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『筋ジストロフィー症への挑戦』
山田 富也 19831125 柏樹社,222p.
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last update:20160112
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山田 富也
19831125 『筋ジストロフィー症への挑戦』,柏樹社,222p. ASIN:B000J79Q3G 欠品
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※ n02. md
■目次
序にかえて
序章 筋ジストロフィー症患者として生きて
第一章 進行にともなう生活の移り変わり
気づかないうちに発病
歩くのが困難になる
歩けなくなる
入院
車イスの生活
心臓の筋肉も冒される
痰がからむ
呼吸が苦しくなる
一生懸命生きるしかない
一八年いた病院を退院したAさん
第二章 歩けなくなってから
困ったこと
外へ出る――旅行やキャンプの楽しみ
寝返り――介助と寝具の工夫が大切
電動車イス――自由に動き回れるすばらしさ
歩けなくなって仕事をやめたB君
第三章 身のまわりの心がけ
清潔を保つ
トイレの悩み
食事の心がけ
第四章 病院で気づいたこと
入院のきっかけ
病院は大切な生活の場
患者自治会を作る
私たち患者が望むこと
病院でかかわる人びと
看護婦/医師/ボランティア/指導員
マスコミとのふれあい
生きがいを求めて
時計店を開いたC君
第五章 筋ジストロフィー症患者にとっての学校
短い命だから
“お客さん”ではなくみんなと同じに
第六章 在宅生活の悩み
家庭生活の工夫
医療機関の利用のしかた
楽しく遊ぼう
親としての努力
思春期・性・結婚
自立生活をめざすD君
第七章 筋ジストロフィー症への九人の挑戦
入院生活十周年の節目に……志風 忠義
地域での生活を始めて……福嶋 あき江
患難は忍耐を 忍耐は練達を……栗原 マキ子
国際障害者年に……井上 和久
一四回目の冬……阿部 恭嗣
生と死と人生と……高野 岳志
筋ジストロフィー病棟の断面……山田 寛之
劇映画『さよならの日日』の患者を演じて……山田 秀人
同志……山田 富也
第八章 筋ジストロフィー症とは?
筋ジストロフィー症とは?
筋ジストロフィー症の原因
筋ジストロフィー症の検査所見
血清酵素/尿の検査/節電図/組織学的検査
筋ジストロフィー症の分類
付T アメリカの筋ジストロフィー症の運動
アメリカ・筋ジストロフィー協会(MDA)とは?
筋ジストロフィー症患者の世界は小さい
付U “ありのまま舎”のあゆみ
“ありのまま舎”とは?
山田三兄弟と“ありのまま舎”の歩み
あとがき
■引用
第四章 病院で気づいたこと
入院のきっかけ
病院は大切な生活の場
患者自治会を作る
「さてその頃、西多賀療養所では、中学生まではべッドスクールという分校形態がとられていました。べッドスクールに在学していない患者も皆協力して年に一度文化祭を行い、私達は自費出版の詩集を△084はじめ、自分で作製した七宝焼やぬいぐるみを売ったりしたものです。また、ちょうど同じころできた患者自治会(昭和四五年発足)では、全国の筋ジス病棟の所在地や研究機関の予算などを模造紙に書き、病気の実態を訴えたりしました。これは、私遠患者自らが社会に対して訴えた最初のもので、これを契機に、病院の内部にとどまらず、外部に対してち働きかけることを知りました。このように、患者自身が何かしようとすると、職員達にも協力したいという姿勢が生まれ、自然にコミュニケーションがとれ、動けない者だけが集まった病棟であってち、明るさが出てきました。」(山田[198311:84-85])
私たち患者が望むこと
病院でかかわる人びと
看護婦/医師/ボランティア/指導員
マスコミとのふれあい
生きがいを求めて
時計店を開いたC君
第七章 筋ジストロフィー症への九人の挑戦
「季刊誌『ありのまま』の中の、全国から集められた患者のおもいを紹介することにより、患者の願いや苦しみ、生活の様子をわかっていただけるのではないかと思い、抜粋しました。」(141)
◆入院生活十周年の節目に……志風 忠義
◆地域での生活を始めて……福嶋 あき江
※全文収録
◆患難は忍耐を 忍耐は練達を……栗原 マキ子
◆国際障害者年に……井上 和久
◆一四回目の冬……阿部 恭嗣
◆生と死と人生と……高野 岳志 167-174
※全文収録
の生活を始めて……福嶋 あき江
※全文収録
◆地域での生活を始めて……福嶋 あき江 146-151
※以下全文収録
◇福嶋 あき江 198303 「地域での生活を始めて」,『ありのまま』15→19831125 山田[1983:146-151]
※本には初出は書かれていない。
「地域での生活を始めて、約二ケ月が経った。長い間入院生活を送ってきた私にとり、日々の活動すべてが新たな経験といっても過言ではない。群馬県前橋市に生まれ、筋ジストロフィーと診断され八歳で千葉県の国立療養所下志津病院に入院した。私にとっては、千葉での馨らしの方が故郷よりも長くなっていたのだが、千葉で暮らしてきたという実感がない。それは、病院の中では暮らしたが、、それが千葉という地域と結結びつく生活ではなかったということなのだろう。任民票、選挙権も前橋に△146 あったことに象徴されるように、私はどちらともいえない場で生きくきたのだ。それは幼い時から施設に入った障害者に共通のさみしい実感かも知れない。白分の存在がこの社会のどこにあるのか。それは決して大げさなことではなく誰もが問い統けていることなのではなかろうか。
施設生活が長くなると、自らの家庭までが白分達(障害者)のいないことを当然とした生活を築きあげ、居場所をなくしてしまうというのが多くの実例だ。カントリー・コンプレックスかも知れない。だが故郷を忘れきれず常に望郷の中で私は入院生活を送った(たとえ、故郷は遠くにありて想ふもの……現実の中で失望しようとも)。
誰が、私達の居住の場を決め、一生の生活を決めてしまうのか。幼い時に病院(施設)に入った私には気がついた時、自分の生きる道を選択する余地などまったくなかった。病院で一生を送ることが、当然のこととして、生活や教育すべての前提にあった。生活に目をやれぱ、日課や規則を守ることが生活の重要課題であるかのように目標が置かれ日々が終わる。それは団体生活を円滑に送るための一定のルールではあるが、例えば、食事の時間を守る守らないが人間の価値を測るパロメーターであるかのように、「よい子」と「悪い子」のレッテルが貼られていく傾向の中で、精神的な抑圧は強かった。私達の多くは規則を守るよい子として生活することを覚えていくのだ。
大きな集団の中で、少しでもはみ出す行動をとる者は異質であリ、なんとしてでも、多数の側へ正△147 されていかなければならない。言ってしまえばその場での解決しか見ようとはしないのだ。いたずら好きで、表情も豊かで実に元気のよかった子が、筋ジス病棟に入院し、二、三年経つと、型にはまったように自己表現をしなくなったり、表情を失ったりしてしまう。そこには、一言では言えない様ざまな問題があると思うが、そんな生活に何の未来があるだろうか。決められた空間と決められた日課、そして、限られた人びととの交わりの中で育ち、形成された考えや人格が、ある日突然そのカラを破ることなどあり得ない。それだけに、幼い時からの生活を大切に考えて欲しい。
それでも、社会の繁栄や人びとの価値観の変化に影響されてか、閉鎖的な病院体制や私達の生活にも少しずつの変化はあった。病棟を「生活の場に」という声が私達の中からも高まってきた。外部からの人が入りやすくなったり、友人やボランティアの人びとと外出が行えるようになったり、空間の拡がりをみるようにもなった。
しかし、広い世界を見るほど、目分のいる世界や、私白身の視野の狭さが見えてきた。また、友人、ボランティアの人びととのひとときは楽しかったけれど、外出等から帰ると、やはり私は病院の中で生きる一患者であり、彼らの生きる世界や彼らとの交わりにこのままでは接点は見出せないよらな気がして、さみしくもあった。
それはあせりでもあったのかも知れないが、私の近い将来は、白い壁に個室のベッド△148 の上なのだと思ったら、それを今から、ただ手をこまねいて待っていることもないと思えてきた。重度患者となってから、病院を退院し、何の基盤もない地域で生きていくことは無謀といえば無謀かも知れない。だが、一五年待っても、病気の治癒の見込みもまったくないし、先の希望もない。誰かが私に手をさしのべてくれる訳でもない。ならば、白分自身で生活の場を築いていかなけれぱならないし、安らぎの場、泣ける場をつくっていきたいというのが正直な気持たった。私達が本来生きていく場所は地域であり、その中で白分の役割を見つけていきたいと思った。
様ざまな経過を経て、私は今埼玉県浦和市で、健常者二名(専従介護者一名、同居人一名)、障害者二名で一軒家を借り、共同生后を送っくいる。もちろん近隣の人びとやボランティアの人びとに支えられている部分も大きい。実際にこの生活を始めてみて生活をすることの難しさや、地域での課題が現実味をおびて少しずつ解るようになった。
現在ある行政サービスを最大限に活用しながら、足りない部分を知恵とカを出し合って解決の力向へ進めていこうと始めた私達だが、地域で暮らす場合に、経済的な保障、介護体制の保障等は、ほとんど無に等しい。筋ジス患者の場合、国立療養所に入院すると、月々三十万を越える入院諸経費が必要であり、それを国が援助、負担しているのだが、地域での生活には、その援助はまったくない。多くの場合、在宅患者は家族の扶養下にあるのだと思うが、一家族の所得の限界や両親の老齢化等、限△149 界は見えている。家族が障害者をまる抱えの発想がある限り、家族の限界が来たら施設へと移るだけで、地域福祉の向上は望みにくく、障害者の独立(自立)も難しいのではないかと思う。
私の場合、幸か不幸か父に早く死なれ、家族に頼ることができないことを早くに知った。しかし現在、生活保護を利用しているが、最低生活を守るための権利である同制度も申請後、独立世帯として認定されるまでには様ざまな規定があると同時に、常に生活状況な調査されていなければならないという半ば管理下の状兄がある。
重度障害者が、生計を維持していくだけの額を稼ぎ出すことは不可能に近い。それは単に肉体的ハンディのみでなく、経験領域の狭さ、教育の不充分等、複雑である。年金制度の改革による所得保障や、個々のニーズに応じた介護保障等、もう少し考えられていってもよいのではないだろうか。単純計算でも、施設での生活に要する巨額な経費と地域の中での個々のレぺルにおける生活に要する経費を計算すれば、どちらが合理的かつ安上がりであるかが明らかになると欧米の人びとはいう。それには実践を通して、そのデータをつくりあげることと、これらの制度の必要度を高める地道な活動が私達一入ひとりに要求されるような気がする。
だけどあせるまい。
とにかく、生き統けること≠セと思う。△150
毎日の生活をしながら、食事をするということが、こんだてを考え、材料を購入し、作り、食べるということであることを知る。正直いって、食物の栄養価や何をどの分量購入したらよいのか等、私は何も知らない。生活の場而、場面で、はたとどうしたらよいのか考え込んでしまうことの連続だ。これまで如る必要がなかったとはいえば、それまでだが、これが二五歳、今の私なのだ。
人と人との信頼閏係とつながり(相互扶助)で成り立つ地域では、自分のとった行動の責任が直接自分自身に返ってくるという厳しい面もある。でも、そんなところから、ちっぽけかも知れないが、自分の存在価値も発見できるのだと思う。」
◆生と死と人生と……高野 岳志 167-174
※以下全文収録
◇高野 岳志 19831125 「生と死と人生と」,山田[1983:167-174]
「私が千葉県四街道町にある国立療養所下志津病院に入所したのは、昭和四十一年六月一〇日のことでした。下志津病院は仙台の西多賀病院と並び昭和三十九年に進行性筋ジストロフィー患者収容指定を受けた所で、私は筋ジス専用病棟の建設に伴う増床によって入所したわけです。当時の私は小学三年生でしたが、入所を決める際に両親が私の意見を求めてくれたことは、今でも忘れることができません。両親が私のことを一個の尊重されるぺき人間として扱っていること、また、入所ということが如何に重要な問題を含んでいるかということを私は子供心にも感じていました。△167
このとき、父が私に言ったことは次のような内容でした。「岳志君も良く知っていると思うけど、岳志君の病気はまだ治らない病気なんだよ。だから、日本や世界のおおぜいのお医者さんが、一生懸命に病気の冷療法の研究をしているわけだ。そこで、入院するかもしれない病院は、岳志君と同じ病気の人達を集めて、お医者さんが研究をするために、検査なしたり、投薬したり、機能訓練をしたりする所なんた。たから、治療法が発見されれば一番先に治るし、岳志君と同じ病気の人達のためにもなると思う。それに、学校たってあるんだもの、淋しいだろうけど、入院したらどうかね」これに対して私は「二、三年ならがまんできるよ。六年生くらいには、もどってこれるよね」と応えたものです。
早いもので、あれからもう一〇年の月日が流れ去っています。私にとってこの一〇年は、どうやら、進行性筋ジストロフイー症を理解するためにだけあったような気さえします。入所当時の私は、治らない病気だということは知っていましたが、死≠ノつながる病気であることなど想像すらできませんでした。また治療法は必ず発見されて、白分の身体は健康にもどるものと信じて疑いませんでしたが、今になってみれば答は明確です。元気に歩行できた身体はもうすっかり萎え、体験的に進行性筋ジストロフィー症デュシャンヌ型を知りました。入所当時の療友は一〇〇名中一〇名足らずとなり、私が確実に知っているだけでも六〇名以上が苦悩しつつ死んで行きました。今でも私の脳裏には、一人△168 ひとりの言葉、音声、しぐさ、性格などが鮮やかに残されていて、生前を思い起こさせるのです。
私は別れ慣れてしまって、この頃あまり、死≠ェ感じられなくなって来ていますが、妙なことに一度も最期の別れをしたことがありません。小児病棟の特性だと言ってしまえばそれまでかもしれませんが、毎口同じ屋根の下で暮らした仲問の最期の別れができないことは不自然であり、いつも未練が残されます。今ではだいぶ変わって来ましたが、四、五年前までは仲問の死≠ヘ知らされませんでしたし、ある病棟では「遣体を窓から出した」とか「強制退院させたと言った」とか、うわさが流れたことさえありました。
今まで死≠ヘ職員の配慮によって隠されて来たのですが、私には隠すことによりかえって死≠フ陰惨さ、恐ろしさな増幅してしまっているように思えてなりません。死≠フ病である筋ジス≠考えるには死≠考えることが必然であり死≠考えることによって、はじめて現在の生≠ェ確立され人生設計≠烽ナきるものだと思います。しかし、病気の本質を隠され続けると(ほとんどの回りの人達は隠そうとする)、末期に至るまでは病気のことを考えようとしないので、自分の短い人生の認識もなく、一番重要な自分の生≠考えることもありません。したがって前向きな主体性を持つこともなく、自分に与えられた問題、たとえぱ、悲願である「病因の究明、治療法の確立」「生活の改善」「生活圏の拡大」等に取り組む姿勢も薄れてくるものと考えられます。また死期が近△169 づいたときに死≠フ受容がなかなかできないということも起こるでしょう。もっとも筋ジス≠フ難しさは他の領域をも考えなければなりませんが。
私が体験の他に、筋ジス≠知るようになったのは、いわゆるマスコミからでした。これは、私の体験を体系づける働きをしたのです。というのは、マスコミから受けた知識が体験により実証されて行ったわけです。
私が最初に筋ジス≠フ記述を見たのは、小学四年生のときであったと思います。それは、ある少女雑誌の中でのマンガでした。内容は進行性筋ジストロフィー症に冒された少女が、徐々に進行して行く病気との闘いの中で葛藤し、ついには死んでしまう過程を克明に描いたもので、筋ジスに関する小さな解説が付いていました。これを読んだとき私は、全く信じられずに一笑に付してしまいましたが、後になって正しいことがわかって行きました。私の内面では強烈な否認が起こっていたのです。根拠は、死んだものはいない(当時死んだ人を知らなかった)、主人公が女性である、自分は足が不自由なだけで健康であるなどの点でした。
結局私に筋ジス≠決定的に教えたのは、中学一年生のときに出版された、西多賀病院の写真集だと記憶しています。私はこれに出会うまで筋ジス≠ニいう病気を楽観的に捉えていましたが、自分の置かれた現実を改めて思い知らされました。私達にとっては、あたりまえとなってしまっている△170 ことが、一般社会の位置づけからみると、特殊で、異常で、悲惨な状況であることがわかり、筋ジス≠ェ死≠フ病であり、狭い療養所という空間的に限られた場で、時間的に極く限られた生≠送らねばならないことを知りました。
写真集ではカメラを通しての客観的な眼が、私達の日常を暗い陰を帯びたものとして映し出していました。寝返りさえ打てずに横たわる最重度患者の眼は、死≠ノ観念したようでいて、怨念のこもった視線を向けていました。やせ衰え骨と皮ばかりになった身体は、飢餓状態に置かれ路端に倒れ伏したアジア・アフリカ諸国の子ども達を連想させ、生命の宿りさえ感じさせない点がありました。また、退院の日を夢見て身体的苦痛に耐え貫き機能訓練に励む子ども達の姿は、最重度患者を頭に描くためか、そのあどけなさがかえって残酷さを強調しています。いくら機能訓練をしたところで進行を若干遅らせることが精一杯なのですから。そして、そこに映しだされた姿はまぎれもない私自身の姿でもあるのです。最後の解説には筋ジス≠フ詳しい説明と、筋ジス患者は収容されるだけで死≠待つだけの状態になり、能率的な研究体制も打ち出せない行政の不備が指摘されていました。
このときには死亡患者も多く、私は筋ジス≠ェ恐ろしい病気であるという感じは抱いていましたが、いざ、既定事実を知ると死≠ノ対しての動揺がつのり、不安と恐怖の念が襲って来ました。何度も何度も目分の死≠頭の中で想定し、冷静に考えようとしたところで一向に考えはまとまらず、△171この世から自分が消滅してしまうことが、まるて他人事ででもあるかのようにしか思えず、大変無感動な状態となり、何に対しても気力が起こりません。自分が矮小化され生きている意昧さえもないように思え、生まれて来なければ良かったという思いが走りました。「何故自分は苦しまねばならないのか」「何故白分はこのような運命を背負ってこの世に存在しているのか」としだいにやり場のない怒りがこみ上げ、どうしようもない孤独感と悲しみの内に絶望の端に立たされたような思いにかられたのです。
私はこの一〇年間、以上のようにして筋ジス≠、決定づけられた人生≠知り、療養所の中で成長して来ました。そして、現段階では経済的理由、介助者、緊急時の医療、学校教育などの点によって、私達の生活の場は療養所の他にはないことを知りました。私達は一生を療養所の中で過ごし、死んでいかなければならないのです。その意味において療養所は家庭よりもずっと大切な場所であると思います。しかし、私は療養所の中に寵もり、そこに自分達の楽園≠形成してしまってはならないと思います。療養所はあくまで国によって仮に設けられた収容所であり、本来は、私達も一般の人間と同じように、社会の中で暮らして行くことが当然なのですから。療養所の中にあっても社会の一員であるという自覚に基づき、一般社会とのつながりを強化し、声を絶やすことなく参加して行かなければなりません。△172
今年は「国立研究所」が建設されていますが、筋ジス≠フ問題はまだやっと手がつけられたばかりです。当事者である私達は問題の解決に向かって最大限に努力する必要があるのです。「病因の究明・治療法の確立」は問題解決のための根本ですが、それと共に現在の私達の生活をよりいっそう充実したものとし、人間的な生≠送れる環境を築き上げることが最も重要なことであると思います。
S君は「俺は患者である前に人間なんだ」という言葉を遺してこの世を去りました。ある側面から見れば短絡的であると言われるかもしれませんが、健康面で多少の影響があったとしても、タレは自分のなすべきことをしたかったのです。彼は職員を僧んでいました。しかし、最期には理解されることをあきらめていたようです。彼の口癖は「俺はいつ死んでも良い人間たから」たったのです。死≠超える生≠ネ彼は実現したかったのだと思います。彼の最期の望みは絶たれましたが、今でも彼は私の心の中に生き統けています。「良き友」彼の死≠ヘ私にとってショックでしたが、彼の生きざま≠ヘ「素晴らしい」の一語でした。彼のなずべきことは「自治の確立」「生活の向上」「筋ジス運動の推進」だったのです。
私は自分の置かれた状況に気づくのが遅く、また、自分のなすべきことを見つけるのに、えらい回り道をしてしまいましたが、療養所の中にあっても社会人≠ナあることを忘れずに「生≠フ確立」「病因の究明・治療法の確立」を目指して進んで行くことにしています。△173
私は死≠迎える日まで、自分自身を呪い、恨み、悩み続けるでしょうが、一瞬一瞬を大事にして掛け替えのない自分の生≠歩んで行こうと思うのです。」(全文)
◆筋ジストロフィー病棟の断面……山田 寛之
◆劇映画『さよならの日日』の患者を演じて……山田 秀人
◆同志……山田 富也
■言及
◆立岩 真也 2014- 「身体の現代のために」,『現代思想』
文献表
↓
◆
立岩 真也
2017
『(題名未定)』
,青土社
*作成:
安田 智博
UP:20160112 REV:20170406, 0514
◇
「難病 nambyo」
◇
筋ジストロフィー
◇
身体×世界:関連書籍
◇
BOOK
TOP
HOME (http://www.arsvi.com)
◇