HOME > BOOK >

『老親とともに生きる』

向井 承子 19930930 晶文社,285p.


このHP経由で購入すると寄付されます

向井 承子 19930930 『老親とともに生きる』,晶文社,285p. ISBN-10:4794961375 ISBN-13: 978-4794961372 1835 [amazon][kinokuniya] ※ b a02 a06

■【内容(「BOOK」データベースより)】
東京に住む向井さんの家に、両親が身を寄せたのは、1972年の春のことでした。お父さんは73歳。お母さんは68歳。二人ともいくつかの病気を抱えていました。当時の平均寿命が、男69歳、女74歳。「親孝行も数年のことだと思った」と向井さんは正直に書いています。でも、それは「甘っちょろい誤算」でした。すでに日本の高齢化社会は急速に進みつつあったのです。老父母との20数年間の暮らしのこまごまを記録し、日本の老人医療・福祉のありかたを根本から問い直す本。

【内容(「MARC」データベースより)】
著者が病気を抱える両親と同居を始めたのは父親が73歳、母親が68歳の時。「親孝行も数年」と思ったがそれは誤算だった…。老父母との20数年間の暮らしの詳細を記録し、日本の老人医療・福祉のあり方を問い直す本。*

・著者紹介[bk1]
1939年生まれ。北海道大学法学部卒業。ノンフィクション・ライター。医療福祉を主なテーマに執筆している。著書に「小児病棟の子どもたち」「看護婦の現場から」など多数ある。

■目次

誰か私を助けてください
1 あの橋をわたるとき
 あの箸をわたるとき

2 老人と暮らす日々
 電磁調理器
 おばあちゃんの神通力
 ご近所
 わが家のウサギ闖入事件
 マドンナたち
 骨なし豚
 犬を連れて歩いてたら
 老人の文章教室で
 「在宅」を支えるもの

3 老人と医療
 医療と福祉の谷間で
 ある老人病棟からの報告
 ネットワーク型地域医療の挑戦――大阪府松原市見学記

対談 制度というお化け・家族という神話――岡本祐三医師と

医療福祉用語小事典
あとがき

■引用

 「「のたれ死の自由を」というタイトルを他でも見た。尊敬する二日市安(後藤安彦)さんだ。「冬の終着駅で」と題されたエッセイが『季刊・福祉労働』誌に掲載されたのは一九八六年だった。エッセイを書かれた直後、最愛のパートナーだった仁木悦子さんを失われた。しんしんと迫る老いと死を描くエッセイの中でも、そのかなしみと憤りが深く迫る異様な小品として、時代に記録されるべきものと思う。幾度も読み返した二日市さんの文章をここに少し引用させていただきたい。
 「もともと脳性麻痺で自由のきかないわたしの四肢のなかで、比較的自由に動いていたのが右腕だった」、という二日市さんの右腕が機能低下し始める。「心理的なものだよ」と言われることを期待して医師に相談する。が、「診察の結果として出た答えは、わたしの予想や楽観的希望とは違ったものだった。要するに、もともとの障害に老年が加味されて別の障害が発生したというのだ」と宣言されたところから二日市さんは「老いという名の終着駅について考えざるを得ない状況に立たされ」た。

 (以下、二日市の文章の引用/下記の「(中略)」は筆者によるもの/引用者補足)
 体力の衰えも機能の減退も感じなかった若い時期、わたしは自分なりの意味合いで「のたれ死」を考えたことがあった。(中略)わたしは死ぬ場所にはこだわらない。それが施設<56<以外の場所なら、それで立派な「のたれ死」だと思う。誰からの拘束も受けずに仕事や運動や遊びを好きなだけやり、持っている限りの体力を使い果たしたら、そこで死んでいく。気がついたら死んでいた――他人にとっても自分にとってもそんなふうに感じられるような死に方をしたいと思い、また簡単にそうできると思っていた。
 だが、いまとなっては、ただそれだけのことが容易に実現できない夢であるのを思い知るしかない。
 いまよりもっと老い、肉体的にもっと衰えた何年か後のわたしに、果たしてどれだけの選択の自由が残されているだろうか。子も孫もなく、現在住んでいる家以外はまとまった資産とて持たない障害者老夫婦のわたしたちに、国はどこまで「のたれ死の自由」を認めてくれるだろうか。
 妻とわたしのどちらが先に死ぬかはわからない。だが、どちらが死んでも残った方はひとりで生きつづけるだろう。しばらくのあいだは……。しかし、生き残ったひとりがもしわたしの方だったとして、何年か後に気力も体力も尽きて、それでもまだ生きつづけるとしたら、どういう現実が待っているだろうか。そのときは首尾よくのたれ死できるだろうか。

 だが、「施設という関門」が登場してくる。「障害者もしくはそれに近い状態になった高齢者<57<専用の特設予備改札口」である。「“措置”して、寝せ、食べさせ、排泄させ、そしてまた寝せるための場所としての施設」とは「思想もなく、男女交際もなく、飲酒もなく、あるのはただ仕事としての介護だけ」という「場所」、それを二日市さんは「拒否の対象」として視る。

(以下、同様に二日市の文章の引用/下記の「(中略)」は筆者によるもの/引用者補足)
 障害者施設にしろ老人ホームにしろ、そこに働く人たちの善意を疑うのは、たぶん非礼なことであり、間違ったことなのだろう。ほかの仕事を選ぶこともできたのに、素朴な善意から施設職員の道を歩むことを選んだという人たちに、わたしはむしろ脱帽すべきかもしれない。
 だが、あえていわせてもらうなら、その人たちは「選んだ」が、障害者や高齢者の多くは選ぶことすらできず、施設に「措置」されるのだ。そして、“老いた障害者”としてのわたしにも、やがて選ぶ権利を失う危機が迫ってくるのである。無用者排除の原理とやらに従って、そのときは、わたしもおとなしく選ぶ権利を放棄して、「措置」されるべきなのだろうか。
 いやだ。もう一度いうが、冗談じゃない! わたしは「のたれ死」をこそ選ぶのだ。「のたれ死」を選ぶ方法を見つけ出すのだ。
 (中略)
一九五三年に死んだアメリカの詩人ディラン・トマスに「あの快い夜におとなしく入っ<58<てはいけない」という詩がある。死に近い老いた自分の父親をみつめながらつくった作品で、「あの快い夜」とは死をさす。おとなしく死んではいけない、老人は病と格闘しながら、死の影を拒否して最後のぎりぎりまで荒れ怒りながら生きるべきだ――という激しい呼びかけの詩句がつづく。
 死そのものと最後まで格闘しとおす自信はわたしにはない。だが、死の前哨戦としてのあの高齢障害者専用の予備改札口を通ることだけは、あくまで拒否しとおすつもりだ。
 主体性を放棄して施設の生活に身をゆだねるのは、わたしにとって死以上の死だ。」


*作成:天田城介
UP:20080104
向井 承子  ◇老い  ◇介助・介護  ◇身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
TOP HOME (http://www.arsvi.com)