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『精神医療と社会 増補新装版』

藤澤 敏雄 19981110  批評社,431p.

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藤澤 敏雄  19981110  『精神医療と社会 増補新装版』,批評社,431p. ISBN-10: 4826502648 ISBN-13: 978-4826502641 3150 [amazon][kinokuniya] ※ m.

→藤澤 敏雄 19821106 『精神医療と社会』,精神医療委員会,253 p. 1880 ※:[広田氏蔵書] m

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商品の説明
出版社/著者からの内容紹介
こころを癒す場であるべき精神病院は、いまだに深い闇の中に閉ざされたままである。本書はこころ病む人びとを支え合い、援け合い、共に生きようと精神医療改革に身を挺した精神科医の悪戦苦闘の記録である。

内容(「BOOK」データベースより)
こころを癒す場であるべき精神病院はいまだに深い闇の中に閉ざされたままである。こころ病む人びとを支え合い、援け合い、共に生きようと精神医療改革に身を挺した精神科医の悪戦苦闘の記録である。苦悩する精神科医の迫真のリポート。

■目次

1 序章
2 私的精神医療史の試み
3 精神医療改革をはばむもの
4 精神医療と社会
5 活動報告
6 終章
7 増補改訂版への序―精神医療システムの転換を
8 懐の深い対応のすすめ
9 「生活療法」を生みだしたもの
10 「生活療法」批判・その後
11 生活臨床と生活療法

1・序章
 1. 過渡期の課題/2. 精神医学の専門性と素人性
2・私的精神医療史の試み
 1. 民間病院と大学医局講座制/2. 精神病院について/3. 地域活動との出会い/4. 外来診療活動の可能性と限界
3・精神医療改革をはばむもの
 1. 精神医療改革をはばむもの――「関係性」と「状況」の視点の欠落について/2. 精神医療の権威主義的構造――精神医学の「医学」主義について/3. 精神衛生法第三八条について
4・精神医療と社会
 1. 精神障害者への偏見――精神医療の現場から/2. 「恐怖」の相互エスカレーションという仕組について――保安処分にどう反対しうるか/3. 陽和病院にて
5・活動報告
 1. ある往診/2. 「この人」は入院させてはならない/3. 受療にいたる含蓄ある過程/4. 入院がその人を「根こそぎ」にしないために/5. 早期発見・早期治療は正しいか
6・終章/1. 精神障害者の自殺について/2. 精神障害者とかかわることについて――「患者を甘やかす」という言葉の意味をめぐって/3. おわりに/あとがき
7・増補改訂版への序 精神医療システムの転換を
8・懐の深い対応のすすめ
9・「生活療法」を生みだしたもの
10・「生活療法」批判・その後
11. なぜ「生活療法」

■引用

2・私的精神医療史の試み
 1. 民間病院と大学医局講座制

「今は高名な小説家として名をなしているパートの先輩が、「またたけりくるっているね。こういうところはゆっくりとやらないとだめなんだよ」と忠告をしてくれた。彼は東大精神医学教室の医局長をしていた時に、東大を去ることになったのだが、最後の挨拶の中で「大学の医局というのは、芸者の置屋かやくざの集団のようなものだ」と言ってのけた人であった。リアリストであったのだろうが、若い私の露骨な怒りの表現をしばしばたしなめたものであった。彼の言うきうに、病院の現状を怒り、批判し、要求を院長につきっけるということぐらいで病院はかわりようがなかった。むしろ、自分が直接にかかわる病者台の処遇について、いままでの慣習にとらわれずに黙々と実践的に処遇をかえていくことの方が、反接や好奇の目にさらされながらも、精神病院に働いている労働者にじわじわと影響を与え、変化をもたらしていくものがあった。外出のさせ方、外泊、信書の自由、保護室の使用の方法といったことである。ただ、こうした実践的な改革が多少でも病院職員の共有された体験として拡がっていくことは、ふたたぴ精神病院の所有者がつくりあげている秩序や堅い構造とぷつかることになるのである。」([31])

「大学精神医学教室と関連民間病院の関係は、民間精神病院に収容されている病者に大学精神医学が寄食しているということであり、民間精神病院経営者はそれをテコとして医師を確保し、病院の内容改善をサポタージュするということになっていた。大学教授は年に一回くらい関連病院をまわって「症例検討」というあまり意味のない会をひらき、民間病院から大学教室への上納金をおさめさせるだけでなく、個人的にもゴルフの世話をさせるといった癒着した関係を結んでいたのである。したがって、いわゆる関連病院に派遺された医師が病院の現状に批判的な言動を行ったり、病院のあり方について根本的な改善をせまったりすることになると、大学教授は病院のあり方について階導するのではなくて、問題を起こしそうな医師もを教授室によびつけて「危険な行い」にはしらないように叱責するのである。」([35])

 「一九六四年にライシャワー事件が起こる。これに先立って、全国医局に籍を置く若い医師達が大学の系列や学閥をこえて結合する方法が模索されていた。後に、この動きは全国大学精神科医局連合の結成へと発展する。[…]当時、松沢病院にいた岡田靖雄、吉岡真二氏がその実質的な事務局をにない、松沢病院の医局には、さまざまの立場の医者が出入れして熱気をおびた風景がみられた。私も、民間病院の常勤医として働く傍ら、大学医局の仲間達と松沢病院に出入りしたし、医局連合結成の準備にあたった。学会の長老や教授の動きだけでは精神医療の根っこはかわらないのであり、若手医師が日本の精神医療改革のために手を結ばなければならないという意志一致があったように思う。」(藤澤[1982→1998:36])

 2. 精神病院について

 「そんな時期に、突然武蔵療養所の秋元波留夫所長から「武蔵に来て、社会精神医学的な仕事をしないか」という招請があった。考えてもみないことであった。秋元波留夫氏は、一九六六年春に東大教授を退官すると同時に武蔵療養所長となり、いろいろと人を集めているということは知っていたが、松沢に来たばかりの私にとっては、どうにもならないことであった。とにかく断るより仕方がないと考えて、雨の日まだ武蔵野の林が駅のすぐ傍までせまるようにして繁っていた武蔵療養所を訪れたのであるが、「沖縄」のことに心を奪われて、武蔵療養所へ移ることになってしまつた。自分の意志や考えのないようなおろかしい話にきこえるだろうが、事実そうだったのだから仕方ない。
 […]
 国立武蔵療養所については、何も知らなかった。昔の傷痩軍人療養所の後身であることと、当時医務課長であった小林八郎氏が「生活療法」なるものを提唱し、武蔵ではその生活療法が組織的に行われているそうだという程度の知識しかなかった。
 松沢病院での「働きかけ」や作業療法などは、小林八郎氏の生活度法の中に包括されるものだと聞いていたので、松沢では「働きかけ」や作業療法の「真髄」に遂に触れずじまいにすぎた私に<0049<は、生活療法が組織的に行われている施設ということに興味をひひかれたと言ってよいかもしれない。」([49-50])

 「この三つのレべルでの治療設定をすることにあわせて、病棟運用の自由化をおしすすめた。これも、スタツフの討論、全体集会での討論というプロセスをふみなからすすめていった。
 金銭所持の問題、外出・外泊の規制などをとりはずしていくことと、病棟の雰囲気を活性化することであった。当時、この病棟には経験豊富な看護長がいた。スタッフ会議て看護長と私の意見はしばしばくいちがった。従来の生活指導、病者管理をしっかりと身につけた看護長の存在は、私自身にとって実に教育的であったように想う。この看護長にあることを理解してもらうには、どのようにすればよいかを私も必死に考え、勉強をしたからである。小林八郎氏が生活療法を提<0054<唱したのは一九五六年であり、翌年一九五七年に第一回病院精神医学懇話会が開かれている。病院精神医学懇話会は、発足の当初に明らかに当時の大学精神医学が主導する精神医学のあり方に対する批判的視点をもっていたと考えてよい。そして、生活療法は病院精神医学懇話会を媒体として全国に流布されるのである。これは、向精神薬についての宿題報告が一九五七年の精神神経学会総会で行われ、精神科薬物療法が全国に拡がるのと期を同じくしていることになる。
 私が武蔵療養所で生活療法体制とどうしても真正面からぶつからざるをえなくなったのは、一九六七年秋ということになる。もちろん、生活療法にはじめから私が批判的であったわけではないし、それほど十分に生活療法について知っていたわけでもない。とにかく、日常的な実践の中で、「何故この看護長はこう考えるのだろうか」「何故このような不必要な規則が必要なのだろうか」「何故この病者を、このように評価してしまうのだろうか」といった具体的な体験の末に、「生活療法の思想」といったものにたどリついたのである。
 社会復帰病棟は平穏で静かではなくなって来た。長期在院の末に社会へもどることには、さきまざまな不安と恐怖と言ってもよい強烈な感情が病者の中に惹きおこされる場合が多い。自由化の進行ともあわさって、当然「問題行動」と言われることも続出する。一律に従順であった人達も、多様な自己表現を見せはじめる。
 こうした動きに、生活療法の思想で対応することはできない。病状悪化、問題行動ということ<0055<で、「慢性病棟」や「作業病棟」あるいは「閉鎖病棟」へどんどん病者をおくりかえしていたら、社会復帰活動はきわめて限定した人しか社会復帰へ結びつけることができないのである。
 生活療法の思想と私が呼んだものは、要約すれば次のようになる。それは秩序を重んずる思想であり、病者を静的に客観化し、動的な可能性を秘めたものとしてみない思想である。インスティテューショナリズム(施設症候群)という言葉がある。看護に代理行為という言葉がある。このふたつの言葉をつなげて説明すれば、こうである。看護における代理行為は、時に重要かつ不可欠なことである。しかし生活療法の思想では、この代理行為が無制限に拡大され、人間にとって一番重要な「自分の問題について自分で考える」ということについて、治療者が代理をして行ってしまうことを病者に強制し、病者が自分で考えることを放棄してしまうようにしてしまったのである。インスティテューショナリズムは、「過剰な依存性」を本質としている。主体的な判断、主体的な行動の欠如、受身といった内容である。
 小林八郎氏が生活療法を提唱した意図は、「病院環境の治療的な再編成」ということであったらしい。しかし、全国の精神病院と武蔵療養所に定着したものは、生活療法の思想にもとづく諸活動であった。これは、生活指導の思想とよんでもよい。「生活指導」あるいは「生活技術の訓練」一般を私は否定するつもりはない。しかし、病者の内面的な動機をぬきにして、あるいは内面的な世界と絶望や断念をぬきにして、「ああしろ」「こうしろ」「こうあるべきだ」といった指導をす<0056<ることが精神科看護の中心にすえられたら、これは意味がないだけでなく有害である。」([54-57])

 「精神障害者の行動を段階別に区分してその段階にあわせて生活指導をしようという考えが、生活療法の歴史の中で定着し、詳細に議論されるようになった。それは、大病院にあっては機能別分棟方式を支え、無自覚的には作業やレクリエーションなどの活動があまり行われていない精神病院の拘禁と放置の構造に、ある意味でしっくりと結びついてしまったところに、昭和三〇年代の日本の精神医療の悲劇があったのだろうということを指摘してよい。私が国立武蔵療養所で感じた生活療法思想の壁は、一九六九年に烏山病院ではじまった「生活療法批判」を軸とした鋭い批判とも通じているし、全国的にその流れは各所で同時的に起こったのである。一九七二年に行われた日本精神神経学会における「生活療法とは何か」というシンポジウムは、その一定程度の集約であった。昭和三〇年代に行われた開放化運動が生活療法思想にもとづいて行われたのに対して、昭和四〇年代以降、とりわけ一九六九年金沢学会以降の開放化運動は、生活療法思想の批判にもとづいた第二次開放化運動と言ってよいだろう。
 しかし現実には生活療法批判も開放化運動もきわめて不十分である。この文章を書いている一九八二年夏現在、精神病院総体はなお闇の中にあると思えてならない。」([62])

 3. 地域活動との出会い

 一九六九年当時は「地域精神衛生活動の理論的支持としては、群馬大学の江熊要一氏が一九六三年に提唱した「生活臨床」の流れと、生活臨床から出発して独自の理論を展開しつつあった小坂英世氏の理論が、主だったものとして、とりわけ熱心な地域活動家達のたよりとされていた時代である。言うまでもなく、一九六九年は日本精神神経学会金沢大会が精神医療改革の端緒を切った年である。金沢学会がどのような影響を私自身や精神医療に与えたかについては、詳しく語らねばならないのであるが、ここでは私の地域活動の、金沢学会の精神医療改革ののろしをあげた年にはじまったということの重要さを私自身のこととして強調しておくにとどめたい。金沢学会の精神医療批判を、いかにして地域活動と自分の病院実践のなかで具体化し、のりこえようかという思いがありつづけたということである。
 私は一九六九年春の金沢学会の時、ひたすら告発者達に感動した人間でしかない。なぜ感動し<0072<たかといえば、すでに語った精神医療の日常的実践のなかで感じていた疑問や不満が明確に言語化されたということだったからである。
 金沢学会の告発者に私は心から共感したし、自分にはとてもできないことをやってくれた人人だという感嘆にとらわれたものである。「やっと何かがはじまる」という感慨にとらわれたと言ってよい。臨床の中に埋没し、その中で憤ったり無力感を抱いたことが、やっと方向性を見出せるといような感じであった。金沢学会以降、私の実践は、批判者であると同時に実践者でりつづける自分達がどのように自分自身の実践をかえていくのかということが主要な課題となったと言ってよい。」(藤澤[1982→1998:72-73])

 「武蔵療養所の古い木造の研究室で、「訪問をきちんとやってくれますか」と迫った精神衛生相談員は長岡喜代子氏である。彼女は、一九六五年の精神衛生法一部改正、保健所法一部改正によって、東京都保健所に配置された精神衛生相談員の一人である。私が保健所の仕事をするようになつて、一九八一年三月に立川保健所の嘱託医を辞するまでの一二年間、地域活動の共同作業者として、あるいは私の教師であった人であるが、初期には病院の医者としての私が「入院」という方針を出すたびに、ことごとく批判され、かみつかれていたようである。「ようである」と書いたのは、私の記憶の合理化もあるのだと思うのだが、私が「入院」という方針を出して、彼女が反対したことが鮮明にうかびあがって来ないのである。<0076<
 当時、精神衛生相談員は、自己否定的な運動を展開していた。金沢学会がはじまる前年、一一九六八年には彼女達は精神衛生相談員連絡会議の名で東京の山谷への精神衛生相談員の配置に反対の運動を展開していたし、地域精神衛生活動が精神病院への患者収容を促進したのであるという自己批判的総括にもとづいて、地域精神衛生活動というのは何なのだろうかという疑問を抱いていたまっ最中であった。そして、一方では「精神病院への入院一〇〇%阻止」というスローガンをかかげる小坂英世氏が、「夜うち、朝がけ」をいとわない地域活動を展開して、精神衛生相談員の意識的な部分は小坂氏の強い影響をうけていた時代であった。」(藤澤[1982→1998:72-73])

 「地域精神医学会第六回総会は、私などが予想できない範囲で混乱におちいり、閉幕となり、今日なお学会再建をみるにいたっていないのである。全関西精神医療研究会連合(精医研)なる団体が、学会に対していわゆる「四点問題」提起をつきつけて、その取り扱いをめぐって学会は紛糾したのである。「四点問題」といわれた内容は、@地域精神衛生活動が国家による精神障害者管理とどこでちがいうるか、A収容的精神病院の現実にどうかかわるのか、B生活臨床は障害者管理の学ではないか、Cアルコール中毒者に対する治療ははたして現状でよいのか、といった内容の<0079<ものであった。精医研連合の問題提起は、その時点である正当性をもっいたと私は考えているし、金沢学会闘争の流れをくむものでもあった。しかし、病院精神医学会が生活療法批判をめぐって解体し、再建のために非常に多くのエネルギーを必要としたことを考えれば、「四点問題」提起は、地域精神医学会を解体におい込むような形で、ステレオ・タイプの攻撃・批判という形で行われるべきでなかったのである。それが、そうした配慮なしに行われたのは、金沢学会闘争を開始した精神医療改革運動内部に亀裂が生じつつあったことが背景にあったといってよい。
 精神医療改革や精神病院改革は、地道でかつ精密な戦略・戦術と実践的批判が同時に進行するのでなければはたしえないことを私は痛感するのである。」(藤澤[1982→1998:79-80])

 4. 外来診療活動の可能性と限界

 「秋元波留夫氏が退官されて翌年、私は外来医長となる。これは猪瀬所長の判断で行われた人事であったようであるが、これははなはだ皮肉なことであった。私が後半批判してやまなかった秋元波留夫氏の所長としてのあり方――個人的には、秋元氏は童心をやどした開明君主であった人であり、私達は「偉大なるイノセント」と称していた――の後始末をまたもや外来診療場面で責任をもってやらざるをえない立場に立たされたのである。」 (藤澤[1982→1998:104])

3・精神医療改革をはばむもの
 1. 精神医療改革をはばむもの――「関係性」と「状況」の視点の欠落について

 「武蔵療養所は、生活療法の先駆的実践施設のひとつとして有名であった。しかし、生活療法が<0116<しいかに反治療的なものであったかについては多くの人びとが論じたとおりだし、私自身も不十分ながら検討を加えた。一九六六年に、伝統的精神医学と医局講座制の頂点にいた秋元波留夫氏が武蔵療養所の所長となった。秋元氏の近代主義と啓蒙家的振舞と医師集団のいれかわりは、一時的にこの施設に活気を与えたし、自由化をもたらしたことは確かである。
 しかし、やがて状況は事柄の本質を明瞭にした。われわれの主体的力量の不足も含めて、この精神病院は表層の変化にもかかわらず根元からゆるがされることなくとどまり、混沌と消耗のはてに、伝統的精神医学と近代主義の合体による反動のなかにおかれたのである。われわれの生活療法批判も局所的な活動に封じこめられ、全体的な欲求不満状況のスケープ・ゴートのひとつとして利用されたりした。「治療の場」としての精神病院への改革のエネルギーは衰弱し、形式主義と官僚主義が台頭する。一方では、「生物主義的」研究幻想へのなだれこみが医師集団をとらえ、現状に特徴的な「治療的悲観主義」が支配的と なりつつつあった。
 この状況は、武蔵療養所に特徴的ではある。しかしこのことは秋元氏の歴史的役割と、武蔵療養所の医師集団、武蔵療養所の看護の特殊性などが作り出す局所的な問題とだけではとらえられない。医療現場の問題を長い間放置してはばからなかった「大学精神医学」のさまざまな病理と伝統的精神病院の基本的欠陥が、同時的に噴出しているのが武蔵療養所の現状であると私はとらえているし、その欠陥が何であるかを明確にすることが私の問題提起であり、私自身の医療<0117<実践の批判的総括の視点となる。」(藤澤[1982→1998:116-118])

 「「薬づけ」を「質的にも量的にも不必要な精神安定剤を投与して患者を過剰に鎮静させること」と一応定義してみよう。「薬づけ」は、一部の「悪徳病院」や「悪徳医師」においてのみあることだとはいえない。どの病院にも、どの医師にでも「薬づけ」におちこむ危険性がたえずつきまとうと考えた方が正しい。」(藤澤[1982→1998:119])

 「「おしおき電気」について語る患者さんによく出会った。ささいなことでカッとして、電気ショックをかける医師についての話である。患者が攻撃的であったり批判的であったりする時に、「おしおき電気」にさらされる。[…]「おしおき電気」が成立するのは、人間の行動を一方的な視点で判断しうるという確信がなければならない。その確信とは実は、治療手段を医師の権威をまもる道具として使ったり、脅迫の武器として使うことへの無自覚ということなのである。」(藤澤[1982→1998:120)

 「さて、第三の柱は生活療法である。生活療法の指導理念は、生活指導的思想とでも呼ぶべきことであり反医療的である。その思想を前提とする限り、「よい生活療法」と「悪い生活療法」を区別したり、生活療法と精神療法が併存したりすると考えることは悪ふざけといわなければならない。とはいえ、こうしたことが素朴に考えられる背景はある。とにかく患者がゴロゴロしているのはよくない。動いた方がよいのだから動くようにしよう。それを「働きかけ」と呼ぽう。「働きかけ」の手段はいろいろあってよいし、どれでもよいだろう。手段ごとに「……療法」と名づけようという流行があった。その流行は今もなおつづいているかにみえる。
 しかし「働きかけ」が何でもよく、患者を動かすことがよいことだというのであれぱ、「精神障害者」が精神病院に入らざるをえなかったり、精神医療とかかわりを持たざるをえなくなった「困難」について、家族や社会は「働きかけ」を勲心に行ったのであり,それは「説教」や「非難」や「邪魔者扱い」をも含むのである。そして生活指導は「説教療法」「非難療法」「排除療法」の精神医学的集大成ということになる。生活店療法が生活指導的発想を基礎にすえるかぎり、「説教−非難療法」なのであり、治療というに値するものでないばかりか有害なのである。生活療法を提唱した人びとも、精神病院の生活を治療的に再編成するという初志を抱いたらしいことは小林八郎氏の論文などにもうかがえる。その初志を率直に認めるとすれば、どこかで間違いが起こったということになる。しかしその間違いは、まことに簡単な誤りであり、しかも重<0122<大で基本的な誤りだということである。人間のとらえ方の誤りであり、伝統的精神医学が基本的に内包してきた誤りそのものである。すなわち「病者」を、「関係性」と「状況」のなかでとらえようとするのではなく、「客観的にあくまでも客観的に」観ようということである。客観的にとらえるということはいいことだと私も思う。しかし、ここでいう「客観的な」見方というのは大変なくわせものなのだ。患者をきわめて強固な、堅い関係性と状況のなかにおきながら、、しかもそういうことがないかのように「客観的」であるごとく記述しようとするのである。客観的に観察される「病者」は、「精神病者」として医師や看護者の前に立たされ、しかもその行動と発言しだいでは、どのような処遇を受けるかもしれないという恐怖や不安のなかで、緊張し萎縮し、時には不安のたかまりのなかで叫び、場合によっては感情の爆発に絶望的に身を投ずるのである。
 明らかに「病者」は強固な状況のなかで、一方的な関係性をおしつけられ続けている。にもかかわらず、その言動はすべて「異常」なるもの、「狂気」なるものとされていくのである。そして、自らを省みることのない確信に満ちた治療者は、高みから「病者」をみすえ、欠点を指摘し指導しようとするのである。こうした視点の上に祖み立てられた生活療法が、真に治療たりうるはずはなく、抑圧的な役割をにない「病者」の絶望を深め自立性を奪い取るのである。」(藤澤[1982→1998:122-123])

 「私自身もそうであったと告白した事実、すなわち薬物療法がはじまってからすべてがはじまりえたのだという呪縛から、われわれはもっと早く解放されなければならなかったのである。薬という武器なしに見えていたこと、あるいは見ていた人びとの発見に、もっと本格的に取り組まなければならなかったのだ。そのことをぬきにして、薬に依存しその日暮らしをして来たわが国の精神医療が、いま「薬の限界性」とともに歴史的に反復される「悲観主義」におちいっているのである。かつて問題となった「中間施設幻想」にしても「地域精神医療」にしても、生物学主義と形式的社会派との合体が生みだしたものにすぎなかったのである。」(藤澤[1982→1998:126-127])

 2. 精神医療の権威主義的構造――精神医学の「医学」主義について

 3. 精神衛生法第三八条について

4・精神医療と社会
 1. 精神障害者への偏見――精神医療の現場から

 「さて、こうして書きつづけている私の頭の中には、病院での日常的な作業のなかで起きるさまざまなできごとがあるのだが、もうひとつ「ルポ・精神病棟」をめぐっておきた議論がひっかかっている。岡田靖雄はこう書いている。

 『朝日』の精神病院キャンぺインののち、一部の精神科医集団のなかでは一時、日本精神神経学会理事会および『朝日新聞』に抗議しようという声が大勢をしめたそうですが、このことをわたしはある意味で無理からぬ被害者反応としてうけとったのです。わたしが心の底からおこりたくなった、というよりおどろいてしまったのは、べつの反応です。「悪徳病院が摘発されるのは小気味よいから、もっとやってほしい」とうそぷくその人は、、みずから医療・教育の主要な地位をしめていたのに、真白な手をもった人であるかのように、なぐりころされ、搾取され、うえさせられている患者さんたちの苦しみを自分の胸に感じることなく、虚構の権威のうえにアグラをかいています。

 岡田の言わんとしたことは、権威ある立場にすわって来た者の無責任のことであろうし、その無<0169<自覚についてである。たしかに、精神医療の全体状況のなかで明瞭となって来ていることは、精神医学と医療の歴史が、本当に精神障害者に対する人権無視の潮流と闘って来たかということである。
 呉秀三がしばしぱ引用されるし、私も引用したことがある。しかし、呉秀三を真に超えるための営為が、間断なく続けられて来たとは言いがたい。精神病院の現実を放置したまま、大学精神医学は徒花のように咲いて来た。そのなかで育まれた精神科医達は、露骨に精神病者を利用することに安住したが、せいぜい善意の現実主義者としてとどまったのである。そして精神病院には、ぬきがたいヒェラルキーが存在しつづけた。
 日本精神科看護技術協会が「朝日キャンぺーン」への抗議の声明をだしたのは、そうした全体状況のなかから出たことである。病者に最も近く、深くかかわっているのが看護者であるとすれぱ、病者の告発をもっともよく理解しうるものとして、立ちあがらなけれぱならなかったはずなのであるが、精神医学・医療の部厚い権威主義的な層構造のなかで、看護者もまた抑圧された存在であったのである。
 日精看の抗議声明は、歴史にてらせばおろかしいことであり、精神医療の状況認識がせますぎると、うあやまちの上に成り立っているのであめる。しかし、それだけで事はすまない。精神病院における看護者が自立し、解放される道をさぐる作業に精神科医もとももども取り組むのでなけれ<0170<ば、私の指摘も意味のないものとなるゼろう。」(藤澤[1982→1998:169-171])
 2. 「恐怖」の相互エスカレーションという仕組について――保安処分にどう反対しうるか

 3. 陽和病院にて

5・活動報告

 1. ある往診

 2. 「この人」は入院させてはならない

 3. 受療にいたる含蓄ある過程

 4. 入院がその人を「根こそぎ」にしないために

 5. 早期発見・早期治療は正しいか

「何度もくりかえすことになるが、私は一九六二年に精神科医となった。「精神病は治る」という本が出版されたり、「早期発見・早期治療」が叫ばれだした時代である。精神科医としての初期研修がどうしても大学の精神科教授室で行われるので、若い私なども「精神病は治る」「早期発見・早期治療」などというお先棒をかついだところがあったにちがいない。なにしろ向精神薬が一般化して四、五年という時代であったから、向精神薬に対する信仰がひろがっていたし、薬を使うなら一刻も早く入院をといった考えにもなったのである。しかし、いわゆるパート医として、あるいは勤務医として、精神病院にどっぷりとかかわるようになると、「精神病は治る」とか「早期発見・早期治療」などと楽天的なことを言っているのがはずかしいような現実が見えて来るのである。」(藤澤[1982→1998:237])

6・終章
 1. 精神障害者の自殺について

 2. 精神障害者とかかわることについて――「患者を甘やかす」という言葉の意味をめぐって

 3. おわりに

 「一九六九年の金沢学会は、平凡な日常の中で、しかし精神医療の現状に疑問を抱いていた一人の精神臨床医であった私に衝撃をあたえ、目ざめさせたのである。目ざめさせた<0261<とはいっても大それたことではない。自分が日々接する病者のおかれた状況があまりに過酷すぎるのではないかという素朴な疑問に「そのとおりなのだ」という気づきを与えてくれたということである。」(藤澤[1982→1998:261-262]、浅野[2010:83]に引用)

 あとがき

7・増補改訂版への序 精神医療システムの転換を

8・懐の深い対応のすすめ

9・「生活療法」を生みだしたもの

10・「生活療法」批判・その後

一  なぜ「生活療法」批判か

 「一九六七年四月に、私は国立武蔵療養所に移る。前年に東大教授を退官した秋元が所長として就任した施設である。小林は医務課長として、その後数年国立武蔵療養所にとどまる。秋元と小林の精神医学イデオロギーは、私からみれば、さしたる相異があるようには思えない。しかし、二人の歩みに大きなちがいがあり、活動の場と様相はきわだって対照的である。一方が、大学精批神医学教室にあり、医局講座制の頂点に立ち、精神神経学会理事長として、よくもわるくも伝統的精神医学の代表として活躍をしたのに対して、一方は、小林自身が書いているように、「当時精神医学を支配していた大学精神医学への対立を、主要な根拠」とする病院精神医学の創出にカをそそいだと自負もし、実際に一九五七年の病院精神医学懇話会発足に重要な役割を演じた一人であった。たしかに、小林は精神病院の実践的営為にカをかたむけて来たのである。この二人は、それぞれの歩んできた実践をいかして、相互に協力して、国立武蔵療養所の改革・発展に力をつ<319<くすということにならなかった。両者の志向性が、あまりにかけ離れていたからであろう。あるいは、私がうかがい知ることのできないもっと複雑なダイナミックスが介在していたのかもしれないが、ここで論ずることではない。ただ、ここでひとつふれておききたいことは、精神病院の管理者についてである。精神病院の治療実践や、集団ダイナミックスにうとい大学教授が、退職後著名な、あるいは巨大な精神病院の長になることは、原則的には避けるべきことである。大学と精神病院のマネージメントは、あまりにもちがいがありすぎるからである。
 とにかく、一九六七年に私は「生活療法」発祥の地であると教えられていた国立武蔵療養所に勤めた。私が赴任した時点で、武蔵療養所の「生活療法」は、提唱者の小林の主導下からはなれ、小林の実験的治療病棟の共同作業者の一人であった岡庭武と秋元の指導下に移っていたようである。一九五七年四月に発足した生活療法委員会は、一九六六年六月の生活療法組織委員会の編成により再検討されることとなり、岡庭が作業医長となった。一九六六年一一月には、生活療法棟が発足して「生活療法」の中央化が企図され、さらに同年一二月には「生活療法要綱」なるものが作製された。秋元が着任して八カ月の間のことであり、秋元がどの程度「生活療法」について認識を持った上で、その過程をすすめたのかは、よくわからない。ともあれ、一九六七年には、小林の「生活療法」は、岡庭・秋元の「生活療法」に移行していたのである。ただし、その内容に根本的な改変が加えられたわけでないことは、「要綱」を見れば明らかである。<0320<  一九六七年四月に松沢病院から移り、短期間の男子急性期病棟の体験のあと、同年八月から私は「男子社会復帰病棟」の担当医となった。作業医長であり、社会復帰病棟の担当医であった岡庭が、当時国立病院・療養所が開始した沖縄の精神医療援助のための派遣医として出張したあとの病棟後任医としてである。」(藤澤[1998:319-321])

 「しかし、私が赴任した時代は、国立武蔵療養所は動きはじめていた。松沢病院に比べて患者数は少なかったし(と言っても、当時定床八〇〇床であった)、職員数も少なかった。病院全体の構造がよく見通せ、ある病棟の変化が他の病棟にインパクトを与えていくという流動性をもつ時代に入りつつあった。これは、一九六六年に所長となった秋元の人事の影響があったことは確<0323<かであろう。サナトリウムが精神病院にかわろうとしつつあったと言ってよいかもしれない。若い医師達の動きと活動性がさまざまなインパクトを与え、療養所を動かしつつあった。それは、いわば「近代化」と呼ぶべき動きの一側面であった。しかし、この「近代化」がはらむ矛盾と落とし穴は、国立武蔵療養所においては、「生活療法」批判の作業のあとに顕在化するのである。先ほど述べた、サナトリウムから精神病院へという動きが、そう表現することが妥当であったとすればであるが、どのような精神病院へということが重要なのであった。そして、外的な条件としては、一九六九年にはじまった日本精神神経学会の改革闘争が直接・間接に武蔵療養所にも影響を投げかけつつあった。
 国立武蔵療養所の「生活療法」批判の実践的・日常的なあらわれは、「自由化」と呼んでいいことであった。不必要な諸規則の廃棄と患者の日常生活上の自由化・社会化ということであった。当然のことであるが、それは形式的・表面的な変化でしかない。それに伴う医療従事者の内的変革が伴わなければ、形骸化と責任放棄を招くことになるのである。その内的変革は、苦しい作業である。この苦しい作業に、全所的にとり組むかどうかが問われたのである。われわれが、「プラハの春」と秘かに語った時期は長くは続かなかった。秋元は「生活療法」批判につづく困難な、そして重要な作業の前で、回れ右をするのである。新しい秩序と権威威主義的支配を企図するのである。呉秀三の伝統がわが国の精神医学の主流に継承されなかったことを嘆き、クラーク(D<0324<.H.Clark)の社会精神医学的実践と理論を評価、紹介した秋元は、「博学多識であることと、自らの人格を通して知識を思想たらしめる」ことの乖離を、身をもって体現したのである。「生活療法」批判以後の反動のプロセスは複雑でり、かつ明瞭でもある。秋元と小林の精神医学イデオロギーがさしたる相異を持つものでないことをすでに指摘したが、問題はその辺にあったと言ってよい。しかし、小林はわれわれの「生活療法」批判と秋元の「生活療法」批判の相異をみたくないようであり、あるいは意図的に同一視しようとしているかにみえる。それがどうして起こったかは、論をすすめるにつれて明らかになって来るだろう。」(藤澤[1998:323-325])

 二 武蔵療養所でみた「生活療法」

 三 「生活療法」批判後の混乱と問題の整理

 四 「生活療法」批判以後の展開と挫折

 「私自身もそうであったし、烏山病院闘争や、多くの精神病院批判と改革の実践は、生活療法批判という理念がまずあって、その上で現実をかえようとしたということではなかった。
 まず、不可解で、驚くべき現実に直面したのである。職員問の服従か反抗かといった人間関係、そして反抗も常に爆発的なものとしてしか現れず、当然のこととして鎮圧される。職員の病者に対する高びしゃな態度。病者の職員に対するおどおどした態度。のびやかさや、ふくよかさが欠けおちた世界。これを「病院」と納得することは不可能なことであった。多かれ少なかれどこの精神病院でも日常化している風景が、松沢病院にも武蔵療養所にも厳然として存在していたので<0382<ある。
 経験の豊かな先輩達は、このような疑問に対して、「たしかに問題である」といいながらも、精神病という病気の根の深さについて力説するという具合であった。」

 「改革への実践を踏まえてこうした認識に私達が到達した時に、生活療法批判は必然的なものとなるのである。とりわけ伝統的精神医学を代表していた大学精神医学が現実から顔をそむけることによって成立していることを批判したものが生活療法を提唱した小林八郎らであったことからして、それはどうしても乗りこえなければならない課題であったのである。これまでの討論で、小林八郎を批判した秋元の論点が基本的には小林八郎と同根のものであることを指摘した。それは、いずれもが精神障害の治療に関して「関係性と状況の視点」を欠落しているということである。別の言葉でいえば、いずれもが伝統的精神医学の現実とそれが精神病院と精神医療に多大な<0385<影響を及ぼしていることについて全く無自覚であったということである。
 私達は、かくして現実から出発して生活療法批判に到達したのである。したがって、これは当然のこととして精神病院批判であり、自分自身を含めた精神医療従事者批判であり、伝統的精神医学批判となるのである。」(藤澤[1998:385-386])

 「国立武蔵療養所が、一九六六年一二月に策定した「国立武蔵療養所生活療法要綱」の改訂を行うことをきめたのは、一九七二年のことである。この詳しい経緯は、改訂のための討論を主催して来た当時の作業医長原田憲一の文章「武蔵の『生活療法』――その旗を捲くにあたって――」と、所長秋元波留夫の「作業療法をみんなで考えよう」という文章にほぼ明らかにされている。これは、「生活療法」という言葉を武蔵療養所の治療活動からなくして、作業療法とレク療法に還元し、同時に精神科看護の独自の展開を期待することを目標としていたのである。この討論は、約二年間にわたって行われたものであり、武蔵療養所の五年間の活動の展開が必然的にもたらしたものであった。小林が指摘するように、決して「上位にランクされる者」が勝手に決定をしたことではない。「精神医療の基礎を考える会」というまったく自主的な研究会の討論や、インフォーマルではあっても医務課長が主催する「治療活動会議」という多職種の参加する会議、あるい<0387<はフォーマルな会議などでの長期間にわたる会議での討論の結果なのである。おそらく、小林の病院管理作法からは考えられない民主的で活発な討論のつみ重ねが、みちびき出したことといってよい。
 もちろん、その討論が十分に根底的なことに触れて、「ゲーテに、つくりかえられることによって、つくりかえられる話があります」という林の指摘するところまで問題が掘りさげられたわけでは決してなかったことは明らかであり、原田のあとをついで作業医長となったいまは亡き石戸の文章に、その困惑がよくあらわれているのである。

「昨今、何かにつけて生活療法が批判されるのは、むしろ今日的状況に因するところが大きいのではないでしょうか。一方では生活療法そのものが手アカにまみれ、他方では、科学方法論や人間認識の常識さえもが見失われ、混乱しているような”精神医学”が横行しているという今日的状況を考える時、私はいっも肝腎な点が素通りされている様な気がしてならないのです」
と石戸は記している。
 石戸は、当時武蔵療養所の中毒専門病棟の医長を一年間ちょっと体験しており、作業医長を兼務するにあたっての感想を語っているのである。一九七二年に日本精神神経学会が「生活療法とは何か」というシンポジウムを行う前に書かれた文章であり、石戸が指摘している精神医学の状<0388<況は、一九六九年以来の精神神経学会闘争とそれに関連した動きについてのことなのである。明らかに、学会闘争についてにがにがしい思いを抱いているわけであり、それだけでなく、武蔵療養所の臨床現場で起こっていたことについても同じように感じていたのであろう。
 さらにつけくわえておけば、原田は発言を次のようにしめくくっている。

 「正直のところ私の心の片隅には『今の時点で旗をおろして本当に正しかったのだろうか? 旗は立てたまま、後門旗がみえなくなるところまでわれわれが前進すべきなのではなかったか?』という思いが今もかすかにある。私の心配が杷憂であることを――すなわち、武蔵において、生活指導、作業療法を、今後さらに広げ深めていく上に、生活療法の旗をおろしたことが役立つことを切に願う」
 この原田の感慨は、そのあとの武蔵療養所における治療活動の推移について、なにがしかの予感を抱いていたのではないかとさえ読みとれるのである。原田は一九七二年二月に武蔵療養所を去って信州大学へ移ったのである。
 石戸の精神医療状況に対する反応を根底にすえたためらいと、原田の杷憂と対比すると、同じ時期の秋元の論述はまことに明快である。前述の文章*16において、秋元はこう書いている。
 「『生活療法』の作業・レク療法への還元は同時に『生活指導』の看護への還元を意味する。『生活療法』のなかで空文化され、よどんでいた『生活指導』は理念の上でも実践の上でも<0389<精神科看護の基本問題として問い直されなければならない。この場合、もっとも大事なことは精神科看護における『生活指導』とは何かが個々の患者の看護場面で具体的にとりあげられなければならないということである。そして『生活指導』という言葉や理念が精神科看護の実践で通用しなくなる時に、ほんとの精神科看護が成就するだろう」
というのである。その文章のトーンは断固として明快なのである。それだけでなく、論理としても、とりわけ後段は実に見事でさえあるといってよい。これは、立場や考えがちがうとはいえ、石戸や原田の論調と比べるときわだっていることである。
 原田は武蔵療養所の治療活動が、活発なひろがりを持ちはじめ、自由な討論と実践が展開した時期に在職をしていた人である。そして、一九七〇年にはじまった専門病棟設立の動きを同時に経験し、武蔵療養所の運営全体のあり方についても心をくだいた人であった。したがって、原田の杞憂は武蔵療養所の開放化と自由化の流れと新しく登場して来た専門病棟群の開設・純化の流れとが、どのように矛盾なく展開していくかについて誰しもが危倶の念を抱きはじめていた状況の中で生じたものだと考えてよいのである。一九六六年に武蔵療養所に着任した秋元は、それまで生活療法発祥の地といわれていた武蔵療養所にさしたる関心を抱いていなかったと語っているが、着任早々にその広大な敷地に着目して、精神医学に関する総合的な研究所の設置を夢みたのである。同時に、武蔵療養所の静穏さにあきたらず、治療活動の活性化を考えたようである。そ<0390<のニつの願望を実現するために、ほぼニつにわけられる人事配置を行ったのである。ひとつは生物学的研究に専念して来た医師たちを中心とし、一方では臨床派ともいうべき医師たちであった。原田はそうした新しい医師たちの中でも、研究と臨床のそれぞれに行きとどいた配慮のできる数少ない上級医師の一人として赴任した人であった。原田が作業医長をやめて大学へ去ったのは、ふりかえってみれば、武蔵療養所にとってかなり深い意味をもった出来事であったといってよい。
 武蔵療養所における専門病棟の開設は、それまでの長期在院の内因性疾患群の大量の退院によって可能になったことであり、そこに至る過程には当然さまざまな議論があった。すでに述べたように、私自身は主として長期在院者のいわゆる社会復帰活動に従事していたわけであり、武衰蔵療養所における内因性精神病群の人々の将来について思いをめぐらす立場にいたわけである。とはいえ、当時はてんかん、進行麻庫、いわゆる「精神病質」の人々も少数ではあっても混在しており、それなりの困難と同時に、すべての人たちを武蔵療養所が世話をしているという認識が共有されていたのである。専門病棟化の論理は所内的には主として次のようなものであった。「精法神分裂病群の多数者(majority)の中に埋没している少数者(minority)の疾病の人々は、専門活的治療もうけられずにいるのであり、その人々にも専門的治療を提供すべきである」ということであった。秋元所長は、これ以外にも「精神障害の構造変化」と「社会的要請にこたえる」ということをつけ加えていた。<0391<
 こうして、「てんかん」、「酒精中毒を中心とした中毒性精神障害」、「脳器質疾患」、「老人性精神障害」の専門病棟が設置・純化されることになったのである。多数者の中に埋没している少数派の救済という大義については、私自身も異存はなかった。しかし、少数者の救済という大義は同時に多数者をどうするかという方針をあわせもっていなければならないことなのであったにもかかわらず、基本的には放置という状況が出現するのである。その矛盾を止揚できないままに時がすぎたのが、まさに「生活療法の旗を捲いた」あとの武蔵療養所であった。
 その理由は明らかなのである。生活指導と精神科看護について、あれほど明確な論述をなしえた秋元は、個別の看護者−患者関係を規定する状況、具体的にいえば病院の職員相互の関係、管理責任者と職員の関係等々といったことについては思いも及ばなかったということになるのである。啓蒙的で明敏な秋元のことであるから、気づいていたのかもしれないが、秋元にとってもっと重大と思われる自覚的・無自覚的な情緒的な要因が、気づきをさまたげていたと好意的に理解してもよいかもしれない。いずれにしても、一九七三年以降秋元はかたくなな病院運営の作法に傾いていくのであり、それは一九七四年六月に完成するのである。一切の批判的討論を封殺して、専制君主的にふるまい、側近との秘密主義的病院運営に徹するのである。
 武蔵療養所の生活療法批判の実践は、主として入院治療病棟と社会復帰病棟の活動のたかまりを出発点として展開したものであったが、その先は、武蔵療養所全体がどのように有機的に、敏<0392<速に病者の現状に必要な治療的条件を充実していくかということであり、巨大病院としての慣習や非能率性を打ち破る改革が、病院運営の上で実現できるか否かということなのであった。
 事態はそのようには進まなかった。石戸の困惑した、しかもにがにがしい思いに代表される見解は秋元とは立場を異にしながらも、ひろく上級医師たちにあったといってよい。これは、必ずしも生物学的研究に専念して来た人々にだけあったものではない。たしかに、専門病棟の開設は武蔵療養所の運営に重大な影響をただちにもたらしたし、それぞれの専門病棟にパーマネントの形で配置された人々は、多くは生物学的研究にかかわりの深い上級医師(医長)が多かったことは確かである。当時、あるいは現在もそうであるが、武蔵療養所の上級医師は圧倒的に生物学研究派によってしめられていた。そのことが、わるいとか、よいとかということではない。その人々の中には、病院の運営・管理についてきわめて有能な人も含まれていたのだから、それ自体が問題なのではない。しかし、専門病棟の設置によって、主要な上級医師は個別疾患の治療という世界にのみ穴ごもりをして、病院全体の運用という責任から逃避するということが結果として起こったのである。そして、専門病棟の運営にかかわることのない上級医師たちは、残念なことにこれまた病院の管理・運営についてきわめて能力の低い、責任を放棄した人々だったのである。
 このことは、所長の秋元に責任のあることではあったが、日本の精神医療についてのクラーク(D.H.Clark)による一九六八年の報告を引用することによって説明した方が客観的であろう。<393<  「日本において地域精神保健サービスが発展しない一つの理由は、多くの日本の精神科医が社会精神医学を理解していないということである。現代精神医学のある領域は日本において十分熟知され活用もされている――診断精神医学、精神薬理学、脳波学、遺伝研究などである。しカし、ある種のもの、たとえば精神分析学や精神病理学は理解されてはいるが活用されていない。社会精神医学は理解もされていないし活用もされていない」
 と、報告の5.8. Social Psychiatry の部分に記されている。この視点からすれば、石戸が嘆いた「科学方法論や人間認識の常識さえもが見失われ、混乱しているような”精神医学”が横行している」という状況認識は、せまい視野しか持ちあわせず、わが国の精神病院のリアリティを無視することを許されて来た、良心的精神医学者の困惑ということになるのかもしれない。
 とにかく、公的に「生活療法の旗を捲く」時期と、専門病棟化の進行は一致しており、専門病棟化の進行が病院全体のマネージメントから、主要な医長達を撤退させ、しかも医長による管理体制だけは形式的に強化するということがあり、内因性精神病の「専門的治療」はおきざりにされ、停滞と後退を余儀なくされるのである。このような状況下で、私達は内因性病棟群の活動性をたかめ、有機的関連をつくるために、病棟群の二ブロック体制を提案したのであるが、それは形骸化せざるをえない宿命をおっていたのである。すなわち、精神病院の新しい展開から全く遠ざかっていたか、あるいは精神病院を知らない新任の医長がニプロックを統括することになった<0394<からである。信州大学の水島節雄講師と、東北大学の和田豊治教授がその人達だったからである。これは、水島、和田両氏の責任ではない。医長体制に固執した秋元所長の責任に属することだったのである。
 秋元が啓蒙的民主主義者であることをやめて、専制的な権威主義者に変貌したのは、秋元なりの理由があったと理解できなくもない。それは、明らかに秋元の抱いた危機感の由であったといえよう。その表現されたものが、秋元による「反精神医学批判」なのである。反精神医学を信奉する「不逗の輩」共が伝統的精神医学を破壊しつくそうとしているという危機感であった。そうした不穏な動きに連動するあやしげな医師達が武蔵療養所にいて、さまざまな妄動をつづけることを断固として封じなければならないという思いがあったのだろうと思う。しかし、別の意見によれば、秋元はもともと民主主義者でなんかではなかったのだという。この真偽はさだかではない。そのことよりも、秋元の反精神医学批判については若干触れておく必要があるだろう。ひとつは、秋元の反精神医学批判の姿勢であるし、もうひとつは反精神医学の理解についてである。  秋元の反精神医学批判は、その著書『精神医学と反精神医学』に集約されている。この著書については詳しい紹介をはぶきたいが、笠原の書評の末部を引用しておくことにする。すなわち、「言いたかったことは他でもない。著者が『反精神医学がいやしくも精神医学を名のる以上、その主張と実践は精神医学の領域内で吟味され、評価ないし批判されなければならない』(一九九<0395<頁、傍点評者)といわれるときの『精神医学』とは、評者としては『思弁的』反精神医学をも統合できるような新しい精神医学のことと解したい、ということである」というのである。笠原の批判はきわめてひかえ目であるが、いわんとしていることは伝統的精神医学のあり方への注文なのである  私は笠原のようにひかえ目ではありえない。秋元の著書の中で、注目に値するのは、「反精神医学の系譜」の中の「第三章、良心の囚人とソ連の”反精神医学”」の項である。これは、資料としても有益性をもっているし、秋元によって書かれたことにおいて意味をもっていると考えてよいものである。しかし、その第二章、第三章が、それぞれ、北陸神経精神科集談会と熊本精神病院協会講演会における講演に加筆したものであることに私はこだわるのである。たしかに、秋元は反精神医学批判を通して、現実の精神医療と精神医学の欠陥と矛盾について言及し、それを批判しているのである。これを、婉曲な現状批判の戦略・戦術とうけとれなくはない。だが、それは秋元に対してあまりにも好意的でありすぎる解釈であろう。精神病院の現状が、かくも悲惨な状況にあることについて、正面切ってするどい批判をあびせることは、秋元にはできないことなのである。金沢や熊本の精神病院の現実を秋元が直視することがあったら、おそらく秋元はまず精神病院のあり方と、それに対する大学精神医学の責任とについてきびしい批判の講演があつてしかるべきなのである。民間精神病院に寄食して来た大学精神医学のあり方と、製薬資本と癒<0396<着して来た精神科医のあり方を批判すべきなのである。寡聞にして、秋元がそのような講演や、論述を行って、後輩に姿勢を正すことを求めたことを、私は知らない。
 とはいえ、秋元の反精神医学批判が、全くあたっていないといっているわけではない。とりわけ、熱情をかたむけて書かれた、わが国における精神医療改革運動に対する批判の中には、秋元の動機はどうあれ、改革をできるだけすみやかに進めるために、運動にかかわった者の一人としてふりかえってうなずけることもあるのである。しかし、だからといって改革の運動を秋元らが断固として提起しえたとはいえないのである。  秋元とクラーク(D.H.Clark)の対談が一九七八年の雑誌『病院』にのっている。これは先ほどふれたクラーク報告の著者であるD.H.Clarkが一〇年ぶりに来日したのを機会に、一〇年間のわが国の精神医療の変化について討論することを主眼としたものである。この対談の中で秋元とクラークの状況認識は当然のことながらさまざまに異なっているのである。ここでは、そのことはおいて、秋元の反精神医学批判に対して、クラークが明らかにクールな対応をしていることを・紹介しておきたいと思う。すなわち、クラークは反精神医学の潮流にはいくつものグループがあり、そのちがいを明らかにする必要性があることを語った上で、評価を行っているのである。クラークのいうグループとは、四つにわけられている。すこし長くなるが、引用してみよう。
 […]<0397<[…]
 武蔵療養所における生活療法批判の実践が、「生活療法の旗を捲く」時期を機にむしろ停滞し<0399<た事情について、専門病棟化の進行と、管理の最高責任者である秋元所長の「反精神医学批判」という形で表明されるような危機感という視点から若干の検討を加えた。あえて実名まであげて批判・検討を加えたのは、大精神病院を蘇生させる作業が如何に困難で、しかも管理責任者や上級者の責任が大きいかを明らかにしたかったからである。かつて、一九六七年に都立松沢病院から武蔵療養所に移った時に感じた松沢と武蔵のちがいは、いま殆ど同質化しているようにみえる。組織の活力が失われ、病棟や各職種の人々は、それぞれの狭い世界に穴ごもりをして、病院の全<0399<体性や統一性については問わないでいる。問うても仕方がないと多くの人々が感じているのであり、しかも一方では多くの局所的な不平不満が充ちているのである。この職員の無力化は、一九七四年から一九七七年三月の秋元所長後期の管理体制が武蔵療養所の全職員と活動に与えた重大な影響の結果であり、さらには秋元が所長を辞するまえに決定して、まったくその内容について明らかにせぬままにして去った神経センターと関連診療科の新設によって、その無力化と穴ごもり主義はさらに強まったといってよい。長期計画も、全体性も失ったまま武蔵療養所は、その日暮らしで運営されていたといってよい。何事もなく無事でいいではないかという人がいるにちがいない。そのような声が聞こえてさえ来るのである。しかし、それはおどろくべき鈍感さであり、無責任さなのである。」(藤澤[1998:387-400])

 参考文献
*l 野村満「烏山病院の生活指導病棟においてわれわれはいかなる姿勢のもとに実践を行ったか」、ー圭志5・2、一九七三ーネー〇木一言・171
*2 秋元波留夫「烏山裁判における原告側陳述書」より
*3 藤沢敏雄「生活療法批判その後1」、「精神医療」8巻2号、一九七九
*4 藤沢敏雄「国立武蔵療養所創立*周年記念誌」、一丸士く
*5 藤沢敏雄「精神病院改革をロMもt戻」一料科医療」3巻2号、,一九七四
*6 曽我孝志「国立武蔵療養所の隘路1分類収容と地域の喪失1」、「病院精神医学」M集、一九七ハ
*7 原田憲一「武蔵の一生活療法――その旗を捲くにあたって」、「むさし」5巻2号、一九七ニ
*8 秋元波留夫「作業療法をみんなで考えよう」、「むさし」5巻2号、一九七二
*9 小林八郎「生活療法批判の批判」、「日精協月報」狛号、一九七八
*10 林竹二『教えるということ』、国土杜、一九七八
*11 石戸政治「新作業医長のごあいさつ」、「むさし」5巻2号、一九七二
*12 原田由憲 7に同じ
*13 秋元波留夫 8に同じ
*14 Clark, D. H. Assignment Report:「WHOへの宿題報告」、一九六七〜一九六八
*15 秋元波留夫『精神医学と反精神医学』、金剛出版、一九七六
*16 笠原嘉「書評」、「精神医学」、一九七七 二月号
*17 インタビュー「クラーク博士に聞く」、「病院」73巻3号、一九七八

■言及


◆立岩 真也 2013/06/01 「精神医療についての本の準備・3――連載 90」,『現代思想』41-(2013-6):- →


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藤澤 敏雄  ◇精神障害・精神医療  ◇精神障害/精神医療…・文献  身体×世界:関連書籍  ◇BOOK
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