同一性を保持する。つまり、なすべき行為となすべきでない行為を指示し、その遵守を求めることで例えば来世での幸福を約束する。キリスト教が当初その一分派であったところのユダヤ教はそうだった。キリスト教はそういった空間から離脱する、とは言えないとしても、それを屈曲させ、別の空間を提示する。キリスト教は罪が構成される場所を個体の内部に移行させ、内部(の罪)の発見を促す(吉本隆明[1978]、橋爪大三郎[1982])。ここに罪の主体としての人間が現われ、このことによって人はこの宗教の下に捉えられる。問うことによって内部という領域が現れるが、それはそれ自体としては当人にも不可視であり、それだけに内部にあると名指されるものを否定し難い。そこで、この場所が問題になるや、そこに諸個体はひきこまれてしまう。共通の主題へと導かれ▽419 ていく。【(吉本[1978]に「親鸞論註」とともに収録された「喩としてのマルコ伝」は、後に吉本[1987]に収録された。)】  キリスト教はこのことによって普遍性を獲得した。第一に[…]」(立岩[2013:418-419])

 □「ごく単純な基本・確かに不確かな境界――第2版補章・1」
 「◇09 『唯の生』([2009a])でも(問いの部分だけ)紹介したが、デリダとの対談(あるいはデリダへのインタビュー)で、ルディネスコが次のように語り、問う(言及されているのはCavalieri & Singer eds.[1993=2001]
 […]
 高草木光一が企画した慶応義塾大学での(二人で順番に話し、その後対談するという形の)講義で最首悟(→○・○頁、その時の話は最首[2009])、最首は人が殺す存在であることから考えを始めるべきであることを語った。私もそんなことを思ったことがないわけではないが、考えは進んでいなかった(し、今も進ん▽803 でいない)。次のように述べた。
 「最首さんが提起された「マイナスからゼロヘ」の過程をどう考えるかということと、思想の立て方としては違うはずなのですが、西洋思想のなかにも「罪」という観念があります。その「罪」は、まず基本的には、法あるいは掟に対する違背、違反です。法は神がつくったもので、具体的な律法に違反したら罪人であるという。それは律法主義です。ただキリスト教はそれに一捻り利かせていて、行為そのものでなく、行為を発動する内面を問題にすることによって、律法主義を変容させていく。
 フーコーは、そういう系列の「罪」の与えられ方に対して一生抵抗した思想家だと私は思っています。ニ一チェ、フーコーというラインは、そこでつながっています。自分ではどうにもならないものも含めて人に「悪意」を見出す、そしてそれを超越神による救済につなげる。つなげられてしまう。これが「ずるい」、と罪の思想に反抗した人たちは言うわけです。私はそれにはもっともなところがあると思います。そして同時に、その罪の思想においては、人以外であれば殺して食べることについては最初から「悪」の中には勘定されていない。そうした思想は、どこかなにか「外している」のかもしれません。
 「悪人正機」という思想は、それと違うことを言っているように思います。では何を言っているのか。親鷲の思想にはまったく不案内ですが、いくらか気にはなっています。吉本『論註と諭』という本(一九七八年、言叢社)は、マルコ伝についての論文が一つと親鸞についての論文が一つでできています。前者の下敷きになっているのはニーチェです。吉本とフーコーがそう違わない時期に独立に同じ方向の話をしている。そちらの論文に書いてあることは覚えていますが、親鸞の方はどうだったか。ずいぶん前に読んだはずですが、何が書いてあったのだろうと。二つが合わさったその本はどんな本だったのだろうなと。
 そして去年(二〇〇七年)、横塚晃一さんの『母よ!殺すな』という本の再刊(生活書院刊)を手伝うことができましたが、彼の属していた「青い芝の会」の人たちは、しばらく茨城の山に籠っていた時期もありま▽804 した。そこの大仏空(おさらぎあきら)という坊さんの影響もあるとも言えましょうが、悪人正機説がかなり濃厚に入っている。それをどう読むか、それも気にはなってきていることです。
 「殺すこと」をどう考えるかは厄介です。否応なく殺して生きているということは、殺すことそれ自体がだめだということではないはずです。そして、ならば殺すのを少なくすればそれでよい、すくなくともそれだけでよいということでもないのでしょう。殺生を自覚し、反省し、控えるというのは、選良の思想のように思えますし、人間中心的な思想でもあります。最首さん御自身の「マイナスから始めよう」という案も含め、落とし穴がいくつもあるように思います。功利主義的な議論のなかでは、「殺すことがいけないのは苦痛を与えるからだ」という方向に議論がずれてしまう。だから、遺伝子組み換えで苦痛を感じない家畜をつくり出してそれを殺すのならば、少なくとも悪いことではないということになっていく。これはさすがに、多くの人が直観的におかしいと思うでしょう。
 こうした問題は、それはどんな問題であるかは、これまであまり考えられてこなかったように思います。西洋思想の系列にはその種の議論がないか薄いように思います。それでも、ジャック・デリダ(Jacques Derrida,1930〜2004)とエリザベート・ルディネスコ(E1isabeth Roudinesco,1944〜)の対談集『来たるべき世界のために』のなかで、動物と人間の関係や、動物を殺すことについて少しだけ触れた箇所があります。ピーター・シンガーたちの動物の権利の主張について質間を差し向けられて、デリダはいちおう答えてはいますが、その答えの歯切れはよくないし、たいしたこと言ってないんじゃないかと。アガンベン(Giorgio Agamben,1942〜)には、酉洋思想や宗教が動物と人間の境界をどう処理してきたのかという本(『開かれ――人間と動物』)もありますが、ざっと読んでみても、ああそうかとわかった気はしない。ただ、いま思想が乗っている台座を間うていけば、そんなあたりをどう考えるのかが大切なことのようにも思えます。どう考えたらよいのか、しょうじきよくわかりませんが。」(最首・立岩[2009]における立岩の発言)▽805
 それに対して最首は次のように応じている。
 「いま、吉本隆明の「マチウ書試論」(『芸術的抵抗と挫折』未來杜,一九五九年、所収)にまたもどってきているというか、「絶対」と「憎悪」と〈いのち〉というと、問題意識を少し言えそうな気がします。」
 「マチウ書試論」(吉本[1959]、マチウ書=マタイ伝)の最初の部分は一九五四年に発表された。第6章注1・418頁で引いた「喩としてのマルコ伝」は一九七八年に書かれた。吉本はこれらの新約聖書(福音書)についての文章についてニーチェとマルクス(「喩としてのマルコ伝」では加えてヘーゲルとエンゲルス)の仕事に、とくにニーチェに言及している――「マチウ書試論」のあとがきには「キリスト教思想に対する思想的批判としては、ニイチェの「道徳の系譜」を中心とする全著書が圧倒的に優れていると思う。わたしに、キリスト教思想にたいする批判の観点をおしえたのは、ニイチェとマルクスとであった」と記されている(cf.Nietzsche[1885-86=1970,=1993][1887=1940,=1993]他)。フーコーの『性の歴史』の第一巻は一九七六年(Foucault[1976=1986])。吉本とフーコーは後でかみあわない対談をしていて、吉本[1980]に収録されている。(印象のその記憶だけを辿れば、当時フランスその他で普通に受容されていたヘーゲル的なもの、その歴史観を一方で受けとめる人がおり、他方の人はそうしたものへの反発からものを書いてきたということがあったように思う。そしてたしかに、吉本が例えば(歴史的な状態として)「アジア的」と言う時――他にもわからないことはたくさんあるのだが――私にはよくわからないところがある。)
 『論註と喩』(吉本[1978])は「喩としてのマルコ伝」と「親鸞論註」によりなるが、それ以前に吉本が親鸞を論じた著作として代表的なものに『最後の親鸞』(吉本[1976])。そこには次のような文章がある。
 「<知識>にとって最後の課題は、頂きを極め、その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め、そこから世界を見おろすことでもない。頂きを極め、そのまま寂かに<非知>に向って着地することができるというのが、おおよそ、どんな種類の<知>にとっても最後の課題である。この「そのまま」とい▽806 うのは、わたしたちには不可能に近いので、いわば自覚的に<非知>に向って還流するよりほか仕方がない。しかし最後の親鸞は、この「そのまま」というのをやってのけているようにおもわれる。」(吉本[1876:5→1987:164])※「そのまま」(3箇所)に傍点
 この注の最初に戻すと、「例外状態」とか「ホモ・サケル」といった言葉はたしかになにごとかを、ある種の情緒を喚起させる。だが、だからそこは冷静に考えてみた方がよいと思う。その方向にも幾つかあると思うが、その一つに稲葉振一郎[2008]。」(立岩[2013:800-806])

◆立岩 真也 2013 『造反有理――身体の現代・1:精神医療改革/批判』(仮),青土社 ※

「☆25 「玉砕する狂人といわれようと――自己を見つめるノンセクト・ラジカルの立場」(最首[1969])という気負った文章があり、同年の雑誌『現代の眼』(三月号)での座談会(最首他[1969])での発言が吉本隆明に批判されて最首はへこんだりする。

 「私は、一九六九年に、当時教祖的存在だった吉本隆明から「この東大助手には、〈思想〉も〈実践〉も判っちゃいないのです」〔吉本隆明「情況への発言」、『試行』二七号、一九六九年三月、一〇頁〕というご託宣を受け、落ち込みましたし、考え込みました。「わかっちゃいない」と言われれば、「わかりたい」と思います。しかし「わからない」まま時間は過ぎてゆく。努力していないと言われるとそれまでです。しかし、密かに大きくなっていった意識は、「思想も実践もわかったらどうするのだ」ということでした。」(最首[2013:287]、その文章は吉本の同じ題の本(吉本[1968])には、それは六八年に出されたのだから当然だが、収録されておらず、吉本[2008]に収録されている、そしてその同じ「ご託宣」のことは『図書新聞』の吉本追悼特集に最首が寄せた文章(最首[2012])でも言及されている。)

■引用

◆「最後の親鸞」

 ▽どんな自力の計いもすてよ、<知>よりも<愚>の方が、<善>よりも<悪>の方が弥陀の本願に近づきやすいのだ、と説いた親鸞にとって、じぶんがかぎりなく<愚>に近づくことは願いであった。愚者にとって<愚>はそれ自体であるが、知者にとって<愚>は、近づくのが不可能なほど遠くにある最後の課題である。(吉本[1876:→1987:→2002:15])△
 ▽親鸞は、<知>の頂きを極めたところで、かぎりなく<非知>に近づいてゆく還相の<知>をしきりに説いているようにみえる。しかし<知>は、どんなに「そのまま」寂かに着地しても<無智>と合一できない。<知>にとって<無智>と合一する△017ことは最後の課題だが、どうしても<非知>と<無智>とのあいだには紙一重の、だが深い淵が横たわって居る。なぜならば<無智>を荷っている人々は、それ自体の存在であり、浄土の理念に理念によって近づこうとする存在からもっとも遠いから、じぶんではどんな<はからい>ももたない。かれは浄土に近づくために、絶対の他力を媒介として信ずるよりほかどんな手段ももっていない。これこそ本願他力の思想にとって究極の境涯でなければならない。しかし<無智>を荷った人々は、宗教がかんがえるほど宗教的な存在ではない。かれは本願他力の思想にとって、それ自体で究極のところに立っているかもしれないが、宗教に無縁な存在でもありうる。そのとき<無智>を荷った人たちは、浄土教の形成する世界像の外へはみ出してしまう。そうならば宗教をはみ出した人々に肉迫するのに、念仏一宗もまたその思想を、宗教の外にまで解体させなけばならない。最後の親鸞はその課題を強いられたようにおもわれる。(吉本[1876:→1987:→2002:17-18])△

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