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ケア付住宅/(グループホーム)
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◆立岩 真也 2018
『病者障害者の戦後――生政治史点描』
,青土社
■目次
■
『生の技法』他立岩の記述
■
言論
■
八王子自立ホーム
(1981〜、八王子市)
■
ふれあい生活の家
(1985〜、横浜市)
■
北海道営重度身体障害者ケア付住宅
(札幌いちご会、1986〜)
■
シャローム
(相模原市、1986〜)
■
ありのまま舎
(仙台市、1987〜)
■
虹の会
(さいたま市、1985〜1988に検討)
■
文献
■新着
◆
増田 洋介
2020/09/19
「もうひとつの「ケア付き住宅」建設運動――「川口に障害者の生きる場をつくる会」の足跡」
,
障害学会第17回大会報告
◆青木 千帆子・瀬山 紀子・立岩 真也・田中 恵美子・土屋 葉 2019/09/10
『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』
,生活書院,424p.
◆立岩 真也 2019/09/10 「分かれた道を引き返し進む」↓
◆立岩 真也 2017/08/01
「福嶋あき江/虹の会・2――生の現代のために・24 連載・136」
,『現代思想』45-(2017-8):-
→◆立岩 真也 2018/12/20
『病者障害者の戦後――生政治史点描』
,青土社,512p.↓
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■『生の技法』他立岩の記述
[表紙写真クリックで紹介頁へ]
◆『生の技法』初版・
第8章
※第2版(増補改訂版)・第3版にはありません。
「6 ケア付住宅
直接には介助の形態の一つと呼べないが、それと関わるものとしていわゆるケア付住宅がある。典型的には、比較的小規模の障害者の集合住宅を作り、そこに介助者が常駐して介助にあたる。
日本でケア付住宅建設運動の先駆けとなったのは、前章にみたように、東京青い芝の会だった。そしてその際、参考にされたのが、スウェーデンで六〇年代以降建設が進められたフォーカス住宅と呼ばれる居住の形態であり、他の国の小規模施設である。フォーカス住宅は、六三年に設立されたフォーカス協会によって実験的に建設さされた改造された集合住宅で、常駐の職員がおかれるともに、ヘルパーが訪れ、重度障害者の生活の場となる。この試みは成功し、七五年には運営が地方自治体に移管された。☆39
ただ、いま日本にあるいくつかのケア付住宅での介助体制は様々である。そもそも、介助供給の形態は、ケア付住宅と言う限りでは限定されず、したがって、様々な形態のどれをもあてはめることができる。まず、いくつかのケア付住宅についてその建設の経緯と介助の体制について概要を記すことにしよう。☆40
七三年にこの住宅を東京都に要求した東京青い芝の会では、七五年、会員の秋山がイギリスを中心としてヨーロッパを旅行し☆41、ここで得られたものも参考にして、構想を具体化する。七六年に調査費が計上され、以後十八回に[p267]亙る検討を経て、七八年三月に「ケア付き住宅設置構想について」という報告が出される。これを受けて東京都に建設運営委員会が設置され、八一年七月に「八王子自立ホーム」が開所する☆42。彼らは、当初、この居住空間を都営住宅の中に建設することを要望したが、それは結局果たされず、独立の建物として運営を開始した。ここでは職員一名が一日約一二時間の間介助を行う。必要な介助は入居者によって多様である。
これにも刺激されて次にケア付住宅建設の運動を始めたのは「札幌いちご会」である☆43。この会の活動は、脳性マヒ者の巨大コロニー「北海道福祉村」建設の計画に自らの主張を反映させることを目指して七七年に始まった。彼らは福祉村の中に個室を作ることを要求するとともに、七八年にそれが可能なことを一か月の合宿による実験で明らかにする試みを行う。また、七九年にはメンバーの小山内がスウェーデンでのケア付住宅の状況などを実際に確か[p268]め、帰国後は一般の住宅に住み、ケア付住宅の現実的な可能性について実験を続けていくとともに、その建設を北海道に要求する運動を行った。☆44行政の対応は当初積極的ではなかったが、継続的な働きかけの結果、八五年に北海道は「障害者の生活自立の促進について」という報告書を出し、それをうけて八六年に道営の重度身体障害者ケア付住宅が開設された☆45。一〇名が入居し、そのうち身辺介助が必要な者が四名、調理・買物に介助が必要な者が各二名いる。市と北海道から合わせて年に一八〇〇万円の補助を受け、時間あたり七五〇円が介助者に支払われている。(八八年)
この他にいくつかの自治体で検討されているが、障害者の側から積極的な運動がなされ実現したものとしては、横浜市及び神奈川県のものがあり、その運動の始まりについては一部前章に述べた。
横浜市では、「ふれあい生活の家」の建設運動が独自に進められ八四年に開所していたが、市の側では八三年九月横浜市在宅障害者援護協会が「グループホーム研究委員会」を設置し、八四年一一月に報告書を提出。八五年八月に「横浜市障害者グループホーム試行事業補助要項」が出され、「ふれあい生活の家」が試行事業として制度化された。脳性マヒ者六人(男性二名、女性四名)が、一人一人の必要に応じて改造された個室に入居している。食堂は共用。二階に職員二人が家族と住み、介助、運営の協力にあたる他、他の職員三名のうち一人が交替で泊まる。入浴時、通勤する職員のいない土曜の夜から日曜日にはボランティアがはいる。登録者は六〇名、交通費が一日あたり千円支給される。学生、労働者、かなり遠くから来る人もいる。(八七・八八年)☆46
神奈川県では、八四年七月に「ケア付住宅基本問題検討委員会」が発足し、その中間報告を受けて、八五年十月には県のケア付き住宅試行事業が開始され、八六年、平塚市、藤沢市、相模原市に神奈川県の試行事業としての「ケア付き住宅」が開設される。その一つ相模原市の「シャローム」☆47は、民間アパートの一階の四室が障害者に便利なように作られている。四人の脳性マヒ者が入居。ダイニング・キッチン、トイレ、風呂は共用。介助人グルー[p269]プ「グループ・シャローム」がある。現在登録者は約百名。時給六百円が支払われる。近所の大学生、主婦が大部分を占める。だが、主婦層について、他にみられるように、子育ての終わった年齢層が中心ということはないようだ。入居者一人あたりの介助の時間は一日二時間程度である。コーディネイターと呼ばれる人が二階に住んで、市から一定の報酬が出されているが、実際に介助にあたるわけではない。(八八年)
このような方向は、審議会でも取り上げられ☆48、国のレベルでの取り入れも徐々になされつつある。改正された身体障害者福祉法に規定された、「福祉ホーム」がケア付住宅とされる☆49。この制度の適用を受けて建設された住宅は[p270]八八年現在、全国に三つ、定員は六五名である☆50。
だがこの制度では運営費は出ないし、入居者は「常時介助、医療を必要とする状態にある者を除く」とされる。入居者の選考は運営主体にまかされるからこの規定は実際に適用されるとは限られないが、少なくともこの制度自体には介助の保障はない。基本的に個々人に支給されるものを使用して、あるいは彼ら、彼らの集団が自力で、どこからか介助者をみつけてこなければならない。この制度を利用して八七年四月に開設された仙台市の「ありのまま舎」☆51の場合、職員は一人、自分自身でボランティアを確保できる重度障害者に限って入居を許可している。入居者は一切介助を必要としない人から一部介助を必要とする人、すべてに介助を必要とする人と多様である。
このような試みに対する評価は様々だが、あくまで一般社会での生活を、という側の捉え方は懐疑的、あるいは否定的である。だが、その際、いくつかの試みを必ずしも一括して論じることができない。というのも、介助の形態だけでなく、その目標、それに応じたその形態が多様だからである。まずそれを明らかにしていく必要がある。
この形態は、彼らが批判の対象にしてきた収容施設に比べ、個室で生活でき、生活形態の拘束も緩いという点で確かに前進と捉えられる。けれどもそれは、一般の住居では普通に認められることである。何故ケア付住宅なのか。
第一に、居住空間の改造、機器の導入などによる自分でなしうる行為の範囲の拡大である。とすれば、介助にあたる人との関係の問題も極小化される。
第二は、介助に関係する。ここで介助を行う人は、職員、ボランティア、ある程度の報酬を得るいわゆる有償ボランティア、家庭奉仕員と多様であり、またその財源としても、自治体からの援助の他に、年金、特別障害者手当、生活保護の他人介護料、私達が今までみてきた、あらゆる形態がここにみられる。それに集住という形態が加わるのは、常時そばに人がいるのではなく、定時に、あるいは緊急の時に、介助者が訪れる、その際に、利用者が集まって住んでいること、介助者が近くに――多くの場合は同じ建物に――住むのは好都合だという点においてである。[p270]次に、幾人かが集まって住んでいるため、介助者を得るための活動を集団的に行うことができる。そして同じ理由で、一度に必要な介助者をある程度減らすことが可能だ。このことは、特に夜間など待機体制をとる場合にいえる。
そして第三に、ケア付住宅は、生活をともにしながら、ある目的を共有する集団として、集合的な力を獲得しようとする試みでもあった。一人一人が生活する限りでは社会的な力にならないのではないか。少なくとも、ケア付住宅に多くの人が入れるわけではない以上、入居出来た人達は、それに自足すべきではなく、その運営を積極的に担い、また、それにとどまらず多くの障害者の生活の改善に向かう活動を行うことが望まれたのである。
以上が、東京青い芝の会の主張として、ケア付住宅と結びつけられた。できる限り他者の介助を減らすことにより自律性を確保する。他者が常に自らの生活に関与することは煩わしく、必要な時に来るという形の方がより好ましい。というだけでなく、彼らの主張には、そもそもできる限り自らの力によって生活することこそが自立生活であるという考え方が含まれている。これが第一、第二の点と結びつく。そして改革への志向が第三の点に結ばれる。
八王子市での試みを参考にしながら、その後に出来たケア付住宅は、以上とは少し異なった性格を持っている。横浜市での試みは、一つにはともかく、住む場所がない人の生活の場を確保するためのものだったが、また、彼らの運動によって、ようやく少しずつ現れてきた一人で生活する人達が、その生活を十分に統御できないという問題にも促されたものだった。以前なら、様々な道を通って、何とか生活術を獲得し、介助者を操縦するすべを習得してきたのだが、それを全ての人に、とくに養護学校の中で他の社会との接触をあまり経験せずに過ごしてきた人達[p272]に要求することはできず、事実、生活時間、食の問題などで、健康を害する人が出てくる。横浜市のケア付住宅は、そういった人達が生活の術を習得する場所としての意味を持つ。相模原市での試みもこういう側面をもっている。このような目的をもつ場所は、一人一人が自らの場所で自らの場を維持していく生活の場所とは、性格が少し違う。
以上を確認した上で、ケア付住宅はどのように評価されるのか。
第一に、設備の充実。たしかに民間の借家、アパートでは難しい。だが、それは原理的な問題ではない。公営の住宅を改造可能なように作ることはできる。そして、その経費は、ケア付住宅を建設するよりも余計にかかるということはない。そして、特に重度者の場合、他者の介助、直接他者が傍にいる時間を少なくすることには限度がある。とすればやはり、そこでの問題は消えるわけではない。
第二に、集まって住むということ。なぜ、形態であれ集住という形態がとられるのか。それは結局のところ、介助の問題に帰着する。だが、常時利用者のそばにつくのでなく緊急時にだけ対応することも個々の場所に住む中でできなくはないし、実際に行われている☆52。この集住の形態が、コストの論理によって肯定されるとすればそれは、結局のところ、大規模施設――後にはかえってその方がコストがかかることが認識されるのだが――の建設を肯定する論理と同じということにならないのか。また集まって住まなくとも、集団的・組織的に介助者を調達していくこともできる。それは今まで見て来た通りだ。
第三に、意識、あるいは生活の仕方に関わる場面。まず、集団性の獲得という志向。だが、この運動が障害者一般の居住の条件の改善を目指し、それが公的な政策としてなされるのなら、最初からそして長期的に、目的志向的集団を形成・維持することは難しい。個々の生活の中で自足してしまうことを、こういった形態の集住によって抑えることはできないし、またそもそも抑えるべきかどうかも問題である。そして、公的な政策としてなされる場合、あるいは資金が提供される場合、入居者の選考基準を個々人の信条、志向に求めることには無理がある。そしてま[p273]たこの時、自らの独立した空間の要求とこれとは、矛盾しないまでも必ずしも整合しない可能性が出てくる。☆53つまり、様々に交流し情報を交換する場所が必要であるとして、そしてそれが現在あまりに少ない現状をみれば新たに作ることにも意義があるとしても、それを生活の場とすべき理由はみあたらないのである。
次に、より限定された生活技術の習得の場として。この場合、基本的に、ここでの居住は自分自身で住むための前段階、次への移行過程の中に捉えられる。実際には次の場所への移行がなかなか難しいから長期的な居住の場になることが多いとしても、それは本来の居住空間とは別のものである。このような場所が障害者の居住空間の全てを占めることはそもそもありえない。また、このような習得・訓練の機会・場所が居住の場所として与えられる必要が常にあるのかどうか。事実そうした試みは居住の場とは異なる様々な場所でいまなされつつある☆54。
こうしてこの居住の形態は、訓練的な意味あいでとらえる場合にはその機能は限定され、居住空間としての意味[p274]は薄れることになる。また志向を共有する共同性としてとらえる場合にもまた、それが居住空間としてあるべきかという点、等が問題になる。また独立性を重視する場合には、集住という形態は少なくとも積極的には支持されがたい。そして何より、数十万人の人が介助を要するとすれば、第一に要請されるのは、今住む場所、そして独立して住む一般の居住空間に対する援助であり、――障害者に限られないが――居住空間の一般的な保障ではないか。例えば障害(並びに国籍等の属性)を理由とする差別である入居拒否を禁止する立法措置であり、また不条理という他ない公営住宅への入居制限(↓第2章注8)の撤廃と、障害者が利用可能な公営住宅の増設、等々である。
事実、こうした中で、ケア付住宅の建設運動に関わってきた人々の間にもその意義を限定的に捉える方向が出てきている。4・5にみた試みの新たな事例としても、また4・5・6にみた論点の交錯について再度考えるためにも、札幌いちご会の活動をみよう。いちご会は注53に述べたような事情、ケア付住宅でのケアが必ずしも満足のいくものでなかったこと、なによりいくらケア付住宅を設置していっても到底介助を必要とする障害者全体のものにならないという認識から、ケア付住宅開設の後、@八六年末、ケア・サービス、住宅紹介、カウンセリング、移送サービスを行う合衆国のCILに比較的近い機関設立のための自立生活基金を得る募金活動を始めるとともに、Aまず幾人の障害者の集団(民間アパートに何人かが集まるという形を想定)に対して介助保障を行うという「グループ・ケア」制度を構想し、八七年以降札幌市に働きかける。だが、特定の団体に助成は出来ないとされ結局果たされず、また、この形にしても障害者全体のごく一部のものにしかならないという判断からこれを取り下げ、B八九年四月から、会の専従職員三人(給与月十万円)を中心とした(他に主婦・無職・学生各一名)介助者による介助サービス(一時間四百円+交通費百円、宿泊一泊千円)、及び移送サービス(一時間四百円+実費)を始める(開始後七五日で、十六人の利用者に対し介助七六二時間、宿泊七五日、移送九七回・二千キロ余)とともに、同年、C東京都の介護人派遣事業を参考にした「全身性障害者介助人派遣事業」の設置を札幌市に対して要求する。[p275]東京都の制度と異なっているのは時給制にするとしていることで、市長宛ての要望書ではパートタイマーの主婦の雇用対策になることも指摘している。時給制は介助を必要最低限のものにしようとする意図からも来ている。会員の小山内はできるだけむだなケアをなくすため、曖昧なボランティアや専従職員をやめ、生活保護の他人介護制度、特別基準もケア制度として曖昧であるがゆえすべてなくし――実際にはこれら全てを活用せざるを得ないでいるのだが――、必要なケア時間によって介助料を設定するきめ細かな制度にしていくべきことを述べている☆55。以上には第一に、ケア付住宅の限界に関する基本的な論点の一つが出ている。第二に、4・5にみたあらかたの要素が取り込まれている。第三に、介助の極小化という志向がある。これは、前章にもみた、介助保障要求を過剰で非現実的と批判した東京青い芝の会の主張であり、この会がケア付住宅建設運動においてもとった発想であり、またここと人的にも交流のあったいちご会が、自らのケア付住宅建設においてもその基幹に据えた発想であって、公的介助保障を要求する運動とかつて年金改革に力を集中した運動との「対立」あるいは後者の前者に対する「不信」――と思えるのだが――の構図を引き継いでいる。またこれに関連するものでもあるが、第四に、時給制、主婦のパートタイム労働としての介助という線を明確に打ち出している。第三、第四の点について、私達はまだ自らの見解を――第三の点に関して他者の介助はなくならないという当たり前のこと以外――述べていない。これは最後の節に残そう。
[p276]ケア付住宅に戻ろう。ケア付住宅への志向は、状況に促され、今後もなくなりはしないだろう。また、今述べてきたいくつかの機能が充たされるべきだとすれば、その場所が必要だろう。だが、その際には、機能と形態とを明確にした上でなければならない。でなければ、従来の施設より良い施設ができるだけだという可能性がある。それは必要なことだとしても、改善が次の一歩を促すものでなければならない。障害者だけが集まって一つの場所に住み、それだけで特別のところになってしまうならば、それは結局施設とさして変わらないということにならないのか。まず普通の場所に住むことを優先させるべきではないか。それを前提した上で、どのように生活を組み立てていくか、考えるべきではないか。こうして、施設ではない一般社会内での生活をできる限り求めていくなら、この形態はその固有の色彩を薄めていくことにならざるをえない☆56。そして、他者の介助の問題は残る。自立生活の運動の視点からはこのように言えるはずだ。そして現実の大筋はそのように進んでいると私達には思える☆57。
「☆39 介助は主に非常勤のヘルパーによる。ただその総数は日本に比べて格段に多い(高橋[81B]他)。運営が移管された時点で全国一四地域に二八〇戸。その後フォーカス住宅を一つのモデルとして、地方自治体でサービスハウスと称される障害者住宅・高齢者住宅、等が数多く建設される。文献として、高橋義平[81B]、NHK取材班[82:23-33]、児島[84:76-84]、河野[84]、他。
☆40 以下、ケア付き住宅に関する文献として、浅野・高橋貞三・広岡・辻・今岡の文章による『障害者の福祉』7-6(87年7月):6-20 、『われら人間』43(87年):6-19(特集: 重度障害者の住まいと介助)。この他、私達はいくつかの聞き取りと、八七年一一月に神奈川で開催された「「ケア付住宅」研究集会」での討議、配布された資料と翌年出された報告書(「ケア付き住宅」研究集会実行委員会編[88]――現在のところこれが最も重要な資料である――)によって情報を得た。なおこの報告書に記載されているケア付き住宅は一二、入居者(不明の四か所については定員)は一六〇人程度である。
☆41 その記録として秋山[81]、『とうきょう青い芝』。
☆42 『リハビリテーション研究』36 (81年):29-32 に検討委員会最終報告の一部が掲載されている。『とうきょう青い芝』の他、今岡[84][85][87]、磯部[80][82↓83][84]、寺田嘉子[84]、磯部・今岡・寺田[88]、等。またこの試みにふれつつ、居住の問題を全般的に論じたものとして高橋[81A][86]、等。
☆43 この会の活動については以下の文献の他、機関誌『いちご通信』(七七年発刊)を参照。私達は八七年一一月と八九年二月に小山内さんの話を伺った。
☆44 福祉村について北海道社会福祉会編[85]、今岡[85B ]。合宿の実験について、札幌いちご会編[78]。スウェーデンでの体験について小山内[81C ]。
☆45 これは第2種公営住宅(特定目的住宅)として建設された始めてのケア付き住宅である。文献として浅野[87]、鹿野[87]、『われら人間』43(87年):6-9、小山内[88A][88B]。
☆46 運動は七九年に始まる。運営費は、公費補助額と主に入居者負担金による自主財源がほぼ同額 (八六年度の予算は八九五万円)。文献として、障害者グループホーム試行事業委員会[86]、『われら人間』43(87年):6-9、『communities 』3(88年):1-17、室津[88]。私達は八七年五月に聞き取りを行っている。
☆47 八二年からの運動をへて、八四年検討委員会発足、八五年報告所提出、予算決定、八六年に開所。文献として脳性マヒ者が地域で生きる会の機関誌『生きる』の他、辻[87]、『われら人間』43(87年):10-11、国吉他[88]、白石[88]。私達は八六年八月と八八年五月に聞き取りを行った。
☆48 身体障害者福祉審議会の八二年三月の答申はフォーカス・アパート他諸外国の試みを列挙し、これらを参考にしながら「わが国の社会に適応した具体的方法の実践につとめることが必要であろう」とし、脳性マヒ者等全身性障害者問題研究会の報告(八二年四月)は長期的に改善すべき方向の一つとしてケア付き住宅をあげている、等。
☆49 身体障害者福祉法を一部を改正する法律(八四年法律第六三号) で、身体障害者の自立生活を促進するため、新たに身体障害者更生援護施設として身体障害者福祉ホームが加えられる。その設置運営要綱(八五年一月、厚生省社会局長通知、社更第五号)は、その定員を二〇名以上としていたが、八八年に一〇名以上と変更された。
☆50 仙台の「ありのまま舎」(定員二〇名)、愛知県の「ゆたかホーム」(二五名)、熊本県の「りんどう荘」(二〇名)。
☆51 筋ジストロフィー症患者の集団「ありのまま舎」は出版活動など様々な活動を行ってきた。彼らが居住の場を確保する上で、この制度を利用したのである。ただし現在の入居者は脳性マヒ者が最も多い(ありのまま舎について機関紙『ありのまま』の他廣岡[87]、『われら人間』43(87年):12-13、山田富也[87][88]、ゆたかホームについて高橋貞二[87])
☆52 武蔵野福祉公社では緊急警報装置のシステムを採用している。ペンダント形式の装置のボタンを押すと電話回線につながり、近くの老人ホームに受信され、老人ホームから担当員に電話が行き、五分以内に駆けつける。
☆53 八王子の場合、開始当初から、この問題が生じる。最初に入居したのはこの住宅建設の運動を進めてきた人達だったが、新たに入居する人の選考に関して、都によって建設されたという性格とのかねあいからも、都行政と入居者の間にそごが生じたのである(『とうきょう青い芝』)。また札幌いちご会が建設を進めてきたケア付住宅に入居できた会員は一名だけだった。
☆54 障害者・障害者集団によって作られた生活体験を行う場として、木村浩子の「土の宿」(現在は沖縄で民宿のような形態をとって運営を続けている、木村[83]、他)、国立市の「かたつむりの家」(↓第7章注57)、岡山の「障害者自立生活研修所」(藤本[88:154-159])、等がある。他に新宿身障明るい街づくりの会が運営に関わる東京都新宿区立障害者福祉センターの「自立生活体験室」(八五年四月開設)(小林圭子[86])。日野療護園においても施設の一部を用いての試みが始められた。また、東京都身体障害者福祉センターでの「自立生活プログラム」について三ツ木・赤塚[81][83]、三ツ木[84]、真崎[84]、赤塚[88]。八王子ヒューマンケア協会での自立生活プログラムについては第6章を参照。これらの性格は相互にかなり異なったものである。在宅生活を円滑にするための訓練というところをあまり出ていないものもあれば、プログラムというよりは自分で場所をみつけるまでの中間的な場所を提供することに目的がある所もある。
☆55 いくつか補記する。ケア付住宅に入居できなかった小山内はその格差を「天国と地獄」と表現し、入居した鹿野は「天国なんてない」と記した。@八六年黒柳徹子コンサートを皮切りに、八七年には糸井重里作成のテレホン・カードを販売、八七年から三年間で書き損じ葉書を三十万枚余集める。小山内[88]の印税も全額これにあてる。B登録年会費五千円(保険料含む)、事務費として月千円の基本料金(月二〇時間以上利用の場合時間あたり五〇円を上乗せ)。以上、小山内[87]、『いちご通信』69−80号(87−89年)、八九年二月の小山内さんへの聞き取りによる。なお相模原の脳性マヒ者が地域で生きる会もケア付き住宅の運営と併行してケアシステムを構想中。C九〇年六月、札幌市は前記(↓注22)自治体に続き、介護手当の助成制度の開始を決定。対象は二〇歳以上の一級の者。介護者は三親等以内の親族を除く。一時間七百円。初年度は利用者一五人延べ三七八〇時間を見込み三三〇万円の予算を計上。会の反応も含め『いちご通信』84(90年):8-9
☆56 「性格にもよるけど障害者があんまり固まるのはよくないね。小さな施設っていう感じがあるから。地域に点在していた方がいいと思う。」高橋[81B:143 ][86:214]、野村[87]も同様の危険性を指摘している。(周辺住民の参加できる行事を行う、施設を住民にも利用してもらうといった施設の「社会化」に限界があるは明らかだ)。スウェーデンでも近年は集住といった形態はとられなくなっている。
☆57 精神薄弱者に対して特に、グループホームという形態が注目されているようだ(親を主体とする会の機関紙等はしばしばこうした試みを特集している)。また精神障害者についてもこのような試みがある(池末他[86]、『うえるふぁ』各号を参照)。身体障害だけの場合とは別に考えるべき点があろうがここでは検討することができない。」
◆『生の技法 第2版』
『生の技法 第3版』
第8章・注
「☆02 「ケア付住宅」「グループホーム」等と呼ばれる少人数で集まって住む形態があるが、これにしても基本的には次への通過点と捉えるべきものと考えるし、実際に居住者の多くも自らそのように考えている。以下、参照文献だけを初版から再録して記す。スウェーデンの「フォーカス住宅」「サービスハウス」について高橋義平[81B]、NHK取材班[82:23-33]、児島[84:76-84]、河野[84]、他。ケア付住宅について野村[87]、『障害者の福祉』7-6(87年7月):6-20 、『われら人間』43(87年):6-19(特集: 重度障害者の住まいと介助)、「ケア付き住宅」研究集会実行委員会編[88]。東京都の「八王子自立ホーム」について、秋山[81]、『とうきょう青い芝』、『リハビリテーション研究』36 (81年):29-32(検討委員会最終報告の一部掲載)、今岡[84][85][87]、磯部[80][82→83][84]、寺田嘉子[84]、磯部・今岡・寺田[88]、等。またこの試みにふれつつ、居住の問題を全般的に論じたものとして高橋[81A][86]、等。「福祉村」(北海道社会福祉会編[85]、今岡[85B])に対する批判に始まる「札幌いちご会」が北海道に要求して設置されたケア付住宅は第2種公営住宅(特定目的住宅)として建設された始めてのケア付き住宅である(浅野[87]、鹿野[87]、『われら人間』43(87年):6-9、小山内[88A][88B]、機関誌『いちご通信』)。合宿の実験について札幌いちご会編[78]。スウェーデンでの体験について小山内[81C]。神奈川県横浜市の「ふれあい生活の家」について障害者グループホーム試行事業委員会[86]、『われら人間』43(87年):6-9、『communities 』3(88年):1-17、室津[88]。神奈川県相模原市の「シャローム」(八六年開所)について脳性マヒ者が地域で生きる会の機関誌『生きる』の他、辻[87]、『われら人間』43(87年):10-11、国吉他[88]、白石[88]。国の制度としては、身体障害者福祉法を一部を改正する法律(八四年法律第六三号) で、身体障害者の自立生活を促進するため、新たに身体障害者更生援護施設として「身体障害者福祉ホーム」が加えられた。その設置運営要綱(八五年一月、厚生省社会局長通知、社更第五号)は、その定員を二○名以上としていたが、八八年に一○名以上と変更された。出版活動など様々な活動を行ってきた筋ジストロフィー症患者の集団「ありのまま舎」は、彼らが居住の場を確保する上でこの制度を利用した(機関紙『ありのまま』、廣岡[87]、『われら人間』43(87年):12-13、山田富也[87][88]、「ゆたかホーム」について高橋貞二[87])。知的障害者の居住の場として「グループホーム」という形態が注目され(親を主体とする会の機関紙等はしばしばこうした試みを特集している)、また精神障害者についてもこのような試みがある(池末他[86]、『うえるふぁ』)。九一年以降出された数多くの論文・報告をここでは紹介できない。橋本・浜口[93]、日本障害者協議会編[94]だけをあげる。」
◆立岩 真也 2018/12/20
『病者障害者の戦後――生政治史点描』
,青土社,512p.
□第5章 一九八一・八二年・二〇一七年
□2
福嶋あき江
□11 ケア付住宅
「「専従」の人にぎりぎりのお金を払い、夜間と専従の人の休みの日のボランティアを大学生から得る、月二万円ほどのために、バザーで、またお茶を売って、いくらかの収入を得る。それ以外のことはなかなかできなかったようだ。しかし、あるいはそんな状況だからこそ、次を、しかしすぐに「CIL」にも行けない中で、考えることにはなった。機関紙をみていくと、八五年に「ケア付住宅」を作るという目標が示される。そのこと自体が会の活動の膠着をもたらした部分があるように私には思われるのだが、そのことは後で説明する。それにしてもごく小さな組織において、しかも実現しなかった二年ほどのできごとだ。しかしそれでも、ここに記録しておく意義はあると私は思う。それが選択肢とされたについての事情があり、そしてその事情は今でもなくなったわけではないからである。そのことを考えることは、ではどのような道を進めばよいのか、その戦術に関わる。機関紙『にじ』に、その経緯がたいがいごく簡単にではあるが、記されている。
一九八五年、福嶋。「新年度方針で、特にケア付住宅の実現を目指して初めて動き出すことになりました。/共同生活の維持・運営と、この大きな目標を平行して行うことは、代表としての力量に不安ですが、精一杯やりますので、皆さんよろしくお願いいたします」(『にじ』一〇・八五年六月)。
『にじ』にその切り抜きが載っている同年十月二二日の『埼玉新聞』。見出しは「独立した個人として」「「ケア付き住宅」目指す」「浦和のグループ「虹の会」」。「「虹の会」は五十七年七月に発足。以来、一軒家や民間アパートなど三回、場所を移りながら「共同生活ハウス」を運営してきた。将来的には通いの介助者ではなく、同じアパート内に健常者と障害者が部屋を独立して持ち共同生活ができる「ケア付き住宅」を目指している。」△341
この八五年、東京都八王子市の「八王子自立ホーム」(345頁)、埼玉県の「しらゆりの家」に見学に行く。後者は七〇年代に問題になった施設のはずだが★26、そのことはたぶん知られていない。
「ケア付住宅実現にむけて(これまでをふり返って…)」という記事。「重度障害者が地域社会の中で人間らしく生きられるよう、その生活の場づくりを目指すことを目的として、虹の会が発足しました。そこで、障害者のニードと利用できる行政サービスなどを考え合わせる中で、共同ハウス構想が生まれました。それは、同一アパート内で呼べば介助が得られることや、健常者とのつながりがもてるような住居形態でした。/発足当初は「借家での健常者との同居生活」からはじまり、「マンションでの一戸口・二人の障害者共同生活」、「戸口別アパート生活」の実践と、形態が変わるごとにニードが明らかになってきました。こういった実践をいかした虹の会独自のケア付住宅をつくっていこうと、現在、運営委員会では動きはじめました。」(『にじ』一五・八六年二月)
八五年十一月の学習会の報告。「住宅状況の現状について報告がなされる。それによると、重度の障害者が公営・民間いずれも入居するのが難しい状態。神奈川県で建設中の「ケア付き住宅」などの動向を見ていくことにする。更に、障害者が利用しやすいように設備を改造する場合も、個々の利用者のニーズに即して考え、「ケア付住宅」全体としての利用しやすい形態を考えていく」(『にじ』一六・八六年五月)。
「今年度の活動方針であった今までの「共同ハウスで」の実践の報告書、「ケア付住宅」実現に向けての青写真作りも、大変遅れています。」(『にじ』二一・八七年一月)
八七年三月、相模原市の「シャローム」(347頁)を見学する。機関紙には、県で検討委員会が設置され検討されたこと、民間アパートを借り上げたものであること、ケアの合理化、入居者の連帯感が入居者から言われたこと、ただ個々の生活の独立性に懸念があること、自分たちも公的保障を求めていくべ△342 きこと等が言われる(『にじ』二四・八七年五月)。
しかし同年七月、福嶋は死去する。同年十一月、「福嶋あき江を偲ぶ会」での会長代理あいさつ。「福嶋さんの遺志を継いで、虹の会はこれからもケア付き住宅の実現を目指して頑張ります」(『にじ』二八・八八年一月)。
八八年五月、第七回定期総会(会長:戸塚薫、副会長:石川弘尚・豊田悦子)で採択された「新規約」「5(活動方針)本会は目的達成のため、以下の方針に基づき活動を行う。/(1)ケアつき住宅を地域のなかにつくり、その実践を充実させてゆく。」
こうしてこの時期までケア付住宅は掲げられてはいる。しかし次第に後ろに退いていく。福嶋が亡くなった後もしばらく借り上げていた部屋は維持される。そして新しく始まった企画・事業としての「体験入所」のために使われるが、その部屋は費用負担の問題から手放されることになる。
いっとき望まれたこと、そして後退していったことをどう見るか。たった二年の間、福嶋の死もあって立ち消えになっていったことを見る必要があるか。あると考える。
まず、ケア付住宅に実現の可能性がほぼなかったということではないか。住宅を、という以上、新たな建物として建てるか、既にあるものを借りるかである。これからみていくように、建物ができることも実際にはあった。しかしそのためには、自治体に認めさせ、金を出させることが必要だ。時間がかかり、予算がかかる。虹の会の場合、実際には具体的な働きかけをしてはいないし、始めてもいない。福嶋がもっと生きたとしてもその段階に進めただろうか。例えば埼玉県に申し入れぐらいしたとしても、現実的な折衝に持ち込める可能性があったか。
後述するように自治体が建設を認め作られたところはある。それで現実性はあると考えられていのかもしれない。ただ一つ作るのにひどく手間はかかり、金もかかり、その次が続くことはなかった。そう△343 したなかで、別の生活に移ることもできないなら、とても少ない数の人たちが、同じところにずっと住むことになる。それで住んでいる人は仮によいとしても、新しい人は入れない。数を増やそうとしても、建物を新たに作るとなればその費用がかかる。八〇年代は地価が上がっていった時期でもあった。こうしてこの策は、ぐるぐると狭い範囲を回ってしまう。八〇年代半ばには既にこうしたことは見えていたように思う。しかし追求されようとした。それに付いていこうという人たちがいた。福嶋もそういう人だった。」
「★26 「川口に「障害者」の生きる場を作る会」が七四年に結成され、対行政交渉を続ける。七七年十二月「しらゆりの家」開所。しかし、運動側との約束を反故にし、社会福祉法人「まりも会」に委託した△407 こと等に反発。「私達は既存の施設を一〇名に減少させただけの『重度障害者』隔離収容施設『しらゆりの家』を断じて許すことはできません」(『全障連』五、七八年四月)。運動の記録として「障害者」の生きる場をつくる会[1976?]。」
◆青木 千帆子・瀬山 紀子・立岩 真也・田中 恵美子・土屋 葉 2019/09/10
『往き還り繋ぐ――障害者運動於&発福島の50年』
,生活書院,424p.
◆立岩 真也 2019/09/10 「分かれた道を引き返し進む」
「9 もっと大規模なケア付き住宅をの主張に付いて行けず引き返す
きりつめることに自発的に同意する。もっと大きなものを得るための方便・戦術としてでなく、本気でそう主張する。結果、実際にきりつめられてしまう。自らその方向に行く。そうしたことがもう一つ起こった。
所得保障とともに、あるいはその主題が政策論議の前面に出る前から、東京青い芝の会が七三年の結成以来、七〇年代をかけてずっと追求してきたのがケア付き住宅だった★34。たいへん長い検討・議論を経て「八王子自立ホーム」が八一年に開設された。そして相模原の「シャローム」開設運動が八二年に始まり、八六年に開設される。そして、『病者障害者の戦後』で、山田富也ら仙台の八四年からの運動があり八七年開設された「ありのまま舎」のこと、北海道では札幌いちご会(cf.小山内[1984])が八六年に実現するが、小山内美智子は入居できず、『夜バナ』(渡辺一史[2003])の主人公鹿野靖明は入居できたが望んでいたような生活ができないことを「ケア付住宅の住みごこち」(鹿野[1987])に書いていることなどを紹介した(立岩[2018d:341-348,368-371])。
さきに紹介した『自立生活への道』では、厚生省社会局更生課の身体障害者福祉専門官の河野康徳★35が「自立生活を考える手がかり――全身性障害者の状況と課題」(河野[1984a])、「フォーカス・アパート」(河野[1984b])を書いている。後で紹介する。そして寺田嘉子が「自立への一つの道――東京都八王子自立ホーム」(寺田[1984])。また『続・道』には、磯部真教・今岡秀蔵・寺田純一の「ケア付き住宅七年間の実践――東京都八王子自立ホーム」(磯部・今岡・寺田[1988])、白石の「自立生活のワンステップとしてのケア付住宅――脳性マヒ者が地域で生きる会」(白石[1988])、室津茂美の「グループホームの実践を通して――ふれあい生活の家」(室津[1988])がある。△277
それは、基本的にはうまくない手だったと、私は以前から考えていて、『病者障害者の戦後』でもそう述べた。まず、投下されたその多大の労力を考えた時に、最初のものであったから時間がかかるのは仕方がないとしても、ひどく手間がかかった。とくに新たに建設するのは困難だった。できたのはわずかな数だった。そして、入った人がずっといるのであれば、その定員の数しか住めない。ただ、そこに住み続けることを最善とするのでなければ、その場所を一時的な場所、その次の生活のための移行のための場所であるとし、実際にそのように運用できるなら、もっと多くの人が、体験のための場所として使えるかもしれない。白石が「シャローム」の運動をし運営をする八〇年代に強調したのはそのことだった。白石[1988]が言っているのはそのことであり、ほぼなんの記憶もない相模原での聞き取り(三頁)で聞いたのもそのことだったと思う。しかし現実には、例えば東京のそれにおける流動性は低いものだった。そこに入った人たちの多くは、そこにずっと暮らした。他の人が利用しようにも利用できないものであり続けた。
基本的なところに戻って考えよう。集まって住むことのよさというものはある。一人暮らしが、本人においても望まれない孤立になってしまうことがあることは言われてきた。しかしそれは、種々、隣あわせにあるいは隣近所に住むとか、様々に、すきなようにすればよい。そして障害者同士である必要もない。結局のところ、その正当性は、介助を少なくできることに求められる。
『病者障害者の戦後』でも同じ箇所を引用したが(立岩[2018d:346])、河野は、「生活の場のあり方については先進国に示唆的な実践例があるが、国情の違いなどのためそれらの方策をそのままの形で導入するのは適当でない。/[…]自立生活というものを、家族との同居や施設入所以外の生活に限定してとらえるのは現実的ではない」(河野[1984a:18])と言う。そして日本のケア付住宅のモデルにもされたという「フォーカ△278 ス・アパート」――七〇年代の『とうきょう青い芝』にその見聞記などが幾度も載っている――の紹介をしている(河野[1984b:18])。この箇所には介助の人手が少なくてすむからとは書いていない。しかし、この形態の居住が有効である理由を考えていくと、それしか残らない。そして実際、札幌にできたものでも介助者を「共有」することになり、それは介助が多く必要な人には辛いものであったという。
▽白石 磯部さんが、ケア付きの自立ホーム、ケア付き住宅、作ったでしょ。小規模すぎるって、もっと大きいのを作るのには問題ないって。五、六〇人規模のやつを、東京で作ろうっていうふうに磯部さんが言い始めて。で、八丈島がいいんじゃないかって、言ったんですね。[…]島流し。[…]うまく合わなくなっていって。それで大森君も東京青い芝は嫌だと言って。自立連、辞めよう。辞めた。自立連辞めて、こっち〔福島〕に。俺と同じ時期に。(白石、白石・橋本[i2018])△
そんなことがあったことは、三〇年余りが経って初めて聞いた。このことは機関誌の類には出てこない。ただありうることだと思った。白石はここでも引き返した。どうもおかしなことだ、おかしなほうに行ってしまうと思ったのだ。そして障害者運動の全体は、結局その方向には向かわなかった。そしてそのことが正しい、正しかったと、効果的であり効率的であったと私は考える。ケア付き住宅を作る(作らせる)のに、偉大な膨大な労力が費やされた。比較のしようもないが、やはりたしかにおおいに苦労はして、その当時は非現実的と思われていた――だからケア付き住宅で、そしてさらに大規模な集住の場で対応しようとなった――別の道を行った。つまり、一人ひとりが住む場所に介助する制度・仕組みを作って、実現していった。△279 そのことによって、ずっと数多くの人が地域で暮らせるようになった。」
「★34 ケア付住宅については『生の技法』の初版にあった「接続の技法――介助する人をどこに置くか」(立岩[1990b])にかなりの記述があって、しかしそのことにあまり気がつかず、その章を別の文章(立岩[1995a])と差し替えたために、その部分が第二版・第三版からは消えた――新たに加えたのは「自立生活センターの挑戦」(立岩[1995b])。それはよいことではないと考え、現在はHPに以前の章の全体を再掲している。 ★35 その後、昭和女子大学人間社会学部福祉環境学科特任教授。同愛会東京協力会会長も務めたようだ(
http://hyuman.com/kykdayori.pdf
)。」
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■言論
◆三ツ木 任一 編 19880901
『続自立生活への道――障害者福祉の新しい展開』
,全国社会福祉協議会,仲村優一・板山賢治監修,xiv+435p. 2000 ※
◆河野 康徳※ 19841215「自立生活を考える手がかり――全身性障害者の状況と課題」
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 1-26.
第一章 全身性障害者の状況
第二章 自立生活を実現するための方策
三 生活の場のあり方について
第三章 問題解決への展開
「三 生活の場のあり方について
全身性障害者が自立生活を実現しようとするとき、前述した所得保障の問題の他に、住環境、介助、移動、生活環境と街づくり、生活の場としての施設など数多くの問題が存在する。これら広い意味でい生活の場のあり方については先進国に示唆的な実践例があるが、国情の違いなどのためそれらの方策をそのままの形で導入するのは適当でない。
自立生活というものを、家族との同居や施設入所以外の生活に限定してとらえるのは現実的ではない。それぞれの生活形態において自らの判断と決定により主体的に生き、その行動に責任を負うとする自立生括をめざすことは可能であり、障害者自身がその生活形態を選択しうる社会的条件の整備が必要なのである。そのため、諾外国の例を参考にしつつ、今後研究と試行を実践していかねばならない。」(河野[1984:18])
◆立岩真也 20160301 「生の現代のために・10(予告) 連載・121」,『現代思想』44-(2016-3)→
「その私が主に書いてきたのは脳性まひ他の人たちの動きだった。その書きものを端から読んでもらえれはわかるように、そこには筋ジストロフィー他の人たちも出てくるのだが、その流れを読み取るのは難しいかもしれない。だから、この(4)の部分も、新たに、大幅に書き足す必要がある。
とくに進行の速い筋ジストロフィーについて、本人たちの運動は困難だった。その例外の一つが仙台の「ありのまま舎」だった。それはようやく二〇歳を超える人たちがいて、可能になった部分がある。そしてその生起には、七〇年頃の学生運動の関係もすこしばかりはあったことを山田富也が証言している。病棟の自治会運動から始まったその運動は、やがて皇族他の著名人も味方につけてのよく知られる動きになっていく。その活動は出版と、そして「ケア付住宅」の運動に向かう。一九八〇年代において身体障害者の運動があって作られたケア付住宅――今は「グループホーム」という言葉の方が通りがよいはずだ――建設の動きとして比較的知られているのは、東京青い芝の会によって作られた「八王子自立ホーム」、札幌いちご会が運動してできた北海道営のケア付き住宅、そして仙台のありのまま舎だった。
各々にそれらを作ろうとするもっともな理由があった。しかし苦労して実現したそれらは、かけた労力に比して、得られたものの少ないものであったと私は考えている。そして実際そのことをそれを先頭に立って推進して実現させ本人(山田富也)が語っている文章もある。そして、前回紹介した鹿野靖明は札幌のケア付き住宅建設運動に加わり、そこに入居できたのだが、うまくいかず、一人で暮らすことになった人だった。
筋ジストロフィーに限れば、これらと関係しつつも、すこし異なるところを目指す運動は一九八〇年代初頭に始まる。そしてそれは、私が知る少数の事例についていえば、七〇年代の運動の「過激」な部分を引き継ぐというよりは、八一年の「国際障害者年」を機会に来日して講演などしそれが紹介された米国の運動の影響をより大きく受けたと言えるかもしれない。
ここでは一人だけをあげておく。高野岳志(一九五七〜一九八四)という人がいた。その人は八一年の九月、千葉の国立療養所下志津病院国立療養所を出て、「自立」しようとした。名称だけということであれば、「自立生活センター」を名乗ったのは、彼が千葉市中央区宮崎にこの年に設立した「宮崎自立生活センター」が日本で最初であったかもしれない。『リハビリテーション』という雑誌に書いた文章(高野[1983])がある。また、当時、一時的に行政と協調路線をとった青い芝の会他の人たちと当時障害福祉課長だった板山賢一という厚労省の官僚とが作った研究会から出版された『自立生活への道』という本に文章も書いている(高野[1984])。山田富也の著書、「ありのまま舎」が出した本にも文章を寄せている。ただその人は八四年に亡くなってしまう。実質的には一人の人を支援するものとして設立された組織は少なくないのだが、それは、亡くなってしまえばまた終わりになるということでもある。
そんなことがありながら、八〇年代から人工呼吸器が一般化していったということもあり、多くの人たちがより長く生きられるようになる。そして療養所に筋ジストロフィー者だけ集められる、だからそこで集まりができる、という事情があってのことでければ、この名称の人たちだけが集まる理由もとくにない。筋ジストロフィー者(だけ)による集団というより、例えば人工呼吸器の使用者としての集まりが形成されるようになる。「人工呼吸器使用者ネットワーク(JVUN)」が一九九〇年に結成される。また「呼ネット」が二〇〇九年に結成される。そして、自立生活センターと呼ばれる組織のスタッフとして活動する人たちがいる。その最近を伝える本として、「自立生活センター東大和」で働きながら、「呼ネット」の副代表もしている海老原宏美(脊髄性筋萎縮症・SMA)とその母による『まぁ、空気でも吸って――人と社会:人工呼吸器の風がつなぐもの』(海老原・海老原[2015])があったり、映画としてその海老原も出てくる『風は生きよと言う』(二〇一五・宍戸大裕監督)があったりする。
そうした最近のことは、それはそれとして紹介しよう。ただ次回以降はしばらく、もっと昔のことについて書いていくことになる。」
◆立岩真也 20170701 「福嶋あき江――生の現代のために・23 連載135」,『現代思想』
「虹の会については、これから少し見ていく「ケア付住宅」がそんな「きわ」の場所にある。会の歴史が語られる時、それは前には出てこない。また福嶋の本やいま読むことのできる八四年までに書かれた文章にも出てこない。八五年に知り合い、八七年に亡くなるまでの二年ほど関わった佐藤の文章にも出てこない。ただ、一時間以上は話をうかがっていったんほぼ終わってから、古い機関紙のある棚に案内してくれながら、そういえばという感じで佐藤は、「ケア付き住宅というのが当時流行って」、「今考えると発想は完全に施設なんですけど」、ケア付住宅のことを福嶋が「言っていた、というか、それしか知らなかったというか」といったことを語った。それで私は初めて知り、そして必ず返す約束で貸してもらった機関紙を見ていくと、たしかに出てくる。それは八七年の福嶋の死をはさんで八五年から八八年までの間、語られている。
私は、じつは、ケア付住宅がその会の歴史の後景に退いていったこと、佐藤の記憶・認識のなかにも大きなものとして残っていないこと、それでよかったと考えている。その説明はこれからしていく。ただ、そんなこともあったということを押さえておくこと、消えていったことを知っておくことにいくくらかの意味はあると思う。
そのときどきに書かれたり話されりした記録が残っていると、かつてはあったがその後消えていったというその跡が辿れることがある。例えば機関紙にはそんなところがある。機関紙は、どんなにうちわで作られたものでも、やはりいくらか外向けのものであるといった媒体だが、そのときどきにおいて、建前として何をしようとしているのか、することになっていると思っているのかを知ることができる。他方で、人のなかには残っていくもの、ときには強められていくものと、消えていくものがある。すると、その差分を知ることができ、差分について考えることができる。」
「□ケア付住宅
「専従」の人にぎりぎりのお金を払い、夜間と専従の人の休みの日のボランティアを大学生から得る、月二万円ほどのために、バザーで、またお茶を売って、いくらかの収入を得る。それ以外のことはなかなかできなかったようだ。しかし、あるいはそんな状況だからこそ、次を、しかしすぐに「CIL」にも行けない中で、考えることにはなった。機関紙をみていくと、八五年に「ケア付住宅」を作るという目標が示される。そのこと自体が会の活動の膠着をもたらした部分があるように私には思われるのだが、そのことは後で説明する。それにしてもごく小さな組織において、しかも実現しなかった二年ほどのできごとだ。しかしそれでも、ここに記録しておく意義はあると私は思う。それが選択肢とされたについての事情があり、そしてその事情は今でもなくなったわけではないからである。そのことを考えることは、ではどのような道を進めばよいのか、その戦術に関わる。機関紙『にじ』に、その経緯がたいがいごく簡単にではあるが、記されている。
一九八五年、福嶋。「新年度方針で、特にケア付住宅の実現を目指して初めて動き出すことになりました。/共同生活の維持・運営と、この大きな目標を平行して行うことは、代表としての力量に不安ですが、精一杯やりますので、皆さんよろしくお願いいたします」(『にじ』一〇・八五年六月)。
『にじ』にその切り抜きが載っている同年十月二二日の『埼玉新聞』。見出しは「独立した個人として」「「ケア付き住宅」目指す」「浦和のグループ「虹の会」」。「「虹の会」は五十七年七月に発足。以来、一軒家や民間アパートなど三回、場所を移りながら「共同生活ハウス」を運営してきた。将来的には通いの介助者ではなく、同じアパート内に健常者と障害者が部屋を独立して持ち共同生活ができる「ケア付き住宅」を目指している。」
この八五年、東京都八王子市の「八王子自立ホーム」(後述)、埼玉県の「しらゆりの家」に見学に行く。後者は七〇年代に問題になった施設のはずだが★04、そのことはたぶん知られていない。
「ケア付住宅実現にむけて(これまでをふり返えって…)」。「重度障害者が地域社会の中で人間らしく生きられるよう、その生活の場づくりを目指すことを目的として、虹の会が発足しました。そこで、障害者のニードと利用できる行政サービスなどを考え合わせる中で、共同ハウス構想が生まれました。それは、同一アパート内で呼べば介助が得られることや、健常者とのつながりがもてるような住居形態でした。/発足当初は「借家での健常者との同居生活」からはじまり、「マンションでの一戸口・二人の障害者共同生活」、「戸口別アパート生活」の実践と、形態が変わるごとにニードが明らかになってきました。こういった実践をいかした虹の会独自のケア付住宅をつくっていこうと、現在、運営委員会では動きはじめました」(『にじ』一五・八六年二月)。
八五年十一月の学習会の報告。「住宅状況の現状について報告がなされる。それによると、重度の障害者が公営・民間いずれも入居するのが難しい状態。神奈川県で建設中の「ケア付き住宅」などの動向を見ていくことにする。更に、障害者が利用しやすいように設備を改造する場合も、個々の利用者のニーズに即して考え、「ケア付住宅」全体としての利用しやすい形態を考えていく」(『にじ』一六・八六年五月)。
「今年度の活動方針であった今までの「共同ハウスで」の実践の報告書、「ケア付住宅」実現に向けての青写真作りも、大変遅れています」(『にじ』二一・八七年一月)。
八七年三月、相模原市の「シャローム」(後述)を見学する。機関紙には、県で検討委員会が設置され検討されたこと、民間アパートを借り上げたものであること、ケアの合理化、入居者の連帯感が入居者から言われたこと、ただ個々の生活の独立性に懸念があること、自分たちも公的保障を求めていくべきこと等が言われる(『にじ』二四・八七年五月)。
ただ同年七月、福嶋が死去する。同年十一月、「福嶋あき江を偲ぶ会」での会長代理あいさつ。「福嶋さんの遺志を継いで、虹の会はこれからもケア付き住宅の実現を目指して頑張ります」(『にじ』二八・八八年一月)。
八八年五月、第七回定期総会(会長:戸塚薫、副会長:石川弘尚・豊田悦子)で採択された「新規約」「5(活動方針)本会は目的達成のため、以下の方針に基づき活動を行う。/(1)ケアつき住宅を地域のなかにつくり、その実践を充実させてゆく。」
こうしてこの時期までケア付住宅は掲げられてはいる。しかし次第に後ろに退いていく。福嶋が亡くなった後もしばらく借り上げていた部屋は維持される。そして新しく始まった企画・事業としての「体験入所」のために使われるが、その部屋は費用負担の問題から手放されることになる。
いっとき望まれたこと、そして後退していったことをどう見るか。たった二年の間、福嶋の死もあって立ち消えになっていったことを見る必要があるか。あると考える。
まず、ケア付住宅に実現の可能性がほぼなかったということではないか。住宅を、という以上、新たな建物として建てるか、既にあるものを借りるかである。これからみていくように、建物ができることも実際にはあった。しかしそのためには、自治体に認めさせ、金を出させることが必要だ。時間がかかり、予算がかかる。虹の会の場合、実際には具体的な働きかけをしてはいないし、始めてもいない。福嶋がもっと生きたとしてもその段階に進めただろうか。例えば埼玉県に申し入れぐらいしたとしても、現実的な折衝に持ち込める可能性があったか。
後述するように自治体が建設を認め作られたたところはある。それで現実性はあると考えられていのかもしれない。ただ一つ作るのにひどく手間はかかり、金もかかり、その次が続くことはなかった。そうしたなかで、別の生活に移ることもできないなら、とても少ない数の人たちが、同じところにずっと住むことになる。それで住んでいる人は仮によいとしても、新しい人は入れない。数を増やそうとしても、建物を新たに作るとなればその費用がかかる。八〇年代は地価が上がっていった時期でもあった。こうしてこの策は、ぐるぐると狭い範囲を回ってしまう。八〇年代半ばには既にこうしたことは見えていたように思う。しかし追求されようとした。それに付いていこうという人たちがいた。福嶋もそういう人だった。
□『自立生活への道』(一九八四)
ケア付住宅、その他が要求される文脈、流れがあった。福嶋たちはその流れの中にいたが、その流れのことを知らなかったはずだ。別の流れがあり、全体のなかにあることを知らなかったはずだ。福嶋は、高野の協力者であった加藤裕二から障害者運動のことを聞いていたし、「国際障害者年」でもあった八一年に米国に行ってもいる。その前後に知識を得たはずだ。ただ、それより前から始まり、対立の契機も含まれていた日本の状況、その中にケア付住宅も位置づいていることがわかっていたとは思われない。だが、若く、米国に行って帰ってきたりなどして目立つところにはいたし、活動を始めようともしていたから、当時の、ケア付住宅、その他が要求される文脈、集まりのなかに、たぶんその文脈はよくわからないまま、入れてもらうことに、入っていくことになった。
虹の会がケア付住宅を目標とするとしたその前年、八四年の十二月、『自立生活への道』(仲村・板山 編[1984])が出ている★05。市販された本で「自立生活」の表題をもつものはこれが最初のはずだ。編者は当事日本社会事業大学の仲村優一と板山賢治。板山は刊行時の職場は日本社会事業大学だが、厚生省社会局更生課長等を勤めた(自伝的な著書に板山[1997])。板山がその課長の時、「七五年に予定されていた実態調査が、優生思想による障害者の抹殺に結びつき、施設収容政策を推進するものだとして批判され、阻止されて以来、日本の障害者に関するデータがなく、そのため、この年を迎えるにあたって何としても調査を実施したいという強い意向が厚生省にあった」(立岩[1990a:208])。具体的には板山にあった。厚生省・板山は障害者団体との対話路線に転じた。
本のあとがきで、板山はその八〇年調査について「「賛成とはいえないが、反対はしない」という結論をえて」調査は実施されたとまとめる(板山[1984:316])。実際にはそう単純ではない。「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」は反対、「障害者の生活保障を要求する連絡会議(障害連)」も結局反対した。ただ確かに、当時の、七八年の横塚晃一の死去後の混乱もあり「過激」な部分が一時後退した時期の青い芝の会はそのような方針になった。そしてその中心部分は東京青い芝の会の人たちだった。最初は東京から始まった青い芝の会は、七〇年代初頭、神奈川の青い芝が突出した行動を始めるのを受け、それに対抗するかたちで「東京青い芝の会」を名乗る。そしてその人たちは、はっきりとした主張をしつつ、八〇年の調査をきっかけに板山らとの関係を作り続けていく。この調査をめぐる話し合いの中で板山は「脳性マヒ者等の生まれた時からの障害者の生活問題に関する研究」を行なうことを約束、課長直属の研究会として「脳性マヒ者等全身性障害者問題研究会」が八〇年三月に始まり八二年四月まで続く(委員長は仲村)。八五年の本はその研究会の成果とされる。福嶋や高野はその研究会のメンバーではないが、本の執筆者には加わっている。そのようにしてこの時期のこの動きに連なることになる。
東京青い芝の会の主要なメンバー(その幾人かは八王子自立ホームに住む人たちでもある)の積極的な主張は、一つに(生活保護ではなく)年金による所得保障、一つにケア付住宅の建設だった。そして三つ目は介助の極小化だ。当時の文献は『生の技法』(立岩[1990a][1990b])にかなり網羅的に挙げたから略す。
ケア付住宅の主張・要求は七三年に始まっている。「東京都八王子自立ホーム」は東京都に要求された。七六年から七八年にかけて委員会で検討され、八一年に開所。かなりの時間がかかった。これがケア付住宅の名で呼ばれた最初のものだ。
所得保障政策については、生活保護の問題性を指摘し、年金による所得保障を主張した。八五年に障害基礎年金が導入され、金額等の問題は別として、その主張は実現されたことになる。
そして、介助を多く要求することは依存を強めるといった主張をして、介助制度の拡充を求める人たちと対立することになった。
この三つをどう解するかである。その時のことを、まず穏健派・現実派とより原理主義的な反対派の分化とまとめることはできる。ただ、もう少し丁寧にみていくこともできる。そしてこの分化を、私は一九九〇年に書いた時より、長く説明することができると思うし、今ここでそれをしておいた方がよいと考えた。既に七〇年代にあった分岐は、そこに誤解や遺恨の類も含まれているのだろうが、しかし無視できないものを示していると考える。東京青い芝の主張にはまずはもっともに思えるところがあるのだが、やはり妙な部分がある。かつて書いたこと(立岩[1990a])をもう一度検討して、言いなおす必要があると考えている。
本の説明に戻る。二部構成の第一部を社会局更生課の身体障害者福祉専門官(→昭和女子大)の河野康徳が書いている。「生活の場のあり方については先進国に示唆的な実践例があるが、国情の違いなどのためそれらの方策をそのままの形で導入するのは適当でない。/[…]自立生活というものを、家族との同居や施設入所以外の生活に限定してとらえるのは現実的ではない」(河野[1984a:18])と言う。日本のケア付住宅のモデルにもされたという「フォーカス・アパート」の紹介をしているのも河野だ(河野[1984b])。
そして東京青い芝の磯部真教(執筆者一覧での所属は八王子自立ホーム)の「自立生活とは」(磯部[1984])が第二部の先頭に置かれる。今岡[1984](所属は八王子自立ホーム)で介助最少化の主張がなされる。そして八王子自立ホームを紹介しているのが寺田[1984](東京青い芝の会)。さらに秋山[1984]を書いている秋山和明も電動車いす使用者連盟の所属になっているが東京青い芝の会員で、障害者の執筆者十四人のうち四名が東京青い芝の会員。
そして東京青い芝が主導権を有していた時期の全国青い芝の会長だった白石清春(うつみねの会)★06が、所得保障・年金について一つ(白石[1984a])、「脳性マヒ者が地域で生きる会」の活動について一つ(白石[1984b])書いている。虹の会の人たちが八七年に見学に行ったのが、この相模原市の組織――白石は福島青い芝の会を始めた人だったが全国の会長になって神奈川にやってきて、相模原でこの会を作り活動した――が運営する「シャローム」。この原稿の時点では「自立生活センター(仮称)」を建設したいと語り、その「近くに居住部分(個室)を設け[…]ます。そして、ここは独立した生活を目ざす訓練の場であるので、あくまでも通過施設とします」(白石[1984b:259])とされる。「通過施設」「移行の場」であることをこの時期にも強調する人たちがいた。ただ、条件次第ではその流動性は弱まる。実際に八王子自立ホームがそうなったことが後に指摘されることになる。そしてこの時にはまだできていなかったシャロームは八二年に運動が始まり、八六年に開設。その翌年に虹の会が見学に行ったということになる。
もう一つ、ケア付住宅に関わったのは「札幌いちご会」で、その代表の小山内美智子の文章もこの本にある(小山内[1984])。この会が運動して、八六年にできたのが「北海道営重度身体障害者ケア付住宅」だった。こうして、八王子、相模原、札幌とこの時期あった試みは、横浜市にもう一つ「ふれあい生活の家」があるが、この本、というよりこの時期のこの流れの中に集められている。
そして国立療養所から出てきた筋ジストロフィーの人たちによるケア付住宅として、八七年四月に「ありのまま舎」が開設される。八王子、相模原、札幌も開設にずいぶんの労力と時間が費やされたが、それでも施設は公営だった。それに対してありのまま舎は、「福祉ホーム」という制度は使いつつ、民間の、莫大な労力と知恵と時間を使って作られた。それが国立療養所体制に対するこの時点での代案とされたということにもなる。しかし、それは、費やされたものの大きさのわりには…、と思うところがある。そしてそれは、ありまのまま舎に力を注いだ山田富也自身が言うことでもある。
なぜそうなったのか。そのことについていくらかを言うことができるように思う。次回に述べる。そしてそれは、福嶋や高野が面したと柳原が記した困難について、そしてそこから完全に逃れることなどできないにしてもいくらかを減らす手だてについて言うことにもなるはずである。それはたぶん、ひどく単純な、言うまでもないような答である。しかしその単純なところになかなか行かないその事情はすこし複雑であり、ケア付住宅やその周りに配置された現実や言説もその停滞の一部である。このことを示せると思う。
「★04 「川口に「障害者」の生きる場を作る会」が七四年に結成され、対行政交渉を続ける。七七年十二月「しらゆりの家」開所。しかし、運動側との約束を反故にし、社会福祉法人「まりも会」に委託したこと等に反発。「私達は既存の施設を一〇名に減少させただけの『重度障害者』隔離収容施設『しらゆりの家』を断じて許すことはできません」(『全障連』五、七八年四月)。運動の記録として「障害者」の生きる場をつくる会[1976?]。
★05 この本の続篇として『続自立生活への道――障害者福祉の新しい展開』(三ツ木編[1988])がある。編者は東京都心身障害者福祉センター職能科長(→放送大学)の三ツ木任一。仲村優一・板山賢治の監修となっている。ケア付住宅については磯部・今岡・寺田[1988]。三ツ木は「自立生活問題研究全国集会」(一九八九〜)に関わった。わりあい長く続いたが、専門家主導という批判がやがてなされ、自立生活「問題」とはなんだ、という言われ方もされて、それはなくなった。現在は毎年「障害者政策研究集会」が開催されている。私は三ツ木から声をかけられて調査に加わり、調査報告書(赤塚他[1998])を書いたことがある。
★06 「当時、全国青い芝の代表は横塚晃一さんだった。福島で最初に始めたのは白石清春さんと橋本広芳さん。そのころ、橋本さんも白石さんもすごく過激でね。施設へ行って、ベッドの周りに棚があって鉄格子みたいになってると、「おまえら、こんなところに入りたいと思うのか」ってすごい剣幕でどなったりしがみついたりして。二度とこないように立入り禁止になったりして。怒り狂って。悲しみのあまりにね。私たちの目の前で、ご飯に味噌汁とおかずと薬と水をかけて、ごちゃごちゃに混ぜたのを口につつこまれたりしているんだよ、私達の同窓生がさ。あまりにも悲しみが高まるよね。「おまえら、こんなのめしだと思うのか」ってつかみかかってどなるのよね。
白石さんはその後、青い芝の活動のために秋田に移り住んで、青い芝の事務所のある神奈川と往復してた、福島にもしょっちゅう来てたけど。七九年には白石さんが全国の代表になったんだ。橋本さんは白石さんの女房役でね。」(安積[1990:30→2012:47-48])
白石は二〇一一年の大震災の時には「被災地障がい者支援センターふくしま」の代表を務めた。そのことを本誌に書いた文章として白石[2013]。その「女房役」であり続けてきた橋本はこの本では福島の「うつみねの会」について書いている(橋本[1984])。そして白石・橋本について語った安積は所属をうつみねの会として安積[1984]を書いている。だからこの本の著者は、東京青い芝関係が五、福島青い芝の会――その初期の活動について土屋葉[2007]――関係が三。さらに実態調査には結局反対の立場をとった障害連関係者も、所属「東京都清瀬療護園」となっている(後に清瀬療護園を出る)太田修平、そして所属障害連で宮尾修、合わせて二、他に高野・福嶋・小山内、もう一人がハワイ自立生活センターの高嶺豊で、計十四人。
他は福祉の専門職・大学教員で、東京都心身障害者福祉センターが三ツ木任一を含め二、国立身体障害者リハビリテーションセンター、東京都立小岩養護学校、神奈川県民生部、日本大学、そして既に名前が出た人含め厚生省社会局二、日本社会事業大学三。」
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■八王子自立ホーム(1981〜)
◆
東京青い芝の会
◇『生の技法』初版・
第8章
※第2版(増補改訂版)・第3版にはありません。
「日本でケア付住宅建設運動の先駆けとなったのは、前章にみたように、東京青い芝の会だった。そしてその際、参考にされたのが、スウェーデンで六〇年代以降建設が進められたフォーカス住宅と呼ばれる居住の形態であり、他の国の小規模施設である。フォーカス住宅は、六三年に設立されたフォーカス協会によって実験的に建設さされた改造された集合住宅で、常駐の職員がおかれるともに、ヘルパーが訪れ、重度障害者の生活の場となる。この試みは成功し、七五年には運営が地方自治体に移管された。☆39
ただ、いま日本にあるいくつかのケア付住宅での介助体制は様々である。そもそも、介助供給の形態は、ケア付住宅と言う限りでは限定されず、したがって、様々な形態のどれをもあてはめることができる。まず、いくつかのケア付住宅についてその建設の経緯と介助の体制について概要を記すことにしよう。☆40
七三年にこの住宅を東京都に要求した東京青い芝の会では、七五年、会員の秋山がイギリスを中心としてヨーロッパを旅行し☆41、ここで得られたものも参考にして、構想を具体化する。七六年に調査費が計上され、以後十八回に[p267]亙る検討を経て、七八年三月に「ケア付き住宅設置構想について」という報告が出される。これを受けて東京都に建設運営委員会が設置され、八一年七月に「八王子自立ホーム」が開所する☆42。彼らは、当初、この居住空間を都営住宅の中に建設することを要望したが、それは結局果たされず、独立の建物として運営を開始した。ここでは職員一名が一日約一二時間の間介助を行う。必要な介助は入居者によって多様である。」
「☆39 介助は主に非常勤のヘルパーによる。ただその総数は日本に比べて格段に多い(高橋[81B]他)。運営が移管された時点で全国一四地域に二八〇戸。その後フォーカス住宅を一つのモデルとして、地方自治体でサービスハウスと称される障害者住宅・高齢者住宅、等が数多く建設される。文献として、高橋義平[81B]、NHK取材班[82:23-33]、児島[84:76-84]、河野[84]、他。
☆40 以下、ケア付き住宅に関する文献として、浅野・高橋貞三・広岡・辻・今岡の文章による『障害者の福祉』7-6(87年7月):6-20 、『われら人間』43(87年):6-19(特集: 重度障害者の住まいと介助)。この他、私達はいくつかの聞き取りと、八七年一一月に神奈川で開催された「「ケア付住宅」研究集会」での討議、配布された資料と翌年出された報告書(「ケア付き住宅」研究集会実行委員会編[88]・・現在のところこれが最も重要な資料である・・)によって情報を得た。なおこの報告書に記載されているケア付き住宅は一二、入居者(不明の四か所については定員)は一六〇人程度である。
☆41 その記録として秋山[81]、『とうきょう青い芝』。
☆42 『リハビリテーション研究』36 (81年):29-32 に検討委員会最終報告の一部が掲載されている。『とうきょう青い芝』の他、今岡[84][85][87]、磯部[80][82↓83][84]、寺田嘉子[84]、磯部・今岡・寺田[88]、等。またこの試みにふれつつ、居住の問題を全般的に論じたものとして高橋[81A][86]、等。」
◇文献
『とうきょう青い芝』006 19751228 総会/ケア付住宅/全国大会/…
『とうきょう青い芝』007 19760225 ケア付住宅/東京都交渉/等級/年金
『とうきょう青い芝』008 19760401 東京都/秋山・英国報告
『とうきょう青い芝』009 19760501 ケア付住宅/秋山・英国報告2
『とうきょう青い芝』010 19760601 ケア付住宅/…
『とうきょう青い芝』011 19760701 総会/等級/秋山・英国報告3
『とうきょう青い芝』012 19760801 ケア付住宅/…
『とうきょう青い芝』013 19760901 総会/運動方針
『とうきょう青い芝』014 19761001 ケア付住宅/…
『とうきょう青い芝』015 19761101 ケア付住宅/…
『とうきょう青い芝』016 19761201 スウェーデン・フォーカス運動/ケア付住宅
『とうきょう青い芝』017 19770101 ケア付住宅/…
『とうきょう青い芝』018 19770201 ケア付住宅/…
『とうきょう青い芝』019 19770301 福祉機器/ケア付住宅/…
『とうきょう青い芝』020 19770401 事務所移転/ケア付住宅/…
『とうきょう青い芝』021 19770501 全国委員会/ケア付住宅/…
『とうきょう青い芝』022 19770601 交通/ケア付住宅/全国青い芝/…
『とうきょう青い芝』023 19770801 運動方針・役員・予算/ケア付住宅/…
『とうきょう青い芝』024 19770901 新事務所/ケア付住宅/…
『とうきょう青い芝』025 19771001 等級/東京都予算/…
『とうきょう青い芝』026 19771101 ケア付住宅/…
『とうきょう青い芝』027 19780101 年金/ケア付住宅/…
『とうきょう青い芝』028 19780201 ケア付住宅/等級/…
『とうきょう青い芝』029 19780301 ケア付住宅
『とうきょう青い芝』030 19780401 共同作業所/ケア付住宅/…
『とうきょう青い芝』031 19780501 ケア付住宅/…
『とうきょう青い芝』032 19780701 総会・活動方針/…
『とうきょう青い芝』033 19780801 横塚晃一死去
『とうきょう青い芝』034 19780901 横塚晃一死去
◇磯部 真教 1980 「脳性マヒ者の独立と自由への道――ケア付き住宅と自立」,『障害者と生活』2:34-37
◇磯部 真教 1982 「東京都八王子自立ホーム」,『はげみ』163→83 障害者自立生活セミナー実行委員会編[83B:64-67] ◇磯部 真教 19841215 「自立生活とは」,仲村・板山編[84:29-35]
◇寺田 嘉子 19841215 「自立への一つの道――東京都八王子自立ホーム」,
仲村・板山編[1984
:260-267]
◇磯部 真教・仲村 優一・三ツ木 任一・太田 修平・白石 清春・久保・斉藤 明子(座談会) 83 「自立生活」,『リハビリテーション』255(83-7):10-31
◇磯部 真教・今岡 秀蔵・寺田 純一 88 「ケア付き住宅七年間の実践――東京都八王子自立ホーム」,三ツ木編[88:202-216]
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■ふれあい生活の家(1985〜、横浜市)
◇
『生の技法』
第7章
「横浜では、神奈川青い芝の矢田らが中心となって、七九年三月、「ふれあいの会」を結成、同年七月作業所の運営を始め、八二年には障害者地域活動ホーム・ふれあいの家を設立、作業所をここに移すとともに、そこを地域との交流の場所にしょうと試みる。そして、当初から必要性が認められ、また家庭に問題が生じ生活する場がなくなっても作業所はそれに対応しきれないという問題の発生に促され、生活の場所としての「ふれあい生活の家」建設の運動を行う(83)。」(立岩[1990:214→1995:214→2012])
「(83) 正式名称は「神奈川県脳性マヒ者会館建設委員会(ふれあいの会)」で、当初は名称の通り、脳性マヒ者会館の建設を目的としていたが、これが作業所及び住居「障害者地域活動ホーム・ふれあいの家」の建設運動と実現後の運営活動へと移行していく。ふれあい生活の家については第8章6で紹介した。機関紙として『ふれあい』がある。他に矢田[88]。」(立岩[1990:215→1995:215→2012])
◇『生の技法』初版・
第8章
※第2版(増補改訂版)・第3版にはありません。
「横浜市では、「ふれあい生活の家」の建設運動が独自に進められ八四年に開所していたが、市の側では八三年九月横浜市在宅障害者援護協会が「グループホーム研究委員会」を設置し、八四年一一月に報告書を提出。八五年八月に「横浜市障害者グループホーム試行事業補助要項」が出され、「ふれあい生活の家」が試行事業として制度化された。脳性マヒ者六人(男性二名、女性四名)が、一人一人の必要に応じて改造された個室に入居している。食堂は共用。二階に職員二人が家族と住み、介助、運営の協力にあたる他、他の職員三名のうち一人が交替で泊まる。入浴時、通勤する職員のいない土曜の夜から日曜日にはボランティアがはいる。登録者は六〇名、交通費が一日あたり千円支給される。学生、労働者、かなり遠くから来る人もいる。(八七・八八年)☆46」(立岩[1990:215])
「☆46 運動は七九年に始まる。運営費は、公費補助額と主に入居者負担金による自主財源がほぼ同額 (八六年度の予算は八九五万円)。文献として、障害者グループホーム試行事業委員会[86]、『われら人間』43(87年):6-9、『communities 』3(88年):1-17、室津[88]。私達は八七年五月に聞き取りを行っている。」
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■北海道営重度身体障害者ケア付住宅(札幌いちご会、1986〜)
◇『生の技法』初版・
第8章
※第2版(増補改訂版)・第3版にはありません。
「これにも刺激されて次にケア付住宅建設の運動を始めたのは「札幌いちご会」である☆43。この会の活動は、脳性マヒ者の巨大コロニー「北海道福祉村」建設の計画に自らの主張を反映させることを目指して七七年に始まった。彼らは福祉村の中に個室を作ることを要求するとともに、七八年にそれが可能なことを一か月の合宿による実験で明らかにする試みを行う。また、七九年にはメンバーの小山内がスウェーデンでのケア付住宅の状況などを実際に確か[p268]め、帰国後は一般の住宅に住み、ケア付住宅の現実的な可能性について実験を続けていくとともに、その建設を北海道に要求する運動を行った。☆44行政の対応は当初積極的ではなかったが、継続的な働きかけの結果、八五年に北海道は「障害者の生活自立の促進について」という報告書を出し、それをうけて八六年に道営の重度身体障害者ケア付住宅が開設された☆45。一〇名が入居し、そのうち身辺介助が必要な者が四名、調理・買物に介助が必要な者が各二名いる。市と北海道から合わせて年に一八〇〇万円の補助を受け、時間あたり七五〇円が介助者に支払われている。(八八年)」
「☆43 この会の活動については以下の文献の他、機関誌『いちご通信』(七七年発刊)を参照。私達は八七年一一月と八九年二月に小山内さんの話を伺った。
☆44 福祉村について北海道社会福祉会編[85]、今岡[85B ]。合宿の実験について、札幌いちご会編[78]。スウェーデンでの体験について小山内[81C ]。
☆45 これは第2種公営住宅(特定目的住宅)として建設された始めてのケア付き住宅である。文献として浅野[87]、鹿野[87]、『われら人間』43(87年):6-9、小山内[88A][88B]。」
◇
小山内 美智子
19841215 「ケア付き自立生活を求めて――札幌いちご会の歩み」,
仲村・板山編[1984
:231-245]
◇
鹿野 靖明
19871010 「ケア付住宅の住みごこち」,『はげみ』196(1987-10・11):22-24
◇
鹿野 靖明
1987 「ケア付住宅の住みごこち」,『はげみ』196(87-10・11):22-24
◇
鹿野 靖明
19901110 「くらしのありようはそれぞれ」,『いちご通信』086:08-11
◇渡辺 一史 20030331
『こんな夜更けにバナナかよ――筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』
,北海道新聞社,463p.→2013 文春文庫
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■シャローム(相模原市、1986〜)
◇
『生の技法』
第7章
「(83)。また、相模原市では、全国青い芝の代表だった白石が、八○年六月、「脳性マヒ者が地域で生きる会」を結成し、後述する所得保障連絡会議に参加して所得保障確立の運動を進めるとともに、会独自の活動として、地域作業所「くえびこ」を八二年四月に開所し、運営を始めた。やはりこの作業所も、生産というより、外に出、地域との交流を図ることを目指す。そして八二年からはケア付住宅の建設に取り組み、八六年に実現させる。ここにやはり、養護学校を卒業した世代を中心とした人達が入居し生活を始めた(84)。」
「(84) ケア付住宅「シャローム」については第8章6で紹介した。機関紙として『生きる』、他に白石[84B]。」
◇『生の技法』初版・
第8章
※第2版(増補改訂版)・第3版にはありません。
「神奈川県では、八四年七月に「ケア付住宅基本問題検討委員会」が発足し、その中間報告を受けて、八五年十月には県のケア付き住宅試行事業が開始され、八六年、平塚市、藤沢市、相模原市に神奈川県の試行事業としての「ケア付き住宅」が開設される。その一つ相模原市の「シャローム」☆47は、民間アパートの一階の四室が障害者に便利なように作られている。四人の脳性マヒ者が入居。ダイニング・キッチン、トイレ、風呂は共用。介助人グルー[p269]プ「グループ・シャローム」がある。現在登録者は約百名。時給六百円が支払われる。近所の大学生、主婦が大部分を占める。だが、主婦層について、他にみられるように、子育ての終わった年齢層が中心ということはないようだ。入居者一人あたりの介助の時間は一日二時間程度である。コーディネイターと呼ばれる人が二階に住んで、市から一定の報酬が出されているが、実際に介助にあたるわけではない。(八八年)」
「☆47 八二年からの運動をへて、八四年検討委員会発足、八五年報告所提出、予算決定、八六年に開所。文献として脳性マヒ者が地域で生きる会の機関誌『生きる』の他、辻[87]、『われら人間』43(87年):10-11、国吉他[88]、白石[88]。私達は八六年八月と八八年五月に聞き取りを行った。」
◇
『にじ』
(
虹の会
)024(19870520)
「ケア付住宅を知る 第2弾――相模原市ケア付住宅の実際を通して……
去る、3月5日(木)、私たちは横浜線の淵野辺にあるケア付住宅(通称:シャローム)に見学に行ってきました。
実際に
動き初めているケア付住宅はいかに…
このケア付住宅が完成するまでには、検討委員会が設置され、度重なる検討会議の中、ある一定の報告が報告書≠ニいう形となってうちだされ、より具体化されました(85年・3月)
報告書の中では、「ケア付住宅入居者に対して良質な多面的なサービスを、必要な時にはいつでも供給できる介助システムを確立する必要がある」と
うたい
、介助体制の充実には特に力を入れていく方向のようです。
住居形態[…]
介助体制[…]
財政面[…]
コーディネーターの配置[…]
その他
こうした中で進められていくケア付住宅。入居者側はこんな感想を……
・ケアの合理化が図れる。
・集団の中での連帯感、共同行動がもてるようになる。
・一人ではできないことも、入居者同志〔ママ〕が集まればできることがある。
確かに、県の承諾の下、一貫した運営はできると思いました。しかし、私たちが求めている、個々の生活の保障はどうなのでしょうか?!
考えるべきものがあります。」(p.1)
「さがみ原のケア付住宅は、地域の中のふつうの民間アパートを借りあげ、そこに介助を保障していく、という形態で運営されており、我々共同生活ハウスにも通じるところがあると思いました。
また、食事・風呂など個々の生活の保障やプライバシーの面での課題はあると思われますが、県の施策として行われていることで経済的保障は大きいと思います。私たちも共同生活ハウスを社会的認めさせ、公的保障を求めていくことが必要ですね。
〈文責〉森茂」(p.1)
◇白石 清春 19841215 「地域で生きていくことをめざして――脳性マヒ者が地域で生きる会」,仲村・板山編[1984:246-259]
◇辻 宇乃 1987 「ケア付住宅「シャローム」」,『障害者の福祉』7-6(87-7):9-11
◇白石 清春 19880901 「自立生活のワンステップとしてのケア付住宅――脳性マヒ者が地域で生きる会」,三ツ木編[1988:188-201]
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■ありのまま舎(仙台市、1987〜)
◆
ありのまま舎
◇『生の技法』初版・
第8章
※第2版(増補改訂版)・第3版にはありません。
「国の制度としては、身体障害者福祉法を一部を改正する法律(八四年法律第六三号) で、身体障害者の自立生活を促進するため、新たに身体障害者更生援護施設として「身体障害者福祉ホーム」が加えられた。その設置運営要綱(八五年一月、厚生省社会局長通知、社更第五号)は、その定員を二○名以上としていたが、八八年に一○名以上と変更された。出版活動など様々な活動を行ってきた筋ジストロフィー症患者の集団「ありのまま舎」は、彼らが居住の場を確保する上でこの制度を利用した(機関紙『ありのまま』、廣岡[87]、『われら人間』43(87年):12-13、山田富也[87][88]、「ゆたかホーム」について高橋貞二[87])。」
「このような方向は、審議会でも取り上げられ☆48、国のレベルでの取り入れも徐々になされつつある。改正された身体障害者福祉法に規定された、「福祉ホーム」がケア付住宅とされる☆49。この制度の適用を受けて建設された住宅は[p270]八八年現在、全国に三つ、定員は六五名である☆50。
だがこの制度では運営費は出ないし、入居者は「常時介助、医療を必要とする状態にある者を除く」とされる。入居者の選考は運営主体にまかされるからこの規定は実際に適用されるとは限られないが、少なくともこの制度自体には介助の保障はない。基本的に個々人に支給されるものを使用して、あるいは彼ら、彼らの集団が自力で、どこからか介助者をみつけてこなければならない。この制度を利用して八七年四月に開設された仙台市の「ありのまま舎」☆51の場合、職員は一人、自分自身でボランティアを確保できる重度障害者に限って入居を許可している。入居者は一切介助を必要としない人から一部介助を必要とする人、すべてに介助を必要とする人と多様である。
このような試みに対する評価は様々だが、[…]」
「☆50 仙台の「ありのまま舎」(定員二〇名)、愛知県の「ゆたかホーム」(二五名)、熊本県の「りんどう荘」(二〇名)。
☆51 筋ジストロフィー症患者の集団「ありのまま舎」は出版活動など様々な活動を行ってきた。彼らが居住の場を確保する上で、この制度を利用したのである。ただし現在の入居者は脳性マヒ者が最も多い(ありのまま舎について機関紙『ありのまま』の他廣岡[87]、『われら人間』43(87年):12-13、山田富也[87][88]、ゆたかホームについて高橋貞二[87])」
◇廣岡 正記 87 「福祉ホーム「仙台ありのまま舎」」,『障害者の福祉』7-6(87-7):12-14
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■虹の会(さいたま市、1985〜1988に検討)
◆
虹の会
■『にじ』
◇010(19850625)
「第四回総会行われる
[…]
こうした総括を踏まえて、85年度方針では、当面の方針 としての共同ハウスの運営≠ニ今後の方針としてのケアー付住宅の実現に向けての動き≠分けるということで活動を明確にしていきたい。』
以上のような説明があり、これまでの論点を明らかにしました。」(p.1)
「精一杯やります!!
会長福嶋あき江さんが語る今後の抱負
[…]新年度方針で、特にケアー付住宅の実現を目指して初めて動き出すことになりました。/共同生活の維持・運営と、この大きな目標を平行して行うことは、代表としての力量に不安ですが、精一杯やりますので、皆さんよろしくお願いいたします」(p.1)
◇013(19851030)
『埼玉新聞』1985-10-22(県央) 「独立した個人として 「ケア付き住宅」目指す 浦和のグループ「虹の会」
記事全文(COPY)p.2
「「虹の会」は五十七年七月に発足。以来、一軒家や民間アパートなど三回、場所を移りながら「共同生活ハウス」を運営してきた。将来的には通いの介助者ではなく、同じアパート内に健常者と障害者が部屋を独立して持ち共同生活ができる「ケア付き住宅」を目指している。
しかし資金面では、収入が「虹の会」メンバーの会費(年額二千円)とお茶の販売やバザーの売り上げなどに限られているため、今、会員とボランティアを募集している。」
◇014(19851225)
「ケア付住宅実現に向けて
今年度、前期の学習係は、以下のような活動を行なってきました。
・車椅子講習会(2回)〈5月・11月〉
・ケア付住宅についての学習会※(見学二回)
今年度は特に、総会での「ケア付住宅実現に向けて」という目標を受けて、ケア付住宅についての学習会を運営委員会の中で、毎回一時間を使って行なってきました。
ケア付住宅については、運営委員会でも、どういうものかという知識が不十分であったため、前期学習会では、ケア付住宅の基礎知識を獲得することを目標にしました。
・ケア付住宅の基本理念
・外国・日本での実践例(※見学二回)
・福祉制度、介助、住居などの具体的問題
これらの内容で10回行なった訳ですが、不十分な学習ながらも一応、具体的知識が得られたのではないかと思います。
学習会については、とり急ぎ、以上のような報告となりますが、今後、会員の皆様にも、資料をそろえまして学習していただけるよう考えております。
今後の学習会につきましては、会独自の青写真づくりにとり組んでいく方向でいますが、会の方向性も含んだ問題のため、前期の報告共々、是非多くの会員の方々の御意見、御批判をいただけたら幸いに思います。
ケア付住宅実現にむけて全員で頑張っていきましょう。
※八王子自立ホーム、しらゆりの家へ見学に行きました。
cf.しらゆりの家→
『全障連』bT
(1978・4・30)
川口に「障害者」の生きる場を!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・川口に「障害者」の生きる場を作る会(p18〜19)1974年結成、川口市に対して「障害者」が地域で生きる場をつくれと要求してきた。
※要求内容
市街地に、定員10名のくらしの場で、重度者には1人に3名の介護者、間接介護者を3名つけること
※経過
75年9月 重度者はコロニーへ、中軽度者は授産施設へという方針→座り込み抗議による撤回
76年2月 民間委託の認可基準施設をもちかける→座り込み抗議による撤回
76年12月 「重度者」5名、「中軽度者」5名に直接介護職員12名、間接職員3名を確約
77年12月 「しらゆりの家」開所(運動側との約束を一部反故にし、社会福祉法人「まりも会」委託)
※問題点
・病院と同様の規格化された日課
・職員の労働条件
※私達は闘う!
「私達は既存の施設を10名に減少させただけの『重度障害者』隔離収容施設『しらゆりの家』を断じて許すことはできません。」(p19)
・まりも会委託反対
・収容施設化反対
◇「障害者」の生きる場をつくる会 1976?
『川口市に生きる場をつくる運動――「障害者」が自ら創り、自ら運営する!』
,48p.
◇015(19860225)
「ケア付住宅実現にむけて(これまでをふり返えって…)
一九八二年七月、重度障害者が地域社会の中で人間らしく生きられるよう、その生活の場づくりを目指すことを目的として、虹の会が発足しました。そこで、障害者のニードと利用できる行政サービスなどを考え合わせる中で、共同ハウス構想が生まれました。それは、同一アパート内で呼べば介助が得られることや、健常者とのつながりがもてるような住居形態でした。
発足当初は「借家での健常者との同居生活」からはじまり、「マンションでの一戸口・二人の障害者共同生活」、「戸口別アパート生活」の実践と、形態が変わるごとにニードが明らかになってきました。こういった実践をいかした虹の会独自のケア付住宅をつくっていこうと、現在、運営委員会では動きはじめました。会員の皆様の積極的な声をお待ちしております。
文責〈徳生恵司〉
◇016(19860510)
「ケア付住宅実現にむけて――学習会報告その2
[…]
住居について(60年11月6日学習会)
まず、住宅状況の現状について報告がなされる。それによると、重度の障害者が公営・民間いずれも入居するのが難しい状態。★神奈川県で建設中の「ケア付き住宅」などの動向を見ていくことにする。更に、障害者が利用しやすいように設備を改造する場合も、個々の利用者のニーズに即して考え、「ケア付住宅」全体としての利用しやすい形態を考えていく。」(p.1)
◇017(19860630)
19860528徳生恵司(副会長)逝去
◇019(19860925)
「がんばる若き実行委員たち
[…]
とにかく見てやって下さい。二ヶ月半くらい前、埼大や衛生短大の学生中心に組織された10名の実行委員会。」(p.1)
◇020(19861115)
「虹の会って何だろうって考えてみました 三回連続投稿その1 佐藤一成さん
pp.2-3
◇(19870105)
「報告書 青写真づくり
今年度の活動方針であった今までの「共同ハウスで」の実践の報告書、「ケア付住宅」実現に向けての青写真作りも、大変遅れています。」(p.1)
「虹の会って何だろうって考えてみました 三回連続投稿その2 佐藤一成さん
pp.2-3
◇(19870424)
19870524 第6回総会
◇024(19870520)
「ケア付住宅を知る 第2弾――相模原市ケア付住宅の実際を通して……
去る、3月5日(木)、私たちは横浜線の淵野辺にあるケア付住宅(通称:シャローム)に見学に行ってきました。
実際に
動き初めているケア付住宅はいかに…
このケア付住宅が完成するまでには、検討委員会が設置され、度重なる検討会議の中、ある一定の報告が報告書≠ニいう形となってうちだされ、より具体化されました(85年・3月)
報告書の中では、「ケア付住宅入居者に対して良質な多面的なサービスを、必要な時にはいつでも供給できる介助システムを確立する必要がある」と
うたい
、介助体制の充実には特に力を入れていく方向のようです。
住居形態[…]
介助体制[…]
財政面[…]
コーディネーターの配置[…]
その他
こうした中で進められていくケア付住宅。入居者側はこんな感想を……
・ケアの合理化が図れる。
・集団の中での連帯感、共同行動がもてるようになる。
・一人ではできないことも、入居者同志〔ママ〕が集まればできることがある。
確かに、県の承諾の下、一貫した運営はできると思いました。しかし、私たちが求めている、個々の生活の保障はどうなのでしょうか?!
考えるべきものがあります。」(p.1)
「さがみ原のケア付住宅は、地域の中のふつうの民間アパートを借りあげ、そこに介助を保障していく、という形態で運営されており、我々共同生活ハウスにも通じるところがあると思いました。
また、食事・風呂など個々の生活の保障やプライバシーの面での課題はあると思われますが、県の施策として行われていることで経済的保障は大きいと思います。私たちも共同生活ハウスを社会的認めさせ、公的保障を求めていくことが必要ですね。
〈文責〉森茂」(p.1)
◇(19870609)
◇(19870613)
「87年度活動をよりよいものに――第1回 方針を読む
[…]
(かつ)」(p.1)
19870720 福嶋あき江逝去
◇(19870727)
「虹の会に生命を燃やした福嶋あき江さん逝く」
◇(19870914)
「下半期活動をよりよいものに――共同ハウスの実践をより豊かに」(p.1)
「あき江さん入院から葬儀までの報告――事務局日誌から
7月12日(日)
午後、ボランティア2名とラオックスへ。ニチイに寄って8時過ぎに帰宅。外出中よりのどに何か引っかかる感じがあったが、更に状況が悪く、吸引器を準備させ、横になろうと体を横にしたところで、ひどく苦しんだ。友人の田中令子さんが民主診療所に往診依頼したがつながらず、すぐ救急車を呼んだが、呼吸停止、意識無くなる。
4〜5分後救急車到着。30分人工呼吸の末、蘇生。しかし意識は戻らず、佐生先生の診療の後三愛病院(救急病院)に運ばれ、集中治療室入院となる(午後10時頃)。
連絡を受けたお母さんとお兄さんがかけつけたのは12時近くであった。」
19871004 臨時総会
◇027(19871022)
「会長代理あいさつ
会長代理になって 石川弘尚」
臨時総会を終えて 1-2 事務局長・佐藤一成
[…]
「「学生がかわるがわる関わり、地域に根づいていかない。一体何をやろうとしているのか見えない……。」そんな悩みを、福嶋さんを含む誰もが抱いていた。
今年度の役員は、そのほとんどが昨年度のメンバーで、学生の数も役員全体の3分の1、又、役員組織は大改革され、これからだ≠ニ一同意気込んでいたし、福嶋さんも今年度の役員体制、改革に大きな期待を寄せていた。しかしその矢先に亡くなり、虹の会としてはカウンターパンチをくらったという感があった。」(p.1)
「『共同ハウス』体験入居はじめます!」(p.3)
「文集『拓きそして生きる』
あき江さんの追悼文集が、11/15に発行されます。かかわったボランティア100人の文章、あき江さんの文章・写真など、とても充実した内容。ぜひお買い求めください!」
19871115 福嶋あき江を偲ぶ会
◇(19871101)
「体験入居要綱より抜粋
◇(19871115)
「あき江さんの志、今、確かに――しのぶ会開催にあたって」
◇028(19880111)
「体験入居ブラン――入居者を2人迎えて
[…]
入居者トップバッターは、前回にも紹介した通り、杉浦秀俊さんです。[…]
さて、2人目の入居者は、虹の会の役員でもある佐竹保宏さんでした。佐竹さん入居期間中は、新聞・雑誌などで、福嶋さんの本が紹介され、虹の会の電話番号が載ったことによって、朝から電話が鳴りっぱなし。彼は、その対応に追われました。[…]」(p.1)
佐竹保宏:埼玉大学 筋ジストロフィー ○年逝去(佐藤氏より)
「福嶋あき江をしのぶ会おわる
なみだの会長代理あいさつ
[…]
福嶋さんの遺志を継いで、虹の会はこれからもケア付き住宅の実現を目指して頑張ります。これまで以上の皆様の多大なるご支援ご協力をお願い致します。」
◇お知らせ版(19880226)
◇029(19880226)
19880508 第7回定期総会
「新規約(案)
「虹の会」規約
[…]
5(活動方針)
本会は目的達成のため、以下の方針に基づき活動を行う。
(1)ケアつき住宅を地域のなかにつくり、その実践を充実させてゆく。」
会長 戸塚かおる 副会長 石川弘尚 豊田悦子
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■文献
◆「障害者」の生きる場をつくる会 1976?
『川口市に生きる場をつくる運動――「障害者」が自ら創り、自ら運営する!』
,48p.
◆仲村 優一・板山 賢治 編 1984
『自立生活への道』
,全国社会福祉協議会
◆河野 康徳(かわの・やすのり) 19841215「自立生活を考える手がかり――全身性障害者の状況と課題」,仲村・板山編[1984:1-26]
◆
小山内 美智子
19841215 「ケア付き自立生活を求めて――札幌いちご会の歩み」,
仲村・板山編[1984
:231-245]
◆
白石 清春
19841215 「地域で生きていくことをもとめて――脳性マヒ者が地域で生きる会」,
仲村・板山編[1984
:246-259]
◆寺田 嘉子 19841215 「自立への一つの道――東京都八王子自立ホーム」,
仲村・板山編[1984
:260-267]
◆河野 康徳 19841215 「フォーカス・アパート」,
仲村・板山編[1984
:305-314]
◆三ツ木 任一 編 19880901
『続自立生活への道――障害者福祉の新しい展開』
,全国社会福祉協議会,仲村優一・板山賢治監修,xiv+435p. 2000 ※
◆辻 宇乃 1987 「ケア付住宅「シャローム」」,『障害者の福祉』7-6(87-7):9-11
◆安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也 1990
『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』
,藤原書店
◆立岩 真也 19901025
「接続の技法――介助する人をどこに置くか」
,安積・尾中・岡原・立岩
『生の技法』
,第8章 pp.227-284 140枚
(増補改訂版ではこの章は書き換えられています。)
◆安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也 1990 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店
◆板山 賢治 199710
『すべては出会いからはじまった――福祉半世紀の証言』
,エンパワメント研究所,203p.
◆赤塚 光子・佐々木 葉子・杉原 素子・立岩 真也・田中 晃・名川 勝・林 裕信・三ツ木 任一 199803
『療護施設・グループホーム・一人暮し――脳性マヒ者の3つの生活』
,放送大学三ツ木研究室,166p.
◆渡辺一史 20030331
『こんな夜更けにバナナかよ――筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』
,北海道新聞社→2013 文春文庫 [120]
◆安積純子・尾中文哉・岡原正幸・立岩真也 2012
『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』
,生活書院・文庫版
UP:20170706 REV:20170708, 09, 20180329, 30
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