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山田 富也

やまだ・とみや
1952/04/04〜2010/09/21

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・宮城県
筋ジストロフィー
ありのまま舎
・2010年9月21日逝去

■朝日社会福祉賞を受賞した山田富也さん死去(2010年9月22日『朝日新聞』朝刊)
http://www.asahi.com/obituaries/update/0921/TKY201009210330.html

◆山田富也・白江浩20020212『難病生活と仲間たち――生命の輝きと尊さを』より

山田富也[ヤマダトミヤ]
 1952年4月4日九州・大牟田市に生まれる。1968年4月国立療養所西多賀病院に入院。1974年3月国立療養所西多賀病院退院。1978年10月映画『車椅子の青春』で第一回赤十字映画祭長編部門最優秀賞受賞。1980年4月映画『さよならの日日』で文化庁優秀映画賞受賞、第二回赤十字映画祭長編部門最優秀賞受賞。11月仙台市より「賛辞の楯」表彰。1986年11月社会福祉法人ありのまま舎設立。1987年4月身体障害者福祉ホーム仙台ありのまま舎を開所。1989年6月仙台市制百周年記念特別賞表彰。1994年4月難病ホスピス太白ありのまま舎開所。現在、社会福祉法人ありのまま舎常務理事。福祉総合誌『ありのまま』編集長。全国車椅子市民交流会運営委員。宮城県難病団体連絡協議会顧問

◆山田 富也 19750920 『隣り合せの悲しみ――死を見つめながら生きる筋ジストロフィー症者の青春記』,エ−ル出版社, 208p, ASIN:B000J9WDQG,840  [amazon] ※ md. n02h
◆山田 富也 19780930 『さよならの日日――友情、恋、そして死…難病と闘った少年の青春』,エール出版社,201p. ASIN: B000J8IHHQ 880 [amazon] ※ md. n02h.
◆山田 富也 198311 『筋ジストロフィー症への挑戦』,柏樹社,222p. ASIN: B000J79Q3G [amazon][kinokuniya] ※ md. n02h.
◆山田 富也 19850826 『愛ふり返る時――難病患者・生命を賭けた10年の記録』,エ−ル出版社,190p. ASIN:B000J6PM4O 1050 [amazon] ※ md.
◆山田 富也 19891115 『透明な明日に向かって』,燦葉出版,254p. 2060 ※
◆山田 富也 199004 『こころの勲章』,エフエー出版,245p. ISBN-10: 4900435899 ISBN-13: 978-4900435896 ※ md. n02h.
山田 富也・寛仁親王・澤地 久枝・斎藤 武 19951220  『いのちの時間』,新潮社,237p. ISBN-10: 410409501X ISBN-13: 9784104095018 1528 [amazon] ※ → 19980901 新潮文庫,284p. ISBN-10:4101476217 ISBN-13:978-4101476216 [amazon][kinokuniya] md. n02.
◆日野原 重明・山田 富也・西脇 智子 編 19970720 『希望とともに生きて――難病ホスピス開設にいたる「ありのまま舎」のあゆみ』,中央法規出版,191p. ISBN-10:4805816198 ISBN-13:9784805816196 2100 [amazon] ※
◆山田 富也 19990310 『全身うごかず――筋ジスの施設長をめぐるふれあいの軌跡』,中央法規出版,272p. ISBN-10: 4805817852 ISBN-13: 978-4805817858 2500 [amazon][kinokuniya] ※ md. n02h.
山田 富也・白江 浩 20020212 『難病生活と仲間たち――生命の輝きと尊さを』,燦葉出版社,323p.  ISBN:4-87925-064-3 1905 [amazon][kinokuniya]※ md. n02h.
◆山田 富也 20050930 『筋ジス患者の証言「生きるたたかいを放棄しなかった人びと」――逝きし者の想影』,明石書店,280p.ISBN:4750321591 ISBN-13:978-4750321592 2415 [amazon] md.
◆山田 富也 20090201 『聖芯源流――難病と共に生きる風景』,七つ森書館,222p. ISBN-10:4822809838 ISBN-13:978-4822809836 1800+ [amazon][kinokuniya] ※ md. n02.

◆山田 富也 19871010 「仙台ありのまま舎」,『はげみ』1987-10・11(196):52-53
◆山田 富也 1988 「身体障害者福祉ホームの構想と現実――仙台ありのまま舎」,三ツ木編[1988:76-93]
◆山田 富也 19920901 「自分を見つめる」(車いすにのってまちへ 21),『月刊福祉』75-11(1992-09):104-105
◆山田 富也 19921001 「障害をもって生きる」(車いすにのってまちへ 22),『月刊福祉』75-12(1992-10):096-097



◆西多賀病院

◇山田 富也 19750920 『隣り合せの悲しみ――死を見つめながら生きる筋ジストロフィー症者の青春記』,エ−ル出版社, 208p, ASIN:B000J9WDQG,840  [amazon] ※ md. n02h

 「退院のない入院
 国立療養所西多賀病院は、進行性筋ジストロフィー症の息者を、全国に先がけて、初めて入院させた病院です。
 それまでま、どこの病完も、筋ジスの患者を受け入れてはくれませんでした。
 誰だって、病人を受け入れてくれない病院の話を聞けば、なぜだろうと疑問に思い、そんな馬鹿なことがあっていいものかと言うでしょう。しかし、ほんの少し前までは、わたしたちの仲間はそういう扱いを受けていたのです。受け入れない理由を聞けばもっと驚くでしょう。
 「入院したからといって、病気が全快し、退院していける可能性のない息者は、病院としては受け入れられない」
 これがその理由です。これでは、進行性筋ジストロフィー症は、現代の医学では治る可能性のない病気だし、治療方法も確立していないから、病院に入っても無駄たと言われているのと同じです。
 ▽030 むかしは、不治の病と考えられていた結核やライ病は、病院がちゃんと受け入れてくれましたが、あれは、病院に入院するのではなく、療養所で隔離して療養にあたらせるのが目的でした。療養所として受け入れていたのです。では、筋ジスの患者にも療養所なといっても、進行性筋ジストロフィー症は、結核やライ病と比較して、患者の数も少ないと考えられていましたし、はっきりした一つの病気とは認められていませんでした。
 進行性筋ジストロフィー症という病名が一般に使われ始めたのは、日本では、昭和三十七年頃からです。それまでは、この病気は、原因もわからず、治療法もなく、病名さえついていなかったのです。だから、独立したこの病気のための療養所をと望むのは、とうてい無理な話でした。いまでも、結核やライ病を知っていても、進行性筋ジストロフイー症を知らない人は多いのではないでしょうか。また、名前を知っていても、病気の実体を知らない人がほとんどでしょう
 結核やライ病は、伝染性の病気と考えられていましたから、健康な人たちは、自分たちに移るのを恐れて、療養所に隔離したのでしょう。その処置は正しいに違いありませんが、進行性筋ジストロフィー症が、他人には移らない病気であり、患者も少ない、そして不治の病で、社会復帰ができないからといって、療養所に受け入れられなかったのは、いま考えて、まことにおかしなやり方だったと批判されても仕方がないでしょう。
 結核は、医療の飛躍的な進歩、画期的な特効薬の発見によって、比較的簡単に治療でき、全快▽031 して、社会復帰もできる病気になりました。日本人の平均寿命が長くなったのも、結核患者と乳幼児の死亡率が減少したのが原因だとさえ言われているほどで、患者の数は減り、発病しても長期の療養者は少なくなって、全国の結核の療養所の病床はあまっています。
 そうした事情もあり、いま全国に、進行性筋ジストロフィー症の患者を受け入れる指定病院は、二十数個所ありますが、その一部が、元の結核療養所であり、結核息者のいなくなった病棟を持っている病院です。
 筋ジスにおかされた病人を受け入れてくれる病院もでき、国からの援助も受けられるようになりましたが、それでもやはりこの病気が、依然として、不治の病であり、治療方法も発見されていず、原因もつかめないという暗い事情に変わりはありません。全快して、退院できる病気ではないのです。
 入院した患者の多くは、丈夫な筋肉を取り戻し、自分の足で歩いて、正面玄関から退院するのではなく、霊枢車に乗って退院していきます。
 発病の原因も解明されず、治療方法もないまま、病院のべッドに横たわり、病気への嫌悪と恐怖と闘いながら、退院のあてもなく、毎日を送っているのが筋ジスの患者なのです。」(山田富也[1975:29-31])

◆1964〜 運動・政策

◇山田 富也 19990310 『全身うごかず――筋ジスの施設長をめぐるふれあいの軌跡』,中央法規出版,272p. ISBN-10: 4805817852 ISBN-13: 978-4805817858 2500 [amazon][kinokuniya] ※ md. n02h.

 「第二章 筋ジス運動
 先にご紹介した難病対策とは別に、筋ジス施策は親の会のいち早い運動の成果もあり、まったく別枠の施策として行われた。その運動について整理してみた。
 筋ジスが酷い病気であることの一つには、病気の進行が逐一患者自身に自覚され、同病の患者の進行を予測し、一か月後、ニか月後が見えてくることだ。
 隣の友人が死にいくことで私たちは、自分の時間を確認する。今の自分の状態は誰よりも自分が一番よく知っている。
 入院していれば多くの死と出会い、私たちは嫌でも学習を繰り返さなければならない。いくつぐらいにどうなって、何歳頃には何ができなくなって、そしてどんなふうになったら、永遠の別れを迎えるのか、私たちは入院のなかで学んでいく。誰に教わるわけでもない。すべて自分で学ぶのだ。
 筋ジス運動は、両親たちの切なる思いから始まった。治療法がない。日々障害の度合いは増し、家族の負担は限りなく大きくなっていくことを、親たちは予感した。どの親もわが子を一人病院に置くことは、つらく悲しく身を割かれる思いだったに違いない。
 それでも、そうしなけれぱ家族が崩壊する、生活が成り立たなくなる、との危機感は強かっ▽164 たのだろう。入院しているほとんどの仲間はそのことを理解しようとしていただろう。恨むことではなく、ただひたすらにその日その日を必死に生きていこうとしていたと思う。明日に何かを求めることより、今日を生きることのほうが重要で、確かな人生がそこにあったから。
 そんな私たちの思いとは少し違ったところで、私たちのために私の両親を含む親たちが動きだしていた。
 昭和三十九(一九六四)年三月「全国進行性筋萎縮症親の会」は発足した。あてもなく歩きだした頃のことを思うと感慨深いことだったと思う。
 その三か月後には、「全国重症心身障害児を守る会」がスタートした。こうしてそれまでばらばらに苦しんでいた人々にも、同じ悩みを共通の土俵で語れる心の安らぎが得られる場が生まれた。まったく何もなかった筋ジス政策から、新たな段階に入ったのだ。
 親の会の動きは早かった。国会、厚生省への陳情などが行われ、厚生省はすぐに検討に入ったといわれる。なかなか国会議員と直接会えず、トイレで待ち構えて陳情したという話も聞いた。
 その結果として「進行性筋萎縮症児対策要綱」がいち早く作成された。今では考えられないほど早い対応であったと思う。それほどに親たちの思いは切実で、動きは機敏だった。私の両親をはじめ若い人々が多かったせいだろうか。とにかく、対策がとられることになった。
 その手始めに行われたことは、昭和三十九(一九六四)年から四十五(一九七〇)年までの七年間をかけて、国立療養所に二千二十床の病床を整備することだった。その先駆的施設とし▽165 て千葉の国立療養所下志津病院と仙台の国立療養所西多賀病院のニつ、それぞれ二十床のベッドが用意された。昭和五十五(一九八〇)年度には二千五百床の専門病床が二十七の国立療養所において整備された。
 国民病といわれた結核が徐々に下火になり、その空きベッドが筋ジス病棟に割り当てられるようになったのだ。
 現在では、実際にはおおむね八割以上のべッドが利用されているようだ。
 だが、実際に整備は全国を八ブロックに分け、一ブロック一病院の整備を目標に行われていったようだが、私たち筋ジス患者をどのようにしていこうかといった、明確な方針はなかった。「収容」することがすべてだった。
 病院には専門家もおらず、それぞれの地域に点在する専門医に協力をお願いしながら、入院生活が始まった。そのことにみられるように、施策は場当たり的だった。当時の筋ジス政策がいかに実のないものであるかを証明している。
 治療法がないのだから仕方ない、という人がいるが、だからこそ時問をいかに有効に使うのかが一人ひとりに求められていることを知っていてほしかった。
 重症心身障害児(以下、「重心」という)と筋ジスは国立療養所に受け入れ、児童福祉の体系のなかで位置づけられることになったわけだが、国立療養所政策もまた、大きな波のなかで揺れ動いた。とにかくそこに入ればいいんだといったところで進んでいたが、なぜ国立療養所なのかといった問いには今も答えてはいない。
 ▽166 今では、とても考えられないようなことが当時行われた。たとえば、アキレス臆を切って、無理に動かされたり、必要以上に無理な負担をかけた訓練が行われた。結局、筋ジスに対してどのようにしてよいのかわからなかったのだ。
 医療施設を福祉施設として位置づけ、その活用を図るとのことだが、医療施設と福祉施設とは、その求められている役割は違うし、そこに働くスタッフの体制も設備も違う。
 筋ジスはほぽ九〇%が国立療養所に入り、重心は六〇%が国立療養所に入り、ほかは民間の位施設に入っていった。
 その先駆けとなったのが、国立療養所西多賀病院だったことは再三申し上げたとおりだ。体系がどうであれ、親たちにとっては、家庭崩壊が回避され、しかも子どもたちには寂しさを紛らわす、昼間のにぎわいがあり、医師、看護婦さんが側にいてくれる場が得られたことで大きな役割を果たしていることは事夷だ。
 そのほかに、指導員や保母と呼ばれる人たちもいたが、医師や看護婦とは、必ずしも一体的な活動はされず、隔たりも大きかった。当時は資格制度も充実しておらず、指導員や保母の必要性には、私も疑問だった。
 とにかく、今をいかに生きるのか、というところから、筋ジス運動は始まり、そのための患者、患児の生活空問の確保と、家族の生活拠点を維持することにあったといえる。
 とはいえ、とにかく筋ジスを制度のなかに組み入れることになったことの意味は大変大きいといえる。
 一九六〇年代後半から一九七〇年代にかけて、筋ジス施策は大きく動いた。
 その原動カ「全国進行性筋萎縮症親の会」のその頃の運動はきわめて活発で、国会・厚生省のほか関係団体への陳情、要望を繰り返し、多くの問題が進展した。結成の翌年には外国の団体との関係を充実することから、名称も「日本筋ジストロフイー協会」と改めた。
 この頃の研究体制はほとんどとられておらず、とにかく「収容」だけしようということだった。
 しかし、多くの方々の努力によって、筋ジスが少しずつではあったが、全国の人々に知られるようになっていった。私が映画づくりを始めるきっかけともなった、映画『ぽくの中の夜と朝』も全国で上映されていたし、研究所づくりの署名集めも盛んに行われていったようだ。
 その結果として建設された研究所は、「国立精神・神経センター」として現在も筋ジスの研究が行われているが、筋ジスだけにこだわる日本筋ジストロフイー協会の運動にはいささか違和感があった。
 私たち三兄弟(ありのまま舎)の願いは筋ジスだけではなく、筋ジスと同様の状況におかれている難病患者とともに歩むことだった。そして、その小さな声を多くの人々に知ってもらうことだった。そうしたスタンスの違いはあるが、日本筋ジストロフイー協会の行動には敬意を茂したい。
 その時国立療養所徳島病院の患者たちが出したビラを次に紹介したい。」(山田[1999:163-167])

◆入院の頃

山田 富也・寛仁親王・澤地 久枝・斎藤 武 19951220  『いのちの時間』,新潮社,237p. ISBN-10: 410409501X ISBN-13: 9784104095018 1528 [amazon] ※ → 19980901 新潮文庫,284p. ISBN-10:4101476217 ISBN-13:978-4101476216 [amazon][kinokuniya] md. n02.

 「山田 本当のところ、一番最初にこういう運動を始めたのは僕なんです。僕は中学校を卒業して病院に入ったけれど、兄貴たちは病院育ちだからお医者さんの言うことが絶対、看護婦さんの言うことが絶対の生活で、上の兄貴は僕がボランティアたちと勝手な行動をする時に一言言いました。「病院というのは静かに暮らすところなんだ」と。だけど僕は学生の下宿に遊びに行った▽071 り、若い看護婦と遊びにいくとか、好き放題のことをした。酒なんかも十七ぐらいの頃に味をしをしめてワンカップ大関を毎晩病室で呑むとか、タパコも十七で覚えて、毎日一箱空けるというような生活をしていた。だから僕の心の中にあるのは、一般の社会であれば普通のことがここでは普通ではないな、ということでした。僕はたまたま十七だからタバコを吸う資格はなかったけれども、二十歳を過ぎた人でもみんな吸えない。他の病棟の成人患者は吸っているわけです。筋ジストロフイー病棟だけは暗黙のうちにだめだとなっている。そういうことをどんどん改善しようということになった。
 その頃、僕なんかのところに集まってきた学生がいて、それが運動の最初のきっかけだった。その頃は六〇年安保以後の学生運動の残党みたいな連中が、弱者というのは何なんだということを考えた時に、結局障害者問題じゃないかというようなことになって、障害者問題に走った連中が来ていたわけです。殿下がさっき言われた過激派の問題も出てくるのですが、殿下とはこんな詰をしたことはないんだけれども、そのとき僕のところに来ていたのは革マルだった。学生運動の遺恨みたいなものがずっと尾を引いていて、「ありのまま舎の山田というのはもともと革マルだったんだ。それが何で殿下なんかと一緒になってるんだ。おまえは何なんだ」ということがあったんですよ。「おまえは結局、風見鶏じやないか」というようなレッテルを貼られたわけです。僕は風見鶏じゃない。個人的な意味で尊敬したり、これはいいと思う人と触れ合ったりするのであって、僕には僕の思想がちゃんとありますよ」ということを、その人たちとも何遍か話し合ったことがある。
 だから、この運動の流れの一番最初は僕がまず飛び出て、そして兄貴が出てきた。兄貴は理論▽072 家だからその辺を理論化してきたわけです。たとえば雑誌「ありのまま」の一号を見れば分かるように、「なんで自分たちはこういう状況に置かれているのか、これをどうしようとしているのか」と、僕が行動でしかできなかったことを兄貴は全部理論化していった。兄貴がそこにいたので、ありのまま運動がきちっと成立していったという感じなんです。」(山田他[1995]、山田の発言)

◇山田 富也 20090201 『聖芯源流――難病と共に生きる風景』,七つ森書館,222p. ISBN-10:4822809838 ISBN-13:978-4822809836 1800+ [amazon][kinokuniya] ※ md. n02.

 「チェ・ゲバラ
 兄たちと過ごした病院での生活は、私の青春時代だった。
 中学を卒業し入完した病棟はすべてが時間で決まっており、毎日がそれの繰り返しでしかなく、刺激など何もなかった。
 当時は、学生運動が盛んな頃でもあり、病院には数人の学生らが出入りしていた。彼らとのふれあいは、私にとってまさに外の世界との出会いであり、大きな刺激であり、青春だった。学生たちの下宿に泊まり、ギターを片手にフオークソングを歌い、夜を徹して理想の社会を語り合った。
 話はいつもキューバ革命を起こしたフィデル・カストロ・ルス氏や共に戦っていたチェ・ゲバラ氏に及んだ。現体制と戦い自ら理想を求め、ついには一国を作り上げるにいたった彼らの革命は、まさに私たちの希望であり、英雄だった。
 ▽143 誰からも忘れ去られていた私たち重い障害や難病をもった者の日常。私たちがこの現状から抜け出し、動けない私たちの発想が活かされる理想の社会を作り上げることができる日が来るのではないか、そんな思いを支え続けていたのは、彼らの成し得た革命だった。
 同病の仲間たちの詩集を出版したり、写真展を開いたり、エッセイを出版したりという、まずは自分たちの現状を伝えていく運動になり、そしてたくさんの人たちに支えられ、障害を持つ人たちの生活の場になる自立ホームや難病ホスピスを作り上げることにつながってきた。
 チェ・ゲバラは四十一年前、ボリビアで三十九歳で亡くなったが、最後まで自らの理想のために戦い続けた。
 私もその思いでいたい。
                       (08年3月)」(山田[2009:142-143]、初出は2008年3月)

◆『車椅子の青春』

 「車椅子の青春
 新年度となり、二十歳そこそこの若さあふれる新人スタッフがありのまま舎にも入舎した。
 ただ立っているだけでもまぶしい年頃である。ありのまま舎に夢と期待を持って関わり始める彼らの姿をいとおしい思いで眺めた。私が、同じ年齢の頃何をしていただろうか。約三十年前のことだ。
 ちょうど、詩集『車椅子の青春』を出版した頃がそうだった。十代、二十代の若さで、次々に同病の仲間がこの世から去っていく。病院生活で感じた、現実への憤りにも似た思いがこの詩集の編集という行動に私を走らせていた。
 病気になってしまうことは誰のせいでもない。そのことに疑問を感じた訳ではなく、どうして、他の病気のように治療法が研究されてないのかということへの疑問だった。たくさんの人が罹る病気の治療法の研究は、一挙にた▽099 くさんの人の生命を救えるだろう。効率的なことなのかもしれない。しかし、だとすれば、例えば筋ジスのように絶対数が少ない病気はいっまで経ってもその対象からはずされ続け救われないことになる。
 現実に、患者数が多くない「珍しい病気」は、名前がつけられたぐらいのもので、ほとんど治療法の確立はされていない。
 そしてその哀しい現実は三十年経った今でもほとんど変わっていない。今、再び詩集を出すことで世に訴えたいと強く思う。当事者しか感じられない思い、当事者だから書ける作品は、たくさんの人の心に直接訴えてくれることと確信している。
 ありまま舎の活動の原点ともいえるその活動を、今年度の仕事の手始めとしたいと思う。活動を始めた頃の思いを私も忘れずにいたい。新人スタッフのはつらつとした姿に励まされる思いで。
                       (01年4月)」(山田[2009:142-143]、初出は2001年4月)

◆病院を出る

◇山田 富也 20090201 『聖芯源流――難病と共に生きる風景』,七つ森書館,222p. ISBN-10:4822809838 ISBN-13:978-4822809836 1800+ [amazon][kinokuniya] ※ md. n02.

 「「北の国から」を観る
 二十一年間続いていたテレビドラマ「北の国から」が先日の放送を以て終了した。
 東京暮らしの家族が離婚を契磯に、母は東京、父と子らは北海道の富良野に移り住む。そこで子どもたちは、これまでの生活との違いの中で悩みながらも成長していく姿を綴ったものだ。
 このドラマが放送され始めた頃、私はそれまでの家族を失い、実家の裏にある家へと引越し、介護に慣れていない学生ボランテイアと共に薄暗い部屋でそれを観ていた。時同じく、活動を共にしていた学生たちは卒業の時を迎え、各々の道へと進み、私は日々の介護者の確保に必死にならなければならなかった。
 生活環境が急に変わり、それまで考えなくてもよかったことだけに追われ▽171 る生活は、心身共に私を追い込んだ。空しく寂しかった。初めての挫折だった。
 二十一歳で病院を出て以来数年間、仲間の詩を集めて出版した詩集はたくさんの方に支持され、ドキュメント映画・劇映画を撮って賞をもらう等、何をやっても自分の思う以上の結果を残すことができた。私の人生で一番自信に満ちていた時期だったと思う。
 それが一転し、倣慢だったであろう自分は打ちのめされた。その苦悩から抜け出すきっかけを作ってくれたのは、聖書であり、温かい人々の思いに他ならなかった。「感謝」という気持ちを初めて持つことができ、それは、私に生きるカを与えてくれたように思う。
 新しい家族との歴史、多くの理解者とスタッフに支えられているありのまま舎の歴史、それらのことをドラマを観ながら考え、思い出し、大きなカをもらった気がした。
                      (02年9月)」(山田[2009:142-143]、初出は2002年9月)

◆次兄山田秀人(一九四九〜一九八三・三四歳、六〇〜八三・西多賀病院)逝去

◇山田 富也 20090201 『聖芯源流――難病と共に生きる風景』,七つ森書館,222p. ISBN-10:4822809838 ISBN-13:978-4822809836 1800+ [amazon][kinokuniya] ※ md. n02.

 「次兄、六月生まれ
 私の呼吸管理を二十四時間してくれている人工呼吸器が、普及するようになって十年余り。当時、今のような状況であったなら、若くして亡くなった多くの仲間たちも、もっと長生きできただろう。二十二年以上前に亡くなつた私のふたりの兄も例外ではない。
 次兄は三十四歳で逝ってしまった。次兄の最後の数力月は息苦しさとの闘いだった。私がこうして人工呼吸器のおかげで生きていられることを思うと、尚更悔しさがこみ上げてくる。詩人として生前三冊の詩集を作り上げた次兄は、詩を通じてもっと多くの人と触れ合うこともできただろうし、もっと多くの詩を残したに違いない。
 次兄は、二十五年間病院で過ごした。人生のほとんどを病院で暮らしたことになる。遺されたノートには、小さい文字でびっしりと、たくさんの詩が書いてあった。
 ▽183 六月、雨の季節。雨音はなぜか、亡くなった人のことを思い出させる。六月は次兄の命日の月でもある。
  六月生れは移り気
  黄いろのバラがよく似合う
  車の窓に流れる雨だれにあなたのロぶえがよく似あう
  いつしか年老いた時
  あなたのやさしさと
  そのほほえみを暖めているでしょう
  やさしいだけでは疲れます   山田秀人
 先般、遺稿集が出仮され四冊目の詩集となった。天国でも次兄は詩を書き続けていると信じたい。
                     (05年6月)」(山田[2009:182-183]、初出は2002年9月)

◆1995?人工呼吸器使用

◇山田 富也 20090201 『聖芯源流――難病と共に生きる風景』,七つ森書館,222p. ISBN-10:4822809838 ISBN-13:978-4822809836 1800+ [amazon][kinokuniya] ※ md. n02.

 「眠ることが怖かった
 ニ十四時問べッド上の生活となった私の部屋には動く置物が増えた。温度の上下で水中の錘が浮き沈みする温度計。地球の磁力と光で回り続ける地球儀等、少しずつ変化し楽しめる。「シュパーッシュパーッ」私の生命をつなぐ人工呼吸器の音も、今では二十四時間途切れることがなくなった。
 この器械を練習し始めたのは十二年前。七年前に大きな心臓発作を起こし、心肺停止状態になってからは、一日中使うようになった。そうして私を生かし続けてきた人工呼吸器も、先日三台目となった。
 これを使い始めた頃は、眠ることが怖かった。就寝中は呼吸回数が減り、筋力がなく呼吸が浅い私たちにとって、それは息をしていない時間が増えることを意味する。
 ▽205 息苦しく汗びっしょりになって目覚め、あえぎながらやっとの思いで何度も浅い深呼吸をする。眠ってしまったら再び目覚めることがないような恐怖……。
 鼻を覆うマスクを通して定期的に空気が送られてくる。まるで器械に合わせて呼吸をするようで、こんなものに慣れるのか訝しかった。ところが使い始めるや、息苦しさから解放された。もし、息苦しさの中であえいでいた兄たちや病友たちにこの器械があったなら、もっと長生きできただろう。
 最初は一日一時間だった使用時間も進行に比例して増え、今では手放せなくなった。けれど私は生かされている。
 壁にかけられた十字架を見上げる。これは動くことはないが、私の心に休むことなく語りかけ、感謝の気持ちと、安らぎを与えてくれる。すべてに惑謝。
                      (07年5月)」(山田[2009:142-143]、初出は2007年5月)

 「次兄、六月生まれ  私の呼吸管理を二十四時間してくれている人工呼吸器が、普及するようになって十年余り。当時、今のような状況であったなら、若くして亡くなった多くの仲間たちも、もっと長生きできただろう。二十二年以上前に亡くなつた私のふたりの兄も例外ではない。  次兄は三十四歳で逝ってしまった。次兄の最後の数力月は息苦しさとの闘いだった。私がこうして人工呼吸器のおかげで生きていられることを思うと、尚更悔しさがこみ上げてくる。詩人として生前三冊の詩集を作り上げた次兄は、詩を通じてもっと多くの人と触れ合うこともできただろうし、もっと多くの詩を残したに違いない。」(山田[2009:182]、初出は2002年9月)

◆「筋ジス患者、ありのまま舎設立 山田富也さん死去」
 河北新報 2010年9月22日

 仙台市の社会福祉法人「ありのまま舎」の専務理事で、筋ジストロフィー患者の山田富也(やまだ・とみや)氏が21日午前9時46分、進行性筋ジストロフィーのため、仙台市太白区の国立病院機構西多賀病院で死去した。58歳。福岡県大牟田市出身。自宅は仙台市太白区西多賀。前夜式は22日午後6時から、告別式は23日午前11時から仙台市太白区西多賀4の19の1、身体障害者自立ホーム「仙台ありのまま舎」で行う。喪主は妻浪子(なみこ)さん。
 西多賀病院に入院しながら1975年、ともに筋ジストロフィーの長兄寛之さん=80年、33歳で死去=、次兄秀人さん=83年、34歳で死去=らと任意団体「ありのまま舎」を設立。兄の遺志を引き継ぎ、86年、ありのまま舎の法人化を成し遂げた。
 講演や出版などを通じて難病患者、重度障害者の自立支援に関する啓発活動に奔走した。87年、民間として全国初の障害者自立ホーム「仙台ありのまま舎」を開設。94年には重度障害者・難病ホスピスの自立ホーム「太白ありのまま舎」を開設した。
 身体障害者の社会参加促進功労者として90年、厚生大臣(当時)表彰を受けた。ありのまま舎は95年度の河北文化賞を受賞した。
 病の進行で体調を崩し、7月下旬から西多賀病院で療養していた。
◎障害者社会参加、実現に生涯懸け
 仙台市の社会福祉法人「ありのまま舎」の専務理事で、21日に亡くなった山田富也さん(58)の生涯は、障害者が健常者と同じように暮らし、社会参加する「ノーマライゼーション」の実現に懸け続けたものだった。
 幼いころに筋ジストロフィーを発症。不自由な闘病生活を送るうち、筋ジス患者の自立を考えるようになった。ありのまま舎を運営する傍ら、障害者が自分の才能や意欲を発揮できる社会を築こうと、1985年から2000年まで、障害者を対象にした文学賞を開催。1999年には福祉活動に貢献している障害者に授与する「ありのまま自立大賞」を制定した。
 講演や出版、映画制作を通じての啓発活動にも尽力した。著書は「筋ジストロフィー症への挑戦」(83年)、自叙伝「愛ふり返る時」(85年)など14冊に上った。ありのまま舎の会報「自立」に連載した文章をまとめた随筆集「聖芯源流」(2009年)では、筋ジス患者の闘病生活などをつづった。
 亡くなる直前まで会報の編集にかかわるとともに、重度身体障害者が入所するありのまま舎の運営を気に掛け、職員に指示を出していたという。
 山田さんと30年以上親交がある仙台白百合女子大教授で、ありのまま舎理事長の大坂純さん(54)は「施設を造り、運営するという健康な人でも大変な事業のリーダーだった。死と隣り合わせの病を抱えていたのに、常に前向きだった」としのんだ。」

■言及

◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後』,青土社

◆立岩 真也 2016/02/01 「国立療養所/筋ジストロフィー――生の現代のために・9 連載 120」『現代思想』44-(2016-2):-

 「とくに進行の速い筋ジストロフィーについて、本人たちの運動は困難だった。その例外の一つが仙台の「ありのまま舎」だった。それはようやく二〇歳を超える人たちがいて、可能になった部分がある。そしてその生起には、七〇年頃の学生運動の関係もすこしばかりはあったことを山田富也が証言している。病棟の自治会運動から始まったその運動は、やがて皇族他の著名人も味方につけてのよく知られる動きになっていく。その活動は出版と、そして「ケア付住宅」の運動に向かう。一九八〇年代において身体障害者の運動があって作られたケア付住宅――今は「グループホーム」という言葉の方が通りがよいはずだ――建設の動きとして比較的知られているのは、東京青い芝の会によって作られた「八王子自立ホーム」、札幌いちご会が運動してできた北海道営のケア付き住宅、そして仙台のありのまま舎だった。
 各々にそれらを作ろうとするもっともな理由があった。しかし苦労して実現したそれらは、かけた労力に比して、得られたものの少ないものであったと私は考えている。そして実際そのことをそれを先頭に立って推進して実現させた本人(山田富也)が語っている文章もある。そして、前回紹介した鹿野靖明は札幌のケア付き住宅建設運動に加わり、そこに入居できたのだが、うまくいかず、一人で暮らすことになった人だった。」

 紹介は次回 以降になることを述べたが、一九七〇年代初頭から筋ジストロフィー者たちによる書き物がかなりの数現れる。それらとともにその人たちを受け入れた側、政策側の本を合わせて読んでいく。後者には『国立療養所史 総括篇』(厚生省医務局療養所課内国立療養所史研究会編[1976]、それ以外に「らい篇」「結核篇」「精神篇」が出ている、これらは今のところ未見)、『国立療養所における重心・筋ジス病棟のあゆみ』(あゆみ編集委員会編[1983])等がある。これは基本的に公的な立場で書かれたものであるけれども、そうしたものに、ときに無警戒に、施設経営(者)の実状・実情が記されていることもある――次回 、結核から精神科への「転換」をいかに成し遂げたかを正直に書いている元施設長の文章を引くだろう。以下は、六〇年、仙台の国立療養所西多賀病院について『あゆみ』に収録されている文章から。

 「仙台にある肢体不自由児施設、整肢拓桃園の園長高橋孝文先生の紹介で、止むなく引き受けたと言うのが実情であった。[…]昭和三五年と言えば、我が国が漸く戦争の荒廃から立ち上がり、どうにか戦前の生産水準を超えようとした頃であった。民心にも多少のゆとりが見え始めた年代だった。国立病院、療養所は軍や医療団の病院を引きついだもので、団体は大きいが、朽ちかけたバラックが建ち並ぶ殺風景な病院であった。
 […]高橋園長から電話があった。筋ジスで困っている一家があるから西多賀で引き受けてくれないか、と言うのである。私は筋ジスのことは何も知らなかったが、治療法もなく、全身の筋肉が痩せ衰えて死を待つだけの病気だということは知っていた。そこで、治療法もない患者を入院させても意味はない。それこそ、肢体不自由児施設に収容すべきではないか、と答えた。高橋園長は、もっともだが、肢体不自由児施設は収容力が不足していて、厚生省からは筋ジスよりも治療効果の期待できる他の疾患を優先収容するよう指示されている、と知らされた。私は困った。とにかく、酷い事情だから一度両親に会ってくれ、と言うので会うだけ会ってみましょうと言うことになった。ところが会ってみて驚いた。この夫婦には三人の男の子があり、その三人とも筋ジスだった。転勤で九州から仙台へきたものの、どこの病院も学校も受け入れてくれない。その上、当時の保険制度では三年以上同じ病気で保健医療は受けられないようになっていた。もし、私が断ったら一家心中でもしかねないような状況であった。私は考えた。治療法のない病気の子を入院させるのは、医療の面だけを考えるなら無意味である。しかし、国立の病院は国民の幸せを守る仕事の一翼を担っているのである。治療はできなくても入院させるだけで、この一家には大きな光明が与えられるのだ。その上、西多賀にはベッドスクールという、寝たきりのカリエスの子のために、病室へ先生が来て教えてくれる学校がある。入院すれば学校にも行けることになり、友達もできるから、今までの孤独の生活に比べればどれだけよいか分からない。偏狭な理屈にこだわって断るより、入院させるほうがはるかに国民のためになる。私は肚を決めた。」(近藤[1983]、伊藤・大山[2013]に引用)

 この三人の兄弟は山田寛之・山田秀人・山田富也。九州・大牟田市出身。三人ともデュシェンヌ型の筋ジストロフィー者だった。長兄が山田寛之(一九四七〜一九八〇・三三歳で逝去)。六〇年から七五年まで西多賀病院で暮らした。次男の山田秀人(一九四九〜一九八三・三四歳で逝去)は、六〇年から八三年、亡くなるまで西多賀病院で暮らした。そして、山田富也(一九五二〜二〇一〇、五八歳で逝去)は六八年から〜七四年まで西多賀病院、上の二人よりだいぶ長く生きて――やはり後で紹介する――様々な活動をし、多くの本を書いた。この業界では知らない人はいないという人だ。
 この三人兄弟の上の二人がその病院で最初に受けいれられた人であることは『あゆみ』のこの箇所だけからはわからない。いくつかの種類の書籍を並べて、山田たちが書いたものと両方を見ることで、わかってくるところがある。

 ▼「一九六〇年五月、秀人と寛之は仙台郊外の当時の国立療養所西多賀病院に入院した。
 秀人のお母さんたちが、患者を抱えた家族の現状を訴え、受け入れを実現させた。従って筋ジス病棟最初の患者と言われている。
 親たちも、また子供たちも再び元気に退院できるという期待をもっていた。ベッドスクールと称する学びの場もあった。
 しかし、その期待はこの〔一九七一年の〕詩集が出されるころには、過酷な運命となってのしかかっていた。」(ありまのまま舎編[2005:17])

 この時点では「筋ジス病棟」という名称のものはなかったはずだ。六四年、先記したように国立西多賀療養所と国立療養所下志津病院に各二〇ベッドの専門病床を設けるとしたのに対して、予想を超えた希望が殺到し、九道府県の九施設に一〇〇床を置くことにする。そして六五年、国立療養所に限って児童福祉法の育成医療制度が適用される。六七年国立療養所のベッド数は五八〇床★08。
 そして六八年、国立西多賀療養所に初めての筋ジストロフィー専門病棟ができる。そしてこの年、山田富也がここに入院することになる。このようにして個人史と制度の変遷の一部が重なっている。
 その本人たちの本が出るのが七〇年代の前半以降になる。それらから、そこがどんなところであったのか、いくらかを知ることができる。政策が始まってから一〇年経ってはいない。その時期、幼い時に入所した人たちが一〇代や二十代で書いた文章が現れるのだ。

 それと別に、活動としてはそれ以前から、仙台・西多賀病院でのことがあった。筋ジストロフィーの子たちがそこに集められるのだが――当初はもっと多様な人たちがいたという――その空間の中で活動が始まることもある。山田たちの活動はそうしたものだった。山田寛之と山田秀人が、六〇年、西多賀病院が受け入れた最初の筋ジストロフィー者だったことは述べた。その後六八年、三男の山田富也が六八年に同じ病院に入院する。そして自治会として西友会(西多賀病院と、その中の筋ジストロフィー病棟だった西病棟にかけてつけられた名称だという(山田[1983:86])ができる。
 一九七一年一月。発行は西友会として『車椅子の青春――一生に一度の願い 詩集』(仙台市・西多賀病院西友会編集委員会編[1971])。そしてこの詩集は、いくらか体裁・内容を変えて七五年三月にエール出版社から『車椅子の青春――進行性筋ジストロフィー症舎の訴え』(国立西多賀病院詩集編集委員会編[1975])として再刊される。この本は「人生とは…〈遺稿集〉」と「青春とは…」とに分かれているだが、その四年の間に亡くなった人たちの詩を〈遺稿集〉の側に移動させて刊行される。「人生とは…〈遺稿集〉」に掲載されている人たちの没年とその時の年齢が記されている。六九年(一八歳)、七〇年(一九歳)、六八年(一五歳)、七七年(二二歳)、六九年(一五歳)、七二年(一五歳)、七一年(二〇歳)、七二年(二一歳)、七五年(一九歳)、七三年(一六歳)、七四年(二一歳)、七二年(二四歳)、七〇年(一二歳)、六九年(一二歳)。
 このエール出版社版が出た同じ七五年二月、『詩集 続 車椅子の青春 進行性筋ジストロフィー者(児)の叫び』(進行性筋萎縮症連絡会地域福祉研究会「仙台」詩集編集委員会編[1975]――奥付の編者は右記、表紙では進行性筋萎縮症連絡会詩集編集委員会編となっている――が刊行される。巻頭の詩は山田秀人のもの(ありまのまま舎編[2005:48-49])。詩は全国の療養所に暮らすまた在宅の筋ジストロフィー者から寄せられたもの。日本筋ジストロフィー協会他も協力団体として記載されていく。あとがきは山田富也。詩の紹介はさておくことになるが、次回 文章の断片をいくつか引用する。そしてさらにその後も出された詩集の書誌情報も知らせる。
 ここではその先のことを簡略に記しておく。七四年三月に富也は西多賀病医院を退院。寛之が退院した七五年に「ありのまま舎」が設立される(一九八八年に社会福祉法人認可)。その活動についても次回以降いくらか紹介する。その活動は十分に讃えられるべきものであると思うが、私自身は違う道もあったのではないかとも思っている。そのことも述べることになるだろう。」

◆立岩真也 20160301 「生の現代のために・10(予告)――連載・121」,『現代思想』44-(2016-3):

 「とくに進行の速い筋ジストロフィーについて、本人たちの運動は困難だった。その例外の一つが仙台の「ありのまま舎」だった。それはようやく二〇歳を超える人たちがいて、可能になった部分がある。そしてその生起には、七〇年頃の学生運動の関係もすこしばかりはあったことを山田富也が証言している。病棟の自治会運動から始まったその運動は、やがて皇族他の著名人も味方につけてのよく知られる動きになっていく。その活動は出版と、そして「ケア付住宅」の運動に向かう。一九八〇年代において身体障害者の運動があって作られたケア付住宅――今は「グループホーム」という言葉の方が通りがよいはずだ――建設の動きとして比較的知られているのは、東京青い芝の会によって作られた「八王子自立ホーム」、札幌いちご会が運動してできた北海道営のケア付き住宅、そして仙台のありのまま舎だった。
 各々にそれらを作ろうとするもっともな理由があった。しかし苦労して実現したそれらは、かけた労力に比して、得られたものの少ないものであったと私は考えている。そして実際そのことをそれを先頭に立って推進して実現させ本人(山田富也)が語っている文章もある。そして、前回紹介した鹿野靖明は札幌のケア付き住宅建設運動に加わり、そこに入居できたのだが、うまくいかず、一人で暮らすことになった人だった。
 筋ジストロフィーに限れば、これらと関係しつつも、すこし異なるところを目指す運動は一九八〇年代初頭に始まる。」

◆立岩真也 20160701 「国立療養所・4――生の現代のために・14 連載・125」,『現代思想』44-(2016-7):

 親の会が結成され、施策が示されていくのは一九六四〜五年、水上の「拝啓」は六三年、その辺りが一つの画期ではあるとしても、重症心身障害児を巡る動きはもっと早くから始まっているし、筋ジストロフィーについても小さな、ただこの時期の状況に関わり、その後にもつながっていく出来事がある。一九六〇年、国立療養所西多病院(仙台市)で初めて筋ジストロフィー症児の長期入院が認められる。第一二〇回(本年二月号)で紹介したように、山田寛之(一九四七〜八〇)、秀人(一九四九〜八三)、富也(一九五二〜二〇一〇)の兄弟の上から二人がそこに入所する(富也の入所は六八年)。兄弟は九州・大牟田市出身、三人ともデュシェンヌ型の筋ジストロフィー者だった。この一家はこの時、父親が九州電力から東北電力に勤めが変わって仙台市に移ってきた(近藤[1996:6-7])。第一二〇回では山田富也らが設立し活動した仙台ありのまま舎編の本から、そして『あゆみ』の最初に置かれている西多賀病院の元院長で山田兄弟を受け入れた近藤文雄(一九一六〜)の文章(近藤[1983])から引用した。その続きは以下。

 「よろしい、入院しなさい。ということで、上の二人が入院し、一番下の子はまだ歩けたから家から幼稚園に通うことにした。その下の子が今仙台で「ありのまゝ会」を経営して、凄い活躍をしている富也君である。/西多賀療養所は筋ジスの子を入院させるという噂が伝わると、各地から同病の子の入院申込みが続いた。私にはもう断る理由はなかった。結果、筋ジスの数は次第に増えて、一〇名、二〇名、最終的には一四〇名にまでに膨れ上がった。」(近藤[1983:9-10])

 同じ西多賀病院の当時副院長湊治郎と同院の朝倉次男の文章では、千葉県下志津病院、西多賀病院の各二〇床を設けることが決まった六四年五月「当時、西多賀療養所(現西多賀病院)には、すでに八名の筋ジストロフィー患児が入院して、他の疾患児童と一緒に、ベッドスクールで教育を受けていたという。おそらくこれは、わが国における筋ジストロフィー患者の国立療養所収容の嚆矢とも言うべきで、同院創立三五周年記念誌によると、前院長近藤文雄は「昭和三五年に、兄弟が三人そろってこの病気にかかって、途方にくれている一家に出遭った。ベッドスクール以外にこの子たちを精神的に救う所はないと考えて、従来の常識を破って筋萎縮症を入院させることに踏みきった」と言っている。昭和三九年六月一五日、さらに広島県の原療養所に一〇床の専門病床の設置が発表され、八月一〇日には、石垣原病院、刀恨山病院、八雲療養所、徳島療養所にそれぞれ一〇床の設置がおこなわれている。さらに九月三日、鈴鹿病院に一〇床指定され、全国八ブロック八療養所合計一〇〇床の筋ジストロフィー用ベッドが指定されるに至った。」(湊・朝倉[1976:277-278])

 宮城病院名誉院長畠山辰夫と当時西多賀養護学校教頭の半沢健。

 「玉浦療養所と西多賀療養所が統合され、昭和三五年西多賀病院の再出発が始まっていた。その時、三人の男子すべてが、筋ジストロフィー症におかされている一家が、近藤文雄所長を訪れた。当時、不治の病は国立療養所に収容できない制約があったという。しかし、あまりにも悲惨であり、「せめて医学的に不治であっても、教育だけは受けさせたい」という親子の意をくんで、入院を許可した。昭和三五年五月二六日のことである。教育機関が医療機関に併設されていたから実現したのである。以来、次々と筋ジストロフィー症児が入り、正式許可された時には二〇名を越していたという。」(畠山・半沢[1976:531])」

「□山田富也の文章から
 二人の兄の後、六〇年の八年後、六四年の制度化の四年後、山田富也は一九六八年に西多賀病院に入所する。その人は多くの本を書くが、以下は九九年の本から。六〇年代が概観されるとともに、施設は家族がやっていくためのものであり、本人たちもそれをわかっていたことが記される。

 「筋ジス運動は、両親たちの切なる思いから始まった。治療法がない。日々障害の度合いは増し、家族の負担は限りなく大きくなっていくことを、親たちは予感した。どの親もわが子を一人病院に置くことは、つらく悲しく身を割かれる思いだったに違いない。
 それでも、そうしなければ家族が崩壊する、生活が成り立たなくなる、との危機感は強かったのだろう。入院しているほとんどの仲間はそのことを理解しようとしていただろう。恨むことではなく、ただひたすらにその日その日を必死に生きていこうとしていたと思う。明日に何かを求めることより、今日を生きることのほうが重要で、確かな人生がそこにあったから。
 そんな私たちの思いとは少し違ったところで、私たちのために私の両親を含む親たちが動きだしていた。/昭和三十九(一九六四)年三月「全国進行性筋萎縮症親の会」は発足した。あてもなく歩きだした頃のことを思うと感慨深いことだったと思う。
 その三か月後には、「全国重症心身障害児を守る会」がスタートした。こうしてそれまでばらばらに苦しんでいた人々にも、同じ悩みを共通の土俵で語れる心の安らぎが得られる場が生まれた。まったく何もなかった筋ジス政策から、新たな段階に入ったのだ。
 親の会の動きは早かった。国会、厚生省への陳情などが行われ、厚生省はすぐに検討に入ったといわれる。なかなか国会議員と直接会えず、トイレで待ち構えて陳情したという話も聞いた。
 その結果として「進行性筋萎縮症児対策要綱」がいち早く作成された。今では考えられないほど早い対応であったと思う。それほどに親たちの思いは切実で、動きは機敏だった。私の両親をはじめ若い人々が多かったせいだろうか。とにかく、対策がとられることになった。/その手始めに行われたことは、昭和三十九(一九六四)年から四十五(一九七〇)年までの七年間をかけて、国立療養所に二千二十床の病床を整備することだった。その先駆的施設として千葉の国立療養所下志津病院と仙台の国立療養所西多賀病院の二つ、それぞれ二十床のベッドが用意された。昭和五十五(一九八〇)年度には二千五百床の専門病床が二十七の国立療養所において整備された。/国民病といわれた結核が徐々に下火になり、その空きベッドが筋ジス病棟に割り当てられるようになったのだ。/現在では、実際にはおおむね八割以上のべッドが利用されているようだ。」(山田[1999:163-165])

 「私たちの思いとは少し違ったところで、私たちのために…親たちが」と言う「少し違ったところ」が何であるかはここでは具体的に書かれてはいないが、基本的には肯定的に、受容の方向で書かれている。様々を省けばこんなまとめ方になるだろう。ただそのもっと以前、山田が二三歳の年の最初の本では別のことも書かれる。

 「国立療養所西多賀病院は、進行性筋ジストロフィー症の息者を、全国に先がけて、初めて入院させた病院です。/それまでは、どこの病院も、筋ジスの患者を受け入れてはくれませんでした。
 誰だって、病人を受け入れてくれない病院の話を聞けば、なぜだろうと疑問に思い、そんな馬鹿なことがあっていいものかと言うでしょう。しかし、ほんの少し前までは、わたしたちの仲間はそういう扱いを受けていたのです。受け入れない理由を聞けばもっと驚くでしょう。/「入院したからといって、病気が全快し、退院していける可能性のない息者は、病院としては受け入れられない」/[…]進行性筋ジストロフィー症は、現代の医学では治る可能性のない病気だし、治療方法も確立していないから、病院に入っても無駄だと言われているのと同じです。
 むかしは、不治の病と考えられていた結核やライ病は、病院がちゃんと受け入れてくれましたが、あれは、病院に入院するのではなく、療養所で隔離して療養にあたらせるのが目的でした。療養所として受け入れていたのです。では、筋ジスの患者にも療養所をといっても、進行性筋ジストロフィー症は、結核やライ病と比較して、患者の数も少ないと考えられていましたし、はっきりした一つの病気とは認められていませんでした。
 進行性筋ジストロフィー症という病名が一般に使われ始めたのは、日本では、昭和三十七年頃からです。それまでは、この病気は、原因もわからず、治療法もなく、病名さえついていなかったのです。だから、独立したこの病気のための療養所をと望むのは、とうてい無理な話でした。[…]
 結核やライ病は、伝染性の病気と考えられていましたから、健康な人たちは、自分たちに移るのを恐れて、療養所に隔離したのでしょう。その処置は正しいに違いありませんが、進行性筋ジストロフィー症が、他人には移らない病気であり、患者も少ない、そして不治の病で、社会復帰ができないからといって、療養所に受け入れられなかったのは、いま考えて、まことにおかしなやり方だったと批判されても仕方がないでしょう。/結核は、医療の飛躍的な進歩、画期的な特効薬の発見によって、比較的簡単に治療でき、全快して、社会復帰もできる病気になりました。[…]全国の結核の療養所の病床はあまっています。/そうした事情もあり、いま全国に、進行性筋ジストロフィー症の患者を受け入れる指定病院は、二十数個所ありますが、その一部が、元の結核療養所であり、結核息者のいなくなった病棟を持っている病院です。
 筋ジスにおかされた病人を受け入れてくれる病院もでき、国からの援助も受けられるようになりましたが、それでもやはりこの病気が、依然として、不治の病であり、治療方法も発見されていず、原因もつかめないという暗い事情に変わりはありません。全快して、退院できる病気ではないのです。/入院した患者の多くは、丈夫な筋肉を取り戻し、自分の足で歩いて、正面玄関から退院するのではなく、霊枢車に乗って退院していきます。/発病の原因も解明されず、治療方法もないまま、病院のべッドに横たわり、病気への嫌悪と恐怖と闘いながら、退院のあてもなく、毎日を送っているのが筋ジスの患者なのです。」(山田[1975:2931])

 まず当初病院が受け入れなかったことが批判される。たしかに、治療され回復するのでなくとも、身体の状態の維持に医療が必要であれば、さらにその医療が病院で提供される(しかない)ものなら病院でということにはなる。筋ジストロフィーにもそれが必要なことはあるだろう。ただここで山田は暮らせる場所が与えられないでいたことが不満であり、それは筋ジストロフィーがよく知られていなかったからでもあり、またなおらない病気だからだめだとされているのだと言う。そして結核やハンセン病療養者の収容は(治療でなく)「社会防衛」のためだがそれはそれでよいのだとも言う。
 なおる病気改善される障害が施策の対象とされ優先されていたのは事実だ。実際富也の兄二人の時にも、病院もその理由でだめだということになっていて、そして代わりと近藤が考えた福祉施設もその同じ理由で無理だとなった。ただそれが「重心」の子たちの収容も含めて変わっていく。それは結局、伝染しないとしても、「社会防衛」のためにということではなかったか。そしてさきに引いた山田[1999]はそのこと、家族のための収容であることを述べている。となると、対応が遅れたが、対応はなされたという話に収斂しそうでもある。
 ただ山田の鬱屈はそれで終わらない。国立療養所が受け入れなかったことを批判した後、国立療養所が受け入れたことに理があったのか、あるのかと問う。

 「国民病といわれた結核が徐々に下火になり、その空きベッドが筋ジス病棟に割り当てられるようになったのだ。/現在では、実際にはおおむね八割以上のべッドが利用されているようだ。/だが、実際に整備は全国を八ブロックに分け、一ブロック一病院の整備を目標に行われていったようだが、私たち筋ジス患者をどのようにしていこうかといった、明確な方針はなかった。「収容」することがすべてだった。/病院には専門家もおらず、それぞれの地域に点在する専門医に協力をお願いしながら、入院生活が始まった。そのことにみられるように、施策は場当たり的だった。当時の筋ジス政策がいかに実のないものであるかを証明している。
 治療法がないのだから仕方ない、という人がいるが、だからこそ時問をいかに有効に使うのか一が一人ひとりに求められていることを知っていてほしかった。/重症心身障害児[…]と筋ジスは国立療養所に受け入れ、児童福祉の体系のなかで位置づけられることになったわけだが、国立療養所政策もまた、大きな波のなかで揺れ動いた。とにかくそこに入ればいいんだといったところで進んでいたが、なぜ国立療養所なのかといった問いには今も答えてはいない。
 今では、とても考えられないようなことが当時行われた。たとえば、アキレス腱を切って、無理に動かされたり、必要以上に無理な負担をかけた訓練が行われた。結局、筋ジスに対してどのようにしてよいのかわからなかったのだ。
 医療施設を福祉施設として位置づけ、その活用を図るとのことだが、医療施設と福祉施設とは、その求められている役割は違うし、そこに働くスタッフの体制も設備も違う。
 筋ジスはほぼ九〇%が国立療養所に入り、重心は六〇%が国立療養所に入り、ほかは民間の施設に入っていった。/その先駆けとなったのが、国立療養所西多賀病院だった[…]。体系がどうであれ、親たちにとっては、家庭崩壊が回避され、しかも子どもたちには寂しさを紛らわす、昼間のにぎわいがあり、医師、看護婦さんが側にいてくれる場が得られたことで大きな役割を果たしていることは事実だ。」(山田[1975:165-166])

 こうして、二一歳の時に西多賀病院から出た山田は、最後には療養所を肯定するのではある。しかしその直前では国立療養所での受け入れのあり方が懐疑され批判される。それに対して肯定する人たちは、たぶん、とくに初期には様々な問題があったが種々努力して次第によくなったと応えるのだろう。だがそのように言えるのか。
 この問いにどのように応えるかである。その前に、次回、親の会の活動、政治・政治家との関係について、そして研究体制について、制度について、もう少し詳しく、しかし限られた文献から辿ることにする。

◆立岩真也 「高野岳志/以前――生の現代のために・21 連載133」

 「□映画『車椅子の眼』(一九七一)
 高野自身がずいぶん目立った人で、だから高野が/高野のことを書いたものもある。その高野の前にも、知らせようという営みがあって、それが高野の方に届くことがあった。読んでいくと、最初に筋ジストロフィーの子たちを受け入れた仙台の西多賀病院の入所者や施設関係者の活動、活動によって生み出されたものが与えたものが大きいことがわかる。一九七一年に、詩集、写真集、映画が各一つできる。写真集は映画の副産物でもあった。映画のことから。
 一〇〇分の記録映画『ぼくのなかの夜と朝』(一九七一)の製作は社団法人西多賀ベッドスクール後援会、監督は柳沢寿男。

 「たまたま仙台の西多賀公立病院というところにいきました。院長先生が[…]病棟を案内してくれました。筋ジスというのは、一九才くらいで亡くなってしまう病気です。そういう子供たちが非常に明るい。あんまり明るいので、この明るさはどこから来るのかっていうことで映画を撮る決意をしたわけですけども、さて、ここで小川のいう自立、自分で銭集めろってことですが、目標は二五〇〇万ぐらいです。」(柳沢[1993] )

 監督の柳沢(一九一六〜九九)が自分の映画について語った講演から。ここで小川は小川紳介(一九三六〜九二)。柳沢は尊敬する映画監督として亀井文夫(一九〇八〜八七)、土本典昭(一九二八〜二〇〇八)を挙げている。この後、話は映画制作のための寄付を集めたその苦労話になる。その前にはその前に撮った映画の話★02、その後には次に撮った映画の話がある★03。おもしろいが略す(こちらのHPの文献表から山形国際ドキュメンタリー映画祭のサイト内にある全文にリンク)。
 柳沢は「あんまり明るい」と思った。この映画が山田富也らに関わるきっかけだったという人もいる。さきに名を挙げた武田恵津子は、この映画の上映会で高野の実物に初めて会った★04。以下は、記者を定年退職後、朝日新聞東京厚生文化事業団の事務局長を務めた水原孝の文章。入所者の沈黙・敵意が回顧される。

 「昭和四六〔一九七一〕年に『ぼくの中の夜と朝』という映画を観ました。[…]筋ジスという病気自体を初めて知り、そういう病いの子どもがいると知ってショックを受け、仙台の西多賀病院を訪ねました。病院内に設けられた養護学校の教頭である半沢〔健〕先生の案内で病院を見学してまわり、最後に通されたのが成人病棟です。それが最初の出会いでした。私と先生を中心に、筋ジスの車椅子の青年たちが扇型に囲みました。先生は話し合いをうながすけれど、彼らは押し黙っているばかりです。その中には、富也も二人の兄もいたのでしょうが、冷やかな目で私を見つめているだけでした。
 でも、それももっともなことだったのです。自分たちがこういう酷い状況にあっても、誰も手を差し延べない。マスコミも福祉事業団も口先だけだと、一般社会に批判的だったのですね。私も多少のことには驚かないのですが、彼らの沈黙には困りました。この人たちは、二〇歳前後で死んでいくと言われているのに、自分たちはなにもしていない。でも、申し訳ないと言っても反応がない。苦しまぎれにその直前に訪れた中国の話をしても、なにかできることがあればと言っても、一言も答えがない。結局、「行動を通して信頼関係をつくりたい」と言って、私は話を終えました。」(水原[1997:51])

 「見学者」に対する敵意は他でも、例えば次に紹介する写真集に付される文章でも表出される。「ある日、わたしの一人はささやいた/「施設を見学にいらしたの? それともわたしたちを見に」/無遠慮にジロジロ眺める目/同情にみちた目/あわれみを含んだ目/中三 赤松栄子」(鳥海他[1971:4])
 そして疚しい人は、その敵意や沈黙を向けられることによってさらに疚しくなるだろう。この後、水原は山田から「ありのまま舎」(後述)設立にあたっての支援を依頼される。この流れの中にいると、この頼みは決して断れないものになる。疚しい人は必ず手伝い、それを続けることになる。
 そしてこの映画で山田富也はカメラに唾を吐きかける青年として現れる。それは鈴木一誌が柳沢の映画について語る講演では次のように語られる。

 「『僕のなかの夜と朝』に、病とともにある青年が嫌悪感をあらわにキャメラに唾を吐きかけるシーンがあります。衝撃的なシーンですが、ふつうはNGにするのではないでしょうか。映像は決して客観的でも中立的でもない。柳沢監督は、観察者としての限界を露呈させるためにこのシーンを残したのではないか。」(鈴木[2012])

 映画を評論する人はきっとこのように言うだろうと私たちは思う。そして、後の山田自身の怒りを聞いたうえでも、このような態度は映画や写真を撮る者の姿勢としてあるだろうと思う。山田自身は、映画の作品名を示さず、しかしこの映画について、次のように記す。

 「私が入院生活をしていた頃、筋ジス患者のドキュメント映画を作りたいという映画制作者が現れた。私たちは当然被写体として写される側にあったが、その映画を制作する監督は、患者の皆さんと共に作る映画にしていこうと約束をし、編集する前のラッシュも時々観せてくれた。/しかし、撮影が進むにつれて患者の意見は全く反映されず一人歩きをするようになっていった。私たちは映画制作に対して異議を唱えた。それでもずかずかと私たちの生活に踏み込んでフイルムはまわされていった。
 ある時撮影を拒否している私にカメラが向けられ、おかまいなしにフイルムがまわされた。手も足も出せない私たち筋ジス患者にとって撮影を止めさせる手段はない。どうしようもない感情のたかまりから私はカメラに向かってツバを吐いて抵抗した。完成した映画にはそのシーンが残っていた。/何が原因だったかは忘れたが、幼い頃ツバを吐きかけて、母に強く注意されたことがある。/その様子が永遠にフイルムに残るなんて、私にとっては屈辱的なものでしかなかった。」(山田[1990:77-78])★05

 そんなことがあって山田は別の映画を自分で制作しようと思う。その映画『車椅子の青春』は七七年にできあがる。その年その上映会を高野は千葉で企画し行なった。その時の実行委員会が、高野の「自立」を支援する組織になっていくことについても後述する。

■写真集『車椅子の眼』/詩集『車椅子の青春』(一九七一)
 高野が筋ジストロフィーのことを認識したのは写真集『車椅子の眼――筋ジストロフィー症の子どもの誌文と写真集』(鳥海・堰合・今野[1971])によってだという。この写真集は、入所者三人が撮った写真と入所者の文章、院長や教諭の文章他で構成されている。鳥海は一九四三年生まれの比較的進行の遅い筋ジストロフィーの人。六四年に、つまり国立療養所の筋ジストロフィー者の受け入れが始まった年に、西多賀病院に入所。あとの二人は脊椎カリエス。
 鳥海はその後も写真を撮り続け、七六年に次の写真集『存在』(鳥海他[1976])を発表する。初めは三五ミリの一眼レフで、次にハーフサイズのカメラで、そしてそれも手で持ち上げることが難しくなるとエレベーター付の二脚を車椅子につけて撮影した。それが日本リアリズム写真集団の雑誌『写真リアリズム』に取り上げられる。「『車椅子の眼』の時は、撮影対象が小中学生が主だったので、もう少し年齢を上げ、自分たちの内面的な問題を続けて撮ってみようという漠然とした気持ちで撮り始めたのが今回の『存在』の写真なんです。」(鳥海他[1978:46])
 雑誌にその写真集の一部が掲載され、続けて座談会の記録が載る。司会を務めた伊藤知巳が、脳卒中で車椅子生活を続けながら撮影を続ける土門拳の「頑張れ」という色紙とサイン入りの写真集『筑豊のこどもたち』を携えて病院を訪れ、座談会が行なわれた。西多賀病院には入所者用の暗室があってそれを使っていること、膨大なフィルムと紙が消費されたこと、等々が語られる。長谷川清(筋ジストロフィー、六六年に入院)、平山一夫(六三年に脊髄損傷)、高橋幸則(筋ジストロフィー、中学一年で入院、それまでの人生の半分の十二年を病院で過ごす)に、毎週のように病院に通ってきた宮川長二が加わり、写真を選び、構成を決め、キャプションを考え、写真集が作られていった。
 『車椅子の眼』について、その編集後記には、さきの映画を監督した柳沢が「筋ジストロフィーの子どもたちを理解する一助にもと、君たち自身の眼でみた子どもたちの姿を撮ってくれるように頼んだのでした。[…]映画が完成したとき、これらのスチールは、単に資料としての価値以上のものを示していたのでした」とある。また『存在』の後の座談会で鳥海は「柳沢寿男という監督がここの病院で『ぼくの中の夜と朝』という記録映画を撮った時、わたしと写真の好きな仲間たち三人でスチール写真のお手伝いをしました。その時撮った写真を写真集にしたらという話が出て、プロの方が写真のセレクト、編集をし、出して下さった本〔が『車椅子の眼』〕なんです」(鳥海他[1978:46])と語っている。
 この写真集は平凡社から出されているが、この同じ七一年、西多賀病院の筋ジストロフィー者の自治会・西友会が編者となった『車椅子の青春』(仙台市・西多賀病院西友会編集委員会編[197101])が出版されている。これは自費出版のものだったが(未見)、七五年にエール出版から新しくした部分を加えて刊行された(国立西多賀病院詩集編集委員会編[19750330])。本は「人生とは…〈遺稿集〉」の部分と「青春とは…」の二つの部分に分かれていて、七五年版のあとがきには「この月日の中で「青春とは」の部に加えていた何名かの友人達は遺稿集の中に加わり、「青春」の仲間が随分淋しくなってきました」と記されている。
 写真集に掲載されている詩と、『青春』に収録されている詩に共通するものがあるのを発見した。次のものは、写真集の方には「中三 刈屋政人」と書いてある。

 「われらは虫だ/グロテスクな虫だ/人間どもはわれらを無視している
われらは短い命だ/でも一生働き続ける虫だ/人間どもはわれらを馬鹿正直だと言う
われらは忍耐力が強い/致命的なけがの苦痛をもたえて/生きようとする/人間どもは自殺でもすればいいと言う
われらは虫だ/グロテスクな虫だ」

 本の方では「虫と人間」という題が付されている。そして中ほどに加わっている部分がある。その事情はわからない。

 「われらは虫だ/グロテスクな虫だ/人間どもはわれらを無視している
われらは短い命だ/でも一生働き続ける虫だ/人間どもはわれらを馬鹿正直だと言う/われらの世界はファシズムだ/でも友情の強い世界だ/人間どもはわれらを無知だと言う/われらは忍耐力が強い/致命的なけがの苦痛をもたえて/生きようとする/人間どもは自殺でもすればいいと言う
われらは虫だ/グロテスクな虫だ」([1971→1975:76-77])★06

 七五年版にはこの人の詩は九つが収録されており、その名前の横には「四六年七月八日死亡・二〇歳」と記されている。詩集が最初に出たのは七一年一月で、写真集は二月。この時には生きていて、そして詩が書かれたのは、中三というのだから、その五年ほど前ということになる。中三の時の詩にいくらかが加わって詩集の方に収録されたということかもしれない。そして映画でも詩が読まれるというのだから(未見)、そこにも共通しているものがあるのだろう。
 この写真集について幾つか記述がある。山田富也の七八年の小説『さよならの日日』★07より。文中の幸司はその小説の主人公で、小説の終わりに亡くなる。

 「西上と三階の成人病棟の患者をテーマにした写真集「静かな世界、小さな世界」を幸司が見せられたのは、栗原にかわって同室になった藤原信夫からである。藤原は、中学校三年生であった。
 写真集のぺージを一枚一枚めくりながら、幸司は、進行性筋ジストロフィーがほんとうはどんな病気か、初めてわかった。カメラの濁りのない、客観的な目なとおして、患者の暗い現実が見事にとらえられていた。もう指しか動かなくなった最重度患者が、じっとこちらを見すえている。静かな怒りと怨みの光が目のなかにあった。森に侵入してきて、理不尽に鉄砲をうち回る人間に出会いがしらに撃たれて死んでいこうとする鹿の目をそれは思わせた。挑戦するように、じっとカメラのほうを見て、手で撮影を拒否している青年もいた。訓練室で、苦痛に顔をゆがめて機能訓練に励む小学生の姿もあった。廊下の真ん中でひとりで車椅子の車輪のスポークを指先だけで一所懸命たぐりよせ、車椅子をなんとか少しでも移動させようと孤独な戦いを挑んでいる青年もいた。
 幸司が、もっとも衝撃を受けたのは、二十歳だという人の裸の姿だった。栗原よりももっと痩せていた。鎖骨の上下がひどく落ちくぼみ、両肩の骨の間に、首が埋まるようについている。肩や胸の肉がおちて、肩の骨が鋭角的にせり出してきているためにそんなふうに見えるのであった。まるで皮をかむった骸骨であった。頭に比べて、身体全体が細くなって、一見小さいという印象を受けた。幸司は、訓練室で見たふたりを裸にすればこうなるかもしれないと想像した。目は、静まりかえった湖の表面のようだった。無表情でなにを考えているのか、写真からはわからなかった。
 「進行性筋ジストロフィー症は死≠フ病である。朝生まれて昼には死んでしまう蜉蝣のように、療養所という檻のなかで、患者は、ごく短い生涯を閉じる」
 解説の欄に病気の実態が綴られ、いまだに病因解明、治療法開発のための研究体制をうち出そうとしない行政の不備が指摘されていた。
 ふいに、幸司は、まだ小学生のころ読んだ少女マンガの物語をまざまざと思い出した。/(あの話はほんとうだったんだ。栗原は、筋ジスで死んだんだ。そうか。栗原は、数をかぞえることによって、死の恐怖と闘っていたのにちがいない。かわいそうに。あいつは自宅療養なんかじゃないんだ。個室で死んで、退院していったんだ。ボクにも、もうすぐ死がやってくる。)、
 進行性筋ジストロフイー症がそんなに恐ろしい病気だなんて、幸司は信じたくなかった。/(筋ジスはなおる病気だと思っていた小学生のころはよかった。療養所にきて、なおらないと聞かされ、こんどは死につながる病気だなんて、どうしよう。どうしたらいいんだろう。死ぬのは苦しいだろうか)」(山田[1978:138-140])

 「手で撮影を拒否している青年」は山田だが、それは映画でのことだった。幾つかが混ぜ合わされて現実には存在しない写真集のことが描かれる。写真集に「蜉蝣のように」といった文言もない。ただ水上勉――この人も連載で幾度か取り上げてきた――の「序」に「一日一日やせてゆき、まるで陽の翳りをうけて七色に輝くあの貝殻のように、腐蝕していくのである」という文はある(水上[1971:1])。その手前、序の書き出しは以下のようになっている。

 「進行性筋萎縮症。この病気にかかった少年は、死の道を急ぐ。現代医学は、この病気を快癒させる方法を知らない。少年たちはなぜ、こんな、悲しい病気にまといつかれたか、父からも母からも、お医者からも、聞かされたことはない。親たちは嘘をつき、お医者たちも嘘をつき、この施設へ入れば病気はやがてなおって坊やはやがて退院できるのだという。つれてこられた子は、ここが悲しみの場所であることを知らないのだ。世の中に、このような悲惨な施設はまたとない。それだけに黄金の命をいと惜しむお医者や看護婦たちの眼は明るく澄んでいるが、知らぬまに、一人減り、二人減りしていく空ベッドを眺めて、昨日までそこで一しょにあそんでいた友はどこへ行ったのか、子らがたずねても教えてくれる人はいない。お医者や看護婦はにっこりして、退院していったのよとこたえる時もある。」(水上[1971:1])

 そして高野にとっても、写真集は筋ジストロフィーの実相を示すものだった。

 「父から「治らない病気」と言われても、それは足の病気だと思ったいた彼が、仙台の西多賀病院の写真集を手にしたのは中学一年の時だった。そこには、筋ジス患者の多くは二十歳までに死んでいくこと、この病気の研究費として国からは一千万円しか出ていないこと、病棟生活は患者にとって人生そのものだから、内容を改善していかなければならないこと等が書いてあった。/「ショックでしたねえ。」」(小林[1981:39])
 「結局私に筋ジス≠決定的に教えたのは、中学一年生のときに出版された、西多賀病院の写真集だと記憶しています。私はこれに出会うまで筋ジス≠ニいう病気を楽観的に捉えていましたが、自分の置かれた現実を改めて思い知らされました。私達にとっては、あたりまえとなってしまっていることが、一般社会の位置づけからみると、特殊で、異常で、悲惨な状況であることがわかり、筋ジス≠ェ死≠フ病であり、狭い療養所という空間的に限られた場で、時間的に極く限られた生≠送らねばならないことを知りました。
 写真集ではカメラを通しての客観的な眼が、私達の日常を暗い陰を帯びたものとして映し出していました。寝返りさえ打てずに横たわる最重度患者の眼は、死≠ノ観念したようでいて、怨念のこもった視線を向けていました。やせ衰え骨と皮ばかりになった身体は、飢餓状態に置かれ路端に倒れ伏したアジア・アフリカ諸国の子ども達を連想させ、生命の宿りさえ感じさせない点がありました。また、退院の日を夢見て身体的苦痛に耐え貫き機能訓練に励む子ども達の姿は、最重度患者を頭に描くためか、そのあどけなさがかえって残酷さを強調しています。いくら機能訓練をしたところで進行を若干遅らせることが精一杯なのですから。そして、そこに映しだされた姿はまぎれもない私自身の姿でもあるのです。最後の解説には筋ジス≠フ詳しい説明と、筋ジス患者は収容されるだけで死≠待つだけの状態になり、能率的な研究体制も打ち出せない行政の不備が指摘されていました。」(高野[19831125:170-171])

 写真集には研究費の具体的な記述はないから、高野がそのことを知ったのは、この写真集ではないだろう。ただ写真集の終わりに置かれる近藤文雄院長(幾度もその文章を紹介してきた)による解説には「一五才から二〇才の間に大抵死んでしまいます」(近藤[1971:105])と書いてある。写真には、「一五で死亡」「二一才…」「一四才…」「一八才…」といったキャプションが付されている。
 写真を見てもそう悲惨は感じない人もいるはずだ。そして映画を撮った柳沢はむしろ明るいとも述べていた。だが一つ、本人たちにとっては違うだろう。それは自らの未来を予示するものになる。補装具ができたのが四年前だと記され、それらを付けた子どもたち、それを付けて訓練する子どもたちの写真もある。「非同性筋萎縮の防止」のためであり、病気を治すものではないという近藤の解説が入っている。がんばっている表情はあるが、極端な苦行のようには見えない。小さい子たちが足の補装具を付けヘルメットをかぶっているのは可愛くもある。ただ当人たちにとっては、それは虚しい行ないだ。画像・映像は、衰弱と死を現実に示すものとなる。
 写真集がなくとも、療養所にいる期間が長くなれば、そこで人は亡くなっていくことを知ることになる。ただ当初は現実の未来としてはなかなか受け止められない。高野にとってはこの写真集だったという。山田の小説が七八年、高野の八三年の文章はそれを読んで書かれたわけでないが、同じ筋になっている。「結局私に筋ジス≠決定的に教えたのは、中学一年生のときに出版された、西多賀病院の写真集」の前は次のようだ。

 「私が最初に筋ジス≠フ記述を見たのは、小学四年生のときであったと思います。それは、ある少女雑誌の中でのマンガでした。内容は進行性筋ジストロフィー症に冒された少女が、徐々に進行して行く病気との闘いの中で葛藤し、ついには死んでしまう過程を克明に描いたもので、筋ジスに関する小さな解説が付いていました。これを読んだとき私は、全く信じられずに一笑に付してしまいましたが、後になって正しいことがわかって行きました。私の内面では強烈な否認が起こっていたのです。根拠は、死んたものはいない(当時死んだ人を知らなかった)、主人公が女性である、自分は足が不自由なたけで健康であるなどの点でした。」(高野[1983:170])

 山田の小説にあったのと同じ少女マンガが念頭に置かれているのかもしれない。そのマンガを読んで筋ジストロフィーを知ったが、その時はそのままに信じる気にはならななかった、だが、写真集で確かなことを知ったというのである。二人に一つずつ、同じ経過があったということだろう。
 病棟において死は知らされず、病院長他が文章を書いたい写真集では知らされるというのは、そうした出版物が子ども・入所者用のものと考えられていなかったとしても、いささか不思議ではある。ただ、病院長他も病気の悲惨を訴え、研究の推進や処遇の改善を訴える。それは山田や高野や福嶋といった入所者たちやその自治会も違わない。そして、知ることは絶望をもたらすものでもあるが、知ってしまったものを知らない状態には戻せない。高野や福嶋はやがて仲間の死に立ち会わせてくれと病院に願い出ることにもなる。
 そして『ぼくのなかの夜と朝』がまったく気にいらず、「だからこそ納得のいく物を作りたい、私たちの思いを本当に写し出せないだろうか、とその頃から考えていた」山田は、自分たちの映画として『車椅子の青春』を製作する。「出演者には、病気のタイプも、生き方も異なり、住む所も互いに遠く離れている筋ジスの仲間を選んだ。同じ筋ジスの次兄・秀人が長い旅を重ねながら訪問し、生活の様子や考え方などを取材し語り合、つというドキュメント形式で映画は進められた」(山田[199004:77-80])。できあがると、七七年二月一九〜二七日、まず仙台で上映会が行なわれる。千葉の高野たちのその年の終わりに上映会を行なう。

★05 別の本では寛仁親王の質問に答えて次のように話している。
 「一番最初に僕が手がけたのは、全国の患者から集めた遺稿集とか、詩集の『車椅子の青春』なんだけれども、それは単純明快、僕の仲間の声を詩集にしようということです。次が映画の『車椅子の青春』で、映画をつくって筋ジスを理解してもらいたいということが第一で、それと患者自身で映画をつくりたいという思いがあった。
 なぜかというと、僕らはいつも撮られる側で、自分たちで映画を作る何年か前に西多賀病院にいた時に『ほくの中の夜と朝』という、僕らを撮りにきた映画があった。被写体になる患者も一緒になってつくろうという映画だったんだけれども、結局は監督やらカメラマンが自分たちの思いだけで動かすわけです。それで僕が怒って喧嘩になったことがある。そんなこともあって、映画というのは自分でつくらなければいけないなという思いと、実はそのとき僕が大好きでたまらなかった保母さんがカメラマンと結婚していなくなってしまったことがあるんです。「いつかは見返してやるぞ。こついよりいいカメラマンを使って、いい映画を絶対つくるぞ」という思いも半分あった(笑)。現に『車椅子の青春』は『キネマ旬報』に載ったり、一九七八年の赤十字映画祭で長編部門最優秀賞をもらったりしたから、ほら見たことかという気持ちも内心ありました。とはいうものの、根底はあくまで筋ジスの実態を知らしめていくんだということです。それが映画です。」(山田他[1995:67-68] )
★06 七五年版の第一刷では「忍耐力が弱い」となっているが誤植。
★07 この小説は七九年に映画化された。主演したのは山田富也の兄の山田秀人(cf.山田秀人[1983])。

◆立岩真也 20170701 「福嶋あき江――生の現代のために・23 連載135」,『現代思想』

□いくらかを可能にしたもの
 福嶋は(そして他の人たちも)施設の姿勢、個々の職員の対応によってだいぶ違ってくることを述べている。「病棟の雰囲気は婦長の姿勢によって決まります。私や高野君のいる七病棟の婦長さんは自由な考え方の持ち主でした。」(福嶋[1987:80])。他方に理解のない人たちが(たくさん)いたことも記されている。
 そして外から人が入ってくる。それは施設の立地にもよるだろう。近くに人がいないところでは人はそうは来ない。また人を受け入れる、すくなくと拒否しないことには施設側(の人)の考え方に左右される部分もあっただろう。
 七三年頃から「ボランティアのひとたちが施設訪問にくるようになって、施設のなかに新鮮な空気が流れはじめていたのね。それは結局は外からの力だったわけだけど、施設以外にも生きる場はあると思いはじめていた」(福嶋[198401:192])。
 どんな人が来たか。仙台・西多賀病院の山田富也の回顧。殿下は後に山田たちの活動に協力するようになる寛仁親王。

 ▼「その頃〔山田一七歳、六九年の後?〕、僕なんかのところに集まってきた学生がいて、それが運動の最初のきっかけだった。その頃は六〇年安保以後の学生運動の残党みたいな連中が、弱者というのは何なんだということを考えた時に、結局障害者問題じゃないかというようなことになって、障害者問題に走った連中が来ていたわけです。[…]そのとき僕のところに来ていたのは革マルだった。学生運動の遺恨みたいなものがずっと尾を引いていて、「ありのまま舎の山田というのはもともと革マルだったんだ。それが何で殿下なんかと一緒になってるんだ。おまえは何なんだ」ということがあったんですよ。「おまえは結局、風見鶏じやないか」というようなレッテルを貼られたわけです。」(山田他[1995:71])▲

 ここに出てくる党派が障害者絡みの問題にそう積極的であったとはその頃のことを知る人たちにおいて思われていないはずだが、仙台ではそんなこともあったらしい。千葉も、埼玉も、そして東京にも大学はあって、わずかな数ではあるが大学生がやって来た。そのなかには大学で「障害者問題」に関わった人たちもいた。他方に、もっと「普通の」人たちがおり、そしてとくに生死のことに思いが至る筋ジストロフィーの場合には「自分の存在の確認」といったことを考えてしまう人が関わることもある。前々回紹介した、この後福嶋の渡米に付いていくことになる(そして双方が辛い思いをする)武田恵津子もそんな人だった。

◆立岩真也 20170801 「福嶋あき江/虹の会・2――生の現代のために・24」,『現代思想』 連載136

 「そして国立療養所から出てきた筋ジストロフィーの人たちによるケア付住宅として、八七年四月に「ありのまま舎」が開設される。八王子、相模原、札幌も開設にずいぶんの労力と時間が費やされたが、それでも施設は公営だった。それに対してありのまま舎は、「福祉ホーム」という制度は使いつつ、民間の、莫大な労力と知恵と時間を使って作られた。それが国立療養所体制に対するこの時点での代案とされたということにもなる。しかし、それは、費やされたものの大きさのわりには…、と思うところがある。そしてそれは、ありまのまま舎に力を注いだ山田富也自身が言うことでもある。」


◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後』,青土社

立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙 立岩真也『病者障害者の戦後――生政治史点描』表紙


UP:20030630 REV: 20100923, 20151107, 1215, 20160106, 0118, 20180329, 20200912
ありのまま舎  ◇筋ジストロフィー  ◇こくりょう(旧国立療養所)を&から動かす  ◇病者障害者運動史研究  ◇障害者(の運動)史のための資料・人  ◇WHO  ◇生を辿り途を探す――身体×社会アーカイブの構築 
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