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痛み・苦痛|pain, suffering



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■関連事項

複合性局所疼痛症候群:Complex Regional Pain Syndrome (CRPS)
線維筋痛症



◆2014/12/03 「マッサージでも治らない 長引く痛み治療最前線」
 NHK総合『ためしてガッテン』
 含む:「線維筋痛症の見分け方について」
 http://www9.nhk.or.jp/gatten/archives/P20141203.html
 http://kenkomemo.blog49.fc2.com/blog-entry-296.html

◆慢性の痛みに関する検討会

○2009/12/10 慢性の痛みに関する検討会 第1回
 http://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/12/s1210-5.html

○2010/09 慢性の痛みに関する検討会「今後の慢性の痛み対策について(提言)」
 http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000000ro8f-att/2r9852000000roas.pdf

○2010/09/13 厚生労働省健康局疾病対策課「今後の慢性の痛み対策について」(本堂関係者資料)
 http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000000ro8f.html

◆ぐっどばいペイン
 http://fields.canpan.info/organization/detail/1525781017
 http://blogs.yahoo.co.jp/pina_12_3

◆痛みの研究会
 http://www.aichi-med-u.ac.jp/itamiken/frame.html

■研究者

大野 真由子



◆大野 真由子 2013/03/22 「慢性疼痛と「障害」認定をめぐる課題――障害者総合支援法のこれからに向けて」「『障害学国際セミナー2012――日本と韓国における障害と病をめぐる議論』,生存学研究センター報告20
◆大野 真由子 2011/03/31 「「認められない」病いの社会的承認を目指して――韓国CRPS患友会の軌跡」,『Core Ethics』 Vol.7 pp11-22. [PDF]
◆大野 真由子 2011 「難病者の就労をめぐる現状と課題――CRPS 患者の語りからみえる『制度の谷間』とは」『障害学研究』障害学会, Vol. 7, pp. 219-248.
◆大野 真由子 2011 「難病者の「苦しみとの和解」の語りからみるストレングス・モデルの可能性――複合性局所疼痛性症候群患者の一事例を通して」『人間科学研究』立命館大学人間科学研究所, Vol. 23, pp. 11-24.
◆田島 明子 20111030 「「痛み」をモチーフにした現象学的記述、その批判――現象学の意義と限界」,身体論研究会

■言及

◆立岩 真也 2009/03/25 『唯の生』,筑摩書房,424p. ISBN-10: 4480867201 ISBN-13: 978-4480867209 3360 [amazon][kinokuniya] ※ et. English

第3章 有限でもあるから控えることについて――その時代に起こったこと
 6 大勢の形成
  3 苦痛  「調査に出てくる「単なる(たんなる)延命」という言葉はまず不思議であると思うと述べた。たしかになおすことはないが、延命のためには無駄ではない行ないがある場合がある、それを行なうことは基本的によいことのはずだが、と述べた。
 […]
 一つには苦痛が気になっている。厚生労働省の質問には、すくなくともはじめの三回、「痛みを伴い、しかも」の部分があって、苦痛があることが前提とされていた。
 むろん多くの人たちは現に苦痛を感じているわけではない。想像してものを言っているのではある。しかし今自分がというのではないにしても、耐え難いものに思われる肉親の苦痛を見てきた人たちもいる。それを伝え聞いた人もいる。
 さて、苦痛があるということは感覚があり、意識があるということだ。とすると、同時になにかよいことがあるのではないか。あるいはさしてよいことはないとして、死に対する恐れやあるいは生に対する未練はあるのではないか。するとなぜそれをたんに延命がなされている状態だと言うのか。あるいはそれをたんに生きている状態と呼ぶことを、納得できないところを残しつつ、認めたとして、その状態がよくないとどうして言えるか。そしてむろん、苦しいなら、なんとかして苦しみを軽くすればよいではないか。まずそのように返すことにはなる。
 しかしそれで終わりということではない。たしかに多くの場合に苦痛を軽減することはできる。しかしそれがうまくいかないことはある。そして朦朧とした中で、苦痛しか感じていない――ようにすくなくとも見える――場合、苦しさが身体を覆っていて、そのために他のことは感じられなくなり、そしてもう死についての観念・意識といったものもなくなっているといった状況はありうる。
 そしてここで、必要な配慮を欠いたまま、またとにかくすることになっているからという理由で、苦痛を増すような処置がなされるなら、それではたまらないと思うのも当然である。だから人々が賛成するのももっともでもある。
 その気持ちを受けた上で、なおとどまることはできる。とにかく私たちは痛みのことを知らない。またそこに黙している人について、痛みを伴っていることは明らかに見えるが、全体としてどんなぐあいなのか、それもわからない。いったいそれを語る語りようがあるのかとも、語ってどうするのかとも思うけれど、やはり知らない。そして、わからないながらも、なんとか身体に負荷をかけないようなやり方、苦痛を増大させないようなやり方を探していくしかない。そしてそれは非現実的なことではなく、実際、それなりに使える方法は、使えるにもかかわらずそう使われていないから困ったものなのだが、ある。さらに、意識の水準全体を落とすといった乱暴な方法もないではない。死によって苦痛を消そうというのはやはり乱暴なように思われる◆40。
 もちろん、苦痛の緩和は、「受苦」といった契機を文字通りにとった上でよほど強く肯定し賞賛するのでもないかぎり、誰もが認める。緩和のための処置はしつつ(これを緩和医療という言葉に括る人もいれば、緩和医療・緩和ケアはもっと広いものを指す言葉だとする人もいる)、延命治療はしないというのである。例えば日本尊厳死協会も苦痛緩和の処置は求められるものとしている。ただ、苦痛緩和のためとしてなされる処置だけをすることが――もちろん苦痛の緩和処置として何を含め何を含めないかによるのだが――その人の苦痛を軽減させるのだろうかとも思う。
 以上対比させた二つの立場は、異なりながら、そう大きく基本的に異なるわけではない。そして痛みについて悲観的な立場をとるとしても、それは、新たな方針、新たな規則を作る必要性に導かれるものではない。賛成票を投じることが新しいきまりができることにつながるのではないか、そのことをやはり心配してしまう人は、そのことも言うことになる。
 基本的にその人にとってよいことがあることをすることが医療であるなら、それ以外のことを行なう義務はない。むしろそれは行なうべきでない。なおらないのになおるためのことをしたら、そしてそれは、しばしば苦痛を与えることであるから、やめた方がよい。また、ある状態を維持するための行ない、悪化を緩めるための行ないもまた苦痛を与えることはある。苦しいが可能性がなくはない処方と、苦しさは減るが長くは生きられなさそうな方向と、選択の対象であること自体が苦痛ではあるけれども、選ぶことも仕方のないことではあるかもしれない。そして後者を選ぶことはあるだろうと、清水哲郎の論を論じたときに述べた([2004e]、本書第6章)。そして、これらのために、新しいきまり、法律やガイドラインやを作らなければならないことはない。
 さらに、苦痛と事前の指示とはうまく結びつかない。苦痛は現在の苦痛であるしかない。そしてもちろん、苦しみがあること自体が、死の方に向かうことを指し示すものではない。ではどれだけの苦痛があればそれは耐え難いものとなるのか。それはその時に言うしかない。では事前に態度を表明するとは、耐え難いと自らが言った時にその言葉に従えということなのか。事前の指示が必要であると主張されるとして、その理由がよくわからない。
 だから、質問に○印をつけた人の中にある、辛い目にあうことがある、苦痛であることがある、しない方がよいことがあるという思いと、その後、そんな質問がなされながら進行して現実にある事態、つまり、ガイドラインであれ法律であれきまりを作るという方向、またあらかじめ文書を作ってもらってそれに従うことにするという方向とが合致するわけではない。
 そしてさらに、議論は苦痛という場から離れている、変化しているし、拡張しているのではないか。
 例えば次のような文章を読んで心配する人もいる。

「老衰等の死に向かう過程で生じる「摂食不能」がその一つである。摂食不能を放置したいわゆる老衰死の場合、それは脱水死であり通常苦しみは少なく死亡までの期間も短く治療による苦痛もない。ヨーロッパ諸国ではこのような場合に人工栄養を施さないで安らかに「死なす」ことが社会的合意として定着しているようである。しかしながら、日本ではこのような場合に補液などの医療処置を行わない例はきわめて少ない」(植村[2006 : 28])

 この「高齢者の終末期医療」という文章は、日本学術会議の雑誌『学術の動向』の「終末期医療――医療・倫理・法の現段階」の特集号に掲載されたものだが、著者の植村和正は、日本老年医学会の「立場表明」(日本老年医学会[2001])に関わった老年医学の専門家であり、その学会編の本の「終末期医療」の項(植村[2003])を担当し、その「立場表明」を解説する文章(植村[2004])や、いま引用した文章を書いている。その領域の第一人者ということになる。第一人者であるからきっと間違いはないのだろうと思うのだが、素人としては、摂食不能や脱水は苦しくないのだろうかと疑ってしまうところはある。延命処置をやめるというやり方は穏便なようであるが、そうとは限らないのではないか。むしろ苦痛と苦痛の持続をもたらすこともあるのではないか。そしてここでは、何もしないことが(通常)痛みをもたらさない、だから何もしないことがよいと(かの国々ではされている)という論の展開になっているのだが、さきの話は、そして古典的な安楽死論議に出てくる話は、痛みが耐え難いものであるからもう止めようということではなかったか。となると、よくわからなくなる。
 さらに、いま引用した「定着しているようである」の後には註があって、そこで引かれている文献は、これまで幾度か紹介してきた横内正利の文章(横内[1998a])である。横内はヨーロッパ諸国の動向を批判してきた人だ。ここに引かれている文章も同様の趣旨のものであり、そしてその横内はこの学会の「立場表明」を批判しているのでもある(横内[2001a][2001b])。そのことは知っているに違いないのだが、その趣旨は伝わっているのだろうかと心配にもなる。むしろんそれはただの心配であって、かの地ではしかじかであるという事実が横内の文章に書かれているから、そのことを示す限りにおいてその文献に言及したのだとは言えるだろう。ただそうではあっても、その「事実」について二つの評価がある時に、一つの側だけが言われそして読まれるとなると、それも心配になる。
 そこに苦痛だけがあるのでないことはその通りだし、これまでもそのことを述べてきた。ただ、ここに現われてくる話は、苦痛がない場合でもやめることはあってよい、あるいは、苦痛がない――という話をそのまま受け入れてよいのかとさきに述べた――からやめることをしてもよいという話だ。厚生労働省の調査においても、苦痛という条件がなくなっていく。こうなる。

「あなた自身(あなたの担当する患者)が治る見込みがなく死期が迫っている(六ケ月程度あるいはそれより短い期間を想定)と告げられた場合、 単なる延命だけのための医療についてどうお考えになりますか。」

「が痛みを伴い、しかも治る見込みがなく」の箇所が変わった。痛みという否定的な価値を有する語を付すなら、それは賛成の方に誘導することになってしまうという配慮に基づいているのかもしれない。あるいは(身体的な)痛みを伴わない場合を含むより広い状態について回答を求めるべきだと思ったのかもしれない。よく言われるように、身体的な苦痛の緩和が、どれほど実際になされているかはともかく、対応可能になってきているという認識は分け持たれている。二〇〇八年一月二二日の第一回の会議の議事録で保健医療技術調整官は次のように説明している。

「現状においては、痛みが辛い、痛みが非常に強いということを強調することは、緩和医療を推進している、相当発達しているという観点からすると、聞き方としては少し適切ではないのではないかと考えまして、提案の段階でこの部分は削除しました。」(末期医療に関する調査等検討会[2008])

 このことは、幾度か紹介してきたこのところの動向に批判的な人たちが指摘してきたことでもある。すなわち、終末期医療についての議論は、急速に進行していき身体に強い痛みをもたらす癌について多くなされるのだが、その割合は今も高いとして、やはり一部ではあり、そしてとくに年を重ねていった人となれば、癌の進行も遅いことがあり、苦痛のあり方もまた異なってくる。であるのに、痛みのことがもっぱら語られた。そして、さらに、身体の苦痛というところから調査や議論は離れていっている。しかし、人は依然として、たしかに実際に存在する苦痛のことを思っているのかもしれない。とすれば、話はずれたところで進んでいるのではないか。」

◆立岩 真也 1997/09/05 『私的所有論』,勁草書房,445+66p. ISBN-10: 4326601175 ISBN-13: 978-4326601172 6300 [amazon][kinokuniya] ※
◆立岩 真也 2013/05/20 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版,973p. ISBN-10: 4865000062 ISBN-13: 978-4865000061 1800+ [amazon][kinokuniya] ※
Tateiwa, Shinya(立岩 真也) 2016 On Private Property, English Version, Kyoto Books

 「人であることの要件としてあげられる恐怖苦痛が私達の生において重要なものであることは確かである。だから、恐怖を感じられる存在に恐怖を感ずるようなことをしてはならない、苦痛を感じられる存在に苦痛を与えてはならないと感ずることも理解できる。チンバンジーやイルカを殺すことを控えるべきだという主張もわからないではない。しかしこのことは、苦痛を感じない(ように思える)人、意識のない(ように思える)人を、他の人と同じように扱う必要はないということを意味しない。苦痛を感じたり意識があることは人があることの一部であって、一部である属性を尊重すべきことから、そうした属性のある(らしい)人間以外の存在も尊重すべだと言いうるということは、そうした属性を有さない人を人として扱わなくてもよいことを意味しない。私達はすでに人であることを知っている。そしてその後、この事実から「引き算」をしているのだ。その引き算は結局のところ、その存在からではなく行われる。このことを隠蔽するものを「抽象性」と呼ぶ。重篤な障害のある存在を人と認めないことの方が――具体的な利害を背景にしながら――抽象的である。【第2版補章1でこのことについていくらか付言する。】」

 It is indeed the case that the fear and suffering held up as necessary requirements of personhood are things that are very important in our lives. We can thus understand that it is important not to cause fear in a being that is capable of being afraid, and not to cause pain in a being capable of suffering. For the same reason, the assertion that we should avoid killing other creatures like chimpanzees and dolphins is not incomprehensible. This does not mean, however, that there is no need for us to treat those who (we believe) do not feel pain or those who (we believe) do not possess consciousness with the same consideration given to other people. The fact that it is possible to assert that feeling pain and being conscious are only part of what makes a being a person, and thus that we can respect these attributes as part of what constitutes a person while also respecting beings that do not (seem) to possess them, means that acknowledging their importance does not necessarily mean there is no need for us to treat those who lack them as people. We already know someone is a person. Then we begin to "subtract" from this fact. Ultimately this subtraction is carried out not from the being in question. We call what conceals this "abstractness." Not recognizing those with severe disabilities as people is a more abstract position (while nonetheless one that is taken based on concrete practical interests).

 第9章 正しい優生学とつきあう
  第4節 なぜ私達は行うのか
   2 2死/苦痛
  ※【】内で第2版で加わった部分

 「[2]死/苦痛
 けれども、これだけに尽きない。死がもたらされ苦痛がもたらされることがある。そしてその死や苦痛は、大抵の人にとってマイナスであることがある。(「近代」が死に対▽669 して否定的な価値を与えたというような主張もあることはある。当たっている部分があることを認める。しかしそれを全面的に受け入れることはできない。)病であるとは何か。簡単にしよう。病とは苦痛であり、死をもたらすものである。そしてその苦痛は、他者の価値を介することのない苦痛である。それは、まずはその人にだけ現れるものである。様式の違い、及び(自身に委ねられる場合の)不都合さとして現象する「障害」と、苦痛を与え死を到来させるものとしての「病」とは異なる。もちろん、両者が同時にその人に入りこんでいる場合はあるだろう。しかし、両者の違いは曖昧で、境界は定められず、両者を区別する意味はないとまで言うのだったらそれは違う。私達は区別することができるし、区別している。◇21

 病気を治すために技術が用いられることには同意する、それ以上のことはしたくない、するべきでないという感覚は存在する。いずれ死ぬにしても、さしあたっては死にたくない。また苦しみたくない。だから、医療、リハビリテーション、そして予防…が支持されることがある――ことがある、と言うのは、他の価値に比べた時、それが選ばれないことがあるからである。治療は、行動の自由を得るために、苦痛から逃れるために、死が訪れる時期を引き伸ばすために行われる。「遺伝子治療」についてはどう考えるのか。例えば私なら、それも、受け入れるだろう。それは本人が判断している。本人の意▽670 志が聞き取れない場合であっても、その本人はそこにおり、その周りにいる私達はきっとそうだろうと思う。この程度の推量は許されるだろうと私達は思っている。もう一方の極には、ただ周囲の者にとってだけ迷惑であるものがある。ただそれに尽きないということである。
 しかし、出生前、ここにはまだその本人はいない。だから、結局それは私の苦痛ではないか。なぜなら、まだ、私しかそこにはいないのだから。確かに、苦痛があるだろうと考えるのは私である。しかしそれでも、ある種の苦痛は、その者にとっても耐え難いものだろうとその私は思う。その人が現にその苦痛を生きている時には、その人はもう生きているのだし、その生はその人にとって価値のあるものだから、その苦痛を緩和しようとしながら生きさせようとする――また、ある場合には、苦痛より死を当人が選ぶことを認めるかもしれない。しかしここはまだ、苦痛を凌駕する生は現われていないと私が思う時、私は、その者を生きさせることをやめる。遺伝相談なりを受け、確実に、あるいは高い確率でその病が発生することがわかったとする。そこで子をもたないことにする。
 しかしこれは、第3節に述べたことに戻ってみた時、どういうことだろうか。αないこと、現われないこと――零――と苦痛――負――とが比較されていると私は思ってい▽671 る。しかし、苦痛とは、その者が在ってはじめて存在するはずのものではないか。苦痛は存在――正――とともにしか現われないものではないか。とすると、β実は存在と苦痛とを比較し、苦痛によって存在を、否定できないのに、否定していることに他ならないのではないか。
 これに対してどのように答えたらよい答と言えるのか、わからない。多分、それは未在の存在のことを私が考えるということの難しさに起因している。それでも少し考えてみよう。βは、その者が、既に、在ってしまっているという現実の上で、はじめて現実には成り立つことではないか。しかし、現実には、その者はまだいない。だから、βの比較はここにはない。では、私はα人という存在のない苦痛といったもの、場をもたない苦痛といったものを考えているのだろうか。そうではないだろう。私は苦痛をもつ存在を「想像」している。その存在が現実に既に在ってしまう時には、その存在を受け止めざるをえないだろう。しかしそれはまだない。まだないことにおいて、正であるだろう生の現実性は薄れ、想像される存在の苦痛が、決断させる。奇妙な計算である。ただ少なくとも、まず、既にあることによって奪うことをしない存在、正の価値はない(同時に現実の苦痛もないのだが)。だから、許容はされる。これも認めない立場は、どんな場合でも正の価値が生ずる可能性は奪ってならないこと、つまり生まれる可能性のある▽672 どんな場合にも生むべきことを主張することになる。このように主張しないなら、未来に(確実に)生ずるだろう価値があるからという理由で生まない決断が否定されるのではないということである。
 それにしても、なお、こうした行いが何か空虚であるとすれば、それは、長く、苦痛の少ない生の方がよい生であろうと思う私の感覚によって、何事かを決定した、変えたということである。それは私の都合というわけではない。しかしそれでも私がそのように思うのであり、私が決定している。多分、それは「よいこと」ではない。というのも、この決定があればなかった生が一つあることになって、そしてその生はあった瞬間から、それが短いものであったとしても、独自の生として現れ、しばらく持続し、やがて終わるのだから。苦痛を想像してそれを選ばなかったのは私であり、その私は、苦痛がある時には苦痛とともに生きる存在があるのだという精神の強度をもつことができなかっ▽673 たのだ。当の存在にあくまで即そうとする時、これは正当化されない行いである。
 ただ、まだその存在が不在である時、あらかじめの消去を否定する現実はない。これを先に述べた。そして第二に、知ってしまい、そして選択できる時、それは私の選択になる(選択として引き受けさせられてしまう)。私が代替できず、私がそれを負うことはできない状態を私が作り出してしまう。例えば、その子が生まれてすぐにあるいは数年後に世界が終わるとしよう。あるいは人を苦痛にまきこむ事態が生じるとしよう。それでも生まれてしまえば、その生は独自の価値を持ち、奪われてならないものになるだろう。しかし、それに巻き込んだのは私である。そして、そこに生ずる苦痛は、私が代わることのできない苦痛である。もちろんどんな人でもいずれは死ぬのであり、それが一般に苦として観念されるのだとすれば、私達は子を存在させるどんな場合にも苦を作り出しているのだと言える。しかしそうではあっても、まだ若い時に死んでいくことの苦痛は大きいだろうと私は思う。
 第三に、この時、苦痛を想像しているのも私であるが、苦痛があっても生きていく方がよいだろうと思っているのも私である。現実に生まれた時には、その現実そのものがその存在の生を肯定するだろうけれど、この時にはまだ、いずれにしても私が思っている。だから、どちらの方がより他者に即した思いであり、行いであるとも言いえず、他▽674 者が在ることを受け止めようとする価値からは、この行いの是非は判断されえないのである。

「◇21 「[…]
 死、苦痛と述べた時に念頭にあったのはハンチントン病(第7章注15・316●頁)。テイ=ザックス病(東欧系ユダヤ人に特に多いメンデル劣性の遺伝病、植物状態が続き二〜四歳までしか生きられない)については米本昌平[1987b:35-37]、DNA問題研究会編[1994:30-31]等に言及がある。
 【その後、ハンチントン病の保因者であり研究者である人による書籍、Wexler[1995=2003]。日本での発症前遺伝子検査と医療福祉的サポートの現状報告として武藤[1998]。英国での検査結果の商業利用について武藤[2000]、他に武藤[2002]。すこし知ることで、いくらかこの病についての受け止め方が変わったように思う。】」


UP:20140707 REV:20140818, 20141208, 20160629
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