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生活臨床

精神障害/精神医療歴史

last update:20131118

■人

臺 弘/台 弘(精神科医,1913〜)
江熊 要一(精神科医,1924〜1974)
小坂 英世(精神科医,1930〜)
中沢 正夫(精神科医,1937〜)



江熊 要一 1962 「精神分裂病寛解者の社会的適応の破綻をいかに防止するか」,『精神神経誌』64:921-927

 「元来再発し慢性化の傾向をもつ疾患である分裂病は、退院後の社会生活内での積極的な指導を必要とするにもかかわらず、従来その努力は少なかった。しかし一方次々と入院してくる新しい患者の再発あるいは慢性化を防ぐことが必要ではないかと考える。」(江熊[1962]、広田[2010:104]に引用)

◆1956- 生活療法

小澤 勲 197206 「生活療法を越えるもの」,第69回日本精神神経学会・シンポジウム「生活療法とは何か」→19731225 『精神神経学雑誌』75-12:1013-1018→1974 「生活療法を越えるもの(一)」,小澤[1974b:93-119]

 「台弘氏は最近の著書のなかで、「社会復帰を社会に受動的に順応することだけだと考えると、生活療法は保守的で体制に奉仕する活動だなどといわれてしまう。生活療法の目的がロボットのように唯々諾々と働く人間をつくリだすものだと誣いるのは下司のかんぐりというものである」と述べていますが、私はきわめて下司な人間なので、「生活療法」が「保守的で体制に奉仕する活動」であリ、典型的な「適応論」であると考えているわけです。「適応論」というのは要するに小さすぎるベッドにあわせて寝る人の脚をちょん切る思想であり、発生した問題を個と情況との弁証法的把握のなかで認識するのではなく、非の一切を個に還元する思想のことであります。たとえば、かつて精神神経学会賞を得た江熊氏らの生活臨宋の論文を最近読みかえしてみて、その割り切り方のあまりの見事さに唖然としたのでした。[…]彼らは「自ら変化と拡大をつくりだしては生活の破綻をくりかえす能動型の人達に対しては、充分な期間その生活を可能なあらゆる手段で規制する以外に社会生活を順調におくらせる方法はない」と述べ、たしかにおどしたり、ひやかしたり、自信喪失を画策したり、ありとあらゆる弾圧手段をもって日的を実行している様が書かれて「受動型の人達の生活が破綻するのは、外部からの場の変化や生活圏の拡大を強制された場合に限られている。従って働きかけの主眼は外部つまり職場や家族からの時期尚早な生活圏の拡大と変化を排除することにある」と述べています。
 要するに[…]分裂病者の治療とは、「適応」に至る過程を患者の生活を規制することによりいかに破綻なく経過させるかという点にあるようです。しかも、「病気や病気の結果を最もよく知っているのは治療医である」といい、「家族に分裂病のことはわからない」と言い切るだけあって、彼らは患者の生活を規制すること(彼らの好む表現を使えば「治療医の手のうちに入れる」こと)に絶対的な自信をもっており、彼らの論文の症例を読むと、結婚を時期尚早と考えると「大学中退だという本人の誇りを利用して「大学中退のあなたとは釣り合いがとれない」と(洋裁学校出身の女性との結婚を)やめさせ」た、とか、「離婚と同時に病院(看護婦である患者の職場)も正式に辞めさせ」た、とか、「資格にこだわっている患者に対して、おだてたり、臆面もなく誉めることにより……」というような表現に何度となくぶつかり、それだけで気の弱い私などは、もし、私にこんなことを次々に命ずる人があらわれたらどうしよう、命令にしたがってなおることに耐え切れなくなって、むしろ破綻する人問くささを選ぶかな、とオロオロし心から考えてしまうのです。
 さらに、江熊氏らは[…]「安住」という彼らの思想性を表現するにきわめて適切なコトバを何度も使用しています。たとえば、「生活特徴は簡単に変わるものではないから、安住にいたるまで長期間持続的な関与が必要である。現状に安住するようになってから徐々に規制をゆるめ、生活範囲をひろげ、レベル・アップを行なっていく」というふうですが、私などのように今の世の中に安住の地などみつけようにもあるわけがないと思い定め、適応しきってはもうおしまいだと思いつつ日々を送っている人間にとっては、彼らのコトバは一つ一つおそろしい限りです。しかも、彼らは「具体的、断定的に、くりかえし、タイムリーに」「病識のない」(と彼らがいう)患者に指示を与えることをモットーとしておられるようなので、これは大変なことだと思い、もし、今後、私が発病してもなんとか彼らの魔手から逃れたいと本気で思ったりしているわけです。[…]
 要するに、生活療法の基本は破綻と失敗、混乱とカオスは悪であり、安定と秩序は善であるとするところにあり、「破綻」あるいは「病」のなかに示された、かつてなかったような自己表出(それがたとえ現象的には組織されない、方向性を見誤った暴力というかたちをとったにせよ)の意味とカオスのなかの可能性は全く切り捨てられてしまうわけです。どこまでいっても「障害者」は「正常者」の欠除態であり、価値の低いものでしかないとする考え方があり、だから、「障害者」は「正常者」に近づけられねばならないとされるわけです。このどうしようもない思いあがりと誤謬の根源は、彼らが「正常者」の現実的生きざま、つまり「正常者」の労働と生活の疎外構造に対して全く無自覚、無感覚である点に求められねばなりません。彼らにとって「障害者」と向かいあう「正常者」のありようこそが問われているのだなどという実感は無縁のものなのでしょう。彼らには「正常者」が「障害者」によって逆に治療され、教育され、点検され、開示される可能性など初めから考慮の外なのです。
 そうでなければ、分裂病者は「いろ」と「かね」と「めいよ」に弱いなどとぬけぬけと言い切れないはずです。彼らは分裂病者の「弱さ」は「正常者」の「弱さ」とは決定的に違っている、何故なら「正常者」はそのような「些細なこと」で発病しないからといいます。これこそ証明すべきもので説明してしまう悪しき循環論法の見本です。「いろ」と「かね」と「めいよ」に対して病者が「精神病的症状」でもって応えているということを仮に認めたとしても、生活療法家の諸君は「生活療法」という悪疫をふりまつきつつ、「いろ」も「かね」も「めいよ」も手に入れてしまって、今や何も応えずにすんでいるだけではないのかといいたいのです。」(小澤[1972→1974b:97-100]下線部は傍点、立岩[2013:284-287]*にこの部分全体を引用)
*立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.

小澤 勲 1974 「精神病院における生活療法」,『臨床生活医学』3:25-31

◆群馬大学精神医療研究会 19740127 「生活臨床と地域精神衛生」『精神医療』第2次Vol.3 No.2[通巻16]:63-78(特集:精神科治療とは何か)
 *全文を収録・掲載しています。

台 弘 編 1978 『分裂病の生活臨床』,創造出版

◆藤澤 敏雄 19821106 『精神医療と社会』,精神医療委員会,253 p. 1880

◆臺 弘 1984 「生活療法の復権」,『精神医学』26(8):803-841→臺[1991:135-159]*
*臺 弘 19911201 『分裂病の治療覚書』,創造出版,260p. ISBN-10: 4881582283 ISBN-13: 978-4881582282 [amazon][kinokuniya] ※ m.

 「また生活臨床にも「訓練対啓発(自己発見)」という基本的な問題が含まれていた。これについては,湯浅72),宮内32)などの所説に関連して後述するが,初期の生活臨床に,表現のうえで訓練面が強く現われていたことも否みがたい。それは生活臨床でいう能動型の患者,彼らは皮肉にも最も訓練しにくい人たちであったにもかかわらず,いやそれだからこそ当面,訓練の対象となったのであった。また治療の場が病院内ではなく,自由な社<0140<会生活の中におかれていたことも考慮されなければならない。だから生活の制限,管理的働きかけも患者本人の自主的規正を促す手段であった。それが,院内での生活療法を頭において批判した人々には,治療者の管理的姿勢として目に映ったのである。いずれにせよ「訓練対啓発」という背反的契機は,生活療法全体の基本的課題である。生活臨床はその後の発展の過程で,江熊中沢による社会精神医学的側面と,湯浅により深化された精神療法的側面をもっ。生活臨床というと,湯浅の造語「色,金,名誉」69)によって表面的に理解されていることが多いが,これは理解を助けたよりも誤解を招いたことのほうが大きい。まことに生活臨床は,成立の時期からいえば薬物療法の「落とし子」であり。生活療法の「申し子」であり,精神療法の「隠し子」である。湯浅72)のこの命名は言いえて妙である。なお「申し子」とは神仏に願って神から授かった子のことを言う、念のため。」(臺[1984→1991:140-141])

◆中澤 正夫 19850215 「精神医療の歩み」,中澤・宇津野編[1985:4-15]*
*中澤 正夫・宇津野 ユキ 編 19850215 『精神衛生と保健活動』,医学書院,公衆衛生実践シリーズ9,228p. ISBN-10: 426036409X ISBN-13: 978-4260364096 2300 [amazon][kinokuniya] ※ m. m01h1958.

 「1966年、厚生省は「保健所における精神衛生業務運営要領について」という公衆衛生局長通達をだしているが、現場に立たされた保健婦は何をしてよいか、どこから手をつけてよいか判らなかった。また新たに設けられた精神衛生相談員と保健婦との関係も、しっくりといかなかった(相談員は福祉専攻のケースワーカーが第一、ついで所定の講習を受けた保健婦が代行できる定めであった)。この混乱に対して実践のうえで解答を示し、かつ全国の先頭にたったのは群馬の活動であった。これは第2章で詳しく述べるので、ここではその特徴を簡単にまとめておく。
 群馬の活動の特徴は、@市町村保健婦がまず活動の先頭にたったこと、A保健所単位より自治体単位に活動が繰り拡げられたこと、B大学精神科の全面的参加、C技術論として「生活臨床」を共有していたこと、D家族会との協力の5項目に集約できる。
<0010<
 群馬の活動は、精神衛生活動を保健婦の業務として自覚することから始まった。学習会や病棟実習に参加した保健婦は、精神衛生の仕事が、保健婦のとりくめるレベルにあることを知った。その技術的保障は、群馬大学で開発された「生活臨床」であったといえる。「生活臨床」技術のもっともよい使い手になれるのは、保健婦であったからである。個々の保健婦が実践にふみきる不安は、保健所ごとのケースカンファレンスや地域に入っていった医師たちが拭い去った。こうして保健婦は学びつつ実践し、実践しつつ学んでいったのである。その結果、精神衛生活動には保健婦がもっとも適任であり、忘れ去ろうとしていた保健婦活動の原点をとりもどせる活動という認識が広まってきた。群馬県でも一時、相談員(幸か不幸かケースワーカーを設置できるほど県が豊かではなかった)や専門保健婦制が叫ばれ部分的に実施されたが、すでに走り始めていた保健婦集団は、実践のなかで解答をだしてしまっていた。すなわち、「精神衛生は全保健婦がとりくむべきものである。全員でやっても手の足りない大きな部分である」と。この群馬の活動は、多くの人の注目するところとなり、多くの医師・保健婦が、その体験を全国各地に伝えていった。その主舞台になったのは、地域精神医学会であった。地域精神医学会は全国各地で混乱しているが、激しい勢いで芽吹き始めた地域精神衛生活動を集積し、理論化し、伝播していく目的で創られた。その創立を担ったのは、1966年夏、赤城山へ集まった東京、京都、長野、群馬などの若い精神科医たちであった。第一回は'67年11月、群馬県猿ヶ京温泉で開かれ、'72年一部の集団の暴力的介入により崩壊するまで5年余、その役割を果たしてきた。以下その第1回から第6回まで保健婦の動きを中心に、学会の歴史を略記する。[…]」(中澤[1985:10-11])

 「生活臨床は、治療者が勝手に作った型に、患者をはめようとする引き回しの技術だという批判が行なわれたことがあったが、これはいくつかの誤解に基づくもののようである。それは「患者を手のうちに入れる」というような群馬人特有の言葉使いの粗さ、第三者がマスとしての集団作業療法を生活臨床と取り違えたこと、保健婦諸姉の教条主義的な言動が一部の医者に対して引き起こした反作用などである。実際のところ、生活臨床は最も「手に入れにくい」能動型の患者に対する治療方針を主として述べたものであったし、マスでなくて個人指導に重点があったのであり、「色、金」のわかりやすさが保健婦をひきつけた理由は医師の高踏性の反動であったことを理解すべきであった。このために不毛の、そして有害な議論があったことは残念なことであった。[…]/「色、金、名誉、身体」といわれる生活特徴についても吟味がなされていない。それぞれの特徴についての特異性が本当にあるのかといえば、私見ではあまりなさそうである。価値意識の重要性がわかっていればよい。生活臨床同人も、初期にはこの特徴の弁別に注意を払うが、やがてそれにこだわらなくなり、今でもそれを強調する保健婦などに会うと、懐かしさと励ましを覚えるようになる。」(臺[1990→1991:231、立岩[2013:257-258]に引用)

 ※この文章について
 「秋元のものと同様、臺の文章でもひどく頻繁に批判に対する反論がなされる。これから幾つか見ていくようにそれはときに文脈として不整合な箇所に唐突に挿入されるのだが、ここは反論しようとして反論している箇所である。けれども、そうした性格の文章に記される一点目と三点目に限っても、議論は妙である。(二点目についても、その類の指摘を目にした記憶は、私にはない。
 […]
 「もう一つ、「「色、金、名誉、身体」といわれる生活特徴」について。実際には、統合失調者がこれらの契機に強くこだわる、それが特徴であり、生活上の困難を引き起し、そしてその特徴を勘案し利用して「社会復帰」に導く、それが「生活臨床」であると、その筋に従って実践されたのは事実であり、そこが批判もされた。それを「私見」として外してしまったとして、既に主張されなされてきたものがなくなるわけではなく、それをどう評価するかという問題は残される。小難しいことを言う指示者としての医師の指示を受けるのでなく、わかりやすい特徴を手がかりに自らが差配できることが保健師(保健婦)に生活臨床が広がった契機としてあったのはいくらかは事実だろう。そして医師の「高踏性」も問題ではあろうし、臺(たち)自身は高踏的でなかったかもしれない。ただやはりそれと別に、すくなくともかなりの期間、広く、「色、金、名誉、身体」が生活臨床の鍵としてあったことはそれとして検討の対象となる。
 だから、批判へのこのような臺の反論は無効である。ただ、結局この人たちは、どんな言葉を使うにせよ(変えるせよ残すにせよ)、それが指す範囲を適宜調整するなどして自らを残す。[…]」(立岩[2013:258-259]*)
*立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.

◆中沢 正夫 19930208 『精神保健と看護のための100か条――精神保健のための50か条・精神科看護のための50か条』,萌文社,233p. ISBN-10: 4938631199 ISBN-13: 978-4938631192 1700 [amazon][kinokuniya] ※ m.

精神保健のための50か条
生活臨床 cf.生活臨床
 18条 科学的な生活指導技術を身につけよう
 19条 生活特徴のみつけ方
 20条 分裂病の生活のしかたのくせをしろう
 21条 患者係選定の重要さ
 22条 当面の働きかけのくみたて方

 「18条 科学的な生活指導技術を身につけよう

 「非人間的に患者を扱っては治らない」とよく言います。その通りです。しかしその逆は正しくありません。つまり人間的に扱えば扱う程、病気がよくなったり、再発が防げるかというと、そうはいきません。したがって、誠心誠意そのケースにとりくむだけでなく、ケースの再発を防ぎ生活を安定させる科学的な生活療法技術を身につけることが大切です。ヒューマニズムは、ケースとの悪戦苦闘の中にこそあるのであって唱えるものではありません。
 まずはじめに分裂病患者には能動型と受動型の二つのタイプがあることを知ってください。能動型は、今の生活ぶりにいつも不満で自ら生活の枠をひろげようとするタイプで、全体の七割を占めます。受動型は、現在の生活に安住しようとし、他人がうごかさぬかぎり生活をひろげようとしません(三割)。予後は圧倒的に受動型がよいのです。再発すると<0038<き、能動型は自らうごきすぎて失敗し、受動型は、周囲が生活をひろげすぎて破綻するという傾向があります。
 次にその患者のアキレス腱をさがさねばなりません。
 精神科は慢性病です。しかしだからといって環境の変化に鈍感なのではありません。患者をとりまく生活環境(人間も含めた)がうごくとき、急性に増悪したり軽快するのです。それはちょうどリュウマチににています。だから病状の変化とその人の生活の変化を因果的にみることが必要です。さてどういう生活上の変化がいったい、患者の病状を悪化させるのでしょう。それがその人のアキレス腱です。
 親が死んだとたんかえって病気がよくなったり、失恋してケロッとしていたり、どうも "大ショック" に対しては全部の患者が反応しません。逆に私達から考えるととるにたらないようなことであっけなく病気が悪化します。このとるにたらないような "生活の出来ごと" をまとめてみますと、患者さんのアキレス腱がうかび上ります。たとえ、他人からみてとるにたらぬことでも、そこをつかれるとあっという間に悪化してしまうのです。それを『生活特徴』といいます。大きくわけると三つあります。@縁談、恋愛、性生活など、主に異性とのかかわりあいによって生じる出来ごと、A財産、損得、借金など……生活の経済的側面を代表するもの、 B学歴、資料、男らしさ、出世など社会的地位に関する出来<0039<ごとです。誰にとっても生きるよりどころ、張り合いであり、評判をおとしたくない点(その人の価値意識)です。分裂病者は、ここをつかれるとあっという間に再発するのです。そしてこのことに多くの患者さんは気づきません。だから一人一人の患者さんのこの生活特徴をつかまなくてはなりません。これが在宅生活指導のキーポイントです。このアキレス腱をみつけてしまえば指導や助言がしやすくなります。」(中沢[1993:39-40])

◆笠原 嘉 19981020 『精神病』,岩波新書,232p. ISBN-10: 4004305810 ISBN-13: 978-4004305811 777 [amazon][kinokuniya] ※ m.

 「生活臨床学派の研究
 再発の研究というと、一九六〇年代から始まった生活臨床学派(10)とよばれる人々の研究が先行的で、よく引用されます。
 彼らは分裂病の人を心理面よりもむしろ、世間のなかで生活する際の困難に焦点をあわせて観察しました。そして、生き方という点で病人を二つのタイプに分けました。「受動」的な生き方を好むタイプと、少々摩擦があっても「能動」的に世間と接触しようとするタイプというニつです。それに加えて、それぞれの病人が「何に重きをおいて生活するか」をみると、それぞれに違った弱点をもっていて、それが引き金になって再発することがわかる、局点としては色、金、名誉、健康のガ四つがある、と指摘しました。
 「金」というのは、たとえば、四月から同僚より給料が百円少なくなったことが長く保たれていた心の安定を乱すに十分といった場合です。いってみれば、すこぶる人間的なことがらなのですが、もともと吝嗇な人だからそうするのではなく、病気をしてから後のその人の生き方が少し機械的というか幾何学的というか、融通のきかない方向へ変化した結果だということを考慮しなければなりません。病気の後の残遺症状(九七ぺージ)の一つです。「色」につついても「名誉」についても「健康」についてもそうなのです。

 こういうふうに再発劣が繰り返されると、病人の自分自身に対する自己評価が下がります。そして、困ったことに今度はそれがよりいっそう世間から病人をひきこませます。そこに再発を<0094<めぐる問題の核心を指抽した彼らの主張は、やがて履歴理論(一八三ページ)としてまとめられました(11)。
 この理論によれば、分裂病では精神病を経験したという「履歴」こそがその後に深刻な影響を及ぼす。生体を敏感にさせ、再発させやすくする。心理的な記憶が残るというより、脳自体が敏感になることが重要である。その証拠に再発時のときの症状のおこり方はいっも初回のおこり方にとてもよく似ていて、しばしば同じ症状が出る。同じ内容と同じ型式の妄想が再現する。――
 この考え方は「素質−ストレス」モデル(一八一べージ)という古くからある考え方を発展させたものです。素質は発病によって敏感さを獲得しストレスを一段と受けやすくなる、と考えました。
 最後に、再発をそんなに驚かなくてもよい、という指摘をある心理治療家の言葉から拾っておきます(12)。「回復期の病人は神経症の人より何倍も傷っきやすく、ぶり返しやすい。しかし、ちょっとしたぶり返しがおきても、落胆すべきでない。病人や家族にあらかじめ、回復期にはぶり返しのおこりうること、しかし、それは最初の病勢に比べれば軽いことを説明しておくとよい」<0095<」

(10) 臺弘『分裂病の生活臨床(正・続)』創造出版、一九八三、一九八七。
(11) 臺弘『分裂病の治療覚書』創造出版、一九九一、一1セ〇ぺージ。
(12) アリエティ『精神分裂病の解釈』TU、殿村忠彦ほか訳、みすず書房、一九七四。

◆藤澤 敏雄 19981110 『精神医療と社会 増補新装版』,批評社,431p. ISBN-10: 4826502648 ISBN-13: 978-4826502641 3150 [amazon][kinokuniya] ※ m.

 一九六九年当時は「地域精神衛生活動の理論的支持としては、群馬大学の江熊要一氏が一九六三年に提唱した「生活臨床」の流れと、生活臨床から出発して独自の理論を展開しつつあった小坂英世氏の理論が、主だったものとして、とりわけ熱心な地域活動家達のたよりとされていた時代である。言うまでもなく、一九六九年は日本精神神経学会金沢大会が精神医療改革の端緒を切った年である。金沢学会がどのような影響を私自身や精神医療に与えたかについては、詳しく語らねばならないのであるが、ここでは私の地域活動の、金沢学会の精神医療改革ののろしをあげた年にはじまったということの重要さを私自身のこととして強調しておくにとどめたい。金沢学会の精神医療批判を、いかにして地域活動と自分の病院実践のなかで具体化し、のりこえようかという思いがありつづけたということである。」(藤澤[1982→1998:42])

「第10章 生活臨床その後

1 方向転換

 1984(昭和59)年に臺は「生活療法の復権」1)と題する論文を発表した。この論文が与えた衝撃は小さくなかった。
 第1は、1969(昭和44)年から東京大学精神科で展開されていた医局講座制解体−自主管理闘争 2)のいっぽうの当事者として、また日本精神神経学会では「人体実験」3.4)の実施者として、批判の矢面に立たされた当の人が、退官後雌伏10年目にふたたび筆をとったことへの衝撃であった。その不撓の精神によって、臺は復権を強く印象づけたのである。
 衝撃の第2は、論文の内容に関することがらである。臺は、論文の中で、生活臨床と生活療法の区別をあいまいにし、すべてを生活療法に溶融させてしまった。また、生活臨床に対する批判者の言説をつぎつぎ取り込み、違いを不鮮明にして、臺がいうところの生活療法に包摂しようとしたのである。あきらかな方向の転換であった。

2 「生活療法の復権」

 「生活療法は、その一部をなす作業療法を含めて、わが国の精神科医療 <0109<に古い伝統をもつ治療活動である。にもかかわらず、近年不当におとしめられた時期があった」との書き出しで臺の論文ははじまっている。

  「精神科医療体系の貧困から、生活療法や作業療法の名のもとに、多くの非医療的行為が行われたから、治療以前の問題までからんできた。そしてこの弊害を批判の出発点とした若い人達の中には、生活療法概念の否定こそ正しいと思い込んでしまった人びとがある」「生活療法批判には、価値の転換論と反体制運動が混同され、技術主義がおとしめられて精神主義が叫ばれ、漸進と急進という路線上の相違、手直し論と世直し論がからんでいた。そこでは原則論principleと優先性priorityと実行可能性feasibilityの区別も明らかでないままに、政治的、感情的、利害関係の対立の渦が建設的な論議を阻んでいた」

 と述べて、当時の生活療法批判をあらためて非難した。
 そして「10余年が空しく過ぎたという痛みが強い」という歴史認識を示して、ルサンチマンを吐露している。
 臺は、生活療法が批判を受けた烏山病院問題は、生活療法の本質に由来したものではなく、組織と個人の矛盾にすぎなかったので、技術的に処理可能だったとしている。しかし、この問題については、本書でさきにふれたように、決して技術的な問題に還元できない本質的な思想の相違が含まれていたのである。
 また「初期の生活臨床に、表現のうえで訓練面が強く表れていたことも否みがたい」「作業療法、生活療法は、働け働け、世渡りをうまくこなせと気合をかけすぎたきらいがある。そこに画一主義、生産第一主義、治療者の価値観の押しつけなどという批判の生まれてきた理由の一つがある」と批判の背景を分析しながら、続けて「だが生活療法にたずさわる者は、患者は押しつけられて動くものでなく、それには『きっかけ』が必要で、患者も治療者も自分で実際にたずさわってみて、『こつ』をつかむものであることを早くから知っていた」と言う。そのことと訓練を強く勧めて気<0110<合をかけることとの撞着については認識されていないかのようである。
 つぎに臺は、批判者たちの主張をとりあげている。たとえば小澤の論文 5)を引き合いに出して「批判者たちも現実路線に立ち戻れば、生活療法の実践にとりくまざるをえなくなった」証左であると述べている。これは小澤論文の誤読でなければ、意図的な歪曲である。
 小澤は論文のなかで「〈療法〉として〈生活〉が与えられるという構造を逆倒せしめよ、患者が自らの〈生活〉を奪還する闘いとわれわれがいかに共闘し得るのかという視点こそ、われわれの立場でなければならない」と記したうえで、「現実の精神科医療の構造、さらにはそれを生み出した社会構造・生活構造が根底的に変革されない限り、生活療法の普遍的のりこえは不可能である」と述べ、それに続けて「これは要するに、いかに生活療法を批判しつづけてきた私とて現実の場面では〈生活療法家〉として機能せざるを得ない状況にいるということである」と言っているのである。
 おそらく最後の文言を逆手にとって、臺は上のように引用したものと思われるが、小澤の論文には病院における彼の反生活療法的実践の具体例が提示されているのであって、趣旨がまったく違っている。
 臺は、中井 6.7)や神田橋 8)の論文についても「精神病理、精神療法の側かの発言は、一見、生活療法とは反するような形でそれとは言わずに、障害の受容をとりあげるようになった」と似たように牽強付会を行っている。 結論として、臺は、作業療法は生活療法の一部であり、生活臨床は社会のなかでの生活療法であると述べるに至り、作業療法と生活臨床の独自性をあいまいにしてしまった。
 そして「生活療法は一方の極に、狭い意味での行動療法、神経症的性癖、行動異常などの変容に用いられる技法を持ち、他方の極に、障害克服のための啓発、自己発見などの精神療法と重なり合う幅広いスペクトルを持っている」とした。
 このようにありとあらゆるものを包含しているのが、生活療法であり、<0111<わが国の精神科医達は自分たちが実践していることが生活療法であることに気づいていないだけのことであると主張するのである。
 臺が主張する生活療法がそのようなものであれば、やはり「生活療法概念の否定こそ正しいと思い込んで」しまわないわけにはいかない。若者たちが治療以前の問題と生活療法とを混同していると批判した当の人が、作業療法も生活臨床も生活療法と混同しているのである。
 この論文で、臺は復権したが、生活療法は復権しなかった。

3 生活臨床の危機と分岐

 湯浅は1987(昭和62)年の時点で、生活臨床運動の「外なる危機、内なる危機」についてとりあげている 9)。
 外なる危機には3つの原因があるという。
 第lは、社会変動に由来するものであり、生活の変貌によって、生活臨床の職業指針・結婚指針は時代に即応しなくなっており、見直しの必要を迫られている。
 第2は、生物学的研究が時代の主流となったために、長期の臨床研究が許容されなくなった。
 第3は、学会紛争や精神病院の不祥事などの精神医学界の混乱によって、精神医療関係者の士気が低下したというのである。
 内なる危機は、1974(昭和49)年の江熊の急逝であった。その結果、まとまりのあった生活臨床グループは「ポスト江熊の多極化の時代」に入り、精神療法派、家族史研究派、長期経過研究派等へと分岐した。沈滞から拡散へと向かったのである。しかし「百家争鳴転じて百鬼夜行がまかり通り、分裂病研究者が分裂するのは一生活臨床の問題ではなく、本病研究に携わる者の自戒すべき通弊と思われる」ともいう。<0112<
 ところで、1985(昭和60)年、神田橋を司会者として行われた座談会 10)でも、湯浅はしきりに「生活臨床のアイデンティティ・クライシス」を強調しているが、出席した生活臨床同人たちの間では、必ずしも危機意識が共有されなかったことは興味深い。
 これより前に行われた「若手医師による報告」11)はやや深刻である。それによると、群馬における地域活動は、「放置患者をへらし、通院患者をふやし、軽快者を大幅にふやした。しかしながら入院数を減らすことができなかった。その主因は、活動開始時にすでに入院中であった長期入院者を退院させることができなかった故である」という。
 そして「統計でみるかぎり、地域精神衛生活動は無力であったといわざるをえない」「保健婦を中心とした精神衛生活動は、この10年余の間に大きく発展した。しかし、その活動の伸びは、ここ数年芳しいものではない」「地域精神医学は、群馬においても、精神医療の様相を変えるまでにはなっていないというのである。

 こうした現象は群馬に限ったことではなく、生活臨床に限った話しでもない。日本の地域精神医療全体に通じることがらである。

 「『放置患者』を『医療にのせる』という対応が家族、住民のニードのみで行われるとき、患者の地域からの排除を結果したと同じように、『再悪化防止』の活動が『医療中断への働きかけ』として、病院、医療者からの要請で行われるとき、それは病院内処遇、管理の地域への延長となり患者をより苛酷な状態に追いやることになるのである」 「『気軽に往診してくれたり、相談に行ける』ことのない精神病院をそのままにして行われる『地域精神医療』は、ただ幻のものであるだけでなく、現在も拡大し続ける精神病院への大量長期収容化を病院の外から促し、この『病院』ならざる『病院』の矛盾から目をそらす点で、またこの『病院』の影響を積極的に地域=病院外にまで延長するという点で大きな罪があるといわねばならない」<0113<

という島の批判 12)は今も生きている。
 1984 (昭和59)年、宮ら 13)は、分裂病者140名を対象に、追跡期間が16〜21年におよぶ、長期経過研究を発表した。 
 この長期経過研究の前半10年は、組織だった生活臨床的働きかけが精力的に行われ、後半は一般的な精神科臨床のなかで治療された分裂病者についての経過と転帰である。
 それによると、社会適応が「半自立」と「家庭内」という中間の群は、時間経過とともに連続的に減少し続け、最終的には「自立」かしからずんば「入院」または「死亡」という厳しい分極化が起こっていた。この現象を彼らは「鋏状現象」と名づけた。そして、当初より良好な社会適応を示した「自立」の群が時間経過のなかでもっとも変動が少なかったのである。
「20年後転帰では、再び心を揺さぶられるような成績をみることになった。亡くなった人たちを除いて、半数の人たちが自立しているのは心強いことだったが、他方にはまた約1/3の人たちが入院していたのである。これでは昔と変わらないではないか」14)と臺を嘆息させる結果となったのである。

4 外なる批判・内なる批判

 湯浅と鈴木 15)は、生活臨床と治療共同体という2つの治療法の比較共同研究を行った。
 それによれば、生活臨床と治療共同体の違いは、結局のところ、個人療法と集団療法の差異に行き着いてしまうという。「当時の生活療法の画一的、没個性的な弊害への強い反省から、生活臨床が発足した経緯もあり、その反動として、一時、個人療法的色彩が濃厚な時期があった」と2人は述べている。 <0114<
 ところで「生活」の概念をめぐっては、両者につぎのような相違があるという。生活臨床においては、「仕事とつきあい」を中心におき、睡眠、食事などの比較的生物学的な側面まで含めており、はなはだしく包括的で、概念規定の境界があいまいである。一方、治療共同体は、社会的な「人間関係」のある場を生活の場としてとらえる。したがって、親子、夫婦関係、友人との関係、病棟内の患者間の人間模様などのすべてが、生活として把握される。そしてそれらのsocial interactionのhere and nowの持続的検討がliving-learning(生活における学習)あるいはsocial learning(社会的学習)といわれる治療の中心となる。
 いいかえると患者と治療者の関係を含めた人間関係のありように着目するか否かが大きな相違点と言えよう。
 ところで臺は「生活療法の復権」1)のなかで、治療共同体を批判してつぎのように述べている。「治療共同体の理念は、組織対個人の矛盾を治療的に活用しようとする野心的なものであるが、治療者の裁量と障害者の自己決定をきわどく使いわけるので、二重に欺瞞的である」と。
 神田橋ら 16)は、自閉療法と生活臨床を比較検討した。自閉療法と生活臨床には共通点もあるが「一見小さな差異のように見えるものの中に、実は両者の重要な差異がひそんでいる。そしてその差は、両者の出発点の差、いいかえると先入観の差に起因するようである」という。
 決定的な相違は治療者の役割についての治療者側の認識にあるという。それは、自閉療法では治療者の存在が原則として有害であると考えるのに対して、生活臨床ではつねに有益と考えている点にある。自閉療法では、患者が他者との感情的接触を結ぶときに、危機状況が生まれるととらえる。「尽力的」な相手は、患者のなかに近寄りたいという気持ちをかきたてる故に、ひときわ有害である。したがって、治療者患者関係のなかにも危機状況や有害なものが内包していると考えるのである。一方、生活臨床では、治療者患者関係を「信用関係」と規定する。 <0115<
 もうひとつの決定的な差異は、治療目標の問題である。自閉療法において、第一義的に追求されているのは、あくまでも患者の外界認識(主として対人関係)と自己洞察の深化であり、行動の変化は二次的なものとみなされている。ところが、「生活臨床においては、危機状況の回避の経験をとおして、患者が生活の安定を得るための生活上の知恵を得、新しい、より適応的な行動を獲得し、生活水準が段階的に向上することを第一義的に目ざしている」という。
 臺は「生活療法の復権」1)に、この論文を引用して「このような所説は、従来の生活療法の虚を突いた形で問題の所在を明らかにした」と述べながら、結局「これは生活障害の現状認識、障害の受容に通ずることを示している」と読んでしまうのである。我田引水とはこのことである。
 宮内ら 17.18)は、東大精神科のデイ・ホスピタル(DH)で、生活臨床と治療共同体を統合する試みを行った。「DHが生活臨床の適用の可能性を豊かに持つ場となるために、治療共同体の理念を採用することが有益」17)と考え、「実行委員会方式」を採用して、「生活臨床の分野で立ち遅れていた治療的集団作りを可能とした」18)という。そして実際に「患者はDHの主人公として生き生きと振る舞い、DHの集団が持つ『誘引』も飛躍的に強まった 17)と報告している。その実践のなかから、生活臨床の働きかけの手法、すなわち、(1)時機を失せず、(2)具体的に、(3)断定的に、(4)反復して、 (5)余分なことは言わない、の5原則で働きかけても奏効せず、かえって混乱する分裂病の一群があることを発見し、この群を「自己啓発型精神分裂病患者群」(略して「啓発型」)と名づけた。そして生活臨床的働きかけが奏効する群を「他者依存型精神分裂病患者群」(略して「依存型」)と呼んで区別した 19)。
 そのうえで、この類型と生活臨床にいう生活類型とは次元が異なるということを強調している。「いわゆる能動型、受動型は生活の枠に対する本人の態度のとりかたで判別するのに対し、『依存型』『啓発型』は『具体的 <0116< で断定的な指示的働きかけに対する本人の反応の仕方』で判別し、生活の枠に対する態度は問わない。したがって、理論的には『依存型』『啓発型』のいずれにも能動型、受動型が存在しうる 20)と述べている。
 また、治療的接近法としては、「啓発型」には「役割啓発的接近法」(自己啓発を支持・促進する)が求められ、「依存型」には「役割指示的接近法」(具体的・断定的に教える)が適切であるという 21)。
 宮内は、生活特性を類型化し5原則に基づいて働きかける生活臨床を「著者ら東大の者は、『従来の生活臨床』と呼ぶ。広く知られている生活臨床が、生活臨床のすべてであるはずがないということを強調したいがためである」20)と書いている。

5 自己批判

 臺は1990(平成2)年に、みたび生活臨床に言及した。「生活臨床のその後 22)と題された論文には「自己批判の立場から」という一章がもうけられている。
 そのなかで、第1に生活概念のあいまいさをとりあげている。生活慨念があいまいなために、集団生活、対人関係のダイナミックスを治療体系にくみこめなかったし、院内生活臨床が弱体であったという。
 第2に、生活臨床には、開放看護、短期入院をもって十分とする見切りの速さがあって、長期入院にはあまり関心を示さなかった。
 第3は、能動型・受動型という生活類型の概念を厳密に分析することも、操作的に規定することもしなかった。「色・金・名誉・身体」という生活特徴についても吟味がされていない。それぞれの特徴についての特異性が本当にあるのかといえば、あまりなさそうだとも言っている。生活特徴と生活史との関係も重要な問題であると述べている。<0117<
 いずれも、生活臨床批判のなかで、くりかえし指摘されてきたことがらである。臺の自己批判は、全面的である。
 そして、生活臨床はlつの治療法ではなく、生活療法と精神療法と薬物療法の3つを総合したものであり、その総合の仕方が生活臨床であると臺が述べる時、生活臨床の独自性はどこに存在しうるのであろうか。生活臨床は、30年の時間経過のなかで、外なる批判と内なる批判にさらされて解体した。
 しかし考えてみれば、わが国において、1つの運動体が30年の長きにわたって命脈を保ち続けたことのほうが希有なことと言わねばならない。 <0118<

p.199-120

引用文献

第10章 生活臨床その後

1)臺弘:生活療法の復権.精神医学,26;803,1984.
2)富田三樹生:東大病院精神科の30年.青弓社,2000.
3)日本精神神経学会「石川清氏よりの台氏批判問題J委員会(仮称)(委員長,小池清廉)報告書−人体実験の原則よりみた台実験の総括と人体実験の原則の提案−.精神経誌,75;850,1973.
4)小澤勲:「台弘氏による人体実験」批判.精神医療, 3 (1);47,1973.
5)小澤勲:精神病院における生活療法.臨床精神医学, 3;25,1974.
6)中井久夫:世に棲む患者.川久保芳彦編:分裂病の精神病理9,東京大学出版会,1980.<0199<
7)中井久夫:働く患者−リハビリテーション問題の周辺−.吉松和哉編:分裂病の精神病理11.東京大学出版会,1982.
8 神田橋條治.荒木富士夫:自閉の利用−精神分裂病者への助力の試み−.精神経誌.78;43,1976.
9)湯浅修一:解説.臺弘,湯浅修一編:続・分裂病の生活臨床.創造出版,1987.
10)神田橋條治,臺弘, 湯浅修一,宮真人,伊勢田堯,中沢正夫,菱山珠夫,宮内勝:「続・生活臨床の歩み」座談会.臺弘, 湯浅修一編:続・分裂病の生活臨床.創造出版. 1987.
11)宮真人、山岡正規,伊勢田堯,井上新平,長谷川憲一:群馬の地域精神衛生活動 10年の分析−若手医師による報告−.社会精神医学,2;471,1979.
12)島成郎:地域精神医療批判の序.精神医療.5(1);2,1976.
13)宮真人,渡会昭夫,小川一夫,中沢正夫:精神分裂病者の長期社会適応経過(精神分裂病の長期経過研究,第l報).精神経誌,86;736,1984.
14)臺弘:解説.臺弘編:分裂病の生活臨床., 創造出版,1978.
15)湯浅修一,鈴木純一:生活臨床と治療共同体.安永浩編:分裂病の精神病理6.東京大学出版会,1977.
16)神田橋條治,荒木富士夫,福田秀次:自閉療法と生活臨床の対比.九州精神医,24;79,1978. [神田橋燦治著作集:発想の航跡.岩崎学術出版社, 1988.所収]
17)太田敏男,亀山知道,平松謙一,安西信雄,宮内勝:デイ・ホスピタルにおける治療システムと治療過程−生活臨床と治療共同体の統合の試み−.季刊精神療法,6;354,1980.
18)宮内勝:生活臨床と治療共同体の統合の試み−デイケアの運営システムおよびデイケアの治療上の位置づけ−.集団精神療法,2;121,1986.
19)宮内勝,安西信雄,太田敏男ほか:治療的働きかけへの反応の仕方にもとづく精神分裂病圏患者の臨床的類型化の試み−「自己啓発型精神分裂病患者群」と「役割啓発的接近法」の提唱−(第1報).精神医学,29;1297,1987.
20)宮内勝:分裂病と個人面接−生活臨床の新しい展開−.金剛出版, 1996.
21)宮内勝,安西信雄,太田敏男ほか:精神分裂病圏患者に対する役割啓発的接近法−「自己啓発型精神分裂病患者群」と「役割啓発的接近法」の提唱(第2報)−.精神医学,30;149,1988.
22)臺弘:生活臨床のその後.精神科治療学,5;1307,1990.」(浅野[2000:109-120])

◆中沢 正夫 20020325 『治せる精神科医との出会いかた』,朝日新聞社,朝日選書,232p. ISBN-10: 4022597968 ISBN-13: 978-4022597960 1200+ [amazon][kinokuniya] ※ m.

地域で診るということ(2) 165-174

 「トリエステでの実践のはるか昔、一九六五年ごろから、日本でも、ほぼ似たようなとりくみが局地的になされています。それは、パイロット・スタディの域をでないものでありましたが、「入院をくいとめ、地域で治す」成果はすばらしく、もし国の方針としてそれが採用されていれぱと惜しまれるものでした。そして、このやり方は、いまも、わが国の農村部での「地域で診る」モデルとして通用しています。
 その代表的な地区、群馬県の伊勢崎保健所管内仝市二町二村、人口十四万(当時))の実践を紹介しましょう。
 実施主体は伊勢崎保健所であり、技術援助は群馬大学医学部精神科教室です。具体的には、っぎの(1)から(6)の実践です。

 (1)各自治体ごとに一名の精神科医を派遺する。<0165<
 当時は「貼り付ける」という言葉が使われました。単なる出張診療をする嘱託医ではなく、患者宅を保健婦といっしょに巡回訪問し、療養指導をし、家族の生活上の悩みの相談にのります。その自治体で、サボート・ネットをどうっくったらよいか、研究し、組織することを目的としました。
 (2)日常的なケアや訪問は自治体保健婦が行い、保健婦で解決がつかぬ場合、すぐ担当医妬に連絡する。
 このため、この。フロヅェクト発足前から実施中もふくめ、順次、保健婦の研修を行いました。
 研修は、
 (a)大学病院における三力月ほどの実習
 (b)伊勢崎保健所におけるケース検討会(時間内)
 (c)医師が出向いた夜、その日扱ったケースについてのつっこんだ検討会と、次回までの方針づくり
と、きわめて実践的なものでし一した。
 (3)日常的な医療活動の拠点やケアセンターとするため、管内のどの市町村からも交通至便な所(桑畑のなかになってしまったが)に精神科医院を開設した(プロジェクト・メンバーの一人)。<0166<
 入院を要する場合などは、この医院経由で行い、大学病院が支援をしましした。
 (4)各自治体ごとの家族会がつくられました。また、境町では患者会がっくられ、あ弼村で旧家蒙族会が、この。フロジェクトの主管をするようになっていきました。
 (5)この地区の活動のへッド・クォーター(総合指揮相談役)は、伊勢崎保健所におけるケース検討会が担当。
 そこにはケースに応じてしばしぱ、民生委員や教師、雇い主が参加するようになっていきました。
 (6)家族会の活動により、ごく早期に東村(一九六八年から)についで境町と、精神病患者の医療費無料(入院、外来とも国保十割給付)が実現しました。
 その結果、保健婦の訪問活動と家族会活動を両輪とし、それを支える地域診療所、さらにそれをまわりから支える大学、市町村、教師からなる鵬頁の図のようなネットができあがりました。

 このなかから、筆者が責任を負った東村の例をとって説明します。 東村は赤城山麓にひろがる畑作中心の純農村であり(農家世帯数六三%、うち四分の一が一業農家(当時))、人口は九千四百人(一九六五年)、保健婦二人、開業医二人(のち精神科診療<0167<所ができ、三名に)で、一九六五年から活動がはじまりました。把握患者数は次第にふえ、一九七二年には百八十三人に達しています。
 うちわけは精神分裂病五十六人、躁うつ病十一人、てんかん二十八人……等。全国平均にくらべて有病率が高い。分裂病五十六人中、入院十五人(ほとんど長期入院者)、通院中二十一人、軽快寛解七人、医療中断中三人、放置六人(医療の必要のなくなっている古い患者、老人が多い)でした。入院をのぞく四十一人が村内でくらしていましたが、その程度は、生活自立十六人、半自立十六人、家庭内適応四人(老人が多い)。
 精神症状の様子をみると、持続的に安定している人十八人、よくなったり悪くなったり九人、いっも悪い人三人、でした。
 プロジェクト開始と同時に、約七十家族からなる家族会がつくられ、活発に活動をはじめました。緊急受診用のプール会制度(一種の頼母子講)、援農相互支援、そして一年の運動の末、国保十割給付をかちとっています。さらに、医療費がタダであってもいい医者がいなければ、近くの精神病院にいた医師をひきぬいて、前述の地に開業させています。
 これらのほかに、日常的には集落別座談会、疾患別座談会(農閑期の夜、会員宅で)をひらいています。っまり、五、六軒から十四、十五軒単位の小組ができており、生活の地で日常のつきあい、こまめなたすけあいが行われました。<0168<
 [図]<0169<
 座談会には家族会の会長ほか三役が必ず出席しており、そこでの議論が、十割給付など各の成果にむすびついています。そのむすびつけの作戦をつくり、援助したのは一九四三年来、この地で働き、村人の信頼あつき保健婦でした。
 隣の境町が、町役場での月一回の出張診療が主であったのに対し、東村では、てってい的な訪問活動でありました。保健婦の判断のもとに、必要とされる患者を訪問し、その場で診察をし、家族に指示するやり方です。医師の出張は一週間に二度(午後)――医師をどう使うかは保健婦に一任でした。夕方からは、その日訪問し、支援したケースのほとんどの主治医である村内開業の精神科診療所医師と、夜おそくまで討論し、うち合わせし、次回までの目標をたてました。
 日常は何かおこると保健婦が訪問し、診療所医師と相談しながらタイムリーな働きかけ(危機介入)を行っていました。
 つぎは境町の分裂病六十四例を「だれがケアの中心になっているか」でわけたものです。

 外来での投薬、働きかけを医師が主導している  二十例
 働きかけの企画・実施とも保健婦  二十七例
 働きかけの基本を打ち合わせ、なにごともおこらないときは医師まかせ  十例<0170<
 医師と保健婦とで働きかけの領域を分担  六例
 保健婦の訓練のため、医師がサボート(この場合、医師とは精神科診療所医師)  一例

 保健婦が第一の支え手であることが、よくわかると思います。
 トリエステとくらべると、ネットワーク図でわかるごとく、このネットワークには作業所や居宅サービスが欠けています。群馬県の例では多くは農家であったので、家にもどって、家人との農業にたずさわる患者が多かったのです。しかし、農業という家族内労働ではうまくいかない例、再発例が多く、保健婦たちは、町内の小企業主をネットにくみいれ、就労の世話、その後のフォローをやっていました。また結婚問題にも大胆にとりくんでいました。こうして小規模ながら、医・職・住・友をみたすネットワークのなかで、一人一人にきめめこまかいケアを展開していたのです。
 これらのネットでどれだけの成果が上がったか調べてみると、鵬頁右下図のごとく境町でけ入院べッド数を群馬県平均に比して約十床(人口万対<人口一万人に対する>)へらすことに成功しています。
 東村でみますと、もっとはっきりしています。万対(人口一万人に対する)ベッド数は、どんどん下がってきています。十割給付も手伝って、患者が次々と退院するようになり、放置患<0171<者は医療とつながる一方、新しく発生した患者は、ほとんど入院させずにくいとめ、入院でも短期ですむようになっていきました。十割給付に伴って医療費(国保)は数年上がりつづけましたが、退院がふえ、新再入院をおさえることにょり、次第に減っていったのです。
 まとめてみると、医療費無料、家族会の結束、既述したような、初歩的なネットワークの三つが揃えば、以下のように、いうことができます。
 (1)入院をへらし、在宅患者を支えることが可能であった。
 (2)しかし、超長期に入院中の分裂病者を退院させることはできなかった(万対約十床)
 (3)それをのぞけば、入院病床は新たに発病した人の例を中心に、万対五床で十分であzと推定された(169頁左下図)。

 この数字は奇しくも、その後イギリスやスウェーデン、デンマークで実証された必要病床数と同じでした。
 さて、このようなネットワークが都市部でできたかというと、それは無理でした。自治体の人口が多く(保健婦は受け持ち人口が多く、患者の実態を数字でしか把握できません)、住民の居住者としての連帯意識がうすいからです。精神病者がいても(被害をうけぬかぎり)無関心、文句もいわぬ代わりに、援助や協力もしてくれないという住まいかたが急速にすすんでい<0172<たからです。とくに高度経済成長期以後の都市では、共住者意識が消失し、いわば個別ひきこもり的住まいかたへ変化していたのです。
 都市でも保健所が中心でしたが、管内の患者を根こそぎ参加させるという具合にいかず、心ある家族が集まり、家族教室、家族会の結成が行われ、ついで患者クラブ、デイ・ケアを保健所が担当していきました。各保健所に嘱託医がおかれ、精神衛生相談が定例化しましたが、訪問や放置例を発掘し、点を面にするェネルギーに欠けていました。ここでの機関車は、家族会であり、家族や保健所関係者と町の有志の合作になる小規模作業所でした。とくに一九七七年年年以後は小規模共同作業所づくりの急増にめざましいものがあります。
 現在、都市部には、保健、医療、福祉それぞれの畑から、別々に、ときに協力してっくられた精神科患者を地域でささえるための多くの資源があります。
 精神科の診療所にはデイ・ケアがついていることが多いし、保健所が各種のサービスを行っています(デイ・ケア、相談、訪問、ボランティア養成……)。またいろいろな設立主体の作業所があります。地域生活支援センターもできてきていますし、グループホームもあります。
 問題は、まだまだ人口に比て量が足りないことです。そして、それ以上にバラバラに(意図も地域分布も含め)無計画にできてきています。これらの社会資源をつなげて、有機的ネットにする責任主体がいないことです。今のところ、共同作業所がその任を担っていまナが、公<0173<的には本来保健所あるいは自治体の衛生部の仕事でしょう。
 都市部において、地域で「診る」、地域でケアしているとは、これらのそれぞれの社会沓の活動をうまく調整し、持ち味を出させることです。
 ケアされる側(コンシユーマー・患者・家族)からいえぱ、自分にあった各分野でのケアがうまくうけられるよう、プラニングしてくれ、かつマネジメントしてくれる人(巣団・待割)が必要なのです。地域でのケアの成否は、この役割を、だれがどのように果たすかにかかっています。」(中沢[2002:165-174])

◆伊勢田 堯(東京都立精神保健福祉センター所長) 200305 「地域精神保健と生活臨床」,新宿区精神障害者家族会「新宿フレンズ」2003年5月勉強会→『新宿フレンズ会報』2003-6
 http://www15.big.or.jp/~frenz/iseda.html

 「江熊要一先生、私の恩師ですが、この先生が佐久病院で完全開放をやった実績を買われて群馬大学に戻されて、生活臨床を同僚と創り出された指導者です。すごく献身的で、アイディアも豊富で、ヒューマンな先生でしたが49歳で亡くなられました。この先生が病院では安定しているが、自宅に戻ると悪くなるという患者さんがいたのですが、患者さんと一緒に外泊してみたんですね。自宅近くの村に入ると患者さんはそれまでの笑顔が消えて、緊張してくる。近所の人の声が聞こえてくるんですね。「アイツまた帰ってきた」などという悪口が聞こえてくる。こういう話を病棟で聞けば、被害妄想とか幻聴とみなされます。先生はとっさの判断で、患者さんと一緒に近所を挨拶して回ったのです。「病気が良くなりましたので帰ってきました。よろしくお願いします」と。そうしたら患者さんの表情も穏やかになり、ずっと長い外泊ができたのです。
 このことから、患者さんの悪化にはそれなりの原因があり、それを解決すれば分裂病の再発も予防できると考えたのです。その次に、この患者さんが悪くなったのは、田植えができなくて困ったいうことがありました。そこで、医局員を動員して田植えを手伝う。当時のお医者さんはすごいですね。田植えができたのですから。そしたら、その患者さんは病状が良くなったそうです。しかし、毎年医局員が田植えをするわけにはいきませんから、そして考えたのが耕運機を買うという案です。当時、耕運機を入れたのはその村で2番目だったそうです。いままでは馬鹿にされる存在だったのが、近所の人から耕運機を貸してくれないかと頼まれる立場になってすごく安定してきた。その次は無免許で運転しているのがバレて(笑い)。と、ずっと続くのですが、このように悪くなるには原因がある。「原因を手当てする」これが生活臨床なのです。要するに、その当時は精神分析のように、密室で診察するというのが一般的でした。生活臨床は生活の場面で診断して、生活の場面で治療します。」

 「江熊先生が相談に乗っていた精神分裂病の患者さん同士が結婚することになったのですが、具合が悪くなってしまった。その原因を調べてみると、仲人が見つからないことがわかって、江熊先生は私の仲人をしてくれたばかりでしたが、「君やってくれ」と結婚したばかりの私がこの二人の仲人をすることになりました。並の精神科医なら、病状が悪くなれば、結婚を先延ばしにしたり、中止しようと勧めると思うのですが。二人には、子供さんも出来て、いろいろ問題もありますが、幸せな生活を送っているように見えます。」

◆長谷川 憲一(群馬県立精神医療センター) 200705 「家族と当事者の関係――生活臨床を学ぶ」,新宿区精神障害者家族会「新宿フレンズ」2007年5月勉強会→『新宿フレンズ会報』2007-6
 http://www15.big.or.jp/~frenz/hasegawa.html

 「生活臨床は、1958年に臺(うてな)弘先生が群馬大学精神科教授として赴任され、江熊要一助教授らとともに始めた統合失調症患者さんに対する治療実践です。生活臨床は、「生活をみなければ病気は治せない」と主張しました。しかし当時、「権力の手先になって患者さんの生活を管理するものだ」と激しく非難する人たちがいました。反精神医学を信奉する人たちでしたが、彼らは「精神病はそもそも社会のせいで起きたのだから、社会復帰は却って病気を悪化させる」と考えていました。反精神医学の嵐に見舞われた1970〜1990年は、精神医学・医療にとっては大きな停滞の時期になってしまいました。」

 「群大精神科を退院した患者さん140人について、社会適応に注目して経過が調査されました。社会適応度を自立から入院まで5段階に分けて1ヶ月単位で判別します。患者さん一人ずつ短冊をつくり、入院は黒く塗りつぶし、自立は白、その中間は灰色と、5段階の適応度を濃淡で示します。1ヶ月1センチメートルとすれば1年で約10センチ、10年で約1メートルになります。江熊助教授室にはいつもこのような短冊がひらひらしていたようです。」

黒川 洋治 19980525 「精神科医の現在――精神医学のDemedicalizationとRemedicalization」,『精神医療』第4次13:46-54

 「[…]自分がどうして精神科医になったのかについては若干触れてみたい。
 1960年代後半のベトナム戦争と反戦運動、インターン闘争、全共闘運動、青医連運動などがなかったら多分自分は精神科医にはならなかったと思う。私は昭和43年(1968)に群馬大学を卒業したが、その年にインターンが廃止になり、世代として新制度での第1回国家試験をボイコットした。翌年、大学の精神科で研修を開始したが、青医連の「非入局・研修協約」路線に従ったため、いわゆる入局はしていない。
 当時、群馬大学精神科にはその頃隆盛を極めた地域精神医学会の事務局があり、故江熊要一助教授、湯浅修一講師、中沢正夫氏などの率いる生活臨床グループが大勢を占めていた。時代的には生活臨床理論が完成し、それを武器に優れたオルガナイザーである中沢氏が地域精神衛生の毛沢東語録ともいえる「精神衛生をはじめようとする人のための100ケ条」を携え、保健婦を標的に全国制覇に乗り出した時代であった。もともと生活臨床グループは、医局内の研究グループの1つであったが、この中沢氏の地域実践活動により党派性が鮮明になってきた(以後、生活臨床グループは地域活動に打って出た江熊、中沢の代々木系が主導して行くことになり、党派色がなくアカデミズムの立場に固執し、精神分析などに接近し新たな理論構築を目指した湯浅、病院志向の加藤、田島などその後の道は異なっていくことになる)。
 1つの理論が教条化され熱狂的に受け入れられる時、周囲にどのようなインパクトを与えるのか身をもって体験することになった。輪の中に加わらない人間にはそのばかさ加減がよくわかるものである。新任間もない横井教授、教授戦で破れた[ママ]後もその地位に留まった江熊助教授、旗幟鮮明な中沢氏、政治色の殆どない中堅医局員、そして新左翼の青医連(この構成も複雑で主流派――これもセクトに別れB派、C派の寄り合い――の活動家とシンパ対民青という図式で、数では主流派が圧倒。民青=生活臨床は青医連の反主流派を形成しており、全国での対立図式を凝縮したようなかたちがそこに存在した)といつう組み合わせの中で「医局解体闘争」が進められた。
 群馬大学精神科の闘争はいったん収束し、その後、精医研グループの問題提起で泥沼化していくが、私は青医連の崩壊と同時に大学を離れた。というよりも、生活や闘争の基盤がもはや大学には存在しなかった。例の「トロツキスト」キャンペーンで群馬県下の精神病院で雇ってくれるところはどこもなくなった。唯一、日本の病院精神医学の創始者の一人ともいえる前田忠重先生から[…]」(黒川[1998:47])

◆中沢 正夫 20051216 『精神科看護のための50か条』,萌文社,166p. ISBN-10: 4894910942 ISBN-13: 978-4894910942 1400+ [amazon][kinokuniya] ※ m.

◆中沢 正夫 20060208  『精神保健と福祉のための50か条』 ,萌文社,111p. ISBN-10: 4894911000 ISBN-13: 978-4894911000 1000+ [amazon][kinokuniya] ※ m.

18条 科学的な生活療法技術を身につけよう

 「さて、どういう生活上の変化が、いったい、当事者の病状を悪化させるのでしょう。それがその人のアキレス腱です。
 親が死んだとたん、かえって病気がよくなったり、失恋してケロッとしていたり、どうも”大ショック”と思われるものに対しては、全部の当事者が反応しません。逆に私たちから考えるととるにたらないようなことであっけなく病気が悪化します。この「とるにたらないような生活の出来事」をまとめてみますと、当事者のアキレス腱が浮かび上がります。たとえ、他人から見れば「とるにたらぬこと」でも、そこをつかれるとあっ<0044<という間に悪化してしまうのです。
 それを『生活特徴』といいます。大きくわけると三つあります。@縁談、恋愛、性生活など主に異性との関わり合いによって生じる出来事、A財産、損得、借金など……生活の経済的側面を代表するもの、B学歴、資格、男らしさ、出世など社会的地位に関する出来事です。誰にとっても、生きる”よりどころ”であり、”張りあい”であり、評判を落としたくない点(その人の価値意識)です。
 統合失調症者は、ここをつかれるとあっという間に再発するのです。そして、このことに多くの当事者自身は気づきません。だから一人ひとりの当事者のこの生活特徴をつかまなくてはなりません。これが在宅生活指導のキーポイントです。このアキレス腱を見つけてしまえば指導や助言がしやすくなります。」(中沢[2006:44-45])

19条 生活特徴の見つけ方

 「「生活臨床」は、その人固有の「悪化・再発につながるアキレス腱」をつかみ、再発予防・悪化防止をしようとする、きわめて非特異的な生活療法(対処能力学習)です。そのよき実践者になるためには、「障害者の生活を動かせる」援助者の力量と、タイムリーな<0047<働きかけが肝要です。詳細は、平山朝子他編『精神分裂病患者の看護』――慢性疾患看護シリーズ3(日本看護協会出版部)、臺弘編『精神分裂病の生活臨床』(創造出版)参照。」(中沢[2006:47-48])

浜田 晋 20100410 「「生活臨床」(江熊要一一派)の功罪――日本社会精神医学外史・7/老いのたわごと・45」,『精神医療』第4次58:103-115

◆立岩 真也 2011/04/01 「社会派の行き先・6――連載 65」,『現代思想』39-4(2011-4):- 資料

◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.

■色、金、名誉、身体…:上記の引用にいくつか+

◆立岩 真也 2013/12/10 『造反有理――精神医療現代史へ』,青土社,433p. ISBN-10: 4791767446 ISBN-13: 978-4791767441 2800+ [amazon][kinokuniya] ※ m.

 *以下は直接「色、金、名誉、身体」を持ち出す言説にあてられたものではない。
 「その「特徴」がどの程度当たっているのかは、幾人か私が知っている人たちについては当たらないように思えるが、判断できない。仮に当たっているとして、一つにやっかいなのは、ここにあげられる特徴たちが、後の引用で臺自身も述べるように、いくらかは誰にでもあることだ。そんな時、疾病・障害のせいでと言う説明は、本人にとって有利に働く場合もないではないが、逆に作用し、まともにとりあってもらえないといったことが起こることもある。言い方の順序を変えれば、危険性をわかっておけば、本人にも有用なことがある。ただ、ここでなされようとしているのはただわかることではなく、その「くせ」をなおすことである。」(立岩[2013:268])


UP:20110110 REV:20110714, 24, 1003, 20130327, 0514, 20131118
精神障害/精神医療  ◇WHO 
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