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『精神衛生と保健活動』

中澤 正夫・宇津野 ユキ 編 19850215 医学書院,公衆衛生実践シリーズ9,228p.

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中澤 正夫・宇津野 ユキ 編 19850215 『精神衛生と保健活動』,医学書院,公衆衛生実践シリーズ9,228p. ISBN-10: 426036409X ISBN-13: 978-4260364096 2300 [amazon][kinokuniya] ※ m. m01h1958

■引用


T.精神医療の歩み 4-15 中澤 正夫

 「2.精神衛生法の制定から1965年“改正”までの歴史
 同胞数百万の生命であがなった平和と民主主義の勃興は、精神障害者対策にも好影響をもたらし(公衆衛生は1938年内務省から厚生省へと移った)、1950年5月1日、精神衛生法が公布され、精神病者監護法および精神病院法は廃止された。この法は、精神病者を“隔離”から“医療保護”へとおしすすめるものであった。また法律は、各都道府県に公立病院を設置することを義務づけ、精神病院以外に患者を収容することを禁止し、患者の拘束にあたっては、新たに鑑定医制度を設け、2名の鑑定医の診断一致を拘束の要件とした。
 一方、予防の観点がとりいれられ、精神衛生相談所の設置や訪問指導などが決められている。細々ながら、公衆衛生との橋がかかり始めていたといえる。当時、公衆衛生領域では全国各地に保健所が設置され、保健婦、ケースワーカー初め、気鋭の医師など、人的資源も充実し、高揚期を迎えていた。そして予防会とタイアップした形で、国民病ともいうべき結核との取り組みにたちあがっていたためもあり、精神病者訪問を業務としてとりいれることは一部をのぞいて実現しなかった。一方、精神医療もまた、その装いを大きくかえつつあった。第一に生活療法の隆盛があげられる。患者を一個の人格として尊重し、個別的に扱うことによって、患者の症状改善がもたらされた。患者およびその集団の自主性・自治能力への信頼などに裏づけられて、作業療法やレク療法が再び脚光をあびてきた。一方、1954年から使われだしたクロールプロマジンおよび、その後の向神経剤の登場は、精神医療を一変させてしまった。持続的な鎮静効果に勝れた、これらの薬は興奮患者を扱いよくし、生活療法へ導きやすくし、旧い動かない患者が揺り動かされ、自発性をとりもどしていった。このように薬と生活療法は相乗効果をもたらし、精神病院の雰囲気を明るく治療的な方向<0004<へと動かし、無拘束−開放療法へとむかう条件をととのえた。その結果、病院ではよくなった人たちがたまりだし、この人たちの社会復帰をどう果たしていくかという大きなテーマが出現していた。
 一方、これと逆の動きも同時に進み始めた。1960年、医療金融公庫法が施行され、精神病院に対する低利長期融資が始まった。翌1961年、いわゆる「経済措置」が導入された。つまり措置入院の要件として、「自傷他害」のほかに、経済的貧困を認めたのである。一種の医療生保代わりである。これらのことは、空前の精神病院新築・増築ブームをきたし、地域から新たに多くの患者が入院していった。このように、一方では治って社会復帰をめざす患者が病院内にたまり、一方、さらに多くの患者が入院してき、精神病床数全体が急増するという混沌としたこの時代は、またわが国の民主主義史上、画期的な高揚の時期であった。1960年の安保闘争には、幅広い国民のたちあがりがみられたのである。終戦直後のややお仕着せ的な、かつ混沌とした民主主義の高揚期に比べて、それは幅広く、組織だっており、何よりもそれに参加した多くの人に、自前の民主主義の育ちという自信をうえつけた。そして以後、全国で革新自治体が誕生していくのである。精神医療関係者もまたこの国民的闘いから、多くの影響を受けたことは想像に難くない。
 小坂英世は1961年以来、栃木県精神衛生相談所において、保健所を第一線の精神衛生業務担当とする活動を定着させた。そして保健婦による訪問、保健所ごとの家族会(やしお会)の結成を指導した(この方式は1965年の精神衛生法の改正のなかに基本的にとりいれられている)。宮城県では'59年来、精神衛生協会を土台として、県下全保健所に精神衛生に関する相談員を配置し、相談業務を行なってきていたが、この活動も一段と活発化していった。そして高知県では戦後の民主主義の高揚期に施行された駐在保健婦制のもとに、他の疾患と同じく精神障害者の訪問が行なわれていた。京都では乙訓郡を中心に、地域に家族会がつくられ、きわめて自主的な活動をねばり強く展開し始めた。群馬県では、江熊が社会復帰についての実践研究の成果を世に問い始め、1963年、生活臨床が提唱されている。
 同じく'63年、第2回の精神障害者の全国実態調査が行なわれた。この調査は全国の精神障害者を124万人(万対12.9)と推計し、うち要入院者28万人(10年で11万人減少)要外来治療41万人として、今後、精神科治療は外来にます<0005<ます比重が傾くとしている、など多くの指針を与えたが、ほかにも思いがけぬ副産物があった。それは、この調査を実施するにあたって全国で精神科医と保健婦が一緒に働いたということである。精神科医は、保健婦が地域の実情に詳しいのに目をつけ、保健婦は最近の精神科治療の進歩についてきくことができた。
 群馬県では、このむすびつきは調査結果の報告会という形で、地域(保健婦)側へはねかえされて一層強化された。さらに病院側がとりくんでいた社会復帰の様子(医師の訪問活動や農業手伝いなど)が熱っぽくかたられ、多くの保健婦が勉強会(岡田靖雄編:「精神医療−精神病は治る」)や病院実習にと結集し訪問が開始されていった。
 当時、地域における精神障害者やその家族の実態はどうだったのであろうか。
 鈴木 喬、山越 剛は1964年、茨城県下の国保保健婦にアンケートを送り、在宅・入院を含む3,500名の農民患者について調査を行なっている。その概略は次の通りである。
 @患者がでたことの影響で、第一に問題とされるのは結婚問題である。農家の跡取りは一般的な嫁ききんも加わって、もっとも深刻な影響を受ける。二、三男は離村傾向にある。娘の場合も、身うちに患者がいるため嫁にいけないと失望し、家出をし、また格下の男と同棲するなど暗く悲しい話が多い。こういった状況の下に、患者を最大限隠そうとするが、症状の激しいときは隠しきれないし、人手もいるので富裕な家を除いては隠しきれない。けっきょく何らかの身体的障害のある人や、家柄の低いところへ持参金つきで縁組みが行なわれ、あるいは親戚同士で縁組む。また遠い所の人を相手に選んだり都会にでてしまう。
 A患者がでると(ことに世帯主が病気になると)仕事が遅れ作付けを変更し(手のかかる作物がつくれなくなる)、耕地を他人に貸したり土地を売って転業する人もいる。ことに一家の柱というべき夫が発病すると、妻は仕事、子供の教育、つきあい初め一切をするため過重な負担となり、子供を休ませたり、休学、退学、進学中止をする例がある。その対策として隣近所や親戚から手伝いを求めるが、長続きしない。人手を雇ってもなかなか得にならず、貧困化→階層の低下は避けられない。
 B医療費についての保健婦の回答は、怒りにも似た痛切なものである。要するに、上層農家の一部を除いては国保による精神病の治療は不可能であるということである。茨城県農家の一戸あたり年間保健衛生費(家計の5.4%)は、国保で精神病院へ入院する費用1ヵ月分にすぎなかったという。そして行政に対して、
 1)精神病院を増床して内容を充実せよ。
<0006<
 2)医療費を全額公費負担にせよ。
 3)地域社会の精神衛生活動のために、とりあえず出張精神衛生相談を拡大せよと訴えている(農村における社会医学的問題について 精神医学、Vol.6,617-、1964)。
 当時、長野県の南佐久郡で訪問活動を始めていた中沢の印象も、これとよく似ていた。医療継続の保障を求めて地域に入り込めば入り込むほど、みえてくるのは医療中断せざるをえない、家族のおかれた社会的・経済的困窮であり、それを反映しての家族のかたくなな態度であった。また村落のオピニオンリーダーも患者を邑(むら)の恥として隠すことが少なくなかった。保健婦は、それらの事情に精通していたが入退院時のお手伝いをし、あとは家族のなぐさめの役に甘んじるにすぎなかった。精神病に対する知識が乏しかっただけではなく、精神衛生はまだ保健指導の段階にのっていなかった。患者を地域にとどめおくための技術、地域で社会生活を発展させる方向と、そのために保健婦が何をなすべきかについて、誰も確信をもって語れなかった。
 ひきつづき中沢が活動を展開した群馬県佐波郡東村でも、この事情は同じであった。保健婦は多くの精神病者の存在を知っており、入退院にかかわってきていたが、「気の毒だけれど、精神病じゃ…どうしようもない…」と、保健婦の仕事のなかには数えなかったという。家族も同じ状態であった。働き手を奪われ田畑は荒れ、果ては手離し、急速に経済的に没落する家族、治療のため当時(1945年代)で数百万円をかけ、専門の看護婦までつけたのに治らなかった家族は、みるみる身代を減らし、村で一二を争った地主の家は長男の病のため没落し、家屋さえ残っていなかった。患者がひとりでさえ、この有様である。二人三人とでた場合、その経済的没落のスピードはすさまじいものがあり、田畑を売り借金をし、そのことがめぐりめぐって患者の治癒可能性を奪い、農村に遺伝論を生む主因となっていた。経済的疲弊に加うるに、この遺伝観は家族をひどくうちのめしていた。そして親戚からも孤立して、隣近所に気がねしつつ背をかがめて生きていた。そして“この治療”、“この薬”といわれ、今度こそとかける願いにもむなしく再発を繰り返すため、医療(病院・医師)に対する激しい不信を底に抱き、残った家族が生きていくため、やむをえず患者を犠牲にしようと一層かたくなな態度をとるようになっていくのだった(これがいわゆる、“家族の無理解”の実体である)。少なからぬ家族が一生入院させておいてほしいという希望を抱いていたのである。したがって家族の望むことは叫びに<0007<も似ていた。
 @とにかく無料の医療を(多くの家族が親戚や農協だけでなく、病院に借金をかかえていた)。
 Aあちこちの役所ヘペコペコ頭をさげないで、入院させられるようになりたい。
 B薬と飯を食わして、座敷豚のようにさせておくだけでは困る。治すなら、働けるよう一人前に治してほしい。
 C面会にいったら、必ず医者があってくれる病院がほしい。
 D中間施設をつくってほしい(以上、東村家族会が医療側に望むもの)。

 3.1965年の法改正と地域精神衛生活動の幕明け
 1964年3月、駐日アメリカ大使ライシャワーが精神障害者に刺され、精神医療の分野だけでなく、広く社会的な波紋をなげかけた。政府は治安対策強化の方向で、精神衛生法の改悪を図った。これに対して松沢病院を中心に、精神病院懇話会を初めとする関連医学会、結成されつつあった家族会などが参加する反対運動がまき起こった。当時、家族会の主流は病院家族会であった。典型例は、友部病院を中心とする茨城県精神障害者家族連合会である。それは県下各地の病院家族会をまとめたものである。これと対照的なものは京都府精神衛生推進懇談会連合会である。これは家族が中心となって、地区別に会を指導していく形式をとっていた。この中間にあるものが栃木県の「やしお会」で、各保健所ごとに支部をもっていた。この三つの組織のされ方はそれぞれに長短あり、そのあり方をめぐって家族会は必ずしもまとまってはいなかったが、法の改悪という状況の前に、全国の連合体へと発展していったのである。
 精神衛生法は改正されたのか、改悪されたのかについて評価が分かれている。改訂された点として申請、通報、届出制度の強化、緊急措置入院制度の新設などのほかに、保健所に対する精神障害者訪問の義務づけ(保健所を地域精神衛生の第一線機関とした)、それに伴う精神衛生相談員の設置、都道府県における精神衛生センター設置の義務づけ、外来公費負担制度の新設(法32条・法3条に規定する疾病について外来治療費の1/2を国庫負担とする)などがあげられよう。
 改正とみるか、改悪とみるかはともかく、これ以降地域精神衛生活動が、全国的規模で展開されることになったことは事実であり、この年は地域精神衛生元年といってもよい。精神医療が、公衆衛生とドッキングする法的根拠がここ<0008<にできたのであり、この意義ははかりしれないほど大きかったことは、その後、十数年の歴史が明らかにしている。改正後19年、今や精神衛生は保健所や保健婦の仕事として定着し、着実に市民権をえてきている。
 1966年、第63回精神神経学会は、初めて地域精神衛生活動についてのシンポジウム(「地域精神医学−その理論と実践」)をもった。そこにはアルコール中毒の問題、家族会、訪問活動、態度調査、地区調査、公衆衛生との関連の問題など、その後の地域精神衛生活動の重要なテーマがでそろっている。翌'67年に前橋で開かれた第11回病院精神病院懇談会では、「病状が安定している患者がなぜ退院できないか」というテーマで演題が募集され盛況であった(24席)。ここで注目されたのは地域、ことに家族に対する見方の違いであった。多くの演者が、病院の立場から病院治療の状況、社会復帰活動の分析、家族の問題点の指摘を行なった(病院中心的思考)に対して、平原(静岡精神衛生センター)や中沢(群馬大学)ら、早くも地域活動を展開していた医師たちから地域に住む者の目、家族の立場から病院の医療活動(家族の扱い方も含め)を批判的にとらえなおす作業が提唱されたことである。思えば、この精神衛生法改正(1965)から10年は、わが国の精神医療の歴史にとって激動の10年間であった(巻末年表参照)。
 この激動の昭和40年代について以後、三つの側面から述べる。その第一は、精神科関連学会に吹き荒れた学会混乱〜病院告発の嵐。第二は、混沌とした地域精神衛生活動の成果を集積し、理論化し、伝播していくために大きな役割を果たした地域精神医学会の成立と崩壊に至る軌跡。第三に、市民権をえた保健婦の地域精神衛生活動の質の変化についてである。

 4.学会混乱が地域精神衛生活動に与えた影響
 昭和40年代に入って、全国で東大時計台闘争に象徴される学生運動が激化した。それはやがて医局をもまきこむ形でひきつがれ、学生運動が'70年安保闘争を期に鎮火していくなかにあって、ひとり精神科領域のみ活発化し(医局解散−医師連合結成−東大など)、それは精神科関連学会にもおよび、学会の混乱〜解散があいつぎ、はては精神病院告発・研究告発へと、当初の闘争課題から外れた展開をみせ、多くの関連職員、家族、患者に混乱を与えつづけている。
 精神科関連学会混乱の手始めは、1969年、金沢で開かれた精神神経学会である。ひきつづき病院精神医学会、精神病理・精神療法学会、地域精神医学会、<0009<公衆衛生学会など多くの学会で混乱が始まり、あるいは崩壊していった。
 ときを同じくして、全国各地で入院患者に対する暴行・リンチなどの不祥事が相つぎ、また画一的・没個性的な病院内での生活療法批判が始まっている。この批判の系流は、不祥事を起こした病院告発という形をとり、1970年、朝日新聞記者による精神病棟潜入ルポ(「ルポ精神病棟」)が跳躍台となり、全国化していった。しかし告発〜学会での裁き、マスコミによる宣伝という、この短兵急な病院改革の企ては結実せず、多くの精神病院は貝のごとく沈黙し、あるいは近代化の装いの下で管理体制を一層巧妙に強化するなど、かえって精神病院が内包していた真の変革のエネルギーを涸らすことに終わっている。病院告発は“なぜ悪い病院が悪いまま存在しうるのか”、その原因・元兇を見失った行為であった。'71年、今度は研究者が過去に行なった研究の不備を十数年後の今、告発するという研究告発が行なわれ、それに盾つく研究者が狙いうちされるという様相をおびてきた。それは個人的中傷であり、学問上の正偽を学問論争以外で裁くという点で許せないものであった。宗教や政治思想信条が学問を裁くことは誤りであり、許されないことである。このように昭和40年代は精神医療改革の中核部隊となるべき医師や学会は混乱しつづけ、ついに一度も統一意志をもつことができなかったのは、不幸の極みであった。この十年、全精神医療・保健の一致できるマスタープランはできず、その状態は今もつづいている。

 5.保健婦のとまどいと地域精神医学会の結成
 1966年、厚生省は「保健所における精神衛生業務運営要領について」という公衆衛生局長通達をだしているが、現場に立たされた保健婦は何をしてよいか、どこから手をつけてよいか判らなかった。また新たに設けられた精神衛生相談員と保健婦との関係も、しっくりといかなかった(相談員は福祉専攻のケースワーカーが第一、ついで所定の講習を受けた保健婦が代行できる定めであった)。この混乱に対して実践のうえで解答を示し、かつ全国の先頭にたったのは群馬の活動であった。これは第2章で詳しく述べるので、ここではその特徴を簡単にまとめておく。
 群馬の活動の特徴は、@市町村保健婦がまず活動の先頭にたったこと、A保健所単位より自治体単位に活動が繰り拡げられたこと、B大学精神科の全面的参加、C技術論として「生活臨床」を共有していたこと、D家族会との協力の5項目に集約できる。
<0010<
 群馬の活動は、精神衛生活動を保健婦の業務として自覚することから始まった。学習会や病棟実習に参加した保健婦は、精神衛生の仕事が、保健婦のとりくめるレベルにあることを知った。その技術的保障は、群馬大学で開発された「生活臨床」であったといえる。「生活臨床」技術のもっともよい使い手になれるのは、保健婦であったからである。個々の保健婦が実践にふみきる不安は、保健所ごとのケースカンファレンスや地域に入っていった医師たちが拭い去った。こうして保健婦は学びつつ実践し、実践しつつ学んでいったのである。その結果、精神衛生活動には保健婦がもっとも適任であり、忘れ去ろうとしていた保健婦活動の原点をとりもどせる活動という認識が広まってきた。群馬県でも一時、相談員(幸か不幸かケースワーカーを設置できるほど県が豊かではなかった)や専門保健婦制が叫ばれ部分的に実施されたが、すでに走り始めていた保健婦集団は、実践のなかで解答をだしてしまっていた。すなわち、「精神衛生は全保健婦がとりくむべきものである。全員でやっても手の足りない大きな部分である」と。この群馬の活動は、多くの人の注目するところとなり、多くの医師・保健婦が、その体験を全国各地に伝えていった。その主舞台になったのは、地域精神医学会であった。地域精神医学会は全国各地で混乱しているが、激しい勢いで芽吹き始めた地域精神衛生活動を集積し、理論化し、伝播していく目的で創られた。その創立を担ったのは、1966年夏、赤城山へ集まった東京、京都、長野、群馬などの若い精神科医たちであった。第一回は'67年11月、群馬県猿ヶ京温泉で開かれ、'72年一部の集団の暴力的介入により崩壊するまで5年余、その役割を果たしてきた。以下その第1回から第6回まで保健婦の動きを中心に、学会の歴史を略記する。

 第1回:群馬(猿ヶ京温泉)
 創立時までに会員登録した人は544人、うち約1/3が保健婦であった。企画されたシンポジウムは「私の地域精神医学−どこでどんな考えでどんな風にやってきたのか」であった。5人の演者(石原幸夫、神奈川センター;中沢正夫、群馬大学;桑原治雄、京都大学;小坂英世、東京都センター;近藤 務、鳥取皆生病院)は立場と方向こそ違え、地域精神衛生活動の主役として保健婦およびPSWを指名したことでは共通していた。そして保健婦、PSWのパートナーとして家族会を挙げたこともほぼ共通していたといえる。従来、脇役に甘んじがちな保健婦、PSWにとって当日は、とまどいと興奮の渦が交錯する場となった。一般演題は「地域活動における保健婦、PSW、パラメディカルの位置づけ」というテーマのもとに4題が集まっ<0011<た(うち3題が保健婦の出題)。群馬保健婦精神衛生研究会名の発表のなかで、訪問の技術レベルとして、「みてくるだけ訪問」、「手さぐり訪問」、「働きかけ訪問」という、きわめて実践的概念が提唱されたことが注目された。
 第2回:京都
 シンポジウム「病院医療と地域精神衛生活動」では、小林ヒサヱ(京都)が座長に、畑山治子(土佐清水保健所)がシンポジストとして主役を演じたが、一般演題では逆に保健婦主体の発表は、29題中5題と少なくなってしまっている。これは第1回が、あまりに精神病院の立場を過少評価したことに対する反省によるものであった。
 第3回:東京
 猿ヶ京と同じく全員が同じ宿舎にとまりこみ、ようやく全国的となってきた訪問指導の技術的基礎をかためる目的で、「在宅患者指導技術」と「精神医療サービスネットの充実に伴う入退院基準の変化」の二つのテーマで開かれたが、このテーマは十分に浸透しなかった。恒例のナイターは、「精神科医にもの申す」というテーマで開かれ、会場は立錐の余地もない盛況であった。内容的にはパラメディカルから、医師および精神医療に対する批判が混乱した形でだされた。一部医師は不快を表明したが、このようなテーマで、同じ場と高さで遠慮なく討論できる機会をつくったという点で、このナイターは画期的であり、終了後も各部屋で延長ナイターが行なわれたのである。
 第4回:仙台
 シンポジウム「在宅患者の生活療法技術」には、関谷敏子(石巻市役所)がシンポジストとして参加している。各シンポジストの発言要旨は、あらかじめ学会誌(雑誌:「地域精神医学」No.15で廃刊)に発表されたため、かつてなく活発な討論が行なわれた。一般演題は、「地域精神医療を阻むもの」というテーマで、募集された(11題)が保健婦の報告者はひとりもいなかった。この第4回から学会に大きな変化がみられている。折からの精神科関連学会や大学の混乱の影響を受けて、地域活動のあり方をより理念的に純化してとらえ、学会を変革の運動体として高めていこうとする医師側と、より実際的な技術を身につけようと願う保健婦側とが、鋭く分かれ始めたことである。保健婦は技術的に非武装のまま活動の第一線にたたされたので、この学会に対して技術習得の要求が強かったのである。保健婦は、したがって「生活臨床技術」や「実生活指導」(小坂)を吸収しようと励んだのである。学会登録者よりも、参加者の方が多いという現象がきざし始めたのも、この第4回からである(当時、会員590、うち1/3は保健婦)。当日参加者の圧倒的部分が保健婦であった。恒例のナイターでは、この第4回では@各職種間の連繋をめぐって、A精神科嘱託医の活動をめぐって、B生活療法技術をめぐって、C病院から地域へ地域から<0012<病院へ、お互いのかかえている問題をめぐって、D放置患者をめぐっての五つが行なわれ、それぞれ、50〜100名が参加している。
 この年、編者のひとり中沢は、「精神衛生を始めようとする人のための100ヶ条」を群馬県内保健婦むきに作成、それはあっという間に全国に拡がり、各地で増刷されて、初心者のこの仕事へのとりくみに大きな援助を与えた。
 第5回:長野
 用意されたプログラムは三たび「生活療法技術」であった。あらかじめ学会誌上に発表されたケースに対して3人のシンポジスト(江熊要一、小坂英世、山本和郎)が、「自分ならこうする」と答える形で話題をよんだが、3人のシンポジストの食い違いを通して、地域精神医療の今日的本質をさぐりあてたいとする企画側の意図ははずれてしまった。シンポジウムは技術論議に終始し、しかもいいっ放しになったため、仙台の学会で明らかになった二つの流れは、いっそう乖離していった。すなわち地域精神医療のかかえている現実の危険さから、この学会の本質規定をしようとする一部精神科医は、この学会を有害なものとして断定し始め、技術を求めておしよせた保健婦には失望を与えたのである。このときの参加者は、学会員(680名)をはるかにこえる1,000名に達していた。同宿、浴衣がけという創会時のムードは一変し、ナイターは七つも用意されたのに、参加者が多すぎ、いずれも中途半端に終わった。夜十時から急拠開かれた保安処分反対のレクチャーにさえも500人が集まった。ここに至って、運営委員会や事務局体制の弱さがはっきり現われてきた。
 第6回:箱根
 準備の周到さ、予定された参加者数からいって、かつてない稔りが期待された学会であった。メインテーマには、“好嫌をこえて地域精神衛生活動の主戦場になってきた”「保健所の機能」がとりあげられた。しかしいくつかの団体の意図的な暴力的な介入により一般演題を終えただけで中止となり、学会はもろくも崩壊していった。

 このように地域精神医学会は6回で終わってしまったが、わが国の地域精神衛生活動の揺籃期に大きな役割を果たした。第一にあげられるのは、この学会が地域活動を活発にさせたことである。この学会が始まってから各地の精神衛生活動は飛躍的に発展し、自主的な、また公のケースカンファレンスや講演会が次々と組織された。それに対して、人や技術を提供してきた。また各地の実践はこの学会に集約された。実践には医師、PSW、臨床心理士、保健婦など多くの職種が多様な組み合わせで参加した。わが国の精神医療は歴史上は初めて、いわゆる“パラメディカル”と本格的にチームを組むことを学んでいった。公衆衛生と精神医学が、実質的にむすびつく基礎をつくっていったのである。
 第二に、在宅生活療法技術の発展と浸透があげられる。誰でも使え、効果の<0013<ある技術という第一線の要望は熾烈で、「生活臨床」や「実生活指導」(小坂)は未完成にもかかわらず熱心に学ばれ、ただちに実銭につかわれ、そしてきびしい検証を受け、修正され、一部は捨てられていった。まさに現場からの新しい学問の集団創作であった。
 第三に、精神衛生を通して保健婦が、仕事の生き甲斐をとりもどしていったことがあげられよう。多くの保健婦は、精神衛生に取り組むことにより、保健婦としての自信と自覚をとりもどしていった。全国津々浦々に働く保健婦が、この仕事を拒否しなくなったということだけでも、わが国の精神医療の歴史にとって革命的変化であった。そのうえに保健婦の意識の変革をももたらしたのである。この学会の終焉後、多職種が一向に会して心おきなく、熱っぽく討論する場はついに現われなかった。保健婦層には幸いにも、“自治体に働く保健婦の集い”がその代役を果たしている。以来10年、“自治体の集い”は、保健婦の精神衛生活動集約と伝播の場として大きな役割を果たしているのである。

 6.活動の質の変化
 1965年の精神衛生法改正前からスタートし、その後も自主的・精力的に活動を切り拓いていった精神衛生活動は、法的に裏づけられ、市民権をえてから明らかな変質がみられている。この章の終わりに、この点をつけ加えておきたい。初期の自主的・自覚的実践がきずいた精神衛生活動の質は、次のようにまとめることができよう。
 @精神科領域においても、「生活から病気をみる」、「生活に働きかける」ということが正道である。
 Aそのためには、患者の住んでいる環境(人的なものも含め)をよく知らなくてはならない(訪問の大切さ)。
 B対人保健サービスを基礎にすえながら、それぞれの地域で精神保健政策を立案しなければならない。
 Cやり方に定跡がないので、どうやるのか創意工夫を要する。したがって、工夫する楽しさと決断実行の責任をとる苦しさが背中あわせである。
 D以上を保障するのは、自主的なケースカンファレンスと仲間の団結、職場の民主化である。
 精神衛生法の改正により、一部の保健所に相談員がおかれたが、保健婦は増員されたわけではなかった。保健婦の業務全体が、検診やクリニックというふ<0014<うに住民を保健所によびよせて、実施する方向に傾いているなかで、訪問による対人保健サービスが必須の精神衛生は流れに逆うものであった。行政からは非効率的業務と考えられた。一方、前述のごとき学会混乱の波紋は、保健婦の精神衛生活動にもおよんできた。反精神医学という旗のもと、分裂病と診断することも差別であり、保健婦が訪問することは“地域保安処分”であるという、極端な主張(いわゆる保健婦敵論−“あやまった”人権擁護論)は、保健婦の足が患者から遠のくことを合理化した。いきおい窓口業務化の方向を辿り、入院業務や電話相談へと業務が矮小化され、結果かえって本格的な患者管理になりかねない傾向がでてきている。保健婦は元来、地域の健康増進者であり疾病管理者である。しかるに精神衛生では上述のような理由から活動が“および腰”となり、“妙な”人間関係論がはびこりだしている。すなわち話はよくきくが、「自主性を尊重する」と称して闘病上の助言や指示をサボり、決定を本人や家族に委ねて混乱させている。また、「距離をおいて接する」と称して、訪問を手控えたり、生活相談を避け、受診案内業に専念するなどである。これはカウンセリングの浅薄な適用、手前勝手な解釈であり、真に地域に責任をもつ保健婦の立場とは相いれないものである。この安易な傾向は、一部の保健所長や保健婦の消極性を合理化するものであり、責任がなるべくこないように、巧みに避ける活動態度である。その象徴的な表現が“かかわる”という言葉である。今や大流行中のこの“かかわる”という動詞くらい、昨今の保健婦の活動の質を表わしている言葉はない。いったい保健婦は、これまで結核に“かかわったり”、乳児に“かかわって”きたであろうか。保健婦は地域の疾患管理者として結核に、健康推進者として乳児の発達に、真正面から責任を負ってきたのである。カウンセリングのなかで「かかわる」という表現がもっている重大な深い意味「それは人と人との出会いや交わりが、相談を受ける人(クライエント)の考えや行動に与える影響の大切さを意味する。したがってカウンセラーのとる態度や言葉のぬきさしならぬことをも意味している」を無視して、保健婦を責任のない立場におく方便に使われている。責任をとるのでなく、“第三者的な斜めのポジションに保健婦がいるのがよい”というニュアンスに使われだしているのである。精神衛生でも、保健婦は地域の患者に責任を負うべきであるし、扱う対象も人間関係のもつれではなく、精神「病」であり、精神「障害」なのであるという、原点を忘れてはならない。<0015<」()


UP: 20111003 REV:
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