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黒川 洋治

くろかわ・ようじ

last update:20110209

・1943年栃木県生まれ。1968年群馬大学医学部卒。都立墨東病院/松沢病院/都精神衛生課などを経て、1989年より財団法人積善会曽我病院(神奈川県小田原市)勤務。(『精神医療』第4次13:55より)

◆黒川 洋治 19980525 「精神科医の現在――精神医学のDemedicalizationとRemedicalization」,『精神医療』第4次13:46-54

 「[…]自分がどうして精神科医になったのかについては若干触れてみたい。
 1960年代後半のベトナム戦争と反戦運動、インターン闘争、全共闘運動、青医連運動などがなかったら多分自分は精神科医にはならなかったと思う。私は昭和43年(1968)に群馬大学を卒業したが、その年にインターンが廃止になり、世代として新制度での第1回国家試験をボイコットした。翌年、大学の精神科で研修を開始したが、青医連の「非入局・研修協約」路線に従ったため、いわゆる入局はしていない。
 当時、群馬大学精神科にはその頃隆盛を極めた地域精神医学会の事務局があり、故江熊要一助教授、湯浅修一講師、中沢正夫氏などの率いる生活臨床グループが大勢を占めていた。時代的には生活臨床理論が完成し、それを武器に優れたオルガナイザーである中沢氏が地域精神衛生の毛沢東語録ともいえる「精神衛生をはじめようとする人のための100ケ条」を携え、保健婦を標的に全国制覇に乗り出した時代であった。もともと生活臨床グループは、医局内の研究グループの1つであったが、この中沢氏の地域実践活動により党派性が鮮明になってきた(以後、生活臨床グループは地域活動に打って出た江熊、中沢の代々木系が主導して行くことになり、党派色がなくアカデミズムの立場に固執し、精神分析などに接近し新たな理論構築を目指した湯浅、病院志向の加藤、田島などその後の道は異なっていくことになる)。
 1つの理論が教条化され熱狂的に受け入れられる時、周囲にどのようなインパクトを与えるのか身をもって体験することになった。輪の中に加わらない人間にはそのばかさ加減がよくわかるものである。新任間もない横井教授、教授戦で破れた[ママ]後もその地位に留まった江熊助教授、旗幟鮮明な中沢氏、政治色の殆どない中堅医局員、そして新左翼の青医連(この構成も複雑で主流派――これもセクトに別れB派、C派の寄り合い――の活動家とシンパ隊民青という図式で、数では主流派が圧倒。民青=生活臨床は青医連の反主流派を形成しており、全国での対立図式を凝縮したようなかたちがそこに存在した)といつう組み合わせの中で「医局解体闘争」が進められた。
 群馬大学精神科の闘争はいったん収束し、その後、精医研グループの問題提起で泥沼化していくが、私は青医連の崩壊と同時に大学を離れた。というよりも、生活や闘争の基盤がもはや大学には存在しなかった。例の「トロツキスト」キャンペーンで群馬県下の精神病院で雇ってくれるところはどこもなくなった。唯一、日本の病院精神医学の創始者の一人ともいえる前田忠重先生から[…]」(黒川[1998:47])

◆黒川 洋治 20040210 「新しい精神医療改革運動の行方――ワークショップのまとめに変[ママ]えて」,『精神医療』第4次33:76-83

「3「精神医療」誌の果たす役割
 本誌は1960年代の終末期に誕生した「東大精神科医師連合」の機関紙[ママ]としてスタートとしてから、幾多の変遷を経て現在まで命ながらえている。当初、雑誌の存在はある種の権力との対峙という緊張状態を常に孕み、それ故、この雑誌に関わりを有すると言うことが即アカデミズムの中でのヒエラルヒーの階段を上ることを断念するという暗黙の両階を強いた。現在残っている”古参編集委員”は、皆、大学教授になって当然の人たちであった。広田伊蘇夫は[…]」(黒川[2004:80])


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