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『論註と喩』

吉本 隆明 19780905 言叢社 ,187p.


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吉本 隆明 19780905 『論註と喩』,言叢社 ,187p. ASIN: B000J8IFQE 1200 [amazon] ※

■目次

・親鸞論註
・喩としてのマルコ伝

■引用

  「ここでいう「罪人」や「取税人」は「悔い改め」の概念に手がかりを与える。具体的には犯罪者、取税人、廃疾者など社会から故なく疎んじられた者、またマルコ伝の言質から社会的に貧困な下層の者などの総体をさしている。これらの人々は何かの<罪>からの因果として犯罪人、取税人、廃疾者、貧困者になった。この通念はマルコ伝の背後に潜在していた。けれどこの<罪>を「悔い改め」れば、犯罪人、取税人、廃疾者、貧困者の境涯から逃げられると説かれていない。むしろマルコ伝はこれら社会から疎まれた者たちを存在として肯定的に視ている。習俗を破って犯罪人や取税人と主人公が食事をする場面はそのことを語っている。わたしたちの理解ではマルコ伝は、犯罪人、取税人、廃疾者、貧困者がどこからか背負っている<罪>の概念を、善からぬことという情緒的な雰囲気から切り離して普遍化した。弁証法的な交換によって犯罪人、取税人、廃疾者、貧困者もまた社会的な存在から<罪>を負った内在的な存在の象徴に転化された。「悔い改めよ」というのは<罪>を咽喉もとまで溢れさせよということだが、この罪はすでに、大なり小なり犯罪人、取税人、廃疾者、貧困者のいずれかであるすべての人間が負うものの意味に転化されている。<罪>は「悔い改め」によって消去されるべきものであるとともに、無くてはならぬものを指している。「わたしは正しい者を招こうとしてではなく、罪人を招こうとしてきたのだ。」というときの偏倚と普遍的な感じの同在はそこからきている。
  […]本来的な概念では、犯罪人、取税人、廃疾者、貧困者など、社会から眼を背けられたり疎まれたりする人々は、ある<罪>の結果そうなっているのだという通念が流布されていた。この<罪>の結果は、穢された身から追いはらう(清祓する)ことによって消去されるという考え方も一般であった。これは神が法定者だとする神法が支配している時期の通則ともいえる。なぜかこの未開的な混沌のなかで<罪>という概念を犯罪から切り離し、犯罪人、取税人、廃疾者、貧困者という現実の社会的な在り方の言葉に、暗喩の役割を負荷させた。これがマルコ的な世界の徴候であった。」(吉本[1978:85-87])

  「ひとつの宗教がじぶんの教義は犯罪者、取税人、廃疾者を対象として撰ぶと自分で宣言することは、本来はあり得ない。宗教が対象を撰りわける仕方は、いつも戒律によってである。きびしい戒律を課すれば対象は自然にせばめられ撰択されるだろう。これは教義が撰択するのではない。教義は理念であって信仰をほんとうは含んでいない。だがマルコ伝にあらわれた教義は、むしろ戒律を無視することによって対象を犯罪者、取税人、廃疾者、貧困者に限定している。これはマルコ伝の世界が非宗教の側面をもっていた徴候とみることができる。けれどもこのような徴候は対象を普遍化しようとして犯罪者、取税人、廃疾者、貧困者の意味を内面的に拡大することを強いられた。この矛盾がマルコ伝の感性的な異様さにつながっている。」(吉本[1978:87-88])

  「盗みや殺人は動機の内在性によってみられるようになった。それとともに嫉妬や傲慢や愚■などは不可視なもののようにあつかわれることになる。マルコ伝がはじめて宣告しているのは内部と外部の分離とトポロジー化なのだ。それ以後盗みや殺人のように外にあらわれて他者を障害する行為も、嫉妬や傲慢や愚■のように内心の欠如や障害に沈積するものも<罪>に該当することになる。人間はこのマルコ伝の倫理の法網に抵触しないことも、これをくぐって快活であることもできるはずがない。そのため<罪>は現実的な人間の不可避の属性にまで普遍化されることになった。」(吉本[1978:90-91])

  「[…]古代的な霊肉分離観のなかにマルコ的な疾病観はおおきな異議をもち込んだことは間違いなかった。<罪><疎まれるもの>という概念を内向させることによって、いわば悪い霊とか欠如とかいうものを肉体化したからである。後ろめたさ、悔恨、痛みというものの内面化はその都度肉体のその部位に感性に付着させることによって、肉体そのものの内在的な構造を自覚させるものであった。たぶんマルコ伝の世界では、ひとびとは肉体と霊とがもはや無造作に分離できるものではないという観念を獲得していっただろう。あるいはそのような心身のかかわりが認識されたところで、マルコ伝の世界は成立したのである。」(吉本[1978:100])

  「誰でもが現実の支配秩序を動かし難いものと認めた情況では、その批判や反抗は内面化するだろう。また繰り返される生活の平穏が厚い皮の下で破れそうにもないときには、生活を破りたい願望や衝動も破らざるを得ない契機も心の内部に巣くうほかなくなる。ユダヤ的律法によってはこの内在的な<罪>は違法行為を構成しえない。なぜなら心の動きは不可視であるから。心の動きを<罪>としうるような律法とはなにか。その眼に視えない条文には何と書かれてあるべきか。これこそがマルコ的世界が宗教から道徳を発生せしめた根源であった。かれらが眼に視えない心の動きを<罪>としえたのは、心の動きが現実の行為と同等またはそれ以上に重さを持つという価値転換を獲得していたからであった。以後法律が罰しなくても自己を罰することは誰にもできるようになった。」(吉本[1978:103])

  「もともと教義と思想の型でいえば旧約的な世界を先鋭な形で集約したマルコ伝の教義と思想は、共同体の支配のうえにもうひとつ、べつの支配を招きいわば二重の媒介的な関係をゆるすような、アジア的な制度でうみだされやすいものであった。こういう世界では、共同体の制度的な表現である法と道徳と宗教のうち、宗教と道徳の支配原理と法の支配原理とを分離するか、これを分離しないときにはいわば媒介的な、間接の屈折した支配をうけいれるかのいずれかである。マルコ伝の世界はこの媒介的な屈折した支配原理のもとで、教義と思想にこの原型を鋭く刻み込んだ。」(吉本[1978:131])

  「……あらゆる太古の共同体は人間の自然的な自由の公約数として造りあげられたはずだ。かれらは生存に必要なかぎりで、必要な範囲でだけ共同の管理に採取物をゆだね、その他については自然的な自由を享受したかもしれぬ。この自然的な共同体は、共同体の相互の間に第三の共同体をつくりあげる必要がおこったときに人々の桎梏になりはじめる。人々は自分たちが合意でつくった共同体が独立した意志のようにじぶんたちに桎梏をふりまくのを体験した。<罪>をおぼえさせられた。そして<罪>をおぼえたものたちは次第に共同体の意志や、その保護から離脱していった。どこまで落ちこぼれていけたのか。その様態はさまざまであったとしても、共同意志から落ちこぼれてきた者たちのあいだに、さらに利害や意志の対立がおこったときに、相互のあいだから第三の落ちこぼれが生みだされていった。そこまでは<罪>の深さはとどいたことは疑いない。共同体の意志を規範として意識しなければならなかった度合と質において<罪>の度合と質とは決定された。アジア的な共同体においては、第三の落ちこぼれの度合があまりに深くはげしかったので、共同体の意志は規範として底辺まで届かないほどであった。あるばあいには自然的な共同体のうえに第三の共同意志が聳えたって重層された。ここでは<罪>は全体的でありしかも<空>におかれる。マルコ伝の世界が強いるのは、共同体の意志の直かな規範力の前に永続的におびやかされたものの明晰な直かな<罪>の内面化の物語である。」(吉本[1978:147-148])

 「本稿を書きながらしばしばわたしはヘーゲルの『エンシクロペディ』とエンゲルスの『フォイエルバッハ論』とニーチェの『道徳の系譜』とを思い起こした。善悪の現状とその起源といったものにたいして、かれらが考察したように、わたしもまた善悪の現状とその起源を考察したかった。わたしの取り上げた対象はこの問題にたいして、宗教以外の形態で思想が不可能であった時代に、善悪の起源とその了解に関してそれぞれの洋において極限を提示したものである。」(あとがきより)


■書評・言及

◆久米 博 19790201 「書評『論註と喩』吉本隆明著」,『現代思想』07-02(1979-2):228-234

蓮實 重彦 198103 「吉本隆明『論註と喩』――矛盾について」,『国文学』1981-3→蓮實[198201:39-49]*
*蓮實 重彦 198201 『小説論=批評論』

◆「思想が情況に面してどのような関係の総和を強いられるか。親鸞とキリストという祖述者をこうして並置してみると、その相似性に気づくのである。『親鸞論註』『喩としてのマルコ伝』という二編はもちろん『最後の親鸞』と『マチウ書試論』という二著のそれぞれの延長上にあるが、とくに後者の対比は、二十年の歳月がもたらす関係の位相の変化を示している。『論註』はむしろ先著の総括ともいえるだろう。…キリストも親鸞も予約された言語に強いられる存在として、自己否定に駆り立てられる絶対者なのだ。ここで追求されているのは『関係の位相』であって、史実論は内部に揚棄されているという含みも、いくらかはうかがえる。
(松岡俊吉/毎日新聞 1978.11.6)

◆「主観的な意志が内面化したドグマへの忠誠を極限まで引っぱっていくとき、そこにどういう現象が起るかを、客観的な視角で究明しているのが、ほかでもない『喩としてのマルコ伝』であるからだ。悪人正機の自己増殖が憎悪論を生み出す以上、特殊的な病が『罪』という名で内面化され普遍性をもってしまうと、『罪』−『救済』という連関を包んだドグマは、客観性をもとうがもつまいが、信仰者の共同性の上に無限に自己増殖をつづけていくしかない。…主観的な意志によるドグマへの忠誠は、その実現過程で家族共同体に背くだけではない。忠誠の度合いに応じて背教者をつくり出していかなければドグマは完成しない。」
(磯田光一/1978)

◆「私は『喩としてのマルコ伝』を一篇の詩を読むようにして読んだ。この文体には軽みが出ている。スピード感があるのだ。何かこう老練なマラソン選手の走行を目送りするような、リズミックな雰囲気が読者に伝わってくる。」
(遠丸立/図書新聞 1978.11.4号)

◆立岩 真也 1997/09/05 『私的所有論』,勁草書房,465+66p.,6000+ [amazon][kinokuniya] ※

 第6章注1 p.249
 「多くの宗教は外的な行為の形を指示し、また、そのことによって自らの同一性を保持する。つまり、なすべき行為となすべきでない行為を指示し、その遵守を求めることで例えば来世での幸福を約束する。キリスト教が当初その一分派であったところのユダヤ教はそうだった。キリスト教はそういった空間から離脱する、とは言えないとしても、それを屈曲させ、別の空間を提示する。キリスト教は罪が構成される場所を個体の内部に移行させ、内部(の罪)の発見を促す(吉本隆明[1978]、橋爪大三郎[1982])。ここに罪の主体としての人間が現われ、このことによって人はこの宗教の下に捉えられる。問うことによって内部という領域が現れるが、それはそれ自体としては当人にも不可視であり、それだけに内部にあると名指されるものを否定し難い。そこで、この場所が問題になるや、そこに諸個体はひきこまれてしまう。共通の主題へと導かれていく。
 キリスト教はこのことによって普遍性を獲得した。第一に[…]」

◆立岩 真也 2005/05/25 「死/生の本・5――『性の歴史』」(医療と社会ブックガイド・49),『看護教育』46-05:

◆最首 悟・立岩 真也 20090612 「対論」 ,高草木編[2009:225-231]*
*高草木 光一 編 20090612 『連続講義「いのち」から現代世界を考える』,岩波書店,307p. ISBN-10: 400022171X ISBN-13: 978-4000221719 2400+ [amazon][kinokuniya] ※

◆立岩 真也 2008- 「身体の現代」,『みすず』2008-7(562)より連載 資料,

◆立岩 真也 2010 『(題名未定)』,みすず書房

◆立岩 真也 2013 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版

 「悪人正機」という思想は、それと違うことを言っているように思います。では何を言っているのか。親鷲の思想にはまったく不案内ですが、いくらか気にはなっています。吉本『論註と諭』という本(一九七八年、言叢社)は、マルコ伝についての論文が一つと親鸞についての論文が一つでできています。前者の下敷きになっているのはニーチェです。吉本とフーコーがそう違わない時期に独立に同じ方向の話をしている。そちらの論文に書いてあることは覚えていますが、親鸞の方はどうだったか。ずいぶん前に読んだはずですが、何が書いてあったのだろうと。二つが合わさったその本はどんな本だったのだろうなと。[…]」(最首・立岩[2009]における立岩の発言、cf.第6章注○・○頁)」


UP:20090615 REV:20120208
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