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山田 富也

やまだ・とみや
1952/04/04〜2010/09/21

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・宮城県
ありのまま舎
・2010年9月21日逝去

■朝日社会福祉賞を受賞した山田富也さん死去(2010年9月22日『朝日新聞』朝刊)
http://www.asahi.com/obituaries/update/0921/TKY201009210330.html

山田富也・白江浩20020212 『難病生活と仲間たち――生命の輝きと尊さを』より

山田富也[ヤマダトミヤ]
 1952年4月4日九州・大牟田市に生まれる。1968年4月国立療養所西多賀病院に入院。1974年3月国立療養所西多賀病院退院。1978年10月映画『車椅子の青春』で第一回赤十字映画祭長編部門最優秀賞受賞。1980年4月映画『さよならの日日』で文化庁優秀映画賞受賞、第二回赤十字映画祭長編部門最優秀賞受賞。11月仙台市より「賛辞の楯」表彰。1986年11月社会福祉法人ありのまま舎設立。1987年4月身体障害者福祉ホーム仙台ありのまま舎を開所。1989年6月仙台市制百周年記念特別賞表彰。1994年4月難病ホスピス太白ありのまま舎開所。現在、社会福祉法人ありのまま舎常務理事。福祉総合誌『ありのまま』編集長。全国車椅子市民交流会運営委員。宮城県難病団体連絡協議会顧問

◆山田 富也 19750920 『隣り合せの悲しみ――死を見つめながら生きる筋ジストロフィー症者の青春記』,エ−ル出版社, 208p, ASIN:B000J9WDQG,840  [amazon] ※ md. n02h
◆山田 富也 19780930 『さよならの日日――友情、恋、そして死…難病と闘った少年の青春』,エール出版社,201p. ASIN: B000J8IHHQ 880 [amazon] ※ md. n02h.
◆山田 富也 198311 『筋ジストロフィー症への挑戦』,柏樹社,222p. ASIN: B000J79Q3G [amazon][kinokuniya] ※ md. n02h.
◆山田 富也 19850826 『愛ふり返る時――難病患者・生命を賭けた10年の記録』,エ−ル出版社,190p. ASIN:B000J6PM4O 1050 [amazon] ※ md.
◆山田 富也 19891115 『透明な明日に向かって』,燦葉出版,254p. 2060 ※
◆山田 富也 199004 『こころの勲章』,エフエー出版,245p. ISBN-10: 4900435899 ISBN-13: 978-4900435896 ※ md. n02h.
山田 富也・寛仁親王・澤地 久枝・斎藤 武 19951220  『いのちの時間』,新潮社,237p. ISBN-10: 410409501X ISBN-13: 9784104095018 1528 [amazon] ※ → 19980901 新潮文庫,284p. ISBN-10:4101476217 ISBN-13:978-4101476216 [amazon][kinokuniya] md. n02.
◆日野原 重明・山田 富也・西脇 智子 編 19970720 『希望とともに生きて――難病ホスピス開設にいたる「ありのまま舎」のあゆみ』,中央法規出版,191p. ISBN-10:4805816198 ISBN-13:9784805816196 2100 [amazon] ※
◆山田 富也 19990310 『全身うごかず――筋ジスの施設長をめぐるふれあいの軌跡』,中央法規出版,272p. ISBN-10: 4805817852 ISBN-13: 978-4805817858 2500 [amazon][kinokuniya] ※ md. n02h.
山田 富也・白江 浩 20020212 『難病生活と仲間たち――生命の輝きと尊さを』,燦葉出版社,323p.  ISBN:4-87925-064-3 1905 [amazon][kinokuniya]※ md. n02h.
◆山田 富也 20050930 『筋ジス患者の証言「生きるたたかいを放棄しなかった人びと」――逝きし者の想影』,明石書店,280p.ISBN:4750321591 ISBN-13:978-4750321592 2415 [amazon] md.
◆山田 富也 20090201 『聖芯源流――難病と共に生きる風景』,七つ森書館,222p. ISBN-10:4822809838 ISBN-13:978-4822809836 1800+ [amazon][kinokuniya] ※ md. n02.

◆山田 富也 19871010 「仙台ありのまま舎」,『はげみ』1987-10・11(196):52-53
◆山田 富也 1988 「身体障害者福祉ホームの構想と現実――仙台ありのまま舎」,三ツ木編[1988:76-93]
◆山田 富也 19920901 「自分を見つめる」(車いすにのってまちへ 21),『月刊福祉』75-11(1992-09):104-105
◆山田 富也 19921001 「障害をもって生きる」(車いすにのってまちへ 22),『月刊福祉』75-12(1992-10):096-097



◆西多賀病院

◇山田 富也 19750920 『隣り合せの悲しみ――死を見つめながら生きる筋ジストロフィー症者の青春記』,エ−ル出版社, 208p, ASIN:B000J9WDQG,840  [amazon] ※ md. n02h

 「退院のない入院
 国立療養所西多賀病院は、進行性筋ジストロフィー症の息者を、全国に先がけて、初めて入院させた病院です。
 それまでま、どこの病完も、筋ジスの患者を受け入れてはくれませんでした。
 誰だって、病人を受け入れてくれない病院の話を聞けば、なぜだろうと疑問に思い、そんな馬鹿なことがあっていいものかと言うでしょう。しかし、ほんの少し前までは、わたしたちの仲間はそういう扱いを受けていたのです。受け入れない理由を聞けばもっと驚くでしょう。
 「入院したからといって、病気が全快し、退院していける可能性のない息者は、病院としては受け入れられない」
 これがその理由です。これでは、進行性筋ジストロフィー症は、現代の医学では治る可能性のない病気だし、治療方法も確立していないから、病院に入っても無駄たと言われているのと同じです。
 ▽030 むかしは、不治の病と考えられていた結核やライ病は、病院がちゃんと受け入れてくれましたが、あれは、病院に入院するのではなく、療養所で隔離して療養にあたらせるのが目的でした。療養所として受け入れていたのです。では、筋ジスの患者にも療養所なといっても、進行性筋ジストロフィー症は、結核やライ病と比較して、患者の数も少ないと考えられていましたし、はっきりした一つの病気とは認められていませんでした。
 進行性筋ジストロフィー症という病名が一般に使われ始めたのは、日本では、昭和三十七年頃からです。それまでは、この病気は、原因もわからず、治療法もなく、病名さえついていなかったのです。だから、独立したこの病気のための療養所をと望むのは、とうてい無理な話でした。いまでも、結核やライ病を知っていても、進行性筋ジストロフイー症を知らない人は多いのではないでしょうか。また、名前を知っていても、病気の実体を知らない人がほとんどでしょう
 結核やライ病は、伝染性の病気と考えられていましたから、健康な人たちは、自分たちに移るのを恐れて、療養所に隔離したのでしょう。その処置は正しいに違いありませんが、進行性筋ジストロフィー症が、他人には移らない病気であり,患者も少ない、そして不治の病で、社会復帰ができないからといって、療養所に受け入れられなかったのは、いま考えて、まことにおかしなやり方だったと批判されても仕方がないでしょう。
 結核は、医療の飛躍的な進歩、画期的な特効薬の発見によって、比較的簡単に治療でき、全快▽031 して、社会復帰もできる病気になりました。日本人の平均寿命が長くなったのも、結核患者と乳幼児の死亡率が減少したのが原因だとさえ言われているほどで、患者の数は減り、発病しても長期の療養者は少なくなって、全国の結核の療養所の病床はあまっています。
 そうした事情もあり、いま全国に、進行性筋ジストロフィー症の患者を受け入れる指定病院は、二十数個所ありますが、その一部が、元の結核療養所であり、結核息者のいなくなった病棟を持っている病院です。
 筋ジスにおかされた病人を受け入れてくれる病院もでき、国からの援助も受けられるようになりましたが、それでもやはりこの病気が、依然として、不治の病であり、治療方法も発見されていず、原因もつかめないという暗い事情に変わりはありません。全快して、退院できる病気ではないのです。
 入院した患者の多くは、丈夫な筋肉を取り戻し、自分の足で歩いて、正面玄関から退院するのではなく、霊枢車に乗って退院していきます。
 発病の原因も解明されず、治療方法もないまま、病院のべッドに横たわり、病気への嫌悪と恐怖と闘いながら、退院のあてもなく、毎日を送っているのが筋ジスの患者なのです。」(山田富也[1975:29-31])

◆1964〜 運動・政策

◇山田 富也 19990310 『全身うごかず――筋ジスの施設長をめぐるふれあいの軌跡』,中央法規出版,272p. ISBN-10: 4805817852 ISBN-13: 978-4805817858 2500 [amazon][kinokuniya] ※ md. n02h.

 「第二章 筋ジス運動
 先にご紹介した難病対策とは別に、筋ジス施策は親の会のいち早い運動の成果もあり、まったく別枠の施策として行われた。その運動について整理してみた。
 筋ジスが酷い病気であることの一つには、病気の進行が逐一患者自身に自覚され、同病の患者の進行を予測し、一か月後、ニか月後が見えてくることだ。
 隣の友人が死にいくことで私たちは、自分の時間を確認する。今の自分の状態は誰よりも自分が一番よく知っている。
 入院していれば多くの死と出会い、私たちは嫌でも学習を繰り返さなければならない。いくつぐらいにどうなって、何歳頃には何ができなくなって、そしてどんなふうになったら、永遠の別れを迎えるのか、私たちは入院のなかで学んでいく。誰に教わるわけでもない。すべて自分で学ぶのだ。
 筋ジス運動は、両親たちの切なる思いから始まった。治療法がない。日々障害の度合いは増し、家族の負担は限りなく大きくなっていくことを、親たちは予感した。どの親もわが子を一人病院に置くことは、つらく悲しく身を割かれる思いだったに違いない。
 それでも、そうしなけれぱ家族が崩壊する、生活が成り立たなくなる、との危機感は強かっ▽164 たのだろう。入院しているほとんどの仲間はそのことを理解しようとしていただろう。恨むことではなく、ただひたすらにその日その日を必死に生きていこうとしていたと思う。明日に何かを求めることより、今日を生きることのほうが重要で、確かな人生がそこにあったから。
 そんな私たちの思いとは少し違ったところで、私たちのために私の両親を含む親たちが動きだしていた。
 昭和三十九(一九六四)年三月「全国進行性筋萎縮症親の会」は発足した。あてもなく歩きだした頃のことを思うと感慨深いことだったと思う。
 その三か月後には、「全国重症心身障害児を守る会」がスタートした。こうしてそれまでばらばらに苦しんでいた人々にも、同じ悩みを共通の土俵で語れる心の安らぎが得られる場が生まれた。まったく何もなかった筋ジス政策から、新たな段階に入ったのだ。
 親の会の動きは早かった。国会、厚生省への陳情などが行われ、厚生省はすぐに検討に入ったといわれる。なかなか国会議員と直接会えず、トイレで待ち構えて陳情したという話も聞いた。
 その結果として「進行性筋萎縮症児対策要綱」がいち早く作成された。今では考えられないほど早い対応であったと思う。それほどに親たちの思いは切実で、動きは機敏だった。私の両親をはじめ若い人々が多かったせいだろうか。とにかく、対策がとられることになった。
 その手始めに行われたことは、昭和三十九(一九六四)年から四十五(一九七〇)年までの七年間をかけて、国立療養所に二千二十床の病床を整備することだった。その先駆的施設とし▽165 て千葉の国立療養所下志津病院と仙台の国立療養所西多賀病院のニつ、それぞれ二十床のベッドが用意された。昭和五十五(一九八〇)年度には二千五百床の専門病床が二十七の国立療養所において整備された。
 国民病といわれた結核が徐々に下火になり、その空きベッドが筋ジス病棟に割り当てられるようになったのだ。
 現在では、実際にはおおむね八割以上のべッドが利用されているようだ。
 だが、実際に整備は全国を八ブロックに分け、一ブロック一病院の整備を目標に行われていったようだが、私たち筋ジス患者をどのようにしていこうかといった、明確な方針はなかった。「収容」することがすべてだった。
 病院には専門家もおらず、それぞれの地域に点在する専門医に協力をお願いしながら、入院生活が始まった。そのことにみられるように、施策は場当たり的だった。当時の筋ジス政策がいかに実のないものであるかを証明している。
 治療法がないのだから仕方ない、という人がいるが、だからこそ時問をいかに有効に使うのかが一人ひとりに求められていることを知っていてほしかった。
 重症心身障害児(以下、「重心」という)と筋ジスは国立療養所に受け入れ、児童福祉の体系のなかで位置づけられることになったわけだが、国立療養所政策もまた、大きな波のなかで揺れ動いた。とにかくそこに入ればいいんだといったところで進んでいたが、なぜ国立療養所なのかといった問いには今も答えてはいない。
 ▽166 今では、とても考えられないようなことが当時行われた。たとえば、アキレス臆を切って、無理に動かされたり、必要以上に無理な負担をかけた訓練が行われた。結局、筋ジスに対してどのようにしてよいのかわからなかったのだ。
 医療施設を福祉施設として位置づけ、その活用を図るとのことだが、医療施設と福祉施設とは、その求められている役割は違うし、そこに働くスタッフの体制も設備も違う。
 筋ジスはほぽ九〇%が国立療養所に入り、重心は六〇%が国立療養所に入り、ほかは民間の位施設に入っていった。
 その先駆けとなったのが、国立療養所西多賀病院だったことは再三申し上げたとおりだ。体系がどうであれ、親たちにとっては、家庭崩壊が回避され、しかも子どもたちには寂しさを紛らわす、昼間のにぎわいがあり、医師、看護婦さんが側にいてくれる場が得られたことで大きな役割を果たしていることは事夷だ。
 そのほかに、指導員や保母と呼ばれる人たちもいたが、医師や看護婦とは、必ずしも一体的な活動はされず、隔たりも大きかった。当時は資格制度も充実しておらず、指導員や保母の必要性には、私も疑問だった。
 とにかく、今をいかに生きるのか、というところから、筋ジス運動は始まり、そのための患者、患児の生活空問の確保と、家族の生活拠点を維持することにあったといえる。
 とはいえ、とにかく筋ジスを制度のなかに組み入れることになったことの意味は大変大きいといえる。
 一九六〇年代後半から一九七〇年代にかけて、筋ジス施策は大きく動いた。
 その原動カ「全国進行性筋萎縮症親の会」のその頃の運動はきわめて活発で、国会・厚生省のほか関係団体への陳情、要望を繰り返し、多くの問題が進展した。結成の翌年には外国の団体との関係を充実することから、名称も「日本筋ジストロフイー協会」と改めた。
 この頃の研究体制はほとんどとられておらず、とにかく「収容」だけしようということだった。
 しかし、多くの方々の努力によって、筋ジスが少しずつではあったが、全国の人々に知られるようになっていった。私が映画づくりを始めるきっかけともなった、映画『ぽくの中の夜と朝』も全国で上映されていたし、研究所づくりの署名集めも盛んに行われていったようだ。
 その結果として建設された研究所は、「国立精神・神経センター」として現在も筋ジスの研究が行われているが、筋ジスだけにこだわる日本筋ジストロフイー協会の運動にはいささか違和感があった。
 私たち三兄弟(ありのまま舎)の願いは筋ジスだけではなく、筋ジスと同様の状況におかれている難病患者とともに歩むことだった。そして、その小さな声を多くの人々に知ってもらうことだった。そうしたスタンスの違いはあるが、日本筋ジストロフイー協会の行動には敬意を茂したい。
 その時国立療養所徳島病院の患者たちが出したビラを次に紹介したい。」(山田[1999:163-167])

◆入院の頃

山田 富也・寛仁親王・澤地 久枝・斎藤 武 19951220  『いのちの時間』,新潮社,237p. ISBN-10: 410409501X ISBN-13: 9784104095018 1528 [amazon] ※ → 19980901 新潮文庫,284p. ISBN-10:4101476217 ISBN-13:978-4101476216 [amazon][kinokuniya] md. n02.

 「山田 本当のところ、一番最初にこういう運動を始めたのは僕なんです。僕は中学校を卒業して病院に入ったけれど、兄貴たちは病院育ちだからお医者さんの言うことが絶対、看護婦さんの言うことが絶対の生活で、上の兄貴は僕がボランティアたちと勝手な行動をする時に一言言いました。「病院というのは静かに暮らすところなんだ」と。だけど僕は学生の下宿に遊びに行った▽071 り、若い看護婦と遊びにいくとか、好き放題のことをした。酒なんかも十七ぐらいの頃に味をしをしめてワンカップ大関を毎晩病室で呑むとか、タパコも十七で覚えて、毎日一箱空けるというような生活をしていた。だから僕の心の中にあるのは、一般の社会であれば普通のことがここでは普通ではないな、ということでした。僕はたまたま十七だからタバコを吸う資格はなかったけれども、二十歳を過ぎた人でもみんな吸えない。他の病棟の成人患者は吸っているわけです。筋ジストロフイー病棟だけは暗黙のうちにだめだとなっている。そういうことをどんどん改善しようということになった。
 その頃、僕なんかのところに集まってきた学生がいて、それが運動の最初のきっかけだった。その頃は六〇年安保以後の学生運動の残党みたいな連中が、弱者というのは何なんだということを考えた時に、結局障害者問題じゃないかというようなことになって、障害者問題に走った連中が来ていたわけです。殿下がさっき言われた過激派の問題も出てくるのですが、殿下とはこんな詰をしたことはないんだけれども、そのとき僕のところに来ていたのは革マルだった。学生運動の遺恨みたいなものがずっと尾を引いていて、「ありのまま舎の山田というのはもともと革マルだったんだ。それが何で殿下なんかと一緒になってるんだ。おまえは何なんだ」ということがあったんですよ。「おまえは結局、風見鶏じやないか」というようなレッテルを貼られたわけです。僕は風見鶏じゃない。個人的な意味で尊敬したり、これはいいと思う人と触れ合ったりするのであって、僕には僕の思想がちゃんとありますよ」ということを、その人たちとも何遍か話し合ったことがある。
 だから、この運動の流れの一番最初は僕がまず飛び出て、そして兄貴が出てきた。兄貴は理論▽072 家だからその辺を理論化してきたわけです。たとえば雑誌「ありのまま」の一号を見れば分かるように、「なんで自分たちはこういう状況に置かれているのか、これをどうしようとしているのか」と、僕が行動でしかできなかったことを兄貴は全部理論化していった。兄貴がそこにいたので、ありのまま運動がきちっと成立していったという感じなんです。」(山田他[1995]、山田の発言)

◇山田 富也 20090201 『聖芯源流――難病と共に生きる風景』,七つ森書館,222p. ISBN-10:4822809838 ISBN-13:978-4822809836 1800+ [amazon][kinokuniya] ※ md. n02.

 「チェ・ゲバラ
 兄たちと過ごした病院での生活は、私の青春時代だった。
 中学を卒業し入完した病棟はすべてが時間で決まっており、毎日がそれの繰り返しでしかなく、刺激など何もなかった。
 当時は、学生運動が盛んな頃でもあり、病院には数人の学生らが出入りしていた。彼らとのふれあいは、私にとってまさに外の世界との出会いであり、大きな刺激であり、青春だった。学生たちの下宿に泊まり、ギターを片手にフオークソングを歌い、夜を徹して理想の社会を語り合った。
 話はいつもキューバ革命を起こしたフィデル・カストロ・ルス氏や共に戦っていたチェ・ゲバラ氏に及んだ。現体制と戦い自ら理想を求め、ついには一国を作り上げるにいたった彼らの革命は、まさに私たちの希望であり、英雄だった。
 ▽143 誰からも忘れ去られていた私たち重い障害や難病をもった者の日常。私たちがこの現状から抜け出し、動けない私たちの発想が活かされる理想の社会を作り上げることができる日が来るのではないか、そんな思いを支え続けていたのは、彼らの成し得た革命だった。
 同病の仲間たちの詩集を出版したり、写真展を開いたり、エッセイを出版したりという、まずは自分たちの現状を伝えていく運動になり、そしてたくさんの人たちに支えられ、障害を持つ人たちの生活の場になる自立ホームや難病ホスピスを作り上げることにつながってきた。
 チェ・ゲバラは四十一年前、ボリビアで三十九歳で亡くなったが、最後まで自らの理想のために戦い続けた。
 私もその思いでいたい。
                       (08年3月)」(山田[2009:142-143]、初出は2008年3月)

◆『車椅子の青春』

 「車椅子の青春
 新年度となり、二十歳そこそこの若さあふれる新人スタッフがありのまま舎にも入舎した。
 ただ立っているだけでもまぶしい年頃である。ありのまま舎に夢と期待を持って関わり始める彼らの姿をいとおしい思いで眺めた。私が、同じ年齢の頃何をしていただろうか。約三十年前のことだ。
 ちょうど、詩集『車椅子の青春』を出版した頃がそうだった。十代、二十代の若さで、次々に同病の仲間がこの世から去っていく。病院生活で感じた、現実への憤りにも似た思いがこの詩集の編集という行動に私を走らせていた。
 病気になってしまうことは誰のせいでもない。そのことに疑問を感じた訳ではなく、どうして、他の病気のように治療法が研究されてないのかということへの疑問だった。たくさんの人が罹る病気の治療法の研究は、一挙にた▽099 くさんの人の生命を救えるだろう。効率的なことなのかもしれない。しかし、だとすれば、例えば筋ジスのように絶対数が少ない病気はいっまで経ってもその対象からはずされ続け救われないことになる。
 現実に、患者数が多くない「珍しい病気」は、名前がつけられたぐらいのもので、ほとんど治療法の確立はされていない。
 そしてその哀しい現実は三十年経った今でもほとんど変わっていない。今、再び詩集を出すことで世に訴えたいと強く思う。当事者しか感じられない思い、当事者だから書ける作品は、たくさんの人の心に直接訴えてくれることと確信している。
 ありまま舎の活動の原点ともいえるその活動を、今年度の仕事の手始めとしたいと思う。活動を始めた頃の思いを私も忘れずにいたい。新人スタッフのはつらつとした姿に励まされる思いで。
                       (01年4月)」(山田[2009:142-143]、初出は2001年4月)

◆病院を出る

◇山田 富也 20090201 『聖芯源流――難病と共に生きる風景』,七つ森書館,222p. ISBN-10:4822809838 ISBN-13:978-4822809836 1800+ [amazon][kinokuniya] ※ md. n02.

 「「北の国から」を観る
 二十一年間続いていたテレビドラマ「北の国から」が先日の放送を以て終了した。
 東京暮らしの家族が離婚を契磯に、母は東京、父と子らは北海道の富良野に移り住む。そこで子どもたちは、これまでの生活との違いの中で悩みながらも成長していく姿を綴ったものだ。
 このドラマが放送され始めた頃、私はそれまでの家族を失い、実家の裏にある家へと引越し、介護に慣れていない学生ボランテイアと共に薄暗い部屋でそれを観ていた。時同じく、活動を共にしていた学生たちは卒業の時を迎え、各々の道へと進み、私は日々の介護者の確保に必死にならなければならなかった。
 生活環境が急に変わり、それまで考えなくてもよかったことだけに追われ▽171 る生活は、心身共に私を追い込んだ。空しく寂しかった。初めての挫折だった。
 二十一歳で病院を出て以来数年間、仲間の詩を集めて出版した詩集はたくさんの方に支持され、ドキュメント映画・劇映画を撮って賞をもらう等、何をやっても自分の思う以上の結果を残すことができた。私の人生で一番自信に満ちていた時期だったと思う。
 それが一転し、倣慢だったであろう自分は打ちのめされた。その苦悩から抜け出すきっかけを作ってくれたのは、聖書であり、温かい人々の思いに他ならなかった。「感謝」という気持ちを初めて持つことができ、それは、私に生きるカを与えてくれたように思う。
 新しい家族との歴史、多くの理解者とスタッフに支えられているありのまま舎の歴史、それらのことをドラマを観ながら考え、思い出し、大きなカをもらった気がした。
                      (02年9月)」(山田[2009:142-143]、初出は2002年9月)

◆次兄山田秀人(一九四九〜一九八三・三四歳、六〇〜八三・西多賀病院)逝去

◇山田 富也 20090201 『聖芯源流――難病と共に生きる風景』,七つ森書館,222p. ISBN-10:4822809838 ISBN-13:978-4822809836 1800+ [amazon][kinokuniya] ※ md. n02.

 「次兄、六月生まれ
 私の呼吸管理を二十四時間してくれている人工呼吸器が、普及するようになって十年余り。当時、今のような状況であったなら、若くして亡くなった多くの仲間たちも、もっと長生きできただろう。二十二年以上前に亡くなつた私のふたりの兄も例外ではない。
 次兄は三十四歳で逝ってしまった。次兄の最後の数力月は息苦しさとの闘いだった。私がこうして人工呼吸器のおかげで生きていられることを思うと、尚更悔しさがこみ上げてくる。詩人として生前三冊の詩集を作り上げた次兄は、詩を通じてもっと多くの人と触れ合うこともできただろうし、もっと多くの詩を残したに違いない。
 次兄は、二十五年間病院で過ごした。人生のほとんどを病院で暮らしたことになる。遺されたノートには、小さい文字でびっしりと、たくさんの詩が書いてあった。
 ▽183 六月、雨の季節。雨音はなぜか、亡くなった人のことを思い出させる。六月は次兄の命日の月でもある。
  六月生れは移り気
  黄いろのバラがよく似合う
  車の窓に流れる雨だれにあなたのロぶえがよく似あう
  いつしか年老いた時
  あなたのやさしさと
  そのほほえみを暖めているでしょう
  やさしいだけでは疲れます   山田秀人
 先般、遺稿集が出仮され四冊目の詩集となった。天国でも次兄は詩を書き続けていると信じたい。
                     (05年6月)」(山田[2009:182-183]、初出は2002年9月)

◆1995?人工呼吸器使用

◇山田 富也 20090201 『聖芯源流――難病と共に生きる風景』,七つ森書館,222p. ISBN-10:4822809838 ISBN-13:978-4822809836 1800+ [amazon][kinokuniya] ※ md. n02.

 「眠ることが怖かった
 ニ十四時問べッド上の生活となった私の部屋には動く置物が増えた。温度の上下で水中の錘が浮き沈みする温度計。地球の磁力と光で回り続ける地球儀等、少しずつ変化し楽しめる。「シュパーッシュパーッ」私の生命をつなぐ人工呼吸器の音も、今では二十四時間途切れることがなくなった。
 この器械を練習し始めたのは十二年前。七年前に大きな心臓発作を起こし、心肺停止状態になってからは、一日中使うようになった。そうして私を生かし続けてきた人工呼吸器も、先日三台目となった。
 これを使い始めた頃は、眠ることが怖かった。就寝中は呼吸回数が減り、筋力がなく呼吸が浅い私たちにとって、それは息をしていない時間が増えることを意味する。
 ▽205 息苦しく汗びっしょりになって目覚め、あえぎながらやっとの思いで何度も浅い深呼吸をする。眠ってしまったら再び目覚めることがないような恐怖……。
 鼻を覆うマスクを通して定期的に空気が送られてくる。まるで器械に合わせて呼吸をするようで、こんなものに慣れるのか訝しかった。ところが使い始めるや、息苦しさから解放された。もし、息苦しさの中であえいでいた兄たちや病友たちにこの器械があったなら、もっと長生きできただろう。
 最初は一日一時間だった使用時間も進行に比例して増え、今では手放せなくなった。けれど私は生かされている。
 壁にかけられた十字架を見上げる。これは動くことはないが、私の心に休むことなく語りかけ、感謝の気持ちと、安らぎを与えてくれる。すべてに惑謝。
                      (07年5月)」(山田[2009:142-143]、初出は2007年5月)

 「次兄、六月生まれ  私の呼吸管理を二十四時間してくれている人工呼吸器が、普及するようになって十年余り。当時、今のような状況であったなら、若くして亡くなった多くの仲間たちも、もっと長生きできただろう。二十二年以上前に亡くなつた私のふたりの兄も例外ではない。  次兄は三十四歳で逝ってしまった。次兄の最後の数力月は息苦しさとの闘いだった。私がこうして人工呼吸器のおかげで生きていられることを思うと、尚更悔しさがこみ上げてくる。詩人として生前三冊の詩集を作り上げた次兄は、詩を通じてもっと多くの人と触れ合うこともできただろうし、もっと多くの詩を残したに違いない。」(山田[2009:182]、初出は2002年9月)

◆「筋ジス患者、ありのまま舎設立 山田富也さん死去」
 河北新報 2010年9月22日

 仙台市の社会福祉法人「ありのまま舎」の専務理事で、筋ジストロフィー患者の山田富也(やまだ・とみや)氏が21日午前9時46分、進行性筋ジストロフィーのため、仙台市太白区の国立病院機構西多賀病院で死去した。58歳。福岡県大牟田市出身。自宅は仙台市太白区西多賀。前夜式は22日午後6時から、告別式は23日午前11時から仙台市太白区西多賀4の19の1、身体障害者自立ホーム「仙台ありのまま舎」で行う。喪主は妻浪子(なみこ)さん。
 西多賀病院に入院しながら1975年、ともに筋ジストロフィーの長兄寛之さん=80年、33歳で死去=、次兄秀人さん=83年、34歳で死去=らと任意団体「ありのまま舎」を設立。兄の遺志を引き継ぎ、86年、ありのまま舎の法人化を成し遂げた。
 講演や出版などを通じて難病患者、重度障害者の自立支援に関する啓発活動に奔走した。87年、民間として全国初の障害者自立ホーム「仙台ありのまま舎」を開設。94年には重度障害者・難病ホスピスの自立ホーム「太白ありのまま舎」を開設した。
 身体障害者の社会参加促進功労者として90年、厚生大臣(当時)表彰を受けた。ありのまま舎は95年度の河北文化賞を受賞した。
 病の進行で体調を崩し、7月下旬から西多賀病院で療養していた。
◎障害者社会参加、実現に生涯懸け
 仙台市の社会福祉法人「ありのまま舎」の専務理事で、21日に亡くなった山田富也さん(58)の生涯は、障害者が健常者と同じように暮らし、社会参加する「ノーマライゼーション」の実現に懸け続けたものだった。
 幼いころに筋ジストロフィーを発症。不自由な闘病生活を送るうち、筋ジス患者の自立を考えるようになった。ありのまま舎を運営する傍ら、障害者が自分の才能や意欲を発揮できる社会を築こうと、1985年から2000年まで、障害者を対象にした文学賞を開催。1999年には福祉活動に貢献している障害者に授与する「ありのまま自立大賞」を制定した。
 講演や出版、映画制作を通じての啓発活動にも尽力した。著書は「筋ジストロフィー症への挑戦」(83年)、自叙伝「愛ふり返る時」(85年)など14冊に上った。ありのまま舎の会報「自立」に連載した文章をまとめた随筆集「聖芯源流」(2009年)では、筋ジス患者の闘病生活などをつづった。
 亡くなる直前まで会報の編集にかかわるとともに、重度身体障害者が入所するありのまま舎の運営を気に掛け、職員に指示を出していたという。
 山田さんと30年以上親交がある仙台白百合女子大教授で、ありのまま舎理事長の大坂純さん(54)は「施設を造り、運営するという健康な人でも大変な事業のリーダーだった。死と隣り合わせの病を抱えていたのに、常に前向きだった」としのんだ。」

■言及

◇立岩真也 2014- 「身体の現代のために」,『現代思想』 文献表

◆立岩 真也 2016/02/01 「国立療養所/筋ジストロフィー――生の現代のために・9 連載 120」『現代思想』44-(2016-2):-



UP:20030630 REV: 20100923, 20151107, 1215, 20160106, 0118
ありのまま舎  ◇筋ジストロフィー  ◇病者障害者運動史研究  ◇障害者(の運動)史のための資料・人  ◇WHO
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