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はまだ・すすむ 1926/10/23〜2010/12/20 ■http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%CD%C5%C4%BF%B8 1926年(大正15年)10月23日、生まれ。2010年(平成22年)12月20日、死去。84歳だった。 高知市出身。 旧制高知高校(1年3か月間は新居浜住友金属工業に学徒勤務動員)卒業。 昭和20年4月、東北大学金属工学科入学。 昭和21年4月、東北大学医学部に入学。 昭和25年3月 卒業。 昭和31年東北大学医学部大学院(細菌学)修了。 昭和34年から43年まで都立松沢病院に勤務。中でも「分裂病者と遊び、とくに球遊びについて(昭和42年)」は分裂病者の行動学的研究として学会の注目を浴びる。その業績が認められ、昭和42年4月から東京大学精神神経科講師に招かれる。 荒川区峡田診療所・都立精神衛生センター・数か所の保健所勤めを経て、昭和49年地域精神神経科診療所を上野の地に開業、以来32年を経過する。 街中にある精神科診療所の必要性を論じ(「町の精神科医」)、今日都市部を中心とした精神科診療所の発展の祖となる。平成4年、地域医療への貢献を評価され、第1回若月賞を受賞。 ◆「下町に座って32年――精神科医 浜田晋」 NHK『福祉ネットワーク』2006年5月18日(木)・8月29日(火) http://www.nhk.or.jp/heart-net/fnet/arch_new/thu/60518.html ■著書 ◆浜田 晋 20100324 『老いるについて――下町精神科医 晩年の記』 ,岩波書店,192p. ISBN-10: 4000224042 ISBN-13: 978-4000224048 1700+ [amazon]/[kinokuniya] ※ m. a06. ◆浜田 晋 20061201 『街角の精神医療 最終章』 ,医学書院,323p. ISBN-10: 4260002376 ISBN-13: 978-4260002370 3780 [amazon]/[kinokuniya] ※ m. ◆浜田 晋 20010101 『私の精神分裂病論』,医学書院,244p. ISBN-10: 4260118528 ISBN-13: 978-4260118521 3150 [amazon]/[kinokuniya] ※ m. ◆浜田 晋・竹中 星郎・広田 伊蘇夫 編 19970910 『ナースのための精神医学――症状のとらえ方・かかわり方』 ,日本看護協会出版会,281p. ISBN-10: 4818005940 ISBN-13: 978-4818005945 3360 [amazon]/[kinokuniya] ※ m. ◆浜田 晋 19940506 『心をたがやす』 ,岩波書店,シリーズ生きる,257p. ISBN-10: 4000038117 ISBN-13: 978-4000038119 2446 [amazon]/[kinokuniya] ※ m. ◆浜田 晋 19850620 『こころ医者の記』,毎日新聞社,261p. ASIN: B000J6UU7S [amazon]/[kinokuniya] ※ m. ◇浜田 晋 編 198202 『精神医学と看護 改訂版――症例を通して』,日本看護協会出版会,688p. ISBN-10: 4818001236 ISBN-13: 978-4818001237 3780 [amazon]/[kinokuniya] ※ m. ◆浜田 晋 19791025 『「ふれあい」の精神医療』,弘文堂,258p. ISBN-10: 433560002X ISBN-13: 978-4335600029 1200 [amazon]/[kinokuniya] ※ ◆浜田 晋 1967 「分裂病者と遊び」,『精神神経学雑誌』69:137 ◇浜田 晋『一般外来における精神症状のみかた』 ◇浜田 晋 1976 『病める心の臨床――手づくりの医療と看護への接近』 医学書院,192p. 1500 ◇浜田 晋 19820515 『このいとしきぼけ老人たち』,日本看護協会出版会,174p. 1000 ※ ** a ◇浜田 晋 198306 『街かどの精神医療――続・病める心の臨床』,医学書院,273p. 2500 ◇浜田 晋 19900324 『老人たちは,今』,日本看護協会出版会,237p. 1600 ※ a ◇浜田 晋 199008 『お年寄りとともに――老人の地域内ケアを考える』,日本看護協会出版会,看護セミナー・ブックレット8,109p. 1000 a ◇浜田 晋 19900910 『老いを生きる意味――精神科の診療室から』,岩波書店,229p. 1600 ※ a ◇浜田 晋 19910806 「老年期の性愛」,上野他編『セクシュアリティと家族』(シリーズ変貌する家族 2):112-127 ※ ■ 「そして私は少しずつ精神医療が面白くなっていった。燃えるものを感じた。 「日本脳炎後遺症の病理」という仕事をやる一方で、私は「遊び治療」の仕事を始める。二足のわらじである。 当時の松沢病院は「作業治療」を中心に治療体系が組み立てられていた。たしかに仕事は人を変える。仕事をうばわれると日本人の多くは死んだようになる(もっとも昨今の若い人はちがってきたが)。しかし仕事は一方で人をしばる。仕事の中に埋没すると、個性が失なわれることもある。仕事のできない患者は、落ちこぼれと棄てられることもある。<0096<私はその落ちこぼれ患者に眼をつけた。入院歴三〇年から四〇年、高度欠陥状態にあり、クレペリンが人格の荒廃とよんだ典型的な精神分裂病で、病院の中でも、棄てられていた男五人女五人を集め、中央講堂で、看護者三名と私と一緒に約一年間ほとんど毎日遊んだ。昭和三九年頃である。」(浜田[1994:95-96]) 「ここで私の考えに「治療」とは、ある一定の条件下で、正常人ときわだって異なる行動特性を取り出し、それをねらって、どこまで正常人に近づけることができるか――ということを意味する。 「皆で一緒に遊ぼうという意識の欠落――状況のいかんにかかわらず鋳型にはまった融通のきかない行動の常同的な繰り返し」を分裂病者そのものの特徴的な行動様式ととらえ、<0100<それを何らかの外的な治療的試みでどこまでなおせるかということである。「治療」とよぶかぎり、それが可能でなければならない。「遊び治療」が果たしてなりたつか? という設問である。 しかし私たち三人は、一年後絶望していた。「隣りまわし」はすぐとれたが、二、三の患者の固有現象は頑として「治療」に抗し、球は全体として一向に平均に分布することはなかった。あまり強く指示すると、彼らは球をもったまま茫乎として動かず昏迷の状態にまでなった。 私たちの「治療」によって、かえって病状は悪化したのである。ある看護婦は言った。「この治療法は失敗かもしれませんが、私は分裂病という病気が少しわかったような気がします。新しい道を考えてみましょう」と私を慰めてくれた。」(浜田[1994:100-101]) 「ちょうどその頃忘れられない一人の医師との出会いがあった。小坂英世。昭和四〇年頃である。私より四つ年下。彼は昭和三六年頃から宇都宮を中心に、保健所を拠点とした「地域活動」をすさまじいエネルギーでやり、喧嘩して(彼は行く先々で喧嘩をする才能があった)、栃木から松沢病院へ、大きな登山靴をはいてやって来た。骨格のがっしりした男。射るように人を見て、大声で断定的にしゃべり、声高に笑う。酒を飲んではどぎついY談を得意とする。一方きわめて几帳面なところがあって、定時に出勤してきて(これは松沢病院では稀なこと)、受持病棟へ行ってちゃんと看護婦の引き継ぎに出て、きわめ<0103<て辛辣な質問を発し、私たち大勢の医師が出動する(おおむね一〇時)頃には、もう医局に 引き上げてきて、大声を発している。 とにかく魅力的な毒をもった男だった。 昭和四一年、小坂は精神衛生法改正(精神病院入院中心主義から地域精神保健活動へというキャッチフレーズ)にもとづいて精神衛生センターが設置され、松沢を去る。 そして主として荒川区町屋に小坂の肝煎りで民医連峡田診療所(現在荒川生協病院となり畏友岡田靖雄が働いている)に、精神科ナイトクリニックを開き、松沢の中堅医師が六名交代で診療を始めた。これが私の後半生を決定づける体験となる。 診察室にいると保健婦松浦光子が「これは先生、こういう家で、家族は……仕事は……こういう状況の中におられます」と社会的背景を語ってくれた。 一人の分裂病者を診るだけでなく、その人がどんな環境の中でどんな暮しをしているのか――晩年の私の主題への道を開いてくれたのである。もはや「精神分裂病」という一枚岩へのアタックよりも、一人一人の分裂病者の暮しが私の視野にひろがってくる。 そして私は、松沢病院を去る。 私を育てはぐくんでくれた松沢村を、苦い思いを残しつつ去ることとなった。<0104< 昭和四三年の春である。当時わが国は高度経済成長のまっただ中にあり、繁栄への道をひた走る。 そこに東大闘争があった。 (3) 再び東京大学精神科教室へ 私には苦い経験となった「遊び」の仕事は、「分裂病の行動学的研究」として評価され、当時の東京大学教授臺(うてな)弘(もと松沢病院医長)に望まれて岡田靖雄についで東京大学へ移った。 当時の東京大学は、学生運動の火中にあった。インターン廃止闘争に始まり、医局講座制の改革を旗印に、青年医師たちは異議を申立てた。それは大学の教育のあり方、管理体制への反発から全学に、やがて全国に拡がって行った。はやっていたのが「封鎖」である。 学生たちは色とりどりのヘルメットをかぶり(三派全学連とよばれたが、そのセクトは複雑に乱れ、方針の違いから内ゲバまで始まる)、やがて角材まで持ち、大学内のあちこちを「封鎖」と称し出入りを禁止した。私も部屋を追われ、脳研の一室に引っ越すことになる。<0105< もともと私は、「大学」というところにあまり関心がなかった。教授を頂点とするヒエラルキーやその回診ぶり――大名行列とよばれていた――に象徴されるような封建制度や、私立精神病院との癒着など「おかしな世界だなあ」という思いがあった。 所詮私は一匹狼であり、本来「組織」を好まない。 しかし、幸か不幸か、その動乱の中にまきこまれることになる。 私はここで東大関争の総括を述べるつもりはない。「コップの中の嵐」だったのかもしれない。しかし全く無意味な闘いであっただろうか。そうは思わない。 少なくとも私の中では大きな変化がおこった。「今日の私」があるのも、その中で私が感じた"あるもの" のおかげであろう。いわば東大闘争の理念を社会の中で実践しようとしたことでもある。そこだけ若干のコメントをしておかねばなるまい。 私は、当時の学生側に理があったと今でも信じている。 「社会の中の東京大学とは?」「東京大学がわが国の社会に何をもたらしたのか」「その卒業生が権力構造の中心にいるのではないか」「自己批判」という問いかけは私の胸にも重く響いた。きびしい闘いの中で、私は反芻する。「患者にとって『医療』とは何か?」「社会の中で医者という存在はどういうものか」と。<0106< たしかに学生たちのすごいエネルギーには眼を見張らせるものがあった。しかし少しちがう。私たちの時代は飢えとの戦いであったが、当時の学生は「政治」に立ち向かおうとしていた。「泣いてくれるな、おっかさん!」と、東大生はプラカードに書き、安田講堂にたてこもった。勝つも負けるも、もはや良き時代の到来であり、学生運動もまたアメリカから海を渡ってやって来た流行だったのだろう。一種の遊びの季節の到来であった。 それが本当に生き死にの造反有理の闘いであったなら、安田落城以来急速に衰退して行った運動は何を物語るのであるうか。泰山鳴動してねずみ一匹も出なかった。 私にはそれどころでない事情もあった。高知の母が病み、送金せねばならないが、東大講師の給与では金がない。加えて闘争で手薄になった病棟(患者が二〇〜三〇人入院していた)を守らねばならなかった。私たち常勤医の三人交代による病棟当直である。やがて病棟派(闘争の主体)が外来派(教授を支持)を追い出してからというもの、看護婦もいなくなり、常勤医に負担がかかる。それに会議、会議の連続。日本人はなぜこうも会議を好むのであろうか。 私は疲れ果てた。「闘争」もいいが、こんなことで死ぬのはいやだな、という思いが心をよぎる。<0107< 昭和四四年、「闘争」に疲れ、私は放心状態となって上野から荒川あたりをさまようことになる。学生時代、その青春をすごした上野の地下街のうす暗がりで、私はなぜかほっと安らぎを覚えていた。 そして東大闘争は学生の完全敗北で終る。私も一種の虚脱状態の中にいた。不安と焦躁といってもよい。その敗北感のうしろめたさの中で、なぜか私は東京下町に強くひかれていったのである。当時、荒川医でエネルギッシュな活動をしていた医師小坂英世と保健婦松浦光子にみちびかれて行くことになる。 (4) 地域活動のはじめ 昭和四四年四月、私は隅田川を渡って江東地区に入り、そこで数多くのいわゆる医療放置の悲惨な患者たちの生活を見た。 今までの私の医療が、患者やその家族にとって何であったのかを――私はいやという程みせつけられる。ある雑誌にこんなことを書く。 「私は今、はだしで江東地区の路地に立っている。 どうしようかと途方にくれている。ポケットには何もない。患者に与えてあげるも<0108<のは何もない。患者を助けおこす力もほとんどない。助けおこしたとしても病院に彼らを運びたくない。一生鍵づめにされるか、すっぱだかで放り出されるか、そして今よりもっとひどいところから、またぞろ始めなければならなくなるだろう。今の私は地べたにしゃがんでじっと彼らを見つめるしかない。せめて側にじっとしているだけである。私はもう医者でなくなったのかもしれない。それでよい。そうならなければいけないとさえ思う。彼らと同じ地べたに立つことができるかどうかが、いうならば今後の私の生き方のせめてもの一つの支え――といえば倣慢な言い方になるだろうか」。 私自身がほとんど患者になっていた。 そこで私は精神科医としての後半生の生き様への大切な手がかりをつかむことになる。 昭和四五年四月、私は東大を辞し、小林英世のあとを追って都立精神衛生センターに勤めはじめる。私の中の東大闘争の一つの帰結でもあった。そしてまた出合いは運命的なものであった。」(浜田[1994:103-109]) cf.小林英世 ◆1974開業 「「こころ医者」事始め 私が東京の下町に精神科の診療所を開いて、早いもので十年がたった。 それまで私は、約二十年間、大学、公立精神病院、総合病院、精神衛生センターなどの公職にあった。そこには安定した地位と生活があったと言えよう。 それを五十歳にもなって、なにを好き好んで、リスクの大きい(当時精神科の診療所は経営的に成り立たないというのが常識だった)町医者になるのか。川上武先生(医事評論家)によると、日本の開業医は”滅びの道”を歩みつつあるという。それが現実であろう。ある友人からは「お前、頭がおかしくなったのと違うか」とまで言われた。 だが私は開業した。東京の下町に。 なぜか? すでにそれについては饒舌といってよいほど多くを語ってきた。最近では『街かどの精神医療』(医学書院)でもそれが大テーマとなっている。そして、その書がご縁で当コラムをお受けすることになった。 ここでも、はじめにひと言。 東京下町は精神医療の過疎地である(その逆に八王子、青梅、町田地区は精神病院の超過密地である。この精神病院の過密過疎状況は全国にみてもそうである)。」(浜田[1985:13]) 「それにしても、私が昭和四十九年(一九七四)にこの上野の地に開業する時には苦労した。 まず金がない。どこへ行けば貸してくれるのか? その手続きはどうするのか? 家をどう探すのか? 周旋屋へ行ってはみたものの、どの店に行っても、やくざのようなおやじが出て来て、うさんくさそうに眼鏡越しにジロリ。手付金を払う時も、オドオド、ドキドキ。一緒に働いてくれる人をどうやって集めるか? 「精神科」ということで町の人は反対しないのか? どうやんで患者を集めるか? 果たして経営していけるか? 借金を返せるか? 食っていけるのか?<0018< などなど、まるで雲のごとく心配が、わいてくる。みじめだった。 はじめの大義名分(前に述べた)など、どこへやら。現実には弱いのである。なにしろ武家の商法なのだから。 夜は眠れない。食欲はなくなる。動悸がする。もう立派なノイローゼ患者である。 ぬくぬくと大学や病院で禄を食んでいた身がうらめしい。」(浜田[1985:18-19]) ◆1969 第66回日本精神神経学会大会(金沢大会) ◇浜田 晋 20100510 「藤澤敏雄の言葉の力」,『精神医療』編集委員会編[2010:122-125] 「もう20年か30年か忘れたが、私は久しぶりに精神神経学会なるものに出た。東京都庁あとに出来た国際フォーラムでひらかれていた。 出てみてびっくり! 金沢学会というものが一体何であったのか。学園闘争とは何だったのか。それは昔の学会と何も変わっていない。いやもっと巨大になり、分派化し、バラバラになった部会には、精神医療の臭いは全く消えていた。広田、鈴木(良)、黒川(故人)、その他数名と藤澤と私はいっしょに昼食に出た。たまたま藤澤が私の前に坐った。私は茫然としていた。しばらくしてこんなことを藤澤にいった。 「藤澤よ! 俺はもう歳をとった。精神科医や学会には絶望した。なにも出来ない。これから一体俺は何をして生きたらいいのだろうか」と。藤澤はじっと私の顔をみて、しばらくだまっていた。長い沈黙があった。やがて、「先生、今のお気持ちを率直に私たちのやっている『精神医療』という雑誌にお書きいただけませんか。原稿用紙8枚の倍数で年4回、お願いします」と言った。そして深々と頭を下げた。また彼にやられた。 「老いのたわごとか…」と私。彼「そうです。それ」と。 なんとそれが今日まで一四年間延々とつづくとは思ってもいなかった。」(浜田[2010:124]) ◆2010/12/23 「浜田晋氏死去」 共同通信 http://www.excite.co.jp/News/person/20101223/Kyodo_OT_CO2010122301000272.html 「浜田 晋氏(はまだ・すすむ=精神科医)20日午前5時30分、呼吸不全のため東京都港区の病院で死去、84歳。高知市出身。葬儀・告別式は親族で行った。喪主は妻雅(まさ)さん。後日お別れの会を開く。地域精神科医療の草分けの一人。92年に長野県・佐久総合病院の第1回若月賞を受賞した。」 ■言及 ◆立岩 真也 2011/02/01 「社会派の行き先・4――連載 63」,『現代思想』39-2(2011-2): 資料 ◆立岩 真也 2011/05/01 「社会派の行き先・7――連載 66」,『現代思想』39-5(2011-5):- 資料 ◆立岩 真也 2013 『造反有理――かつて精神医療に於ける』(仮題),青土社 UP:20040508 REV:0828, 20090819, 20101230, 20110108, 14, 17, 30, 0705 ◇精神障害/精神病 ◇精神医学医療批判・改革 ◇老い ◇WHO |