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佐藤一成さんに聞く

立岩 真也 2017/06/23

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福嶋 あき江
虹の会

病者障害者運動史研究

◆立岩 真也 2017/**/** 「もらったものについて・17」『そよ風のように街に出よう』91
 ※以下その草稿より

 「□福嶋あき江
 『生の技法』が出たのが一九九〇年。その第七章は、長くはあるのだがしかし本来書くべきことなかのわずかしか書いていない。本は増補版(第二版)が一九九五年に出て、そして第三版(文庫版)が二〇一二年に生活書院から出ている。新しく書いた章にその後のことは加えたが、第七章自体はそのままだ。あの本全体もその第七章もかなり長いのだが、それでも書けたことはまったく最低限のことだった。それでももったいないとは思っていて、誰か調べる人が出てきたくれたらと思って、かなり細かなことに触れたり関連する文献をあげた注をたくさんつけたりはしている。
 その後、実際いくらかの仕事は現れた。山下幸子が『「健常」であることを見つめる―一九七〇年代障害当事者/健全者運動から』(二〇〇八)を、定藤邦子が『関西障害者運動の現代史――大阪青い芝の会を中心に』(生活書院、二〇一一)を書いた。深田耕一郎が『『福祉と贈与――全身性障害者・新田勲と介護者たち』(二〇一三)を書いた(いずれも生活書院)。そして廣野俊輔の論文たち、他がある。こうして研究・記述は進んだには進んだ。しかし、多くの部分が、本(の初版)出てから二七年経ったのだが、そのままになっている。そこで仕方なくまた調べ出しているという事情もある。
 例えば、高野岳志の協力者でありそして別れることになった加藤裕二――その後千葉市で活発な活動を続けている――にもインタビューさせていただくというのもありかもしれない。ただ別れ話をうかがうというのもどうかと思い、それはそのままになっている――そんなふうに、人は人に会う機会を逸するのだが。
 同時期、高野岳志と同じ一九五七年に生まれ、同じ六六年に同じ病院(療養所)に入院(入所)し、そして高野が下志津を出た二年後、八三年にそこを出て、埼玉県浦和市(現さいたま市)で暮らし、そして八七年、高野より約三年長く生きて、二九歳で亡くなったやはり筋ジストロフィーの人に福嶋あき江がいる(やはり『生の技法』に文献はあげている)。その人と関わりのあった佐藤一成が、福嶋が始めた「虹の会」で活動を続けて、福嶋のことを書いた文章をブログに載せている(再掲している)のを見つけた。福嶋についても本人が書いた幾つかの文章があり、亡くなった後に出版された本はあるのだが、そこには療養所を出た後のことはなぜだかほとんど書かれていない。佐藤の文章はその事情にも触れている。そしてそこには福嶋に関わった人たちが作った文集があると書いてあった。虹の会の初期からの機関紙もあるようだった。それで連絡をとってみた。文集の所在は不明、機関紙の初期のものは直接来てくれればということだった。それで、島田療育園(と多摩)のことを石田圭二他に聞いたその翌日、六月二三日、虹の会の事務所――埼玉大学のまん前にあった――にうかがい佐藤から話を聞いた。そして機関紙の初期の分を、コピーをとった上で確実に返すからということでお願いして、お借りした。
 ここでもいくつかわかることがあった。福嶋のことについて『現代思想』連載の七月号でもう一回書いている(六月十三日に原稿を送った)のだが、佐藤の話や機関紙から得たことを足して、もう一回八月号に書くことになる。そのどのようにつながっているかきっとわからないだろう「連載」(のここ約二年分)をなんでやっているかについてはやがて本になるその本で書くことにする。わりあい大きな話になると思っている。ただ、(原稿をあげようとしている今日、六月二五日の)一昨日感じたこともあった。福嶋は米国に行ってそこの自立生活センターを見学したり、自分でも介助者を雇ってみたりしている。それで日本に戻ってきて、「自立」し、虹の会ができる。ただなかなかうまくはいかない。福島を含め二人分に対する専従の介助者に月一〇万円払うのに福嶋が四万円(生活保護・他人介護加算)、もう一人が四万円。残りの二万円をバザーで稼ごうとするのだがなかなか、といった具合だ。そして残りの時間は学生ボランティアで、となる。学生はそのうちいなくなるし、気も使う。それはもちろんなかなかたいへんなことだ。ではそれは、「制度」がまだだったからしんどかった、という、たんにそういう話なのだろうか。その通り、そういう話だと私は言い切るほうの側の者だ。ただそのうえでも、いくつかあると思った。
 例えば、その初期の機関紙――「ガリ版」の表裏一枚とか二枚のものだ――を見ると「ケア付住宅」が出てくる。バザーで年に二十万とかの収入でなんとかやっているという団体でそれは普通に無理だろうと思うし、そんなことは本人たちもわかっている。ただ、この時期たしかにケア付住宅は志向され、いくつかは実現してもいる。一番有名なのは仙台の「あのまま舎」が設立したものだろう。そのためにまったく多くの力が使われた。山田富也らの立派な営みであった。しかし同じ偉大な力を投じるのであれば別の道もあったのでは、と以前から思うところかあった。東京には「八王子自立ホーム」が建てられた。また『夜バナ』で有名になった鹿野靖明(一九五九〜二〇〇二)は「札幌いちご会」のケア付住宅設立運動に関わり、そこに入居し、しかしそこから出た人でもある――『夜バナ』を読む人はこういうこともわかって読むともっとおもしろい。(ちなみにこの鹿野の文献も『生の技法』に出てくる。そしてやはり私はこの人が私より一つだけ年上の人であることがぴんときていなかった。)そんな時期がしばらくあったことも、今はそう多くの人が知っているわけでない。だがそうした動きはなくなったわけでもなく、「対象者」を替えて、つまり知的障害者について、「グループホーム」が――この事件の後も――肯定的に語られた。
 ケア付住宅は、またグループホームは、だめだとかだめでないとかすぐに言おうということではない。私はこの件は「絶対」よいとかよくないとか言えないことだと思っている。しかし絶対が言えないから、微妙なところが大切なのだ。そして微妙なところを言うためには、何が言われたのかが、そして実際にはどうだったのか、今どうなのかが大切だ。過去や現在を調べることの意味の大きな一つは、そんなところにある。これはあまり気づかれないかもしれないのだが、わりあい大切なことだと思っている。あらゆる場合にこうすべきであるとか、すべきでないとか、言えるのであれば「現実」の細かなところはそんなに気にする必要はない。だがそうは言い切れないとするなら、「境い目」あたりがどうなっているかをきちんと見ておいた方がよい。」

◆立岩 真也 2017/08/01 「福嶋あき江・2――生の現代のために・24 連載・136」,『現代思想』45-(2017-8):-

『現代思想』2017年8月号 特集:「コミュ障」の時代・表紙
[表紙写真クリックで紹介頁へ]

 ■続けること
 一九五七年に生まれ、六六年に千葉県の国立療養所に入所、八一年にそこを出て千葉市に暮らした(八四年に亡くなった)高野岳志と高野に関わることを五月号・六月号と記した。そして同じ年に生まれ、同じ施設に同じ年に入所、八三年にそこを出て浦和市(現さいたま市)で暮らした(八七年に亡くなった)福嶋あき江について前回に書いた。続きを続ける。
 記しているのは、まずは個別の、ずいぶん小さなことではある。ただ、その人たちの試みは、少ない人たちにはいっときは知られた。たんに忘れればよいというものでもない。そしてその動き・営みを辿ることで、うまくいけば、この国の戦後、どのような場所でどのように人が暮らし、それがどのように変わって、あるいは変わっていかなかったか、そこにどんな事情があったのか、それを捉えることができると考える。
 前回は福嶋が療養所を出るまでのことを見た。福島は国立療養所が筋ジストロフィーの子ども(と重症心身障害児)を受け入れ始めた時に入所した。当初訓練に熱心に取り組むが、さしてよいことはなく、身体の状態は進行し、訓練に批判的にもなる。死を恐怖するが、それが施設で隠されていることをよくないとも思い、仲間の死に際して焼香を申し出たりする。このことも含め、先駆的な受け入れ施設だった下志津他では自治会等の活動が活発で、それが許容された。それは高野や福嶋のその後に関わってもいる。そして福嶋は八一年に米国に行き、八二年に戻ってくる。そこまでを記した。
 八三年二月に福島は療養所を出て浦和に移り「共同生活ハウス」を開始し、「虹の会」が始まる。今回はここからになる。

 ■記憶・記録
 そこに困難があった、「笑顔が消えていました」「深い傷を感じとりました」と、福嶋が亡くなった年、亡くなった後に出た『二十歳 もっと生きたい』(福嶋[1987])の編者柳原和子は言う(柳原[1987:199])★01。柳原は高野岳志についても同じくその困難を書く。それを目の当たりにしたというだけのことであるのか、そうでもないのか、福嶋自身の本でとくに福嶋の困難を言うことについてすこし不思議なところはあるが、その困難そのものはその通りに存在したのだと思う。ただ具体的にその困難がどんなものであったか、わからない。それ以前に、福嶋は、この八七年の本で、米国から帰ってきてからのこと、虹の会・共同生活ハウスについて――八三年から八四年に出た短文が別に三つあるが――書いていない。これはすこし不思議なことだ。八三年から亡くなる八七年までの間にあったことが、柳原の悲しげな言及の他には、わからない。
 そんなこともあって、またとりあえずいつもやってみていることとして、まずはウェブ検索してみると、その間のこと、そして本での空白にも事情があることを、ずっと虹の会で活動してきた佐藤一成が書いている(佐藤[1996][2001])★02。HPにあったアドレスに問い合わせたら、まず事務局から電話があって、機関紙のことを教えてもらった。その後、佐藤と幾度かやりとりでき、話をうかがえることになり、六月二三日、埼玉大学の真ん前にある事務所にうかがった。そしてその時古い機関紙――初期のものは各一部だけがファイルされていた――を借り受け、最近のものはいただいた。その最初期のものは所謂ガリ版刷り、表裏印刷で一枚から二枚ほどのものだ。その場でコピーしてもよいと言ってもらったが、慎重にコピーしないと字の読み取りが難しい。いったんお借りすることになった。ちなみに今の機関紙は分厚く、装丁も含めてよくできている。埼玉には他にもよくできた媒体があるのだが、そのなかで虹の会の機関紙(機関誌)が賞をもらったといったことも聞いた。
 高野や福島の文章は市販された本等にいくつか残っているが、そんなことは――それにはそれなりの理由がある――普通のことではない。書き物がないことの方が普通だ。そこで、まず人に聞く。機関紙などあれば見せてもらう★03。そのことについて少し。
 人の記憶はたいがい、ある部分がまとめられ、まとめられた部分が繰り返し語られ、さらにまとめられる。同時に外され、消えていく部分がある。それは常に起こることで人の記憶や語りとはそんなものだ。佐藤自身、人が違えばまとめ方、振り返り方も違ってくると、幾度か話した。まず、そのようにまとまること自体がなにごとかを示していることがある。それとともに、外されていく部分にも、やはり外れているその事情も含めて、なにかある場合があるだろう。
 虹の会については、これから少し見ていく「ケア付住宅」がそんな「きわ」の場所にある。会の歴史が語られる時、それは前には出てこない。また福嶋の本やいま読むことのできる八四年までに書かれた文章にも出てこない。八五年に知り合い、八七年に亡くなるまでの二年ほど関わった佐藤の文章にも出てこない。ただ、一時間以上は話をうかがっていったんほぼ終わってから、古い機関紙のある棚に案内してくれながら、そういえばという感じで佐藤は、「ケア付き住宅というのが当時流行って」、「今考えると発想は完全に施設なんですけど」、ケア付住宅のことを福嶋が「言っていた、というか、それしか知らなかったというか」といったことを語った。それで私は初めて知り、そして必ず返す約束で貸してもらった機関紙を見ていくと、たしかに出てくる。それは八七年の福嶋の死をはさんで八五年から八八年までの間、語られている。
 私は、じつは、ケア付住宅がその会の歴史の後景に退いていったこと、佐藤の記憶・認識のなかにも大きなものとして残っていないこと、それでよかったと考えている。その説明はこれからしていく。ただ、そんなこともあったということを押さえておくこと、消えていったことを知っておくことにいくくらかの意味はあると思う。
 そのときどきに書かれたり話されりした記録が残っていると、かつてはあったがその後消えていったというその跡が辿れることがある。例えば機関紙にはそんなところがある。機関紙は、どんなにうちわで作られたものでも、やはりいくらか外向けのものであるといった媒体だが、そのときどきにおいて、建前として何をしようとしているのか、することになっていると思っているのかを知ることができる。他方で、人のなかには残っていくもの、ときには強められていくものと、消えていくものがある。すると、その差分を知ることができ、差分について考えることができる。

 ■共同生活ハウス/虹の会
 ■ケア付住宅

 ■『自立生活への道』(一九八四)
 ■註
 ■文献

◆立岩 真也 2017/07/01 「福嶋あき江――生の現代のために・23 連載・135」,『現代思想』45-(2017-7):-


UP:201706 REV:20170708, 0812
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