T 序
「ある会話」(原題「開放病棟における慢性分裂病者」、精神医療、第二巻一号、一九七一)<0307<
本論文がこの書を編む動機となった事情については直接、本文中に書いた。
U 情況「差別・抑圧構造解体への出発点」(児童精神医学とその近接領域、第一一巻四号、一九七〇)
第一一回日本児童精神医学会への基調報告である。学会改革委員会の名において、当時、同委員会委員長であった私が書き、発表したものである。つまり、学会闘争のさ中に書かれたものである。
昭和四四年五月(当時私は一年以上にわたる無期限ストで医局解体闘争をになうことになった京大無給医会の書記長であったが)、関西精神科医師会議を結成し、東大精神科医師連合に結集する人々や闘争をになっている全国の精神科医とともに第六六回精神神経学会(金沢学会)闘争ととりくんだ。この闘争はその後、多くの学会闘争を生んだ発火点となったものであった。学会認定医制度反対の分析を広く医療制度、精神科医療情勢から説き、刑法改正−保安処分新設反対へと論を進めていくなかで、医局講座制によって支えられ、また医局講座制を外から支えていた学会は、理事会解散というかたちで瓦解していったのである。
つづいて同年一一月に開催された第一〇回児童精神医学会総会も、われわれの闘争によって従来の研究至上主義による研究発表の場から急拠プログラムを変更し、討論集会の場となった。理事会、評議員会は事実上解散し、改革委員会ができ、私が委員長に選任された。一年間にわたる討論と組織過程の後に、昭和四五年一一月、第一一回日本児童精神医学会が「差別・抑圧構造解体への出発<0308<点」をメイン・テーマに改革委員会の手によって開催され、私が改革委員会を代表して基調報告を行なったのである。改革委員会は一年間にわたって全国各地で討論を組織し、問題提起を行なってきたが、とくに就学猶予、免除の問題性を暴露し、全国で全員就学への働きかけを行ない、それが一定の成果をおさめたことは教育現場に矛盾をそのままもちこむものとなった。
V 治療論あるいは反治療論
「生活療法を越えるもの(一)」(原題「生活療法をこえるもの」、精神神経学雑誌、第七五巻一二号、一九七三)
昭和四七年六月、第六九回日本精神神経学会総会は「戦後日本の精神医療・医学の反省と再検討」というメイン・テーマのもとに開かれたが、そのなかのシンポジアム「生活療法とは何か」でシンポジストの一人として話したものである。私が特に江熊氏らの生活臨床派批判を中心に論述したために、彼らとの論争が一つの焦点となった。私はもともと会話のなかで考えていくほうで見かけほど(?)論理的な人間ではなく、どちらかというと直観的にものごとをみるほうなので、実は書くのは苦手なのだ。そこで、彼らとの討論をここに掲載することにした(ただ、手続き上、私に対する質問については、要約したかたちでしか掲載できなかった。くわしくは「精神神経学雑誌」を見ていただきいと思っている。だが、問題は論理で勝っても現実では負けてしいるということ、つまり、精神科医療の現場における生活療法体系を解体で。きぬまま、われわれ自身もそれにか<0309<らめとられてしまっており、いくらもそこから飛躍しきれぬままにいるということである。この自覚が次の論文を書いている際にもいつも念頭にあった。
「生活療法を越えるもの(二)」(原題「精神病院における生活療法」、臨床精神医学、第三巻一号、一九七四)
最も新しい論文である。後半であたふたとアナロジーで片づけてしまっているあたりをしっかり書くことができるだけの実践が積み重ねられたとき、本書をのリ越えるだけのものが書けると考えている。
「障害児の薬物療法」(原題「障害児と薬物」、児童精神医学とその近接領城、第一三巻四号、二九七二、および第一四巻一号、一九七三)
昭和四七年一一月開催された第一三回日本児童精神医学会総会のシンポジウム「障害児の薬物療法をめぐる諸問題」においてシンポジストの一人として発言したもの、およびその討論、そして、それに先だって討論資料として提出したものをまとめたものである。
W 人体実験批判
「台弘氏による人体実験批判」(精神医療、第三巻一号、一九七三)
精神神経学会闘争の過程でとりあげられた台人体実験批判を、できるかぎり広い視野のなかで位置づけようとして書いたものである。なお、本論文の草稿ともいうべきものは、昭和四八年五月の精神神経学会にむけてつくられた精神神経学会評議員有志のパンフレット「台氏人体実験を糾弾す<0310<る」に書いた同名論文である。
X 発言と資料
T〜Wにおさめられなかった発言および資料を集めた。
「小澤論文−『幼児自閉症論の再検討』の自己批判的再検討」(児童精神医学とその近接領域、第一三巻一号、一九七ニ)
昭和四六年一一月、第一二回日本児童精神医学会総会のシンポジウム「自閉症児の教育と医療」において、「自閉症児」の母親である枝吉幸子氏は、いくつかの本質的疑問をわれわれにつきつけた。それに対する一つの回答の試みが本論文と「障害児の薬物療法」である。本文にも書いたように、私には「幼児自閉症論の再検討(1)症状論について、(2)疾病論について」というニ〇〇枚を越える論文があり、一定の評価を得ている。この論文はよくも悪くもわが国における自閉症研究の一集大成と言えるものと今でも考えている。だが、その故にこそ、この論文は自閉症研究における本質的欠陥をもっており、それをのリ越えるべく模索している今の自分の出発点を示すものとして「自己批判的再検討」が書かれた。
「ある精薄施設の歴史」(児童精神医学とその近接領域、第一四巻一号、一九七三)
当時、和光寮の職員であった木野村峰一氏との共著論文として書かれたものであるが、内容、資科の収集ともに木野村氏に負うところが多い。氏の好意に甘えて本書に収めた。<0311<
「優生保護法改正問題をめぐって」(児童精神医学とその近接領域、第一四巻三号、一九七三)
児童精神医学会法律問題委員会の一員として、優生保護法改正に関する資料をまとめたもので、この論文をもとに同学会の「優生保護法改正反対声明」および「優生保護法改正に反対する意見書」が書かれた。