昭和59年の現在,生活療法を取り上げて考察することの意昧はどこにあるだろうか。生活療法は,わが国の精神科医療に深く根づいている言葉で,身体(薬物)療法,精神療法と並んで3本柱の1つといわれることもあり,また実際に病院の内外,地域で広く行なわれていることである。それにもかかわらず,この療法の理念と実践について,当事者の問に十分な認識と同意が存在しないというのは,残念なことである。それどころか,生活療法というとかつての病棟内の暗い印象しか持てないという人があり,病院で患者に胸をはって働きなさいと言えないという作業療法士の声を聞いたことがある。作業療法概念のあいまいなままに診療報酬がひとり歩きし37),かえって生活療法の発展を妨げている。
昭和40年代の精神科医療の激動期に,生活療法批判は最も烈しい問題の1つであった。しかしその後10余年,生活療法指導者たちは批判の中から少なからぬことを学びとったし(例えば菱山13),湯浅72),中沢42)),批判者たちも現実路線に立ち戻れば,生活療法の実践に取り組まざるをえなくなった(例えば小沢46))。そして改めて地についた生活療法論議をするための基盤が生まれてきたようである。ここに生活療法をかえりみる理由がある。本稿では展望的に問題を論じながら,問題の性質上,筆者の個人的見解が色濃くにじむことをお許しねがいたい。
生活療法という言葉は周知のように,小林24)が昭和31年に,生活指導,レク療法,作業療法をまとめた包括概念として提案したところから始まる。この言葉ができた頃には,病院精神医学懇話会(今の病院精神医学<0136<会の前身)を中心に,関東,関西をはじめ各地でこのような活動が活発に行なわれていて,それまでの閉鎖的で沈澱していた病院の空気を一新させたのであった。それは開放看護,患者の自治活動と一体になって,新しい時代を開き始めていた。関東の菅修,関根真一,前田忠重の諸氏(3先生は去年までにすべてなくなられた),関西の長山泰政(先生はなお御健在で。筆者は昨夏,開放看護 Offene F&ursorgeに傾倒された頃の昔話を伺うことができた)などの諸先輩のあとを受けて,筆者たちの世代がそれを支えていた。当時の状況は蜂矢の著書9)にその具体的な歩みが生き生きと述べられている。
生活療法の意味するところは,一応小林の包括概念に含まれるものではあっても,人により状況により,それぞれが個人的経験に制約されて,かなり相違がある。これは実践面でも理論面でもそうである。それを十分な吟昧なしに恣意的に論議するものだから,余計に混乱するのである。この包括概念の奥底に流れている共通の理念は何か。それを明らかにすることこそ重要であろう。ことにわが国では,精神科医療体系の貧困から,生活療法や作業療法の名のもとに,多くの非医療的行為が行なわれたから,治療以前の問題までからんできた。そしてこの弊害を批判の出発点とした若い人たちの中には,生活療法概念の否定こそ正しいと思い込んでしまった々がある。だが歴史を誤りなく見ることが,ここにおいても求められている。
言葉の詮議から言えば,生活が何で療法と結びつくのかという疑問を述くた人は当初から少なくなかった。筆者も,小林からこの言葉を聞かされた時には,無内容だといって反対したことを覚えている。秋元1)も,生活療法は作業療法,レク療法に還元し,生活指導は看護に還元すべきだと主張している。私ども,松沢病院育ちの連中は,呉秀三,森田正馬,加藤普佐次郎,菅修以来の伝統ある作業療法という言葉に愛着をもっていたし,それには実感も備わっていた。しかし治療活動が,作業から遊びへ,院内から院外へと次第に拡がり,それはまた院内の生活指導がもとになってい<0137<ることを認識するにつれて,作業に執着するのは意昧のないことであるばかりか,理念を矮小化するものであることがわかってきた。作業療法は,生活療法の一部としてその中で生かされる時にはじめて意昧あるものとなる。ことに筆者は。群馬大学で再発予防,予後改善計画が始められ,江熊を中心とする生活臨床がつくられてからは,生活臨床を社会の中での生活療法とみなすようになった。竹村ら54)は,精神医学事典の中で,生活療法はホスピタリズムの解消と,より社会的な生活様式,慣習,常識などを再形成するのを目的とするという。この意昧で,リハビリテーションの概念は,その後,社会の中での生活療法と融合した。山崎は,生活療法はリビリテーションによって置き換えられるほうが良いと言ったことがある。竹村55)による「精神医学」誌での展望,「最近の病院精神医療リハビリテーションの可能性」は,本稿と重なる点を多くもっている。しかし筆者は,生活療法は治療方法論の観点から別に論ずべき課題でもあると考えている。
生活療法は,病院精神医学会ではいつも重点課題の1つであったが,精神神経学会では取り上げられることが少なかった。ただしシンポジウムとして論じられたことが2回ある。昭和44年の金沢学会では「精神療法と生活療法」の主題が予定されていたが,学会批判が爆発したため討論は流されてしまった。しかしその時提出された論文は,筆者60)の司会の言葉とともに学会誌に載せられているので読むことができる。演者は,笠原嘉22)「個人精神療法の1症例をめぐって」,中久喜雅文40)「治療共同社会の理念を応用した生活療法」,増野肇27)「精神療法と生活療法――心理劇の立場から」,山崎達二67)「慢性長期在院者の生活療法の経験から」,湯浅修一69)「生活臨床の立場から」であった。今日それを読み返してみると, 10余年が空しく過ぎたという痛みが強い。しかし実践面でも理念の上でも,遅いながらに確実な歩みが行なわれたことも否定できない。特にそれは,批判に耐えて続けられたリハビリテーションセンター,精神衛生センター,保健所,診触所を基盤とする地域活動の実績に支えられている。<0138<
生活療法が学会で次に取り上げられたのは,昭和48年の大阪学会においてである。司会の森山公夫はこの時の主旨を次のように述べた。「生活療法の実体は,烏山病院闘争などを通じて暴露されてきている。一方,一連の不祥病院事件を通じて,悪徳病院における悲惨な状況は,生活療法の実体と基本的には同じ体質をもち,それの拡大歪曲としてあるのではないかという問題を提起している。生活療法は,現在,根底的に問いなおされる必要がある」。そこでこのシンポジウムは,当時生活療法の名のもとに行なわれていた諸活動の功罪,特にそのネガティブの側面を強調する結果となった。
藤沢敏雄8)は,武蔵療養所の生活療法が精神外科患者の後保護と関係が深かったという特殊な経緯を一般化して,それを生活療法の本質と結びつけ,この概念は廃止さるべきものであると述べた。この意見は,関根による生活指導が時代に先がけて開拓されたことを忘れている。小沢勲45)は,批判の矢を主として生活臨床に向けつつ,間題は生活療法の悪用にあるという江熊の反論に対して,弊害はむしろ生活療法そのものに内在する本質的な欠陥に基づくものであると言った。それは保守的で体制に奉仕する活動であり,典型的な適応論であると決めつけた。井上正吾16)のような老練の士までが,反精神医学の考え方に同調して,精神医学の医学モデルの是正を主張した。同じ頃に開かれた第6回の地域精神医学会では,生活臨床批判が集中的に取り上げられ,ここでも会議は混乱して,学会活動は停止した。
このような批判はその後も長く尾をひいた。批判者の多くは,生活療法を自分から作り出すというより,厚生省あるいは病院経営者から与えられたものとして受け取ったので,治療者を権威者,患者を被害者とする受動的な固着観念から離れられなかった。このような例として稲地14,15)の論文をあげることができる。
生活療法批判の対象となった烏山病院と生活臨床は,私見によれば,わが国の土壌に生まれて地道に積み上げられた典型例のように思われる。そ<0139<れだからこそ批判がとりわけてこの2つに向けられたともいえるが,このことをどのように理解し消化したらよかろうか。10年の歳月による風化はことのほかに早く,烏山裁判とはどういうものだったかを知らない若い人たちも増えてきている。生活療法批判には,価値の転換論と反体制運動が混同され。技術主義がおとしめられて精神主義が叫ばれ,漸進と急進という路線上の相違,手直し論と世直し論がからんでいた。そこでは原則論 principle と優先性 priority と実行可能性 feasibility の区別も明らかでないままに,政治的,感情的,利害関係の対立の渦が建設的な論議を阻んでいた。
この貴重な経験を無駄に流してしまってはならない。そこで独断のそしりをおそれずに,私見を述べることにしたい。今になって考えてみると,たしかに烏山問題には「組織対個人」という根本的な問題が含まれていた。生活療法が治療者と患者という1対1の関係だけでは成立せず,治療チー厶による集団的活動を病院という組織の中で実践するものとなってくる以上,当事者相互の善意とは無関係に,組織を破壊する行動に対して反発が起きることは避け難い。もともと組織は患者のすべてに対して十分なサービスを及ぼすことはできないものであり,落ちこぼれの個人が生ずる可能性を同時に認めなければならない。この矛盾はすべての組織に内在する。これを承認したうえで,それをどのように克服するかは,組織をソフトにして融通のきく対応をするほかはないが,これを生活療法の本質に由来するものとして全面的に否定するよりも,技術的課題として具体的に処理することが必要なのではあるまいか。
また生活臨床にも「訓練対啓発(自己発見)」という基本的な問題が含まれていた。これについては,湯浅72),宮内32)などの所説に関連して後述するが,初期の生活臨床に,表現のうえで訓練面が強く現われていたことも否みがたい。それは生活臨床でいう能動型の患者,彼らは皮肉にも最も訓練しにくい人たちであったにもかかわらず,いやそれだからこそ当面,訓練の対象となったのであった。また治療の場が病院内ではなく,自由な社<0140<会生活の中におかれていたことも考慮されなければならない。だから生活の制限,管理的働きかけも患者本人の自主的規正を促す手段であった。それが,院内での生活療法を頭において批判した人々には,治療者の管理的姿勢として目に映ったのである。いずれにせよ「訓練対啓発」という背反的契機は,生活療法全体の基本的課題である。生活臨床はその後の発展の過程で,江熊,中沢による社会精神医学的側面と,湯浅により深化された精神療法的側面をもっ。生活臨床というと,湯浅の造語「色,金,名誉」69)によって表面的に理解されていることが多いが,これは理解を助けたよりも誤解を招いたことのほうが大きい。まことに生活臨床は,成立の時期からいえば薬物療法の「落とし子」であり。生活療法の「申し子」であり,精神療法の「隠し子」である。湯浅72)のこの命名は言いえて妙である。なお「申し子」とは神仏に願って神から授かった子のことを言う、念のため。
生活療法はわが国で生まれた言葉で,外国語への定訳がない。生活療法に豊かな内容をもろうとしている筆者には,定訳がないことは欠点であるどころか誇らしくさえ思われるのに,外国から再輸入されないと評価されにくいというわが国の通弊の1つとして,多くの教科書の中には十分に取り上げられていない。また2つの精神医学辞典にも記述は不十分である。それでいて,外国種の社会療法,環境療法などが教科書に載せられているのだから片腹痛い話である。これらは生活療法の一部をなすものではあっても生活療法を包含しきれる言葉ではない。
筆者はかつて生活臨床を英訳する時に,psychiatric guidance to social adjustmentという言葉を用いたが,生活療法は living learning 63) がふさわしいと考えた。都合の思いことには。この言葉は M. Jones 18) が冶療共同社会の理念を説明する時に使った言葉で,グループ・セッションの状況下で,「いま,ここに」の体験に学ぶこととして用いたものである。筆者はそれならライブ学習というべきで,living は本来の生活そのものをさすのに用いるほうが妥当だと考える。learning way-of-life,や learning of self in social life は長すぎて面白くない。宮内33)は,生活臨床を training accord<0141
さて,生活療法の本質は何かを正面から論じた論文は少ない。これは本稿の結論を先どりすることになるが,石田17)が分裂病に関連して述べた本質論は貴重である。それは,日常生活と仕事の不能の状態に働きかけて,日常生活と仕事の正常さをもたらそうとする療法であって,それを通じて正常な精神構造を得ようとする。ここには精神療法と同じ論理と,精神療法に似た奏効機序があり,集団内における治療者から患者各自へという個別的力動を重要と考える。そして生活ことに作業療法は,物と身体運動とを重要な契機としており,この独特な構成に,生活療法の本質的な点を求むべきである,と言う。石田は,生活療法の理論的モデルを,教育理論との類比に求めている。労作教育に教育の基本的なものをおく考え方は,作業療法の治療的意義を「労働の原初的形態の再体験」として,そこに精神構造の再建を企てようとする考え方に対比されている。
筆者は,生活療法の本質を「生活経験の学習」または社会生活の中で自己のあり方を学習することにあるとする見解をこれまで何度62.63,65) か述べてきた。生活療法を単に包括概念とすることなく,生活と学習に力点をおいた積極的な理念的規定として提出したいと願うのである。後述の文章はその具体的内容にかかわる。