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老い・1980年代
老い
■1980
◆
吉田 寿三郎
198006
『デイ・ケアのすすめ――ベッドのない第三の住まい』
,ミネルヴァ書房,242p. ASIN: B000J87RLS
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※ b a06
◆1980 青梅慶友病院開設
「――(聞き手は川添みどり) それが今の老人病院(青梅慶友病院)のはじまりですね。何年のことですか。
大塚 一九八〇年、昭和五五年です。この頃っていうのはね、老人病院花盛りなんですよ。あちこちにたくさんできたけど、行き場のないお年寄りを預かってベッドに縛りつけて点滴する、大量の薬を服ませる。介護といえば、家族が直接雇った付き添いまかせの状態でした。今朝までご飯を食べていたお年寄りが、入院した途端に突然点滴されて、しばらくすると動けなくなって、それで床ずれができて、1ヶ月もすると肺炎を起こして死んじゃう。これがお決まりだったんですよ。
―― 社会問題になりましたよね。<141<
大塚 ある新聞が告発記事を書いたこともあって、それで老人病院=悪徳病院という図式ができてしまいました。だから私が老人病院を建てるといった時は、「お前ねぇ、そんなにしてまでお金儲けがしたいのか」っていわれましたよ。
だけど、病院を始めてみて、実際にはいってくる人は寝たきりに加えて脱水状態であったり、低栄養状態であったりする。あるいは大声を出すとか、徘徊する、暴力をふるうといった、活発な問題行動を伴う痴呆老人が大部分でした。ところが、対応する方法といえば、我われが知っているのは医療技術だけですから、それを駆使して、なんとかこの人の状態をコントロールしようと思う。そうるすと、落ち着く先は点滴でったり、強い鎮静剤という話になるわけですよ。
ある時、気がついたら、私は一生懸命やっているのに、よその悪徳病院といわれるところと結果はそんなに違わなかった。これが結構ショックだったんです。ほどなく医療保険の支払い機関から、お前の病院は医<142<療費がかかりすぎて怪しからんと呼びだしを受けたんです。私としては治療でお金を稼ぐためにやっているわけじゃなかったのに。そこで、もうそんなにいわれるなら、点滴もなにもしないで様子をみてやるよとばかりに、ぜんぶやめてしまったんですよ。医師や看護師はやることがないから、患者さんの傍に行って遊んだり、寝ている患者さんを起こしてレクリエーションなんかするでしょ。それまでは入院してだいたい1ヶ月もすると寝たきりになっていたのが、寝たきりにならなくなってきた。痴呆の人なんかも薬を使わなくても結構落ち着いてきた。
この体験でケアの大切さを知り、今までの医療を中心とした対応が、いかに無力かというよりも、有害かを思い知らされた。
もうひとつ、病院をはじめて半年くらいで大きな発見をしました。それは、老人病院というのはお年寄り本人というより、家族のための施設だということです。家族が困り果てて連れてくる。病院を選ぶのも、その後お金を払ってくれるのも、病院の評判を外部に伝えてくれるのも<143<家族。となれば家族の要望に、しっかりとこたえる運営にすればいいと考えた。当時の家族の要望は、ずっと入院させてくれること、預けることに後ろめたさを感じなくてもいいような対応をしてくれること、本人に痛い思いや辛い思いをさせるような医療を、しないことだと知ったことです。二、三年してヨーロッパの老人施設をみて、また大ショックを受けた。同じような状態のお年寄りを対象にしながら、対応がまったく違う。寝たきりや点滴をしている人が皆無。私がなんとなく思っていたことを決定的に裏づけた。ともかく、もう全員ベッドから離して起こした方がいい。ケアの大事さ、生活環境を整えるのが大事だっていうのがわかってきた。」(大塚 2004:141-144[新福監修 2004:141-144]/括弧内補足は引用者)
大塚宣夫
(青梅慶友病院理事長)2004「大往生・終いの住処としての施設」,新福監修[2004]
◇新福 尚武 監修 20040521
『老いと死を生きる――老人病院医師へのインタビュー』
,老人病院情報センター ,223p. ISBN-10: 4990198301 ISBN-13: 978-4990198305 2100
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b a06
■1981
◆吉田 寿三郎 19810120
『高齢化社会』
,講談社,講談社現代新書,212p. ISBN-10:4061456040 ISBN-13: 978-4061456044
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※ b a06
「この判断からの希望がようやくかなえられて、二十二年前、縁あって北欧の長寿国スウェーデンに行けた。しかし「福祉国」として名高いこの国の現実を目の当たりにして考え込まざるを得なかった。そのことが私を老年問題に首を突っ込ませる決定的なきかっけをつくったのである。
すなわち、一九五九年、私は大きな期待と憧れを抱いてスウェーデンに渡った。世界に冠たる長寿国、手厚い保護を受け幸福な余生を送る老人たち、そしてそれを支える若い生産人口――いったいどうすればこんなすばらしい国家が出来上がるのか、私はポジティブ・ヘルスと<8<いう"青い鳥"をみつけるつもりだったのである。
だが私の期待と憧れはまったく裏切られたといってよい。スウェーデンで私が見たのは健康で幸福な余生を送る老人たちでなく、"弱っても死ねない"老人たちの群れであった。たしかに国をあげて手厚い老人対策は講じられてはいたが、ほとんどの老人たちは決して幸福な顔付をしていなかった。人力でつくった老年問題の深刻さ、難しさ……それをまざまざと見せつけられた思いだった。」(吉田 1981:8-9)
「そんな願いも込めて、一九五三年、私たち同じ思いを持つ者が集まって「日本寿命科学協会」(ウェル・エージング・アソシエーション・オブ・ジャパン)を発足させた。」(吉田 1981:62)
「ねたきりの状態は、えてして"ボケ"へ通じる可能性が大きい。北欧などの慢性病院やナーシング・ホームに行くと、病棟の一角にまったくデクの棒のような群像が突っ立っていたり、丸太のようにころがっている。むろんまだ生きている人間である。まさに老残としか形容しようがない。
口に食べ物を突っ込めば嚥下はする。大小便の始末はできない。うつろな目はどこをみているのか定かではない。ただ生物学的に生きているというだけの存在である。
私は最初、こうした光景をみてぞっとせずにはいられなかった。栄養はたいてい鼻から管を<168<通して胃に送っている。本人はもはや自分で食べることすらできないのだが、ケアの仕方によっては二ヶ月、三ヶ月はおろか一年、二年、三年、否十年でも生かしておける。
生物として生き残れる可能性は今日大変進歩した。ここで従来はなかった新しい安楽死の問題が人口長命にからんで登場しているわけだ。」(吉田 1981:168-169)
「私たち生きものの個体は有限である。時間的な経過とともに必ず死がくる。どんな人にも死がくる。第一、第二の人生にも死は起こるが、これは災厄死である。しかし、第三の人生には<172<死は必然のことで、自然死は他の人生にない重要な特徴である。しかも、これからは卒然と死がくる場合より老病弱、複雑な心身の障害によって漸次追いつめられた後死んでいくのであるから、高齢期のケアをどのように充実させて、死と対決し人間として堂々と死んでゆくかが重要なテーマとなってくる。」(吉田 1981:172-173)
■1982年3月~ 三郷中央病院事件
◆
大熊 由紀子
200304~「物語・介護保険」(呆け老人をかかえる家族の会の機関誌『ぽ~れぼ~れ』、社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)
http://www.yuki-enishi.com/kaiho/kaiho-00.html
↓
◆大熊 由紀子 200406「第4話 「日本型福祉」が生んだ「日本型悲劇」」『月刊・介護保険情報』2004年6月号.
http://www.yuki-enishi.com/kaiho/kaiho-04.html
◆雨後の竹の子のように生まれた老人病院では
「グラフは人口1000人当たりのベッド数です。日本(赤線)だけが、奇妙に増え続けています。そのかなりの部分が老人病院と精神病院でした。
「老人病院」の経営実態の多くは闇の中でした。例外的に明るみに出たのが、埼玉県にある三郷中央病院でした。
見るに見かねて県に内部告発した職員がいたのです。
「東京医科歯科大学出身の院長、新潟大学出身の副院長、1カ月3万円で完全看護」が売り物でした。事務職員は東京・千葉・埼玉の福祉事務所を熱心に回り病院をPRしました。集められたお年寄りの7割が東京と千葉の住民でした。
1980年75床で開院、半年後には177床に膨れ上がりました。
「三郷中央病院事件とその教訓」という県のマル秘文書からうかがわれる、そこでの「診療」は、たとえば、次のようなものでした。
・入院した人にはすべて「入院検査」と称して31種類の検査を受けさせ、その後も毎月「監視検査」という名で21種類の検査。
・検査はやりっばなしで、検討された形跡はなし
・ テレメーターによる心臓の監視の架空請求で1000万円を超える収入
口から食べられる人にも点滴が行われ、お年寄りの顔はむくんでいました。
点滴を無意識に抜いたりするとベッドの柵に縛りつけられました。写真②のような褥瘡、尿路感染、肺炎、……そして、平均87日で死亡退院。
このような現実に、伊藤さんたちがどう立ち向かっていったかは、後の物語で。」(大熊 2004:**)
■
和田努
医療ジャーナリスト和田努の「医療・健康・福祉」を考える「CONSUMER HEALTH」
http://wadajournal.com/index.htm
↓
http://wadajournal.com/profile/katsudo.htm
◆老人医療制度を変えたスクープ
「私がジャーナリストとしてスタートした70年代は、人口の高齢化が本格的にすすむ時代でした。高齢者問題に力を入れてきました。埼玉県三郷市に「三郷中央病院」がありました。この病院は老人を食い物にする悪徳病院でした。丹念に取材して、廃院に持ち込みました。この事件は国会問題にもなり、厚生省が老人医療を見直しするきっかけになった事件でした。私としては思い出深いスクープです。
武蔵野市福祉公社をつくり、老人福祉の歴史を拓いてきた山本茂夫さんが『福祉部長 山本茂夫の挑戦』という本のなかで私のことを紹介してくれています。いささか長くなるが引用させていただきます。
老人病院の実態を見聞する機会は多いが、それを取り上げ、論じるのは、ごく少数のジャーナリストだけで、老人福祉の専門家や政治家たちは、言の葉にも乗せず、知らんふりをきめ込んでいる。
月刊誌『宝石』(昭和57年3月号)で、NHKディレクターであった和田努氏が三郷中央病院を告発したのが、老人病院の非情な処遇を取り上げた最初のものであった。
和田氏は病院関係者の研究会の席上、私立病院の管理職だった人から、悪質病院の話を聞き、病院に勤めて要る職員や退職した人、家族などから困難な事情聴取を重ね、埼玉の三郷中央病院が典型的な悪質病院であることに確信を持ち、病院の名前を明記して実態を公表することを決意し、記事にした。それに先立って、和田氏は、病院院長から「名誉毀損で訴えるぞ」などの嫌がらせを受けながら、さらに『老人でもうける悪徳病院』(エール出版)で、薬づけ検査づけの実態やお年寄りをベッドに縛り付ける看護婦の姿を詳細に伝えている。
三郷中央病院は、許可された病床が177床なのに、200人以上の患者がつめ込まれ、いやがる老人をベッドに縛り付けて、検査と点滴を行っていたと和田氏は告発した。
昭和56年一年刊に200人近くの老人がこの病院で亡くなり、退職した職員は「ふとんを強いた殺人工場です」と語ったという。
和田氏の告発を契機に、厚生省は検査づけ点滴づけの老人医療を改善するために、昭和58年老人保健法を制定した。一ジャーナリストの果たした社会的意義は大きい。(
山本茂夫
著『福祉部長山本茂夫の挑戦』より)」
◆和田 努 198208
『老人で儲ける悪徳病院』
,エール出版社,187p. ASIN:B000J7FAQS
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※
◆
浜田 晋
19820515 『このいとしきぼけ老人たち』,日本看護協会出版会,174p. 1000 ※ **
◆
山本 茂夫
198210 『新しい老後の創造――武蔵野市福祉公社の挑戦』,ミネルヴァ書房,240p. ASIN: B000J7K3GA.→2000 『新しい老後の創造――武蔵野市福祉公社の挑戦』ミネルヴァ書房,247p. ISBN-10: 4623014398 ISBN-13: 978-4623014392
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■1983
◆19830201 老人保健法
「和田氏の告発を契機に、厚生省は検査づけ点滴づけの老人医療を改善するために、昭和58年老人保健法を制定した。一ジャーナリストの果たした社会的意義は大きい。」(山本茂夫[1995])
「もっといまいましいことがもちあがった。三郷中央病院など悪徳病院の摘発をきっかけにして、昭和五十八年二月に生まれた「老人保健法」という法律のおかげで、お年寄りの患者によかったと思われる診療が十分にできにくい雰囲気になってしまった、というのである。
そんな状況に腹をすえかねて、立ち上がった老人病院の院長さんがいる。東京・多摩ニュータウン近くにある天本病院(多摩市買取)の天本宏院長は、五十九年秋、同じく志を抱く老人病院の院長に呼びかけて「老人の専門医療を考える会」をつくった。「本物の老人医療を志向する院長さんたは、この指とまれ」というわけである。そして、この一年で、四十人の病院長が天本院長の指にとまった。」(大熊[1986:213])
◆『季刊福祉労働』 19830325 特集:老い――のたれ死にの自由
『季刊福祉労働』18
950 ※
北村 小夜
19830325 「一人の人間として老いる」
『季刊福祉労働』18:008-016
沖藤 典子 19830325 「生きかたとしての「老い」と「死」」
『季刊福祉労働』18:017-024
宮 淑子
19830325 「「老い」と「性」」
『季刊福祉労働』18:025-032
指田 志恵子 19830325 「余命を明るい老人の家づくりに賭ける――”職業婦人”としての自立の六〇年・松田きぬさん(七六歳)の場合」
『季刊福祉労働』18:033-041
須田 明泰 19830325 「「ゲートボール」考」
『季刊福祉労働』18:042-048
岡島 勝也 19830325 「ある特別養護老人ホームの日々」
『季刊福祉労働』18:049-054
田中 まさ子 19830325 「「呆け」老人をかかえて」
『季刊福祉労働』18:055-065
石毛 □子
19830325 「管理・統合にすすむ高齢者福祉」
『季刊福祉労働』18:066-073
大谷 強
19830325 「老人ホームにおける人間労働の確立」
『季刊福祉労働』18:074-085→大谷[1984.08](第9章 改題・加筆・訂正)
橋本 要 19830325 「西欧の都市で見た高齢者福祉――国連高齢者問題世界会議から」
『季刊福祉労働』18:086-091
◆1983(昭和58)年5月 「老人の専門医療を考える会」設立 (初代会長 天本宏/2代 大塚宣夫/3代 平井基陽)
http://ro-sen.jp/
http://ro-sen.jp/tokai/nenpyo.html
http://ro-sen.jp/tokai/history.html
「老人の専門医療を考える会」設立の発端は、昭和50年代後半、老人医療の理想と現実が大きくかけ離れていたことにある。高齢化が急速にすすむわが国で老人病院の数が増大する中、昭和58年2月1日(1983年2月1日)に老人保健法が施行され、診療報酬が一部包括化された特例許可老人病院が生まれた。しかし、老人医療の現場では、質の確保、財政面など様々な課題を抱えており、このような社会背景の中で、全国から老人医療の専門性の確立を目指して意を同じくする有志数名が勉強会を始めた。昭和58年(1983年)、8名が世話人代表となり「老人の専門医療を考える会」を立ち上げ、事務分担は、東京都の天本病院、青梅慶友病院、上川病院で行うこととした。初代会長は天本宏氏。
その設立目的は、「今後急速に進むであろう高齢化社会の中で老人病院の果たす役割と専門性を考え、わが国における理想的な老人医療のあり方を追求し、全ての老人が安心してより良い医療を受けられる環境を実現させること」であり、25年目の現在も変わっていない。記録が確かな昭和60年以降の老人の専門医療を考える会の歩みをたどってみよう。(肩書きは当時のもの)
◇大熊由紀子.200503.「第12話 「悪徳」老人病院からの脱出」『月刊・介護保険情報』2005年3月号.
http://www.yuki-enishi.com/kaiho/kaiho-12.html
「(略)
この出会いが一つのきっかけになって、天本会長、吉岡事務局長、小山・勝手連的広報担当の「老人の専門医療を考える会」が誕生することになりました。
会誕生のきっかけは、もう2つありました。
埼玉県の老人福祉課長として三郷中央病院を徹底的に究明した荻島國男さんが83年4月、老人保健課の課長補佐になって厚生省に戻ってきたのです。荻島さんは、若くして、「いずれ厚生省の事務次官」と衆目の一致する人物でした。
小山秀夫さんの父で社会保険審議会と老人保健審議会の会長だった路男さんと荻島さんは同じ高校の先輩後輩という縁もあって旧知の間柄。その上、荻島さんが秀夫さんの論文を読んでいたこともあって二人は意気投合しました。
小山さんは、天本さんの1年後に青梅慶友病院を開設していた大塚宣夫さんを荻島さんに引き合わせました。ところが、その日のうちに大喧嘩になってしまいました。
三郷中央病院の一件もあって医師不信状態の荻島さんが「患者をビジネスの対象にする、医者なんてロクなもんじゃない」と言ったのが始まりで、大塚さんが激怒。「僕は、オフクロにちゃんとした専門医療をしたいと思って始めた。あなたが見た病院のようなものばかりと思うなんて、許せない」
そのころ、天本さんも、怒り心頭状態でした。「痴呆性老人に運動療法は妥当とは思えない」と診療報酬を大幅に削られたからです。
2人のこの怒りが発火点になって、83年、「ほんとうの老人医療を極めて広めよう」と研究会が発足することになりました。
荻島さんはこんどは、最大の理解者になりました。(略)」
◇「天本 一九八五年に『老人の専門医療を考える会』は、できました。僕や青梅慶友病院の大塚先生が、病院を建てたのは一九八〇年です。その頃は、悪徳老人病院の告発記事が新聞に掲載されて、老人病院バッシ<35<ングの時代です。我われのやっていることすべてが否定されました。
お世話料の問題もそうですし、付き添いもつけないでやってるとか、痴呆症の人にリハビリさせているとか。必要な治療としての点滴注射もぜんぶカットされ、仲間の医者からも否定された。我われは現場で医療、ケア、リハビリも必要だと思うからしているんだけど、学問的にも誰も肯定しないし、いろんなことで叩かれた。
それに憤りを感じた人達が集まってきた。なんとなく集まってというふうにしていたら、そこに青梅慶友病院の大塚宣夫先生がいて僕がいた。老人病院の中でも真剣に取り組んでいる姿を、当時の厚生省の人がみていて、中核になるような人に声をかけたんじゃないでしょうか。
ある意味では『老人の専門医療を考える会』で、大塚先生と僕がやってきたことが今のような形になってし、組織をつくって良くしていかなきゃいけないという発想でした。そして僕がその会の初代の会長になりました。」(天本 2004:35-36[新福監修 2004:35-36])
◇天本宏(天本病院理事長)
http://sun.ten-ou-kai.or.jp/aisatsu.html
◇漆原彰(大宮共立病院理事長)
http://www.omiya-kyoritsu.or.jp/html/goaisatu-annai.html
◇新貝憲利(成増厚生病院院長)
http://www.mhcg.or.jp/narimasu/about/gaiyou.php
◇
大塚宣夫
(青梅慶友病院理事長)
http://www.keiyu-hp.or.jp/outline/target.php
◇新福尚武(元東京慈恵会医科大学精神医学科教授)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%90V%95%9F%8F%AE%95%90/list.html
◆福永 哲也 編 198309 『ぼけ老人の家庭看護』,家の光協会,254p. 1100
◆中島 紀恵子・石川 民雄 198311 『ぼけ――理解と看護』,時事通信社,262p. 1300
■1984
◆中川 晶輝 19840425
『ここに問題が――老人の医療と福祉』
,同時代社,206p. ASIN: B000J727AU 1890
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※ b a06
「ところで、これ(「診療担当規準」/引用者補足)がたんなるお説教にとどまらず、具体的な診療規制となっているところに問題があります。
つまり「みだり」と「みだりでない」診療との間に「老人の入院に限って」ある種の差別がおかれているのです。ここに明らかな「差別診療」があります。こんどの老人保健法の「規準」に従えば、七十歳以上の老人を六割以上抱えている医療機関を「老人病院」と規定し、そのような病院に対しては、およそ医学的常識を無視した、厳しい診療制限を課しているのです。
たとえば、心電図、脳波は月に一回、注射は一か月百点、処置は三十点と定められています。つまりこれ以上は「みだりに」検査、注射、処置をしたことになるのです。だが、検査はいつも一回だけでピシャリと正確無比の結果が出るとは限りません。一回のデータに疑問を感じた時、二回、三回と「反覆」してはじめて、より正しい診断を加えることができるのです。それを、一回の検査に押さえることは、「老人には正確な診断は<58<不必要」という意図かと疑われます。また、抗生物質を一、二回注射すれば、たちまち百点は吹っとんでしまいますし、結膜炎で二回も洗眼すれば、あとはどんなに目やにや涙が出ようとも、それこそ「処置なし」です。
要するに、老人は、物質生産性に寄与できぬ、社会にとって役立たずの「お荷物」だから、病気になったからといって、正確な診断も治療も不必要、できるだけ早く死んでしまった方が「お国のため」であるらしい。
「老人病院」征伐
こうした診療制限は、医療を受ける老人の生命ばかりでなく、診療をする病院の側の生命をも危うくします。診療制限は即診療収入制限につながるからです。それというのも、老人を六〇%以上入院させると「老人病院」のレッテルを貼られるからです。そこで病院として生きのびるためには、「老人病院」のレッテルを追放せねばなりません。それには、六〇%をこえた部分の頭切り、つまり余分の老人を病院から追放することによって命脈を保とうとする工作がなされます。この二月以降「病院から退院を命ぜられているが、行先がなくて困っている」との訴えが「老人のいのちとくらしを守る電話一一〇番」を賑わしたのもそのあらわれでしょう。
このようにして、入院中の老人の診療費を減らすだけでなく、ゼロにすること、つまり「病院からの追い出し」こそが、こんどの老人保健法の裏側にある恐るべきねらいであることが、しだいに明らかになってきました。四百円、三百円といった「有料化論争」は、いねば陽動作戦であったのです。
たしかに、いままでのいわゆる「老人病院」の中には目にあまるものがありました。「みだりに」検査、投薬、注射、処置をおこなって、多額の診療費をかせいでいた「老人専門病院」も少なくなかったようです。老人人口の急増に伴う社会政策が立ち遅れのため、「ねたきり老人」を抱えこんで困窮している家庭が多く、し<59<かもこうした老人の受け皿となるべき特別養護老人ホームのベッド数の絶対的不足という状況の中から、ここ数年間雨後のタケノコのように「老人病院」が乱設されて特養の代替施設の役割を果たしてきました。事実、特養のように長く待たされることなくはいれるし、「老人ホーム」より「病院」の方が外聞もよいし、で入院中し込みが殺到して一時はブームとなり、「老人病院花盛り」でした。しかし「花」は表面だけで、中にいる老人は必ずしもしあわせとぱいえなかったようです。すべての老人病院がそうであったとは申しませんが、老人を食いものにしてひともうけをたくらんだ病院も少なからずあったらしい。
これまでにものべたように、本来老人患者は、手がかかるわりに収益が少ないから、病院にとって「招かざる客」のはずです。それなのに、りっぱなパンフレットをつくって方々に宣伝し、「カムカムエブリバディ」とやるからには何かがある、と疑わざるを得ない。つまり、老人にとって有害無益な「くすり」をやたらにのませ、不必要な検査を連日強行し、最も必要な「介護」職員を置かず、老人を文字どおり「飼い殺し」にして、ばく犬な収益をあげてきたようです。私自身、特養入所希望の老人を診査するために、彼の入院している病院を訪ねたところ、その老人は点滴注射を受けていました。特養へ入所を希望するほどですから点滴など必要はないはずです。ところが、その部屋の者全員、さらに他の部屋の老人も、みないっせいに点滴をうけていたのには驚きました。驚く方がばかで、採算のとれぬはずの老人患者を集めてひともうけするには、当然の処置でしょう。
こうした、いわゆる「くすり漬け」「検査漬け」の「老人病院」に対する世間の批判がようやく高まってきたのに呼応して、「老人保健法」はこれら「悪徳病院」を征伐する「正義の味方」として登場してきたのです。<60<
つまり、「みだりに」投薬や検査ができないように、きわめてきびしい、否、あまりにもきびしすぎる、医学的良識も無視した、無茶苦茶な規制を設けることによって「破邪顕正の剣」をふるおうとしたらしくもあります。
だがこうした規制が、すべての病院に対して平等におこなわれたのでなく、七十歳以上の老人を六〇%以上抱えている「老人病院」にだけ適用した、というところに問題があります。もし全病院に適用したら、たちまちドクターズパワーの総反撃をうけて、政府は袋叩きにあったでしょう。そこで一部の病院をスケープゴート(犠牲の小羊)に仕立てて、「見せしめ」的規制をおこなったのです。
たしかに、「くすり漬け、検査漬け」で荒かせぎをした「悪徳病院」が「みせしめ」のためにお灸をすえられるのは、けっこうなことです。しかし、「老人病院」の中にも、ごく少数ながら、じつに良心的に運営されている病院を私は知っています。しかしこんどの保健法は、そうした過去の実績を一切問うことなしに、ただ「老人入院率六割以上」のみを基準にしてレッテルをはり、ミソもクソもいっしょくたに、無茶苦茶規制を押しつけて、「病院つぶし」を工作しているとしか考えられません。しかし政府にとっては、つぶれた病院が「よい病院」であろうと「悪い病院」であろうと、そんなことはおかまいなし、要するに総医療費を削減できさえすれば、万万歳なのでしょう。
しかも、ほんものの「悪徳病院」は、これくらいのことでビクともしません。いくらでも抜け道をみつけて、ますます肥え太っていきます。結局、「征伐」されたのは、むしろ良心的な老人病院でしょう。これらこそほんものの「スケープゴート」であります。<61<
ヤブ医者
老人保健法は、「悪徳病院」という「鬼」を退治する「桃太郎」よろしく、さっそうと登場しました。そしてなみいる鬼どもを、バッタ、バッタと斬り殺したように見えました。しかしよく見ると、殺されたのは「鬼」ではなく、なんの罪もない老人たちでした。鬼どもは、いちはやく入院中の老人を追い出して、「老人入院率六割以下」に抑え、「一般病院」の仮面をかぶって、厳しい診療規制を免れました。期日までにそれが間に合わず、「特例許可外病院」というレッテルを貼られて規制をうけるはめになった病院は、「自存自衛の必要」上、患者さんから直接「お世話料」とか「運営管理協力費」などといった名目で、数万から十数万の差額徴収をするなど、いっそう「鬼」の真面目を発揮しています。つまり「悪徳病院」に圧力を加えて、その経営をなり立たせないようにとの企図が、かえってその「悪徳性」を奨励する結果になったのです。結局、いちばんひどい目に会ったのは老人たちで「去るも地獄、留まるも地獄」でした。また少数の良心的な老人病院も「老人数六割以上」という「鬼ケ島」にいたばかりに、真先に桃太郎の血祭に上げられてしまいました。こうして「良貨」ばかりが駆逐され、「悪貨」はゆうゆうと生きのびています。
老人保健法は昔話では「桃太郎」でしたが、現代流にいえば、日本の医療を蝕む病巣にメスを加える「名医」の装いをして登場しています。だがそのメスの刃先は健常な部分を切り取ってしまったため、悪い病巣をますますひろげる結果となりました。とんだヤブ医者です。もっとも、前述のように、つぶれたのが良心的病院であろうと、悪徳病院であろうと、それによって総医療費が削減できさえすればよいのであり、また「特例別許可外病院」が生きのびるために、老人患者からどんなに多額の「協力費」をむしり取ろうと、保険診療請<62<求点数が制限基準内に抑えられさえすれば、目的は十分に達せられたことになり、たとえ病院を追い出された老人の家庭が困窮のはてに一家心中の事態を招こうと、国の経済的危機の緩和に貢献したという意味では、やはり「名医」なのでありましょうか。しかし、「全地球よりも重い」貴重な人命を守るべき使命をになっているにもかかわらず、地球上のちっぽけな一国の経済のために、多数の人命を犠牲にして省みない「迷医」は、まさに「ヤブ医者」と断ずべきでありましょう。私はいささか極端な表現を用いましたが、為政者の姿勢というものが、なによりも「人命尊重」という方向性に徹してほしいとの願いからに他なりません。」(中川 1984:58-62)
「このような強制された「悲惨な生」、身体精神両面の「不自然な生」からの脱出を求めて老人の「安楽死願望」が生じてくるのもまた当然でありましょう。それは、現在の「悲惨な生」よりもまだ「死」の方が「安<72<楽」であろうと思うが故であります。つまり老人に、とくに特養老人に、「安楽死願望」、「ぽっくり死志向」が統計上多いといわれているのは、まさに「悪しき生」からの「脱出願望」が強いということに他ならないのでありましょう。ということは、かれらがほんとうに求めているのは「死」ではなく、「悲惨でない生」であるということです。「安楽死願望」は「安楽生願望」の裏返しであることに留意すべきであります。
しかもこの「悲惨な生」の多くの部分が、人間の、社会のつくり出した一種の「人災」である以上、私たちが老人に対して用意すべきものは「安楽死」ではなく「安楽生」、つまり「社会環境条件の整備」でありましょう。そのためには、人間が「物」に奉仕する「生産第一主義」的価値観を、私たち自身の中で払拭し、自己変革を断行せねばなりません。これは他人事ではない、私たちひとりひとりの将来に関わる重大な事柄であります。
三 「安楽死」に関して
最後に「安楽死」について一言申しのべて終りたいと思います。
「安楽死」という発想の原点ともいうべきものは、一九世紀頃、一部の良心的な医師たちが、瀕死の苦痛にのたうちまわる患者を目前にして、何とかして楽にさせてやりたいと思いつめたところにあるようです。つまり発想ぱあくまで「苦痛の除去」であり、目的は「安楽」にあるのであって、断じて「死」ではないということです。近代医学の目ざましい発達は、はたして人類にとってプラスとなったか、マイナスとなったか? いた<73<ずらな「延命効果」には、今日多くの批判があるようです。ただ、もしなんらかのプラスがあったとすれば、それは麻酔学の発達によって、病気の苦痛をわずかでも緩和する方策が見い出だされたことではないでしょうか。
(中略)
昭和三十七年に名古屋高裁で、安楽死が認められるための「六要件」が提示されました。太田典礼氏はこれを「四要件」に集約しておられます。即ち①不治で死期切迫が確実であること、②生きているのが死にまさる苦痛であること、③本人の希望であること、④苦痛の少ない方法が選ばれること。ところで①の判定ははたして可能か。誰がどのような資格で断定するのか。②の判定も同様であり、「死」の経験をもたぬ人間に「死と<74<生の苦痛の比較」などできるはずがない。③「本人の希望」も何を根拠とするか。④はいまさら要件とするまでもなく当然であろう。-といった問題点が残ります。ことに③に関しては、「安楽死」が問題とされるのは、「本人の希望」が表明できない時点であり、元気な時にいったことばや書いたものにそのような「希望」があったとしても、死を目前にした危機的状況の中でもまったく同じ「希望」をもちつづけているとは、誰も確言できません。もしも元気な時の「遺言状」を根拠として「安楽死」の執行を許すとすれば、それは法律の冷酷な非人間性の暴露という他はありますまい。
「医療辞退連盟」の人たちは、「基本的人権」の問題として、「人問には医療を受ける権利があると同時に、受けない権利も保障されねばならぬ」と主張します。だが、かれらがこの後者の権利を主張するとき、前者の権利の保障を当然の前提としています。しかし、かれらにとって当然のこととされている「医療を受ける権利」を奪われているのが老人たちです。その意味で「医辞連」の人たちは、老人たちから見れば、ぜいたくな要求をもったエリートであります。
いまひとつ、問題なのは、「死ぬ権利」を主張する人たちの「価値観」です。米国での有名な「カレン裁判」では、「尊厳なる死」を根拠として、安楽死を法的に保障しました。つまりカレンさんの植物人間のような生には、人間としての尊厳が存在しない。だからその尊厳性を保つために、彼女に備えつけられた人工蘇生器を外して死を与えることは法的に処罰の対象にならぬ、という判決です。もしこの法律が今日の日本の現場に適用されるならば、特養にいる「たれ流しの恍惚老人」は、その生が「不尊厳」なるが故に「尊厳なる死」を与えるべし、という議論になりかねません。これは恐るべきことです。若く美しい、また健康で生産力のある<75<生は尊厳であり、その反対の生は不尊厳であり、生きる資格なし、とのきめつけにつながります。私たちはここでもう一度、「人間の尊厳」という問題について、考えなおしてみる必要があると思います。
いま一つ、「安楽死肯定」派の中に、これを「老齢人口増加」の実態と結びつけた、いかにも説得力のある、それだけにきわめて危険な議論をなす者がいます。つまり、年ねん老人が増えていくことにより、生産人口と非生産人ロとが接近し、人類全体の生存に危機が迫ってくる。したがって、「生き残る」ためには、適者生存、弱肉強食の「自然の理」に従って、弱者の「安楽死」を承認、否奨励しよう、という発想です。これは、「役立たずは殺せ」というナチズムにつながります。もともと動物界に見る自然淘汰の原理を、そのまま人類生存の原理に適用するのはあやまりであります。「弱肉強食」によってではなく「相互扶助」によって生きつづけてきた歴史を人類はもっています。それが「万物の霊長」たる「人間の知恵」ではないでしょうか。このかけがえのない「人間の知恵」を今後も保ちつづけ、「相互扶助」によって「共に生きつづける」ことは不可能でしょうか。もし万一、将来の滅亡がさけられないものであるならば、弱者を押しのけ、踏みつけて、たまさかに生きのびるよりも(それでも早晩滅亡は免れ得ません)、むしろ、「皆でいっしょに、仲良く手をつないで滅びようではないか。有能者も無能者も、平等に生き、平等に滅びることこそ、人類最大の知恵であり、真のヒューマニズムではないでしょうか。」(中川 1984:72-76)
「このたび、全国老人福祉問題研究会で編集している雑誌「ゆたなかくらし」選書の一つとして、本書を出すことになりました。」(中川 1984:206)
【関連情報】
■全国老人福祉問題研究会
http://www1a.biglobe.ne.jp/roumon/
■1985
◆東京都老人総合研究所 198503 『小金井市における痴呆老人実態調査と訪問看護に関する報告書』,東京都老人総合研究所看護学研究室,74p.
◆
二木 立
19850801
『医療経済学――臨床医の視角から』
,医学書院,283p. ISBN-10:4260135635 ISBN-13: 978-4260135634 3465
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※ b a06 d me
「わが国では,老人ホームの絶対的不足が病院で代替されるという「福祉の医療化」政策が伝統的である3)。 1970年代はわが国が高齢化社会に突入した時代であり,当然それに見合った老人福祉施設の急増が計画的に行われるべきであった。しかし1970~82年の老人福祉施設定員数の増加は,同時間の病床数増加のわずか28.8%にとどまった。その結果,急増した老人のケアが病院で代行されるという「福祉の医療化」政策が1970年代に加速されたといえよう。
4.私的中小病院の「中間施設」への転換は可能か
しかし,そのような「福祉の医療化」政策は,国民医療費の急騰を加速することにより破綻し,老人保健法(1983年2月実施)が登場することになった。
この老人保健法では,患者の自己負担の復活による受診抑制がはかられると共に,「老人特掲診療料」により老人病院規定の新設一病院の選別が行われたことは記憶に新しい。その結果,1983年度は特例許可外老人病院が95,特例許可老人病院が540認定され,前者では20~30%,後者でも2~5%の減収がもたらされることになった。
このように厚生省は診療報酬制度の操作をテコとして,これら老人病院の「中間施設」への転換,あるいは廃業を誘導しようとしている。例えば厚生行政のオピニオン・リーダー・佐分俊輝彦氏(病院管理研究所長)は老人保健法成立直後に,日本の病床は今の半分でよく既存の病床の半分は<201<ナーシングホームに転用すべきことを主張されていた。また吉村仁現厚生省事務次官も保険局長時代に,「個人的な見解」として,現在ある160万床の病床のうち40万床ぐらいは「病院と家庭との間の中間的な施設」として再編すべきではないかと述べ,更に特例許可外病院に対しては「つぶれるか,許可病院のほうへ来るかどっちかにせよ」と明言していた4)。
しかし筆者には,それが成功するとは思えない。
まず事実問題として,老人保健法実施後に倒産した老人病院は一つのみ(1983年6月,広島・清風会)であり,しかもこれは過大投資と看護料の不正受給による理事長逮捕のためで,老人保健法とは関係がない。逆に大部分の老人病院は,患者に対する差額徴収の強化というサバイバル戦略をとり,それで成功している。この点についての公式数字はないが,巷間,東京周辺で5~10万円が相場といわれている。
筆者自身は医療近代化のために病院の機能別編成を行うことに賛成であり,一部の病院を「中間施設」に転換すること自体にも反対ではない。しかしその前提として,病院機能(特に人材面)の大幅向上が不可欠であると考えている。
よく知られているように,わが国の病院の器械・設備の保有率は欧米諸国のそれを大幅に上回っている。例えば高額医療機器の代表ともいえるCTスキャナーの設置台数は1982年で人口100万対18.5台であり、アメリカの10.7台の1.7倍に達している(第4章第2節→114頁参照)。
その反面,人材面の水準は欧米諸国のそれを大幅に下回っている。厚生省「医療施設調査」によると100床当たりの職員数は一般病院でも84.6人,全病院では76.5人(1982年)にすぎない。それに対してアメリカのコミュニティ病院注1)の患者100人当たり常勤職員数は376人(1982年,Hospital Statistics 1983年版)に達し,西欧の一般病院でも100人は大幅に上回っている。わが国の最高の看護体制である特Ⅱ類ですら,欧米諸国のナーシングホームの水準にすぎないのである。
費用面から比較しても,アメリカの病院の1日当たりの入院費は市立病<202<院ですら5万円,一流の民間病院では優に10万円を超え、しかもこれらの中には医師の診療費が含まれていないのである。病院とナーシングホームとの費用の格差は約5倍であり,これがアメリカにおいて病院抑制・ナーシングホーム育成を行う原動力となっている注2)。
これに対してわが国の病院の入院1目当たり医療費は,比較的大病院が多い甲表病院でも16,456円,同大学病院でも23,005円にとどまっている(「医療機関別診療状況調」1983年6月診療分,社会保険本人)。更に多くの老人病院や精神病院の1月当たり医療費は,特別養護老人ホームの平均的費用20万円を下回っているとさえいわれている。
このような日本の病院の人材・費用面での著しい低水準を抜本的に改善しない限り,病院の機能別再編成は不可能ではなかろうか。」(二木 1985:201-203)
■1986
◆大熊 一夫 19860531
『あなたの「老い」をだれがみる』
,朝日新聞社,朝日ノンフィクション,261p. ISBN-10: 4022555408 ISBN-13: 978-4022555403 1100
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→199003 朝日新聞社,朝日文庫,307p. ISBN-10: 4022605898 ISBN-13: 978-4022605894 480.
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「本書は、『週刊朝日』昭和60年(1985年)3月22日号と同年7月19日号からどう12月20日号、および昭和61年(1986年)1月31日号に掲載された『ルポ 老人病棟・あなたの「老い」をだれが看る』をまとめた
ものである。」(大熊 1986:6)
「閉鎖性の強い精神病院に閉じ込められている人々は、この世でも最も虐げられた階層である。そんな病棟の中でさらに最下層におかれているのが、いわゆる「ボケ老人」たちであることを、私は初めて知った。人生の最終楽章をこんな形で送る人々がいるのは、ひどく気になった。
その後、老人たちをめぐる情勢は逼迫(ルビ:ひっぱく)の一途をたどっている。日本の平均寿命の長さは昭和六〇年で三年連続世界一。とくに、女性の皆さまはこの年、世界ではじめて八十歳代にのった。(以下、略)」(大熊 1986:8)
「小説『楢山節考』でおりん婆さんが捨てられたのは、人里は離れた雪山だった、しかし、現代の姥捨山(ルビ:うばすてやま)は、大都会周辺部の田んぼの中に立っていた。
首都高速を筑波の例の科学万博会場方面へ二十分ほど走り、三郷(ルビ:みさと)インタで降りてUターンし、南へ六、七キロ下ったあたり、そこに三郷中央病院はあった。(中略)<28<
いったい、どんな診療が行なわれていたのか。
埼玉県生活福祉部には「三郷中央病院事件とその教訓」と題した取扱注意のマル秘文書がある。それによれば、その乱診乱療ぶりは、次のような<29<経過で明らかになっていった。
同病院から提出された国民健康保険のレセプト、つまり診療報酬請求明細書によれば、五十六年六月から同年十一月までの月割りの患者一人当たり請求額は七十五万余円。これは、県内五十以上の老人病院の中でも群を抜いて高かった。埼玉県の五十五年度の国保での老人一人当たり入院費は約四十万円だった。この県内平均四十万円という額自体も高すぎて、埼玉県内の老人病院がおしなべてあまり上等ではなさそうな雰囲気を感じさせる。
県が同病院のレセプトの内容を分析してみると次のような疑問が出てきた。
①入院時の病名、入院後の併発病名などが、画一的である。
②注射や検査も画一的で本当の病名にそっているとは思えない。
③内服薬は種類、量とも多すぎる。
④禁忌(ある病気にはけっして使ってはいけない)薬剤が数ヶ月にわたって処方されている。
⑤点滴が異常に多く、請求額の六〇~八〇パーセントを占めている。
⑥テレメーター(患者の心臓の動きをFM電波によって遠隔監視する装置)による連日監視が多すぎて、レセプトの治療内容にそぐわない。
⑦おびただしい検査が行なわれ、しかも医師がその結果に応じた治療処置をやっているとは思えない。
七つの疑問を解くため、同部は五十七年三月末に立ち入り検査を開始した。(中略)<30< (中略)<31<
悪徳病院と「点滴ぜめ」は、切っても切れない関係にある。もっとも、最近は「点滴ぜめ」はやや下火で、代わりにチューブで胃へ直接に液状の食物を送り込む「経管栄養ぜめ」が、悪い病院で流行しはじめたという。
ボケが進み、体力もないお年寄りには、こんな点滴はこたえたと思われる。元職員たちの記憶によれば、点滴を受けると、どの顔もむくんでいった。肝臓の処理能力を超えて液体が血中に入っていた証拠である。
点滴を嫌って逃げ回る人もいた。また、無意識に動いて注射器を抜いてしまうような人も大勢いた。<32<そんな人々は、ベッドの柵に腕をしばりつけられた。こうして「寝かせきり」にしておくと、たちまち「寝たきり老人」になってしまう(第19章に詳述)。筋肉や関節というものは、使い続けていないと、たちまち衰えて使いものにならなくなる。しかも元に戻らなくなる。実際、この病院に入った老人は、次々と「廃用性歩行不能」になってしまった。
なんの楽しみもない病棟で、おむつをあてられ、点滴ぜめにされれば、食欲も細る。体も弱る。褥瘡(ルビ:じょくそう)もできる。尿路感染症、肺炎も起きやすくなる。かくして……。
大半の職員は、院長の命ずるままに黙々と働いた。しかし、少数ながら、この事態を見るに見かねて県に内部告発した職員がいた。五十七年二月になると、新聞が乱脈ぶりを報道し始めた。四月には警察も動きだした。県は、五月末で院長の保険医の資格を、また病院の保険医療機関としての資格を取り消した。病院は、五十七年六月一日、廃院届を県に出した。」(大熊 1986:28-33)
「「老人病院」には、どこか、うさん臭いイメージがついてまわる。そうなった理由は、はっきりしている。
この日本には、残念ながら、医療の名に値しない姥捨山的な病院がすくなからず存在する。そのいくつかが、あまりにもあこぎに走りすぎて新聞記者や警察に尻尾をつかまれ、おそるべき実態の一部が世に知られるところとなる。本書第3章に紹介した三郷中央病院、幽霊看護婦で荒稼ぎをして、六十年夏に話題になった北九州グループ、チェーン病院の中でお年寄りをタライ回しにして巨額の収入をあげ、脱税し、院長がおめかけさんに入れあげていた荻中病院などは、その見本である。
一方で、お年寄りの身を案じてくれる真面目な老人病院が、ないわけではない。そのいくつかは本書にも登場した。実際の数はつかみにくいが、しかし世の人々が「良い病院」を探すときのなみなみならぬ苦労から推して、真面目派病院は多数勢力になり得ていないようである。(中略)<212<
そのうえ、もっといまいましいことがもちあがった。三郷中央病院など悪徳病院の摘発をきっかけにして、昭和五十八年二月に生まれた「老人保健法」という法律のおかげで、お年寄りの患者によかったと思われる診療が十分にできにくい雰囲気になってしまった、というのである。
そんな状況に腹をすえかねて、立ち上がった老人病院の院長さんがいる。東京・多摩ニュータウン近くにある天本病院(多摩市買取)の天本宏院長は、五十九年秋、同じく志を抱く老人病院の院長に呼びかけて「老人の専門医療を考える会」をつくった。「本物の老人医療を志向する院長さんたは、この指とまれ」というわけである。そして、この一年で、四十人の病院長が天本院長の指にとまった。」(大熊 1986:212-213)
「天本さんは「お年寄りだから」という理由で、治療の手を差しのべないのは罪悪だと考えている。
こんな事件があった。
老人保険法が施行されて四ヶ月後の五十八年六月、医療費請求額三千万円のうち約一割の三百万円分が保険の審査会でバッサリ減額された。「減点通知書」にはこう書かれていた。
「特定患者収容管理料算定の症例に対する運動療法は妥当と認められません」
この患者さんは、ひらたくいえば、寝たきりで全面介護を必要とする鼻腔栄養の人であった。寝たきりになった人にはリハビリは不必要だから、そんな請求はダメだというのである。「脳軟化症の(人の)腰痛に運動療法は認められません」という通知書もあった。これに対して、天本さんは猛然と意義を唱えた。」(大熊 1996:217)
◆伊東 光晴・副田 義也・日野原 重明・河合 隼雄・鶴見 俊輔 編 19861105
『老いの人類史』
,岩波書店,講座老いの発見1,306p. ISBN-10: 4000040316 ISBN-13: 978-4000040310
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※ b a06
山本俊一
19861105 「文明がつくる老いと病い」,伊東・副田・日野原・河合・鶴見編[1986]→山本[1992:143-162](題:「文明のつくる老いと病い」)
「延命技術
最近の日本では病気をもつ老人がふえてきており、ある統計によれば、理想的に健やかに老いることのできる老人は、全老人層の二五はパーセントに過ぎないという。このような傾向は、医学の発達の方向が病人に対する生物学的延命技術の向上のみに走り過ぎた結果として現れてきた、と言えよう。この傾向は、既に今世紀の初期に始まっており、その当時ヒルティは次のように述べている(3)。<157<
「今日の療養地のどこか一箇所を観察しただけでも、死に近づきつつある肉体のためにどんなに多くのことがなされ、また、どんなに多くの人たちが決して真の永続的な成果を生じるはずがない事柄に熱中しているか、分かるであろう。死をすこし延ばすことだけが、彼らがなしうるすべてである。しかも、すでに彼らの大部分が廃人――しばしば、ぞっとするような廃人――なのである。彼らは、肉体のことにくらべて、永続的な内的人間のことや、またその健康と生命について、心を用いることがどんなに少ないことだろう。実は、この方が真にやり甲斐のあることなのだろうに。」
これらのヒルティの言う廃人こそ、新しく文明によってつくられた病人の一つのタイプであると言うことができよう。」(山本[1986→1992:157-158] 引用部分は山本[1992]では1行空け、1字下げ。(3)の文献は『眠られぬ夜のために』、ヒルティ著、草間平作、大和邦太郎訳 岩波文庫)
◆
二日市 安
19861225 「冬の終着駅で」,
『季刊福祉労働』
33:048-055 ※
「障害者施設にしろ老人ホームにしろ、そこに働く人たちの善意を疑うのは、たぶん非礼なことであり、間違ったことなのだろう。ほかの仕事を選ぶこともできたのに、素朴な善意から施設職員の道を歩むことを選んだという人たちに、わたしはむしろ脱帽すべきかもしれない。
だが、あえていわせてもらうなら、その人たちは「選んだ」が、障害者や高齢者の多くは選ぶことすらできず、施設に「措置」されるのだ。そして、“老いた障害者”としてのわたしにも、やがて選ぶ権利を失う危機が迫ってくるのである。無用者排除の原理とやらに従って、そのときは、わたしもおとなしく選ぶ権利を放棄して、「措置」されるべきなのだろうか。
いやだ。もう一度いうが、冗談じゃない! わたしは「のたれ死」をこそ選ぶのだ。「のたれ死」を選ぶ方法を見つけ出すのだ。」
以下で引用
◇向井 承子 19930930
『老親とともに生きる』
,晶文社,285p. ISBN-10:4794961375 ISBN-13: 978-4794961372 1835
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※ b a02 a06
■1987
◆多田 富雄・今村 仁司 編 19870605
『老いの様式――その現代的省察』
,誠信書房, 318p. ISBN:4-414-80305-5 2415
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※ **
■1988
◆大熊 一夫 19880131
『ルポ 老人病棟』
,朝日新聞社,322p. ISBN-10: 4022558164 ISBN-13: 978-4022558169 1200
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※ b a02 a06→19920301 朝日新聞社,朝日文庫,384p. ISBN-10: 4022606967 ISBN-13: 978-4022606969 612
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※
内容(「BOOK」データベースより)
著者はかつて、アル中患者になりすまして精神病院に潜入、『ルポ・精神病棟』を著して衝撃を与えた。最近は老人問題に取り組み、前著『あなたの「老い」をだれがみる』では現代姥捨病院の実態を鮮やかに描き出した。今度は、神奈川県内の“標準的”な老人病院を例に、老人病棟がいかにひどい状況にあるかに鋭いメスを入れた。世界の福祉先進国、北欧諸国などと比べて日本の老人をとりまく環境がいかに大きく遅れているか、高齢化社会に入った日本の老人福祉の飛躍的向上を訴えた画期的なルポ。
■1989
◆大沼 和加子・佐藤 陽子 19890630
『家で死ぬ――柳原病院における在宅老人看護の10年』
,勁草書房,278p. ASIN: 4326798645 2314
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※ b a06
*作成:-2007:
天田城介
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立岩真也
2008-:老い研究会
UP: 20040828 REV:2021 20060428,1213 20070319,24,1220(ファイル分離),24,25 20080104
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老い
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