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ミシェル・フーコー ◆フーコーサイト(中山元さん) http://www.nakayama.org/polylogos/philosophers/foucault/ ◆Polylogos http://www.nakayama.org/polylogos/ (フーコー、レヴィナス、アーレント…) ◆「紹介:中山元 199606 『フーコー入門』 ちくま新書」 ■文献 *以下、立岩のデータベースにあったものだけ □著書 ◆ 『同性愛と生存の美学』 2163 ※/千葉社4822共通 ◆ 『臨床医学の誕生』 みすず書房 千葉社2007共通 ◆1961 Histoire de la folie a l'age classique Plon →1972 (増補版) =1975 田村俶訳,『狂気の歴史──古典主義時代における』新潮社 5800 ※/千葉社1068共通 ◆1966 Les mots et les choses: Une archeologie des sciences humaines Gallimard ※ =1974 渡辺一民・佐々木明訳,『言葉と物──人文科学の考古学』,新潮社 4000 ※ ◆1971 L'ordre du discours Gallimard ※ =1972 中村雄二郎訳, 『言語表現の秩序』,河出書房新社 ※ ◆1975 Surveiller et punir: Naissance de la prison Gallimard ※ =1977 田村俶訳,『監獄の誕生──監視と処罰』, 新潮社 4430 ※/千葉社4821 * ◆1976 La volonte de savoir (Histoire de la sexualite I) Gallimard ※COPY =1976 「性の考古学」 (抄訳) 1977 渡部守章訳, 『海』1977-3(95):266-286 ※COPY =1976 The History of Sexuality Vol.I: An Introduction 1977 Robert Hurley (tr.) Penguin ※COPY =1986 渡辺守章訳,『知への意志──性の歴史I』,新潮社 1600 ※/千葉社4450共通 * ◆1984 L'usage de plaisirs (volume 2 de Histoire de la sexualite) Gallimard ※ =19861030 田村淑訳,『性の歴史II 快楽の活用』 新潮社,337p. 2500 ※ ◆1984 Le souci de soi (volume 3 de Histoire de la sexualite), Gallimard ※ =19870425 田村淑訳,『性の歴史III 自己への配慮』,新潮社,328p. 2500 ※ ◆1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes=19981110 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成T 1954-1963 狂気/精神分析/精神医学』,筑摩書房,393p. 5200 ◆1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes=19990318 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成II 1964-1967 文学/言語/エピステモロジー』,筑摩書房,493p. 5800 ◆1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes=19990710 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成III 1968-1970 歴史学/系譜学/考古学』,筑摩書房,484p. 5800 ◆1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes=19991125 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成IV 1971-1973 規範/社会』,筑摩書房,499p. 5800 ◆1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes=20000325 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成X 1974-1975 権力/処罰』,筑摩書房,487p. 5900 ※ ◆1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes=20001125 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』,筑摩書房,375p. 5500 ◆1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes=20001125 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成VII 1978 知/身体』,筑摩書房,375p. 5500 ◆1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes=200109100 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成VIII 1979-81 政治/友愛』,筑摩書房,461p. 6500 ◆1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes=20011120 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成IX 1982-83 自己/統治性/快楽』,筑摩書房,482p. 5500 ◆1994 Dits et Ecrits 1954-1988, Edition etablie sous la direction de Daniel Defert et Francois Ewald, Ed. Gallimard, Bibliotheque des sciences humaines, 4 volumes=20020325 蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝 編『ミシェル・フーコー思考集成X 1984-88 倫理/道徳/啓蒙』,筑摩書房,389p. ※ ◆Foucault, Michel (Interviewer: J.J.Brocher) 1975b Entretien sur la prison: Le livre et sa methode Magazine litteraire 101(juin 1975) →1976 Le jeux du pouvoir D.Grisoni (ed.) Politiques de la philosophie ※COPY =1977 伊東晃訳,「権力の戯れ──監獄について」 『エピステーメー』3-10(1977-12):26-41 ※COPY ◆Foucault, Michel (Interviewer: Alessandro Fontana & Pasquale Paspuino) 1977a Intervita a Michel Foucault Microfisica del Potere,Turin ※COPY =1980 Truth and Power 1980 Foucault[1980a:109-133] ※COPY →1977 Verite et pouvoir(shortened and mutilated) , L'Arc 70 ※COPY =1978 今井成美訳,「権力とは何か」,『現代思想』6-11(1978-9):45-55 ※COPY 1977a→1977=1984 北山晴一訳,「真理と権力」,桑田他編[1984:72-98] ※COPY ◆Foucault, Michel (Untretien avec Jean-Pierre Barou et Michelle Perot) 1977b L'oeil dupouvoir published as a preface to Jeremy Bentham 1977 Le pa-noptique, Belfond ※COPY =1983 伊藤晃訳,「権力の眼──『パノプティック』について」,『エピステーメー』4-1(1978-1):156-173 ※COPY ◆Foucault, Michel (Untretien avec Lucette Finas) 1977c Les rapports de pouvoir passent a l'interieur des corps Quinzaine litteraire 247(15 jan-vier) :4-6 ※COPY =1984 山田登世子訳,「身体をつらぬく権力」,桑田他編[1984:164-177] ※COPY ◆Foucault, Michel (Untretien avec Bernard-Henri Levi) 1977d Non au sexe roi Nouvel observateur 644(12 mars 1977) ※COPY=1984 桑田禮彰・福井憲彦・山本哲士訳, 「セックスと権力」桑田他 (編) [1984:46-71] ※ ◆Foucault, Michel (Interviewrs: Editorial collective of Les revoltes logiques ) 1977e Pouvoir et strategies Les revoltes logiques 4 ※COPY=1984 大木憲訳,「権力と戦略」,桑田他 (編) [1984:99-119] ※ ◆Foucault, Michel & 渡辺守章 1978 『哲学の舞台』 朝日出版社,エピステーメー叢書,180p. 1500 ※ ◆Foucault, Michel(ed.) 1978 Moi, Pierre Riviere, ayant egorge ma mere, ma soeur, et mon frere──Un cas de parricide au XIXe siecle Gallimard=1975 岸田秀・久米博訳,『ピエール・リヴィエールの犯罪──狂気と理性』,河出書房新社,291p. 2000 ※ ◆Foucault, Michel(講演) 1978b 「現代の権力を問う」 『朝日ジャーナル』20-22(1978.6.20):28-35→「政治の分析哲学──西洋世界における哲学者と権力」,Foucault & 渡辺[1978:147-177](148-150は渡辺の解説) ※COPY ◆Foucault, Michel (ed. by Colin Gordon) 1980a Power & Knowledge Harvester ※ ◆Foucault, Michel (devat avec M.Perrot et.al.) 1980b Table ronde du 20 mai 1978,Perrot et.al L'impossible Prison Seuil=1984 尾崎浩・桑田禮彰訳,「歴史と権力」,桑田他 (編) [1984:142-163] ※COPY ◆1982a The Subject and Power, Dryfus & Rabinow[1982:208-226](Afterword)=1984 渥海和久訳, 「主体と権力」,『思想』712(1984-4):235-249 ※COPY ◆Foucault, Michel (Interviewer: Paul Rainbow) 1982b Space, Knowledge and Power Skyline March 1982 ※COPY=1984 八束はじめ訳,「空間・知そして権力」, 『現代思想』12-12(1984-10):84-97 ※COPY ◆Foucault, Michel (Interviewers: Hubert L.Dryfus & Paul Rabinow) 1984a Le sexe comme une moral Nouvel observateur 6/28-7/5.1984=1984 浜名優美訳, 「ひとつのモラルとしての性」『現代思想』12-12(1984-10):104-113 ※COPY ◆Foucault, Michel (Interviewer: Pierre Boncenne) 1984b Du pouvoir: Un entretien ineditavec Michel Foucault Express 13.juillet.1984(インタヴューは1978年に行われた)=1984a 田村淑訳, 『現代思想』12-12(1984-10):71-83 ※COPY ◆1984b 「権力について──『狂気の歴史』から『セクシュアリテの歴史』まで』 = 桑田禮彰訳, 桑田他 (編) [1984:13-43] ※COPY ◆Foucault, Michel・北山 晴一・山本 哲士 19930225 『フーコーの<全体的なもの>と<個的なもの>』 三交社,152p. 1800 千葉社4959共通 ◆桑田 禮彰・福井 憲彦・山本 哲士 編 1984 『ミシェル・フーコー』 新評論 ※ ◆CEDT (ed.) 198511 Michel Foucault: une histoire de la verite Paris: Syros =1986.6.30 桜井直文訳,ミシェル・フーコー真理の歴史』 ◆Guedez, Annie 1972 Foucault Editions Universitaires, 117p.=19751210 久重忠夫訳,『ミシェル・フーコー』 2520 ◆Deleuze, Gilles 1975 「著述家ではなく,新しい地図作成者──ミシェル・フーコー『監獄の誕生』論」 =1978 田村俶訳, 『エピステーメー』4-1(1978-1) :176-196 ◆Baudrillard, Jean 1977 Oublier Foucault Galilee=1978 西沢文昭訳 「フーコーを忘れること」,『エピステーメー』4-1(1978-1):130-134 =1984.4.20 塚原史訳,『誘惑論序説──フーコーを忘れよう』,国文社,146p. 1200 ◆Ranjchman, John 1985 Michel Foucault: The Freedom of Philosophy Columbia University Press. 1985 1986 Michel Foucault ou la Liberte de savoir P.U.F. 『ミシェル・フーコー──権力と自由』 19870123 田村□訳,岩波書店 1700 千葉社4451共通 ◆Deleuze, Gilles 1986 Foucault Editions de Minuit (Paris), 141p. 58F(¥2030) ◆Blanchot, Maurice 1986 Michel Foucault tel que je l'imagine Editions Fata Morgana=19861225 豊崎光一訳,『ミシェル・フーコー──想いに映るまま』,哲学書房 ◆Burchell, G.,Gordon,C. and Miller, P. 1991 The Foucault Effect:Studies in Govermentality,Harvester Wheatsheaf. ◆Martin, Luther H.; Gutman, Huck; Hutton, Patrick H. eds. 1988 Technologies of the Self: A seminar with Michel Foucault The University of Massachusetts Press=19990907 田村俶・雲和子訳 1988 『自己のテクノロジー──フーコー・セミナーの記録』 岩波書店,249p. 2800 松本135 ■引用 「文芸復興は、悲惨さからその神秘的な実定性*13 をうばってしまった。しかもそのことは、思考の二重の動き、つまり<貧乏>からその絶対的な意味を取り除き、<慈善>から、それが保持する<貧乏>の救済という価値を取りのぞく二重の動きによっておこなわれた。」(Foucault[1972=1975:75]) 「道徳が行政上の指示をとおして重圧を加えるような、強制収容の場所をこのように作り出したことは重要な現象である。道徳的な義務づけと市民法とが驚くべき綜合をおこなう、道徳本位の施設が、初めて創設されたのである。国家の秩序は、もはや心情の無秩序を許容しない。なるほど、道徳的な過ちがよしんば最も個人的な形式においても、都市の成文法であれ慣習法であれ、法律に対する侵犯という形をおびるのはヨーロッパ文化では最初のことではない。だが、古典主義時代のこの《大幽閉》の本質と新しい事態は、法律はもはや有罪宣言をしない、という点にある。つまり、ひたすら道徳的反省をおこなう居住区に閉じ込めて、そこでは、心を治めるはずの法律が、厳格な肉体的強制を通じて、妥協も認められず手加減も加えられず適用されるようになる。精神的次元の原理が身体的次元のそれへ移る一種の転換性、前者から後者へ、強制や権力の濫用によらずに完全に移る可能性がそこには規定される。道徳律のあますところない適用は、もはや完成(神の掟や意志などの完成)に属さない。それは社会的綜合の次元ではすぐに効力をあらわすことができる。道徳は、貿易や経済がそうであるのとおなじく行政的に管理されるのである。 こうして、絶対王制の立法制度のなかに──恐らくその専横の象徴となった立法制度そのもののなかに──ブルジョア的で、やがて共和派的となる大いなる観念、つまり、美徳もまた一つの国事であり、それをみなぎらせるためには立法措置を採りうるし、それを尊重させる確信をいだくためには権力をうちたてることができる、そういう観念が刻みこまれるのである。監禁施設の壁は、十七世紀にブルジョア意識が夢見はじめるあの倫理的居住区がもつ、いわば否定的なものを閉じ込める。それは、そこをただちに逃れ出ようとする人々にふり当てられている倫理的な居住区であり、上訴を許さぬ力によって──威嚇だけが勝ちほこるような、そして美徳が、それじたい価値を含んでいるので、その償いとして罰をうけずにすむような、善の絶対権によって法が支配している居住区である。ブルジョア中心の都市の闇のなかに、こうした異様な善の共和国が生まれたのであって、悪の領分に入っていると疑われるすべての者が、この強制的にこの善の共和国に収容された。それは、古典主義時代のブルジョアジーの大きい夢の、大きい配慮の裏面である、つまり、国家の掟と心情の掟がついに同一化した姿だった。」(Foucault [同:92-93]) 「新教徒諸国にとってと同じくカトリック教会にとって、監禁は、権力本位のモデルという形をとりつつ、社会の幸福についての神話を表わす。つまりそれは治安と宗教にかかわり、治安のめざす秩序は、宗教の原理にとって透けてみえるであろうし、宗教の側の要求は、制約をうけずに、宗教のさまざまの規則と他におよぼす拘束の内部で充足されるだろう。秩序は美徳と適合しうることを証明しようという一種の企てが、こうした制度には存在している。その意味で、《幽閉》は、都市の形而上学とともに宗教の政治学をもひめ隠している。そして、一方には神の国、他方にはエデンの園を追われた人間が自分の手で建設した諸都市──その他者を隔てる差異のなかで、監禁はいわば暴力的に綜合化をこころみる努力として位置づけられる。古典主義時代の監禁施設は、《治安》の、──完全な都市の建設という立場からすると、それじたいが宗教の俗世間的な等価物として把握されていたところの《治安》の、もっとも密度の高い象徴を形づくっている。『治安論』で、ドラマールは、治安を司どる事柄のなかの第一にして根本的なものは宗教であると考えているが、そのテキストには、監禁のもつあらゆる道徳的主題が表明されていないだろうか?「われわれが治安によって課されるいっさいの義務を完全にはたすほど賢明であれば、ただ一つの事柄だけをつけ加えれば済むだろう。その場合には、他の事柄に気をくばらなくとも、もはや風俗の堕落はおこるまい。節制によって疲労は追い払われ、勤勉と質素と先見の明によって、生活に必要なものはいつも手に入るだろう。慈善のおかげで悪弊は放逐されるので、公共の平安は確保されるだろう。謙虚と質朴さが、人間の学問のなかにある危険で無益なものをとり除くだろうし、正しい信仰心が学問と芸術のなかにみなぎるだろう。──結局、貧しい者は自発的に救済されるし、乞食は追放されるだろう。宗教だけが遵守されると、治安の他のすべての部分は完全になると言うのは、ほんとうだ。──かくして、あらゆる立法家が、<宗教>を基礎にして国家の幸福と永続をうちたてたのは、きわめて賢明な策だった」。」(Foucault[同:94-95]) 「……人々は、失業がもはや怠惰と混同できないような相貌をおびているのを見てきた。人々は農村のすみずみにまで、貧しさと無為との強制が拡がっているのを見てきた──かつてはそうした事態に、道徳生活のもっとも直接的でもっとも純粋な形態を正しく認めていたと思っていたのにもかかわらず、こうしたすべての事情によって明らかになったのは、恐らくは貧困は単に罪の次元にのみ属しているのではあるまいという点である。「乞食は貧困の所産であり、貧困じたいは、農耕や手工業生産とか商品の値上りや人口過剰のために起こった偶然の諸事件の結果である」。貧窮は経済的な事象になったのである。 しかしながら、貧窮は偶発的ではないし、──また永久に排除されるように定められているわけでもない。人間には無くすことのできない若干の貧困が存在している──社会がどのような形態をとっても、かりに無為の人々がすべて働くようになっても、時間のはてまで、そうした社会につきまとうはずの、貧窮の一種の宿命が存在している。すなわち「よく統治された国家においても、生まれおちたときに貧しい人々や偶然に貧しくなった人々だけは、貧乏人でいなければならない」。この種の根本的な貧困は、いわば他人に譲り渡しえないものであって、生まれつきにせよ偶然にせよ、それは、人々が受けとらぬわけにはいかぬ分け前のようなものである。長い間、人々は、貧乏人が存在していないような国家を想いうかべる能力をもたなかった。それほど、欠乏の状態は人間の運命と社会の構造のなかに刻みこまれているように思われたのだった。財産propriete、 労働travail、貧窮indigence は、十九世紀にいたるまで、哲学者たちの思考のなかでずっと結びあわされてきた用語である。 人々の努力では排除できない点によって必然的である、この貧乏の分け前は、それが富裕というものを存在可能にさせている点からしても、必然的である。欠乏状態にある人間の階級が労働してくれるが、しかもあまり消費はしないおかげで、一つの国民は富裕になり、その田畑や植民地や鉱山から利益をあげ、全世界で販売されるようになる商品を製造する。要するに、貧乏人をもたぬような国家は貧乏になるだろう。貧窮が、国家における不可欠の要素となるのである。貧窮にこそ、一社会のもっとも秘密な、だがもっとも現実的な生活が隠されている。貧乏人が諸国民の支柱と栄光とを形づくるのである。しかも貧乏人の貧困は、人々の力では排除されえないものであって、それを賞揚し、それを敬わなければならない。」(Foucault[1972=1975:429-430]なお最初の引用文はJ.P.Brissot de Warville の『刑法理論』、1781、次のものは『百科全書』の「施療院」の項目) 「重商主義中心の経済では、生産者でもなく消費者でもない<貧乏人>は、占めるべき位置をもたなかった。というのは、放浪者で失職者で無為である貧乏人は監禁施設にのみ所属していたのであって、監禁こそは、貧乏人が社会から追放され、いわば抽出される場合の処置だったのだから。工業が出現しはじめ、それによって働き手が必要になってくると、貧乏人は、国民という団体のなかにふたたび加えられるのである。」([同:430]) ■一望監視方式 (panopticon) ◆「密集せる多人数、多種多様な交換の場、互いに依存し共同するさまざまな個人、集団的な効果たる、こうした群集が解消されて、そのかわりに、区分された個々人の集まり〔という新しい施設〕の効果が生じるわけである。看守の観点に立てば、そうした群衆にかわって、計算調査が可能で取り締まりやすい多様性が現われ、閉じ込められる者の観点に立てば、隔離され見つめられる孤立性が現われるのだ。 その点から生じるのが〈一望監視装置〉(パノプティック)の主要な効果である。つまり、権力の自動的な作用を確保する可視性への永続的な自覚状態を、閉じ込められる者にうえつけること。(…)」(フーコー『監獄の誕生』p.203*) *Foucault, Michel 1975 Surveiller et punir: Naissance de la prison, Gallimard=1977 田村俶訳、『監獄の誕生──監視と処罰』, 新潮社 4430 ※ ◆立岩『私的所有論』 第6章注9(p.252)より 「内田隆三[1990:176-180]、等。その具体的な仕組みについてはよく知られているから紹介するまでもない──常に監視されうるが、監視者は監視される者には不可視な装置であり、監視される者は視線の可能性により自ら行為を規制してしまい、常時の監視が不要になる。図式として随分すっきりとしているためもあるだろう、多くの人によってそれ(だけ)が取り出され、私が私の行為の監視者、「主体」になる「機制」が語られた。だが少なくとも監獄等で採用された具体的な装置としての一望監視方式は、監視者が現実にいる可能性があるという前提の下にのみ成立する。この装置は、まず規律・訓練のための監視を最大限の効率で達成するものであり、特に知との結びつきが重要である。フーコーは、規律・訓練的な社会の形成に結びつく学問的な歴史過程に関し、「臨床医学・精神医学・児童心理学・心理的教育学・労働管理化などが、規律・訓練の構成要素として形成される」と述べ、ここで一望監視方式の発明の重要性を言う(Foucault[1975=1977:224])。」 ■規律・訓練 ■告白 「少なくとも中世以来、西洋社会は、告白というものを、それから真理の産出が期待されている重要な儀式の一つに組み入れていた。一二一五年のラテラーノ公会議による改悛の秘蹟の規則化、それに続く告解の技術の発展、刑事裁判の手続きにおける告発に重点を置く方式の後退、有罪性の試錬(誓言、[探湯のような]神明裁判、神の裁き)の消滅と訊問ならびに調査の方法の発展、犯罪の追及において行政府の占める役割の増大──しかもそれは私人間の調停という方策を犠牲にして実現された──、異端審問裁判所の設置、これらすべては、世俗的ならびに宗教的権力の次元において、告白に中心的な役割を与えることに寄与してきた。そもそも「告白(aveu)」という語ならびにこの語がさし示してきた法律的機能の変遷は、それ自体において特徴的である。他者によってある人間に与えられる、身分、本性、価値の保証としての「告白[告解]」から、ある人間による、自分自身の行為と思考の認知としての「自白[告解]」へと移ったのである。個人としての人間は長いこと、他の人間達に保証を求め、また他者との絆を顕示することで、(家族、忠義、庇護などの関係がそれだが)自己の存在を認識してきた。ところが、彼が自分自身について語ることができるか語ることを余儀なくされている事実の言説によって、彼を他人が認識することになった。真実の告白は、権力による個人の形成という社会的手続きの核心に登場していったのである。 ……告白は、西洋世界においては、真理を産み出すための技術のうち、最も高く評価されるものとなっていった。(9)それ以来、我々の社会は、異常なほど告白を好む社会になったのである。告白はその効力を遥か遠くまで広めることになった。裁判において、医学において、教育において、家族関係において、愛の関係において、もっとも日常的次元から最も厳かな儀式までである。……人は告白をする──というか、告白をするように強いられているのだ。告白が自発的でないか、あるいは何らかの内的要請によって強制されていない場合には、告白は奪い取られる。人は告白を魂のなかから狩り出し、肉体から奪い去る。中世以来、拷問は告白には影のようにつきまとい、告白が力を失いそうになると、それを支えてやる黒い双子なのである。(10)最も優しい愛情がそうであるように、権力の最も血腥いものも、告白を必要としている。西洋世界における人間は告白の獣となった。」(Foucault [1976=1977:273-274=1978:58-59]) 「権力についての全く転倒したイメージ(13)を抱かない限りは、我々の文明においてあれ程久しい以前から、自分が何者であるか、自分が何をしたか、自分が何を覚えているか、何を忘れたか、隠れているもの、考えも及ばないもの、考えなかったと考えるもの、それが何かを言わなければならぬという途方もない要請を執拗に繰り返すあれらのすべての声が、我々に自由を語っているなどとは考えられないはずだ。西洋世界が幾世代もの人間をそれに従事させた、産出するための厖大な仕事であり──その間に、他の作業が資本の蓄積を保証していたわけだが──そこに産み出されたのは、人間の《assujettissement》[服従=主体−化]に他ならなかった。人間を、語の二重の意味において《sujet》[臣下・服従した者と主体]として成立させるという意味で言っているのである。想像してみなければならぬのは、十三世紀初頭に、すべてのキリスト教徒に対して、少なくとも一年に一回は跪いて、自分の犯した過ちのことごとくを、どの一つも落とすことなく、一つ一つ告解しなければならぬという命令が、どれほど途方もない要求に思えたかということである。」(Foucault [1976=1977:275=1978:60]) ■自殺 「彼らは、自殺についてしていけない唯一の問いだというのに、「なぜ」という問いを問わずにはいられない。 「なぜだって? 単に、私が望んだからだ」。[…] 博愛主義者たちへの忠告がある。本当に自殺の件数が減ることをお望みならば、十分に反省された、平静な、不確実さから解放された意志をもって命を断つ者しか出ないようにしたまえ。自殺を損ない、惨めな出来事にしてしまう恐れのある不幸な人々に自殺を任せてはならないのだ。いずれにせよ、不幸な者の方が、幸福な者よりも遥かにたくさん存在するのだから。」(Foucault[1979=1987:186-188]) Foucault, Michel 1979 "Un Plasir si simple", Gai Pied 1979=1987 増田一夫訳、「かくも単純な悦び」、『同性愛と生存の美学』、哲学書房:184-190 <38>* *立岩[1998→2000:38]で引用 ・1998/07/01「空虚な〜堅い〜緩い・自己決定」、『現代思想』26-7(1998-7):57-75(特集:自己決定) →立岩『弱くある自由へ』 (青土社、2000) ■フーコーと社会福祉学 三島 亜紀子 1999 「社会福祉の学問と専門職」 大阪市立大学大学院修士論文 より 「……フーコーのどういった部分が社会福祉学に導入されたかを検討したい。引用された参考文献をみると、主に『監獄の誕生』(Foucault[1975=1977])と『知の考古学』(Foucault[1969=1981])、『性の歴史』(Foucault[1976=1986])に集中している。そのなかでも最もよく用いられたのは、やはりソーシャルワーカーが名指しされた『監獄の誕生』であった(Rojek[1986]、Parton[1991][1994]、Hendrick[1993]、Howe[1994]、Webb[1996]など)。同著の第4部「監獄」では、第3部「規律訓練」で考察した「パノプティコン」に代表される監獄の機能を社会との相関で描いているが、特にその周辺部分が適用されている。 冒頭に記載されたダミアンの公開処刑のような酷い身体刑から、諸権利の停止という「おだやかな」処罰行為へと移行する際に、科学的な知が挿入されていくが、社会福祉学もそうした知の一つであったと自覚される(Howe[1994:527])。「規律・訓練に反する者や危険有害な者の行為をむりやりに規格化する実務」を一つの「技術」として再び「<規律・訓練=(学問)>」(Foucault[1975=1977:296])となるというフーコーの論にアイデンティティーをみいだすのである。それゆえ、社会福祉学の範疇で浮遊するうたかたのソーシャルワーク理論も、「言説」(discourse)であるという認識にいたった(Parton[1991:3-5][1994:11、29]、Howe[1994:517-519]、Payne[1997:30-31])。 もう一つの主体化の装置として、セクシュアリテが『性の歴史』で分析されたが、これもしばしば引用されている。福祉対象者である「クライエント」とは、規格化の対象であると同時に、身体を通した「主体化」を経て操作されるものと把握された(Hendrick[1994:2]、Parton[1994:11]、White and Smith[1997:277])。第2章で考察したように、社会福祉学はとりわけフレックスナーの呪縛が強まってからは、長い間「精神医学の氾濫(psychiatric deluge)」(Woodroofe[1961=1977])の時代であったことを忘れてはならない。こうした過去を背負い、フーコーの精神分析の分析を自らへの訓戒として受け止める(あるいは反発する)のは、いわば自然の成り行きであった。」(三島亜紀子[1999:170]、終章第4節「社会福祉学という場にあるM.フーコー」) ■ ◆蓮實 重彦 1978 『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』 朝日出版社 1500 ◆杉山 光信 1980 「権力概念の転換──社会科学にとってのフーコー」 『中央公論』1980-7→1983 杉山[1983b:1-22] 杉山 光信 1983b 『思想とその装置2 現代フランス社会科学の革新』 新曜社 ◆関 曠野 19841210 「(書評:桑田他『ミシェル・フーコー』)」 『日本読書新聞』19841210→関[1985:241-243](「フーコーとは何物なのか『ミシェル・フーコー』」) 関 曠野 1985 『資本主義』 影書房 ◆金塚 貞文 19860520 「ポルノグラフィーと身体,そしてオナニスムの仕掛け──フーコー『性の歴史』とからめて」 栗原他編[86:236-253] ◆養老 孟司 19861016 「書評:M・フーコー『性の歴史T 知への意志』 『週刊文春』1986-10-16→養老[198909:140-144](「フーコーの「知への意志」」) 養老 孟司 19890925 『唯脳論』 青土社,269p. 1600 三鷹114 ◆山本 哲士 19871215 『ディスクールの政治学──フーコー,ブルデュー,イリイチを読む』 新曜社,429p. 2900 杉並361 ◆田村 俶 19890520 『フーコーの世界』 世界書院,240p. 杉並135-5 ◆野島 直子 19890820 「現代医学の「系譜学」──フーコーを読む」 中川編[89:234-243] ◆内田 隆三 19900320 『ミシェル・フーコー──主体の系譜学』 講談社現代新書,207+5p. 550 ※ * ◆栗栖 聡 19951231 「フーコー──権力ゲームの分析学」 藤原・飯島編[1995:355-374] 藤原 保信・飯島 昇蔵 19951231 西洋政治思想史・U』 新評論,488p. 4429 ※ ◆中山 元 199606 『フーコー入門』,ちくま新書」 * ◆酒井 隆史 19981001 「生に折り畳まれる死──フーコーの権力論を再考する」 『現代思想』26-12(1998-10):104-133 ◆堀 大幹 19981122 「身体論からみた主体の形成──精神分析を経由したフーコーの再解釈」 日本社会学会第71回大会報告 ◆山田 富秋 200006 『日常性批判─シュッツ・ガーフィンケル・フーコー』,せりか書房 ◆関 良徳 20010405 『フーコーの権力論と自由論──その政治哲学的構成』,勁草書房,243+20p. ISBN:4-326-35123-3 3300 ※ * ◆園田 浩之 20010515 「行為としてのフーコー──構築主義/言説分析/オートポイエーシス」,馬場靖雄編[2001:159-200] *馬場 靖雄 編 20010515 『反=理論のアクチュアリティー』, ナカニシヤ出版,244p. 2500 ※ ◆林田 幸広 20010913 「ポスト・フーコー的法権力の台頭──差延に感染する<否(ノン)>権力」 『九大法学』82:163-236 ◆重田 園江 20030915 『フーコーの穴――統計学と統治の現在』,木鐸社 3000 ※ ※は立岩研究室にあり ◆水島 和則(東北大学) 2002/09/22 「政治闘争の道具としての歴史的知:歴史記述と人種,階級,ネーション」,教育思想史学会第12回大会 於:目白大学 コロキウムT フーコーの講義録(1975・1976年)を読み解く――『異常者たち』と『「社会を防衛しなければならない」』をめぐって wwwsoc.nii.ac.jp/hets/taikai12/mizushima.doc ◆立岩 真也 198712 「FOUCAULTの場所へ ─『監視と処罰:監獄の誕生』を読む─ 」,『社会心理学評論』6, pp.91-108. (1987年12月) 70枚 ◆立岩 真也 2005/05/25 「死/生の本・5──『性の歴史』」(医療と社会ブックガイド・49),『看護教育』46-05:(医学書院)[了:20050331] UP:? REV:..20020904 20050523 ◇WHO |