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『自立生活への道』

仲村 優一・板山 賢治 編


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■仲村 優一・板山 賢治 編 19841215 『自立生活への道』,全国社会福祉協議会,317p. ASIN: B000J6VPS6 [amazon] ※

■言及

◆立岩 真也 2017/08/01 「福嶋あき江/虹の会・2――生の現代のために・24 連載・136」,『現代思想』45-(2017-8):-

■目次・書誌情報

 *()内は「編者および執筆者一覧」に記されている所属

序 仲村 優一(日本社会事業大学)

第一部

河野 康徳 19841215「自立生活を考える手がかり――全身性障害者の状況と課題」(厚生省社会局)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 1-26.

第二部

◇磯部 真教 19841215「自立生活とは」 (東京都八王子自立ホーム)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 29-35.

白石 清春 19841215「所得保障――脳性マヒ者をはじめとする幼い時からの障害者の所得保障制度の確立をめざして」 (脳性マヒ者が地域で生きる会)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 36-50.

野村 歓 19841215「居住空間・住宅」 (日本大学)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 51-63.

寺山 久美子 19841215「福祉機器」 (東京都心身障害者福祉センター)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 64-85.

◇今岡 秀蔵 19841215 「介助・援助――介護からの解放」 (東京都八王子自立ホーム)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 86-96.

永井 昌夫 19841215「健康」 (国立身体障害者リハビリテーションセンター)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 97-106.

◇太田 修平 19841215「生活施設」 (東京都清瀬療護園)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 107-117.

丸山 一郎 19841215「就労, デイ・サービス」 (厚生省社会局)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 118-125.

◇秋山 和明 19841215「移動」 (電動車いす使用者連盟)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 126-146.

加藤 寛二 19841215「教育」 (東京都立小岩養護学校)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 147-159.

三ツ木 任一 1984.12.15「リハビリテーション・サービス」 (東京都心身障害者福祉センター)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 160-172.

大沢 隆 19841215「福祉援護サービス」 (神奈川県民生部)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 173-197.

佐藤 久夫 19841215「文化・スボーツ・レクリエーション活動」 (日本社会事業大学)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 198-207

安積 純子 「性と結婚」 (うつみねの会)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 208-218

◇宮尾修 「市民活動への参加――ある障害者の奇妙なレポート」 (障害者の生活保障を要求する連絡会議)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 219-228.

小山内 美智子 19841215「ケア付き自立生活を求めて――札幌いちご会の歩み」 (札幌いちご会)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 231-245.

白石 清春 19841215「地域で生きていくことをもとめて――脳性マヒ者が地域で生きる会」 (脳性マヒ者が地域で生きる会)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 246-259.

◇寺田 嘉子 19841215「自立への一つの道――東京都八王子自立ホーム」 (東京青い芝の会)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 260-267.

福島 あき江 19841215「共同生活ハウスでの実践をとおして」 (共同生活ハウス)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 268-278.

◇橋本 広芳 19841215「地方における取り組み――うつみねの会」 (うつみねの会)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 279-285.

◇高野 岳志 19841215「街のなかに生きるために――宮崎障害者生活センターの実践」 (宮崎障害者生活センター)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 286-296.

◇高嶺 豊 19841215「ハワイCIL」 (ハワイ自立生活センター)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 297-304.

◇河野 康徳 19841215「フォーカス・アパート」 (厚生省社会局)
仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 305-314.

■引用

◆河野 康徳※ 19841215「自立生活を考える手がかり――全身性障害者の状況と課題」
 仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 1-26.

 第一章 全身性障害者の状況
 第二章 自立生活を実現するための方策
  三 生活の場のあり方について
 第三章 問題解決への展開

 「三 生活の場のあり方について
 全身性障害者が自立生活を実現しようとするとき、前述した所得保障の問題の他に、住環境、介助、移動、生活環境と街づくり、生活の場としての施設など数多くの問題が存在する。これら広い意味でい生活の場のあり方については先進国に示唆的な実践例があるが、国情の違いなどのためそれらの方策をそのままの形で導入するのは適当でない。
 自立生活というものを、家族との同居や施設入所以外の生活に限定してとらえるのは現実的ではない。それぞれの生活形態において自らの判断と決定により主体的に生き、その行動に責任を負うとする自立生括をめざすことは可能であり、障害者自身がその生活形態を選択しうる社会的条件の整備が必要なのである。そのため、諾外国の例を参考にしつつ、今後研究と試行を実践していかねばならない。」(河野[1984:18])

白石 清春 19841215「所得保障――脳性マヒ者をはじめとする幼い時からの障害者の所得保障制度の確立をめざして」
 仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 36-50.

◆秋山 和明 19841215「移動」
 仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 126-146.
 ※電動車いす使用者連盟

白石 清春 19841215 「地域で生きていくことをもとめて――脳性マヒ者が地域で生きる会」,仲村・板山編[1984:246-259]


福島あき江 19841215「共同生活ハウスでの実践をとおして」
 仲村優一・板山賢治(編)『自立生活への道』: 268-278.
 ※以下全文

 「進行性筋ジストロフイー症のために、入歳から入院を続けてきた私にとって、病院を出て生活をする日が訪れるなど、希望ではあっても長い間現実として考えられることではありませんでした。
 治療法もない現実のなかで、私たちの入院の意味は隣接された養護学校で小学部から高等部までの教育を受けられるということが唯一のものでしたが、それも卒業と同時に消えていきます。筋ジスの生徒は、何一つ進路と言えるものはなく、余生を過ごすにあたって、このまま病院に残るか家庭に帰るのかの二者択一、いいえ実際には家庭の状況や両親の年齢を考えるとその選択すらできずに一生が終わってしまう状況が当たり前になっていました。何の手立てもなく、職員も父母もそして当の本人たちもあきらめを先に見てしまうことが、ニ〇歳前後の私にはわりきれるものではありませんでした。
 それでも、▼高等部を卒業した五十二年、いつか何かができるかもしれない、そんな夢が捨て切れず某大学の通信教育を受け、学生ボランティアさんたちの介助、協力で下宿をして、三週間の夏季スクーリングに参加できたことが、私の生活に大きな変化を与えてくれました。三週間の短期とはいえ、△268 病院や家族と離れて生活することは、生まれてはじめてのことでした。朝から午後四時頃までの講義に加え、夜も復習しなければついていけず、身体は少々疲れたものの、同じ年代の人たちとの生活で、彼や彼女らの活動領域の広さは、病院の生活しか知らなかった私に刺激を与えてくれ、疲れを忘れさせてくれました。この時に私は車いすでも電車に乗れること、そして当然のことながら自分の行きたい所へ行けるということを実感として知りました。階段や段差はあったけれど、慣れた手つきで車いすを介助する学生のMさん、また呼びかけに応じて車いすを持ち上げてくをれる一般の人たち、はじめての私には人に声をかけられないほどの恥ずかしさでしたが、できないと思ってきたことが、周囲の人たちの手は借りるものの、一つ一つ可能になっていくのは解放感以外の何ものでもありませんでした。「おまえは自分で何もできないのだから、人に迷惑をかけないように、人の言うことは素直に聞いて、かわいがってもらえるようにしなければならない」――そんな母の口ぐせを聞くとも聞かず育ってきた私は、いつしか人に話しかけるよりは、話しかけられて口を開くことを、そして少々納得がいかなくても自分の胸のなかで押し殺すこともできるようになっていたのでした。介助者なくして生きることのできない私にとって、それが生きる知恵となっていたのです。しかし、「行きたい所はどこ?」「今晩食ぺたいものは?」――そんな選択を迫られる生活となって、こんな基本的なことまで自分のロからスムーズに出てこないジレンマ,なさけなさを感じるのでした。こんなことまで他人にゆだねたくない、そんな気持が涌き出したのです。これも私を対等な人間とし△269 てつきあってくれた人たちのなかでこそ出た、私の意地だったのかもしれません。
 その後、彼や彼女らとの出逢いが私の行動範囲を拡げてくれました。しかし、広い世界を見れば見るほど、自分のいる世界や私自身の視野の狭さが見えてくるのでした。友人やボランテイアの人ぴととのひとときは楽しかったけれど、外出などから帰ると、やはり私は病院のなかで生きる一患者であり、このままでは彼らの生きる世界や彼らとの交わりに接点は見出せない、そんな虚しさ、さみしさがつのるのでした。あせりでもあったのかもしれませんが、私の近い将来は白い壁に覆われた狭い個室の中だと思ったら、それをいまからただ手をこまねいて待っていることもないと思えてきたのです。重度患者となってから病院を退院し、なんの基盤もない地域で生きていくことは、無謀といえば無謀かもしれません。けれど、今一度自分の身を一般社会に置いて生きていきたい、自分の持てるカを試してみたい、そのなかで自分の役割を見つけていきたいと思ったのです。その思いを解ってくれ、相談に応じてくれたのが、スクリーングにもかかわってれた人たちだったのです。まだ自分の将来も定まらぬ若い彼女ら、人間それぞれできることとできないことがあるから決して無理はしないように、それが私たちの鉄則といえば鉄則でしたが、不可能だと言わずにかかわれる部分を出し合ってくれたことが一番嬉しいことでした。アパートの隣というぐらいの距離で協力できることだったら――そう言ってくれたのが後に共同生活ハウスの住人となったTさんでした。しかし、話し合っていていつもつまずくのは、介助の問題でした。▲▼二四時間の介助を要する入たちが、学生さんや社会人の協力で介△270 助ローテーションを組んで一人で生活しているという話も耳にしていましたが、夜はその体制が組めても、日中学生さんに学校を休んでもらうとうことは、互いの生活の保障という意味で一番したくない点でした。日中の介助をどうするか、現行の家庭奉仕員制度では週二二回(一回二、三時間)程度の介助しか求められません。あまりにも冷たい福祉制度、それでもそんな現実のなかで静岡市の方で脳性マヒや筋ジスの人たちが健常者の人たちと同じ屋根の下で共に生活しているということを聞き、その生活を一週間経験することができたのは大きなステップでした。介助のことにしても、何名かの障害者が集まれば一名の専従者を雇うことも可能になるというように、すべて実践のなかで生まれただけに重味がありました。画一的に考えず、いろいろ工夫すれぱ私たちにもできるかもしれないという感触を、同じ立場の人たちが与えてくれたのです。▲

 二 CILで学ぶ
 また五十六年七月から翌年十月までの一年三か月という期間、多くの方力がたの支援のなかでアメリカ生活を経験できた私は、地域のなかで生活している多くの障害者と出逢うことができ、いっそうの勇気をえることができました。すでに専門家の人びとによって日本に紹介されている自立生活センター(CIL)ですが、障害者の人たちが中心となってその運営にあたり、自らの体験をもとに、これから施設や病院を出て生活しようとする人たちの援助をしているシステムを見て、ここになにか△271 大切なものであると思ったのです。それは、してあげる、という上からのおしつけではなく、奪われている市民権を一人でも多くの仲間が取り戻すように、そうした意識のうえに立っていることだったのです。とくに介助の点で目を見張ることとして、ただ一方的に受ける側、与えられる側から脱し、自分の必要としている介助の時間を割り出し、障害者自らが時間分の介助手当を請求し、介助者を雇用していくという主体的な立場に立っていたということです。けれど彼ら、彼女らの生活も決して楽ではなく、家賃が高ければルームメイトと共に住む、そんな自分の生活設計、工夫のなかで生活しているのだということが忘れられません。とにかく見ているより実践しなければ何もはじまらないと思いました。

 三 共同生活ハウスの試み
 そして、▼昭和五十八年二月、埼玉県浦和市に一軒の家を借り、私たちの「共同生活ハウス」がスタートしました。その機能は次の通りです。
 @ 障害者と健常者の相互理解と協力の場とする。
 A 地域のなかにおいて障害者の日常生活の保障を考えていく。個々人のニードを明らかにし、それに関するサービスの促進を共に考え、行う場とする(介助、医療、経済、交通機関など)。
 B 個々人のカ(アピリティー)を高める場とする(教育、職業、趣味、地域活動など)。△272
 重度障害者が地域のなかで生きられるように、その生活の場と地域づくりを目的としてつくった会、「虹の会」が運営母体です。共同生活ハウスのメンバーに、頚髄損傷で病院に入院中に私たちの載った新聞記事を読んで一緒に住むことを希望してきたKさん、スクーリング時代からの友人で緊急時の介助や連絡にあたる同居人としてTさん、日中の介助にあたる専従介助者としてFさん、そして私の四人が集まりました。また夜間は、近隣の二大学の学生さんたちの協力をうることにしました。とにかくなにもないところからはじめるのですから理想と現実のギャップはいうまでもありません。
 まず住居形態において、私たちは戸口がそれぞれ別でいて互いが連絡のとれる距離での生活、つまりアパートの一階をずらりと借りるというような形を描いていたのでずが、現実は厳しく、一階八畳一間、二階六畳と四畳半の一軒家でスタートすることになったのです。しかし、二十歳を過ぎた者同士の一軒の家での生活は決して理想的な形ではありませんでした。一階八畳にKさんと私、二階に健常者の二人が住み、夜になると学生さんが私たちの介助に入る、それはみんながガラス張りの状態だったのです。それでも、中途障害者でまだとまどいを感じているKさん、まるっきり地域のなかで暮らしたことのない私にとってて、健常者が常にいる生活は安全で、第一歩を踏み出すには決して否定できない形でした。しかし、共に生きるという共同ハウスであっても、この形から健常者にとってなんのメリットがあるのか? ただ単に障害者の安全のための同居では負担が重すぎる。障害者の自立とは? 介助が必要なのか介護が必要なのか? 地域での生活になにを求めているのか? 日々を追△273 うごとに繰り返し話されるのでした。私たちにしても一室の同居、しかも会の話し合いや食事にと、自分たちの部屋がすぺてを兼ねる生活にはやはり抵抗がありました。また、なぜ健常者の同居が必要なのかと問うと、外に仕事をもち、朝早く出かけ夜遅く帰宅するTさんから社会の厳しさなどを感じられ刺激になることや、健常者の同居人が呼べば聞こえる二階にいるというのはたしかに安心でしたが、結局のところ私たちのニードは介助の保障だということを確認すると、同居の意味が変わってくるのでした。単に緊急時の介助を考えるなら、学生の介助協力者や近隣の人びととの交わりなどがある程度拡がっていくなかで、その人びとにも声をかけられることで、同居していた健常者も地域の支援者の立場としてのかかわりでやっていける、いやそうした形がむしろ自然なのではないかということに達したのです。しかし共同ハウスはいまは私たち二人が生活しているけれど、私たちだけのものではない、今後施設などから出たいという人たちのことを考えると、私たちに必要な介助だけなので、自分たちのプフライバシーを保てる郡匿がはしいという理由から、いまの段階で、この形態(健常者との同居)をすぐくずしてしまってよいのか、私たちが目ざしているのは、幼少時から施設にいたために自分の生きる地域ももたず、支援者もいない重度障害者の生きる場をつくることのはずである、また、会員のなかには障害者のみの生活には不安が残る、同じカマのめしを健常者、障害者の別なく食べる和気あいあいとした生舌、それが共同ハウスではなかったのか、など様々な意見がありました。けれど試行錯誤で、誤ったらまたやり直せるのが私たちのように名もなく細々とやっている民△274 間活動のメリットであり、本当に自分たちのニードを見出すために、とにかく様ざまな形をとってみることになったのです。▲
 こうして▼十月一日、私たちは健常若との同居を離れ、三DKのアパート一階で二人で暮らすことになりました。住居を探すにあたって、一階で二部屋ないし三部屋でバス、トイレ付き、それもいままでの地域を大幅に離れたくないとなると、なかなか見付かるものではありませんでした。まして、障害者の居住と聞いて眉をひそめる不動産屋さんも少なくありません。いままで借りていた家は健常者のTさんが探し、Tさん名義でした。そしてなによりも、健常者の同居ということて私たちの居住もままになっていたのだということを、「障害者はあんたのタンスと同じなのだから、あなたが出て行くのなら一緒に連れて行って欲しい」と不動産屋さんから言われたことをTさんから聞き、自分たちの置かれている状況の厳しさを改めて知ったのでした。健常者との同居のなかで、本当の状況が私たちに見えていなかったのです。それが健常者と共同(一対等)になりえなかった部分でもあったのかもしれません。それでも何軒かあたるなかで、幸いなことに私たちは現在のアパートを借りることができました。専従介助者が通いとなり、新たな生活のはじまりです。住人は私たち二人なのだという緊張感もありますが、ある意味で解放感もあるというのが本音でしょうか。

 形態を変えながら、共同生活ハウスの生活も一年が経とうとしています。多くの入びとのこ協力の△275 なかで、いまの生活は維持できるようになったものの、それが保障されたものであるかというと疑問であり、現在の課題も、表1に示すように多々あります。とても方策までには至りませんが、共同ハウスを一つのたたき台としてとらえ、二年後、三年後と、今後の拡がりを考えていきたいと思います。▲
 表1 現状と課題△276 △277 △278」

◆おわりに 板山賢治 315-317

 「本書が生まれるまでの経緯と若干の感想を記して結ぴのことばといたしましょう。
 本書は、「脳性マヒ者等全身性障害者問題研究会」の研究成果をふまえながら刊行されるものという性格をもっています。
 この研究会は、昭和五十五年三月から五十七年四月までの約二年間、仲村優一委員長を中心に一二人の委員によって続けられましたが、そのご苦労をお願いしたのは、当時、厚生省社会局更生課長をつとめていたわたくしでありました。
 わたくしが更生課長に就任しましたのは、昭和五十三年の四月でありましたが、ちようど、三年後に「国際障害者年」をひかえ、障害者の「完全参加と平等」を実現するためにおくれがちな日本の障害者対策を前進させなくてはというある種の使命感に燃えていたものです。様子がわかるにつれて一つ鷲いたことがありました。「データーのないところに計画はなく、計画のないところに行政はない」いうのがわたくしの経験的信念でありますが、障害者関係のデーターはまことに古く乏しい。「何ととしかくては」というので思いたったのが、昭和五十年に実施しながら障害者団体の反対で集計できなかった全国身体障害者実態調査の実施でした。「本当に実現できるのか」という危惧の声もありま△315 したが、昭和五十四年度予算に調査費を計上し、五十四年の五月頃から十余りの障害者団体等との協誠に入りました。十二月末までに五十回近く話しあい、「賛成とはいえないが、反対はしない」という結論をえて、五十五年二月、十年ぷりの調査が無事完了しました。
  この話しあいのなかで、わたくしが「約束」したことが一つだけありました。それが、「脳性マヒ者等の生まれた時からの障害者の生活問題に関する研究」をすすめるということでありました。
 「更生課長、あなたは福祉にくわしいというが、おれたち脳性マヒ者の苦しみがわかるか。一番信頼し、愛しているはずの親、兄姉からさえ、厄介者、お荷物視され、施設へ入るか、早く死んでくれることを期待さえされているなかで生きてきた苦しみがわかるか?」「そんな人生を生きたわれわれにも一人の人間として生きる条件をつくれと要求することはそんなに無理難題か……」という切々たる問いかけにわたくしは、眼を開かれました。
 「障害者も、その対策も一様ではない」ということは承知しつつも、生まれた時からの脳性マヒ者のもつ問題の実態と対策の在り方を知りたいと考えたわたくしは、調査終了後、ただちに研究会の設置をと決心しました。
 当時の山下杜会局長の了解をもえて、更生課長直属の研究会としてスタートさせることとし、委貝には、障害者代表 六人、福祉関係者 三人、行政関係者 三人、学識経験者 四人の合計 一六人とすることにしました。そして、むずかしい委員長の役を仲村優一先生にお願いしましたが、そのこ△317 とが、この研究会の成功の鍵となりました。
 一年間の研究会を通しての成果として特記しておきたいことが四点あります。
 一つは、障害者団体、とりわけ反体制グループと目されていた「青い芝」等と厚生省が同じ土俵にのぼっ相互理解を深めたこと。特に年金局や関係各課の参加は有意義でした。
 二つは、研究会メンパーが、その後の障害者運動や障害者年推進のリーダーとなって、活躍されるエネルギーを提供できたことです。
 三つには、この研究会の動きや提言が、その後の「障害者生活保障問題検討委員」(五十六年四月)「障害者生活保障問題専門家会議」(五十七年五月)の誕生の契機となったことを記億にとめておきたいと思います。
 四つには、研究会の成果が、身体障害者福祉法の改正や国民年金法改正のなかで全身性障害者にたする施策充実の原動力となっていることであります。
 ともあれ、小さな研究会が投じた一石が、波紋を呼び、谷間にあった「全身性障害者問題」に一筋の光明をもたらしたことを有り難いことだと思います。研究会のメンパーの方がたおよびご執筆をいただいた皆様に心からの感謝を捧げつつ、日本の障害者対策の前進を祈りたいと思います。
  昭和五十九年十二月                       板山賢治」


UP:20090301 REV:20170709, 10, 11
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