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痛み・苦痛|pain, suffering



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last update: 20220828

■目次

関連項目
新着(更新情報)
生存学研究所関係者/による文献など
立岩による言及
文献
引用


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■関連項目


複合性局所疼痛症候群:Complex Regional Pain Syndrome (CRPS)
線維筋痛症



◆立岩 真也 2021/**/** 「難病」,天田城介・樫田美雄編『社会学――医療・看護・介護・リハビリテーションを学ぶ人たちへ』(仮題),ミネルヴァ書房

◆2014/12/03 「マッサージでも治らない 長引く痛み治療最前線」
 NHK総合『ためしてガッテン』
 含む:「線維筋痛症の見分け方について」
 http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20141203.html
 http://kenkomemo.blog49.fc2.com/blog-entry-296.html

◆慢性の痛みに関する検討会

○2009/12/10 慢性の痛みに関する検討会 第1回
 http://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/12/s1210-5.html

○2010/09 慢性の痛みに関する検討会「今後の慢性の痛み対策について(提言)」
 http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000000ro8f-att/2r9852000000roas.pdf

○2010/09/13 厚生労働省健康局疾病対策課「今後の慢性の痛み対策について」(本堂関係者資料)
 http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000000ro8f.html

◆ぐっどばいペイン
 http://fields.canpan.info/organization/detail/1525781017
 http://blogs.yahoo.co.jp/pina_12_3

◆痛みの研究会
 http://www.aichi-med-u.ac.jp/itamiken/frame.html


■新着(更新情報)

引用更新 2021/12/23


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■生存学関係所関連研究者/による文献


大野 真由子



◆大野 真由子 2013/03/22 「慢性疼痛と「障害」認定をめぐる課題――障害者総合支援法のこれからに向けて」「『障害学国際セミナー2012――日本と韓国における障害と病をめぐる議論』,生存学研究センター報告20
◆大野 真由子 2011/03/31 「「認められない」病いの社会的承認を目指して――韓国CRPS患友会の軌跡」,『Core Ethics』 Vol.7 pp11-22. [PDF]
◆大野 真由子 2011 「難病者の就労をめぐる現状と課題――CRPS 患者の語りからみえる『制度の谷間』とは」『障害学研究』障害学会, Vol. 7, pp. 219-248.
◆大野 真由子 2011 「難病者の「苦しみとの和解」の語りからみるストレングス・モデルの可能性――複合性局所疼痛性症候群患者の一事例を通して」『人間科学研究』立命館大学人間科学研究所, Vol. 23, pp. 11-24.
◆田島 明子 20111030 「「痛み」をモチーフにした現象学的記述、その批判――現象学の意義と限界」,身体論研究会


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■言及・立岩


◆立岩 真也 2018/11/30 『不如意の身体――病障害とある社会』,青土社,481p. ISBN-10: 4791771192 ISBN-13: 978-4791771196 [honto][amazon]
□□第5章 三つについて・ほんの幾つか
□1 異なることについて
□2 苦と死
□3 表わすこと
□4 慰めること

◆立岩 真也 2009/03/25 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 3360 [amazon][kinokuniya] ※ et. English

第3章 有限でもあるから控えることについて――その時代に起こったこと
 6 大勢の形成
  3 苦痛  「調査に出てくる「単なる(たんなる)延命」という言葉はまず不思議であると思うと述べた。たしかになおすことはないが、延命のためには無駄ではない行ないがある場合がある、それを行なうことは基本的によいことのはずだが、と述べた。
 […]
 一つには苦痛が気になっている。厚生労働省の質問には、すくなくともはじめの三回、「痛みを伴い、しかも」の部分があって、苦痛があることが前提とされていた。
 むろん多くの人たちは現に苦痛を感じているわけではない。想像してものを言っているのではある。しかし今自分がというのではないにしても、耐え難いものに思われる肉親の苦痛を見てきた人たちもいる。それを伝え聞いた人もいる。
 さて、苦痛があるということは感覚があり、意識があるということだ。とすると、同時になにかよいことがあるのではないか。あるいはさしてよいことはないとして、死に対する恐れやあるいは生に対する未練はあるのではないか。するとなぜそれをたんに延命がなされている状態だと言うのか。あるいはそれをたんに生きている状態と呼ぶことを、納得できないところを残しつつ、認めたとして、その状態がよくないとどうして言えるか。そしてむろん、苦しいなら、なんとかして苦しみを軽くすればよいではないか。まずそのように返すことにはなる。
 しかしそれで終わりということではない。たしかに多くの場合に苦痛を軽減することはできる。しかしそれがうまくいかないことはある。そして朦朧とした中で、苦痛しか感じていない――ようにすくなくとも見える――場合、苦しさが身体を覆っていて、そのために他のことは感じられなくなり、そしてもう死についての観念・意識といったものもなくなっているといった状況はありうる。
 そしてここで、必要な配慮を欠いたまま、またとにかくすることになっているからという理由で、苦痛を増すような処置がなされるなら、それではたまらないと思うのも当然である。だから人々が賛成するのももっともでもある。
 その気持ちを受けた上で、なおとどまることはできる。とにかく私たちは痛みのことを知らない。またそこに黙している人について、痛みを伴っていることは明らかに見えるが、全体としてどんなぐあいなのか、それもわからない。いったいそれを語る語りようがあるのかとも、語ってどうするのかとも思うけれど、やはり知らない。そして、わからないながらも、なんとか身体に負荷をかけないようなやり方、苦痛を増大させないようなやり方を探していくしかない。そしてそれは非現実的なことではなく、実際、それなりに使える方法は、使えるにもかかわらずそう使われていないから困ったものなのだが、ある。さらに、意識の水準全体を落とすといった乱暴な方法もないではない。死によって苦痛を消そうというのはやはり乱暴なように思われる◆40。
 もちろん、苦痛の緩和は、「受苦」といった契機を文字通りにとった上でよほど強く肯定し賞賛するのでもないかぎり、誰もが認める。緩和のための処置はしつつ(これを緩和医療という言葉に括る人もいれば、緩和医療・緩和ケアはもっと広いものを指す言葉だとする人もいる)、延命治療はしないというのである。例えば日本尊厳死協会も苦痛緩和の処置は求められるものとしている。ただ、苦痛緩和のためとしてなされる処置だけをすることが――もちろん苦痛の緩和処置として何を含め何を含めないかによるのだが――その人の苦痛を軽減させるのだろうかとも思う。
 以上対比させた二つの立場は、異なりながら、そう大きく基本的に異なるわけではない。そして痛みについて悲観的な立場をとるとしても、それは、新たな方針、新たな規則を作る必要性に導かれるものではない。賛成票を投じることが新しいきまりができることにつながるのではないか、そのことをやはり心配してしまう人は、そのことも言うことになる。
 基本的にその人にとってよいことがあることをすることが医療であるなら、それ以外のことを行なう義務はない。むしろそれは行なうべきでない。なおらないのになおるためのことをしたら、そしてそれは、しばしば苦痛を与えることであるから、やめた方がよい。また、ある状態を維持するための行ない、悪化を緩めるための行ないもまた苦痛を与えることはある。苦しいが可能性がなくはない処方と、苦しさは減るが長くは生きられなさそうな方向と、選択の対象であること自体が苦痛ではあるけれども、選ぶことも仕方のないことではあるかもしれない。そして後者を選ぶことはあるだろうと、清水哲郎の論を論じたときに述べた([2004e]、本書第6章)。そして、これらのために、新しいきまり、法律やガイドラインやを作らなければならないことはない。
 さらに、苦痛と事前の指示とはうまく結びつかない。苦痛は現在の苦痛であるしかない。そしてもちろん、苦しみがあること自体が、死の方に向かうことを指し示すものではない。ではどれだけの苦痛があればそれは耐え難いものとなるのか。それはその時に言うしかない。では事前に態度を表明するとは、耐え難いと自らが言った時にその言葉に従えということなのか。事前の指示が必要であると主張されるとして、その理由がよくわからない。
 だから、質問に○印をつけた人の中にある、辛い目にあうことがある、苦痛であることがある、しない方がよいことがあるという思いと、その後、そんな質問がなされながら進行して現実にある事態、つまり、ガイドラインであれ法律であれきまりを作るという方向、またあらかじめ文書を作ってもらってそれに従うことにするという方向とが合致するわけではない。
 そしてさらに、議論は苦痛という場から離れている、変化しているし、拡張しているのではないか。
 例えば次のような文章を読んで心配する人もいる。

「老衰等の死に向かう過程で生じる「摂食不能」がその一つである。摂食不能を放置したいわゆる老衰死の場合、それは脱水死であり通常苦しみは少なく死亡までの期間も短く治療による苦痛もない。ヨーロッパ諸国ではこのような場合に人工栄養を施さないで安らかに「死なす」ことが社会的合意として定着しているようである。しかしながら、日本ではこのような場合に補液などの医療処置を行わない例はきわめて少ない」(植村[2006 : 28])

 この「高齢者の終末期医療」という文章は、日本学術会議の雑誌『学術の動向』の「終末期医療――医療・倫理・法の現段階」の特集号に掲載されたものだが、著者の植村和正は、日本老年医学会の「立場表明」(日本老年医学会[2001])に関わった老年医学の専門家であり、その学会編の本の「終末期医療」の項(植村[2003])を担当し、その「立場表明」を解説する文章(植村[2004])や、いま引用した文章を書いている。その領域の第一人者ということになる。第一人者であるからきっと間違いはないのだろうと思うのだが、素人としては、摂食不能や脱水は苦しくないのだろうかと疑ってしまうところはある。延命処置をやめるというやり方は穏便なようであるが、そうとは限らないのではないか。むしろ苦痛と苦痛の持続をもたらすこともあるのではないか。そしてここでは、何もしないことが(通常)痛みをもたらさない、だから何もしないことがよいと(かの国々ではされている)という論の展開になっているのだが、さきの話は、そして古典的な安楽死論議に出てくる話は、痛みが耐え難いものであるからもう止めようということではなかったか。となると、よくわからなくなる。
 さらに、いま引用した「定着しているようである」の後には註があって、そこで引かれている文献は、これまで幾度か紹介してきた横内正利の文章(横内[1998a])である。横内はヨーロッパ諸国の動向を批判してきた人だ。ここに引かれている文章も同様の趣旨のものであり、そしてその横内はこの学会の「立場表明」を批判しているのでもある(横内[2001a][2001b])。そのことは知っているに違いないのだが、その趣旨は伝わっているのだろうかと心配にもなる。むしろんそれはただの心配であって、かの地ではしかじかであるという事実が横内の文章に書かれているから、そのことを示す限りにおいてその文献に言及したのだとは言えるだろう。ただそうではあっても、その「事実」について二つの評価がある時に、一つの側だけが言われそして読まれるとなると、それも心配になる。
 そこに苦痛だけがあるのでないことはその通りだし、これまでもそのことを述べてきた。ただ、ここに現われてくる話は、苦痛がない場合でもやめることはあってよい、あるいは、苦痛がない――という話をそのまま受け入れてよいのかとさきに述べた――からやめることをしてもよいという話だ。厚生労働省の調査においても、苦痛という条件がなくなっていく。こうなる。

「あなた自身(あなたの担当する患者)が治る見込みがなく死期が迫っている(六ケ月程度あるいはそれより短い期間を想定)と告げられた場合、 単なる延命だけのための医療についてどうお考えになりますか。」

「が痛みを伴い、しかも治る見込みがなく」の箇所が変わった。痛みという否定的な価値を有する語を付すなら、それは賛成の方に誘導することになってしまうという配慮に基づいているのかもしれない。あるいは(身体的な)痛みを伴わない場合を含むより広い状態について回答を求めるべきだと思ったのかもしれない。よく言われるように、身体的な苦痛の緩和が、どれほど実際になされているかはともかく、対応可能になってきているという認識は分け持たれている。二〇〇八年一月二二日の第一回の会議の議事録で保健医療技術調整官は次のように説明している。

「現状においては、痛みが辛い、痛みが非常に強いということを強調することは、緩和医療を推進している、相当発達しているという観点からすると、聞き方としては少し適切ではないのではないかと考えまして、提案の段階でこの部分は削除しました。」(末期医療に関する調査等検討会[2008])

 このことは、幾度か紹介してきたこのところの動向に批判的な人たちが指摘してきたことでもある。すなわち、終末期医療についての議論は、急速に進行していき身体に強い痛みをもたらす癌について多くなされるのだが、その割合は今も高いとして、やはり一部ではあり、そしてとくに年を重ねていった人となれば、癌の進行も遅いことがあり、苦痛のあり方もまた異なってくる。であるのに、痛みのことがもっぱら語られた。そして、さらに、身体の苦痛というところから調査や議論は離れていっている。しかし、人は依然として、たしかに実際に存在する苦痛のことを思っているのかもしれない。とすれば、話はずれたところで進んでいるのではないか。」

◆立岩 真也 1997/09/05 『私的所有論』,勁草書房,445+66p. ISBN-10: 4326601175 ISBN-13: 978-4326601172 6300 [amazon][kinokuniya] ※
◆立岩 真也 2013/05/20 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版,973p. ISBN-10: 4865000062 ISBN-13: 978-4865000061 1800+ [amazon][kinokuniya] ※
Tateiwa, Shinya(立岩 真也) 2016 On Private Property, English Version, Kyoto Books

 「人であることの要件としてあげられる恐怖苦痛が私達の生において重要なものであることは確かである。だから、恐怖を感じられる存在に恐怖を感ずるようなことをしてはならない、苦痛を感じられる存在に苦痛を与えてはならないと感ずることも理解できる。チンバンジーやイルカを殺すことを控えるべきだという主張もわからないではない。しかしこのことは、苦痛を感じない(ように思える)人、意識のない(ように思える)人を、他の人と同じように扱う必要はないということを意味しない。苦痛を感じたり意識があることは人があることの一部であって、一部である属性を尊重すべきことから、そうした属性のある(らしい)人間以外の存在も尊重すべだと言いうるということは、そうした属性を有さない人を人として扱わなくてもよいことを意味しない。私達はすでに人であることを知っている。そしてその後、この事実から「引き算」をしているのだ。その引き算は結局のところ、その存在からではなく行われる。このことを隠蔽するものを「抽象性」と呼ぶ。重篤な障害のある存在を人と認めないことの方が――具体的な利害を背景にしながら――抽象的である。【第2版補章1でこのことについていくらか付言する。】」

 It is indeed the case that the fear and suffering held up as necessary requirements of personhood are things that are very important in our lives. We can thus understand that it is important not to cause fear in a being that is capable of being afraid, and not to cause pain in a being capable of suffering. For the same reason, the assertion that we should avoid killing other creatures like chimpanzees and dolphins is not incomprehensible. This does not mean, however, that there is no need for us to treat those who (we believe) do not feel pain or those who (we believe) do not possess consciousness with the same consideration given to other people. The fact that it is possible to assert that feeling pain and being conscious are only part of what makes a being a person, and thus that we can respect these attributes as part of what constitutes a person while also respecting beings that do not (seem) to possess them, means that acknowledging their importance does not necessarily mean there is no need for us to treat those who lack them as people. We already know someone is a person. Then we begin to "subtract" from this fact. Ultimately this subtraction is carried out not from the being in question. We call what conceals this "abstractness." Not recognizing those with severe disabilities as people is a more abstract position (while nonetheless one that is taken based on concrete practical interests).

 第9章 正しい優生学とつきあう
  第4節 なぜ私達は行うのか
   2 2死/苦痛
  ※【】内で第2版で加わった部分

 「[2]死/苦痛
 けれども、これだけに尽きない。死がもたらされ苦痛がもたらされることがある。そしてその死や苦痛は、大抵の人にとってマイナスであることがある。(「近代」が死に対▽669 して否定的な価値を与えたというような主張もあることはある。当たっている部分があることを認める。しかしそれを全面的に受け入れることはできない。)病であるとは何か。簡単にしよう。病とは苦痛であり、死をもたらすものである。そしてその苦痛は、他者の価値を介することのない苦痛である。それは、まずはその人にだけ現れるものである。様式の違い、及び(自身に委ねられる場合の)不都合さとして現象する「障害」と、苦痛を与え死を到来させるものとしての「病」とは異なる。もちろん、両者が同時にその人に入りこんでいる場合はあるだろう。しかし、両者の違いは曖昧で、境界は定められず、両者を区別する意味はないとまで言うのだったらそれは違う。私達は区別することができるし、区別している。◇21

 病気を治すために技術が用いられることには同意する、それ以上のことはしたくない、するべきでないという感覚は存在する。いずれ死ぬにしても、さしあたっては死にたくない。また苦しみたくない。だから、医療、リハビリテーション、そして予防…が支持されることがある――ことがある、と言うのは、他の価値に比べた時、それが選ばれないことがあるからである。治療は、行動の自由を得るために、苦痛から逃れるために、死が訪れる時期を引き伸ばすために行われる。「遺伝子治療」についてはどう考えるのか。例えば私なら、それも、受け入れるだろう。それは本人が判断している。本人の意▽670 志が聞き取れない場合であっても、その本人はそこにおり、その周りにいる私達はきっとそうだろうと思う。この程度の推量は許されるだろうと私達は思っている。もう一方の極には、ただ周囲の者にとってだけ迷惑であるものがある。ただそれに尽きないということである。
 しかし、出生前、ここにはまだその本人はいない。だから、結局それは私の苦痛ではないか。なぜなら、まだ、私しかそこにはいないのだから。確かに、苦痛があるだろうと考えるのは私である。しかしそれでも、ある種の苦痛は、その者にとっても耐え難いものだろうとその私は思う。その人が現にその苦痛を生きている時には、その人はもう生きているのだし、その生はその人にとって価値のあるものだから、その苦痛を緩和しようとしながら生きさせようとする――また、ある場合には、苦痛より死を当人が選ぶことを認めるかもしれない。しかしここはまだ、苦痛を凌駕する生は現われていないと私が思う時、私は、その者を生きさせることをやめる。遺伝相談なりを受け、確実に、あるいは高い確率でその病が発生することがわかったとする。そこで子をもたないことにする。
 しかしこれは、第3節に述べたことに戻ってみた時、どういうことだろうか。αないこと、現われないこと――零――と苦痛――負――とが比較されていると私は思ってい▽671 る。しかし、苦痛とは、その者が在ってはじめて存在するはずのものではないか。苦痛は存在――正――とともにしか現われないものではないか。とすると、β実は存在と苦痛とを比較し、苦痛によって存在を、否定できないのに、否定していることに他ならないのではないか。
 これに対してどのように答えたらよい答と言えるのか、わからない。多分、それは未在の存在のことを私が考えるということの難しさに起因している。それでも少し考えてみよう。βは、その者が、既に、在ってしまっているという現実の上で、はじめて現実には成り立つことではないか。しかし、現実には、その者はまだいない。だから、βの比較はここにはない。では、私はα人という存在のない苦痛といったもの、場をもたない苦痛といったものを考えているのだろうか。そうではないだろう。私は苦痛をもつ存在を「想像」している。その存在が現実に既に在ってしまう時には、その存在を受け止めざるをえないだろう。しかしそれはまだない。まだないことにおいて、正であるだろう生の現実性は薄れ、想像される存在の苦痛が、決断させる。奇妙な計算である。ただ少なくとも、まず、既にあることによって奪うことをしない存在、正の価値はない(同時に現実の苦痛もないのだが)。だから、許容はされる。これも認めない立場は、どんな場合でも正の価値が生ずる可能性は奪ってならないこと、つまり生まれる可能性のある▽672 どんな場合にも生むべきことを主張することになる。このように主張しないなら、未来に(確実に)生ずるだろう価値があるからという理由で生まない決断が否定されるのではないということである。
 それにしても、なお、こうした行いが何か空虚であるとすれば、それは、長く、苦痛の少ない生の方がよい生であろうと思う私の感覚によって、何事かを決定した、変えたということである。それは私の都合というわけではない。しかしそれでも私がそのように思うのであり、私が決定している。多分、それは「よいこと」ではない。というのも、この決定があればなかった生が一つあることになって、そしてその生はあった瞬間から、それが短いものであったとしても、独自の生として現れ、しばらく持続し、やがて終わるのだから。苦痛を想像してそれを選ばなかったのは私であり、その私は、苦痛がある時には苦痛とともに生きる存在があるのだという精神の強度をもつことができなかっ▽673 たのだ。当の存在にあくまで即そうとする時、これは正当化されない行いである。
 ただ、まだその存在が不在である時、あらかじめの消去を否定する現実はない。これを先に述べた。そして第二に、知ってしまい、そして選択できる時、それは私の選択になる(選択として引き受けさせられてしまう)。私が代替できず、私がそれを負うことはできない状態を私が作り出してしまう。例えば、その子が生まれてすぐにあるいは数年後に世界が終わるとしよう。あるいは人を苦痛にまきこむ事態が生じるとしよう。それでも生まれてしまえば、その生は独自の価値を持ち、奪われてならないものになるだろう。しかし、それに巻き込んだのは私である。そして、そこに生ずる苦痛は、私が代わることのできない苦痛である。もちろんどんな人でもいずれは死ぬのであり、それが一般に苦として観念されるのだとすれば、私達は子を存在させるどんな場合にも苦を作り出しているのだと言える。しかしそうではあっても、まだ若い時に死んでいくことの苦痛は大きいだろうと私は思う。
 第三に、この時、苦痛を想像しているのも私であるが、苦痛があっても生きていく方がよいだろうと思っているのも私である。現実に生まれた時には、その現実そのものがその存在の生を肯定するだろうけれど、この時にはまだ、いずれにしても私が思っている。だから、どちらの方がより他者に即した思いであり、行いであるとも言いえず、他▽674 者が在ることを受け止めようとする価値からは、この行いの是非は判断されえないのである。

「◇21 「[…]
 死、苦痛と述べた時に念頭にあったのはハンチントン病(第7章注15・316●頁)。テイ=ザックス病(東欧系ユダヤ人に特に多いメンデル劣性の遺伝病、植物状態が続き二~四歳までしか生きられない)については米本昌平[1987b:35-37]、DNA問題研究会編[1994:30-31]等に言及がある。
 【その後、ハンチントン病の保因者であり研究者である人による書籍、Wexler[1995=2003]。日本での発症前遺伝子検査と医療福祉的サポートの現状報告として武藤[1998]。英国での検査結果の商業利用について武藤[2000]、他に武藤[2002]。すこし知ることで、いくらかこの病についての受け止め方が変わったように思う。】」


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■文献



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■引用

◆Case, Anne. Deaton, Angus., 2020, Deaths of Despair and the Future of Capitalism, Princeton University Press. ISBN-10: 069119078X ISBN-13: 978-0691190785 (=20210118,松本 裕 訳 『絶望死のアメリカ』みすず書房. ISBN-10: 4622089637 ISBN-13: 978-4622089636 \3800 [amazon]
 オピオイド処方の危険は、エピデミック初期に比べれば、医師たちによりよく理解されていて、処方率は2012年で頭打ちになった。だが2017年になってもまだアメリカ人100人につき58通のオピオイド処方箋が書かれていて、この割合は1999年の3倍、1通の処方箋の平均はオピオイド18日分だった。(270-271)


◆Holland, Mary., 2018, The HPV Vaccine On Trial: Seeking Justice For A Generation Betrayed,Skyhorse. ISBN-10: 1510710809 ISBN-13: 978-1510710801 =(2021 , 別府 宏圀 監訳 『子宮頸がんワクチン問題 : 社会・法・科学』, みすず書房. ISBN-10:4622089904 ISBN-13:978-4622089902 5500+ [amazon][kinokuniya]
彼女は、ワクチンが承認された直後にそのワクチン接種を受けたことを語る女性の話を聞いた。女性がワクチン接種を受けるたびに起きる反応のことを語ると、ケーシャの心臓は止まりそうになった。それは自分自身の物語ーー同じ時系列で、同じ症状を聞いているような気がした。その瞬間、ケーシャは足をすくわれるような驚きを感じた。結局、この何年間か、なぜ自分がこんな病気になったのか疑問に思っていたことを、いまここでまったく別の女性が同じ物語として語って いるのだ。
 彼女はそれを信じることができなかった。ワクチンが安全であることが「証明」されていたのなら、なぜこんなことが起きるのだろうか。 彼女が試験担当看護師に自分の症状について話すたびに、看護師はそれらの症状がワクチンとは無関係であると保証した。彼女は怒りと動揺を覚える一方、他方では、自分が体験してきたことを理解してくれる誰かが他にいること、そして助けてもらえるかもしれない可能性に安堵した。その夜、彼女はほとんど一睡もできなかった。翌日、インターネットで答えを探し始めた。彼女はデンマークのワクチン被害者支援グループと連絡をとり、サラと話をすることができ、結局は親しい友人になったのであった。二人は長い間話し合い、そしてサラは理解してくれた。彼女は以前にも同じ話を聞いたことが あった。一方、ケーシャにとっては、自分が正気であるとはじめて感じた時間であった。この一三年間というもの、痛みともに生き、医師たちからはことごとくそれを否定されるのを聞き続けてきたのだから。 (27)


◆牛田 享宏 他 2018 「心因性疼痛を考える ーー用語としての認知性疼痛の提案」, 『PAIN RESEARCH』33-3:183-192. [外部サイト]
痛みは日常診療で頻繁に遭遇する症状のひとつであり,2010年の日本の疫学調査では,18歳以上の男女における慢性疼痛の有病率は15.4%と報告されている。慢性疼痛の定義が報告によって異なるため数字に若干の違いはあるが,欧州では19%,米国でも30.7%と,いずれも高い有病率が報告されており,最近のメタアナリシスでは,成人の約10人に1人が広範な慢性疼痛を有することが報告されている。 (184)
 痛みは様々な要因によって惹き起こされるが,生理解剖学的な原因論の視点では,「侵害受容性疼痛」と「神経障害性疼痛」の2つが身体器質的な原因を持つ痛みとして挙げられる。しかし,そのどちらでもない第3のグループともいうべき痛みが存在するのは確かであり,日本ではそのような痛みを総称して「心因性疼痛」と呼ぶことが多い。心因性疼痛は身体器質的な原因を定義した他の2つの痛みとは異なる病態であるが,その明確な定義のコンセンサスは国際的にも確立されているとは言えず,医療従事者間でもその認識は統一されていない。そのため,検査では身体器質的な異常が認められず原因のよく分からない痛みが,全て心因性疼痛という名称で片付けられてしまっている傾向にある (184)
 また,心因性疼痛という用語自体が実態を正しく表現しているかどうか,今一度振り返って検討する必要があると思われる。なぜならば「心因性」という用語が,心の病というネガティブな印象を患者に与え,患者と医療従事者との信頼関係を損なう一因となり,治療成績の悪化に繋がる可能性があるからである。実際,そのような懸念から,患者への説明の際に心因性という用語を用いないとする医療従事者もいる。従って,心因性疼痛の定義と用語を整理するにあたっては,治療の妨げになるものや実臨床で使いづらい用語では意味がなく,ネガティブな響きを持たない代替語の可能性を探ることが必要である。 (185)
 また,心因性疼痛という用語自体が実態を正しく表現しているかどうか,今一度振り返って検討する必要があると思われる。なぜならば「心因性」という用語が,心の病というネガティブな印象を患者に与え,患者と医療従事者との信頼関係を損なう一因となり,治療成績の悪化に繋がる可能性があるからである。実際,そのような懸念から,患者への説明の際に心因性という用語を用いないとする医療従事者もいる。従って,心因性疼痛の定義と用語を整理するにあたっては,治療の妨げになるものや実臨床で使いづらい用語では意味がなく,ネガティブな響きを持たない代替語の可能性を探ることが必要である。 (185)
痛みを3つのグループに大別すること自体は国際的にも異論のないところであるが,その定義については様々な議論が為されており,その名称についてもコンセンサスを得るには至っていない。このグループに属すると考えられる痛みは,sensory hypersensitivity,dysfunctional pain,psychogenic painなど,様々な用語で説明されることがあるが,日本では「心因性疼痛」と呼ばれることが多い。
 このグループに属する痛みについては,現在の医学知識ではまだ分かっていないことも多く,その原因や病態は多岐にわたると考えられるが,例えば,アルコール性脳症や全身性エリテマトーデスによる中枢性ループスに観察される精神症状,または統合失調症やうつ病などの精神疾患が原因で生じる痛みがこのグループに含まれる。また,現在の医学では未だ原因が明らかにされていない線維筋痛症もこのグループに含むとされることが多い。 (186)
ところが,心理社会的なストレスによって脳機能に何らかの異常が生じると,この下行性疼痛抑制系が適切に機能せず,痛みが増強されると考えられる。 (186-187)
第3の疼痛に含まれる痛みの病態に関しては,現在の医学では残念ながら検査等では身体器質的変化を客観的に捉えられていない部分も多く,病理的に細かく分類することが難しいのが現状である (189)
[……] 医学的には,身体認知失調性疼痛あるいは精神機能失調性疼痛の方が,概念の表現としては適当であるように思われる。しかし,患者の視点で考えてみると,「身体」という語からは身体器質的な問題が想起されると思われるし,「精神機能失調」という言葉を投げかけられた患者は,やはり「頭がおかしい」と言われているように感じてしまうはずである。 (189)
[……] DSM–5では,苦痛を伴う,または日常生活に意味のある混乱を引き起こす身体症状を認め,それに伴う健康への懸念に関連した過度な思考,感情,または行動が見られ,痛みが身体症状の主症状の場合,「痛みが主症状の身体症状症」と説明されている3)。従来のDSM–IVで「疼痛性障害」とされていたものである。 (189)
第3の疼痛に属する痛みは,つまりは脳のオーバーアクティビティ(過剰な神経興奮)やハイパーセンシティビティ(痛みに対する過剰な感受性の亢進)の結果として痛みを知覚しているという病態であり,「脳内で痛みが生じ,その痛みを過剰かつ過敏に認知するようになってしまった認知性疼痛」と考えれば,理解しやすい。 (190)
認知性疼痛とは,脳に何らかの機能的あるいは器質的な変化(異常)が生じ,下行性疼痛抑制系が破綻したりするなど,脳や神経系のネットワーク異常が生じることにより発現していると考えられる痛みを指す。これは,神経生理解剖学的な観点から区別するとすれば,神経機能的な要因によるものと,神経系の器質的な要因によるものとに分けられる。ただし,神経系の器質的な変化があれば,機能的な変化も当然伴うであろうし,可逆的な機能的異常が継続することにより脳の器質的な変化が起こることも考えられる。両者の区別は難しいが,重要なのは,認知性疼痛が生じているということは,何らかの変化(異常)が脳に生じている可能性があるということである。現在の医学では依然として,検査では神経系の器質的な異常が発見できないことがあるが,そのような場合でも,痛みを持つ患者に対し,原因が無く痛みを感じている訳ではなく,脳に何らかの変化が起きている可能性があるということを伝えるだけでも,「自分の頭や心がおかしい訳ではない」と救われる患者は多いはずである。 (190)
海外では,侵害受容性疼痛でも神経障害性疼痛でもない第3のグループに属する痛みをsensory hypersensitivityと説明することがあるが,認知性疼痛にはこの概念も含まれる。また,末梢神経障害性疼痛が契機となっていたとしても,長期間に渡る痛みの経験により下行性疼痛抑制系に変化が起こって全身の痛みを訴えるようになったものなどを,centralized painあるいはsomatosensory hypersensitivity syndromeと呼ぶことがあるが,これらも認知性疼痛に含まれる。 (190)
[……] 第3の疼痛とする認知性疼痛の中でも,痛みの要因や発生のメカニズム等による更なる細分化は可能であり,その精度は今後の医学の進歩により更に高まるものと思われる。残念ながら現在の医学では困難な部分も多いが,少なくとも治療にあたる医療従事者は,認知性疼痛の要因には神経機能的なものと神経系の器質的なものがあること,精神疾患が原因で痛みが生じている本来の心因性疼痛があることなど,下位分類についても理解しておく必要がある。 (190-191)


◆伊達 久 2013 「知覚・痛覚定量分析装置(特集〈疼痛治療・検査に関連する医療機器〉)」, 『医療機器学』83-5:456-462. [外部サイト]
Pain Visionを用いて測定することにより,詐病を見つけることができる可能性がある.通常の測定では最小感知電流値のばらつきは5%以内であり,痛み対応電流値の測定のばらつきも同様に5%以内である.これらを大きく外れた場合は,測定方法を十分に理解していないか,詐病などの可能性が考えられる.認知症などを疑われるときや検者の説明を十分に聞かないで判断してしまうようなケース以外は,痛みを偽っているかどうかなども考慮しないといけない.その場合は十分に問診・診察をおこなってみると意外な事実が判明するかもしれない. (460)


Kleinman, Arthur 1988 The Illness Narratives : Suffering, Healing, and the Human Condition,Basic Books =19960425 江口 重幸・五木田 紳・上野 豪 訳 『病いの語り――慢性の病いをめぐる臨床人類学』,誠信書房,379p. ISBN-10: 4414429102 ISBN-13: 978-4414429107 4410 〔amazon〕 ※ b ma
慢性の痛みには、世界中の人間の病いの経験でもっともありふれたひとつの過程が含まれている。私はその過程をあまり優雅とはいえないが事態を明らかにする、身体化、、、 (somatization) という名前で呼ぼうと思う。身体化とは、個人的問題や対人関係の問題を、苦悩の身体的慣用表現や、医療による援助を強く求める行動様式によって伝えるコミュニケーションである。身体化は、社会・生理学的な経験の連続したものである。一方の極には、身体の病理学的過程が認められなくても身体的不調を訴える事例があり、これには、意識的な行為(詐病、これはあまり見られないが簡単に見抜ける)と、無意識的に人生の問題を表現しているもの(いわゆる転換症状、これはより普通に見られる)とがある。もう一方の極には、身体医学的ないしは精神医学的な疾患による生理的機能の障害を経験し、説明可能なレベルを越えて症状やその症状が創り出す機能障害を増幅させながら、たいていの場合、その悪化に患者自身気づいていないという事例がある。 断然多数を占めている後者のカテゴリーの患者では、三つのタイプの力が影響して、彼らの病いの経験を増強し、ヘルスケア・サービスを過剰に利用するように促している。一つは、苦悩の表現を助長する社会的環境(特に家庭環境や職場環境)であり、二番目は、身体的訴えという言語を使って個人的問題や対人関係上の問題を表現する不幸の文化的慣用表現であり、そして三番目は、個人の心理的特徴(たいていは、不安障害、抑うつ障害、あるいは人格障害)である。 (72-73)


◆Kleinman, Arthur., 2008, What Really Matters: Living a Moral Life amidst Uncertainty and Danger,Oxford University Press. ISBN-10: 019533132X ISBN-13: 978-0195331325 =(2011,皆藤 章 監修・訳 高橋 洋 訳 『八つの人生の物語――不確かで危険に満ちた時代を道徳的に生きるということ』 誠信書房. ISBN-10: 4414428637 ISBN-13: 978-4414428636 \3080 [amazon]
しかしながら、より広範な社会的解釈を適用すると、ウィンスロップ・コーエンの場合もそうですが、痛み、抑うつ、疲労、あるいはその他の慢性的な症状がもたらす身体の体験は別の形態の批判や抗議ではないか、そしてジェイミソン牧師の場合で言えば、自身の体験世界を新たな道徳状況へと作り変えて社会に影響を与えようとする行動ではないか、そう疑問に思わざるを得ません。
 ここでわたしが言いたいのは、いかなる生物的・心理的な理由があろうと、ひとたびそのような症状が慢性化すれば、それは社会からの疎外感や夫婦関係に関する批判、上司や同僚に対する批判、あるいはより一般的な経済や政治の現状に対する抗議といったことをも表現し得る、ということです。慢性の痛みは、アメリカの障害制度の主要な申請項目です。障害給付金受給者の多くが、労働者階級に属する人びとや貧しい人びとであることから、この制度は、階級間で資源を再分配する他の手段に乏しく、社会的・経済的格差が拡大しつつある社会のなかで機能している間接的な富の再分配手段と見なされる場合があります。この点で、慢性の痛みは弱者の武器、つまり経済的・社会的な状況を改善する手段として見ることができるのです。 (157-158)


◆丹涅爾(Tanner, Thomas Hawkes.)著 1887 『詐病診断方』,長尾景弼. DOI:10.11501/834330
※原著詳細不明
其三十七疼痛「ペイン」
[詐僞(偽)法]神經(神経)痛、僂麻質(リウマチ)痛及他ノ疼痛ヲ詐稱(詐称)スル者(者)鮮少(せんしょう=非常に少ないこと。※『大デジタル辞林』)ナラス而シテ其ノ●(※判別できず。以下判別できない文字は●)察ハ甚タ困難ナルモノナリ●ニ出奇(人物・風景・性質・程度などが)特別である、格別である、珍しい。※白水社『中国語辞典』)ノ一例アリ曾テ(かつて)一●(丐?)婦切ニ乳房ノ疼痛ヲ訴エテ以テ之カ切斷(断)ヲ乞ヒ其施術ヲ受ケシ後更ニ他ノ乳房ヲ截斷(截断=切断)センヿ(こと)ヲ請フテ止マス因テ(よって)又之ヲ切去セシニ婦又其一手ヲ截除( 切除。※日中韓辭典研究所『日中中日専門用語辞典』)センヿヲ請求セリ是ニ於テ始メテソノ詐僞ナルヲ了知セリト云フ又「ゼ、ゴールド、ヘデット、ケーン」ト題セル一書中ニ齒(歯)痛ヲ假裝(仮装)セシ抱腹ノ一奇談ヲ載スルアリ曰ク一日(ある日)彿國(仏国)ノ皇子其近臣ト對(対)話シ談偶マ(たまたま)俄羅欺(オロシア)ノ事ニ及ヒシトキ(※原文は合字)皇太子曰ク彼ノ國ニ一人ノ侫人(ねいじん=口先巧みにへつらう、心のよこしまな人。※『大デジタル辞林』)アリ我將バイロンノ凌辱ヲ受ルニ及ヒ彼●(罵?)テ曰ク咄爾(おれ=二人称の人代名詞。相手を卑しめていう。貴様。おのれ。※『大デジタル辞林』)ハ吾二齒ヲ損失セシ原因ナリト傍人其義如何ト問フ彼答テ曰ク曾テバイロンノ愛顧セル牙醫(歯科医。※日中韓辭典研究所『日中中日専門用語辞典』)ノ我國ニ來(来)リシトキ(※原文ハ合字)吾バイロンニ諂媚(てんび=こびへつらうこと。※『大デジタル辞林』)センカ爲メ(ため)故ラニ(ことさらに)齒痛ヲ稱シ之ヲ拔除(抜除)スルニ託シテソノ牙醫ヲ招待セリト
[診斷法]此患者ニ於テハ剴切(がいせつ=非常によく当てはまること。また、そのさま。※『大デジタル辞林』)ニ其演述ヲ聽(聴)キ細愼(慎)ニ其訴フル患部ヲ撿シ(けんする=とりしらべる。あらためる。※小学館『漢字辞典』)且陽ニ(ように=うわべでは。※『大デジタル辞林』)信憑シテ着實(実)ニ診察スヘシ如此ナルトキ(※原文ハ合字)ハ其言フ所縱令(たとい)不條理(不条理)ナルモ彼必ス或症候ノ現存スルヲ告クヘシ但眞實(真実)判然タラサル者ハ眞ノ疼痛トシテ之カ處(処)置を施スヘシ若シ疼痛劇甚(激甚)ニシテ且延滯(延滞)スル者ニ在テハ或重病ヲ搜索(捜索)シ得ヘシ凡テ(全て)劇甚ノ疼痛ヲ帶(帯)フル患者ハ健食熟睡スル能ハスシテ肌肉多少脫耗(脱耗。※中国語)セサルハナシ (四十一〜四十三) ※カッコ内補足は中井
cf. Thomas Hawkes Tanner(外部リンク=Wikipedia)

◆渡辺 房吉 1936 『詐病と其診査』,日本医事衛生通信社. DOI:10.11501/1047157

二四〜二五

第五 詐病に惡(悪)用せらるゝ(るる)病名及び症狀
 病氣(気)の中には詐病に利用され易いものと、利用され難いものとがある。昔は醫學(医学)的智識が淺く(浅)、醫家と稱(称)せられた者(者)でも其診斷(断)が明確で無く、殊に科學的鑑定などと云ふことが絕(絶)無であつたから、詐病に用ひらるる病名及び症狀なども好い加減のものであつた。故に昔の記載を見ても癪(しゃく=胸や腹が急に痙攣 (けいれん) を起こして痛むこと。さしこみ ※デジタル大辞泉)だとか、 疝氣(せんき=漢方で、下腹部や睾丸 (こうがん) がはれて痛む病気の総称 ※デジタル大辞泉)だとか、風だとか、所勞(労)だとか、不快だとか云つたものが多い。或は單(単)に作病を構へたとか、虛(虚)病を使つたとか、云ふ樣(様)に槪(概)念的に書いて病名の無いものも多い。此間に於て割合に多いのは佯(よう=いつわる)病である。 作り阿呆、似せ氣違ひ、うつけ病、佯盲、僞(偽)唖、僞聾、作りどもり、僞せ馬鹿等々の名が往々にして散見される。
 近來(来)は醫學の進步が著しく、病氣の數(数)も昔よりは多くなった。從つて(したがって)、詐病者に利用される病氣も廣(広)汎多數になつて來たが、其診斷鑑定が又明確になつて來たから之が發(発)見も中々多い。然しながら詐病者も科學的に硏究して詐病する樣になつて來たから、迂闊にして居ると容易に欺かれるものである。近代の作病者が好んで詐病に惡用する病名は、何れ本書の各論に於て簡單に略記するから、玆(ここ)には症狀の詐病に就て一言して置かう。

症狀の詐病
 疾病の症狀としては單に自覺(覚)的のものと、他覺的變(変)化を伴ふものとがある。其の何れもが詐病せらるゝものであるが、殊に他覺的變化を伴はない自覺症狀は好んで詐病者から慣用される。醫家としては之が診斷は困難である。此の困難が詐病者の乘(乗)ずる所の附け目である。それだけ詐病するには好都(都)合であるわけである。

(一) 自覺的症狀の詐病
 損傷治癒後に於ける該部の頭痛、異常感・牽引感・重壓(圧)感等々は往々訴へらるゝ所であり、頭部損傷後に於ける頭痛・眩暈・不眠・壓迫感・記憶力減退等々も詐病者の云い募る症狀である。挫傷又は打撲後の不定痛・關節(関節)痛・瘢痕痛・神經(神経)痛又は僂麻質(リウマチ)性疼痛等も亦屢々(しばしば)訴へられる。最初は誇大的に大袈裟に訴へるが、云い分が通つて相當(当)の補償又は手當金が獲得さるれば直に治癒するを常とする。若し此の不純な目的が貫徹されない間は、何時までも其症狀の苦痛は永續(続)する。此の點(点)はよく慾望性神經痛と稱せられてゐる外傷性神經症に類似してゐる。又實(実)際外傷性神經症に於けるが如く、最初は不純な動機から誇大的に云つたのが、遂には固定觀念となり、實際病症の存續するやうに想像し、或は然う(そう)であると自信するやうなことがある。然うなると意志の力も弱り、判斷の力も鈍り、而も(しかも)甚だしく過敏性となり、輕(軽)易の業務にも從事不可能と思ひ込むやうになる。 (二四〜二五) ※カッコ内補足は中井
cf. 器質性精神障害(外部リンク=脳科学辞典)=◆上田 敬太・村井 俊哉 20130524 「器質性精神障害」,『脳科学辞典』. DOI:10.14931/bsd.3716
現在の分類の問題点は、認知症性疾患などを除いて、器質性精神障害は、内因性精神障害の分類に基づいて分類されていることにあるといえるだろう。つまり、明らかに脳に障害を生じている一群の疾患が、原因不明の精神障害に基づいて分類されているということである。このことは、一つには精神医学という医学の分野から、原因がはっきりするたびにそういった疾患が取り除かれてきた過程を思い出させて、興味深い。

一二二〜一二四

(ほ) 自覺症狀(自覚症状)の確認
 自覺症狀の診斷(断)の際には、患者(者)の訴へが大きければ大きいだけ、虛僞(虚偽)若くは詐病の潛(潜)在することが多いものである。故に醫(医)家としては、『どんな仕事も出來(来)ないか』、『仕事によっては出來るか』を確めるの必要な事がある。尙ほ(なお)患者が自發(発)痛若くは壓(圧)痛を訴へるならば『此の如き微細な外傷で果して斯程(かほど)まで痛いものか』、『他覺的變化(変化)が聊(いささ)かも無くしてどうしてこれ程痛がるのか』等の點(点)を精(精)査しなければならぬ。
 自發痛の診斷、、、、、、 患者が自發痛のみを訴へ、他覺症狀の全く缺(欠)如して居る際には、能く受傷當(当)時の外力の働き具合、其の際に於ける患者の位置等を確かめ、更に脫(脱)衣させたり、着衣させたり、立たせたり、座らせたり、かゞませたり、握らせたり、種々の動作をさせて見て、其の疼痛の模樣(様)を銳敏(鋭敏)に監視(視)し、觀(観)察する。次に二ー三日臥床を命じ、次で步行させたり、或は輕(軽)易の仕事をさせたりする。其間監視の眼を放つてゐると、患者が油斷して詐病を暴露することがある。或は麻醉劑(麻酔剤)を注射したり、蒸留水を注射したり、兩(両)者を交互に注射したりして共反應(応)に注意すると、患者は容易に化けの皮を現はすこともある。
 壓痛の診斷、、、、、 他覺的變化が極徵であるか、或は絕(絶)無であるに關(関)せず、壓痛を訴ふる患者があつたら時を違へ、場所を違へ、又其强(強)さを違へて屢々(しばしば)壓迫を試みる。或は患者の注意力を他方に傾けさせつゝ之を檢(検)査して見る。若し壓痛部に觸(触)れぬうちに之を撥ねのけやうとしたり、單(単)に皮膚に觸れたのみであるのに、痛さうな樣子をするのは詐病である。一體(体)に輕微な外傷後に、診察せんとする醤師の手を撥ねのけやうとするのは、多くの詐病者の慣用手段だと云はれてゐる。醫師の最初の診斷を困難にさせ、其思想を多少混亂(乱)させて、醫師をして『重い外傷だ』と思ひ込ませるためである。 不馴れの醫師は之により欺かれるが、經驗(経験)ある醫師は容易に其の手に乘(乗)らないものである。私が後に記述󠄁(※原文は旧字)するヨセフ・プツチヤーと云ふ保險魔は、此のトリックを用いて曾て(かつて)一度も受傷部に醫師の手を觸れさせずに、脊柱骨折の診斷の下に入院治療を長く續(続)けてゐたのであった。 (一二二〜一二四) ※カッコ内補足は中井
cf. アロディニア(外部リンク=脳科学辞典)=◆津田 誠・井上 和秀 20210623 「アロディニア」,『脳科学辞典』. DOI:10.14931/bsd.3875
通常では痛みを引き起こさないような非侵害刺激(接触や軽度の圧迫、非侵害的な温冷刺激など)で痛みを生じてしまう感覚異常のこと。


◆柳澤 桂子 19930720 『いのちと医療―「認められぬ病」を超えて』,山手書房新社,177p.ISBN:4841301011 ISBN-13:978-4841301014 [amazon] b d/l03 d/p
……痛みについてはまだほとんどわかっていないにもかかわらず、病気を認定する人としての医師が登場してからは、このようなもっとも根元的な感覚までも、医師の許しがなければ感じてはならないものになってしまった。痛みを感じるためには、医師の許可が必要なのである。
 許されない痛みでは、私自身長い間、苦労してきたが、そのような闘病生活の中でおもしろい経験をした。開腹手術をすると、当然、からだの中に空気が入る。切開した部分を縫合すると、普通の人では、からだの中の空気は皮膚を通してひと晩で外へ出てしまうから問題ないが、一〇〇人にひとりくらいの割で、空気の出の悪い人がいるという。
 たまたま私はその一〇〇人にひとりの例外にあたる。開腹手術をすると、一週間くらい空気 が体内にとどまってからだの中を駆けめぐるので、からだを起こすと空気がいろいろなところを突き上げてたいへん痛む。 最初に手術を受けて起きられるようになったときに、医師に痛みを訴えると、すぐにレントゲン写真を取って、空気がたくさん残っているので、無理に起きなくてもよいといわれた。
 ところが、別の病院で開腹手術を受けたときには、おなじことを訴えても、「そんなはずはありません」のひと言でかたずけられてしまった。明らかに、担当の医師と看護婦の知識不足で あると思われるが、この病院では、それは「許されない痛み」なのであった。 (39-40)


UP:20140707 REV:20140818, 20141208, 20160629 / 20211104, 06, 09, 19, 21, 22, 24, 1201, 02, 04, 05, 09, 14, 23, 20220828(中井 良平 20211104~)
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