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「痛み」をモチーフにした現象学的記述、その批判――現象学の意義と限界(田島明子


last update: 20120219

20111030 身体論研究会
 

1. 現象学批判――小泉義之「傷の感覚、肉の感覚」『現代思想』39(11): 135-147

小泉先生の「傷の感覚、肉の感覚」は端的に言って現象学的言説構築批判と読める。

「(ギリアン・ベンドロー/サイモン・ウィリアムズの論を取り上げて)二人によるなら、痛みは生命と文化が交錯するところに位置している。だから、痛みは、社会学的な探求の対象となるべきものである。この探求が成功するためには、痛みの医療化を止めなければいけない。すなわち、心と身体の二元論にもとづいて痛みを感覚へと切り詰めて、痛みを合理的・客観的に測定可能で操作可能なものとみなしてしまうことを止めなければならない。なぜなら、そもそも痛みは日常的な経験、日常生活に埋め込まれた経験だからである。痛みは、たんに生物医学的で医療的な問題ではなく、社会学的・現象学的にアプローチされるべき問題なのである。
これは何度も繰り返されてきた言説であるが、実に奇妙な言説である。この社会学的・現象学的アプローチなるものは、痛みを神経生理学的事象や感覚に還元することはなく、痛みの心的・社会的側面を何らかの意味で区別してそれとして強調するのであるから、それこそ心身二元論そのものであるのにそのことがまったく抑圧されて自覚されていない。そのアプローチは、心身二元論を乗り越えると称しながら、まさに当の二元論の位置をずらすことによって、神経生理や感覚から切り離された心なるものを、生命と文化の交錯点として、ひいては文化や社会や政治経済の諸関係の束として設営して、それを学的介入の拠点に仕立て上げてきた。そして、そんな言説によって、心なるものが、教育・福祉・臨床・行政・統治の対象として構成されてきた。おそらく人間の条件に根ざしているが故にでもあろうが、この動向は強力である。この動向は、例えばホスピスを制度化するほどの力=権力を有している」136

「いま確認したいことは、心なるものを設定することを通して、そこに心理的・社会的影響を及ぼすならば痛みの経験を変容させることができるという信憑と欲望が絶えず生み出されてきたということ」137

「痛みの覚えは、物理世界の内部にあるいかなるものとも同一ではないところの主観的な『感覚−内容』の覚えであると深く深く信奉されている。どうしてだろうか。」140

「痛みは、切りつけられたことや切りこまれたことの経験ではないのである。そうではなくて、痛みの感じは、ナイフで切りつけられた指に生じる傷を感じることである。傷の原因は、ナイフの運動である。精確には、ナイフの運動を受け止めるのに切開をもって応じるようなそのような物性を有する肉体である。これに対して、痛みの原因は、あくまで傷である。傷という出来事、傷を発生させる生体の生理的出来事である。炎症物質や神経伝達物質の『ハリケーン』である」141

「痛みは、概念的に捉えるなら、傷の感覚であり肉の変性の感覚であると言えよう。言い換えるなら、肉の修復の感覚、肉の変性の感覚、約めるなら、肉の(脱)発生の感覚である。そして、痛みは、経験的に捉えるなら、これは他の感覚と同じことであるが、中枢で感じられているのではなく、傷や肉において感じられている。さらに言うなら、傷が感じ、肉が感じている。このように痛みの概念と痛みの経験が成立しているからこそ、科学的に神経経路が探究され概念モデルが生成され、さらには中枢からの投射が持ちだされる。そしてこの文脈で、関連通などがあらためて科学的な謎として浮かび上がってくるのである。その上で、本稿が予備的に考えてみたかったことは、そのような科学的知見を、当初の痛みの概念と経験へと差し戻すにはどうしたらよいかということであった。そのことが考えるに値することであるのだと認められるのなら、20世紀後半以来の痛みの心理化や社会化の動向は退けられなければならない」145

(論考の最後で、「痛みの概念と経験」について、「痛みは肉の過剰な生成変化の感覚」「肉に相当するものの「基体」の出来事の感覚」と表現している。)

⇒「痛み」は、「肉に相当するものの「基体」の出来事の感覚」の領野であるにもかかわらず、現象学が、客観を持ち出し、主観(経験、心)に「痛み」を統置してしまうことの批判


2. 現象学擁護――河本英夫「痛みのシステム現象学」『現代思想』39(11): 148-159

一方、多様な「痛み」について記述されていて面白かったのがこの文献。「痛みの現象学」の必要性について以下のように書いている。

「触覚性感覚のともなわない痛みもある。それが内発的な痛みであり、純粋に神経性のものか、生理的反応をともなうのかは別の内発性を構成する。痛みは、なにかの兆候であるが、それじたいが身体の帯びる他に置き換えの効かない現実である。痛むことは、なにかによって痛むだけではなく、端的に痛いのであり、それは原因から由来する派生的な現実ではなく、たとえ何に帰着しようとも、そのことによっては変容させることのできない現実である。痛みは原因に帰着することもできなければ、たとえ構造的に配置しても、配置によっては何一つ変化しようのない端的な第一の現実である。このことが医学的な病因論や兆候論とは独立に、痛みの現象学が必要な理由となっている」154

⇒小泉言説との対立図式。「痛み」の配置なき由来と経験の変容可能性は、「欲望」なのか「現実」なのか。
⇒医学的視座では捉えられないことが現象学的視座でとらえられるのか。


3. 現象学の視座とは

以下、谷徹『これが現象学だ』(講談社現代新書)からの抜粋

●フッサールの根源的着想
・直接経験
→対象の認知は、実は直接経験から出発して事後的に形成されるイメージ
→自分の目で眺めて知覚する現象は、まさに根源的だが、単に「主観的」だというのではなく、「客観的」ではないいう意味で「主観的」であり、これこそが「客観性」の前提

・超越論的還元
「私たちは、ほんとうは、表象の外に出ることなく、富士山のような対象の実存を確信している。それでは、私たちはどのようにしてそれを確信しているのだろうか。この問いを解くためには、ひとまず、非学問的な思いこみを停止し、表象の外部に当該の対象が実存していると信じるような(自然的態度の)傾向にストップをかけねばならない。これをフッサールは存在の『エポケー(判断中止)』と呼ぶ。そのうえで、私たちの目を、表象の外部に向かわせるのではなく、その内部(マッハ的な光景)に引き戻さねばならない。学問的な解明は、このように引き戻された表象(光景)の内部で行わなければならない。この引き戻しをフッサールは『超越論的還元』と呼ぶ」49-50

・超越論的主観性
「フッサールが問うのは、こうした客観科学の客観性の基礎でもある。基礎は、客観性の『下』にある。『主観性』は、『下に置かれたもの』に由来する言葉であることを思い出しておこう。こうした主観性は、それ自体としては、まだ客観科学の意味で客観的ではない。つまり、これは、こうした客観性の下にあり、客観性に先立つような主観性なのである。この二重の意味で、それは主観性である」53
「つまるところ、超越論的主観性と言われたら、マッハ的な光景(直接経験)を思い起こし、それを――外に出ることなく――『超越論的』にとらえていただくのがよい。
フッサールは、こうした直接経験の領野=超越論的主観性に帰って、それを分析しようとしたのである。このような態度をフッサールは『超越論的態度』とも呼ぶ」54

現出・現出者
「私たちは『現出』の感覚・体験を突破して、その向こうに『現出者』を知覚・経験している」56
現出者(等しい角をもった正方形)の同一性は、感覚・体験される現出(等しくない角をもった平行四辺形や台形)の多様性が突破されることによって、知覚・経験されているのである。こういう意味で、『客観の同一性』の表象は媒介されている」59
「現出者の知覚は、厳密に直接的ではありえない。直接経験における現出者の知覚が、じつは直接的ではないのである。では、現出者へのもっと直接的な関係があるのだろうか。幸か不幸か、現出者に対しては、これ以上に直接的な関係はありえない。知覚的な直接性は、(たとえば想起などにくらべて)最も直接的でありながら、しかしそれでもなお、媒介された直接性なのである」59-60

・志向性 「還元を遂行するフッサール現象学は、あくまでも、諸現出と現出者との関係から成り立つ現象を扱う学問である。
さて、直接経験(マッハ的光景)を基礎に据えたフッサールは、そこに諸現出の体験を媒介にして(突破して)現出者が知覚されるという構造を見出したわけだが、この媒介・突破の働きか『志向性』である」61

(・現象学と心理学は対立する)
心理学は自然的態度を取る。とりわけ近代以後の心理学は、自然的態度の派生形態である自然科学的(自然主義的)態度を取る。だから、現象学と心理学は対立する。p55


4. 現象学的記述――西村ユミ・前田泰樹 2011 「『痛み』の理解はいかに実践されるか――急性期看護場面の現象学的記述」『看護研究』44(1): 63-75

【前提として・・】
・「がん性疼痛」について、質問紙、スケールなどの「客観的」評価は開発されてきたが、看護師の痛み評価の方法は、主観/客観の二項対立図式による理解では必ずしもない
 
「看護師たちの関心や実践については、患者の痛みと看護師の知覚を切り離さずに、患者の苦しみに手を差しのべようとするその実践の成り立ちを探求することが求められる」65

●なんとかしたい(=看護師たちの志向性:p67)
「Aさんと接することにおいて、まずは「気になる」のであり、「何とかしたい」とも語る通り、判断や解釈に先立ってそれに応じようとしてしまう行為(運動)感覚が生まれているのだ(メルロ・ポンティ・・)」66
 
「しっくりきていない」66 から
 
「Aさんの痛みに対しては、その都度の訴えに応じてはいるものの、痛みが「対処」できたという「流れ」の実践がいまだに成り立っていない」66 だから「気になる」 67

●志向性とともに「大変そう」68
→「痛み」が「本人にしかわからない」私秘的なことではなく、即座に応じられる、他者に開かれた感覚的経験として理解される

●評価数値と本人の表現(表情)とのギャップ 68
→看護師にとって、自分の「受け止め方」が問われ、「評価しにくい状況」
→そもそも看護師は、Aさんの痛みの私秘性を想定していかに評価するかが問題になるのではなく、その手前で、他者の苦痛が見て取れてしまうことが、私秘性をそれとして浮かび上がらせ、その他者の経験との分離の実践が自らの評価を問う
痛みスケールの数値は、患者の痛みの程度(=情報)としてのみ与えられるのではなく、看護師に診て取られた患者の痛みと対比されたり、その変化を確認したりする文脈のなかで意味をなしていた

●読み取り、応答(行為)してしまう自らの状態によって「痛み」を知る69
「相手の顔(表情)そのものを『痛み』として見て取ること、それ自体を『何とかしたい』と否応なく応じて行こうとする行為、あるいは、大変そうだったから薬を『飲んでもらった』という具体的な対応までをも内包する経験として成り立っていたことなのだろう。言い換えると、Aさんの表情や状態を、そのようにして見てしまうこと、それへ応答(行為)してしまう自らの状態が、Aさんの『痛み』を知ることを可能にしている」69

●数値的評価とともに、「患者本人の感じている感覚への配慮」を含み持った対応71

●直に経験された患者の状態は、看護師の身体性とともに他の看護師たちと分かち持たれていく73


【臨床における看護実践の成り立ち】
・「痛み」への志向性(他者に開かれた感覚的経験)→(数値とのギャップ)→私としての再帰的経験の自覚→痛みを知る→他の看護師との身体性を通した分有
→看護師にとってみると、患者の「痛み」の理解と実践には、志向性の介在とともに、客観と主観を往来するなかに、間主観的次元の実践的理解が成立していく

【現象学の意義と限界】
西村・前田論文を読む限りにおいて・・
・意義
1. (臨床における)科学・客観主義的について,臨床実践における理解の成り立ちからの批判が可能
2. 「痛み」実践の成り立ちの志向性(解釈・判断以前の意識)の次元からとらえられる
・限界
1.差別・排除の志向性について,現象学的記述も作れるだろう。そうした視座についてはどこまでも批判力を持たない
→差別・排除、それに対する批判力を持たない
→規範論とセットに用いないといけない



*作成:田島 明子
UP: 20120219 REV:
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