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福嶋あき江/虹の会・2

生の現代のために・24 連載・136

立岩 真也 2017/08/01 『現代思想』44-(2017-07):-
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『現代思想』連載・第120回〜『現代思想』連載(2005〜)

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『現代思想』2017年8月号 特集:「コミュ障」の時代・表紙   『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』表紙
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■目次

 ■続けること
 ■記憶・記録
 ■共同生活ハウス/虹の会
 ■ケア付住宅
 ■『自立生活への道』(一九八四)
 ■註
 ■文献

■関連

 ◆2017/06/23 佐藤一成さんに聞く,於:さいたま市
 ◆虹の会
 ◆福嶋 あき江
 ◆ケア付住宅

■引用

 「■続けること
 一九五七年に生まれ、六六年に千葉県の国立療養所に入所、八一年にそこを出て千葉市に暮らした(八四年に亡くなった)高野岳志と高野に関わることを五月号・六月号と記した。そして同じ年に生まれ、同じ施設に同じ年に入所、八三年にそこを出て浦和市(現さいたま市)で暮らした(八七年に亡くなった)福嶋あき江について前回に書いた。続きを続ける。
 記しているのは、まずは個別の、ずいぶん小さなことではある。ただ、その人たちの試みは、少ない人たちにはいっときは知られた。たんに忘れればよいというものでもない。そしてその動き・営みを辿ることで、うまくいけば、この国の戦後、どのような場所でどのように人が暮らし、それがどのように変わって、あるいは変わっていかなかったか、そこにどんな事情があったのか、それを捉えることができると考える。
 前回は福嶋が療養所を出るまでのことを見た。福島は国立療養所が筋ジストロフィーの子ども(と重症心身障害児)を受け入れ始めた時に入所した。当初訓練に熱心に取り組むが、さしてよいことはなく、身体の状態は進行し、訓練に批判的にもなる。死を恐怖するが、それが施設で隠されていることをよくないとも思い、仲間の死に際して焼香を申し出たりする。このことも含め、先駆的な受け入れ施設だった下志津他では自治会等の活動が活発で、それが許容された。それは高野や福嶋のその後に関わってもいる。そして福嶋は八一年に米国に行き、八二年に戻ってくる。そこまでを記した。
 八三年二月に福島は療養所を出て浦和に移り「共同生活ハウス」を開始し、「虹の会」が始まる。今回はここからになる。

 ■記憶・記録
 そこに困難があった、「笑顔が消えていました」「深い傷を感じとりました」と、福嶋が亡くなった年、亡くなった後に出た『二十歳 もっと生きたい』(福嶋[1987])の編者柳原和子は言う(柳原[1987:199])★01。柳原は高野岳志についても同じくその困難を書く。それを目の当たりにしたというだけのことであるのか、そうでもないのか、福嶋自身の本でとくに福嶋の困難を言うことについてすこし不思議なところはあるが、その困難そのものはその通りに存在したのだと思う。ただ具体的にその困難がどんなものであったか、わからない。それ以前に、福嶋は、この八七年の本で、米国から帰ってきてからのこと、虹の会・共同生活ハウスについて――八三年から八四年に出た短文が別に三つあるが――書いていない。これはすこし不思議なことだ。八三年から亡くなる八七年までの間にあったことが、柳原の悲しげな言及の他には、わからない。
 そんなこともあって、またとりあえずいつもやってみていることとして、まずはウェブ検索してみると、その間のこと、そして本での空白にも事情があることを、ずっと虹の会で活動してきた佐藤一成が書いている(佐藤[1996][2001])★02。HPにあったアドレスに問い合わせたら、まず事務局から電話があって、機関紙のことを教えてもらった。その後、佐藤と幾度かやりとりでき、話をうかがえることになり、六月二三日、埼玉大学の真ん前にある事務所にうかがった。そしてその時古い機関紙――初期のものは各一部だけがファイルされていた――を借り受け、最近のものはいただいた。その最初期のものは所謂ガリ版刷り、表裏印刷で一枚から二枚ほどのものだ。その場でコピーしてもよいと言ってもらったが、慎重にコピーしないと字の読み取りが難しい。いったんお借りすることになった。ちなみに今の機関紙は分厚く、装丁も含めてよくできている。埼玉には他にもよくできた媒体があるのだが、そのなかで虹の会の機関紙(機関誌)が賞をもらったといったことも聞いた。
 高野や福島の文章は市販された本等にいくつか残っているが、そんなことは――それにはそれなりの理由がある――普通のことではない。書き物がないことの方が普通だ。そこで、まず人に聞く。機関紙などあれば見せてもらう★03。そのことについて少し。
 人の記憶はたいがい、ある部分がまとめられ、まとめられた部分が繰り返し語られ、さらにまとめられる。同時に外され、消えていく部分がある。それは常に起こることで人の記憶や語りとはそんなものだ。佐藤自身、人が違えばまとめ方、振り返り方も違ってくると、幾度か話した。まず、そのようにまとまること自体がなにごとかを示していることがある。それとともに、外されていく部分にも、やはり外れているその事情も含めて、なにかある場合があるだろう。
 虹の会については、これから少し見ていく「ケア付住宅」がそんな「きわ」の場所にある。会の歴史が語られる時、それは前には出てこない。また福嶋の本やいま読むことのできる八四年までに書かれた文章にも出てこない。八五年に知り合い、八七年に亡くなるまでの二年ほど関わった佐藤の文章にも出てこない。ただ、一時間以上は話をうかがっていったんほぼ終わってから、古い機関紙のある棚に案内してくれながら、そういえばという感じで佐藤は、「ケア付き住宅というのが当時流行って」、「今考えると発想は完全に施設なんですけど」、ケア付住宅のことを福嶋が「言っていた、というか、それしか知らなかったというか」といったことを語った。それで私は初めて知り、そして必ず返す約束で貸してもらった機関紙を見ていくと、たしかに出てくる。それは八七年の福嶋の死をはさんで八五年から八八年までの間、語られている。
 私は、じつは、ケア付住宅がその会の歴史の後景に退いていったこと、佐藤の記憶・認識のなかにも大きなものとして残っていないこと、それでよかったと考えている。その説明はこれからしていく。ただ、そんなこともあったということを押さえておくこと、消えていったことを知っておくことにいくくらかの意味はあると思う。
 そのときどきに書かれたり話されりした記録が残っていると、かつてはあったがその後消えていったというその跡が辿れることがある。例えば機関紙にはそんなところがある。機関紙は、どんなにうちわで作られたものでも、やはりいくらか外向けのものであるといった媒体だが、そのときどきにおいて、建前として何をしようとしているのか、することになっていると思っているのかを知ることができる。他方で、人のなかには残っていくもの、ときには強められていくものと、消えていくものがある。すると、その差分を知ることができ、差分について考えることができる。」

■註(全文)

★01 柳原和子(一九五〇〜二〇〇八)。「一九九七年がんに罹り、奇跡的な生還を遂げ、以後は患者学、医療過誤などの問題に取り組むが、二〇〇四年再発し、二〇〇八年死去」(Wikepedia)とある。『がん患者学』(柳原[2000→2004])で広く知られた。これは文庫版では『がん患者学 T』『U』。『V』になったのは柳原[2002]。再発後について書かれたのが柳原[2005]。
 柳原が福嶋を知ったきっかけについては以下。
 「私が福嶋あき江さんに出会ったのは、彼女の原稿の終幕に描かれた成田空港の送迎デッキでした。今から六年前になります。より正確にいうなら、彼女について知ったのは、西伊豆の海岸です。夏の終わり、人の姿も失せた砂浜で、何気なく散歩中に拾った新聞。泥にまみれた切れ端に、大きな写真入りの記事が載っていました。〈筋ジス少女、アメリカでの自立生活研修の旅を終え、その成果を日本で。帰国後は二人の女性と浦和市で共同生活〉――記事の要旨です。行間には〈けなげな少女の車椅子アメリカの旅、旅の間彼女を支えつづけた介助の武田恵津子さんの献身的な心。障害を克服して勇気ある挑戦、それをとりまく人びとの暖かい善意、励まし〉を称賛する、美談記事に特有の明るさが溢れていました。/しかし、すでに指先だけしか動かなくなった重度の障害をもつ彼女です。かろうじて電動車椅子のハンドル操作だけが可能な状態だと書いてあります。」(柳原[1987:187])
 『がん患者学』の「献辞――あとがきにかえて」より。
 「故福嶋あきえ/故高野岳志 進行性筋ジストロフィーという不治の病でありながら、生涯を病院に収容されているのは生きながらにして死んでいるようなものだ、と果敢にもボランティアとともに一年間あまりをかけたアメリカ横断旅行とその後の自立を成し遂げ、医療の予測をはるかに越えて生きた、あなたたちの試みが私の裏づけだった。福嶋あきえさんの死後、私が協力し、完成した本は『二十歳、もっと生きたい』」(柳原[2000:589-590])。
 柳原に取材し、柳原の死後出版された本に収録されている二〇〇〇年の講演では以下。
 「薬害エイズという事件がありました。患者であった彼らが、私の友人として教えてくれたことのひとつは「生きるために何でもやれ」ということ。[…]私ががんになったとき、彼らが最も大きな力になってくれました。「病気になったらあらゆることをやれ」と。代替療法が何であるかもよく分かっていないなかて、「何でもやっている人が長主きしている」と言う、彼らの言葉を信じました。
 そして、筋ジストロフイーの少年少女らの、苦しくても自分が生きようという生命力があったら長生きできるんだっていう、これらふたつを私の実証に変えようと思ったんです」(工藤編[2012:36-37])。
★02 佐藤(一九六六〜)について、「虹の会」を取材した谷岡聖史による記事にはこうある。
 「高校時代はモヒカン刈りのパンク少年だった佐藤。一九八五年に埼玉大に入学し、障害者運動史を学んだ。同級生の誘いで通い始めた当時の同会は、全身の筋肉が萎縮していく筋ジストロフィーに侵されながら、同大近くで一人暮らしを始めた福嶋あき江(故人)を介助するボランティアの女子学生の集まりだった。
 福嶋は介助を受けるだけの障害者ではなかった。施設から出て自立生活を目指す「闘う障害者」だった。初めて話し込んだ大学三年の夏。「会をただのボランティア団体じゃなく、運動にしたい」。熱っぽくそう語った福嶋は、その数日後、たんが詰まり二十九歳で急逝。「言い残されたような気分になった」。佐藤が同会を引っ張るようになったのはそれからだ。/死去の翌年に福嶋の人生をドラマ化したテレビ番組は、単純な「お涙ちょうだい」の物語だった。「本当は嫌な奴(やつ)も世間知らずな奴もいるのに『障害者は勇気をくれる。前向きだ』って。うそつけと思う」。バンドの奇抜さには、そんな障害者イメージへの反感が込められている」(谷岡[2016])。
 テレビドラマは、福嶋が亡くなり、著書が刊行されたその翌年、八八年八月に放映された、24時間テレビの中の、著書と同じ題の『二十歳 もっと生きたい』。出演は沢口靖子、阿部寛、他。このドラマのこと福嶋の著書のことを巡っても対立が生じたことについては佐藤[1996]。記事にあるバンドについては虹の会HP。
★03 八七年十一月、福嶋に関わったボランティア一〇〇人の文章、そして福嶋の文章・写真が収録された文集『拓きそして生きる』ができた。それが作られること、できたこと、そしてその広告が『にじ』に掲載される。佐藤の手許にもかつてはあったが、見当たらないという。人にあげたりしているうちに、何冊もあったはずのものがいつのまにか無くなっている。そんなことがよくある。持っている人がいたら、どこかで見かけた人がいたら、お知らせください。
 ちなみにこの時期、八〇年代の後半、私たちは今回名前の出ている人としては、磯部、板山、小山内、白石、高嶺にインタビューをしている。ただ、その記録の多くが残っていない。たいへん恥ずかしいことだ。
★04 「川口に「障害者」の生きる場を作る会」が七四年に結成され、対行政交渉を続ける。七七年十二月「しらゆりの家」開所。しかし、運動側との約束を反故にし、社会福祉法人「まりも会」に委託したこと等に反発。「私達は既存の施設を一〇名に減少させただけの『重度障害者』隔離収容施設『しらゆりの家』を断じて許すことはできません」(『全障連』五、七八年四月)。運動の記録として「障害者」の生きる場をつくる会[1976?]。
★05 この本の続篇として『続自立生活への道――障害者福祉の新しい展開』(三ツ木編[1988])がある。編者は東京都心身障害者福祉センター職能科長(→放送大学)の三ツ木任一。仲村優一・板山賢治の監修となっている。ケア付住宅については磯部・今岡・寺田[1988]。三ツ木は「自立生活問題研究全国集会」(一九八九〜)に関わった。わりあい長く続いたが、専門家主導という批判がやがてなされ、自立生活「問題」とはなんだ、という言われ方もされて、それはなくなった。現在は毎年「障害者政策研究集会」が開催されている。私は三ツ木から声をかけられて調査に加わり、調査報告書(赤塚他[1998])を書いたことがある。
★06 「当時、全国青い芝の代表は横塚晃一さんだった。福島で最初に始めたのは白石清春さんと橋本広芳さん。そのころ、橋本さんも白石さんもすごく過激でね。施設へ行って、ベッドの周りに棚があって鉄格子みたいになってると、「おまえら、こんなところに入りたいと思うのか」ってすごい剣幕でどなったりしがみついたりして。二度とこないように立入り禁止になったりして。怒り狂って。悲しみのあまりにね。私たちの目の前で、ご飯に味噌汁とおかずと薬と水をかけて、ごちゃごちゃに混ぜたのを口につつこまれたりしているんだよ、私達の同窓生がさ。あまりにも悲しみが高まるよね。「おまえら、こんなのめしだと思うのか」ってつかみかかってどなるのよね。
 白石さんはその後、青い芝の活動のために秋田に移り住んで、青い芝の事務所のある神奈川と往復してた、福島にもしょっちゅう来てたけど。七九年には白石さんが全国の代表になったんだ。橋本さんは白石さんの女房役でね。」(安積[1990:30→2012:47-48])
 白石は二〇一一年の大震災の時には「被災地障がい者支援センターふくしま」の代表を務めた。そのことを本誌に書いた文章として白石[2013]。その「女房役」であり続けてきた橋本はこの本では福島の「うつみねの会」について書いている(橋本[1984])。そして白石・橋本について語った安積は所属をうつみねの会として安積[1984]を書いている。だからこの本の著者は、東京青い芝関係が五、福島青い芝の会――その初期の活動について土屋葉[2007]――関係が三。さらに実態調査には結局反対の立場をとった障害連関係者も、所属「東京都清瀬療護園」となっている(後に清瀬療護園を出る)太田修平、そして所属障害連で宮尾修、合わせて二、他に高野・福嶋・小山内、もう一人がハワイ自立生活センターの高嶺豊で、計十四人。
 他は福祉の専門職・大学教員で、東京都心身障害者福祉センターが三ツ木任一を含め二、国立身体障害者リハビリテーションセンター、東京都立小岩養護学校、神奈川県民生部、日本大学、そして既に名前が出た人含め厚生省社会局二、日本社会事業大学三。

■文献→文献表(総合)

◆赤塚 光子・佐々木 葉子・杉原 素子・立岩 真也・田中 晃・名川 勝・林 裕信・三ツ木 任一 199803 『療護施設・グループホーム・一人暮し――脳性マヒ者の3つの生活』,放送大学三ツ木研究室,166p.
◆秋山 和明 1984 「移動」,仲村・板山編[1984:126-146]
安積 純子 1984 「性と結婚」,仲村・板山編[1984:208-218]
◆―――― 1990 「<私>へ――三〇年について」,安積・岡原・尾中・立岩[1990:19-56]
◆安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店
◆―――― 1995 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補改訂版』,藤原書店
◆―――― 2012 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版
福嶋 あき江 198303 「地域での生活を始めて」,『ありのまま』15→19831125 山田[1983:146-151]
◆―――― 198401 「時間の重さ」,岸田・金編[1984:180-193]
◆―――― 198412 「共同生活ハウスでの実践をとおして」,仲村・板山編[1984:268-278]
◆―――― 198711 『二十歳もっと生きたい』,草思社,222p.
◆橋本 広芳 1984 「地方における取り組み――うつみねの会」,仲村・板山編[1984:279-285]
◆今岡 秀蔵 1984 「介助・援助――介護からの解放」,仲村・板山編[1984:86-96]
◆磯部 真教 1984 「自立生活とは」,仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 29-35.
◆磯部 真教・今岡 秀蔵・寺田 純一 1988 「ケア付き住宅七年間の実践――東京都八王子自立ホーム」,三ツ木編[1988:202-216]
◆板山 賢治 1984 「おわりに」,仲村・板山編[1984:315-317]
◆―――― 199710 『すべては出会いからはじまった――福祉半世紀の証言』,エンパワメント研究所,203p.
◆河野 康徳 1984a 「自立生活を考える手がかり――全身性障害者の状況と課題」,仲村・板山編[1984:1-26]
◆―――― 1984b 「フォーカス・アパート」,仲村・板山編[1984:305-314]
◆岸田 美智子・金 満里 編 1984 『私は女』,長征社,274p. ※
◆工藤 玲子 編 2012 『柳原和子もうひとつの「遺言」――がん患者に贈る言葉と知恵』,マーブルトロン,発売:中央公論新社,280p.
◆三ツ木 任一 編 1988 『続自立生活への道――障害者福祉の新しい展開』,全国社会福祉協議会,仲村優一・板山賢治監修,xiv+435p. 2000 ※
◆宮尾 修 1984 「市民活動への参加――ある障害者の奇妙なレポート」仲村・板山編[1984:219-228]
◆仲村 優一・板山 賢治 編 1984 『自立生活への道』,全国社会福祉協議会
◆太田 修平 1984 「生活施設」,仲村・板山編[1984:107-117]
◆佐藤 一成 1996 「あき江さんが死んだ」,『にじ』→2012−2013 『スーパー猛毒ちんどんコンポーザーさとうの日記』 ※ (20121229)・(20121230)・(20130101)
◆―――― 2001 「(……)」→20160124 「こっからまた15年がたった。」,『スーパー猛毒ちんどんコンポーザーさとうの日記』 
白石 清春 1984a 「所得保障――脳性マヒ者をはじめとする幼い時からの障害者の所得保障制度の確立をめざして」,仲村・板山編[1984:36-50]
◆―――― 1984b 「地域で生きていくことをもとめて――脳性マヒ者が地域で生きる会」,仲村・板山編[1984:246-259]
◆―――― 2013 「JDF被災地障がい者支援センターふくしまでの活動報告と今後の福島の新生に対する提案」,『現代思想』41-3(2013-3):104-115
◆「障害者」の生きる場をつくる会 1976? 『川口市に生きる場をつくる運動――「障害者」が自ら創り、自ら運営する!』,48p.
◇高嶺 豊 1984 「ハワイCIL」,仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 297-304.
◆谷岡 聖史 20160819-21 「となりの障害者」,『東京新聞』2016-8-19〜21(埼玉版) ※ 
◆立岩 真也 1990a 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」,安積他[1990:165-226]→[1995:165-226]→[2012:258-353]
◆―――― 1990b 「接続の技法――介助する人をどこに置くか」,安積他[1990:227-284]
◆寺田 嘉子 19841215 「自立への一つの道――東京都八王子自立ホーム」,仲村・板山編[1984:260-267]
土屋 葉 200707** 「福島県における障害者自立生活運動の生成と展開(1)――「福島県青い芝の会」創設期〜発展期を中心に(1973-1978)」『文学論叢(愛知大学)』136: 334-313.ISSN: 02870835
山田 富也 19831125 『筋ジストロフィー症への挑戦』,柏樹社,222p.
◇柳原 和子 198304 「筋ジス青年の自立への闘い」,『潮』288:196-211
◆―――― 1987 「弔辞というエピローグ」,福嶋[1987:187-210]
◆―――― 2000 『がん患者学――長期生存をとげた患者に学ぶ』,晶文社,600p.→2004 『がん患者学 I――長期生存患者たちに学ぶ』,中公文庫,477p.,『がん患者学 II――専門家との対話・闘病記録』,中公文庫,456p.
◆―――― 2002 『がん生還者たち――病から生まれ出づるもの』,中央公論新社,346p.→2004 『がん患者学III がん生還者たち――病から生まれ出づるもの』,中公文庫,394p.
◆―――― 2005 『百万回の永訣――がん再発日記』,中央公論新社,395p.

■この回に書こうと思うことに関わるかもしれないこと――1967年?の筋ジストロフィー少女マンガ
 ※この作品がなんであるかまだわかっていません。これではという方いらしたらお知らせくださいませ。

 「ふいに、幸司は、まだ小学生のころ読んだ少女マンガの物語をまざまざと思い出した。/(あの話はほんとうだったんだ。栗原は、筋ジスで死んだんだ。そうか。栗原は、数をかぞえることによって、死の恐怖と闘っていたのにちがいない。かわいそうに。あいつは自宅療養なんかじゃないんだ。個室で死んで、退院していったんだ。ボクにも、もうすぐ死がやってくる。)
 進行性筋ジストロフイー症がそんなに恐ろしい病気だなんて、幸司は信じたくなかった。/(筋ジスはなおる病気だと思っていた小学生のころはよかった。療養所にきて、なおらないと聞かされ、こんどは死につながる病気だなんて、どうしよう。どうしたらいいんだろう。死ぬのは苦しいだろうか)」(山田[1978:-140])

 「私が体験の他に、筋ジス≠知るようになったのは、いわゆるマスコミからでした。これは、私の体験を体系づける働きをしたのです。というのは、マスコミから受けた知識が体験により実証されていったわけです。
 私が最初に筋ジス≠フ記述を見たのは、小学四年生のときであったと思います。それは、ある少女雑誌のマンガでした。内容は進行性筋ジストロフィーに冒された少女が、徐々に進行して行く病気との闘いの中で葛藤し、ついには死んでしまう過程を克明に描いたもので、筋ジスに関する小さな解説が付いていました。これを読んだとき私は、全く信じられずに一笑に付してしまいましたが、後になって正しいことがわかっていきました。私の内面では強烈な否認が起こっていたのです。根拠は、死んだものはいない(当時死んだ人を知らなかった)、主人公が女性である、自分は足が不自由なだけで健康であるなどの点でした。」(高野[1976→2002:229-232])

 「私が最初に筋ジス≠フ記述を見たのは、小学四年生のときであったと思います。それは、ある少女雑誌の中でのマンガでした。内容は進行性筋ジストロフィー症に冒された少女が、徐々に進行して行く病気との闘いの中で葛藤し、ついには死んでしまう過程を克明に描いたもので、筋ジスに関する小さな解説が付いていました。これを読んだとき私は、全く信じられずに一笑に付してしまいましたが、後になって正しいことがわかって行きました。私の内面では強烈な否認が起こっていたのです。根拠は、死んたものはいない(当時死んだ人を知らなかった)、主人公が女性である、自分は足が不自由なだけで健康であるなどの点でした。」(高野[1983:170],立岩[20170501]に引用)

 cf.立岩[20170501]「山田の小説にあったのと同じ少女マンガが念頭に置かれているのかもしれない。そのマンガを読んで筋ジストロフィーを知ったが、その時はそのままに信じる気にはならななかった、だが、写真集で確かなことを知ったというのである。二人に一つずつ、同じ経過があったということだろう。」


UP:2017 REV:.. 20170608, 0728, 0821
病者障害者運動史研究  ◇立岩 真也  ◇Shin'ya Tateiwa 
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