『私は女』
岸田 美智子・金 満里 編 19840130 長征社,274p.
■岸田 美智子・金 満里 編 19840130 『私は女』,長征社,274p. ASIN: B000J73PZG 1500 [amazon]/[kinokuniya] ※ d d00s
◆金 満里・岸田 美智子 編 19950405 『新版 私は女』,長征社,356p.
■目次
永峰百合子 胸にあふれる思い 7
鈴木利子 Are You Ready? 21
青木まこと まことちゃん一直線 47
小島雪子 無明彷徨 69
宮本冽子 大好きなひとたち、忘れられない世界 81
武田晃子 どないかなるやろ 99
花田千秋 娘と私と妹と 108
米村奈保子 青春グラフィティ 117
河合まり子 あこがれ 124
加藤和子 施設のなかで 132
K・M さまよえる子羊 138
曽我純子 “キカン子”が行く 150
横須賀ケイ 結婚大誤算 157
原田祥子 割りこみごめん 166
福嶋あき江 時間の重さ 180
小高令子 産科病棟にて 194
紅章子 いまひとたびの 206
森野和子 燃える魂 218
吉田朱美 希望、そして 232
金満里 銀河叛乱・序説 242
岸田美智子 子宮とのつきあい あとがきに代えて 261
■
◆福嶋あき江 時間の重さ 180
▼「今年〔1982年〕の二月からはじめた私たちの「共同ハウス」の住人は、障害者は私とKさん(交通事故から頚椎損傷)、健常者は、朝九時から夕方六時まで私丈ちふたりの介助にあたるFさん、それに、日常的な介助はしないけど、いざというときの助つ人であり、精神的な支えでもあるTさんの合計四人てす。
Fさんには専従介助料として一力月十万円を払っています。私とKさんが四万円ずつ、これは生活保護障害者加算の他人介護料をあてています。あとの二万円は、私も会員のひとりとして参加している「虹の会」という、重度障害者の地域社会での生活を保障して、共に生きる場をつくっていこうということではじめられたグループがあって、年二回、映画会やバザーを開いて収益△180 をプールしたなかから出しています。といっても、ついこのあいだ、第一回めの映画会をやっただけですけど、ともかく、そういう計画で……。
共同生活というのは先例があるんです。私の施設(国立病院筋ジス病棟)時代の仲間が、男性だけで千葉県ですでにはじめてましたし、あと、静岡に「ひまわり寮」というのがあるんですね。このあたりを参考にしました。ゆくゆくは宿泊設備もふくめて、アメリカのCIL(自立生活センター)的な機能もはたしたいという遠大な計画がありまして……。でも、直接の目的はやはり介助の確保、とくに平日の昼の介助を確保するということね。
二十四時間の介助を必要とする障害者が地域社会で生活していく場合に、いままでは、それぞれが自分のちからで介助者を募ってやってきたでしょう。介助者を募っていくこと自体が運動で、それはそれでとっても大事なことだし、そのひとたちのおかげで障害者が地域で暮らすことがある程度定着したのは事実なんだけれども、誰にでもできることじゃないと思うの。健常者を組織できる強いひとに限られてくるんじゃないかしら。
私自身、運動のできるタイプじゃないし、できれば英語の塾をひらいて、子どもたちを通して障害者の状況を伝えていきたいと思ったものですから、平日の昼の介助探しという、いちばん大変なことを、専従介助を頼むということできりぬけたわけです。塾はまだ実現してませんが、昼側、自分の好きなことがやれるという点で、プラスになっています。そのへんは価値観の間題と△181 して、わりきっていかないと……。
で、ひとりではとても介助料を払いきれませんから、新聞などを通してルームメイトを呼びかりたら、応えてくれたのがKさんひとりだったの。軽度のひとなら、共同生活なんて面倒なだけかもしれないけど、介助の必要な重度のひとには良い方法じゃないかと思ってるし、施設や家を出たいと思ってる重度のひとは沢山いるはずなんですけど。呼ぴかけかたが足りなかったのかなあって、反省してます。
生活保護の申請に行ったら、独立家計の共同生活は前例がないといわれて、少しもめました。ひとつは私自身の家族からの世帯分雅で、これはもう、父は亡くなっているし、母には私を扶養する経済力もないから、わりに簡単にできにんですけど、共同生活≠ニいうのは、行政の方ではのみこみにくかったみたいですね。あのひとたちはいつも扶養義務≠ニいうのを軸にしてしか障害者を考えられないから。それでも、少しもめた程度で生活保護は出ましたけど、県営住宅ほいまだにダメです。他人同士の入居は絶対に認めないんですね。
ホームへルパーは私とKさんのふたりぶん、一時間三十分ずつ週三回で、ほとんど入浴介助です。
夜の介助は夕食の仕度と後片づけ、それに私の夜問の寝返り介助が主なところで、地元の学生さんを中心に三十から三十五人ほど。それと、週一回は専従介助者の休日にしていますので、そ△182 の日の朝九時から夕方六時までは主婦のかたたちが協力してくださってます。専従介助者以外はボランテイアで来てもらってますけど、将来的には有料≠ニいうことを考えていかないと、限界がくるんじゃないかって気がします。
私も自分で痛感するんだけど、健常者と対等な関係をもつのは容易じゃない。八つのときから十五年間施設で暮らしてきたから、馴れてないんですよね。そういうのって、私ひとりじゃないと思う。でも、いまみたいに、介助を障害者運動のなかにとりこんで、健常者をまきこんでいける強い人しか地域社会で暮らせない状況が固定してしまうと、とくに施設で暮らしているひとは恐れをなして、ますます出にくくなってしまうんじゃないかと思うの。私もふくめて、誰もが地域で生活していけるためには、有料介助≠ニいう考え方はとっても魅力的なのね。▲
昨年(一九八一年)の夏から昨年秋まで、一年三力月アメリカに行って、CILの活動をみました。私が行ったのはパークレーとポストンとハワイの三力所ですけど、ボストンがいち一ん長くて、六力月ほど厄介になりました。CILも地域によってやり方のちがいは多少あるんだと思いますけど――たとえば私のみた限りでは、ポストンでは施設と在宅のあいだに、六力月から二年までのトレーニング期間があって、そのための中間施設を用意してましたけど、バークレーには、それはなかった――共通していたのは、障害者自身がCILを直接運営してサービス提供の業務をしてたこと、サービスが有料だったということ。障害者はクライアント≠ニ呼ぱ△183 れてました。クライアント≠フ日本語でのニュアンスはちよっと思いっかないけど、介助を買う消費者≠ニいうことは聞きましたし、コンシューマーズ・ライト(消費者の権利)≠ニいうことは、盛んにいってましたね。気にいらなかったらクビにしてもいいの。私にはちよっとできないことだけど、アメリカと日本では、雇用関係の考え方もちがうでしょう。
ポストンにいたあいだ、週二回、ふたりの介助者を頼みました。ひとりは学生で、約束の時間に遅れたり、「今日は行けません」なんて、簡単にいってくるひとだったのね。たぷんアメリカの障害者だっにら、即座にクピにしてたと思うけど、私はできなかったですねえ。だから、よりい甘くみられたのかな。
CILに頼んで介助者を派遣してもらう揚合もありますけど、たいていは障害者本人が、例えば友人知人などのなかから介助者を探して「私には週何日、何時間の介助が必要」ということで介助料を申請すると、CILからはカウンセラーが出ねいて、その申請が妥当かどうか調査するわけ。で、必要な介助の時間数が決定されて、CILから行政府に介助料が申請される。介助料ほ最低賃金法に従って一時間四ドルニ十五セント(約干六十円)国と州が折半してCILに下りてきて、CIL→障害者→介助者というふうに支払われるます。CILのないノ毛くま下りるんです。ただ、州によっては負担しないところもあって、その場合どうなるか、ちょっとわかりませんけど「まだまだきびしい伏況にある」といってましたね。ただ、介助者の市場、と△184 いうか、介助者を探すこと自体はそんなにむつかしくなかったみたい。ちょうどアメリカが不景気だったこともあって、失業者が多かったし、主婦のパート労働の希望者もいたり、圧倒的に多いのがやっばり学生のアルバイトで、心理学や社会学を専攻する学生が、勉強と実益をかねてやってるのね。
女性の障害者で男性の介助者を雇ってるひとがいたの。身体の大きいひとだったから、女性の介助者では無理だったのかもしれないけど、私の目の前で「汗になったから」って、介助者とふたりでお風呂場入って、ドアを閉めちゃって……あれにはびっくりしました。
介助が有料で、即座にクビにできる雇用関係だといっても、介助者を探す段階で身近かなところからはじめるから、必らずしもギスギスしてるわけじゃないし、接している限り障害者に対する理解がうまれてくるのは当然でしょう。誰もが平等に介助が保障されるという点で、有料介助は希望のもてるやりかたでした。
日本とアメリカでは国力の差があるから、今すぐ有料介助を実現させるのはむつかしいかもしれないけれど、でも、いま日本では施設にいる障害者ひとりあたり、施設によって多少の差はあても、だいにい年間四百万円ぐらいの予算があって、その八割がたが職員の人件費に消えていくことを思えば、まったく非現実的な試みとはいえないと思うんだけど。△185
U
▼アメリカゆきは、ICYE(国際キリスト教青年交換連盟)の海外研研修制度のおかげです。国際障害者年をきっかけに、障害者にも門戸を開くと聞いて、すぐ応募しました。ひとつは将来を考えて、英語力を身につけたいと思ったのと、もうひとつは、施設を出て自立するということが、私の日程にはいっていたから、そのためにもCIL(自立生活センター)をこの目でみたいと思ったのね。もちろん、あとの方が主な理由です。資格審査といっても、英語力よりも、何をしに行きたいかという、意思力の方が重視されるから、あんまり心配してなかった。
ところがICYEの事務局の万では、障害者といっても、もっと軽度のひとを考えていたらしくて、暴初は「困る」っていわれたんですよね。それで「どういう条件ならいいのか」と、逆にこちらから訊ねて、いろいろとやりとりはあったんですけど、結局、私の責任で介助者をつけること、介助者の費用は自己負担ということで、OKが出ました。
費用はぜんぷで最低でも三百万円必要だというのに、私の貯金は五十万円もなかったの。介助者の費用どころか、私ひとりのICYEの正規の自己負担分(百二十万月)にも足りないぐらい。それでも「おかねは何とかなる」って、どうしてかしら、自分でもよくわんないんだけど、「なんとかなる」って思っちった。ええ、結局はカンパです。私がハム(アマチュア無線)をしてたので、その先生の呼びかけでできた歩む会≠ェ母体となってカンバを集めてくれました。△186
姉もカになってくれました。私とは四つちがいで、やはり筋ジスでしたので、病棟はちがっていましたが、同じ病院に入ってました。姉は、ふだんから自分を殺しているようなところがあつて、やっぱり長女ということで、好き勝手はできないと思ってたんじゃないかしら。そのぶん私が動いてくれれば、ということで、いつも見守って、ひそかに応援してくれたし、私もいざとなると姉が頼りで、アメリカゆきもまっさきに姉に相談したんです。すぐ賛成してくれて「いつでも貯金をつかってくれていい」といってくれました。
沢山のひとのおかげで行くことができたんですけど、他人のおかねって、重いですね。「障害者にも社会参加の道はあるはず。アメリカから帰ったら自立します。そのためにもぜひCILを見たいんです」ということで呼びかけて、その趣旨に賛同してくださったひとたちのおかねをつかって一年間アメリカで暮らしたのに、期待に応えられなかったらどうしよう、なんて思っちゃったら、帰るのがおそろしかった。
アメリカに行くこと自体は、べつにこわいとは思わなかったですね。日本の国内もろくに知らないのに。でも、知らないからかえってよかったのかな。それよりも、何かの拍子に行けなくなくるんじゃないかという不安の方が強くて、成田を発つまで信じられなかった。▲
介助は、施設で看護婦をしていたNさんが、退職してひきうけてくれました。
アメリカに着いたばかりの頃は、「あれも、これも」と、自分のことばかり考えて夢中でした。△187
それにつきあってくれたNさんの体力というのは、一年間私の介助をやりきって、カゼひとつひかなかったんですから、すごいと思います。おまけに、移動はレンタカーだったんですけど、左ハンドルの左側対面で、日本とは逆でしょう。馴れるまでの精神的疲労は大変だったと思うんです。
小さいケンカはしよっちゅうでした。車でどこかに行くときは、Nさんが運転して、私は地図を読む役目なの。で、高速道路の出口の指示が運れて、次の出口までえんえんと行かなきゃいけなくなったときとか、何かモノがなくなったときに、お互いのせいにしあったりとか。ふたりだから仲直りもなにもなくて、なんとなくやりすこだしたけど。でも、決定的なケンカはできなかったですね。Nさんの方も当然手ごころは加えるし、私の方も、ケンカしたら逃げられるんじゃないいかと思ってしまって。よく考えたらNさんだって、簡単に逃げられるわけがないのに、ケンカ→逃げられる→こわいって思ってしまうんですよね。いつも力関係というのがぬぐいきれなくて。健常者を信用するのって、むつかしい。「私が悪かった」でコトをすませてしまったところがあって、やっぱり逃げ≠ナすよね。
障害者の家を訪間したり、何かの巣まりに出たりすると「日本から障害者が来た」ということで、どうしても私だけが注目されて、Nさんは無視されてしまう。Nさんの協力があったから私はその場にいられるわけだから、その意味ではNさんこそ報われていい立場なのに、どうかする△188 とNさんには言葉もかけられないで終わってしまう時もあるんですよね。そういうのは私も居心地が悪いし、平気じゃいられないから、「いいのよ、どうせあなたが主役なんだから」っていってくれるNさんのことばも、その通りには受けとれなくなる。共に生きる≠ニいうのは、ひびきのいいキャッチフレーズではあっても、そうやすやすとはいかないですよね。
アメリカの旅でいちぱんよかったのは、CILをぬかせば、もう、何といってもディズ二ーランド! 入るときに二十ドル払えぱ、なかの乗りものはぜんぶ自由なの。一日じゅう遊んでてもあきない。二回も行っちやった。
いまでも、ちよっと疲れると「アメリカで暮らしたいな」って思っちゃう。私にはこれから≠チていうことばっかりだけど、むこうでは制度もできちやってるから。そういうときに、他人のおかねの重さをヒシヒシとかんじて「あ、いけない」って……。
V
私の場合は、施設を出ることとアメリカに行くことがワンセットにあったもんで、聞かされた母は、かなり混乱して、「学生ボランティアなんかのそそのかしにのって」とか「親の苦労も知らないで、勝手なことをする」とか、いわれました。親の苦労といっても、私は八つの歳から施設に入れられたんだから、どちらかというと国に育てられたんだし、健常者のそそのかし≠ネ△189 んていうのは問題外でしょう。母の反対は、理屈というより、ぴっくりして、わけがわかんなくなっちやったというかんじで、だから、気持が静まれば、あとは「自分の好きなようになさい」ということになりました。
それがね、母の出してきた最終的な許可条件というのが、「男と一緒に住むことだけはやめてくれ、それさえ約束してくれれば、どこで何をしてもいい」ということだったの。それを聞かされたときに、母がなぜあんなに混乱したのか、わかったような気がしたけど、私には、まるで見当ちがいのことだったのね。
「私の場合は、施設を出ることとアメリカに行くことがワンセットにあったもんで、聞かされた母は、かなり混乱して、「学生ボランテイアなんかのそそのかしにのって」とか「親の苦労も知らないで、勝手なことをする」とか、いわれました。親の苦労といっても、私はハつの歳から施設に入れられたんだから、どちらかというと国に育てられたんだし、。健常者のそそのかし。な△んていうのは問題外でしょう。母の反対は、理屈というょり、ぴっくりして、わけがわかんなくなっちやったというかんじで、だから、気持が静まれば、あとは「自分の好きなようになさい」といううことになりました。
それがね、母の出してきた最終的な許可条件というのが、「男と一緒に住むことだけはやめてくれ、それさえ約束してくれれば、どこで何をしてもいい」ということだったの。それを聞かされたときに、母がなぜあんなに混乱したのか、わかったような気がしたけど、私には、まるで見当ちがいのことだったのね。
恋愛というのは、どうしてもピンとこない。こわいから考えないようにしてるのかな。いくらつっぱってみても、私が筋ジスであることにかわりはないわけだし、それをどこまでわかってもらえるのか、わかってくれるひとって、いないんじゃないかという不信があるのかな。
男のひとに「好きだ」といわれたことは、若干、一回だけあるの。そのときも信じきれなくて「信じられない」といったら、ものすごく怒られた。「信じられないのか」っていわれて、「信じられない」と、いい切って別れてしまった。
「今年はこれをしよう」という目標はたてられる。姉が二十九歳まで生きたから――姉は私がアメリカに行っているあいだに亡くなりました――たぶん、私もそれまでは生きられるだろうというところまでは計算ができて、でも、その先の自分はちょっと想像がつかない。先がみえない△190 に結婚するのは相手に悪い。結婚できないのに恋愛してもしようがない……でも、それもホンネじゃないみたい。
といって、とりたてて自分を不幸だとも思ってないのね。筋ジスだったから経験できたことだって、いっぱいあるんだし。そういうことをぜんぷひっくるめて「筋ジスであるひとりの人間」としての私をわかってくれるひとだったらいいんだけど。でね「じゃあ、どうわかってほしいか」といわれて「こうこうです」と、いえるぐらいなら、とっくに解決がついているはずだし、逆にゴチャゴチャ考えている間に゛やっちゃえ」っていわれても、そのゴチャゴチャこそ、私が切りすてられないものだし、切りすてたくないもので、それもふくめてわかってほしい……。
だいたい私は男のひとが好きじゃない……これもホンネかな、どうかな。むかしから女のひとの方が好きだったし、女のひとのなかにいる方が気がらくなのね。
「なぜ施設を出たかったか」と訊かれても……理由はいくらでもあるけれど、理由をあげていけばいくほど、なんか私の思いとズレていくような気がする。「あそこでは死にたくなかった」って、たぶん、それだけなんだけど。
▼施設を出ることを、漠然と考えはじめたのは、昭和五十一年ごろだと思う。私は養護学校の高等部を出て、作業療法をしてたんだけど、筋ジスというのは治療方法がないでしょう。だから、療法といっても、毎日毎日をつぷしていくだけのことだったし、そのあいだにも、百人を越す仲△191 間たちが亡くなっていって、精神的にも出口がないという状態だったの。で、何かしなくちゃと思って英語の勉強をはじめたときに、誰に聞いたのか「聖書を英語で読むと上達が早い」ということで、読んでいるうちにぶつかったのだが「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである(コリント人への第二の手紙・四章十八節)」というようなことぱだったのね。いわれてみれば私たち障害者は、いつもできる∞できない≠ノしばられるけれど、そんなことより、何かをしよう≠ニ思ってする&が大事なんだと、こんなこと、誰でも、いろんな場面でわかっていくと思うんだけれど、私の場合は聖書から学んだんですね。
まあ、その前から、昭和四十八年ごろから、ボランティアのひとたちが施設訪問にくるようになって、施設のなかに新鮮な空気が流れはじめていたのね。それは結局は外からの力だったわけだけど、施設以外にも生きる場はあると思いはじめていたから、聖書のことばもすっと入ってこれたんでしょうね。▲
健常者といっしょに暮らしてみて、「施設の十五年間は何だったんだ」って、あらためて考えさせられることはしよっちゅうです。十代から二十代にかけて、人生の大事なときに、地域や家庭や学校の日常のなかで、自然に出あって、経験として積み重ねられたはずのものが、私にはなかったということ。だって、今でも、自分が何を奪われたのかさえ、そのときどき事態にぶつ△192 かってみて、はじめて気づいていくんですもの。
私に、いろんな意昧で、経験が欠けていることは認めます。でも、経験を与えてくれなかった大人たちにだって、責任はあると思うの。十五年間、私が施設で受けてきたのは、筋ジスを自分の運命としてあきらめさせるだけの教育で、自分で決断を下すことはもちろん、自分の思いを外に出したり、それ以前に、自分の思いを持つことも、しまいにはなくさせてしまう。さっき、恋愛に関して、とりとめのないことしかいえなかったんだけど、あのとりめのなさだって、私の受けた教育と全く無関係じゃないと思うの。
年月がとりもどせないからなおのこと、その年月のなかで私の受けてきたことを、語り伝えたいし、いまもかつての私と同じような目にあっているひとたちに呼ぴかけたいと思っています。」(福嶋[19840130:180-193])
■紹介・言及
◆立岩 真也 2003/04/25 「人生半ばの女性の本――「障害関係」・3」(医療と社会ブックガイド・26),『看護教育』44-04(2003-04):(医学書院)
◆立岩 真也 2018 『病者障害者の戦後――生政治史点描』,青土社