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福嶋 あき江

ふくしま・あきえ

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・1957〜1987
・埼玉県浦和市,*進行性筋ジストロフィー 25歳 (83年) 群馬県前橋市生 8歳の時千葉県の国立療養所下志津病院(73頃からボランティアが施設に 76頃から施設を出ることを考え出す) 81夏-82秋バークレー・ボストン・ハワイのCIL(ICYE=国際キリスト教青年交換連盟の海外研修制度)。帰国後「共同ハウス」(障害者2+2浦和市)専従介助者1人に2人の他人介護料4万ずつ+「虹の会」から2万=10万払い9〜18時ヘルパーは1.5時間ずつ週3回(2人分)ほとんど入浴介助。夜 (夕食の支度, 後片づけ, 寝返り介助) は地元の学生中心に30〜35人ほどのボランティア, 週1日の専従介助者の休日は主婦 87死去・『私は女』:180-193『ありのまま』15(83.3):32-33『二十歳 もっと生きたい』

◆佐藤 一成 1996 「あき江さんが死んだ」→※

◆佐藤 一成 20160124 「こっからまた15年がたった。」,『スーパー猛毒ちんどんコンポーザーさとうの日記』 

虹の会

◆立岩 真也 2017/07/01 「福嶋あき江――生の現代のために・23 連載・135」,『現代思想』45-(2017-7):-

◆立岩 真也 2017/08/01 「福嶋あき江・2――生の現代のために・24 連載・136」,『現代思想』45-(2017-8):-


◆福嶋 あき江 198303 「地域での生活を始めて」,『ありのまま』15→19831125 山田[1983:146-151]
 ※全文再録

◆福嶋 あき江 19840130 「時間の重さ」,岸田・金編[1984:180-193]
*岸田 美智子・金 満里 編 1984 『私は女』,長征社,274p. ※
 ※全文再録

◆福嶋 あき江 19841215 「共同生活ハウスでの実践をとおして」,仲村・板山編[1984:268-278]*
*仲村 優一・板山 賢治 編 19841215 『自立生活への道』,全国社会福祉協議会,317p. ASIN: B000J6VPS6 [amazon] ※
 ※全文再録

◆福嶋 あき江 19871113 『二十歳もっと生きたい』(柳原和子編),草思社,222p. ISBN-10: 4794202989 ISBN-13: 978-4794202987 1365 [amazon] ※ md.,

◆柳原 和子 1987 「弔辞というエビローグー」,福嶋[1987:187-210]

◆伊藤 璋嘉 1987 「あとがき」,福嶋[1987:211-222]


1957★★ 群馬県前橋市生
196404 小学校入学 ([28])
1965 小学校2年・7歳
196504 ケースワーカーの訪問
19660517 姉が国立療養所下志津病院に入院
1965 小学校3年・8歳
19660608 入院(小学3年)
1967 小学校4年・9歳
1968 小学校5年・10歳・
1969 小学6年・11歳
1970 中学1年・12歳
(仙台の西多賀病院に自治会「西友会」できる)
1971 中学2年・13歳
197110 父死去(福嶋[1987:62-72])
1972 中学3年・14歳 春 自力で車椅子を動かせなくる、医師の判断により、べッドスクールに
197303 中等部卒業
197304 養護学校の高等部新設(福嶋は入れない)
(1973頃からボランティアが施設に
1973 15歳
197304 ある高等学校の通信教育生になる
(19730823 田中総理大臣陳情(研究所設立請願運動)
1973? 病棟高等部設立陳情 2学期終わり署名運動始まる
197403 病棟高等部新設([73])
1974 高校1年・16歳
1975 高校2年・17歳
1976 高校3年・18歳
1976 頃から施設を出ることを考え出す
197703 高等部卒業
1977 慶応大学の通信教育を受け、学生ボランティアの介助、協力で下宿をして、3週間の夏季スクーリングに参加
1977 19歳
1978 20歳
1979 21歳
1980 22歳
1980 ICYE(国際キリスト教青年交換連盟)のプログラムに応募 
1980夏 静岡の豊田障害者生活センターに行く
198101試験受ける 合格(111)
1981 23歳
1981夏-82秋バークレー・ボストン・ハワイのCIL(ICYE=国際キリスト教青年交換連盟の海外研修制度)
19810729 出発(112)
19820831 姉すみ江死去()
1982 24歳
1983 25歳
198302 「共同生活ハウス」開始
198303 「地域での生活を始めて」,『ありのまま』15→19831125 山田[1983:146-151]
19831001 3DKのアパート1階で2人で暮らすことに
1984 26歳
19840130 「時間の重さ」,岸田・金編[1984:180-193]
19841215 「共同生活ハウスでの実践をとおして」,仲村・板山編[1984:268-278]
1985 27歳
1986 28歳
19870720 逝去
19871113 『二十歳 もっと生きたい』刊行
19880827 『二十歳・もっと生きたい』日本テレビで放映。出演は沢口靖子、阿部寛、他


■■

1957★★ 群馬県前橋市生
196404 小学校入学 ([28])
196404 小学校入学 ([28])
19660517 姉が国立療養所下志津病院に入院
19660608 3年生・入院

 「四一年〔1966〕四月、わが家に児童相談所からケースワーカーがきました。学校からの帰り道に、一人の見知らぬ人が立っていました。
 「福嶋清作さんのお宅はどちらですか?」
 私の歩きかたは筋ジス者に特有のひきつれを起こしていました。彼は一目見て、私が誰なのか、わかったと思います。
 姉は中学生になっていました。母がおぶったり、自転車で通学するには身体も成長し、学校までの距離も遠くなりすぎました。自転車と一口に言っても、全身性の筋ジストロフィーの場合、揺れる荷台で自分の身体をささえたり、サドルにつかまっていられません。小学校までは母が姉を荷台に乗せて、右手で姉の背をささえ、左手でハンドルを操作しながら、自転車を押して、歩いて通学していました。小学校よりもはるかに遠い中学校まで、同じように自転車で通ったら、何時間かかるかわかりません。姉は、就学猶予の措置を受け、家で自習をしていました。
 一日中、一人で部屋に残されていた姉を不欄に思ったのでしょうか。両親が相談に行ったのか、近所の人がたまりかねて通報したのか、正確ないきさつはわかりませんが、ケースワーカーが家を訪ねてきたのです。△038
 その数日後、姉は、千葉県四街道市にある国立下志津病院に入院しました。呼吸器の弱かった姉は、それまでにも何度も入、退院を繰り返してはいました。しかし、そのときの入院は、どこかちがっていました。それまでの風邪や、高熱、肺炎などによる入院のように、短い期問ではなさそうなのです。
 「入院すれば、学校だって行けるし、身体がよくなる訓練もしてくれるんだと。姉ちゃん、このままだと、勉強もできねえし、学校にも行けねえでかわいそうだんべ」
 母は、治るとは決して言いません。
 姉は、五月一七日、アッと言う間もなく私たちの前からその姿を消してしまいました。
 幼い頃、神奈川に海水浴に行ったのがたった一回の遠出だった私には、千葉県ははてしな<遠い異国のように感じられます。
 「おまえも入院しないか?」
 病院から帰ってきた母の言葉は私をうちのめしました。
 姉だけに特別の出来事と思いこんでいた入院は、私自身にもふりかかってきたのです。
 「今ならぺッドがあいているそうだ」
 「病院には同じ病気の子がたくさんいるし、姉ちゃんだっているから淋しくないがね。学校の先生だって、毎日病棟まで勉強を教えにきてくれるそうだ。今日、行ってみたら看護婦さんもやさしそうな人ばかりだったよ」
 両親にそう告げられてから、私は毎晩のように夢を見ました。△039
 […]
 下志津病院は四街道から約三分、広大な原野にたたずんでいました。病院にたどりついたときには午後の陽ざしに変わっていました。
 下志津病院は、かつて結核療養所だったそうです。戦後の復興とともに、緒核患者が激減したために、その施設を筋ジストロブイーや重度心身障害者、ぜんそくなど慢性疾患に苦しむ子どもたちが使うことが法律で決められたばかりのときでした。
 板張りの渡り廊下を歩くとミシミシときしみます。それまで通った群馬大学付属病院や、前橋の中央病院のほうがずっと明るく、近代的でした。木造の古い病棟の印象は最初から重苦しいものだったWです。私は何か裏切られたような感じに襲われ、憂鬱になってしまいました。
 そんな中にあって筋ジス病棟だけは、新築間もない鉄筋二階建て病棟でした。階段を上がっていくと、上がりロにもっとも近い病室のガラス窓に姉の懐かしい笑顔が見えました。
 […]
 下志津病院は、仙台にある西多賀病院とともに、全国に先がけて進行性筋萎縮症者療養等給付事業として、国が医療費の助成を始めた病院です。それまでは、筋ジスの子どもたちが入院できる病院はありませんでした。収容施設の指定を受けると同時に、それまで家に閉じこもって、学校にも行けなかった子どもたち、家族の枠のなかでできる介助によって辛うじて生きながらえてきた子どもたちが、関東各都県、遠く信州、新潟から、先を争うようにして集まってきました。
 病院で働く職員たちも新設の気概にあふれていたのでしょう。やれることがあれぱ何でもやろうと、さまざまなプログラムが試みられていました。△044
 機能訓練の時間には、看護婦さんの力を借りて、足の屈伸、手の屈伸、さまざまな道具を使って硬筋を防ぎ、筋力維持のためによいと思われることはすべてやりました。筋力が落ちてくると、伸縮を可能にしている筋も抵抗力のないほう、楽なほうへとばかり、詰まっていってしまいます。筋ジス者の体形がそれぞれちがうのは、その人の筋の強弱によると考えられています。
 学校は、それまでのぺッドスクールから発展し、古い木造病棟を改造した県立四街道養護学校に決まりました。新設間もない学校です。三年生の教室には、結核やカリエスで入院している子どもたちもたくさんいました。
 それまで病気のために通学できずにいた高野岳志という同じ学年の少年が、私が入院した二日後に入院してきました。彼は万事において積極的な性格で、頭もよく、病棟の子たちともすぐにうちとけ、仲よくしています。授業でも活発に質問をするなど人一倍目立つ子でした。
 私は彼に負けまいと、一生懸命に勉強にうちこみました。彼はその後、何かにつけて私のよきライバル、友となっていきます。」([])

1967(9歳・小学校4年)
1968(10歳・小学校5年)
1969(11歳・小学校6年)
1970(12歳・中学校1年)

 「ある日、風邪をこじらせて、しばらく個室に入っていた子が、いつの間にか退院したというニュースが病棟に流れました。荷物もすでに運び出したあとだと言います。しかし、治ったという話は聞きません。誰も彼の退完の姿を目撃してはいないのです。
 強いて言葉で語る人はいません。でも、彼が亡くなったのだと誰もが知っていました。
 また、私たちが深い衝撃を受けたのは、ある少女雑誌の読みきり小説でした。ストーリーは、まつたく普通の学園生活を送っていた少女が、ある日、スポーツをしている最中に突然倒れるところから始まります。少女はあれよあれよという間に歩けなくなってしまうのです。そして、医師から筋ジストロフィーであり、原因も治療法もわからないため、二〇歳前後までしか生きられない、と宣告され?てしまいます。物語は、その少女の、愛と友情にささえられて生きる闘病の記録でした。少女の苦しみ、家族の悲しみ、それぞれの苦悩と葛藤が感動的に描かれています。
 「オーバーだよな」
 「こんなに早く歩けなくなるわけないよ」
 「二〇歳で死ぬんだってよ」
 「美しすぎるよ」
 皆それぞれの体験に照らし合わせて批評しています。でも、その少女は、家族にみとられて死んで△033 しまったのです。
 その日から、病棟では病気の話はタブーとなりました。一人の姿が消え、また新しい子が入院してきます。誰も死という言葉を口にしません。
 私の病気も日を追って、着実に進行していきました。去年できたことが今年はできません。自分の努力だけでは歯止めをかけられないのです。私の肉体の機能は、たしかに少しずつ失われていきます。
 入院して二年目、小学校四年〔1967年〕の春、バランスを崩してころぶことが多くなりました。五月になると、前のめりにころがり、初めて顎の先を切り、何針も縫いました。
 六月、再びころんで顎をしたたかに打ちました。五月にはころんでも起き上がれたのに、いくら足を突っ張らせ、力をふんばってもころびます。再び出血、同じところを何針も縫いました。
 […]
 冬、ころんで顎を切った日を境に、私は歩くのをやめました。
 「もう、危ないから、歩かなくてもいいわよ」
 看護婦さんに制止されました。意地でも自ら歩くのを放棄したくはありません。歩きたいという意志、父や母祖母をガッカリさせたくないという気持ちが強かったのです。それに加えて、歩けないというのは訓練を怠っているから、という病院内に漂うムードに抗したかったからというのも本音でした。
 当時、筋ジスは訓練によって進行を抑えられると考える医療関件者が多かったのです。もちろん後になって、そんなに単純ではないと否定されましたが。看護婦さんの静止は私をそれらのこだわりから解放してくれたのです。
 私の任務は終わりました。自力でできる努力はやりつくしました。
 しかし、私はもはや二足歩行ができません。人間が動物から進化した大きな飛躍――それこそが二足歩行です。這って移動すると、歩くときのニ、三倍の時間がかかります。
 その日から、水分を控えるようにしました。トイレに行く回数を減らすためです。団体生活の基本は時間の厳守であると、徹底して言われていました。時間に遅れると、悪い子のレッテルを貼られます。△055
 […]昭和四五年〔1970年〕、私は中学生になりました。身体の変形が進みます。歩装具をつけても歩行ができません。起立だけが、、かろうじて人類の残滓でした。四這いの格好も、腰部が異常に陥没、お尻と肩だけで目立ちます。
 昭和四六年、床から車椅子によじ昇れなくなりました。歩装具をつけての起立訓練も自動的に停止。
 秋、風邪などをひいたとき、喉につまった痰を吐き出せません。吸引器を利用しなければ呼吸が困難になります。風邪の治りも悪く、三力月間も侵たり起きたりの状態がつづきました。
 風邪の治った日の朝、四這いもできない自分を自覚したのです。
 […]
 昭和四七年〔1972年〕春、車椅子を自力で動かせなくなりました。医師の判断で、私はべッドスクールへと移行させられました。」

■1973 頃からボランティアが施設に

 「昭和四十八年ごろから、ボランティアのひとたちが施設訪問にくるようになって、施設のなかに新鮮な空気が流れはじめていたのね。それは結局は外からの力だったわけだけど、施設以外にも生きる場はあると思いはじめていたから、聖書のことばもすっと入ってこれたんでしょうね。」(福嶋[19840130:192])

1972(中3)春 自力で車椅子を動かせなくる、医師の判断により、べッドスクールに
197303 中等部卒業
197304 ある高等学校の通信教育生になる
1973?養護学校高等部新設([73])
1973?ある高校の通信教育生に
1973?病棟高等部設立陳情 2学期終わり署名運動始まる
197403 病棟高等部新設

 「中学を終えると、病棟の子どもたちは〈病棟の卒業生〉と呼ばれます。そして、卒業後の進路の選択を迫られます。選択といっても、〈家に帰る〉か〈病棟に残る〉のどちらかしかありません。
 ネフローゼやぜん息の子で退院できる子は普通校を受験し、進学します。また、退院できない子のために、この年、一般疾患の生徒を対象にした養護学校の高等部が新設されました。筋ジスでも、自分で進学できる人に限り入学が許されます。
 しかし、医師の決定により、中学三年生以来、私は病棟学級に移されていました。病院と同じ敷地にある学佼までは、歩いて二、三分しかかかりませんが、体力的に登校不能だというのが、その理由でした。表向きはどうあれ、車椅子を押して通学させる人手がないというのがその内実でしよう。
 父亡き今、私には帰る家はありません。私は一生を病院ですごさなければならないのです。
 病院では、職員に憎まれると、生活のさまざまな場面で支障をきたします。憎まれたくない、そう考えると相手を批判したり揶揄して、トラブルになるような言動をつつしむ習性が、知らず知らずの考えると相手を批判したり郷愉して、トラプルになるような言動をつつしむ習性が、知らず知らずのうちに身についてしまいます。この防衛の姿勢は徐々に強くなり、自分自身の意見を発表するのさえ躊躇するようになってしまうのです。
 意見を言わないと、不満が鬱積します。鬱積はいらだち、愚痴となって表情に出てきます。それが△073 いやなら、自分の意見など持たなければいい――思考の停止です。生き延びるために考えることをやめます。
 私には、病院に対し、高校に進みたいと申し出る勇気はありませんでした。せめて勉強だけはつづけようと、ある高等学校の通信教育生になりました。[…]△074[…]△075
 ある日、同い年の高野岳志君が私の部屋を訪ねてきました。/「勉強、進んでる?」/「全然――」/「偉いよねえ、一人で勉強しているんだからさ。高等部に行っている奴らなんか勉強してないよ。矛盾してるよね」/「そんなことないよ。自分でやらなければ進まないからやっているだけだもん」△076
 彼には理解ある両親がいました。病状は私と同じくらいなのですが、電動車椅子を買ってもらい、高等部に通っています。
 「でも、羨ましいけどね。わからないことがあれば、すぐに先生に質問できるし、一緒に勉強できる友だちもいるんだから」
 「そうだね、じゃあさ、俺、高等部の先生に言ってみるよ。病棟に高等部があったら、福嶋さんだけじやなくて、いろんな人がもっと勉強できるじゃない。来年卒業する子たちだって、きっと入りたいはずだよ」/トラブルにならないように、目立ちたくないと逸巡している私を尻目に、高野君はさっそく高等部の先生に提案してくれました。高等部の先生は、もっと皆の意見を聞きたいと言いました。高野君は、週一回のミーテイングの際に、さっそく〈病棟高等部設立に向けて〉の問題を提起しました。
 […]△077それまでは言わなかった自分の希望を、病院生活に対する不満をまじえながら、それぞれ自由に発言しました。皆、悩んでいたのだ、そう思うと病棟の仲間を身近かな存在に感じます。この動きは鬱積していた皆の支持を得て、一気に広がっていきました。
 陳情書は、当面もっとも具体的に高校を切望している私が、代表して書きました。/高等部設立となると、県の教育行政予算にも影響します。PTA役員会に陳情書を提出、教職員会での説明、病院長との折衝などを経て、二学期の終業式には署名活動が始まりました。人前で話した経験のない私には緊張の連続でした。高野君はものおじせずに、堂々と訴えます。彼に励まされ、引っこみ思案の自分を反省せざるをえません。/私たちの要求は快く受け止められました。翌〔●年〕三月、病院高等部が設立されました。
 […]幼い頃からテレビのドキュメンタリーにとり上げられたりして、筋ジス者としての生き方を模索してきた高野君は、考えうる新しいシステムの一つ一つを要望し、自ら実験的に試みるなど、その力量が突出していました。外部との折衝にも熱心で、発言の場を求められれぱ進んで出ていきました。/[…]私が二△079 代目の自治会長に選ばれました。」(福嶋[1987:72-80])

■自治会

 「高等部設立運動の背景には、高野君ら数人の病院自治会設立への意志がありました。そのめざすスローガンは、〈充実した病棟生活を求めて〉〈病因究明と治療法の確立を目指して〉という二本の要求を柱にしていました。
 会の名前は「志向会」と決まりました。筋ジス病棟における自治会設立の動きは、仙台の西多賀病院、四国の徳島療養所で始まり、後の国立筋ジス病棟における自治会設立の動きは、後の国立筋疾患研究所の設立運動の芽となったのです。
 当時の総理大臣は田中角栄氏でした。陳情に通った私たちの願いをすんなりと受け入れ一〇〇億円△078 の予算を組み、研究所設立による病気撲滅の国家的努力を確約しました〔19730823〕。
 しかし、確約もむなしく、田中首相は予算案の国会提出を前にロッキード事件で退陣してしました。期待していた研究所の規模も内容も大幅に縮小されてしまったのです。
 「前の大臣がお受けしたことですから」
 私たちの、一瞬燃えたはかない夢でした。せめて、私たちが生きている間に病気の原因がわかれば――それは無理、幻の夢だったのでしょうか。
 自治会の運動はつづきました。志向会もハガキ一枚運動を始めました。首相や大臣、研究者あてに自治会の運動はつづきました。志向会もハガキ一枚運動を始めました。首相や大臣、研究者あてに私たちの願いを書いて送るのです。その願いとは、〈不治の病〉などと言わず、病因をつきとめ、進行を抑える治療薬の研究、開発に努めてほしい、というものでした。
 たった一日、広い野原を思いっきり駆け巡りたい、大きな海で泳ぎたいだけなのです。自分の足で大地を踏みしめ、自分の手で花を摘みたいのです。人に〈お願い〉せずに食事をし、勝手に眠り、働きたい――それが私たちの願いでした。
 幼い頃からテレビのドキュメンタリーにとり上げられたりして、筋ジス者としての生き方を模索してきた高野君は、考えうる新しいシステムの一つ一つを要望し、自ら実験的に試みるなど、その力量が突出していました。外部との折衝にも熱心で、発言の場を求められれぱ進んで出ていきました。
 病棟暮らしの長い私たちには、〈自台〉とは何かもわかっていません。高野君を理解するには、世間知らずだったのでしょうか。外交よりも病棟内の実生活の改善を重視しようという理由で、私が二△079 代目の自治会長に選ばれました。」(福嶋[1987])

 ※西多賀病院に自治会「西友会」ができたのは1970年。
 「その頃、西多賀療養所では、中学生まではべッドスクールという分校形態がとられていました。べッドスクールに在学していない患者も皆協力して年に一度文化祭を行い、私達は自費出版の詩集を△084はじめ、自分で作製した七宝焼やぬいぐるみを売ったりしたものです。また、ちょうど同じころできた患者自治会(昭和四五年発足)では、全国の筋ジス病棟の所在地や研究機関の予算などを模造紙に書き、病気の実態を訴えたりしました。これは、私遠患者自らが社会に対して訴えた最初のもので、これを契機に、病院の内部にとどまらず、外部に対してち働きかけることを知りました。このように、患者自身が何かしようとすると、職員達にも協力したいという姿勢が生まれ、自然にコミュニケーションがとれ、動けない者だけが集まった病棟であってち、明るさが出てきました。」(山田[198311:84-85])
 ※研究所設立請願運動(とその挫折)については近藤[]→立岩[]
 田中総理大臣陳情は19730823

■1976 頃から施設を出ることを考え出す
 1977 高等部卒業
 1977 某大学の通信教育を受け、学生ボランティアの介助、協力で下宿をして、3週間の夏季スクーリングに参加

 「施設を出ることを、漠然と考えはじめたのは、昭和五十一年ごろだと思う。私は養護学校の高等部を出て、作業療法をしてたんだけど、筋ジスというのは治療方法がないでしょう。だから、療法といっても、毎日毎日をつぷしていくだけのことだったし、そのあいだにも、百人を越す仲△191 間たちが亡くなっていって、精神的にも出口がないという状態だったの。で、何かしなくちゃと思って英語の勉強をはじめたときに、誰に聞いたのか「聖書を英語で読むと上達が早い」ということで、読んでいるうちにぶつかったのだが「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである(コリント人への第二の手紙・四章十八節)」というようなことぱだったのね。いわれてみれば私たち障害者は、いつもできる∞できない≠ノしばられるけれど、そんなことより、何かをしよう≠ニ思ってする&が大事なんだと、こんなこと、誰でも、いろんな場面でわかっていくと思うんだけれど、私の場合は聖書から学んだんですね。
 まあ、その前から、昭和四十八年ごろから、ボランティアのひとたちが施設訪問にくるようになって、施設のなかに新鮮な空気が流れはじめていたのね。それは結局は外からの力だったわけだけど、施設以外にも生きる場はあると思いはじめていたから、聖書のことばもすっと入ってこれたんでしょうね。」(福嶋[19840130:181-192])

 「高等部を卒業した五十二年、いつか何かができるかもしれない、そんな夢が捨て切れず某大学の通信教育を受け、学生ボランティアさんたちの介助、協力で下宿をして、三週間の夏季スクーリングに参加できたことが、私の生活に大きな変化を与えてくれました。三週間の短期とはいえ、△268 病院や家族と離れて生活することは、生まれてはじめてのことでした。朝から午後四時頃までの講義に加え、夜も復習しなければついていけず、身体は少々疲れたものの、同じ年代の人たちとの生活で、彼や彼女らの活動領域の広さは、病院の生活しか知らなかった私に刺激を与えてくれ、疲れを忘れさせてくれました。この時に私は車いすでも電車に乗れること、そして当然のことながら自分の行きたい所へ行けるということを実感として知りました。階段や段差はあったけれど、慣れた手つきで車いすを介助する学生のMさん、また呼びかけに応じて車いすを持ち上げてくをれる一般の人たち、はじめての私には人に声をかけられないほどの恥ずかしさでしたが、できないと思ってきたことが、周囲の人たちの手は借りるものの、一つ一つ可能になっていくのは解放感以外の何ものでもありませんでした。「おまえは自分で何もできないのだから、人に迷惑をかけないように、人の言うことは素直に聞いて、かわいがってもらえるようにしなければならない」――そんな母の口ぐせを聞くとも聞かず育ってきた私は、いつしか人に話しかけるよりは、話しかけられて口を開くことを、そして少々納得がいかなくても自分の胸のなかで押し殺すこともできるようになっていたのでした。介助者なくして生きることのできない私にとって、それが生きる知恵となっていたのです。しかし、「行きたい所はどこ?」「今晩食べたいものは?」――そんな選択を迫られる生活となって、こんな基本的なことまで自分のロからスムーズに出てこないジレンマ、なさけなさを感じるのでした。こんなことまで他人にゆだねたくない、そんな気持が涌き出したのです。これも私を対等な人間とし△269 てつきあってくれた人たちのなかでこそ出た、私の意地だったのかもしれません。
 その後、彼や彼女らとの出逢いが私の行動範囲を拡げてくれました。しかし、広い世界を見れば見るほど、自分のいる世界や私自身の視野の狭さが見えてくるのでした。友人やボランテイアの人ぴととのひとときは楽しかったけれど、外出などから帰ると、やはり私は病院のなかで生きる一患者であり、このままでは彼らの生きる世界や彼らとの交わりに接点は見出せない、そんな虚しさ、さみしさがつのるのでした。あせりでもあったのかもしれませんが、私の近い将来は白い壁に覆われた狭い個室の中だと思ったら、それをいまからただ手をこまねいて待っていることもないと思えてきたのです。重度患者となってから病院を退院し、なんの基盤もない地域で生きていくことは、無謀といえば無謀かもしれません。けれど、今一度自分の身を一般社会に置いて生きていきたい、自分の持てるカを試してみたい、そのなかで自分の役割を見つけていきたいと思ったのです。その思いを解ってくれ、相談に応じてくれたのが、スクリーングにもかかわってれた人たちだったのです。まだ自分の将来も定まらぬ若い彼女ら、人間それぞれできることとできないことがあるから決して無理はしないように、それが私たちの鉄則といえば鉄則でしたが、不可能だと言わずにかかわれる部分を出し合ってくれたことが一番嬉しいことでした。アパートの隣というぐらいの距離で協力できることだったら――そう言ってくれたのが後に共同生活ハウスの住人となったTさんでした。しかし、話し合っていていつもつまずくのは、介助の問題でした。〔→二四時間の介助を要する〕」(福嶋[19841215:270-271])
 ※某大学=慶応義塾大学のよう

 「高野君に次いで、私も病院を出る決意を固めました。/しかし、私には、帰る故郷も、受け止めてくれる友人もありません。そんなときに知り合ったのが埼玉県浦和市在住の三島典子さんです。彼女と知り合ったのは、通信教育のスクーリングでした。大字生だった三島さんは、浦和市市役所に就職してからも病院を訪ねてきたり、私も彼女の介助で彼女のアパートに泊りに行ったりしていました。
 「同じ年代の人たちが、あの狭い世界で生きている。夜、パジャマにも着替えられないなんて、自分だったら、とても耐えられないと思うわ」
 退院の希望を告げた日、三島さんは、私の決意が決して無謀ではなく、人間としてごく普通であると同意してくれました。
 病院を出て、私自身の生活を始める――この決意を具体化しようと考えていくうちに、つづけていた英語と、加藤さんが以前に言っていたアメリカの障害者が実行しているという自立生活センター(Center of Indipendent Living)の活動を実際に自分の目で見、体験したい、という願いがつながったのです。
 私は会う人ごとに、アメリカの夢を語りました。△108」(福嶋[1987])

■1980夏 静岡の豊田障害者生活センターに行く

 「二四時間の介助を要する入たちが、学生さんや社会人の協力で介△270 助ローテーションを組んで一人で生活しているという話も耳にしていましたが、夜はその体制が組めても、日中学生さんに学校を休んでもらうとうことは、互いの生活の保障という意味で一番したくない点でした。日中の介助をどうするか、現行の家庭奉仕員制度では週二二回(一回二、三時間)程度の介助しか求められません。あまりにも冷たい福祉制度、それでもそんな現実のなかで静岡市の方で脳性マヒや筋ジスの人たちが健常者の人たちと同じ屋根の下で共に生活しているということを聞き、その生活を一週間経験することができたのは大きなステップでした。介助のことにしても、何名かの障害者が集まれば一名の専従者を雇うことも可能になるというように、すべて実践のなかで生まれただけに重味がありました。画一的に考えず、いろいろ工夫すれぱ私たちにもできるかもしれないという感触を、同じ立場の人たちが与えてくれたのです。」(福嶋[19841215:270-271])

 「静岡に遊びにこないか?」
 久しぶりに、静岡の施設に就職した加藤祐二さんが病棟にきました。学生時代、ポランティアとして病院にきていた彼は、私たちに最新の障害者の生活、運動、行動などの情報を教えてくれる友だちです。
 「ひまわり寮っていうのがあってね、筋ジスの人が一人、脳性麻痺が二人、それに健常の独身者が一人、一所帯の家族が一緒に生活しているんだ」
 彼の話に、いつも私たちは夢をふくらませまず。
 七月の終わり、太陽が照りつける日、私たちは新幹線で静岡を訪ねました。静岡駅には、車椅子用のエレべーターがありません。四人のボランティアで、四人の電動車椅子を運ぶのは重労働です。駅員さんが手伝ってくれました。
 数日間滞在し、彼らの暮らしぷりを見せてもらいました。
 「内職や駐車場の管理料で、生活費は間に合うんですか?」△106
 「健常者なら、もっと安定した割りのいい職業があるんじゃないかな?」
「同じ屋根の下で、四六時中一緒では、息が詰まって、険悪な関係になったりしませんか?」
 思いつく限りの質問をしました。しかし、彼らは屈託なく笑うだけです。
 「やってあげたいんじゃないもの。やりたいからやっているんだから」
 そこには、障害者の周辺にありがちな悲壮感や、気負いがありません。
 「僕たちの病気は進行性なので、末期には特別な医療を必要とします。そのとき、地域の医療体制は十分なのでしょうか?」
 高野君の筋ジスに関する知識は医者も舌をまくほどです。冷静で、客観的な知識を持っていないと、正当な医療を受けられない、これが彼の患者学です。
 「施設を出たのは、畳の上で死にたいからさ。だから行動した。そんなもんだよ」
 「筋ジスは頭で考えてるだけで、なかなか行動しないんだよな。脳性麻痺は考える前に行動するけど」
 静岡から帰った高野君は、さっそく千葉福祉を考える会のメンバーとともに病院を出て、自立生活の準備にかかりました。加藤祐二さんも、ともに行動しようと施設をやめました。△107」(福嶋[1987])

■1980 ICYE(国際キリスト教青年交換連盟)のプログラムに応募 
 1980?01試験受ける 合格(111)

 「アメリカゆきは、ICYE(国際キリスト教青年交換連盟)の海外研研修制度のおかげです。国際障害者年をきっかけに、障害者にも門戸を開くと聞いて、すぐ応募しました。ひとつは将来を考えて、英語力を身につけたいと思ったのと、もうひとつは、施設を出て自立するということが、私の日程にはいっていたから、そのためにもCIL(自立生活センター)をこの目でみたいと思ったのね。もちろん、あとの方が主な理由です。資格審査といっても、英語力よりも、何をしに行きたいかという、意思力の方が重視されるから、あんまり心配してなかった。
 ところがICYEの事務局の万では、障害者といっても、もっと軽度のひとを考えていたらしくて、暴初は「困る」っていわれたんですよね。それで「どういう条件ならいいのか」と、逆にこちらから訊ねて、いろいろとやりとりはあったんですけど、結局、私の責任で介助者をつけること、介助者の費用は自己負担ということで、OKが出ました。
 費用はぜんぷで最低でも三百万円必要だというのに、私の貯金は五十万円もなかったの。介助者の費用どころか、私ひとりのICYEの正規の自己負担分(百二十万月)にも足りないぐらい。それでも「おかねは何とかなる」って、どうしてかしら、自分でもよくわんないんだけど、「なんとかなる」って思っちった。ええ、結局はカンパです。私がハム(アマチュア無線)をしてたので、その先生の呼びかけでできた歩む会≠ェ母体となってカンバを集めてくれました。△186
 姉も力になってくれました。私とは四つちがいで、やはり筋ジスでしたので、病棟はちがっていましたが、同じ病院に入ってました。姉は、ふだんから自分を殺しているようなところがあつて、やっぱり長女ということで、好き勝手はできないと思ってたんじゃないかしら。そのぶん私が動いてくれれば、ということで、いつも見守って、ひそかに応援してくれたし、私もいざとなると姉が頼りで、アメリカゆきもまっさきに姉に相談したんです。すぐ賛成してくれて「いつでも貯金をつかってくれていい」といってくれました。
 沢山のひとのおかげで行くことができたんですけど、他人のおかねって、重いですね。「障害者にも社会参加の道はあるはず。アメリカから帰ったら自立します。そのためにもぜひCILを見たいんです」ということで呼びかけて、その趣旨に賛同してくださったひとたちのおかねをつかって一年間アメリカで暮らしたのに、期待に応えられなかったらどうしよう、なんて思っちゃったら、帰るのがおそろしかった。
 アメリカに行くこと自体は、べつにこわいとは思わなかったですね。日本の国内もろくに知らないのに。でも、知らないからかえってよかったのかな。それよりも、何かの拍子に行けなくなくるんじゃないかという不安の方が強くて、成田を発つまで信じられなかった。」(福嶋[19840130:186-187])

□1981夏-82秋バークレー・ボストン・ハワイのCIL(ICYE=国際キリスト教青年交換連盟の海外研修制度)。
 19810729 出発(112)

 「五六年は国際障害者年で、障害者の社会への「完全参加と平等」をめざしています。
あき江が積極的に望んだ国際キリスト教青年交換(ICYE)による海外留学は、あき江にとってまたとない絶好のチヤンスだと考え、私はその夢実現のために、竹内洋子保母とともに、学校と病院の若い人たちに呼びかけました。こうして「福嶋あき江と歩む会」が発足し、三四名がカを尽してあき江のアメリカ留学を支援していったのでした。」(伊藤[1987:214])

 「二人が「歩む会」の予算を懸念しての気遺いに私は甘えました。一方、恵津子を休養させ、自身の研修時間確保のため、日本ICYEとアメリカーICYEと有料へルパーの現地雇傭の準備を進めましたが、交替へルパー派遣の機を私は失しました。病棟の勤務体制は一日何交替かで、単独二四時間勤務、それも連続ということはありません。恵津子の身心の疲れは必至です。ポストンのあき江から「恵津子は、独り夜空の星を眺めています」と伝えてきました。私は高岡の恵津子のお母さんの胸中を案じました。五七年八月のある夜、恵津子から「渡辺さんを代りに直ぐ送ってください」と切迫した国際電△220 話です。――翌日になって「帰国まで二人で扶け合って頑張ります」と明るい声。私の全身を冷たい汗が流れました。
 出発前、交替へルパー派遺を確約しながら、人数、派遣先、期間など、具体的なプランをきちんとしなかった杜撰な計画と勇断のなさから生じたもので、重い負目となっています。」(伊藤[1987:220-221])

 「アメリカ滞在も約半年、なかなか筋ジスの人に会う機会がありません。/いろいろと見学して回りましたが、私自身が気になるのは、やはり同病の人たちです。そこで、日本で聞いていたロサンゼルスのランチョロスアミーゴ病院を訪ねました。
 この病院には、呼吸器系の病棟に六人の筋ジス者が入完しています。六人とも年齢は三〇前後です。彼らの障害の程度は見るからに最重度でした。全員、車椅子の背中に、人工呼吸器を乗せています。呼吸器の管が彼らの鼻に接続してありました。車椅子はもちろん電動ですが、コントローラーは手ではなく舌で動かすように工夫されています。手が動かなくなって、最後に残った舌の機能で呼吸器や、車椅子を操縦しているのです。
 日本では、このレべルの筋ジス者はべッドで寝たきりを強いられます。外出など考えられません。ところがアメリカでは、車椅子に身体を固定し、舌でコントローラーを操作して、自力で動いています。
 「この状態でサッカーだって野球だってやるよ。外出だって自由さ。この間はドジャースの試合を見てきたさ」
 肺活量がなくなっているだけに声は小さいですが、実に楽しそうに話します。△133
 彼らは、電話を使って、積極的に募金を募り、生活に必要な器具を購入します。介助の人の給与も募金と補助金でまかなっていると言います。
 死の間際まで普通の生活をしようとずる意志。
 あと何年で、私は彼らのようになるのでしょうか。その日がきて、私は、はたして彼らのように闘えるでしょうか。
 死、怖いです。」(福嶋[1987])

□武田恵津子

◇「武田恵津子。彼女を思い出さぬ日はありません。
 アメリカから帰国する飛行機の中、成田空港で、私たちはお互いに口もきかない、顔も見たくない関係になってしまっていました。
 出発前には、本当に天真燭漫だった私たちの関係が、なぜ、これほどまでにこじれてしまったのでしまうか。
 恵津子と私、私と恵津子。生まれた場所、育った環境、受けた教育、培った価値観、趣味、それらすべてが異なる二人が、一緒に暮らずこと。それがどんなに大変なのか、理解していたはすでした。
 「思ったことは、隠さずに話し合おうね」
 そう誓い合った二人でした。
 アメリカ行きの計画を立てた頃、同行介助を申し出てくれた恵津子は、私には神のような存存在でし△164 た。旅の終わりには、きっと家族よりも、もっと深い理解と愛情で結ばれているだろうと、大きすぎる期待を抱いていました。
 しかし、〈関係を保ちたい〉という意志が、結果的にはよくなかったのかもしれません。
 〈こんなことを言ったらどう思うだろうか〉
 〈こんなことしたら負担ではないだろうか〉
 恵津子に対し、私は終始、彼女の心中を探っていたようです。
 自信のない私は、何をするにも、その決定を人に委ねようとします。私はアメリカでの行動、生活のすべてを、恵津子に頼ってきました。恵津子は私より経験も豊かであり、自信に満ちていると、思いこんでいたのです。
 アメリカ行きを望んだ私自身が受け身になっては、船長のいない船のようなものです。」([])

◇青春の区切り インタビュー・武田恵津子 173-186
 「自分を必要としてくれる場所、空間、そういうものを必要とした時期に、NHKの高野君のドキュメンタリーを見たんですね。高校の二年のときでした。それで、看護婦になろうと思って聖路加の看護学科に進学したんです。
 看護婦になるのは、大学に行ってからも迷ってましたね。何度かやめようと思った。看護って行為は、私には精神的にかなりきつかったんです。
 でも、やめるのはいつでもやめられるから、とにかく原点に返って筋ジスの人たちとの接点、そこに行きつかなければ、看護学校で悩んできた意味がないと思いました。
 私が下志津に赴任したのは、卒業二年前に、たまたま『僕のなかの夜と朝』の上映会に行って、会場で高野君に会い、彼が下志津にいることを知ったのがきっかけです。
 何か自分の生きていく手がかり、足がかりをつかみたかった。高野君や石川正一君は、そのための実存的なきっかけでした。
 上映会場の壇上で挨拶したのが、あの高野君であることを確認して、何か言わなければと彼の前に一歩踏み出した瞬間、口をついて出てきたのは、「まだ生きていたのですか」という言葉でした。(筋ジス患者さんの寿命は、およそ二〇歳と理解していたので、もう亡くなっていらっし△173 ゃると思っていたからです)
 なぜ筋ジスだったのか? ドキュメンタリーを見たときは高校生で、それがなんであるか調べようという気もなく、不治の病気にめげずにがんばっている、っていう印象だったんです。看護っていっても、身のまわりの日常生活のお手伝いって思っていたんですね。
 その番組には、高野君だけでなく、彼の先輩ですでに亡くなった人の声が背景に流されていたのね。その人はクリスチャンだっていうのが、ひっかかったのかもしれない。彼の言葉は今も覚えています。
 「お父さん、お母さん、僕が死んでも悲しまないでください。僕は幸せでした」
 たんたんと語っていました。石川君の文を読んでも、死を前にとても幸せそうで、安らかで。それが、やっぱりすごいショックだったんです。
 私自身、中学生のときに洗礼を受けていましたので、人の役に立つ生き方をしなければならない、と考えていました。その一方で、私のような者でも、必要としてくれる対象がほしかった。そのことで自分D字生を確認したかった。そういう志向が筋ジスへと目を向けさせたのかもしれません。
 まず、卒論の実習で下志津病院に友人と一緒に行ったんです。友人は、ためらいもなく子どもたちの中に入っていくのに、私はすくんでしまって手が出せなかった。笑顔がこわばり、語りかける言葉が見つからない。こんなことで、本当にここで働けるのだろうかと、そのとき思いました。それでも、看護婦として働き出した最初の一年は楽しくて、夢中ですぎました。△174
 看護労働が一番大変なのは、朝の起床から食事、登校までの時間帯でしょうか。それと夕方から消灯まで。深夜の体位交換はおよそ二時間おきですが、重症者がいない限りは、それほど大変でもありませんでした。この二時間というのは、血液の流れが悪くなって床ずれなどができないようにするための目安時間と考えてもらっていいと思うんですが、筋ジスの場合、体位が本人の言うように決まっていないと、すぐしびれてきたりするんです。
 体調によっても、体位がなかなか決まらなかったり、長くもたなかったりで、患者と看護婦の根くらべになったりします。そうなると、子どもたちも、看護婦の顔色を見たりして、頼みやすい人に頼む。頼まれたほうはいいけど、こっちはよくてもあっちが駄目みたいに、他の人を悪者にしてしまうことになりかねない。そんなことは仕方のないこと、と言ってしまえばそれまでなのだけれど……。
 職員の中には、ポランテイアが病院に出入りするのをいやがる人もいたかもしれません。たしかに、仕事の流れという点からすると、消灯に向けて準備しているときに、一人、二人後回しにすると、看護作業がスムーズに進められなくなってしまうんですね。子どもによっては、時間内に問にあわない子もいました
 私が慣れない頃、そういう子を寝かせるまで、二時間もずれこんだことがありました。動き出すのが遅いとか、頼みすぎてわがままだと叱る人もいました。私も叱ったことがあります。でも、その人たちも、決して冷たいわけじゃない。一対一で話せば、子どもたちのことを、とっても親身に考えていたりします。基本的には労働量に対して、人数が足りないのです。△175
 一人の看護婦の発案で、筋ジス病棟の有志と他の病棟の看護婦もまじえて、筋ジスの看護について勉強会を始めたりもしたのですが、病棟ごとに直面している間題点がちがったりして、統一した方向で話し合うのがむずかしく、自然消滅になってしまったのです。
 私は看護婦だから、立場がはっきりしているけれど、個人レべルの問題につき合わざるをえない生活指導員や保母さんたちは、もっと苦しい立場でやっていたと思います。
 患者を(患者という特殊な存在としてではなく)一人の人間として看護するという理念を学びました。でも、看護婦として働き出してからは、患者という集団と一人の人間としての患者とか、看護という行為と看護という仕事の流れとか、患者と看護者、患者同士、看護者同士のそれぞれの関係が出てきて、看護婦である自分に迷いが出てきました。
 とくに、筋ジス病棟のように、治療というより、生活の場の要素がとても大きいところでは、病院なのか、それともいわゆる施設なのか、そのどちらの基準で考えるかによって対処の仕方にちがいが出てきます。そんな矛盾した現実の中で、とまどったり、いらだったり、疑問が高まっていきました。
 こんな中で、あき江や高野君のいた七病棟の婦長は、革新的な人だったから、いろいろ軋轢はあったと思うけれど、外出・外泊・ボランテイアの人たちの出入の許可なども積極的にやっておられた。
 結局、私は中途半端になってしまって、小児看護を学び直すつもりで、職場を変えようと思っていました。そんなときに、あき江のアメリカ行きの話が持ち上がったんです。△176
 それと信仰がありました。[…]
 最初はあき江の友だちで、亡くなった小川江津子のお母さんと交代で、という案も出ていました。彼女の協力があれば、私にもその大役を、なんとかはたせるかなって思った。でも、筋ジスって特殊でしょう? 介助の手が変わるとお互いに辛くなる。
 体位の交換なんて、足の位置、手の位置の決定は、本当に、センチでなくミリ単位だから。私でも、今、病棟に行って介助しようとしても、微妙にちがってしまいますから、怖いです。手を出すのを躊躇しちゃいます。あ・うんの呼吸ですね。本人の指示通りに本人が納得するまでできるかどうか、微妙な差を介助者が文字通り体得しないとむずかしい。/私も看護帰として勤めたから手を出せたんで、そうでなければ、怖くて介助を避けたでしょうね。
 「私たちが亀裂を起こした理由は、障害の有無ではなく、性格のちがいが大きかったと思います。お互いが決して譲歩しなかった。それと、私に休みがなかったことでしょうね。
 私の提案で、介助を雇って交代制にしてからは、事態はほんの少し好転したような気もします。
 あき江の文章を読み返してみると、かなり正確に私の心の動きを捉えているなって思います。私自身が忘れていた感清、場面を克明に記憶しているなって思いました。彼女は、私の想像を絶するほど、すべてに敏感になっていたんですね。
 私自身、自分が介助者なのか、保護者なのか、友だちなのか、わかっていませんでした。そういう意味でも、職業として割り切っていたほうがよかったのかもしれない。中途半端な善意は、かえってお互いを傷つけるばかりになってしまうのではないでしょうか。
 誰もが不完全なんですが、最後はこれだけは言ってはいけないと、言葉を飲みこむのに必死でした。二人だけで向き合ってしまって、磨きすぎた鏡を前にしているみたいで。」(武田[1987]181)

□帰国

 「私が福嶋あき江さんに出会ったのは、彼女の原稿の終幕に描かれた成田空港の送迎デッキでした。今から六年前になります。より正確にいうなら、彼女について知ったのは、西伊豆の海岸です。夏の終わり、人の姿も失せた砂浜で、何気なく散歩中に拾った新聞。泥にまみれた切れ端に、大きな写真入りの記事が載っていました。〈筋ジス少女、アメリカでの自立生活研修の旅を終え、その成果を日本で。帰国後は二人の女性と浦和市で共同生活〉――記事の要旨です。行間には〈けなげな少女の車椅子アメリカの旅、旅の間彼女を支えつづけた介助の武田恵津子さんの献身的な心。障害を克服して勇気ある挑戦、それをとりまく人びとの暖かい善意、励まし〉を称賛する、美談記事に特有の明るさが溢れていました。/しかし、すでに指先だけしか動かなくなった重度の障害をもつ彼女です。かろうじて電動車椅子のハンドル操作だけが可能な状態だと書いてあります。[…]△187」(柳原[1987])

■198302 「共同生活ハウス」

 「共同生活ハウス」(障害者2+2浦和市)専従介助者1人に2人の他人介護料4万ずつ+「虹の会」から2万=10万払い9〜18時ヘルパーは1.5時間ずつ週3回(2人分)ほとんど入浴介助。夜 (夕食の支度, 後片づけ, 寝返り介助) は地元の学生中心に30〜35人ほどのボランティア, 週1日の専従介助者の休日は主婦

 「今年〔1983年〕の二月からはじめた私たちの「共同ハウス」の住人は、障害者は私とKさん(交通事故から頚椎損傷)、健常者は、朝九時から夕方六時まで私丈ちふたりの介助にあたるFさん、それに、日常的な介助はしないけど、いざというときの助つ人であり、精神的な支えでもあるTさんの合計四人てす。
 Fさんには専従介助料として一力月十万円を払っています。私とKさんが四万円ずつ、これは生活保護障害者加算の他人介護料をあてています。あとの二万円は、私も会員のひとりとして参加している「虹の会」という、重度障害者の地域社会での生活を保障して、共に生きる場をつくっていこうということではじめられたグループがあって、年二回、映画会やバザーを開いて収益△180 をプールしたなかから出しています。といっても、ついこのあいだ、第一回めの映画会をやっただけですけど、ともかく、そういう計画で……。
 共同生活というのは先例があるんです。私の施設(国立病院筋ジス病棟)時代の仲間が、男性だけで千葉県ですでにはじめてましたし、あと、静岡に「ひまわり寮」というのがあるんですね。このあたりを参考にしました。ゆくゆくは宿泊設備もふくめて、アメリカのCIL(自立生活センター)的な機能もはたしたいという遠大な計画がありまして……。でも、直接の目的はやはり介助の確保、とくに平日の昼の介助を確保するということね。
 二十四時間の介助を必要とする障害者が地域社会で生活していく場合に、いままでは、それぞれが自分のちからで介助者を募ってやってきたでしょう。介助者を募っていくこと自体が運動で、それはそれでとっても大事なことだし、そのひとたちのおかげで障害者が地域で暮らすことがある程度定着したのは事実なんだけれども、誰にでもできることじゃないと思うの。健常者を組織できる強いひとに限られてくるんじゃないかしら。
 私自身、運動のできるタイプじゃないし、できれば英語の塾をひらいて、子どもたちを通して障害者の状況を伝えていきたいと思ったものですから、平日の昼の介助探しという、いちばん大変なことを、専従介助を頼むということできりぬけたわけです。塾はまだ実現してませんが、昼側、自分の好きなことがやれるという点で、プラスになっています。そのへんは価値観の間題と△181 して、わりきっていかないと……。
 で、ひとりではとても介助料を払いきれませんから、新聞などを通してルームメイトを呼びかりたら、応えてくれたのがKさんひとりだったの。軽度のひとなら、共同生活なんて面倒なだけかもしれないけど、介助の必要な重度のひとには良い方法じゃないかと思ってるし、施設や家を出たいと思ってる重度のひとは沢山いるはずなんですけど。呼ぴかけかたが足りなかったのかなあって、反省してます。
 生活保護の申請に行ったら、独立家計の共同生活は前例がないといわれて、少しもめました。ひとつは私自身の家族からの世帯分雅で、これはもう、父は亡くなっているし、母には私を扶養する経済力もないから、わりに簡単にできにんですけど、共同生活≠ニいうのは、行政の方ではのみこみにくかったみたいですね。あのひとたちはいつも扶養義務≠ニいうのを軸にしてしか障害者を考えられないから。それでも、少しもめた程度で生活保護は出ましたけど、県営住宅ほいまだにダメです。他人同士の入居は絶対に認めないんですね。
 ホームへルパーは私とKさんのふたりぶん、一時間三十分ずつ週三回で、ほとんど入浴介助です。
 夜の介助は夕食の仕度と後片づけ、それに私の夜問の寝返り介助が主なところで、地元の学生さんを中心に三十から三十五人ほど。それと、週一回は専従介助者の休日にしていますので、そ△182 の日の朝九時から夕方六時までは主婦のかたたちが協力してくださってます。専従介助者以外はボランテイアで来てもらってますけど、将来的には有料≠ニいうことを考えていかないと、限界がくるんじゃないかって気がします。
 私も自分で痛感するんだけど、健常者と対等な関係をもつのは容易じゃない。八つのときから十五年間施設で暮らしてきたから、馴れてないんですよね。そういうのって、私ひとりじゃないと思う。でも、いまみたいに、介助を障害者運動のなかにとりこんで、健常者をまきこんでいける強い人しか地域社会で暮らせない状況が固定してしまうと、とくに施設で暮らしているひとは恐れをなして、ますます出にくくなってしまうんじゃないかと思うの。私もふくめて、誰もが地域で生活していけるためには、有料介助≠ニいう考え方はとっても魅力的なのね。」(福嶋[19840130:180-183])

 「昭和五十八年二月、埼玉県浦和市に一軒の家を借り、私たちの「共同生活ハウス」がスタートしました。その機能は次の通りです。
 @ 障害者と健常者の相互理解と協力の場とする。
 A 地域のなかにおいて障害者の日常生活の保障を考えていく。個々人のニードを明らかにし、それに関するサービスの促進を共に考え、行う場とする(介助、医療、経済、交通機関など)。
 B 個々人の力(アビリティー)を高める場とする(教育、職業、趣味、地域活動など)。△272
 重度障害者が地域のなかで生きられるように、その生活の場と地域づくりを目的としてつくった会、「虹の会」が運営母体です。共同生活ハウスのメンバーに、頚髄損傷で病院に入院中に私たちの載った新聞記事を読んで一緒に住むことを希望してきたKさん、スクーリング時代からの友人で緊急時の介助や連絡にあたる同居人としてTさん、日中の介助にあたる専従介助者としてFさん、そして私の四人が集まりました。また夜間は、近隣の二大学の学生さんたちの協力をうることにしました。とにかくなにもないところからはじめるのですから理想と現実のギャップはいうまでもありません。
 まず住居形態において、私たちは戸口がそれぞれ別でいて互いが連絡のとれる距離での生活、つまりアパートの一階をずらりと借りるというような形を描いていたのですが、現実は厳しく、一階八畳一間、二階六畳と四畳半の一軒家でスタートすることになったのです。しかし、二十歳を過ぎた者同士の一軒の家での生活は決して理想的な形ではありませんでした。一階八畳にKさんと私、二階に健常者の二人が住み、夜になると学生さんが私たちの介助に入る、それはみんながガラス張りの状態だったのです。それでも、中途障害者でまだとまどいを感じているKさん、まるっきり地域のなかで暮らしたことのない私にとって、健常者が常にいる生活は安全で、第一歩を踏み出すには決して否定できない形でした。しかし、共に生きるという共同ハウスであっても、この形から健常者にとってなんのメリットがあるのか? ただ単に障害者の安全のための同居では負担が重すぎる。障害者の自立とは? 介助が必要なのか介護が必要なのか? 地域での生活になにを求めているのか? 日々を追△273 うごとに繰り返し話されるのでした。私たちにしても一室の同居、しかも会の話し合いや食事にと、自分たちの部屋がすべてを兼ねる生活にはやはり抵抗がありました。また、なぜ健常者の同居が必要なのかと問うと、外に仕事をもち、朝早く出かけ夜遅く帰宅するTさんから社会の厳しさなどを感じられ刺激になることや、健常者の同居人が呼べば聞こえる二階にいるというのはたしかに安心でしたが、結局のところ私たちのニードは介助の保障だということを確認すると、同居の意味が変わってくるのでした。単に緊急時の介助を考えるなら、学生の介助協力者や近隣の人びととの交わりなどがある程度拡がっていくなかで、その人びとにも声をかけられることで、同居していた健常者も地域の支援者の立場としてのかかわりでやっていける、いやそうした形がむしろ自然なのではないかということに達したのです。しかし共同ハウスはいまは私たち二人が生活しているけれど、私たちだけのものではない、今後施設などから出たいという人たちのことを考えると、私たちに必要な介助だけなので、自分たちのプフライバシーを保てる郡匿がはしいという理由から、いまの段階で、この形態(健常者との同居)をすぐくずしてしまってよいのか、私たちが目ざしているのは、幼少時から施設にいたために自分の生きる地域ももたず、支援者もいない重度障害者の生きる場をつくることのはずである、また、会員のなかには障害者のみの生活には不安が残る、同じカマのめしを健常者、障害者の別なく食べる和気あいあいとした生舌、それが共同ハウスではなかったのか、など様々な意見がありました。けれど試行錯誤で、誤ったらまたやり直せるのが私たちのように名もなく細々とやっている民△274 間活動のメリットであり、本当に自分たちのニードを見出すために、とにかく様ざまな形をとってみることになったのです。/〔こうして十月一日…〕」(福嶋[19841215:272-275])

□19831001
 「十月一日、私たちは健常者の同居を離れ、三DKのアパート一階で二人で暮らすことになりました。住居を探すにあたって、一階で二部屋ないし三部屋でバス、トイレ付き、それもいままでの地域を大幅に離れたくないとなると、なかなか見付かるものではありませんでした。まして、障害者の居住と聞いて眉をひそめる不動産屋さんも少なくありません。いままで借りていた家は健常者のTさんが探し、Tさん名義でした。そしてなによりも、健常者の同居ということて私たちの居住もままになっていたのだということを、「障害者はあんたのタンスと同じなのだから、あなたが出て行くのなら一緒に連れて行って欲しい」と不動産屋さんから言われたことをTさんから聞き、自分たちの置かれている状況の厳しさを改めて知ったのでした。健常者との同居のなかで、本当の状況が私たちに見えていなかったのです。それが健常者と共同(一対等)になりえなかった部分でもあったのかもしれません。それでも何軒かあたるなかで、幸いなことに私たちは現在のアパートを借りることができました。専従介助者が通いとなり、新たな生活のはじまりです。住人は私たち二人なのだという緊張感もありますが、ある意味で解放感もあるというのが本音でしょうか。

 形態を変えながら、共同生活ハウスの生活も一年が経とうとしています。多くの入びとのこ協力の△275 なかで、いまの生活は維持できるようになったものの、それが保障されたものであるかというと疑問であり、現在の課題も、表1に示すように多々あります。とても方策までには至りませんが、共同ハウスを一つのたたき台としてとらえ、二年後、三年後と、今後の拡がりを考えていきたいと思います。」(福嶋[19841215:275-276])

 「ある日、伊藤先生から電話をいただきました。
 「あき江の本がうまくいかなくって。手伝ってやってくれないですか」
 私の脳裏に、成田空港での日焼けした、野菊のように可憐な少女の笑顔が蘇りました。何ができるわけではないけれど、私の抱えていた、解決しえない悩みに、今度こそ応えてもらえるかもしれないと、埼玉県浦和市の彼女のアパートを訪ねました。

 きちんときちんと整頓された2DKのアパートの扉に[虹の会]の表札がかかっていました。△198
 人と人の架け橋、障害者と健常者の間にかかる虹の架け橋。
 三島典子、野口君江さんらと生みだした、彼女の自立生活の場。それからも、藤本千里さん、戸塚薫さんらの支援を得て創り出した夢の空間。
 しかし、心配した通り、彼女の表情からは〈夢〉を実現しようとした、成田での少女の笑顔が消えていました。
 自立生活も、現実の壁の前で萎縮しかけていたのでしょうか。
 「日本で、アメリカと同じようにはできない。私自身、アメリカのやり方では、日本に根づいた自立生活を広げられないのでは、って迷いもあって」
 芯の強い彼女です。愚痴らしきことは一切口にしません。しかし、私はそうした建て前の笑顔の奥に、彼女の武田恵津子さんとのアメリカ体験、高野岳志君や加藤裕二さんの体験した人間関係の亀裂と同質の、深い傷を感じとりました。
 「柳原さんと、また別れることになってしまうの、いやだな」
 彼女は何度もこの言葉を咳きました。人と関わる、友情を交換することを極端に怖れているようです。
 彼女の、これからの自分を考えるステップに、原稿を書くように勧めました。過去を書きあげたら、これからが見えてくる。――そんなことを言ったような気がします。」(柳原[1987:206])

■19870720 死去

 「あき江さんが倒れる3日くらい前に、二人で話をした。/これまでの虹の会は、自分がやりたかったものではなかったと、彼女は言っていた。/介助を「人質」に取られていた彼女は、当時の学生の役員に何も言わなかっただけだ。/いや、言うことがないという自分を演じていただけだよ。/いや、もっと正確に言えば、悩む事は演じられても、それを現実に移す事は、彼女にはできなかっただけだ。」(佐藤[2016/01/24]※)
 「こっからまた15年がたった」 http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-3525.html)

 「あき江さんは、福祉課との交渉でやっと手に入れた吸引器を押し入れの上段にしまい込んでいた。その理由は「こんなものがボランティアの目につくところにあったらみんなが怖がって来なくなっちゃうよ」というものであった。
 介助をボラでやっていた時代である。「障害者問題を一緒に考え解決するために行動しよう」と声をかける前に、そのハードルをう〜んと低くして、「介助ボラに来ませんか」と言わねばならなかった時代だ(今も変わっていない気がするが)。その挙句に吸引器が見つからず、痰が詰まった状態で彼女は病院に運ばれたのだ。」(佐藤[])

◇「虹の会に生命を燃やした福嶋あき江さん逝く」『にじ』(19870727)

◇『にじ』(19870914)
 「あき江さん入院から葬儀までの報告――事務局日誌から
 7月12日(日)
 午後、ボランティア2名とラオックスへ。ニチイに寄って8時過ぎに帰宅。外出中よりのどに何か引っかかる感じがあったが、更に状況が悪く、吸引器を準備させ、横になろうと体を横にしたところで、ひどく苦しんだ。友人の田中令子さんが民主診療所に往診依頼したがつながらず、すぐ救急車を呼んだが、呼吸停止、意識無くなる。
 4〜5分後救急車到着。30分人工呼吸の末、蘇生。しかし意識は戻らず、佐生先生の診療の後三愛病院(救急病院)に運ばれ、集中治療室入院となる(午後10時頃)。
 連絡を受けたお母さんとお兄さんがかけつけたのは12時近くであった。」

 「〔そんなことを言ったような気がします。[…]〕
 お葬式には、三〇〇人もの人が参列しました。
 葬儀委員長の伊藤先生の弔辞です。高野君の遺志を継いで、千葉市宮崎町で今も自立生活をつづける、井上正明、大山学君の電動車椅子の音が、教会に響きわたります。[…]△206」(柳原[1987:206])

■福嶋 あき江 19871113 『二十歳もっと生きたい』(柳原和子編),草思社,222p. ISBN-10: 4794202989 ISBN-13: 978-4794202987 1365 [amazon] ※ md.,

■19871115 『拓きそして生きる』

 「文集『拓きそして生きる』
 あき江さんの追悼文集が、11/15に発行されます。かかわったボランティア100人の文章、あき江さんの文章・写真など、とても充実した内容。ぜひお買い求めください!」(『にじ』027(19871022))

■1988.08.27 『二十歳・もっと生きたい』日本テレビで放映。出演は沢口靖子、阿部寛、他

 「そして決定的な出来事が起こった。ある日の朝方、電話で彼から「TVドラマ化の話があるんだがどう思うか」と問われ、「これまでの経緯を考えると、どういう物になるかわからない。賛成できない」と強く答えた。彼も「わかった」と言った。私は電話の対応から、てっきり、この話はテレビ局からの打診の段階で、彼が断ってくれるのだろうと思っていた。/しかしその晩、障埼玉連の事務所に行くと、開口一番、「沢口靖子だってねえ」と専従の国松さんに言われた。私は何の事やらわからなかった。「えっ?何のこと」「見たよ、新聞。あれ?知らないの?」
 国松さんは、すぐに近所の新聞集配所から、その日付の報知新聞を貰ってきてくれた。/我が目を疑った。そこには「24時間テレビのドラマ決定・主演沢口靖子。筋ジスの女性の生き様を感動的に描く」というような文字が踊っていた。/甘かった。痛烈にそう思った。」

 「この十年のうちに、福島あき江さんが故人となられました。彼女の生と死はテレビドラマにもなり、短くとも充実した一生ではなかっ△355 たかと思います。/不十分ではありますが、障害者の女たちの生の断片をここに残せたことを感謝するとともに、さらなる展開をつぎの世代に託して筆をおきます。」(金[1995:355-356])

■佐藤一成
 佐藤一成について「虹の会」を取材した谷岡聖史による記事
 「高校時代はモヒカン刈りのパンク少年だった佐藤。一九八五年に埼玉大に入学し、障害者運動史を学んだ。同級生の誘いで通い始めた当時の同会は、全身の筋肉が萎縮していく筋ジストロフィーに侵されながら、同大近くで一人暮らしを始めた福嶋あき江(故人)を介助するボランティアの女子学生の集まりだった。
 福嶋は介助を受けるだけの障害者ではなかった。施設から出て自立生活を目指す「闘う障害者」だった。初めて話し込んだ大学三年の夏。「会をただのボランティア団体じゃなく、運動にしたい」。熱っぽくそう語った福嶋は、その数日後、たんが詰まり二十九歳で急逝。「言い残されたような気分になった」。佐藤が同会を引っ張るようになったのはそれからだ。
 死去の翌年に福嶋の人生をドラマ化したテレビ番組は、単純な「お涙ちょうだい」の物語だった。「本当は嫌な奴(やつ)も世間知らずな奴もいるのに『障害者は勇気をくれる。前向きだ』って。うそつけと思う」。バンドの奇抜さには、そんな障害者イメージへの反感が込められている。」(谷岡[2016])


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■全文(の一部を上に収録)

◆福嶋 あき江 198303 「地域での生活を始めて」,『ありのまま』15→19831125 山田[1983:146-151]

 「地域での生活を始めて、約二ケ月が経った。長い間入院生活を送ってきた私にとり、日々の活動すべてが新たな経験といっても過言ではない。群馬県前橋市に生まれ、筋ジストロフィーと診断され八歳で千葉県の国立療養所下志津病院に入院した。私にとっては、千葉での馨らしの方が故郷よりも長くなっていたのだが、千葉で暮らしてきたという実感がない。それは、病院の中では暮らしたが、、それが千葉という地域と結結びつく生活ではなかったということなのだろう。任民票、選挙権も前橋に△146 あったことに象徴されるように、私はどちらともいえない場で生きくきたのだ。それは幼い時から施設に入った障害者に共通のさみしい実感かも知れない。白分の存在がこの社会のどこにあるのか。それは決して大げさなことではなく誰もが問い統けていることなのではなかろうか。
 施設生活が長くなると、自らの家庭までが白分達(障害者)のいないことを当然とした生活を築きあげ、居場所をなくしてしまうというのが多くの実例だ。カントリー・コンプレックスかも知れない。だが故郷を忘れきれず常に望郷の中で私は入院生活を送った(たとえ、故郷は遠くにありて想ふもの……現実の中で失望しようとも)。
 誰が、私達の居住の場を決め、一生の生活を決めてしまうのか。幼い時に病院(施設)に入った私には気がついた時、自分の生きる道を選択する余地などまったくなかった。病院で一生を送ることが、当然のこととして、生活や教育すべての前提にあった。生活に目をやれぱ、日課や規則を守ることが生活の重要課題であるかのように目標が置かれ日々が終わる。それは団体生活を円滑に送るための一定のルールではあるが、例えば、食事の時間を守る守らないが人間の価値を測るパロメーターであるかのように、「よい子」と「悪い子」のレッテルが貼られていく傾向の中で、精神的な抑圧は強かった。私達の多くは規則を守るよい子として生活することを覚えていくのだ。
 大きな集団の中で、少しでもはみ出す行動をとる者は異質であリ、なんとしてでも、多数の側へ正△147 されていかなければならない。言ってしまえばその場での解決しか見ようとはしないのだ。いたずら好きで、表情も豊かで実に元気のよかった子が、筋ジス病棟に入院し、二、三年経つと、型にはまったように自己表現をしなくなったり、表情を失ったりしてしまう。そこには、一言では言えない様ざまな問題があると思うが、そんな生活に何の未来があるだろうか。決められた空間と決められた日課、そして、限られた人びととの交わりの中で育ち、形成された考えや人格が、ある日突然そのカラを破ることなどあり得ない。それだけに、幼い時からの生活を大切に考えて欲しい。
 それでも、社会の繁栄や人びとの価値観の変化に影響されてか、閉鎖的な病院体制や私達の生活にも少しずつの変化はあった。病棟を「生活の場に」という声が私達の中からも高まってきた。外部からの人が入りやすくなったり、友人やボランティアの人びとと外出が行えるようになったり、空間の拡がりをみるようにもなった。
 しかし、広い世界を見るほど、目分のいる世界や、私白身の視野の狭さが見えてきた。また、友人、ボランティアの人びととのひとときは楽しかったけれど、外出等から帰ると、やはり私は病院の中で生きる一患者であり、彼らの生きる世界や彼らとの交わりにこのままでは接点は見出せないよらな気がして、さみしくもあった。
 それはあせりでもあったのかも知れないが、私の近い将来は、白い壁に個室のベッド△148 の上なのだと思ったら、それを今から、たた手をこまねいて待っていることもないと思えてきた。重度患者となってから、病院を退院し、何の基盤もない地域で生きていくことは無謀といえば無謀かも知れない。だが、一五年待っても、病気の治癒の見込みもまったくないし、先の希望もない。誰かが私に手をさしのべてくれる訳でもない。ならば、白分自身で生活の場を築いていかなけれぱならないし、安らぎの場、泣ける場をつくっていきたいというのが正直な気持たった。私達が本来生きていく場所は地域であり、その中で白分の役割を見つけていきたいと思った。
 様ざまな経過を経て、私は今埼玉県浦和市で、健常者二名(専従介護者一名、同居人一名)、障害者二名で一軒家を借り、共同生后を送っくいる。もちろん近隣の人びとやボランティアの人びとに支えられている部分も大きい。実際にこの生活を始めてみて生活をすることの難しさや、地域での課題が現実味をおびて少しずつ解るようになった。
 現在ある行政サービスを最大限に活用しながら、足りない部分を知恵とカを出し合って解決の力向へ進めていこうと始めた私達だが、地域で暮らす場合に、経済的な保障、介護体制の保障等は、ほとんど無に等しい。筋ジス患者の場合、国立療養所に入院すると、月々三十万を越える入院諸経費が必要であり、それを国が援助、負担しているのだが、地域での生活には、その援助はまったくない。多くの場合、在宅患者は家族の扶養下にあるのだと思うが、一家族の所得の限界や両親の老齢化等、限△149 界は見えている。家族が障害者をまる抱えの発想がある限り、家族の限界が来たら施設へと移るだけで、地域福祉の向上は望みにくく、障害者の独立(自立)も難しいのではないかと思う。
 私の場合、幸か不幸か父に早く死なれ、家族に頼ることができないことを早くに知った。しかし現在、生活保護を利用しているが、最低生活を守るための権利である同制度も申請後、独立世帯として認定されるまでには様ざまな規定があると同時に、常に生活状況な調査されていなければならないという半ば管理下の状兄がある。
 重度障害者が、生計を維持していくだけの額を稼ぎ出すことは不可能に近い。それは単に肉体的ハンディのみでなく、経験領域の狭さ、教育の不充分等、複雑である。年金制度の改革による所得保障や、個々のニーズに応じた介護保障等、もう少し考えられていってもよいのではないだろうか。単純計算でも、施設での生活に要する巨額な経費と地域の中での個々のレぺルにおける生活に要する経費を計算すれば、どちらが合理的かつ安上がりであるかが明らかになると欧米の人びとはいう。それには実践を通して、そのデータをつくりあげることと、これらの制度の必要度を高める地道な活動が私達一入ひとりに要求されるような気がする。
 だけどあせるまい。
 とにかく、生き統けること≠セと思う。△150
 毎日の生活をしながら、食事をするということが、こんだてを考え、材料を購入し、作り、食べるということであることを知る。正直いって、食物の栄養価や何をどの分量購入したらよいのか等、私は何も知らない。生活の場而、場面で、はたとどうしたらよいのか考え込んでしまうことの連続だ。これまで如る必要がなかったとはいえば、それまでだが、これが二五歳、今の私なのだ。
 人と人との信頼閏係とつながり(相互扶助)で成り立つ地域では、自分のとった行動の責任が直接自分自身に返ってくるという厳しい面もある。でも、そんなところから、ちっぽけかも知れないが、自分の存在価値も発見できるのだと思う。」


◆福嶋 あき江 19840130 「時間の重さ」,岸田・金編[1984:180-193]
*岸田 美智子・金 満里 編 1984 『私は女』,長征社,274p. ※

 ▼「今年〔1982年〕の二月からはじめた私たちの「共同ハウス」の住人は、障害者は私とKさん(交通事故から頚椎損傷)、健常者は、朝九時から夕方六時まで私丈ちふたりの介助にあたるFさん、それに、日常的な介助はしないけど、いざというときの助つ人であり、精神的な支えでもあるTさんの合計四人てす。
 Fさんには専従介助料として一力月十万円を払っています。私とKさんが四万円ずつ、これは生活保護障害者加算の他人介護料をあてています。あとの二万円は、私も会員のひとりとして参加している「虹の会」という、重度障害者の地域社会での生活を保障して、共に生きる場をつくっていこうということではじめられたグループがあって、年二回、映画会やバザーを開いて収益△180 をプールしたなかから出しています。といっても、ついこのあいだ、第一回めの映画会をやっただけですけど、ともかく、そういう計画で……。
 共同生活というのは先例があるんです。私の施設(国立病院筋ジス病棟)時代の仲間が、男性だけで千葉県ですでにはじめてましたし、あと、静岡に「ひまわり寮」というのがあるんですね。このあたりを参考にしました。ゆくゆくは宿泊設備もふくめて、アメリカのCIL(自立生活センター)的な機能もはたしたいという遠大な計画がありまして……。でも、直接の目的はやはり介助の確保、とくに平日の昼の介助を確保するということね。
 二十四時間の介助を必要とする障害者が地域社会で生活していく場合に、いままでは、それぞれが自分のちからで介助者を募ってやってきたでしょう。介助者を募っていくこと自体が運動で、それはそれでとっても大事なことだし、そのひとたちのおかげで障害者が地域で暮らすことがある程度定着したのは事実なんだけれども、誰にでもできることじゃないと思うの。健常者を組織できる強いひとに限られてくるんじゃないかしら。
 私自身、運動のできるタイプじゃないし、できれば英語の塾をひらいて、子どもたちを通して障害者の状況を伝えていきたいと思ったものですから、平日の昼の介助探しという、いちばん大変なことを、専従介助を頼むということできりぬけたわけです。塾はまだ実現してませんが、昼側、自分の好きなことがやれるという点で、プラスになっています。そのへんは価値観の間題と△181 して、わりきっていかないと……。
 で、ひとりではとても介助料を払いきれませんから、新聞などを通してルームメイトを呼びかりたら、応えてくれたのがKさんひとりだったの。軽度のひとなら、共同生活なんて面倒なだけかもしれないけど、介助の必要な重度のひとには良い方法じゃないかと思ってるし、施設や家を出たいと思ってる重度のひとは沢山いるはずなんですけど。呼ぴかけかたが足りなかったのかなあって、反省してます。
 生活保護の申請に行ったら、独立家計の共同生活は前例がないといわれて、少しもめました。ひとつは私自身の家族からの世帯分雅で、これはもう、父は亡くなっているし、母には私を扶養する経済力もないから、わりに簡単にできにんですけど、共同生活≠ニいうのは、行政の方ではのみこみにくかったみたいですね。あのひとたちはいつも扶養義務≠ニいうのを軸にしてしか障害者を考えられないから。それでも、少しもめた程度で生活保護は出ましたけど、県営住宅ほいまだにダメです。他人同士の入居は絶対に認めないんですね。
 ホームへルパーは私とKさんのふたりぶん、一時間三十分ずつ週三回で、ほとんど入浴介助です。
 夜の介助は夕食の仕度と後片づけ、それに私の夜問の寝返り介助が主なところで、地元の学生さんを中心に三十から三十五人ほど。それと、週一回は専従介助者の休日にしていますので、そ△182 の日の朝九時から夕方六時までは主婦のかたたちが協力してくださってます。専従介助者以外はボランテイアで来てもらってますけど、将来的には有料≠ニいうことを考えていかないと、限界がくるんじゃないかって気がします。
 私も自分で痛感するんだけど、健常者と対等な関係をもつのは容易じゃない。八つのときから十五年間施設で暮らしてきたから、馴れてないんですよね。そういうのって、私ひとりじゃないと思う。でも、いまみたいに、介助を障害者運動のなかにとりこんで、健常者をまきこんでいける強い人しか地域社会で暮らせない状況が固定してしまうと、とくに施設で暮らしているひとは恐れをなして、ますます出にくくなってしまうんじゃないかと思うの。私もふくめて、誰もが地域で生活していけるためには、有料介助≠ニいう考え方はとっても魅力的なのね。▲
 昨年(一九八一年)の夏から昨年秋まで、一年三力月アメリカに行って、CILの活動をみました。私が行ったのはパークレーとポストンとハワイの三力所ですけど、ボストンがいち一ん長くて、六力月ほど厄介になりました。CILも地域によってやり方のちがいは多少あるんだと思いますけど――たとえば私のみた限りでは、ポストンでは施設と在宅のあいだに、六力月から二年までのトレーニング期間があって、そのための中間施設を用意してましたけど、バークレーには、それはなかった――共通していたのは、障害者自身がCILを直接運営してサービス提供の業務をしてたこと、サービスが有料だったということ。障害者はクライアント≠ニ呼ぱ△183 れてました。クライアント≠フ日本語でのニュアンスはちよっと思いっかないけど、介助を買う消費者≠ニいうことは聞きましたし、コンシューマーズ・ライト(消費者の権利)≠ニいうことは、盛んにいってましたね。気にいらなかったらクビにしてもいいの。私にはちよっとできないことだけど、アメリカと日本では、雇用関係の考え方もちがうでしょう。
 ポストンにいたあいだ、週二回、ふたりの介助者を頼みました。ひとりは学生で、約束の時間に遅れたり、「今日は行けません」なんて、簡単にいってくるひとだったのね。たぷんアメリカの障害者だっにら、即座にクピにしてたと思うけど、私はできなかったですねえ。だから、よりい甘くみられたのかな。
 CILに頼んで介助者を派遣してもらう揚合もありますけど、たいていは障害者本人が、例えば友人知人などのなかから介助者を探して「私には週何日、何時間の介助が必要」ということで介助料を申請すると、CILからはカウンセラーが出ねいて、その申請が妥当かどうか調査するわけ。で、必要な介助の時間数が決定されて、CILから行政府に介助料が申請される。介助料ほ最低賃金法に従って一時間四ドルニ十五セント(約干六十円)国と州が折半してCILに下りてきて、CIL→障害者→介助者というふうに支払われるます。CILのないノ毛くま下りるんです。ただ、州によっては負担しないところもあって、その場合どうなるか、ちょっとわかりませんけど「まだまだきびしい伏況にある」といってましたね。ただ、介助者の市場、と△184 いうか、介助者を探すこと自体はそんなにむつかしくなかったみたい。ちょうどアメリカが不景気だったこともあって、失業者が多かったし、主婦のパート労働の希望者もいたり、圧倒的に多いのがやっばり学生のアルバイトで、心理学や社会学を専攻する学生が、勉強と実益をかねてやってるのね。
 女性の障害者で男性の介助者を雇ってるひとがいたの。身体の大きいひとだったから、女性の介助者では無理だったのかもしれないけど、私の目の前で「汗になったから」って、介助者とふたりでお風呂場入って、ドアを閉めちゃって……あれにはびっくりしました。
 介助が有料で、即座にクビにできる雇用関係だといっても、介助者を探す段階で身近かなところからはじめるから、必らずしもギスギスしてるわけじゃないし、接している限り障害者に対する理解がうまれてくるのは当然でしょう。誰もが平等に介助が保障されるという点で、有料介助は希望のもてるやりかたでした。
 日本とアメリカでは国力の差があるから、今すぐ有料介助を実現させるのはむつかしいかもしれないけれど、でも、いま日本では施設にいる障害者ひとりあたり、施設によって多少の差はあても、だいにい年間四百万円ぐらいの予算があって、その八割がたが職員の人件費に消えていくことを思えば、まったく非現実的な試みとはいえないと思うんだけど。△185

 U
 ▼アメリカゆきは、ICYE(国際キリスト教青年交換連盟)の海外研研修制度のおかげです。国際障害者年をきっかけに、障害者にも門戸を開くと聞いて、すぐ応募しました。ひとつは将来を考えて、英語力を身につけたいと思ったのと、もうひとつは、施設を出て自立するということが、私の日程にはいっていたから、そのためにもCIL(自立生活センター)をこの目でみたいと思ったのね。もちろん、あとの方が主な理由です。資格審査といっても、英語力よりも、何をしに行きたいかという、意思力の方が重視されるから、あんまり心配してなかった。
 ところがICYEの事務局の万では、障害者といっても、もっと軽度のひとを考えていたらしくて、暴初は「困る」っていわれたんですよね。それで「どういう条件ならいいのか」と、逆にこちらから訊ねて、いろいろとやりとりはあったんですけど、結局、私の責任で介助者をつけること、介助者の費用は自己負担ということで、OKが出ました。
 費用はぜんぷで最低でも三百万円必要だというのに、私の貯金は五十万円もなかったの。介助者の費用どころか、私ひとりのICYEの正規の自己負担分(百二十万月)にも足りないぐらい。それでも「おかねは何とかなる」って、どうしてかしら、自分でもよくわんないんだけど、「なんとかなる」って思っちった。ええ、結局はカンパです。私がハム(アマチュア無線)をしてたので、その先生の呼びかけでできた歩む会≠ェ母体となってカンバを集めてくれました。△186
 姉もカになってくれました。私とは四つちがいで、やはり筋ジスでしたので、病棟はちがっていましたが、同じ病院に入ってました。姉は、ふだんから自分を殺しているようなところがあつて、やっぱり長女ということで、好き勝手はできないと思ってたんじゃないかしら。そのぶん私が動いてくれれば、ということで、いつも見守って、ひそかに応援してくれたし、私もいざとなると姉が頼りで、アメリカゆきもまっさきに姉に相談したんです。すぐ賛成してくれて「いつでも貯金をつかってくれていい」といってくれました。
 沢山のひとのおかげで行くことができたんですけど、他人のおかねって、重いですね。「障害者にも社会参加の道はあるはず。アメリカから帰ったら自立します。そのためにもぜひCILを見たいんです」ということで呼びかけて、その趣旨に賛同してくださったひとたちのおかねをつかって一年間アメリカで暮らしたのに、期待に応えられなかったらどうしよう、なんて思っちゃったら、帰るのがおそろしかった。
 アメリカに行くこと自体は、べつにこわいとは思わなかったですね。日本の国内もろくに知らないのに。でも、知らないからかえってよかったのかな。それよりも、何かの拍子に行けなくなくるんじゃないかという不安の方が強くて、成田を発つまで信じられなかった。▲
 介助は、施設で看護婦をしていたNさんが、退職してひきうけてくれました。
 アメリカに着いたばかりの頃は、「あれも、これも」と、自分のことばかり考えて夢中でした。△187
 それにつきあってくれたNさんの体力というのは、一年間私の介助をやりきって、カゼひとつひかなかったんですから、すごいと思います。おまけに、移動はレンタカーだったんですけど、左ハンドルの左側対面で、日本とは逆でしょう。馴れるまでの精神的疲労は大変だったと思うんです。
 小さいケンカはしよっちゅうでした。車でどこかに行くときは、Nさんが運転して、私は地図を読む役目なの。で、高速道路の出口の指示が運れて、次の出口までえんえんと行かなきゃいけなくなったときとか、何かモノがなくなったときに、お互いのせいにしあったりとか。ふたりだから仲直りもなにもなくて、なんとなくやりすこだしたけど。でも、決定的なケンカはできなかったですね。Nさんの方も当然手ごころは加えるし、私の方も、ケンカしたら逃げられるんじゃないいかと思ってしまって。よく考えたらNさんだって、簡単に逃げられるわけがないのに、ケンカ→逃げられる→こわいって思ってしまうんですよね。いつも力関係というのがぬぐいきれなくて。健常者を信用するのって、むつかしい。「私が悪かった」でコトをすませてしまったところがあって、やっぱり逃げ≠ナすよね。
 障害者の家を訪間したり、何かの巣まりに出たりすると「日本から障害者が来た」ということで、どうしても私だけが注目されて、Nさんは無視されてしまう。Nさんの協力があったから私はその場にいられるわけだから、その意味ではNさんこそ報われていい立場なのに、どうかする△188 とNさんには言葉もかけられないで終わってしまう時もあるんですよね。そういうのは私も居心地が悪いし、平気じゃいられないから、「いいのよ、どうせあなたが主役なんだから」っていってくれるNさんのことばも、その通りには受けとれなくなる。共に生きる≠ニいうのは、ひびきのいいキャッチフレーズではあっても、そうやすやすとはいかないですよね。
 アメリカの旅でいちぱんよかったのは、CILをぬかせば、もう、何といってもディズ二ーランド! 入るときに二十ドル払えぱ、なかの乗りものはぜんぶ自由なの。一日じゅう遊んでてもあきない。二回も行っちやった。
 いまでも、ちよっと疲れると「アメリカで暮らしたいな」って思っちゃう。私にはこれから≠チていうことばっかりだけど、むこうでは制度もできちやってるから。そういうときに、他人のおかねの重さをヒシヒシとかんじて「あ、いけない」って……。

 V
 私の場合は、施設を出ることとアメリカに行くことがワンセットにあったもんで、聞かされた母は、かなり混乱して、「学生ボランティアなんかのそそのかしにのって」とか「親の苦労も知らないで、勝手なことをする」とか、いわれました。親の苦労といっても、私は八つの歳から施設に入れられたんだから、どちらかというと国に育てられたんだし、健常者のそそのかし≠ネ△189 んていうのは問題外でしょう。母の反対は、理屈というより、ぴっくりして、わけがわかんなくなっちやったというかんじで、だから、気持が静まれば、あとは「自分の好きなようになさい」ということになりました。
 それがね、母の出してきた最終的な許可条件というのが、「男と一緒に住むことだけはやめてくれ、それさえ約束してくれれば、どこで何をしてもいい」ということだったの。それを聞かされたときに、母がなぜあんなに混乱したのか、わかったような気がしたけど、私には、まるで見当ちがいのことだったのね。
 「私の場合は、施設を出ることとアメリカに行くことがワンセットにあったもんで、聞かされた母は、かなり混乱して、「学生ボランテイアなんかのそそのかしにのって」とか「親の苦労も知らないで、勝手なことをする」とか、いわれました。親の苦労といっても、私はハつの歳から施設に入れられたんだから、どちらかというと国に育てられたんだし、。健常者のそそのかし。な△んていうのは問題外でしょう。母の反対は、理屈というょり、ぴっくりして、わけがわかんなくなっちやったというかんじで、だから、気持が静まれば、あとは「自分の好きなようになさい」といううことになりました。
 それがね、母の出してきた最終的な許可条件というのが、「男と一緒に住むことだけはやめてくれ、それさえ約束してくれれば、どこで何をしてもいい」ということだったの。それを聞かされたときに、母がなぜあんなに混乱したのか、わかったような気がしたけど、私には、まるで見当ちがいのことだったのね。
 恋愛というのは、どうしてもピンとこない。こわいから考えないようにしてるのかな。いくらつっぱってみても、私が筋ジスであることにかわりはないわけだし、それをどこまでわかってもらえるのか、わかってくれるひとって、いないんじゃないかという不信があるのかな。
 男のひとに「好きだ」といわれたことは、若干、一回だけあるの。そのときも信じきれなくて「信じられない」といったら、ものすごく怒られた。「信じられないのか」っていわれて、「信じられない」と、いい切って別れてしまった。
 「今年はこれをしよう」という目標はたてられる。姉が二十九歳まで生きたから――姉は私がアメリカに行っているあいだに亡くなりました――たぶん、私もそれまでは生きられるだろうというところまでは計算ができて、でも、その先の自分はちょっと想像がつかない。先がみえない△190 に結婚するのは相手に悪い。結婚できないのに恋愛してもしようがない……でも、それもホンネじゃないみたい。
 といって、とりたてて自分を不幸だとも思ってないのね。筋ジスだったから経験できたことだって、いっぱいあるんだし。そういうことをぜんぷひっくるめて「筋ジスであるひとりの人間」としての私をわかってくれるひとだったらいいんだけど。でね「じゃあ、どうわかってほしいか」といわれて「こうこうです」と、いえるぐらいなら、とっくに解決がついているはずだし、逆にゴチャゴチャ考えている間に゛やっちゃえ」っていわれても、そのゴチャゴチャこそ、私が切りすてられないものだし、切りすてたくないもので、それもふくめてわかってほしい……。
 だいたい私は男のひとが好きじゃない……これもホンネかな、どうかな。むかしから女のひとの方が好きだったし、女のひとのなかにいる方が気がらくなのね。
 「なぜ施設を出たかったか」と訊かれても……理由はいくらでもあるけれど、理由をあげていけばいくほど、なんか私の思いとズレていくような気がする。「あそこでは死にたくなかった」って、たぶん、それだけなんだけど。
 ▼施設を出ることを、漠然と考えはじめたのは、昭和五十一年ごろだと思う。私は養護学校の高等部を出て、作業療法をしてたんだけど、筋ジスというのは治療方法がないでしょう。だから、療法といっても、毎日毎日をつぷしていくだけのことだったし、そのあいだにも、百人を越す仲△191 間たちが亡くなっていって、精神的にも出口がないという状態だったの。で、何かしなくちゃと思って英語の勉強をはじめたときに、誰に聞いたのか「聖書を英語で読むと上達が早い」ということで、読んでいるうちにぶつかったのだが「見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くのである(コリント人への第二の手紙・四章十八節)」というようなことぱだったのね。いわれてみれば私たち障害者は、いつもできる∞できない≠ノしばられるけれど、そんなことより、何かをしよう≠ニ思ってする&が大事なんだと、こんなこと、誰でも、いろんな場面でわかっていくと思うんだけれど、私の場合は聖書から学んだんですね。
 まあ、その前から、昭和四十八年ごろから、ボランティアのひとたちが施設訪問にくるようになって、施設のなかに新鮮な空気が流れはじめていたのね。それは結局は外からの力だったわけだけど、施設以外にも生きる場はあると思いはじめていたから、聖書のことばもすっと入ってこれたんでしょうね。▲
 健常者といっしょに暮らしてみて、「施設の十五年間は何だったんだ」って、あらためて考えさせられることはしよっちゅうです。十代から二十代にかけて、人生の大事なときに、地域や家庭や学校の日常のなかで、自然に出あって、経験として積み重ねられたはずのものが、私にはなかったということ。だって、今でも、自分が何を奪われたのかさえ、そのときどき事態にぶつ△192 かってみて、はじめて気づいていくんですもの。
 私に、いろんな意昧で、経験が欠けていることは認めます。でも、経験を与えてくれなかった大人たちにだって、責任はあると思うの。十五年間、私が施設で受けてきたのは、筋ジスを自分の運命としてあきらめさせるだけの教育で、自分で決断を下すことはもちろん、自分の思いを外に出したり、それ以前に、自分の思いを持つことも、しまいにはなくさせてしまう。さっき、恋愛に関して、とりとめのないことしかいえなかったんだけど、あのとりめのなさだって、私の受けた教育と全く無関係じゃないと思うの。
 年月がとりもどせないからなおのこと、その年月のなかで私の受けてきたことを、語り伝えたいし、いまもかつての私と同じような目にあっているひとたちに呼ぴかけたいと思っています。」(福嶋[19840130:180-193])

◆福嶋 あき江 19841215 「共同生活ハウスでの実践をとおして」,仲村・板山編[1984:268-278]*
*仲村 優一・板山 賢治 編 19841215 『自立生活への道』,全国社会福祉協議会,317p. ASIN: B000J6VPS6 [amazon] ※

 「進行性筋ジストロフイー症のために、入歳から入院を続けてきた私にとって、病院を出て生活をする日が訪れるなど、希望ではあっても長い間現実として考えられることではありませんでした。
 治療法もない現実のなかで、私たちの入院の意味は隣接された養護学校で小学部から高等部までの教育を受けられるということが唯一のものでしたが、それも卒業と同時に消えていきます。筋ジスの生徒は、何一つ進路と言えるものはなく、余生を過ごすにあたって、このまま病院に残るか家庭に帰るのかの二者択一、いいえ実際には家庭の状況や両親の年齢を考えるとその選択すらできずに一生が終わってしまう状況が当たり前になっていました。何の手立てもなく、職員も父母もそして当の本人たちもあきらめを先に見てしまうことが、ニ〇歳前後の私にはわりきれるものではありませんでした。
 それでも、▼高等部を卒業した五十二年、いつか何かができるかもしれない、そんな夢が捨て切れず某大学の通信教育を受け、学生ボランティアさんたちの介助、協力で下宿をして、三週間の夏季スクーリングに参加できたことが、私の生活に大きな変化を与えてくれました。三週間の短期とはいえ、△268 病院や家族と離れて生活することは、生まれてはじめてのことでした。朝から午後四時頃までの講義に加え、夜も復習しなければついていけず、身体は少々疲れたものの、同じ年代の人たちとの生活で、彼や彼女らの活動領域の広さは、病院の生活しか知らなかった私に刺激を与えてくれ、疲れを忘れさせてくれました。この時に私は車いすでも電車に乗れること、そして当然のことながら自分の行きたい所へ行けるということを実感として知りました。階段や段差はあったけれど、慣れた手つきで車いすを介助する学生のMさん、また呼びかけに応じて車いすを持ち上げてくをれる一般の人たち、はじめての私には人に声をかけられないほどの恥ずかしさでしたが、できないと思ってきたことが、周囲の人たちの手は借りるものの、一つ一つ可能になっていくのは解放感以外の何ものでもありませんでした。「おまえは自分で何もできないのだから、人に迷惑をかけないように、人の言うことは素直に聞いて、かわいがってもらえるようにしなければならない」――そんな母の口ぐせを聞くとも聞かず育ってきた私は、いつしか人に話しかけるよりは、話しかけられて口を開くことを、そして少々納得がいかなくても自分の胸のなかで押し殺すこともできるようになっていたのでした。介助者なくして生きることのできない私にとって、それが生きる知恵となっていたのです。しかし、「行きたい所はどこ?」「今晩食ぺたいものは?」――そんな選択を迫られる生活となって、こんな基本的なことまで自分のロからスムーズに出てこないジレンマ,なさけなさを感じるのでした。こんなことまで他人にゆだねたくない、そんな気持が涌き出したのです。これも私を対等な人間とし△269 てつきあってくれた人たちのなかでこそ出た、私の意地だったのかもしれません。
 その後、彼や彼女らとの出逢いが私の行動範囲を拡げてくれました。しかし、広い世界を見れば見るほど、自分のいる世界や私自身の視野の狭さが見えてくるのでした。友人やボランテイアの人ぴととのひとときは楽しかったけれど、外出などから帰ると、やはり私は病院のなかで生きる一患者であり、このままでは彼らの生きる世界や彼らとの交わりに接点は見出せない、そんな虚しさ、さみしさがつのるのでした。あせりでもあったのかもしれませんが、私の近い将来は白い壁に覆われた狭い個室の中だと思ったら、それをいまからただ手をこまねいて待っていることもないと思えてきたのです。重度患者となってから病院を退院し、なんの基盤もない地域で生きていくことは、無謀といえば無謀かもしれません。けれど、今一度自分の身を一般社会に置いて生きていきたい、自分の持てるカを試してみたい、そのなかで自分の役割を見つけていきたいと思ったのです。その思いを解ってくれ、相談に応じてくれたのが、スクリーングにもかかわってれた人たちだったのです。まだ自分の将来も定まらぬ若い彼女ら、人間それぞれできることとできないことがあるから決して無理はしないように、それが私たちの鉄則といえば鉄則でしたが、不可能だと言わずにかかわれる部分を出し合ってくれたことが一番嬉しいことでした。アパートの隣というぐらいの距離で協力できることだったら――そう言ってくれたのが後に共同生活ハウスの住人となったTさんでした。しかし、話し合っていていつもつまずくのは、介助の問題でした。▲▼二四時間の介助を要する入たちが、学生さんや社会人の協力で介△270 助ローテーションを組んで一人で生活しているという話も耳にしていましたが、夜はその体制が組めても、日中学生さんに学校を休んでもらうとうことは、互いの生活の保障という意味で一番したくない点でした。日中の介助をどうするか、現行の家庭奉仕員制度では週二二回(一回二、三時間)程度の介助しか求められません。あまりにも冷たい福祉制度、それでもそんな現実のなかで静岡市の方で脳性マヒや筋ジスの人たちが健常者の人たちと同じ屋根の下で共に生活しているということを聞き、その生活を一週間経験することができたのは大きなステップでした。介助のことにしても、何名かの障害者が集まれば一名の専従者を雇うことも可能になるというように、すべて実践のなかで生まれただけに重味がありました。画一的に考えず、いろいろ工夫すれぱ私たちにもできるかもしれないという感触を、同じ立場の人たちが与えてくれたのです。▲

 二 CILで学ぶ
 また五十六年七月から翌年十月までの一年三か月という期間、多くの方力がたの支援のなかでアメリカ生活を経験できた私は、地域のなかで生活している多くの障害者と出逢うことができ、いっそうの勇気をえることができました。すでに専門家の人びとによって日本に紹介されている自立生活センター(CIL)ですが、障害者の人たちが中心となってその運営にあたり、自らの体験をもとに、これから施設や病院を出て生活しようとする人たちの援助をしているシステムを見て、ここになにか△271 大切なものであると思ったのです。それは、してあげる、という上からのおしつけではなく、奪われている市民権を一人でも多くの仲間が取り戻すように、そうした意識のうえに立っていることだったのです。とくに介助の点で目を見張ることとして、ただ一方的に受ける側、与えられる側から脱し、自分の必要としている介助の時間を割り出し、障害者自らが時間分の介助手当を請求し、介助者を雇用していくという主体的な立場に立っていたということです。けれど彼ら、彼女らの生活も決して楽ではなく、家賃が高ければルームメイトと共に住む、そんな自分の生活設計、工夫のなかで生活しているのだということが忘れられません。とにかく見ているより実践しなければ何もはじまらないと思いました。

 三 共同生活ハウスの試み
 そして、▼昭和五十八年二月、埼玉県浦和市に一軒の家を借り、私たちの「共同生活ハウス」がスタートしました。その機能は次の通りです。
 @ 障害者と健常者の相互理解と協力の場とする。
 A 地域のなかにおいて障害者の日常生活の保障を考えていく。個々人のニードを明らかにし、それに関するサービスの促進を共に考え、行う場とする(介助、医療、経済、交通機関など)。
 B 個々人の力(アビリティー)を高める場とする(教育、職業、趣味、地域活動など)。△272
 重度障害者が地域のなかで生きられるように、その生活の場と地域づくりを目的としてつくった会、「虹の会」が運営母体です。共同生活ハウスのメンバーに、頚髄損傷で病院に入院中に私たちの載った新聞記事を読んで一緒に住むことを希望してきたKさん、スクーリング時代からの友人で緊急時の介助や連絡にあたる同居人としてTさん、日中の介助にあたる専従介助者としてFさん、そして私の四人が集まりました。また夜間は、近隣の二大学の学生さんたちの協力をうることにしました。とにかくなにもないところからはじめるのですから理想と現実のギャップはいうまでもありません。
 まず住居形態において、私たちは戸口がそれぞれ別でいて互いが連絡のとれる距離での生活、つまりアパートの一階をずらりと借りるというような形を描いていたのでずが、現実は厳しく、一階八畳一間、二階六畳と四畳半の一軒家でスタートすることになったのです。しかし、二十歳を過ぎた者同士の一軒の家での生活は決して理想的な形ではありませんでした。一階八畳にKさんと私、二階に健常者の二人が住み、夜になると学生さんが私たちの介助に入る、それはみんながガラス張りの状態だったのです。それでも、中途障害者でまだとまどいを感じているKさん、まるっきり地域のなかで暮らしたことのない私にとってて、健常者が常にいる生活は安全で、第一歩を踏み出すには決して否定できない形でした。しかし、共に生きるという共同ハウスであっても、この形から健常者にとってなんのメリットがあるのか? ただ単に障害者の安全のための同居では負担が重すぎる。障害者の自立とは? 介助が必要なのか介護が必要なのか? 地域での生活になにを求めているのか? 日々を追△273 うごとに繰り返し話されるのでした。私たちにしても一室の同居、しかも会の話し合いや食事にと、自分たちの部屋がすぺてを兼ねる生活にはやはり抵抗がありました。また、なぜ健常者の同居が必要なのかと問うと、外に仕事をもち、朝早く出かけ夜遅く帰宅するTさんから社会の厳しさなどを感じられ刺激になることや、健常者の同居人が呼べば聞こえる二階にいるというのはたしかに安心でしたが、結局のところ私たちのニードは介助の保障だということを確認すると、同居の意味が変わってくるのでした。単に緊急時の介助を考えるなら、学生の介助協力者や近隣の人びととの交わりなどがある程度拡がっていくなかで、その人びとにも声をかけられることで、同居していた健常者も地域の支援者の立場としてのかかわりでやっていける、いやそうした形がむしろ自然なのではないかということに達したのです。しかし共同ハウスはいまは私たち二人が生活しているけれど、私たちだけのものではない、今後施設などから出たいという人たちのことを考えると、私たちに必要な介助だけなので、自分たちのプフライバシーを保てる郡匿がはしいという理由から、いまの段階で、この形態(健常者との同居)をすぐくずしてしまってよいのか、私たちが目ざしているのは、幼少時から施設にいたために自分の生きる地域ももたず、支援者もいない重度障害者の生きる場をつくることのはずである、また、会員のなかには障害者のみの生活には不安が残る、同じカマのめしを健常者、障害者の別なく食べる和気あいあいとした生舌、それが共同ハウスではなかったのか、など様々な意見がありました。けれど試行錯誤で、誤ったらまたやり直せるのが私たちのように名もなく細々とやっている民△274 間活動のメリットであり、本当に自分たちのニードを見出すために、とにかく様ざまな形をとってみることになったのです。▲
 こうして▼十月一日、私たちは健常若との同居を離れ、三DKのアパート一階で二人で暮らすことになりました。住居を探すにあたって、一階で二部屋ないし三部屋でバス、トイレ付き、それもいままでの地域を大幅に離れたくないとなると、なかなか見付かるものではありませんでした。まして、障害者の居住と聞いて眉をひそめる不動産屋さんも少なくありません。いままで借りていた家は健常者のTさんが探し、Tさん名義でした。そしてなによりも、健常者の同居ということて私たちの居住もままになっていたのだということを、「障害者はあんたのタンスと同じなのだから、あなたが出て行くのなら一緒に連れて行って欲しい」と不動産屋さんから言われたことをTさんから聞き、自分たちの置かれている状況の厳しさを改めて知ったのでした。健常者との同居のなかで、本当の状況が私たちに見えていなかったのです。それが健常者と共同(一対等)になりえなかった部分でもあったのかもしれません。それでも何軒かあたるなかで、幸いなことに私たちは現在のアパートを借りることができました。専従介助者が通いとなり、新たな生活のはじまりです。住人は私たち二人なのだという緊張感もありますが、ある意味で解放感もあるというのが本音でしょうか。

 形態を変えながら、共同生活ハウスの生活も一年が経とうとしています。多くの入びとのこ協力の△275 なかで、いまの生活は維持できるようになったものの、それが保障されたものであるかというと疑問であり、現在の課題も、表1に示すように多々あります。とても方策までには至りませんが、共同ハウスを一つのたたき台としてとらえ、二年後、三年後と、今後の拡がりを考えていきたいと思います。▲
 表1 現状と課題△276 △277 △278」

◆佐藤 一成 1996 「あき江さんが死んだ」,『にじ』→ ※

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 「おそらく今現在、このブログが更新されている時間、虹の会大忘年会が行われている予定であります。
 つまり、これは事前に埋め込んだ更新プログラムによって更新されているというわけなんですが。
今年は虹の会が始まって30年とかなんとか、そんなことで、30年を振り返る企画を任されていて、きっと楽しく終わっていることかと思うんですが、どうでしょう。
 で、ついでに、振り返ってみましょう。
1996年に自分が機関紙に書いた原稿を何回かに渡って載せてみます。
これ、大きな虹の会のターニングポイントを書いたモノで、つまり、もっと前に載せてもよかったはずなんだけど、忘れてましたね。
つまり、今となってはそのくらいのことなんですが、まあ16年前はそうではありませんでした。
てなことで。

1996年5月20日発行機関紙掲載分
「あき江さんが死んだ@」

 あくまで個人的な思いであることをあらかじめ断っておくが、虹の会の流れとして昨年度はひとつの区切りがついた年だと思っている。あき江さんが死んだときを一つの区切りとするなら、そこをスタートとした時代が終わったということである。(なぜそう思うのかについては、おいおい書いていく)
 これからはあき江さんの死をスタートとした時代とはまったく別の次元で活動に対する考え方を作っていかなければ、やってはゆけない。個人的にはそう思っている。自分にもケリがつかないし。

 今回から数回に渡って書こうと思っている内容は、三年前にこの連載を始めたきっかけでもある。つまりこの内容を書くために連載を始めたということだ。いや、連載のみならず、「これをいくつか書く」と思って活動をしてきた。
 だから、これを書くということは、自分にとっては、一つの終わりと言うことになる。
 それは、あき江さんの死んだ直後から一年位の間に起きた様々な出来事のことだ。あき江さんとは、虹の会の創始者で、もちろん死ぬまで虹の会の会長であった。彼女が死んだのは、九年前の一九八七年の7月のことであった。
 (ってすげえ大袈裟に、かつ、かっこよく始まっていることに赤面している。皆様におかれましては、気楽に読んでください)

 そもそも、僕があき江さんと出会ったのは大学一年の時だった。
 当時つきあっていた彼女が、あき江さんの介助ボランティアをすると言うので、ノコノコとついて行ったのだ。
 当時、自分は周囲から「変わった人である」という見方をされていたようで、イイ意味でも悪い意味でも目立っていたらしい(自分ではわからないけど)。「噂には聞いていたけど、あなたが佐藤君か」といったようなことを言われたと思う。
 その時は、介助といえばほぼ全てが(昼間のパートを除いて)女子学生のボランティア(泊まり込み)であった。自分の母校である埼玉大学や衛生短期大学の学生が中心になって介助をしていた。
 そして、そのボランティアの集まりが、すなわち虹の会、といった感じであったと思う。
 障害者の地域での生活を進めるための運動をやる、といった崇高な理念とは裏腹に、あき江さんとその介助をするボランティア、という循環の中で、それを維持しようと言う印象である。
 といっても、今となってそう思うというだけで、その当時はそれでも「偉いことする人もいるんだな」と自分は思っていた。僕は大学では障害児教育のエキスパートとなるためのコースに在籍していたのだが、ボランティアと名のつくような、またはそれに類する活動は、大学一年の時は何もしなかった。
 多くの級友は、やっていたようであったがそもそも大学に行っていなかったせいもあり、どうしたらやれるかもわからないし、そもそも興味がなく、やる気がなかった。「ボランティアなんて偽善じゃんけ」とか思ってたし。(今でも思ってるけどさ)大学に入ったら遊ぼうと思ってたし。
 それがなんの因果か今こうして偉そうに機関紙に物を書いているんだから、人生どこでどうなるかわからないもんだとつくづく思う。それほど自分と虹の会の距離は遠かった。言ってみれば、宜保愛子と大槻教授、もしくは新進党と共産党、小林よしのりと宅八郎、くらい相容れないといった感じであった。
 とはいえ、そうこうしているうちに、だんだんと虹の会との距離(すなわちあき江さんとの距離)は縮まっていくわけではあるが、そのあたりの事については後々触れるとして、今回は先を急ぐ。
 今考えるに、自分が虹の会に関わることになったターニングポイントは、あき江さんが倒れる2〜3日前に彼女と数時間に渡って、二人きりで話をしたことにある。その時はすでに虹の会の会議などににも顔を出しているような立場でもあったが、彼女とじっくりと二人で(なにしろ介助者が側にいることが多かったということもあって)話したのはそれが最初で最後であり、悲しいかな最後になってしまった。
 その当時に虹の会に出入りしていた人で、現在も会の第一線で活躍中という健体者は他に三原・竹脇がいるが、偶然にも三原も私が話したその次の日あたりに彼女とじっくり話し込んでいるという。それも、大学を卒業し職員になってしばらく足が遠のいていた彼は、急に顔を出したくなって彼女の家を訪ねたのだという。そういう事ってあるんだな。何かしら彼とは運命的な物を感じて今でも仲良くしてもらっているが、あき江さんが引き合わせてくれたのかな、とも思ったりもする。
 さて、ともかくその2〜3日後に彼女が自宅で意識を失い救急車で運ばれ、入院先で一週間後に意識を戻さないままに亡くなる。
 当時の会は、あき江さんとボランティアいった形の集団であったから、当然、虹の会は上へしたへの大騒ぎとなった。まあ、客観的に言えば 潰れる状態であった。
 今年健康上の理由などから会長を辞任した戸塚や長期の療養入院生活にピリオドを打ちひとり暮らしを始めることになる工藤を中心として会が形をつくる、というより会が「続けていこう」と声を上げるまでにそれから1〜2年かかる。
 とにかくその1〜2年と言うのは混沌の時であった。まさにカオスですよカオス。何がなにやら分からないといった風情。
 まあその当時の虹の会といえば、戸塚や故佐竹といった障害者を中心に、健体者である学生がそれを取り巻くといった状態。他とのつながりもあき江さんにしか分からないし、(窓口は全てあき江さんであった)学生に運動の「ウ」の字がわかろうハズもない。
 今後について集まって話し合うといっても「どうする?どうする?」という感じで、逆に「もうやめてしまおう」という発想ですら出ないといった状況であったように思う。(半年くらい経った時点では自分と当時の副会長のTとで、「会は解散すべきだ」という提案を会議にするに至るが、逆に腹が座ったから提案できたとも思う。この提案の件についても後で書くつもりでいる)
 会は、こうした舵取りのいない船のような状況であったのだ。そういう状況の中で、あき江さんの積年の願いであった本の出版とそのテレビドラマ化が現実化する。
 彼女は、僕が出会ったときから、「原稿」と呼ばれるものを、裏が白い広告を小さく切ったものに鉛筆で書き付けていた。本を出したいという話は聞いていた。それがなかなか進まず、延び延びになっているという話も聞いたように思う。が、それが「どのような原稿で」で「なぜ彼女が書くのか」といったことはわからなかった。が、とにかく彼女は書いていた。
 しかし、その原稿は今、一部しか残っていない。いや、正確に言えばどこかにはある。が、我々が目を通すことができない状況にある。
 はっきり言う。あの本は虹の会結成前で終わっているが、彼女はそれを望んではいなかった。それは当時彼女と時間を共にしていた者なら誰にでもわかっていたことだ。
 そもそも結成までの本を作るのであれば彼女はとっくに実現していたはずである。
 死ぬまで、彼女の思いは先に先に向いていた。少なくともそのための「本の原稿」を書いていた。
 それをあのような形で出版することになったこと、テレビドラマにまでなってしまったこと、については死ぬ間際まで彼女と共に時間を過ごし、かつ、彼女の亡き後に虹の会関わっていた者として不甲斐なく、申し訳なかったと痛烈に思う。
続きます」(全文)

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 1996年6月20日発行機関紙掲載分
 あき江さんが死んだ A

 あき江さんが倒れてすぐ、「福嶋あき江と歩む会」(以降「歩む会」)の代表であったというI氏が千葉からやってきた。
 聞けば、「歩む会」とは、あき江さんが入院中(彼女は筋ジストロフィーで千葉県の病院に小さい頃から入院していた)に、彼女をアメリカに留学させること目的に、その資金集めなどの活動をしていたという。 
 あき江さんは、歩む会の見送りでアメリカに渡り、一年数ヶ月間CIL等の自立運動の勉強をした後に帰国。千葉の病院には戻らず、浦和で一人暮らしを始めた。つまりは、その時に虹の会は始まることになる。
 と言うと、虹の会の母体が歩む会であるという印象があるかと思うが、基本的にはベツ物であると考え方が当たっている。
 虹の会発足当初の会議録などを見ると、議題的に歩む会の名前が出てきたり、歩む会関連の人たち(先のI氏も)顔を出していたようであるが、活動が進むにつれ、歩む会の影は薄れていく。I氏が定年退職後、(彼女が一人暮らしを初めて1〜2年後)埼玉に引っ越ししてきて活動に参加する、といった話もあったようだが、それが立ち消えになった時点で、歩む会と虹の会は違うモノになったと考えていいだろうと思う。
 結局、歩む会は、一人の障害者をアメリカにやるということでその役目を終わる形になってしまっていた。つまりは、病院に併設された養護学校や病院といった枠の中で、一人のヒーローを創り出したに過ぎない。寄付をしたり、寄付を集めたりした障害者本人やその親の中には、「あき江さんばっかり」といった不満が燻っていたであろうことは容易に想像できる。
 今でこそ車イスでアメリカに行くなどと言うのは比較的容易に考えられるが、十五年以上も前の話だ。世紀の一大イベントである。
 多くの人が彼女に託した夢は、実に重いものであったろう。
 さて前置きが長くなった。先を急ごう。
 I氏は、彼女が倒れてすぐ、精力的に動き始めた。虹の会は、舵取りをなくした船(前号参照)であったから、付添いの件や彼女の母親との話(そもそも我々は彼女の母親を知らなかった)など、年配のI氏は、私たちにとって頼れる存在であった。
 当時の会役員の殆どはI氏を知らず、突然の登場に驚きはしたもののとにかく誰かが仕切ってくれることを望んでいたのだと思う。
 しかし、あき江さんが倒れて、一週間後、彼女が亡くなると共にI氏の動きは暴走し始める。こと本の出版に関して、彼はすぐにあき江さんの親と話をとりつけ、彼女の代理人的役割を演じるようになる。結果、本に関しては、彼女と最後まで活動を共にした我々役員に何の相談もなく話が進んだ。
 今考えるに、彼の理屈は以下のような事なのだと思う。
 彼女が本を書くというそもそものきっかけは、アメリカ行きであった。つまり、広告の裏に、彼女の手の大きさからするとやけに大きく見えるペンで書き付けていたのは、アメリカ行きに寄付をしてくれた人たちえの報告も含めた本の出版なのだ、と。そしてそれが千葉のみなさんの「期待の重さ」への一つの答えである、と。
 彼の動きは、スピーディーだった。広告の裏のコマ切れの原稿は一年後にはテレビドラマに化けるのである。確かに、彼はあき江さんの筆の遅さにうんざりしていたのであろう。
 その本が上がるまでは、彼の中では「歩む会」は終わっていなかったのだ。急ぎたい気持ちは今は理解できなくもない。
 当初は彼を頼っていた我々であったが、原稿を巡るトラブルから関係が悪化する。
 彼は、こちらが整理し、渡した原稿は返さないし、コピーもさせないという。(つまり我々は、コピーも取らずに遺品である現物を手渡してしまったわけで、今考えれば、あまりに若かった)
 我々は、これからの虹の会のことを考えるに当たって、これまでの虹の会の歩みをまとめたかった。
 それには、彼女がどう感じていたのか、彼女がどう虹の会の活動を評価し、考えていたのかという記録を手に入れたかったのだ。
 あき江さんは、福祉課との交渉でやっと手に入れた吸引器を押し入れ上段しまい込んでいた。その理由は「こんなものがボランティアの目につくところにあったらみんなが怖がって来なくなっちゃうよ」というものであった。
 介助をボラでやっていた時代である。「障害者問題を一緒に考え解決するために行動しよう」と声をかける前に、そのハードルをう〜んと低くして、「介助ボラに来ませんか」と言わねばならなかった時代だ(今も変わっていない気がするが)。その挙句に吸引器が見つからず、痰が詰まった状態で彼女は病院に運ばれたのだ。
 虹の会はいかにあるべきだったのか?当時の虹の会(=介助ボラの会)はあき江さん自立生活にとって何だったのか?彼女の言葉で聞きたかったのだ。そうしなければ一歩も前に進めなかった。なにせその時は「虹の会=あき江」でもあったのだから。
 結局我々は、共同ハウス日誌(あき江さんの家を共同生活ハウスと言っていた)などの彼女の文章とボランティアによる文集を作ることにした。この文集には百人を越える多くのボランティアさんが参加してくれた。しかしI氏はそれにもいい顔をしなかった。
 彼の「千葉」や歩む会における位置を考えれば、今は、それも理解できなくもない。しかし当時、結局の所、彼女の書いた物についてタダタダ独占しようとする態度に、こちらも切れ始めていた。
 本が出版された後、彼はこちらのしつこい要請に根負けした形で原稿のコピーをよこしたが、こちらが渡したほんの一部であった。しかし彼は「それで全てだ」と言い張った。
 それだけならかわいい嘘だ。しかし彼は臆面もなくこう言った。「本の第二段を考えている。虹の会結成後の話にしたい」…我々に戻ってきた原稿に虹の会結成後の活動の記述は見あたらない。ない原稿をどう本にするというのか? 
 そして決定的な出来事が起こった。ある日の朝方、電話で彼から「TVドラマ化の話があるんだがどう思うか」と問われ、「これまでの経緯を考えると、どういう物になるかわからない。賛成できない」と強く答えた。彼も「わかった」と言った。私は電話の対応から、てっきり、この話はテレビ局からの打診の段階で、彼が断ってくれるのだろうと思っていた。
 しかしその晩、障埼連の事務所に行くと、開口一番、「沢口靖子だってねえ」と専従の国松さんに言われた。私は何の事やらわからなかった。「えっ?何のこと」「見たよ、新聞。あれ?知らないの?」
 国松さんは、すぐに近所の新聞集配所から、その日付の報知新聞を貰ってきてくれた。
 我が目を疑った。そこには「24時間テレビのドラマ決定・主演沢口靖子。筋ジスの女性の生き様を感動的に描く」というような文字が踊っていた。
 甘かった。痛烈にそう思った。
 その何日か後に、「なんでTV化を許したのか」と彼女と同じ障害を持ち、彼女と親交のの深かったMさんに怒られた。俺も悔しかった。情けなかった。
続きます」

[3]http://superchingdong.blog70.fc2.com/blog-entry-2037.html

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 1996年おそらく8月発行機関紙掲載分
 「あき江さんが死んだB」

 その新聞記事に愕然とした私と竹脇は、真意を確かめるべく、すぐI氏に連絡を取った。 しかしI氏は言葉を濁すばかりで、はっきりとした状況の説明もしなかった。この一件で、I氏との決裂は決定的となった。
 とはいえ、我々にはテレビ化を止める術がない。そもそもテレビ局側にしてみれれば、本の編者と原作者の「代理人」、いわばエージェントが積極的に話を進めているのだ。
 製作者サイド=TV局側が、あき江さんの原作本のドラマ化に虹の会の意向などは無関係だと思ったわけではあるまい。
 虹の会の意向を無視しようと判断したのは、I氏と編者の側であろう。とは言っても、その時点で我々は編者とは面識がなく、虹の会側の問題の処理については、I氏がイニシアチブを取っていたことは間違いなかろう。
 確かにI氏は、当時の我々の役員ではない、いわゆる「虹の会側」の人間に、テレビ化について相談を持ちかけていたかもしれない。
 虹の会というのは、発足当初とあき江さんが死ぬときでは、その運営する人間は、あき江さん以外、百パーセント入れ代わっている。虹の会を立ち上げたメンバーというのは、運営の場からは退き、単なる一会員として虹の会にかかわっているという形になっていた。
 つまり、当時、運営する側の人間の中にも発足当初の人たちを知らない、という人たちがもちろん存在したということである。
 当時、未来に大きい展望を持つしかなかった虹の会には、彼らを知る必要がなかった。
 あき江さん自身が過去の虹の会から脱却しなければ、と考えていたこともあって(一個人、つまりあき江さんを支えるだけのボランティア団体から、障害者の自立生活を支えられるような会へ)過去を振り返るような雰囲気はなかった。
 とはいえ、あき江さんが死んだとなれば話はベツだ。我々だって、葬式や追悼会では、彼らにマイクを取って貰うことに躊躇はなかったし、そうしてもらいたいと心から思った。
 しかしまずいことに、I氏ぬにとってみれば、彼らこそが、自分が知っている「虹の会側」の人間であったとも言えるのだ。あき江さんが振り切らねばならない、と、もがいていた「過去」が、いつのまにか虹の会の窓口になってしまったとしても、それは仕方のないことだったのかもしれない。
 というより、我々、彼女と最後を共にした人間に、それを凌駕するだけの力がなかったというべきであろう。情けないことだ。
 (とはいえ、そんな私たちに、「あんたたちだけでしっかりやんなきゃダメだ!」とケツを叩いてくれるような人たちもいて、その人達のお陰で今があるんですが、それについては別の機会に)
 さてともかく、テレビ化は我々の反対をものともせず、一切事情がはっきりしないままに決まってしまった。我々は中止させるどころか、どこでどうゴネたらいいかすらわからなかった。羽生名人相手に一手も打てない素人状態。
 とりあえずドラマの内容については事前に知らせて欲しいと強く釘を刺した。すると、テレビ局・製作者サイドとしては虹の会の状況を聞きたかったようで、脚本家やプロデューサーと話し(いわゆる取材、というヤツか)をする機会を幾度か持つことになった。それはそれでよかったということになるのだと思う。
 今考えれば、様々な手の打ちようがあったとも思われるが、当時としては最善の策であった、というところが情けない。
 まあ、こうした過程で、脚本の中に、私の気に入った部分をつくることができた。
 駅前でアメリカ留学のための募金活動をしているあき江さんに対して、陰で憎まれ口を叩くサラリーマンが登場するという場面である。「俺だって外国なんて行ったことないのによ。贅沢じゃねえのか」とかなんとか言う台詞だった。
 彼女は、「自分は特別になりたくない」という思いと、そうならない現実(虹の会の運営も含め)に引き裂かれていた。
 彼女は、アメリカ行きが決まった時点で、「特別」を宿命づけられていたと言える。その彼女の戸惑いの一端でも伝わればと思ったのだ。
 しかし、この部分は放映されなかった。
 つい先日、私自身がテレビ局の番組制作に協力し、取材を受けたこともあって、今となれば、脚本はあってないようなものであることはわかる。素人の我々には考えにくいのだが、脚本は現場でどんどん書き換えられていくものであるのだ。 
 当時は、そんなことはわからない。脚本は絶対だと思っていたから。
 結局、ドラマはアメリカに飛んだ筋ジストロフィー(「障害者」という括り方ではないことが、後に重要な意味を持つことになる)の女性の感動物語で終わった。そこに恋をちりばめただけのものだ。彼女の苦悩は、筋ジスという運命だけだったのか?っていう疑問がフツフツとわいたのは私だけじゃあるまい。残念だ。
 ともかくこうしてドラマは放映された。エンディングロールには「協力/虹の会」「監修/I」というテロップが流れた。
 実は、これにもエピソードがある。我々がテレビ局と話をするという段になって、I 氏はしきりに「虹の会は協力ということでいいよね。私は一応監修ということで出るんですけど」と確認をしていた。まあ我々は、監修でも協力でも意見が反映されればよいのだ。「とにかく私たちの意見を反映させて欲しい」と答えた。
 ある打ち合わせの後、東京から帰る電車の中で、一緒に同席してくれた障埼連の国松さんが、急にこう言った。「ねえ、佐藤君。Iさんさあ、ずいぶん監修・協力にこだわってるけど、あれって、コレからんでんじゃないの」といって右手の親指と人差し指で丸を作って見せた。……「ああそうか」なんだか納得できてしまった。
 まあI氏が故人となってしまった今では、これは確かめようがないことではあるが…。
 さて、こうしてドラマにもなったわけであるから本は売れた。こうした「障害者本」の中では比較的売れたということである。
 実はこのドラマの撮影中、(虹の会の事務所をロケ地として提供した)虹の会はバザーの準備を進めていた。会員さんの中には「本があれだけ売れたんだから、ずいぶん入ってきたんでしょ。バザーやらなくてもいいんじゃないの?」と言う人がけっこういた。
 しかし、当時の虹の会には八十万位の金しかなかった。
 そのとおり。本の印税は我々には入って来ていなかった。それだけじゃない。ドラマ化に関する権利、取材費、ロケ地提供についての費用など、一切虹の会には入っていない。
 それらの金がどこに消えたのかわからない。今考えるに、きちんと追求すべきであった。追求することこそ虹の会の仕事であったのかもしれない。
 といっても、その一部については使途がある程度わかっている。「本の印税で設立する」とI氏が言った「福嶋あき江基金」になったのである。しかし、この基金は様々な不透明感・新たな不信感を産むのである。
 (なお、2012年現在、この基金は行方不明です。I氏が亡くなって、追跡する手立てもありません)」

◆佐藤 一成 2001 「(……)」→20160124 「こっからまた15年がたった。」,『スーパー猛毒ちんどんコンポーザーさとうの日記』 

「01年の4月に書いた原稿が出てきた。
ああ、ここからまた15年がたったんだ。

これを改めて読んで、きっとオレ、こっから何かを越えたと思う。
何かはよくわからないけど。

 あき江さんが死んで、もう14年が経とうとしている。
 長かったようで、短かった気もする。
 長男は10歳になった。

 当時、5万円だった給料は、30万を越えるようになった。
 40万を目指していたバザーも、120万程度の売り上げではもう驚かなくなっている。
 2人だった職員も、15人になった。
 市との単独交渉でも、緊張することはなくなった。手が震えているのは役所の職員の方だ。
 市役所に行けば、1階の福祉課の人はむこうから自分に声をかけてくる。
 金じゃなくて、「中身だ」と、自由に使える金だってある。

 虹の会は、大きくなった。
 強くなった。

 今回は、逃げないで、きちんと自分のことを書こうと思う。
 「最近、適当に書き飛ばしてるだろ」という暖かいぶ組幹部のお言葉は、きっと当たっている。
 俺は、自分のことを見つめていない。

 14年前、虹の会が、ここまでくるとは、誰が想像しただろう。
 あなたもそうでしょ?。
 「虹の会は続かない」というのは、誰もが言葉にして言ってたよね。
 俺自身も半信半疑だった。
 常に「よくなる」、と信じている佐藤さんを演じてはきたけれど、本当は、そんな自信はなかった。
 それは工藤さんや松沢にしても一緒だと思う。
 ただ、自信のない自分を見せることは、すべてが崩壊することを意味していると思っていた。

 逃げ出したいと思ったことは、一度や二度ではない。
 だけど、逃げたところで、行くとこなんかなかった。
 その時から、俺には、自分がなかったんだと思う。
 昔に「俺が最も流されて生きている」って書いたことがあったけど、それはファイナルアンサーとしては完璧だ。
 俺にポリシーなんかないんだ。

 障害者のために何かをする、福祉の仕事をする、障害者運動がやりたい…云々。
 俺にはそんなもの、ない。

 あき江さんが倒れる3日くらい前に、二人で話をした。
 これまでの虹の会は、自分がやりたかったものではなかったと、彼女は言っていた。
 介助を「人質」に取られていた彼女は、当時の学生の役員に何も言わなかっただけだ。
 いや、言うことがないという自分を演じていただけだよ。
 いや、もっと正確に言えば、悩む事は演じられても、それを現実に移す事は、彼女にはできなかっただけだ。

 今、彼女は、教会の神父さんが言ってたように、雲の上で手足が自由になっているのだろうか。
 だとしたら、今の虹の会を喜んでいてくれるだろうか。
 そんなことはないだろうな。
 今、もう彼女はいないんだから。
 喜ぶ場所に、いないんだから。
 どっちにしても、天国なんかないけどな。
 死んだら終わりだ。
 残された人間は、彼女のことを思い出せるけど、彼女はもう、思い出すもなにも、無いんだ。

 以前に書いたが、「福嶋あき江とあゆむ会」の伊藤さんにしても、その他の当時のボランティア達にも、俺は馴染むつもりなんか無かった。
 俺は、14年前、とりあえず彼らと決別することだけを考えていたんだ。
 散々なことも言われたが、俺は耐えていた。
 「いつか、見ていろ」、って。

 もう、彼らが虹の会やあき江さん以降の人間を責めることも、貶めることもないだろう。
 あの時に、「虹の会は続かない」と言ったすべての人間は、ここに来て謝ってくれ。
 そして、墓前に行って、額を土に擦りつけて土下座をしてこい。
 人を不安にさせ、やる気を削ぎ、辛さを倍加させたことを、恥じてくれ。

 弔い合戦だった。
 この14年間は。
 運動に勝ち負けはないよな。
 でも、俺はずっと勝ちに拘ってきた。
 そう、「虹の会は強くならなくちゃいけない」。

 俺や工藤さんが動かなくても、もうバザーはできる。
 俺が印刷をしなくとも機関紙はできる。
 工藤さんの体調が悪ければ、工藤さん抜きで交渉だってやれる。
 虹の会は強くなった。

 この間、バザーの準備の後、飲みに行って、俺は「ものを創り出すということは、そんなに簡単にできるもんじゃない。いや、できない。」と言った。
 そして、こう付け加えた。
 「私怨が無ければできないよ」と。
 「でも、私怨なんかで進めちゃ駄目だ。」と。

 俺は、俺らがやってきた道を、自分で否定しているのかもしれない。
 きっと、心のどこかで、自分は納得していない様な気もする。
 「弔い合戦」というのは、本当はきっかけなんであって、本当の理由は違うのかもしれない。
 俺が、ここにいる、理由―。

 俺は、一人で夜中に事務所にいることが好きだ。
 昔からそうだった。
 今の職員の冨沢なんかが学生ボラだったころ、そんな風な連中が、時々ふらっと来ては、いろんな話をしていった。
 そういうことが、俺を事務所から離さなかった。
 そのうち、だんだんわかってきたんだ。
 あき江さんの言っていたことが。
 「建前」と「現実」。
 「理想」と「日々」。
 他人の「ハレ」を引き受ける「ケ」の自分―。

 十年前の俺に、「佐藤には弱い人の気持ちはわからない」と言った人がいる。
 それを言った公務員になった彼女に対して、俺は何も語らなかった。
 そもそも、そこには、レトリックがあって、「気持ちが弱い」ということと、「社会的な立場が弱い」ということを不自然に同一化して語っている。
 きっと彼女は、自分を正当化するためにそんなことを言っただけだと思ったから、俺は黙っていた。
 今は何を言っても無駄だ、と俺は思った。

 十年前の俺は、給料も十万程度で、子どももいた。
 妊娠して虹の会を辞めざるを得なかった(産休はおろか、もちろん退職金もなかった)パートナーの水上には、収入もなかった。
 「弱い人の気持ちが分からない」のは公務員のあなただよ、と俺は思っていた。
 労働者の権利だとか、何だとか、嬉々として組合活動を語ってるあんただよ、と俺は思っていた。
 少なくとも、給料が十万の相手に言うことじゃない。

 国松さんが結婚したとき、何のプレゼントがいいのかと冨沢に聞かれて、俺は「貧乏だからって、醤油とかくれる人がいるけど、本当にほしいのはメロンだよ」と言ったことがある。
 それを冨沢が国松さんに伝えたら「そうそう、そうなんだよ」って的を得たりだったと報告してくれたことがある。

 俺は貧乏でよかったと思っている。
 14年前、虹の会を捨てて公務員になっていたら、俺はきっと醤油をプレゼントしていたかもしれない。
 そんな、「したり顔」「わかった顔」のクソ野郎にならなくて、よかったと思っている。
 やれ結婚したから車だ、マイホームだと、「ローンがきつくて」なんて会話を飲み屋でするようなクズにならなくて本当によかったと思っている。

 「社会的な立場が弱い」というのは、最後はもう、開き直るしかない。
 「開き直れない」という人もいるとは思うが、それは、まだ大丈夫、ということだ。
 最後は、開き直るしかないんだ。

 強さというのは、そこからくる。
 「障害者福祉の向上を」なんていう崇高な思いだけで、こんな団体に関わっている健体者のみなさんもいるのかもしれないが、そんな宗教チックなものだけで人や世の中が動くほど、甘くない。

 少なくとも俺が魅かれたのは、開き直りの強さを見せてくれた国松さんや鴻沼の西畑さんだった。
 宗教チックな連中には、俺は嫌悪感しか感じなかった。

 俺は、「気持ちが強い」のではなく、「強くなければ生きてこれなかった」だけだ。

 14年前、大学生だった俺は、大学生を嫌悪してた。
 当時、オールナイトフジなんかに代表されるフジサンケイグループの軽薄全盛時代。
 散々ボランティアなんかやって、ゼミでは「障害児の未来」なんて偉そうなこと言ってたお利口さん達は、卒業して自分が教員になったら、俺やまだ認可もされてなかった障害児学童に勤めていた森さんのことを、「まだあんな仕事してんの?」と嘲笑した。
 そして、それが全員だった。
 子ども達は学校が終わってどうするのか、卒業してどうするのか、結局、彼らには自分で体現できるものなんか無かったんだろうと思う。
 悲しい奴らだ。

 俺たちには金も時間もなかったけど、誇りはあった。
 それと、少なくとも、金は出ないが有意義な仕事をしている連中を嘲笑するようなことは、俺達は絶対にしない自信があった。

 飲み会でそんなこと言われたって、俺達は、心の中で拳を握るしかない。
 机をひっくり返して帰るわけにはいかないから。
 俺たちには、どんなに怒りが燃えさかってても、へらへらと話を合わせて、飲み屋の便所の鏡を叩き割るしかない。

 だから、俺はどんどんつきあいが無くなった。
 クズとつきあうのは、自分もクズのフリをしなければならないからね。
 そんなことは耐えられない。
 だから、そんな連中と会わなくなっただけだ。
 俺には友達もいなくなった。

 悲しい気持ちを誇りに変えるとき、人は涙する。
 たった一人で何かに立ち向かおうとするとき、人は涙する。
 「普通」を希求する心の澱を流そうとして、人は涙する。
 「本当は、8割の中の一人でいたい。」
 「出る杭は打たれるから、出たくなんかない。」
 「何も考えず、恋人と二人で、精子も拭かずに抱き合って眠っていたい。」

 研修なんかで虹の会の歴史を語る時、「昔は楽しそうだったんですね」という人がいる。
 ゼロから始めるというのは、ただがむしゃらに走っていればいい。
 日テレの電波少年と同じ。
 外から見る分には、楽しそうだよね。
 でも、俺はもう戻りたくはない。
 あんなに苦しい思いはもうたくさんだ。

 俺は、あいつらを嫌悪しながら、もう一人の俺は憧れていた。
 普通の恋人達のように、待ち合わせをして、戦争映画を見て、テーマパークで遊びたかった。
 緊急の介助が入って、待ち合わせ場所に行けないのは、もうごめんだ。
 夜中にぼんやりと空き地に座っているのも、もうごめんだ。
 「緊急の介助をしている自分」という誇りは、会いたかった気持ちを越えることができなかった。

 そんな14年前の俺を救ってくれたのは、三原だった。
 教員だった彼は、俺達を嘲笑しなかった。
 それどころか、三原は、毎日毎日、俺たちと一緒に、バザーの品物の整理をしてくれた。
 それも、夜中に。
 朝になって、やっと眠る俺達をおいて、三原は学校に行った。
 良男も毎週、それと危ないときには介助に来てくれて、俺の緊急介助は少しづつ減っていった。

 俺達のことを、「とても仲がいい」という人がいる。
 週を明けずに加須や吹上から来ては飲んでんだから、そう見えるだろうな。
 ただ、俺は、きちんと彼らに「お前らに救われた」とは言っていない。
 きっと言う必要がないからだ。
 仲がいいんじゃなくて、俺は奴らといると安心なんだ。

 「優しさに触れることより振りまくことで、ずっとずっと今までやってきた。
 それでも損したなんて思ってないから今夜も、何とか自分で自分を守れ。
 流れる景色を必ず毎晩見ている。
 家に帰ったらひたすら眠るだけだから。
 ほんの一時でも自分がどれだけやったか、窓に映ってる素顔を誉めろ。」

 去っていった人もたくさんいる。
 でも、いつの間にやら、仲間は増えている。
 そして、俺は、そいつらを愛する余裕だってできた。

 なあ、みんな。思わないか。
 できなくったっていいよな。
 子どもが熱を出したら、休むさ。
 休む方が辛いって事、俺はよくわかっている。
 記憶なんて曖昧でいいんだ。
 漢字なんか読めなくてもいいんだ。
 一生懸命の気持ちで、いいよな。
 できようができまいが、そんなこと、どうでもいいよな。

 だって俺達がやってることは、輝く歴史を創り出すことだ。
 つまらない事務作業や、徒党を組んで人を貶めるような下らないことじゃない。
 そんなこと、どうでもいいんだ。

 はっきり言おう。
 14年前は、辛かった。
 そのことは自分の中ではまだ解決はしていない。
 けど、少なくとも、もう涙は出ない。
 だって、俺には誇りがあるから。
 だって、一人で立ち向かっているんじゃないから。

 さあ、気楽にいこうぜ!。
 闘う俺達を、闘わない奴らが、笑うだろうけど。
 だけど、そんなこと、もうどうでもいい。FIGHT TOGETHER! (了)


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