『老いの様式――その現代的省察』
多田 富雄・今村 仁司 編 19870605 誠信書房, 318p.
last update:20131019
■多田 富雄・今村 仁司 編,19870605,『老いの様式――その現代的省察』,誠信書房, 318p.
ISBN-10: 4414803055 ISBN-13: 978-4414803051 \2300+税
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■内容
本書では、「老い」が何であるかを多面的に考察される。「老い」が医学・生理学・心理学から自然科学的に分析され、文明論的かつ社会科学的に考察される。
本書は、全体として問題提起の書物であり、「老い」そのものの研究が開始された学問的潮流への参加の試みである。(「はしがき」より抜粋)
■目次
はしがき 今村 仁司
第1章 老いの医学
1 老いとは何か 今堀 和友
老化の定義/加齢と時計/生物時計/発生と老化/生理的老化/病的老化/おわりに
2 臨床経験からみた「老い」の諸相 吉川 政己
はじめに/生理的老化について/代表的な成人病/健康について/「老い」と精神・心理的領域/社会科学領域/おわりに
3 老いの姿 日野原 重明
外見上の老化/感覚器にみられる老化/内臓の機能の老化/脳機能の老化/性格行動としての老化による変化/老化を内的にみた私の老化観/老人と死と若者/人生の旅
第2章 生命と老い
1 分子生物学からみた老い 中村 桂子
生きるということ/有性生殖/生物にとっての老化/老化の定義/老化への生物学的アプローチ/細胞の寿命再考/もう一つの不死細胞/おわりに
2 老化と免疫系――スーパー人間の崩壊 多田 富雄
老いというタブー/老いの多重構造/全体の老いと部分の老い/ひな型としての免疫/免疫系という小宇宙/胸腺/免疫系における老化/二〜三のヒント/おわりに
第3章 心と老い
1 老いの心――精神の老化 長谷川 和夫
老年者の心理とその要因/知能の老化について/知能の老化にみられる特徴/知能の老化に影響する要因/通常老人の健忘と痴呆/老年期の感情/老年期の意欲
/老年期の性格変化/老年期の適応/老人の"生きがい"/おわりに
2 老人になること 三浦 朱門
第4章 文明と老い
1 メタファーとしての老い 河野 博臣
隠喩(メタファー)としての老い/現代文化のがんと老い/老いと文化/メタファーとしての老人/老いと寿命/老いと喪失の時、生と死の弁証法
/老いとイニシエーション、そして、トランスパーソナル・サイコロジー
第5章 社会と老い
1 若さ信仰と現代 柏木 博
若さへの強迫観念が産み出す物語/死と老いのイメージ/若者中心の文化=経済中心の文化/歴史性を断ち切った社会
2 家族の社会化と老いの行方 今村 仁司
或る体験/家族と市民社会/老人と子供/ささやかな心構え
3 老いの価値 阿部 年晴
人類と老い/人生における老年/老人と幼児/いたずら者/耄碌/祝福と呪詛/老人遺棄と王殺し
4 男性の老い、女性の老い 江原 由美子
「引退」と老賢人のイメージ/老いの志向と老いの状況/母役割・祖母役割のおしつけ
5 高齢者と生涯学習 宮坂 広作
高齢者の学習意欲と学習障害/市民大学と高齢者学生/高齢者の学習権/各自治体の高齢者教育施策/高齢者の発達・学習課題/諸外国の高齢者教育
あとがき 多田 富雄
■書誌情報
◆今村 仁司 「はしがき」
『老いの様式――その現代的省察』:i-iv
第1章 老いの医学
◆今堀 和友 「老いとは何か」
『老いの様式――その現代的省察』:3-20
◆吉川 政己 「臨床経験からみた「老い」の諸相」
『老いの様式――その現代的省察』:21-40
◆日野原 重明 「老いの姿」
『老いの様式――その現代的省察』:41-49
第2章 生命と老い
◆中村 桂子 「分子生物学からみた老い」
『老いの様式――その現代的省察』:53-75
◆多田 富雄 「老化と免疫系――スーパー人間の崩壊」
『老いの様式――その現代的省察』:76-100
第3章 心と老い
◆長谷川 和夫 「老いの心――精神の老化」
『老いの様式――その現代的省察』:103-130
◆三浦 朱門 「老人になること」
『老いの様式――その現代的省察』: 131-154
第4章 文明と老い
◆河野 博臣 「メタファーとしての老い」
『老いの様式――その現代的省察』:157-188
第5章 社会と老い
◆柏木 博 「若さ信仰と現代」
『老いの様式――その現代的省察』:191 -208
◆今村 仁司 「家族の社会化と老いの行方」
『老いの様式――その現代的省察』:209-228
◆阿部 年晴 「老いの価値」
『老いの様式――その現代的省察』:229 -157
◆江原 由美子 「男性の老い、女性の老い」
『老いの様式――その現代的省察』:258-281
◆宮坂 広作 「高齢者と生涯学習」
『老いの様式――その現代的省察』:282-307
◆多田 富雄 「あとがき」
『老いの様式――その現代的省察』:309-310
■引用
柏木 博,19870605,「若さ信仰と現代」多田富雄・今村仁司編『老いの様式――その現代的省察』:191 -208,誠信書房.
死と老いのイメージ
『コクーン』の中では、“老い”ることが“死”と結び付けられて語られている。つまり老人たちは死ぬことのない命を求めて、限りなく死後の世界に近い宇宙へと旅に出る。
また、主人公の老人の一人がさかんに孫の少年と遊ぶシーンがリフレインされ、死と世代交代による命の連続ということのメタファーが暗示されるわけだが、老人は、
そうした“命の連続”に関する伝統的イメージを断ち切って、孫との別れを惜しみつつも、自らの命の永遠性を求めて、宇宙船に乗り込んで行く。たしかに、
わたしたちの社会が“老い”をうとましく思うことの要因の一つとして、それが“死”と結び付けられているからだということがあるだろう。それは、自らが死んでも、
その命を受け継ぐ、新しい世代がいるから死を受け入れるのだという、世代交代による命の連続という観念が希薄化していて行っていることを反映しているのではないだろうか。
それは、世代交代という家族の関係、つまりは歴史性の希薄化にもかかわっているはずだ。
ところで、広告はわたしたちの望むものであるならば、ほとんどそれに応えて、あらゆる映像を見せ>199>てくれる。[……]周知のとおり広告の映像は欲望の映像であり、
欲望の鏡である。しかし、もしわたしたちの欲望に応えてくれない、つまり見せてくれない映像があるとすれば、唯一つ、屍体の映像であろう。[……]
広告が屍体の映像を使わないのは、わたしたちの社会における屍体の扱われ方と、どこかで関連しているのであり、さらにはそのことが、今日のわたしたちの社会の、
“死”をうとみ、また“老い”をうとむ観念と結び合っているのではないか。
今日、わたしたちはそれが親しい家族の屍体であったにしても、その屍体を自由に扱うことはできない。言うまでもないことだが、屍体は習慣としてではなく、
法の管理のもとに、しかるべく処理されなければならないということになっている。勝手に屍体に手をふれるとすれば、それだけで犯罪になる。生きている人間であれば、
身体にふれたりかかえたりすることは自由であるにもかかわらず、死んだ瞬間から、同じ人間の身体でありながら、それが禁止されるのである。
死んではいるが肉体としては存在している屍体(つまりやがては腐乱し肉体も消え去って行く屍体)を、少なくともこの日本では(そして多くの西欧社会では)
よほどのことがないかぎり、絶対に見たりふれたりすることはありえない。せいぜい火葬する前の、まるで生きているかのように化粧された屍体を垣間見て、
あとは灰となった骨を見るだけだ。>200>
つまり、屍体の処理については一切、法が管理しているのである。そして、死そのものについても法が管理するにしたがって、わたしたちは、
自分の家で死んで行くということが少なくなって来ている。いまやほとんどの人が、病院で死んで行くのではないか。その結果、
屍体そのものが風化して行く過程を見る機会がなくなるどころか、人間が死に至る過程すらもしだいに目にすることがなくなってきている。
たしかに屍体を見るのは気色のいいものではない。それは「屍体とは自分の運命の似姿」(J・バタイユ)にほかならないからである。
法の管理のもとに死と屍体が処理されているかぎり、一方では、わたしたちは“なまなましい死”と向かい合わないですむということもできよう。
“なまなましい死”とは肉体としても消滅していく、いわば過程を含んだ屍体とでも言おうか。そうしたおぞましい“死”にわたしたちは立ち合う必要がないのである。
こうした法の管理のもとに生活しているわたしたちは、だからこそ“なまなましい” 死のイメージに対して実に過敏になってしまってもいる。
わたしたちが皺や白髪などを嫌うのは、それらが老化した皮膚であり、そこにやがて腐り行く屍体の臭いをかすかにではあれ嗅ぎとってしまうからなのではないか。かつて、
西欧世界以外の文化圏では、たとえ家族の人間が死んでも、その屍体をただちに処理することなく、屍体が腐乱し、風化して行くまで、
その家族の人間とともに生活するといった習俗を持つ文化が存在しさえする。それは、生きていた肉体が風化して行く過程を、“死”への過程としてとらえているのだろう。
かつて、日本においてもほとんどの人が、病院ではなく家で死をむかえていた時代にあ>201>っては、“死”への過程を家族が体験せざるをえなかったのではないか。そして、
病院で死をむかえることがあたりまえになるにつれ、さらに、死に至る過程である“老い”をも、家でむかえることなく、
病院へとつながる老人ホームでむかえることも少なくない状況になって来ている。してみれば、屍体の風化どころか、老いの過程すら、
わたしたちは目の前から遠ざけ始めているのだとも言えるだろう。
若さということに価値を置く、いわば若さ信仰は、なまなましい死を遠ざけるために屍体を管理し、死を管理し、
やがては老いを管理しようとするわたしたちの社会が必然的に産み出したもののように思える。生理的年齢と若々しさを区別しようとする、今日の若さ信仰は、
なまなましい死のイメージに対して過敏になっているわたしたちが、無意識のうちに起こす、死への拒否反応のひとつであるように思える。つまり広告が屍体の映像を見せないのは、
そうしたわたしたちの死に対する意識があるからだ。そしてSF映画『コクーン』のなかで、“老い”て行く過程を老人ホームで管理される老人のイメージと、
死のイメージが結び付けて語られることもまた、同じ社会の論理を背景にしているのである。(pp.198-201)
若者中心の文化=経済中心の文化
市場経済のシステムが支配するわたしたちの社会にあっては、“新しさの神話”とともに、家族をバラバラの個人にすることによって、
経済のシステムに組み込んでいくという特性を持っている。つまり、市場経済の論理は、いかなる有機的な人間関係も、
そして商品化されるはずがないと思われていた自然(たとえば土地)さえも、かつての共同体の論理から解き放しバラバラにし、
すべてをあらゆるものに交換可能かつ可動的な貨幣の性質にしたがって再編しようとするのである。たとえば、戦後日本の家族は、高度経済成長期に、
核家族化が急速に進行した。家族としては最小限の単位にバラバラになったのである。そして、今日、核家族の中の一人ひとりすらもバラバラになりつつある。
家族が同居しつつもバラバラになって行くのは、一人ひとりが経済効率のよい存在になって行くことだ。近代社会が、
プライベーティズム(個人主義)とインディペンデンティズム(自立主義)と>205>いういかにもヒューマンな思考を含んでいたことと、
家族がバラバラになって行くこととはけっして無縁ではない。わたしたちの社会は、子どもたちを自立できるようにするために、様々なトレーニングと教育を行う。
それは言い換えれば、自立して、生産活動と消費活動をスムーズに行なうことのできる経済効率のいい、いわば経済人間をつくり出すことにほかならない。だからこそ、
教育していない人間が最も弱い立場に追い込まれてしまうという現象も出てくる。また、自立というコトバはつねに経済的自立と同義語になってもいるのである。その結果、
生産活動からリタイアしてしまった老人は弱い立場に追い込まれてしまう。そうしたことが、結果として、“老い”をうとましいものにしているのではないか。(pp.204-205)
つまり、どのような現象をとらえてみても、市場経済のシステムが支配するわたしたちの社会は、“老い”が排除される、若者文化の社会だと言わなければならない。
音楽のヒットチャート、映画、読み物、レストラン、TV、あらゆるものが若者を中心に据えているのである。(p.205)
歴史性を断ち切った社会
世代交代による命の連続という観念は、家(いえ)の歴史的実体という縦のつながりの観念とどこかでリンクしている。すでに述べたように、戦後わたしたちの家族は、
家族としては最小限の単位である核家族化へと向かって行った。核家族化することによって、わたしたちは、家(いえ)を継ぐ>207>という感覚をしだいに持たなくなって来た。
家(いえ)を継ぐという感覚は、ただ単に、物質的な家(住宅=建築物)を相続するということではなく、いえを継ぐことを意味していた。祖父や祖母、
そして父や母といった連続こそが、家の歴史的実体という縦のつながりになっていたのである。そして、かつて大家族であった時代においては、共同体という横のつながりもあった。
しかし、核家族化を受け入れたわたしたちは、そうした歴史性を断ち切ったのである。してみれば、世代交代による命の連続という観念が希薄化していっても不思議はあるまい。
わたしたちの社会はいま、ジワジワと歴史意識とともに歴史そのものまで失いつつあるように見える。はたしてそれが本当にあるべきポストモダンな状況だとはまったく思わないが、
商品や建築物の領域では、現象としてのポストモダン状況が進行している。それは電子テクノロジーを背景にしつつ、
あたかも無数の差異化を産み出しているかのような風景を構成している。要するに、少量多品種型の商品が目もあやに市場を飾っている。それは、
限りなき差異を求めるイノベーションの末期症状のようでもある。そうした風景は、たしかに、J・フランソワ=リオタールが「ニュートン的なアンソロポロジー
(構造主義やシステム理論のような)よりも、分子化された言語のプラグマティックスに含まれる。そこには多様な言語ゲームがある(異なった要素から成り立っている)。
それらは小さな断片としてのみ制度となる。(局部的な決定論である)」(『ポストモダンの条件――知に関するレポート』)と指摘しているような、
ポストモダン的な風景のようにも見える。しかし、それは、電子テクノロジーによって、徹底して物質化され、管理された状況であると同時に、
限りなく>208>歴史性を失っていく状況でもあるのだ。
考えてもみれば、わたしたちの社会は、あらゆる面において“老い”をうとましいものとし排除し始めた時から、自らの歴史性を断ち切り始めたのかもしれない。
しかし、わたしたちの社会がどれほど“老い”をうとましいものとして排除しても、現実の問題として、老人が増えて行く社会になっていくのである。
市場経済システムが支配するなかにあって、弱い立場を強いられた、子どもや女たちが、あらためて“発見”され、
たとえばフェミニズムといった形でラディカルな議論を産み出している。同様に弱い立場を強いられた老人が“発見”されるべきだろうし、老人を通して、
現代社会に対するラディカルな議論がなされるべきであろう。おそらくそこからしか、現実に起こっている老人の問題も解決はつかないのではないか。(pp.206-208)
今村 仁司,19870605,「家族の社会化と老いの行方」多田富雄・今村仁司編『老いの様式――その現代的省察』:209-228,誠信書房.
家族と市民社会
ところで、人間や社会を物象化させる体制は、交換価値原理で動く貨幣と資本の経済である。資本主義的市民社会の論理、すなわち前にのべた計算合理性は、
きわめて強力である。この論理の拡>219>大と深化を「社会化」と呼ぶとすれば、この「社会化」は物質生活だけでなく精神世界の中にまで浸透する。良かれ悪しかれ、
近代市民社会の中で生きる人間は、「社会化」された人間である(単に社会的人間というのではなく、物象化される社会的人間という事実に力点がある)。
「社会化」はひとつの歴史的運命であって避けられない。問題は、この「社会化」から物象化傾向をとりのぞくことである。
資本主義の物象化的な「社会化」の論理は現在でも押しとどめようもなく前進しているので、「社会化」の流れに抵抗することは愚かな企てにみえるほどである。しかし、
「社会化」の限界、ないし社会化してはならぬものごとが何であるかの確認は、つねに注意深く行なわなければならない。
ところで、市民社会と家族の関係が問題であった。市民社会の発展(資本主義経済の展開)の中で、家族はどう動くのか。共同体の崩壊、市民社会の成立、
アトム化した個人の誕生といった歴史の中で、かつての古い家族は徐々に縮小していく。家族もまた市民社会化の波にのみこまれる。類型化していえば、近代の家族とは、
核家族である。家族の動きの中心は、「父‐母‐子」である。老人は中心ではなくなる。どの時代にも、「父‐母‐子」という核はあったが、
ふつうはこの核を被う親族関係が有力な作用を及ぼしていた。近代以前では、核家族よりも広い親族関係が社会関係を動かしていたのだが、
時代が下るにつれて親族の外被が少しずつ小さくなり、ついに近代に至って、核家族が中心になってきた。(pp.219-220)
[……]老いを廃棄物化させていくのは、家族の個々の成員の悪意とかによるのではなく、たとえ善意の努力をしてみたところで、家族の市民社会化の圧力は抗しがたく貫く。
家族の社会化、家族内人間関係を市民社会的人間関係に組み換えることこそが、老いを追放するのである。家族の中にかすかに残る共同的心情をもってしても、
この傾向を押しとどめることはできない。核家族が放棄せざるを得ない老人に対する共同体的保護膜は、家族外に求められるであろうが、現在それを実現するにはほど遠い。
そこに、老人の社会保障の問題が未解決なままで大きく登場しようとしているのである。(p.221)
阿部 年晴,19870605,「老いの価値」多田富雄・今村仁司編『老いの様式――その現代的省察』:229-257,誠信書房.
耄碌
老年は心身の衰弱の時であるといわれる。一般的な傾向として緻密な思考ができなくなり、記憶力も減退する。要するに耄碌するのだと。
そしてこれは社会的に役に立たなくなることであり、マイナスの価値しか持たないというのが、近現代の産業社会で支配的な考え方のようである。
この点については、少なくとも二つのことを考えておくことが必要である。
第一に、生理的な現象は可能性や限界や素材を提供するが、それに形や意味を与えるのは文化や社会である。つまり、これらのことを単にマイナスとみなすのは、
近現代の産業社会の観点なのであり、それとは別の考え方をしていた社会は少なくない。>245>
第二に、忘れるとか耄碌するということが人間の実存や文化にとって、あるいは人類という生物にとってどういう現象なのかという点については、いわゆる科学的思考は、
少なくともこれまでのところ、あまり頼りになる解答も見通しももっていない。
自分の具体的な経験や社会生活の在り様に即してこうした事柄について各人が考え、語り合うための新しい方法を私たちは必要としている。
新しいというのは私たちにとって新しいのであって、意識されたにせよされなかったにせよ、人類史を一貫して支えてきたような方法について述べているのである。
老年の条件を単にマイナスだけのものとみなす社会は、おそらく人類学者にも知られていない。もしそのような社会があるとしてもそれは、
文化的生物としての人間の基本的な要請に応えない社会であり、過渡的なものでしかありえないだろう。社会的責任から比較的自由な周縁的存在である老人の豊かな経験、
あるいは依存性や身心の衰弱すらも、人間生活に有用な精神的能力と結びついていることにたいていの民族は気づいていた。
たとえば、忘れっぽさということは、常に引き合いに出される老年の特徴である。ところが、忘却というような一見単純なことすらも人間の場合には一筋縄では行かない。
「老来、忘れっぽくなって、忘れっぽさにほとほと手を焼いた」戸井田道三は、腹いせに「忘れ」を俎上にのせて、いくつかの文章を書いた。その中で、
「忘れるということもまた複雑で多岐にわたる現象であることを忘れてはなるまい」と述べているが、『忘れの構造』を読むとそのことが納得できる。
戸井田は忘却につ>246>いて多くの興味深いことを指摘している。忘れるという行為は、記憶を整理して、さしあたって必要なものと、さして必要ではないがあってもいいものと、
忘れたほうがいいものとを区分けしている。この意味において忘れることは、生のオートマチックな防衛である。しかしさらに注意を惹くのは、「忘れた方がいいものも、
忘れられたことによって今の生に積極的に参与している場合が多い」という指摘である。忘れるということは、意識の記憶を無意識や身体に移すことでもあり、
忘れることによって記憶するということも、記憶するために忘れるということもありうるのだ。忘れには、個人的なレベルや種としてのレベル、あるいは集団のレベルがあり、
もちろんそれらには互いに無関係ではない。
「忘れることは、過去に属しながら過去から抜け出して自由になることである」カラダで憶えるというが、「言葉以上の速さで思考が突入する地点、それがカラダである。
……動詞まで忘れてしまってウ、ウ、ウとわめくだけになったとき、私のカラダが私の“忘れ哲学”を身を以て完成してくれることになろう」。
忘れることがこのような積極的な意義を持ちうるとすれば、うまく忘れるための、そして忘れたことを思い出すための身心技法といったものが考えられる。事実、
民俗世界にはそのような技法があったし、それに習熟した忘却の専門家の中に老人が多かったことは言うまでもあるまい。
戸井田が指摘しているように、自分のすべてを忘れて忘我の状態になった人物の口を通じて集団が忘れていたことが蘇るような場合もあろう。あるいは、
「祭の行事に入って、その中で神女として>247>の仕事をしていると(祭のしきたりを)徐々に思い出す」と語る沖縄のノロのように、
集団的な営みを自分の記憶装置としている場合もあろう。「忘れたものを無意識のまま感覚的に再生させるのが詩、なかんずく劇詩というのかもしれない。
一度どこかで聞いたことのあるような幽かなものが身体の中で目をさましてくるのだろう」
忘却と特に結びつけられ易い老人が、多くの社会で伝承のにない手だったわけであるが、
老人の忘れや記憶の特徴が伝承の性質や伝承される事柄や歴史の内容にどのような影響を及ぼしたか、改めて検討してみる必要があろう。
老衰がすすむと、主体の統合力が弱まる、客観的論理的な思考ができないといったことがよく言われる。こうした点についても同様のアプローチが可能であろう。たとえば、
戸井田は「あいまいさ」についても示唆に富む考察を行なっている。
このことと関連して、今村仁司は、「思想の晩年様式なるものが存在するだろうか」という問いを出している。諸民族の民俗文化を比較検討する者の立場からすれば、
答えは当然、「存在する、しかも民俗文化で生きた人々は、そのことに気づき社会生活に積極的に生かしていた」というものである。いずれにしても、
老衰期の認識や思想の営みに積極的な意義はまったくないというような立場は、きわめて限定された思想のとらえ方や社会的背景に根ざすものであって、
人類史的にみれば少数派に属するものである。その立場を全面的に否定するつもりはないが、
それが不用意に否定したり看過ごしたりしたものを再認識することを私たちは必要としているということは繰り返し主張>248>しておきたい。それはともかくとしても、今村は、
カント、マルクス、ベートーベンの晩年の思想的な営みを比較した結果、予想以上に類似点や共通点があることを指摘している。
そこで晩年様式の特徴とされているものを一、二とりだしてみよう。今村も引用している箇所で、坂部恵は、カントの晩年の遺稿群について次のように述べている。
「最晩年のカントの心的世界にあって、公的なものと私的なものの階層的な区別はなく、両者は互いに互いを照らし合い一義的実体的な意味をぬき去り合いながら、
音楽的といってもよい全一的な世界を形づくる。……ここには、何らかのためにある実用的な虚構の世界というよりは、公共的世界と私的世界とが、
たがいにたがいの仮面となる。実体も一方向的な系列の目的性もない音楽的なたわむれがある」。
これと呼応し合うような指摘を、ベートーベンの晩年の作品についてテオドール・アドルノが行なっている。慣用や常套句の頻用は晩年様式の特徴の一つである。
「力学から解き放たれた常套句が、自在に自ら語り出ることになる」。ここで特に注目されるのは、
晩年の思想における公的なものと私的なものの関係や常套句の位置づけに関する指摘である。意識と無意識の関係にも晩年の特徴がある。
方向性をもった時間軸よりも生の共時性や全体性が正面に出てくるのも晩年の特徴であろう。
個と集団を絶えざる相互作用の関係におくことによって統合し、文化と集団生活を根底において支えていたのはこのようなこのような営みではなかったか。
そして、そうした営みが社会において占める比重によってそれぞれの時代の歴史の様相も変わるのではないか。現代の思想や芸術に関するこのような指摘は、
民俗世界の在り様やそれが生みだした神話その他の伝承や占いなどの理解にも新たな光>249>を投げかけるものである。
精神の晩年様式とでも呼ぶべきものは、宗教とも密接不可分の関係にある。老年は死の影のもとにあり、また、病気などに見舞われがちな受苦の時期であるばかりではない。
それは、自分の肉体が意のままにならないというような形で身体性とでも呼ぶべきものが、若年の頃とはまったく別の仕方で露呈する時期でもあり、また、
意識的な自我の統合力の衰えにともなって内なる他者性が露呈する時でもある。
これらのことはすべて私たちが宗教的なものと呼び慣らわしているものと深いかかわりをもっているのであり、
私たちは人間の文化や歴史において老いや老人が果たしていた役割について考察することによって、宗教的なものが文化や歴史の中で果たしていた役割について、
これまでとは別の角度から光を当てることができると予想される。
私たちが老いや老年についての認識を深めることはそのまま、忘却されて無意識や身体の中に封じこまれた共同の記憶を含めて、
歴史を認識しなおし生きなおすことにつながるのであるのであろう。(pp.244-249)
江原 由美子,19870605,「男性の老い、女性の老い」多田富雄・今村仁司編『老いの様式――その現代的省察』:258-281,誠信書房.
「引退」と老賢人のイメージ
ポール・トゥルニエは、『老いの意味』で、老いという現象の本質を「引退」に求めている。
社会学的な意味での老いの意味は、まぎれもなく「引退」にある。社会は安定の中にも、その構成員の交替を繰り返している。[……]社会的組織の論理からすれば、
社会組織の維持のためにはこの構成員の交替は不可欠である。
老いだけでなく、病いや死もまた同様に、社会的組織からの離脱、引退を結果する。しかし、老>263>いにくらべて、病いや死は、常に何事か「個人的な」色彩を帯びている。
それは老いにくらべて程度の差はあれ、病いや死が個人にとって予測不可能な、非日常的な運命としておおいかぶさってくるゆえであろう。老いは無論、死に向かっている。
しかしその死は、日常的で緩慢である。(pp.262-263)
そして、よく言われるように、我々の生きる現代社会は、老いに対して意味を与えなくなってしまっている。[……]
子どもが大人になるのに非常に多くの困難と努力を払うのと同じ位、成人から老>264>人への転換も長い準備期間を必要とする。そのことはほとんど理解されていないのである。
それは我々の社会の持つ、老いの否定の文化のゆえである。
しかし、この「老いを排斥しようとした近代社会が、平均寿命の延長と出生率の低下をもたらすことによって、周知のように前代未聞の高齢化社会を現出しつつあるのは、
なんとも皮肉な現実」である。
それゆえ、現代社会において、今老いという意味を転換しようとする試みが生じてくることになる。トゥルニエの『老いの意味』はすべてこの老いの意味の転換に向けられている。
すなわち「引退」を喪失として、マイナスのイメージとして把握するのではなく、新たな出発として、すなわち真の知恵、
「個人の完成」に向けた出発として把握し直そうとするのである。
だがこうした議論の場においてすら、女性の老いは抜けおちてしまいがちになる。すなわち、女性は公的な組織に生涯のほとんどをささげるという形の労働を現在でもしにくく、
家庭内の役割に男性よりもコミットしているゆえに、「引退」を老いと考える議論においては単に「引退」のない存在として記述されるにすぎなくなる。例えばトゥルニエにおける
「引退」の主題は、ほとんどが職業からの「引退」をめぐってであり、そのせいか、女性の老いについての言及は少ない。
確かに現代では、女性も次第に生涯を通じて職業を持つ傾向が強まっている。それゆえ、職業からの「引退」を、男性の老いの問題と断定してしまうことはできない。
同様に、現代の性別分業体制を前提として、女性の老いを論じてしまうことも、また危険なことである。性別分業への批判が>265>強い今日、
男性の老いと女性の老いを論じるのはかなり困難である。性別分業体制が現在のような形でなくなれば、男女の老いの差は、もっと違ったものになるかもしれないからである。
老いをめぐる男女差は、あくまで社会的要因によって決定されているのである。(pp.263-265)
さらに、現在の性別分業体制に基づいて考察すれば、女性の「主な仕事」は家庭内にあるのであ>266>り、たとえ職業から「引退」しても、仕事がないわけではない。
老人介護の任はほとんど女性がになっており、女性は自らが老いを迎えながらも、その上の世代、あるいは夫の介護という「仕事」
を引き受けざるをえない状況に立たされる場合もある。逆に、子どもがなかったり独立してしまった場合、夫や両親を喪った場合には、
不本意に「家庭の仕事」から「引退」せざるをえないこともある。このような女性の老いを考える場合には、職業からの「引退」だけでなく、
家族生活からの「引退」を考えねばなるまい。
ところが、多くの老いの把握は、職業からの「引退」をもって、老いの本質と考えてしまうので、女性の老いの状況は平板なものととらえがちである。
すなわち先述したように女性には「引退」はないものとしてしまい、それは女性にとって、
老いが男性のように決定的な断絶として現出しないこととして意味づけられてしまうのである。
確かに女性の老いは、閉経という生理的メルクマールを伴うゆえに、身体的には男性よりもはっきりと自覚されるものである。男性の場合、
生殖能力はかなり高齢になっても持続するのに対し、女性の生殖能力のおとろえはかなり早く来る。多くの女性は、生殖から「解放」された時間を、
男性よりも数倍長く生きるのである。それは普通、二十〜三十年に及ぶ。「〈老人〉というのは、生殖能力を失ったにもかかわらず生きている人々のことであると、
我々はひそかに考えている」とすれば、実に女性の老いの期間は、平均寿命の高いことにも影響されて、男性よりも数倍か十数倍長いのである。>267>
それにもかかわらず、女性の老いは、男性に比較してより決定的ではないと考えられているのは、女性に対して課せられている家庭内役割は、持続的であり、
生涯つづくと思われているゆえである。すなわち、高齢者女性は、家族内存在として生きつづけることが「当然」のように前提とされているのである。
確かに子どもの独立や結婚、それに伴う別居は多くの女性にとって非常に大きな「役割喪失」を意味する。しかし、それも孫の誕生とともに、祖母役割を得ることによって、
女性はひきつづき家庭内で有用かつ生きがいのある役割を得るとされている。(pp. 265-267)
■書評・紹介
■言及
◆北村 健太郎 2013/02/20 「老いの憂い、捻じれる力線」
小林 宗之・谷村 ひとみ 編 『戦後日本の老いを問い返す』,生存学研究センター報告19,153p.
ISSN 1882-6539 ※
*増補:北村 健太郎